NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.420


第40回 エルヴィスゆかりの地~2023年度テキサス州中編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)


 2023年度版テキサス州第2回目は、左地図青丸印の街、州の中央辺りへのご案内になりまする!
 テキサス州は、とにかく大小さまざま、ただの噂なのかそれとも真実なのか、とにかくエルヴィスねたの宝庫じゃ。調べていて楽しくてしょうがないが、ひとつひとつのねたの確証を得るのもまた大変じゃ。現時点で真実味がある(と思われる)ネタを今回もご紹介していくので、周辺情報も併せて1950年代のエルヴィスのライブサーキットを想像しながら楽しんで頂けたら幸いじゃ!

 本編に入る前に少々ネタばれをかましておこう。
・テキサスの田舎街にもエルヴィスを私的にサポートする地元有力者がいて、エルヴィスのツアーとプロモートをしておった!
・山奥の小さな学校で行われたライブが、一人の少女に永遠の記憶を刻み込み、彼女はその時にもらったエルヴィスのサインを、筆跡が消えてしまいそうな今でも大切していた。
・長い歳月の果てに、かつてのライブ会場は生い茂る草むらの中に隠れていたが、超絶熱心なファンのお蔭でその残骸が発見された!
等々、今回も色々あります!
 1970年代にはエルヴィスはキング・オブ・ラスヴェガスになって、テキサス・サーキット時代のワイルド&セクシーな面影はほとんどなくなってしまったものの、キング・オブ・ロックンロールに成るための素晴しき体験の数々がテキサスで得られていたことを今一度ご確認頂きたい!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地 
    第40回 2023年度テキサス州中編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は2022年度編からのテキサス州内での番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。


 Area No.31/Serial No.298  ノース・サイド・コロシアム/フォートワース
 Area No.32/Serial No.299
 テキサス&パシフィック・ステーション/フォートワース 
 Area No.33/Serial No.300 ガストン・スクール・オーディトリアム/ジョイナービル
 Area No.34/Serial No.301
 
 ザ・ロデオ・アリーナ跡地/ヘンダーソン

 Area No.35/Serial No.302 ミッドランド・ハイスクール・オーディトリアム/ミッドランド
 Area No.36/Serial No.303  “ホリーフィールド”ザ・レコード・ショップ跡地
                   /ミッドランド
 Area No.37/Serial No.304 ウェスト・ウインド・モーテル跡地/ミッドランド

 【バーチャル・ロックンロールツアーのバックナンバー】

 ★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」



 テキサス・ロデオの熱狂も凌駕した超絶大絶叫ライブ!
Area No.31/Serial No.298 ノース・サイド・コロシアム/フォートワース
 大都会ダラスに隣接した街フォートワースに世界初の室内ロデオ(馬や家畜を使った伝統的なスポーツゲーム)の会場ノース・サイド・コロシアムがオープンしたのは、1917年じゃった。(左写真)収容人員数7,000という巨大な会場は、ロデオの他にも大規模な見本市、イベントが次々と開催されていたという。エルヴィスのセカンド・アルバム「エルヴィス!」のジャケ写が撮影されたニューヨークのカーネギホール内の撮影スタジオ名“カルーソ・ルーム”の生みの親ともいうべき、オペラ歌手のエンリコ・カルーソも、1920年にこの会場でコンサートを開催しておる。

 エルヴィスはノース・サイド・コロシアムに、1955年5月29日、1956年1月20日、4月20日の3回出演しておる。元々はこの3回以上にエルヴィスは同会場でライブを開催する契約をしていたようじゃが、前回のテキサス州編Vol.1/Area No.29「コットン・ボウル」ご案内の際にもご紹介したが、1956年が近づくにつれてエルヴィスの出演料が跳ね上がり、当初の契約500ドル(1ステージ)のままでは大佐もエルヴィスも納得しなくなり、同会場をはじめとしたフォート・ワースの会場の正式なブッキングは行われなかった。それが「コットン・ボウル」出演直前のエルヴィスに向かって地元のプロモーターが損害賠償請求の書面をつきつける小事件に繋がったのじゃ。

