NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.452


第71回 エルヴィスゆかりの地~アーカンソー州2025年前編

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2025年がスタートして早や一ヶ月が過ぎ、「バーチャル・ロックンロールツアー」は今年もディープでネット調査が簡単ではない地域もくまなく周回していくぞ!今回はアーカンソー州の再訪であります。ミシシッピー州ほど“魔境”ではないが、1950年代のエルヴィス情報がたくさん眠っておる地域じゃ。ネット上の“かもしれない情報”に振り回されながらも突き進んで行くのでご同行よろしくな!正確なライブ記録よりも、エルヴィスがアーカンソー州各地で残したエピソードの方が結構見つかったので可能な限りご紹介していきますぞ!


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第71回 アーカンソー州2025年前編

 ・Area No.は2022年度編からのアーカンソー州内の番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。
 
 Area No.19/Serial No.513   カトリック・クラブ/ヘレナ
 Area No.20/Serial No.514 T.A.フタール・ハイスクール・ジムナジウム跡地/マリアナ
 Area No.21/Serial No.515 ミュニシパル・ホール・オウディトリアム/カムデン
 
 Area No.22/Serial No.516  ザ・トリオ・クラブ跡地/パインブラッフ
 Area No.23/Serial No.517  ハイスクール・オーディトリアム/パーキン
 Area No.24/Serial No.518 ハイスクール・オーディトリアム跡地/デルモット
 Area No.25/Serial No.519 KVSRラジオ・ステーション跡地/デルモット
 

【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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SMW=
 スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」
 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・
 コンサート(ウェブサイト)


 女性ファンの生脚にサインしたエルヴィスに、牧師さんは“二度と来るな”!
 Area No.19/Serial No.513  カトリック・クラブ・オーディトリアム/ヘレナ

 デビュー間もない1954年後半に、エルヴィスは早くもアーカンソー州のツアーをスタートさせた。後に幾度も繰り返される同州ツアーの起点ともいうべきテクサーカナをはじめとして、当時の果てしなきドサ周りの幕は同州で上げられたのじゃ。(ロックンロール誕生の“狼煙”が挙げられたと言うべきか!)1954年12月2日にはメンフィスから南へ約90キロ、テネシー州とアーカンソー州を隔てるミシシッピー川沿いにあるヘレナ(ウェエスト・ヘレナ)という地域にエルヴィスはやって来た。会場は当地のセント・メリー教会付属のカトリック・クラブというオーディトリアムじゃ。(上中央写真、中央が教会の本堂。左側にわずかに写り込んでいる建物がオーディトリアムと思われる)
 ちなみに上写真左側の広告は、スコッティの綴りがScaltie(スキャルティ?)になっておる。この当時の広告のスペルミス探しは何かと楽しいですな!(笑)

 この会場でのライブに関するオモシロイエピソードがいくつか残されておるのでご紹介しよう。
 サン・レーベル側から当地のラジオ局にライブ開催の打診が入り、アナウンサーのP氏はエルヴィスのオーディションを行い、その時の印象を「全然惹かれなかったが、悪くはない程度」と語っておる。懸念事項はヨレヨレのTシャツ姿で葉巻を咥えていたエルヴィス本人に対する「スターらしくない風貌」だったというから笑える!
 そして会場使用料15ドルをエルヴィスに貸し付けてライブ開催となったという。デビュー当時からライブ会場使用料は自腹だったとは驚きじゃが、エルヴィスの出演料は12ドル。これじゃあ、飯代、ガソリン代なんかはどうやって捻出していたんじゃろうとか余計な心配までしたくなるわい!また会場の売店でエルヴィスが買ったコーラの代金もその場にいた者が厚意で?支払ったそうで、当時のエルヴィスはホント無一文に近い状態でメンフィスを飛び出していたんじゃな!
 なおラジオ局のP氏は後に「あの時貸した15ドルをまだ返してもらっていません」と、エルヴィスが軍隊に入る前に連絡したところ、エルヴィスの返答は「そのうちに送ります」だった。その後二、三度催促の電話を入れると「もう忘れてくれ」だったという(笑)しかしP氏は諦めず、驚くなかれ2005年に地元の商工会議所を介して「エルヴィス遺産管理団体」に請求して15ドルの小切手を受領したというから、いやはや何とも!もし大佐だったら「現在の物価指数で換算すると~」とか言って上乗せ請求をするじゃろうがな!小切手を受け取った時の気分をP氏は「とても恥ずかしかった」と!そりゃあ15ドルの小切手なんて、わしでもちょっと恥ずかしくて銀行で換金しづらいわい(笑)

