NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.419


第39回 エルヴィスゆかりの地~2023年度テキサス州前編

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 過去約三ヶ月にわたり、アメリカ北東部/東海岸を周遊した「バーチャル・ロックンロールツアー」は、ここでアメリカ大陸の南西部、広大なテキサス州へと戻ることに致す!
 テキサス州は昨年の後半に3回に分けて既に訪れておるが、1954年デビュー当時から1957年にかけてエルヴィスはこの州で膨大な数のライブをこなしており、ゆかりの地巡りはとても3回だけでは足りない!そこで今回はテキサス州ツアー2023年度編として、あらたに3回に分けて昨年未踏の地を訪ねてみる予定じゃ。

 昨年のテキサス州ツアーは、ある程度エルヴィスのライブツアーの時系列に沿ってご案内したが、本年はテキサス州をざっくりと北部、中部、南部に分けながらのご案内としよう。第1回目は、左地図中央上のDallas周辺より北部の街じゃ。

 アメリカ北東部/東海岸でのツアーは、当地において1950年代のエルヴィスのライブが少なかったこともあり、州によっては1970年代のゆかりの地ばかりだったが、テキサス州に乗り込んだからには、すべて1950年代のゆかりの地になるぞ!もちろん1970年代の足跡もテキサス州には多いが、これからの3回は原則として70年代はスルーじゃ!
 諸君、旅の羅針盤をアメリカ東海岸地域から南西へ向け、時計の針は1970年代から約20年前に戻してくれ。久しぶりに若くてワイルドでクールなエルヴィスの幻影を追って旅をしよう!
 なおテキサス州でのエルヴィスの記録は、場所によっては写真が残されていないか、もしくは撮影されていたとしても日付や場所の情報があやふやな場合が少なくない。可能な限り正確を期す所存ではありますが、断定は出来ない写真もあるのでその点はご了承頂きた。

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地 
    第39回 2023年度テキサス州前編


 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は2022年度編からのテキサス州内での番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。


 Area No.25/Serial No.292
  シティ・オーディトリアム跡地/アマリロ
 Area No.26/Serial No.293 M-B・コーラル跡地/ウィチタフォールズ

 Area No.27/Serial No.294 シーモア・ハイスクール・オーディトリアム/シーモア

 
 Area No.28/Serial No.295
  メモリアル・オーディトリアム/ウィチタフォールズ
 Area No.29/Serial No.296  コットンボール・スタジアム/ダラス 
 Area No.30/Serial No.297 ラウンドアップ・クラブ跡地/ダラス

 【バーチャル・ロックンロールツアーのバックナンバー】

 ★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」



 “キング・オブ・ウェスタンバップ”から“キング・オブ・ロックンロール”へ!
Area No.25/Serial No.292 シティ・オーディトリアム跡地/アマリロ
 テキサス州2023年編は、上地図最北部のAmalliro(アマリロ)からのスタートじゃ。「パタリロみたいなオモシロイ名前じゃな」って最初はクダラネー事を連想してしまったが、名前の由来は次の通り。
 アマリロとはスペイン語で「黄色」を意味する。この名前はアマリロ・クリークの水路の下層土の色に基づいており、町の初期にはその名前を記念して多くの家が黄色に塗られていた。主に鉄道、牛、商品販売によって初期のアマリロは繁栄したという。20世紀初頭までに、アマリロは世界で最も忙しい牛の出荷場所のひとつとしての地位を確立した。(SMWより)

 エルヴィスご一行が初めてアマリロ・シティ・オーディトリアム(上写真)にやって来たのは、1955年6月2日という説が存在するが(EDDにも表記あり)、SMWはこの時のライブ開催を証明する新聞広告等が一切見つからなかったらしい。よってここに掲載する内容や写真は、1955年10月13日と1956年4月13日に開催されたライブの資料からのご紹介じゃ。この両日のライブは、ジョニー・キャッシュ、ワンダ・ジャクソンも共演しておる。


 1955年10月13日時点でのテキサス州におけるエルヴィスの人気は既にかなり高かったようで、エルヴィスは新聞記事で「キング・オブ・ウェスタン・バップ」と紹介されており、音楽に関しては「ロックンロールのビートでスパイスを加えたフォーク音楽の組み合わせ」と表現されておる。
 この記事を書いた記者は「アマリロ・デイリーニュース」のエンターテイメント記事担当の女性記者パッツィー・ディナンとされており、エルヴィスのファッションについても、「ワードローブは、西洋のアパレルではなく、“クール キャット”タイプのドレスにまで及ぶ」と書かれている。
 更にエルヴィスの生い立ちや略歴も結構正確に調べて上げて書き加えられており、彼女自身が相当のエルヴィス・ファンだったと思われる!バックステージにファンが群がっておる写真も残されており、アマリロでのライブが盛り上がっていたことを物語っておる。(上写真)