 

 エルヴィスの人気が膨れ上がっていった1955~56年のエルヴィス・フィーバーぶりを象徴するように、ノース・サイド・コロシアムでの反響も回を追うごとに凄まじくなっていった。
 1956年1月20日のライブでは、サポートアクトの約1時間にわたる前座演奏に女の子たちのフラストレーションは爆発寸前となり、エルヴィスが登場した途端に絶叫に近い動物的な咆哮が炸裂して、コロシアムの屋根が吹っ飛びそうになったという!
 ロデオを好むテキサス人ってのは、男性だけではなく女性も血の気が多くて沸点到達がお早いようで!?まだ1曲も演奏されていないうちから女の子たちは「エルヴィス!もう私死んじゃいそう!!」「エルヴィス、もうダメ!気が変になりそう!!」と具体的な感情を言葉にしながらわめきまくっていた(笑)、と新聞のレビューで書かれております!(上写真2枚は1955年5月29日、下写真3枚1956年5月29日出演時)

ノース・サイド・コロシアムはその後何度かの改装を経て、現在は「カウタウン・コロシアム」と改称されて現役のイベント会場として稼働中。2007年にはオープン90周年を記念をして、それまでコロシアムに出演したアーティストたちの写真がデザインされた特大ポスター(右写真左側)が会場の正面入口にディスプレされた。さすが、エルヴィスは特別扱いでレイアウトされておる!
 あと4年でオープン110周年を迎えるので、新たなる記念ポスターかモニュメントがお目見えするかもしれない!右写真右側はストリートビュー2022年4月撮影。



テキサス・イーグル号に乗ってエルヴィスはやって来た
 Area No.32/Serial No.299テキサス&パシフィック・ステーション/フォートワース
 
 いかなる事態でも、マスコミを利用してエルヴィス人気のアピールを忘れないのがパーカー大佐。軍隊出征や帰還の時の記者会見、映画撮影等で列車による長距離移動の際は途中停止駅でのファンとの交流の場をぬかりなく用意してファンとマスコミ連中を目をエルヴィスにくぎ付けにしておった。
 上写真3枚は、いずれテキサス州フォートワースのテキサス&パシフィック・ステーション(通称T&Pステーション/左写真)での撮影じゃ。

 上写真左側が1958年1月11日、映画「キングクレオール」の撮影の為にロサンジェルスに向かう途中、乗り継ぎのためにT&Pステーションに降り立つ際にファンの女の子にキスをするエルヴィス。この女の子、当時14歳(ジュニアハイスクールの生徒ちゃん)って驚きじゃ!
 上写真中央は、1960年4月19日、今度は映画「G.I.ブルース」撮影のためにロサンジェルスへ向かった際に、同ステーション内で開かれた短時間の記者会見の模様。上写真右側は、乗り継ぎ列車の最後尾からファンと握手するエルヴィス。恐らく列車がロスに向けて出発する時のファンとのお別れのシーンじゃろうな。下写真2枚も1960年4月19日撮影。

 T&Pステーションは当時テキサス州内最大の鉄道駅であり、左上写真でお分かりの通り、高層で荘厳なターミナルビルがシンボル。全米各地へ向けてのいくつもの鉄道路線が乗り入れており、エルヴィスが乗ったロサンジェルス行きの列車は通称“テキサス・イーグル号”と呼ばれておった。

 

 エルヴィスの利用でさぞかし知名度が上がったかのように思えるT&Pステーションじゃが、1958年に州間高速道路30号線の高架部分が周辺に建設され、このエリアがダウンタウンから実質的に分離されたために、既に客足が減って衰退途中だったという。
 鉄道は1967年にフォートワースでの旅客サービスが終了するとターミナルビルの営業も終了。1980年代初頭から1990 年代後半まで住宅都市開発局が独占テナン​​トとなった。その後ターミナルビルは事実上手つかずのままじゃったが、1999 年に140 万ドルをかけて改装されてかつての美しさを取り戻した。2001年になってようやく旅客サービスも再開されたらしい。