 1954年12月2日のライブは盛況だったようで、P氏は1955年1月13日、3月8日、12月15日にもエルヴィスを招聘。4回目のライブ終了後は熱狂状態の女性ファンたちがエルヴィスに群がりサインを要求。その際に一人の女性がスカートをたくし上げて「ここにサインして!」と太ももを露わにしたところ、エルヴィスは快諾(笑)その様子を見ていた教会の牧師さんが激怒しちゃって、「君は男性の恥さらしだ。もう二度とここに戻ってくるな!」とその場でエルヴィスに言い放ったという。まあ50年代の田舎街ならばアルアルのエピソードじゃな!

 セントメアリー教会は1970年代に大規模な火災に遭い、本堂もオーディトリアムも大幅な改修工事を余儀なくされることになり、現在の建物にはオリジナルの部分はほとんど残っていないという。右写真はストリートビュー2023年11月撮影。若きエルヴィスが4度もライブを行った場所であり、ヒストリカル・マーカー(歴史記念標識)が設置されても良い場所じゃが、やはりエルヴィスが牧師さんに怒られちゃった事件がマーカー設置の障害になっとるんじゃろうな!


ゆっくりと明らかにされつつある幻の(?)ライブ記録
 Area No.20/Serial No.514 T.A.フタール・ハイスクール・ジムナジウム跡地/マリアーナ

 4度もライブを行ったのに最後は牧師さんに怒られちゃったというアクシデントのあったヘレナの次は、3度のライブ記録があるのに日付が未だに不鮮明というマリアーナにあった会場じゃ。
 マリアーナはヘレナの北約35キロにあり、エルヴィスは1955年1月14日、7月6日、1956年1月6日に当地のT.A.フタール・ハイスクール・ジムナジウムでライブを行ったとされておるが、3回ともSMWでは日付が「不確実情報」とされており、その他のサイトでは該当日のライブ記録がスルーされている場合もある。
 ハイスクール自体の情報もほとんどなく、奇跡的に校舎の写真、しかもカラー写真がネットにアップされておった。(左写真、e-bayに出品された絵葉書)
 「その割には出演した時の写真を掲載しているじゃないか!」というご指摘を受けそうじゃが、上写真3枚は2017年にアーカンソー州の地元ウェブサイトが「エルヴィス没後40周年」記念特集をアップし、その中で撮影場所が特定されていた古いライブ写真の一部じゃ(撮影はいずれも1956年とされておる)。これらの写真が別の州のライブ会場写真として使用されておった記憶があるものの、「没後40周年」企画を遂行したアーカンソー州サイトに敬意を表してこの度転載した次第じゃ。ただしマリアーナでのライブの詳細記載は無し。

 ※なお、1955年1月14日(金曜日)のライブ説に関しては、上述の通りSMWでは「(この日のライブ開催の)噂はあるが、現在では疑わしい」とされており、一方EDDには「未だに確定は出来ないが、“金曜日の夜に地元民がエルヴィスのライブを観た”という確証の高い証言がある」との但し書きがある。

 ネット上ではハイスクールの存在記録、エルヴィスのライブ詳細記述、新聞広告も一切見つからず、大体ハイスクール名の頭文字“T.A”自体も意味不明。こうなるとハイスクールの存在自体を疑いたくなるが、1984年に廃校になった記録を発見。また跡地の住所を突き止め、ストリートビュー(2023年11月撮影)と当時のモノクロ写真を参照してみたところ、ハイスクールは間違いなく存在したことも判明。(右写真2枚参照)。
 両写真に映る数段の石段は同じであり、モノクロ写真に映る石段右横の大木は、ストリートビューで確認すると現在は朽ち折れて根元だけが残っておるのが分かる。校舎は完全に取り壊されておるが、ストリートビューでは右側に当時から存在していたらしき付属施設の様な建物が映っておる。ジムナジウム(体育館)は校舎の裏側に建てられていたと思われる。


