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デビュー間もない1954年後半に、エルヴィスは早くもアーカンソー州のツアーをスタートさせた。後に幾度も繰り返される同州ツアーの起点ともいうべきテクサーカナをはじめとして、当時の果てしなきドサ周りの幕は同州で上げられたのじゃ。(ロックンロール誕生の“狼煙”が挙げられたと言うべきか!)1954年12月2日にはメンフィスから南へ約90キロ、テネシー州とアーカンソー州を隔てるミシシッピー川沿いにあるヘレナ(ウェエスト・ヘレナ)という地域にエルヴィスはやって来た。会場は当地のセント・メリー教会付属のカトリック・クラブというオーディトリアムじゃ。(上中央写真、中央が教会の本堂。左側にわずかに写り込んでいる建物がオーディトリアムと思われる) ちなみに上写真左側の広告は、スコッティの綴りがScaltie(スキャルティ?)になっておる。この当時の広告のスペルミス探しは何かと楽しいですな!(笑) ![]() サン・レーベル側から当地のラジオ局にライブ開催の打診が入り、アナウンサーのP氏はエルヴィスのオーディションを行い、その時の印象を「全然惹かれなかったが、悪くはない程度」と語っておる。懸念事項はヨレヨレのTシャツ姿で葉巻を咥えていたエルヴィス本人に対する「スターらしくない風貌」だったというから笑える! そして会場使用料15ドルをエルヴィスに貸し付けてライブ開催となったという。デビュー当時からライブ会場使用料は自腹だったとは驚きじゃが、エルヴィスの出演料は12ドル。これじゃあ、飯代、ガソリン代なんかはどうやって捻出していたんじゃろうとか余計な心配までしたくなるわい!また会場の売店でエルヴィスが買ったコーラの代金もその場にいた者が厚意で?支払ったそうで、当時のエルヴィスはホント無一文に近い状態でメンフィスを飛び出していたんじゃな! なおラジオ局のP氏は後に「あの時貸した15ドルをまだ返してもらっていません」と、エルヴィスが軍隊に入る前に連絡したところ、エルヴィスの返答は「そのうちに送ります」だった。その後二、三度催促の電話を入れると「もう忘れてくれ」だったという(笑)しかしP氏は諦めず、驚くなかれ2005年に地元の商工会議所を介して「エルヴィス遺産管理団体」に請求して15ドルの小切手を受領したというから、いやはや何とも!もし大佐だったら「現在の物価指数で換算すると~」とか言って上乗せ請求をするじゃろうがな!小切手を受け取った時の気分をP氏は「とても恥ずかしかった」と!そりゃあ15ドルの小切手なんて、わしでもちょっと恥ずかしくて銀行で換金しづらいわい(笑) 1954年12月2日のライブは盛況だったようで、P氏は1955年1月13日、3月8日、12月15日にもエルヴィスを招聘。4回目のライブ終了後は熱狂状態の女性ファンたちがエルヴィスに群がりサインを要求。その際に一人の女性がスカートをたくし上げて「ここにサインして!」と太ももを露わにしたところ、エルヴィスは快諾(笑)その様子を見ていた教会の牧師さんが激怒しちゃって、「君は男性の恥さらしだ。もう二度とここに戻ってくるな!」とその場でエルヴィスに言い放ったという。まあ50年代の田舎街ならばアルアルのエピソードじゃな! ![]() ![]() |
ゆっくりと明らかにされつつある幻の(?)ライブ記録![]()
![]() マリアーナはヘレナの北約35キロにあり、エルヴィスは1955年1月14日、7月6日、1956年1月6日に当地のT.A.フタール・ハイスクール・ジムナジウムでライブを行ったとされておるが、3回ともSMWでは日付が「不確実情報」とされており、その他のサイトでは該当日のライブ記録がスルーされている場合もある。 ハイスクール自体の情報もほとんどなく、奇跡的に校舎の写真、しかもカラー写真がネットにアップされておった。(左写真、e-bayに出品された絵葉書) 「その割には出演した時の写真を掲載しているじゃないか!」というご指摘を受けそうじゃが、上写真3枚は2017年にアーカンソー州の地元ウェブサイトが「エルヴィス没後40周年」記念特集をアップし、その中で撮影場所が特定されていた古いライブ写真の一部じゃ(撮影はいずれも1956年とされておる)。これらの写真が別の州のライブ会場写真として使用されておった記憶があるものの、「没後40周年」企画を遂行したアーカンソー州サイトに敬意を表してこの度転載した次第じゃ。ただしマリアーナでのライブの詳細記載は無し。 ※なお、1955年1月14日(金曜日)のライブ説に関しては、上述の通りSMWでは「(この日のライブ開催の)噂はあるが、現在では疑わしい」とされており、一方EDDには「未だに確定は出来ないが、“金曜日の夜に地元民がエルヴィスのライブを観た”という確証の高い証言がある」との但し書きがある。 ![]() ![]() 両写真に映る数段の石段は同じであり、モノクロ写真に映る石段右横の大木は、ストリートビューで確認すると現在は朽ち折れて根元だけが残っておるのが分かる。校舎は完全に取り壊されておるが、ストリートビューでは右側に当時から存在していたらしき付属施設の様な建物が映っておる。ジムナジウム(体育館)は校舎の裏側に建てられていたと思われる。 |
若きキングのエピソードの数々が残されている、 アーカンソー州、テキサス州、ルイジアナ州周回の経由地 ![]() ![]() ![]() カムデンへやって来る度にエルヴィス人気が高まり、ライブがより熱狂的になっていった様子がSMWに記載されておる!そうした新しいスターの歓迎ムードの中で、地元のラジオ局やエルヴィス本人の地道なプロモーション活動の記録もまたSMWに記載されておった。 ラジオ局ではエルヴィスのライブの日が近づくと、車の天辺にスピーカーを置いてエルヴィスの曲を流しっぱなしにして街中を走りまわっていた。その車を時にはルイジアナ州まで走らせてエルヴィスを宣伝しまくったという。エルヴィスとラジオ局との関係は非常に良好であり、ルイジアナ・ヘイライド ![]() ある時ラジオ局のDJがエルヴィスのベルトがカッコイイ!と欲しがったところ、「これをあげちゃうとパンツがずり落ちちゃうよ」と言ったエルヴィスは、代わりに被っていたピンクの帽子をプレゼントしてくれたそうな。その時エルヴィスはホットドッグを食べており、マスタードが帽子の上に落ちてしまったとか。DJさんはマスタードをふき取ることもなく、その後帽子を額付きケースに入れて大切に保管しておるという! またカムデン入りしたエルヴィスは、真昼間に街中へ車で出かけ、道行く女の子たちに手を振ったりして当夜開催のライブの宣伝までしておったという。1955年、特に後半はビッグスターへの階段を確実に昇り始めていた時期だったにもかかわらず、スター気取りをしないエルヴィスは一人でも多くのファンを獲得するための営業努力を怠っていなかったようじゃな。 右写真は1955年8月4日のライブ後の撮影。エルヴィスがスキニーベルトをしているのが分かる!DJさんが欲しがったというのはこのベルトか!?The-Kingで人気アイテムだったスキニーベルトは、やはりオリジナルのモデルが存在した時代から魅力的だったんじゃな~♪ ミュニシパル・ホールの通りを隔てた西側の真向いにはガソリン・スタンドがあり、ルイジアナ州、アーカンソー州、テキサス州を行き来するためにカムデンを経由するエルヴィスはお得意さんだった。エルヴィスはガソリンの補給とともにミラーの交換をよく依頼してきたという。またお隣のホールでライブ中は、ガススタまで女の子たちの凄まじい悲鳴が聞こえてきたそうな! エルヴィスが最後にこのガススタを利用したのは、最後のルイジアナ・ヘイライド出演のためにルイジアナ州シュリーブポートへ向かう途中の1956年12月だったという。その時の車種は、同年8月にエルヴィスがマイアミで購入したリンカーン・コンチネンタル・マークⅡだった。このガススタは21世紀になっても ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() このパインブラッフでのライブ詳細が見つからなかったので、代わりにブラウンズとエルヴィスがツアー中に食事に立ち寄っていたレストラン、ザ・トリオ・レストラン・アンド・サパークラブ、通称トリオ・クラブ(上写真左側、右側は50年代当時の広告)をご紹介しよう。 実はトリオ・クラブはブラウンズ3兄弟の両親が経営するレストラン・クラブ。「トリオ」という名前も、3兄弟が早くから個別に地元で活動してことから付けられたようじゃ。エルヴィスはレストランの料理担当でもあったブラウンズの母親の手料理が気に入っておったようで、ライブツアーでルイジアナ州とアーカンソー州とを行き来する際にはブラウンズとともに立ち寄っておったようじゃ。ブラウンズにとっては長いツアー中の実家での短い休暇であり、寂しがり屋のエルヴィスはブラウンズ・ファミリーの好意により家庭の温かみを味わっておったともいえるじゃろう。 ![]() 右写真右側は撮影日は不明であり、クラブ内で別の顧客からのサインに応じるエルヴィスと、その右側がボニー。 エルヴィスとブラウンズの友好関係を調べていくと、エルヴィスと妹の方のボニーが恋仲になったという記述が結構ある!中には「エルヴィスは1955年の暮れまでにボニーにプロポーズしていた」とまで書かれてある。まあエルヴィスが誰と恋に落ちようが不思議はないので、この件に関してはかる~く流しておこう(笑)詳しく詮索していくと、最初のガールフレンドのディキシー・ロック嬢はどうした?とか、1956年頃に頻繁にツーショットが見られるバーバラ・ハーン嬢とはいつ頃からなのか?とか面倒な調査に巻き込まれるんでな!(笑) ![]() 「彼の一番好きな音楽は、断然、オールドタイム・ゴスペルでした。毎晩、私たちはみんな遅くまで起きて、古い賛美歌を歌いました。エルヴィスは最後には(ロックンロール・シンガーを?)辞めたいと思っていました。彼はよく自分の大きな夢はゴスペルアーティストとして成功することだと語っていて、それは彼の母親も彼に望んでいたことでした。長期的にはそれが彼にとって最善だったかもしれません」 また上述した1956年12月15日にザ・トリオ・クラブをエルヴィスが訪れたことに関しては、次のようなコメントをマキシン嬢は残しておる。 「エルヴィスは、私のママに会って、昔のようにキッチンの周りに座り、人生を永遠に変えてしまう旅立ちの前に、故郷への思いを蓄えておきたかったのです」 【 お断り 】 大変残念ながら、ザ・トリオ・レストラン・アンド・サパークラブのあった場所(住所)は、現在のところネット上では見付けることが出来ずであります。アメリカのyou tuberも動画内で同様の発言をしておる。その動画には“跡地”の可能性のある(?)場所が撮影されておるが、ザ・トリオ・クラブは3回ほど所在地が変わっておるそうで、エルヴィスが通った(恐らく)2番目の店の場所の跡地は未だ不明とのことなので悪しからず。マキシン・ブラウンの自伝の中でも、お店の正確な場所についての記述は無いと思われる。 |
![]() ![]() ![]() 1950年代当時発行されておったカントリー&ウェスタン・ミュージックの専門的雑誌「Country Round Up」1956年8月号の表紙である。カール・パーキンスの「Blue Suede Shoes」とエルヴィスの「Heartbreak Hotel」がフィーチャーされた編集内容じゃ。転載元サイトは、The-Kingの盟友ともいうべきブランド「708 Union」じゃ。 1955年3月21日アーカンソー州のパーキンという小さな街のハイスクール・オーディトリアムにて、エルヴィス、カール・パーキンス、そしてジョニー・キャッシュが共演するライブ・ショーが催された!にもかかわらず、この日のライブ詳細はエルヴィス・サイドの各ウェブサイトではほとんど何も紹介されていない。しかしこの日はロック史を激しく揺さぶることになる名曲「Blue Suede Shoes」が誕生する重要なポイントになった日である。 名曲誕生に関するエピソードは、時間の経過とともにアレコレ様々な説や主張が噴出してくるものじゃが、「Blue Suede Shoes」に関しては今までの情報を簡潔にまとめると、誕生のいきさつは下記の通りじゃ。 “事の起こり”はジョニー・キャッシュがドイツにて軍役に従事しておる頃、一風変わった上司的存在の黒人軍曹がおった。「自分のニックネームは“シャンパン・ゴールド”だ」とか、常日毎から妙な主張をするこの軍曹の言動に興味をもったジョニー・キャッシュは、軍曹が普段履いておる黒革の軍靴も、非番の時には青いスウェードの靴に履き替えられ、軍曹は「俺の靴を“踏むんじゃないぞ”」とか言っているに違いないというヘンテコリンな空想を抱くようになった。(実際に軍曹がそのように発言したという説もあり) このハナシをジョニー・キャッシュはカール・パーキンスに話して聞かせ、「おもしろいハナシだろう?青い靴の歌を書いてみたらどうだい?」と提案したという。カールはとりあえずその場では「靴のハナシなんて歌にできないよ」と返答したらしい。