 現在ターミナルビルの上層階はコンドミニアムに改築され、飲食店のテナントがいくつか入居しておるという。右写真はストリートビュー2017年8月撮影。



世界最大の田舎学校がパニックになった!
Area No.33/Serial No.300 ガストン・スクール・オーディトリアム/ジョイナービル
 1955年のテキサス州におけるエルヴィスのすさまじいツアー・スケジュールに目を通していると、日本人ならばまず知らない、行く機会もない小さな街がかなりあり、中にはSMWですら調査が行き届いていない場所も多い。Google-mapに地名は表記されていてはいても、地域名なのか街名なのか、はたまたただのバス停の名前なのかと考えてしまうような小さな表記しかされていない場所まである!「バーチャル~2022年度テキサス州ツアー」でも強調したが、1955年のエルヴィスのテキサス州ライブツアーはいわゆる“ドサ周り”だったのじゃ。1955年1月28日にエルヴィスがやって来たジョイナービルという場所もまた然り。

 

 ライブ会場になったガストン・スクール及びオーディトリアム(上左写真)は、ド田舎を突っ切る山道の脇に建設された、周囲に住む若い学生たちを一同に通わせる学校および関連施設であり、「よくまあ、こんな所までエルヴィスが来たもんだ」とストリートビューを見ておるだけで呆れ、いや感心してしまうわい!
 SMWによると、ガストン・スクールは周囲には幹線道路以外には何もないことを半ばギャグとして自らあげつらって、関係者たちや学生たちは「世界最大の田舎学校」と呼んでおったそうじゃ(笑)エルヴィスのライブ会場となった学校の本館横のオーディトリアムは最大収容人員数約800とかなり大掛かりな講堂であり、驚くなかれエルヴィスはこの講堂を超満員にしたそうじゃ。これはひとえに、当時エルヴィスのテキサス州とその周辺ツアーをマネージメントしていたプロモーターのトム・ペリーマンの手腕によるものじゃ。(上写真中央はペリーマンがプロモートしたライブスケジュールが記載されたプロモ広告。右写真は地元新聞に掲載された事前記事)
 そしてエルヴィスは開校以来前例のない熱狂をもたらした!エルヴィスの髪型、服装、アクション、そして音楽は会場に集まった女の子たちにとって未知との遭遇以外の何ものでもなく、オーディトリアム内は雷が落ちたような大騒ぎになったそうじゃ

 ライブ終了後はバックステージに押し寄せて来た多くの女の子たちに、エルヴィスはサインのサービスをしており、その時貰ったサイン(左写真)を大切に保管しておった女性のインタビューSMWに掲載されておったので転載しよう。

「母は他のお母さんたちと一緒に車に荷物を詰めてコンサートに向かった。みんなウキウキしていました!私たちは声が枯れるまで叫び、友達の一人は気を失いました。母は、“子供たちがこんなに夢中になるのを見たことがない”と言ってました」

「エルヴィスはピンクと黒のセクシーな衣装を着ていました。紫の水玉模様の靴下も印象に残っています。私たち東テキサスの女の子は、一人の男性がこれほど動いたり震えたりするのをこれまでの人生で見たことがありませんでした」

「45年という長い間、私はこのボロボロで古くなり、サインも消えかけた紙をなんとか持ち続けてきました。あの夜ピンクのキャデラックがガストンのキャンパスを離れてからは、エルヴィスを二度と直接見ることはありませんでした。それから以降、私の人生では多くのことが変わりましたが、あの素晴らしい夜の記憶は今でも変わりません」