若きキングのエピソードの数々が残されている、
  アーカンソー州、テキサス州、ルイジアナ州周回の経由地

Area No.21/Serial No.515  ミュニシパル・ホール・オウディトリアム跡地/カムデン
 エルヴィスのライブツアーが本格化した1955年、テキサス州とアーカンソー州を年中往復するスケジュールが続く中で、両州の州境の街テクサーカナから真東110キロ、ルイジアナ州シュリーブポートまで約150キロの位置にあるカムデンという街で2月21日、8月4日、11月16日と3度のライブが行われておる。
 カムデンへやって来る度にエルヴィス人気が高まり、ライブがより熱狂的になっていった様子がSMWに記載されておる!そうした新しいスターの歓迎ムードの中で、地元のラジオ局やエルヴィス本人の地道なプロモーション活動の記録もまたSMWに記載されておった。
 
 ラジオ局ではエルヴィスのライブの日が近づくと、車の天辺にスピーカーを置いてエルヴィスの曲を流しっぱなしにして街中を走りまわっていた。その車を時にはルイジアナ州まで走らせてエルヴィスを宣伝しまくったという。エルヴィスとラジオ局との関係は非常に良好であり、ルイジアナ・ヘイライド出演のための移動中にエルヴィスはラジオ局を訪れたりして、番組の宣伝に協力しておったそうな。
 ある時ラジオ局のDJがエルヴィスのベルトがカッコイイ!と欲しがったところ、「これをあげちゃうとパンツがずり落ちちゃうよ」と言ったエルヴィスは、代わりに被っていたピンクの帽子をプレゼントしてくれたそうな。その時エルヴィスはホットドッグを食べており、マスタードが帽子の上に落ちてしまったとか。DJさんはマスタードをふき取ることもなく、その後帽子を額付きケースに入れて大切に保管しておるという!

 またカムデン入りしたエルヴィスは、真昼間に街中へ車で出かけ、道行く女の子たちに手を振ったりして当夜開催のライブの宣伝までしておったという。1955年、特に後半はビッグスターへの階段を確実に昇り始めていた時期だったにもかかわらず、スター気取りをしないエルヴィスは一人でも多くのファンを獲得するための営業努力を怠っていなかったようじゃな。
 右写真は1955年8月4日のライブ後の撮影。エルヴィスがスキニーベルトをしているのが分かる!DJさんが欲しがったというのはこのベルトか!?The-Kingで人気アイテムだったスキニーベルトは、やはりオリジナルのモデルが存在した時代から魅力的だったんじゃな~♪

 ミュニシパル・ホールの通りを隔てた西側の真向いにはガソリン・スタンドがあり、ルイジアナ州、アーカンソー州、テキサス州を行き来するためにカムデンを経由するエルヴィスはお得意さんだった。エルヴィスはガソリンの補給とともにミラーの交換をよく依頼してきたという。またお隣のホールでライブ中は、ガススタまで女の子たちの凄まじい悲鳴が聞こえてきたそうな!
 エルヴィスが最後にこのガススタを利用したのは、最後のルイジアナ・ヘイライド出演のためにルイジアナ州シュリーブポートへ向かう途中の1956年12月だったという。その時の車種は、同年8月にエルヴィスがマイアミで購入したリンカーン・コンチネンタル・マークⅡだった。このガススタは21世紀になっても営業が続けられておったようで、建物も近年まで残されていたが、最新のストリートビューでは建築中の新しい建物が撮影されておった。

 カムデン・オーディトリアム・ホールは1960年代に火災に遭い、エルヴィスのライブが行われた2階のホールが焼失。その後建物は平屋建てに立て替えられ、市庁舎として利用されておる。左写真はストリートビュー2023年3月撮影。写真の左奥に、上述したガスステーションがあった。


 “エルヴィスは、人生を永遠に変えてしまう旅立ちの前に立ち寄っておきたかったのです”
Area No.22/Serial No.516 ザ・トリオ・レストラン・アンド・サパークラブ跡地/パインブラッフ