 下写真4枚は、1956年4月13日のライブ。キング・オブ・ウェスタンバップでもキング・オブ・ロックンロールでも、もうどっちでも関係ない!って感じの、エルヴィス・フィフティーズ・ライブお馴染みの熱狂的光景ですな~♪特に女の子の絶叫ショットは、陰影効果を上手く利用した実にエエ写真じゃ。

 
 1956年のライブ評では、先述したパッツィー記者がただのエルヴィス・ファンではなく、なかなか文才もある優れた記者であったことが分かるので一部転載しておこう。

「エルヴィスは自分自身を狂気のリズムに乗せ、自分のギターと伴奏のバンドの荒々しいビートに身を委ねた。それは空襲!エルヴィスの体当たりやグラインドがさらに狂乱を増すにつれ、群衆のサイレンの叫び声が高まった」

「エルヴィスが何を歌ったかは問題ではなかった。少女たちが魅了されたのは、青と赤のフットライトに照らされた彼の挑発的な旋回だった。10代の少女たちがステージに向かって群がり、通路を埋め尽くし、ステージ上で身を投げ出すエルヴィスへと引き寄せられた。」


 この日のライブは昼夜2回行われ、休憩時間にはバックステージでサイン会が催された。これが結構な騒動となり、バックステージの扉のガラスが殺到した女の子たちによって割られてしまい、ガラスの破片で腕に怪我をする女の子たちが続出。それでも彼女たちは血を流した腕を伸ばしてエルヴィスにサインや握手を求めた。自分が差し出したサイン帳(またはプログラム)がサインされた後に別の女の子に奪われてしまって泣き出す女の子もいて、エルヴィスはサイン会を中断。サインをもらえなかった女の子を抱きしめてあげたりと、ライブ以上に忙しかったそうな!

 アマリロ・シティー・オーディトリアムは1968年まで稼働。その後取り壊されて、現在周囲は閑静な住宅街に変貌しておる。(左写真右側ストリートビュー2022年11月撮影)
 また、エルヴィスが出演した当時敷地内に設置されていた記念碑は、取り壊しの際にすぐ近くの広大なエルウッド公園の北西角地に移動設置されたが(左写真左側)、現在は更に別の場所に完成した新しいイベント会場「アマリロ・シビック・センター・コンプレックス」内に設置し直されておる。


将来のキングの出演で奇跡的な生命力を授かったローカル・クラブ
 Area No.26/Serial No.293 M-B・コラール跡地/ウィチタフォールズ
 ウィチタフォールズは、Area No.25のアマリロから287号線道路を東に約350キロの位置にある街。エルヴィスが1955年4月25日に出演したナイトクラブのM-Bコラールは、左写真で見ると、幹線道路沿いに建つ小屋同然の建物じゃが、ウィチタフォールズ自体が当時石油が発掘されたことで投資の対象としても賑わった街であり、この会場は地元周囲の有名ミュージシャンが頻繁に出演する人気のエンターテイメント・ナイトクラブだったようじゃ。M-Bとは、ご当地の人気バンドMBブラザースから命名されたという。
 左写真は後年移転した際に撮影された建物であり、1951~2年にオープンしたオリジナルの店舗の写真はネット上では発見出来なかったのでご了承頂きたい。
 エルヴィスが出演した時の写真も残されておらんが、当時のオーナーだったサム・ギブスは長らく若きエルヴィスが出演した夜のことをはっきりと記憶していたそうな。

 「それまでエルヴィスもスコッティもビルも知らなかったよ。エルヴィスは内気な子だったが、才能に溢れていたね。ギャラは125ドルだったが、彼は瞬く間に一晩で何万ドルを手にするスターになったね」。

 M-Bコラールはエルヴィスが出演したことでその名に俄然泊が付いたようで、エルヴィスの後には後ロレッタ・リン、ボ・ディドリー、ジョリー・リー・ルイス、ティナ・ターナー、ファッツ・ドミノらビッグネームが時折出演するようになったというから驚きじゃ。右写真は、地元新聞に掲載されたライブの告知広告。現在ウィチタフォールズの郷土資料集の中に掲載されておる。