 なおこの方が持っておったエルヴィスのサインのコピーが、スクール跡地からほど近い位置にあるガストン博物館に展示されておるようじゃ。

ガストン・スクールはその後周辺地域との学区統合で1980年代には廃校となった。しかし本館校舎もオーディトリアムも取り壊されることなく現在でも残っておるから驚き!ストリートビューでもばっちり確認出来る。右写真はストリート・ビュー2023年3月撮影。


 “つわものどもが夢の跡”自然の中に埋もれていたロデオ会場
Area No.34/Serial No.301 ザ・ロデオ・アリーナ跡地/ヘンダーソン
 1955年8月上旬から、エルヴィスご一行は約一ヶ月間テキサス州各地とお隣のルイジアナ州へのライブツアーを敢行。そのスケジュールの中にも上記ジョイナービル同様に名もない小さな街がある。ヘンダーソンもそのひとつで、ダラスの東南約200キロ、ジョイナービルの東約11キロにある。
 Area No.31でご案内済のフォートワースのノース・サイド・コロシアム同様に、ヘンダーソンでのライブ会場もその名の通り、主にロデオが開催される場所であった。ヘンダーソンとその周辺地域には今でもロデオ会場がいくつかあり、ロデオはこの地域の伝統芸能なのじゃろう。
 しかしエルヴィスが1955年8月9日に登場したザ・ロデオ・アリーナはとっくの昔に姿を消しており、ネット上の詳細情報は所在地をはじめとしてほとんど無し。上の写真も、ザ・ロデオ・アリーナでの撮影を裏付ける証拠はつかめなかったが、複数のサイトで特定されておるのでご参考までに!

 わしが「バーチャル~」を継続する上で、SMWとともに常に活用させて頂いておるウェブサイト「Elvis Presley in concert」(以下、EPC表記)だけが、ザ・ロデオ・アリーナのあった場所を探し出し、跡地の写真を掲載しておる。地元の図書館でかつての所在地を突き止めたようで、まさに「あっぱれ!」じゃ。跡地は下写真のように、閉鎖してからは長らく大自然の中に埋没しており、周囲は手つかずのままの“テキサス・ジャングル”と化しておった。撮影は2017年のようじゃ。

 

 上写真、左側と中央の2枚は観客席であろう。右側の写真の中央には当時のスピーカーらしき物体が写り込んでおる!しかしながらEPCには肝心の住所の記載がなく、ヘンダーソンは小さな街とはいえストリートビューや航空写真からこの場所を特定するのは超難儀(泣)
 そこで、EPCの短い解説文の中に記載された跡地撮影の際の現地協力者の勤め先名を手がかりとしてネット調査した結果、跡地の所在地が判明!ただしストリートビューは入り込んでおらんので、代わりに航空写真を掲載しておこう。(右写真)
 円を描くように生い茂る濃い緑の樹木の部分がザ・ロデオ・アリーナの観客席、中央の薄い緑の部分がロデオ・グラウンドだったと思われる!Google-map上でマーキングした位置は、航空写真右端の幹線道路225号線の白い表記辺りじゃ。


“西テキサスはエルヴィスにとってもっともホットなテリトリーである”
Area No.35/Serial No.302 ミッドランド・ハイスクール・オーディトリアム/ミッドランド
 1955年1月7日、5月31日、そして10月12日の3回、エルヴィスはダラスの西約500キロに位置するミッドランドという小さな街のハイスクール・オーディトリアムでライブを行っておる。1955年のライブはやたらと街の学校の講堂(スクール・オーディトリアム)でのライブが多い。これは広くても数百人ほどの収容人員数が1955年前半当時のエルヴィスの集客力に相応しく、また学生を中心とした若者を集めやすかったことと関係しているに違ない。またスクール側の窓口が生徒会である場合が多く、何かと交渉がしやすかったこともあったであろう。