 1955年2月23日、アーカンソー州のど真ん中に位置する、州内最大の人口を擁するリトルロックの南130キロに位置するパインブラッフという街にエルヴィスはやって来た。ここは当時一緒にライブ・ツアーを行うことが多かったトリオ・ボーカル・グループのブラウンズ(姉妹2人と男性兄弟1人)の故郷でもあった。
 このパインブラッフでのライブ詳細が見つからなかったので、代わりにブラウンズとエルヴィスがツアー中に食事に立ち寄っていたレストラン、ザ・トリオ・レストラン・アンド・サパークラブ、通称トリオ・クラブ(上写真左側、右側は50年代当時の広告)をご紹介しよう。

 実はトリオ・クラブはブラウンズ3兄弟の両親が経営するレストラン・クラブ。「トリオ」という名前も、3兄弟が早くから個別に地元で活動してことから付けられたようじゃ。エルヴィスはレストランの料理担当でもあったブラウンズの母親の手料理が気に入っておったようで、ライブツアーでルイジアナ州とアーカンソー州とを行き来する際にはブラウンズとともに立ち寄っておったようじゃ。ブラウンズにとっては長いツアー中の実家での短い休暇であり、寂しがり屋のエルヴィスはブラウンズ・ファミリーの好意により家庭の温かみを味わっておったともいえるじゃろう。

 右写真左側は、1956年12月15日のザ・トリオ・クラブでの撮影。左端がブラウンズのジェームス・エドワード、エルヴィスの左側が姉のマキシン、右側が妹のボニー。彼ら4人でルイジアナ・ヘイライドに出演する最後の日に立ち寄った際じゃ。
 右写真右側は撮影日は不明であり、クラブ内で別の顧客からのサインに応じるエルヴィスと、その右側がボニー。

 エルヴィスとブラウンズの友好関係を調べていくと、エルヴィスと妹の方のボニーが恋仲になったという記述が結構ある!中には「エルヴィスは1955年の暮れまでにボニーにプロポーズしていた」とまで書かれてある。まあエルヴィスが誰と恋に落ちようが不思議はないので、この件に関してはかる~く流しておこう(笑)詳しく詮索していくと、最初のガールフレンドのディキシー・ロック嬢はどうした?とか、1956年頃に頻繁にツーショットが見られるバーバラ・ハーン嬢とはいつ頃からなのか?とか面倒な調査に巻き込まれるんでな!(笑)
 
 一方、お姉さんの方のマキシンは後年執筆した「Looking Back to See」という自伝の中でエルヴィスに関する記述を結構しておる模様!興味のある方は読んでみてはいかが?一部はネット上で紹介されており、わしが興味を引かれたのは次のような記述じゃ。

「彼の一番好きな音楽は、断然、オールドタイム・ゴスペルでした。毎晩、私たちはみんな遅くまで起きて、古い賛美歌を歌いました。エルヴィスは最後には(ロックンロール・シンガーを?)辞めたいと思っていました。彼はよく自分の大きな夢はゴスペルアーティストとして成功することだと語っていて、それは彼の母親も彼に望んでいたことでした。長期的にはそれが彼にとって最善だったかもしれません」

 また上述した1956年12月15日にザ・トリオ・クラブをエルヴィスが訪れたことに関しては、次のようなコメントをマキシン嬢は残しておる。

「エルヴィスは、私のママに会って、昔のようにキッチンの周りに座り、人生を永遠に変えてしまう旅立ちの前に、故郷への思いを蓄えておきたかったのです」

【 お断り 】
 大変残念ながら、ザ・トリオ・レストラン・アンド・サパークラブのあった場所(住所)は、現在のところネット上では見付けることが出来ずであります。アメリカのyou tuberも動画内で同様の発言をしておる。その動画には“跡地”の可能性のある(?)場所が撮影されておるが、ザ・トリオ・クラブは3回ほど所在地が変わっておるそうで、エルヴィスが通った(恐らく)2番目の店の場所の跡地は未だ不明とのことなので悪しからず。マキシン・ブラウンの自伝の中でも、お店の正確な場所についての記述は無いと思われる。


 カール・パーキンスが「ブルー・スゥエード・シューズ」作曲を提案された会場
  Area No.23/Serial No.517 ハイスクール・オーディトリアム跡地/パーキン