この時の場所がジョニー、カール、そしてエルヴィスの3人が出演したパーキン・ハイスクール・オーディトリアムだったのじゃ! あえて余計な想像をするとだな、パーキン・ハイスクール・オーディトリアムでジョニーがカールに提案したということは、それはエルヴィスの演奏中だったのか?3人一緒の休憩時間に、エルヴィスがいる前でジョニーがカールの方へ提案するとは考えにくい! ![]() それから数週間後、カールとジョニーはあらためて共演の機会をもち、カールの演奏中に観客の一人とダンスをしていたジョニーが実際に「俺のブルー・スウェード・シューズを踏まないでくれ」と口走ったのを聞いたカールが、ライブ終了後に「ブルー・スウェード・シューズ」の歌詞をジャガイモ入れの茶色の紙袋に書き綴ったという。レコーディングは1955年12月、サンスタジオで行われた。 「Blue Suede Shoes」が世に出た後にまつわるカールやエルヴィスのエピソードについては「Union708」の素晴しいウェブサイト・コラムを御覧頂きたい。 パーキン・ハイスクール・オーディトリアムでのライブ詳細は、当日のライブを体験した地元の女性への取材記事がネットにアップされておった。当時彼女はハイスクールのすぐ近くに住んでおり、既にデューイ・フィリップスのラジオ番組を聞いてエルヴィスのファンになっておったという。ライブには田舎の女の子たちがたくさん集まったものの、絶叫したり通路に飛び出して取り乱すこともなく、全員がただただ熱い拍手を送り続けていたという!彼女は正確なセットリストや当日のエルヴィスの服装はもう覚えていないが、カール・パーキンスも登場したことは記憶にあるそうじゃ。カールもまた、当時のエルヴィス同様に駆け出しに過ぎなかったが、「とても優秀なシンガーだった」と!またエルヴィスの存在に恐れおののいて(?)ライブに行かなかった彼女の友人は、それでもオーディトリアムの窓からこっそり覗き見して興奮しておったそうな。 ![]() ![]() ハイスクールは2005年に廃校になっており、現在は市庁舎の建物が建てられておる。跡地の広い敷地の真ん中にはハイスクールがこの地に建っていたことを伝える標識が設置されておる。ロック・ファンとしては、「ブルー・スゥエード・シューズ誕生地」としての標識も設置してほしいところじゃな!右写真ストリートビュー2023年8月撮影。 |
ライブ翌日にチケット代金払い戻しってほんまかいな!?
ここではカール・パーキンスとジョニー・キャッシュの共演は無いものの、SMWによるとエルヴィスがヘッドライナーで登場したショーのチケットの中ではもっとも古い物が見つかっているとされておる。(左写真下段) ライブは滞りなく行われたものの、地元の教育団体から「若者が観るに相応しくない音楽会だった」とクレームが付き、何と翌日にチケット代金の払い戻しが行われたという!今までエルヴィスが登場した全米の会場をチェックしまくってきたが、ライブ後にチケット代金払い戻しという事態はわしは初めて知ったわい。 ちなみに左写真下段でお分かりの通り、未成年の入場料は50セントであり、当時の地元ではかなり高価だったらしいが、これも払い戻しの原因だったのか? ![]() 旧ハイスクール・オーディトリアムが建てられていた場所は左写真の通り。ストリートビューは敷地内に入り込んでいないので、この写真はアメリカのyou tuberが撮影した動画の静止画。 耳の早い女性ファンたちがライブ前に駆け付けたラジオ局 ![]() ![]() ラジオからエルヴィスの声を耳にした女性ファンたちがソッコーでラジオ・ステーションを訪ねて来たらしいが、時既に遅し。彼女たちが到着した時はエルヴィスはデルモットの街中へ向けて出発した後だったとのこと(笑) ラジオ・ステーションまで駆け付けてきた女性ファンたちがその後踵を返してライブ会場へダッシュで戻ったことはいうまでもないが、彼女たちの中の一人がライブの主催側とのコネを使い、エルヴィス、スコッティ、ビルの3人をライブ後のホームパーティに招待することを実現させたというエピソードがSMWに記載されておった!ライブ当日の思いつきから実行までわずか数時間という早業じゃ。この類の女性ファンの実行力って、いつの時代も誠に恐れ入る! ホームパーティの最中、一人の女性がエルヴィスをダンスに誘うと、「ダンスは苦手なんだ」とエルヴィスに拒否られてしまい、その場にいた一堂が驚いたという件がSMWに記載されておる! ![]() ![]() 周囲は何もない幹線道路沿いの土地に建てられておるので、ホームレスが住み着いたりする可能性は低いと思われるが、エルヴィスが訪れたこともある歴史あるラジオ・ステーションだっただけに、今後有効な再利用が望まれるところじゃ。 |
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