 ミッドランド・ハイスクールで三度もライブが行われた理由は上記の条件だけではなかった。ミッドランドには、エルヴィスをはじめとした若手ミュージシャンを支援する人物がおり、ライブやテレビ/ラジオ出演の手配をしてもらっておった。ミッドランドとその隣町オデッサでレコード店「ザ・レコード・ショップ」を経営していたセシル・ホリーフィールド、愛称“ポップ”じゃ。(以下ポップ表記)ポップの招きによってエルヴィスは三度もミッドランドを訪れておったのじゃ。(※ポップ”に関しては、下記Area No.36においてあらためて紹介)
  ミッドランド来訪の際のエルヴィスは、ハイスクール・オーディトリアム出演時間の前後に必ずポップのセッティングによる地元のTV局KMIDやKOSAのプロモ番組に出演したとされておる。
 
 10月12日はこの地域のツアーでエルヴィスと共演していたジョニー・キャッシュが(彼もまたポップのお気に入りだった)、ミッドランドの隣町オデッサにあったローカル・レコードレーベル「ジュエル」からシングル盤を発表したばかりのロイ・オービソン(レコード名義はバンド名ティーン・キングス)をオーディトリアムへ招待してエルヴィスを紹介したといわれておる。またKMIDの番組内でエルヴィスとロイが共演したという説もある。ロイはザ・レコード・ショップの常連でもあった。
 このエルヴィスとロイ・オービソンの件は、事実を裏付る明確な証拠がないので紹介しておる各英字サイトも断言はしておらんが、当時の関係者の証言から、かなり信憑性が高い噂であるらしい!ただし、SMWには、スコッティ・ムーアはこの時期にロイ・オービソンと同じステージに立った記憶がないと生前語っていたと記述されておる。

 ちょっとオモシロイ事実としては、ロイ・オービソンの才能に目を付けていたのはポップとジョニー・キャッシュであり、彼らの口利きでサム・フィリップスもサンレコードと契約させることを検討中だったという。そこでエルヴィスとロイをツアー中に引き合わせることで、サムはエルヴィスに意見を求めようとしていたことじゃ。ロイ・オービソンは最終的には、ジュエル・レーベルと同じく、ティーン・キングス名義で1956年3月にサンレコードと契約しておる。
 またロイ・オービソンはジョニー・キャッシュの熱心な勧めに従い、自らサム・フィリップスに連絡をしてみたものの、当初は「サンレコードはジョニー・キャッシュの会社じゃない!」とサムに断られたそうじゃ(笑)」

 ご存知の通りエルヴィスの知名度は1955年中盤から俄然拡大し始めており、ビルボード紙もエルヴィスの動向を追うことが増えた。2度目のミッドランドでのライブの際には、ビルボード誌に定期的に寄稿していたポップによって「エルヴィスは南部で俄然スピードアップしている。西テキサスはエルヴィスにとってもっともホットなテリトリー
である!」とレポートされておる。

ミッドランド・ハイスクールは現在でも存在し、オーディトリアムもエルヴィスが三度出演した当時と同じ場所にある。何度か改装工事が行われたが、外観は当時と同じように見事に復元されておる。左写真はストリートビュー2019年3月撮影。


 エルヴィスのバックに写る建物は、ロックンロール発信ステーション!
Area No.36/Serial No.303 “ホリーフィールド”ザ・レコード・ショップ跡地/ミッドランド