 「バーチャル~」のご案内ポイント517番目にして、はじめてエルヴィスよりもカール・パーキンスが主役というべき場所へご案内することになったので、まず左写真を簡単に説明しておこう。
 1950年代当時発行されておったカントリー&ウェスタン・ミュージックの専門的雑誌「Country Round Up」1956年8月号の表紙である。カール・パーキンスの「Blue Suede Shoes」とエルヴィスの「Heartbreak Hotel」がフィーチャーされた編集内容じゃ。転載元サイトは、The-Kingの盟友ともいうべきブランド「708 Union」じゃ。

 1955年3月21日アーカンソー州のパーキンという小さな街のハイスクール・オーディトリアムにて、エルヴィス、カール・パーキンス、そしてジョニー・キャッシュが共演するライブ・ショーが催された!にもかかわらず、この日のライブ詳細はエルヴィス・サイドの各ウェブサイトではほとんど何も紹介されていない。しかしこの日はロック史を激しく揺さぶることになる名曲「Blue Suede Shoes」が誕生する重要なポイントになった日である。

 名曲誕生に関するエピソードは、時間の経過とともにアレコレ様々な説や主張が噴出してくるものじゃが、「Blue Suede Shoes」に関しては今までの情報を簡潔にまとめると、誕生のいきさつは下記の通りじゃ。
 “事の起こり”はジョニー・キャッシュがドイツにて軍役に従事しておる頃、一風変わった上司的存在の黒人軍曹がおった。「自分のニックネームは“シャンパン・ゴールド”だ」とか、常日毎から妙な主張をするこの軍曹の言動に興味をもったジョニー・キャッシュは、軍曹が普段履いておる黒革の軍靴も、非番の時には青いスウェードの靴に履き替えられ、軍曹は「俺の靴を“踏むんじゃないぞ”」とか言っているに違いないというヘンテコリンな空想を抱くようになった。(実際に軍曹がそのように発言したという説もあり)
 このハナシをジョニー・キャッシュはカール・パーキンスに話して聞かせ、「おもしろいハナシだろう?青い靴の歌を書いてみたらどうだい?」と提案したという。カールはとりあえずその場では「靴のハナシなんて歌にできないよ」と返答したらしい。この時の場所がジョニー、カール、そしてエルヴィスの3人が出演したパーキン・ハイスクール・オーディトリアムだったのじゃ!
 あえて余計な想像をするとだな、パーキン・ハイスクール・オーディトリアムでジョニーがカールに提案したということは、それはエルヴィスの演奏中だったのか?3人一緒の休憩時間に、エルヴィスがいる前でジョニーがカールの方へ提案するとは考えにくい!
 それから数週間後、カールとジョニーはあらためて共演の機会をもち、カールの演奏中に観客の一人とダンスをしていたジョニーが実際に「俺のブルー・スウェード・シューズを踏まないでくれ」と口走ったのを聞いたカールが、ライブ終了後に「ブルー・スウェード・シューズ」の歌詞をジャガイモ入れの茶色の紙袋に書き綴ったという。レコーディングは1955年12月、サンスタジオで行われた。
 「Blue Suede Shoes」が世に出た後にまつわるカールやエルヴィスのエピソードについては「Union708」の素晴しいウェブサイト・コラムを御覧頂きたい。

 パーキン・ハイスクール・オーディトリアムでのライブ詳細は、当日のライブを体験した地元の女性への取材記事がネットにアップされておった。当時彼女はハイスクールのすぐ近くに住んでおり、既にデューイ・フィリップスのラジオ番組を聞いてエルヴィスのファンになっておったという。ライブには田舎の女の子たちがたくさん集まったものの、絶叫したり通路に飛び出して取り乱すこともなく、全員がただただ熱い拍手を送り続けていたという!彼女は正確なセットリストや当日のエルヴィスの服装はもう覚えていないが、カール・パーキンスも登場したことは記憶にあるそうじゃ。カールもまた、当時のエルヴィス同様に駆け出しに過ぎなかったが、「とても優秀なシンガーだった」と!またエルヴィスの存在に恐れおののいて(?)ライブに行かなかった彼女の友人は、それでもオーディトリアムの窓からこっそり覗き見して興奮しておったそうな。