 上3枚の写真は、エルヴィスが大スターになる以前のショットの中ではかなり人気が高いものじゃろう。もう70年近く前の撮影なのに、当時からエルヴィスはメッチャ“イケてる”!ナッソージャケットを愛する世界中のELVIS & ROCKABILLYファンは、ネットの時代になって、これまで見たことがなかったこれらのショットに強烈な刺激が走ったであろう。
 この写真が撮影されたのは、1955年10月12日、Area No.35でご案内したミッドランド・ハイスクールでのライブ開始前じゃ。前日の11日はミッドランドから西に約230キロ離れているアビリーンという街でライブを行い、エルヴィスは12日昼頃にアビリーンを出発してミッドランドに到着したと予想すると、まさに午後のひととき、天気は秋晴れだったかもしれない!?
 そして写真右側、エルヴィスの背景に写り込んでいる白い建物は、上記Area No.36でご紹介した地元のプロモーターじゃったセシル“ポップ”ホリーフィールドが経営しておったレコード店「ザ・レコード・ショップ」じゃ。ポップ自身が写真の撮影者であると伝えられておる。なおミッドランドのライブ広告に、チケット販売場所として「The Record Shop」の記載を確認することが出来る!ポップのお仕事内容全般から、このお店は単なるレコードショップではなく、西テキサスにおけるロックンロール発信ステーションとしての役割を担っておったのじゃ。

 ポップは当時の他のローカル・プロモーター同様に、若手ミュージシャンを個人的に支援しており、特にエルヴィスを「私の子供」と公言して可愛がっておったそうじゃ。時には自宅に招待するなど、家族ぐるみでエルヴィスやスコッティと付き合いをしておった。右写真左側、左端がスコッティ、左から3人目がエルヴィス。眼鏡をかけたおじいちゃんがポップじゃ。

 ザ・レコード・ショップは1967年までホリーフィールド夫妻によって経営された後に他者に売却され、その後建物には別のテナントが入り続けておる。ポップは1974年に亡くなったそうじゃ。息子さんのホリーフィールド・ジュニア氏は、父親が大切に保管していた大量のレコードやミュージシャンからの手紙、また写真等のコレクションを引継いでおり、上写真右側は、有名な1956年ラスベガス公演の際のショットにエルヴィスがメッセージを添えてポップへ送ってきた物じゃ。

ザ・レコードショップはミッドランド・ハイスクールまで車で数分の近距離にあり、驚くなかれ、建物はほとんど当時のままで現在でも存在しておる!
 右写真はストリートビュー2022年8月撮影。写真左側の白い建物にかつてザ・レコードショップが入っておった。現在はインテリアショップの模様。写真右側、薄茶色の建物前の駐車スペースが写真撮影が行われた場所だった
と思われる。


ポップ・ファミリーとエルヴィスの絆の証だったモーテル
Area No.37/Serial No.304 ウェスト・ウインド・モーテル跡地/ミッドランド
 上記Area No.36でご案内したセシル・ホリーフィールド・ジュニア氏の回想によると、1955年5月31日のミッドランドでのライブの際、エルヴィスらはザ・レコード・ショップから目の前を走るウェスト・ウォール・ストリートを西へ約5キロ移動した位置あるウェスト・ウインド・モーテルに宿泊した(左写真)。
 当時14歳だったセシル・ジュニアは、父親のポップ同様にエルヴィスと仲が良かったそうで、エルヴィスが泳げないことを知らずにモーテルのプールでふざけてエルヴィスを突き落としたそうな(笑)
 また当時道路を隔てた対面にファーストフード店があり、エルヴィスはハンバーガーを20個くらい買ってきてジュニアやスコッティたちと食べたそうな!
 
 既にエルヴィスの名はミッドランドでは知れ渡っていたので、やがてモーテルの周りには車を飛ばしてやって来た地元の若いファンでいっぱいになったので、その夜エルヴィスは外出は出来なかったはずだとジュニアは語っておる。

 ウェスト・ウインド・モーテルは、ネット上に古い絵葉書(上写真)がアップされており、裏面に住所が記載されておった。その住所から跡地を探すと、現在は倉庫のような建物が建てられておった。(下写真左側))
 ところが周辺を散策してみると、目の前のウェスト・ウォール・ストリートを東に2.4キロ移動すると同名のホテルが存在しておるのを発見。(右写真右側)
 看板のロゴもエルヴィスが宿泊した当時のホテルと同じであり、恐らくこちらに移転したと思われる。
ストリートビューの撮影はいずれも2021年6月撮影。


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