 残念ながら、ライブ写真も、当時のハイスクールの写真も発見出来なかったが、名曲誕生のきっかけとなったエピソード、実際にライブを観た女性ファンの証言だけで、この会場の存在価値が充分に伝わってくるというものじゃ!
 ハイスクールは2005年に廃校になっており、現在は市庁舎の建物が建てられておる。跡地の広い敷地の真ん中にはハイスクールがこの地に建っていたことを伝える標識が設置されておる。ロック・ファンとしては、「ブルー・スゥエード・シューズ誕生地」としての標識も設置してほしいところじゃな!右写真ストリートビュー2023年8月撮影。


ライブ翌日にチケット代金払い戻しってほんまかいな!?
Area No.24/Serial No.518 ハイスクール・オウディトリアム跡地/デルモット 
     
   
   
 
 上記パーキンでのライブの4日後の1955年3月25日、パーキンから南へ約250キロ離れたデルモットという街にエルヴィスはやって来た。ライブ会場はデルモット・ハイスクール・オーディトリアム(左写真上段、右端の建物)
 ここではカール・パーキンスとジョニー・キャッシュの共演は無いものの、SMWによるとエルヴィスがヘッドライナーで登場したショーのチケットの中ではもっとも古い物が見つかっているとされておる。(左写真下段)

 ライブは滞りなく行われたものの、地元の教育団体から「若者が観るに相応しくない音楽会だった」とクレームが付き、何と翌日にチケット代金の払い戻しが行われたという!今までエルヴィスが登場した全米の会場をチェックしまくってきたが、ライブ後にチケット代金払い戻しという事態はわしは初めて知ったわい。
 ちなみに左写真下段でお分かりの通り、未成年の入場料は50セントであり、当時の地元ではかなり高価だったらしいが、これも払い戻しの原因だったのか?

 デルモット・ハイスクールは、一時期小学校から大学までの施設が敷地内に建てられておったこともあり、校舎が建てられておる敷地だけでも、Google-mapで確認すると少なくとも南北400メートル、東西200メートルはある。各学校の合体、一部施設の取り壊し等が続き、現在のハイスクールの建物は別の位置、別の建物らしい。
 旧ハイスクール・オーディトリアムが建てられていた場所は左写真の通り。ストリートビューは敷地内に入り込んでいないので、この写真はアメリカのyou tuberが撮影した動画の静止画。


耳の早い女性ファンたちがライブ前に駆け付けたラジオ局

Area No.25/Serial No.519 KVSRラジオ・ステーション跡地/デルモット  

 こちらはデルモット地元のラジオ局。エルヴィスはデルモットの街に入る前に、街外れの幹線道路沿いにあるこのラジオ・ステーションを訪ねており、プロモーション出演をしたらしい。
 ラジオからエルヴィスの声を耳にした女性ファンたちがソッコーでラジオ・ステーションを訪ねて来たらしいが、時既に遅し。彼女たちが到着した時はエルヴィスはデルモットの街中へ向けて出発した後だったとのこと(笑)

 ラジオ・ステーションまで駆け付けてきた女性ファンたちがその後踵を返してライブ会場へダッシュで戻ったことはいうまでもないが、彼女たちの中の一人がライブの主催側とのコネを使い、エルヴィス、スコッティ、ビルの3人をライブ後のホームパーティに招待することを実現させたというエピソードがSMWに記載されておった!ライブ当日の思いつきから実行までわずか数時間という早業じゃ。この類の女性ファンの実行力って、いつの時代も誠に恐れ入る!
 ホームパーティの最中、一人の女性がエルヴィスをダンスに誘うと、「ダンスは苦手なんだ」とエルヴィスに拒否られてしまい、その場にいた一堂が驚いたという件がSMWに記載されておる!

 このラジオステーションは古色蒼然とした建物のまま、2015年前後まで使用されておった。ラジオ局閉鎖の後は建物は放置されたままになっておるようじゃ。右写真ストリートビュー2024年3月撮影。
 周囲は何もない幹線道路沿いの土地に建てられておるので、ホームレスが住み着いたりする可能性は低いと思われるが、エルヴィスが訪れたこともある歴史あるラジオ・ステーションだっただけに、今後有効な再利用が望まれるところじゃ。


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