 M-B・コラールは別の経営者への売却や譲渡が続き、ロックンロールやカントリー&ウェスタンの人気の推移に左右されながらも生き長らえ、一時は「ザ・コラール」と改称しながらも営業を続けたという。現在でも別の場所に移転して地元の人気ライブハウスとして存続しており、奇跡的な生命力をもったミュージック・クラブじゃ。
 上写真左側が1955年当時にM-Bコラールが建てられていた場所。上写真右側が、旧コラール跡地から目の前の幹線道路を北へ4.5キロ移動した場所にある現在のM-Bコラール。(いずれもストリートビュー2023年6月撮影)


移動中のガス欠で、ブルームーンボーイズは大幅遅刻
Area No.27/Serial No.294 シーモア・ハイスクール・オーディトリアム/シーモア
 Area No.26でご案内したM-Bコラールでのライブ終了後、エルヴィスご一行はすぐに南西へ約550キロ離れたシーモアという街へ移動。同日夜間にブッキングされておったもうひとつのライブにも出演する予定だったのじゃ。場所はシーモア・ハイスクールのオーディトリアム(講堂)じゃった。
 ところが移動中に車がガス欠になってしまい、ブルームーン・ボーイズがオーディトリアムに到着したのは日付が変わった真夜中だったらしい。他のバンド、ミュージシャンを先に出演させて時間稼ぎをしていた会場側も、待てども一向に到着しないトリのブルームーン・ボーイズにやきもきしていたという事実がネット上にアップされておった(笑)
 ガス欠云々が記述されたサイトには、“エルヴィスはその時お金も無かった”とされておる。M-Bコラールの当時のオーナーは先述の通り「ギャラは125ドルだった」と語っておるので、それが事実とすればエルヴィスがガス欠を食らった時に文無しだったとは考えにくい。
 そこでオーナーの回想記事を読み返したところ、シーモア・ハイスクール・オーディトリアムのライブも同オーナーがブッキングしており、要するにダブル・ライブ終了後にギャラの支払いがされる予定だったってことじゃろうな!ブルームーン・ボーイズたちがどうやってオーディトリアムにたどり着いたかは不明じゃが、深夜到着だったためか、彼らは僅か4~5曲をプレイしただけだったという。このガス欠遅刻ライブに関するネット上の情報は僅かであり、関連写真も左写真の告知ポスターのみじゃ。
 
 エルヴィスの古い足跡を紹介しているテキサス州発信の数多いサイトの中には、1955年当時は「テキサスの田舎町の名もない小さな学校の講堂でもキングは演奏し続けた」との記述が結構見られる。その一例として、この日のライブが挙げられておるサイトもある。

 エルヴィスが出演した当時のオーディトリアムの写真は発見出来なかったが、現存するオーディトリアムの建物の外観は当時と変わっていないとの文字情報は発見。現在は「ルイス・H・ジョンソン・メモリアル・オーディトリアム」と改称されておるが、近年は使用された形跡がないようじゃ。右写真はストリート・ビュー2013年6月撮影。


 映画出演も決まり、エルヴィスはご機嫌だった!
Area No.28/Serial No.295 メモリアル・オーディトリアム/ウィチタフォールズ
 

 RCAとの大型契約を1955年12月に完了させていたエルヴィスには、まだサポートアクトとしての地方都市周りの契約がいくつか残っており、1956年1月15日から20日までの6日間は、前年のツアーの大半を過ごしたテキサス州にあらためてやってきた。1月19日はウィチタフォールズのメモリアル・オーディトリアム(左写真)に登場。サポートアクトとしてはラストから2番目のライブじゃった。

 この「バーチャル~」でも再三再四ご紹介してきたが、RCAやパーカー大佐はエルヴィスの輝かしい未来に向けて大掛かりなプロモーション計画を立て、次々と実現させていったものの、契約直後のスケジュールに関しては手配が結構ずさんであり、その為に地元マスコミへのプロモーションが弱くてライブの客入りが悪かったり、カメラマンやライターなどを集めた記録、報道体制が貧弱だったこともしばしば。この日のライブもまた然りであった。

 天下取りの快進撃がスタートした大スターのステージを撮影したプロショットがほとんどなく、地元の新聞のレビューも無し。これはあきらかにRCAや大佐側の落ち度じゃろう。
 残されておる写真は地元のファンが客席から、またバックステージで撮影したショットばかり。まあこれはこれで味があって悪くはないし、スコッティやDJまで丁寧に撮影されておるのは、資料的には大変に貴重じゃがな。

 ここまで掲載した写真は1956年1月19日の撮影。これより以下の2枚の写真は、同年4月9日に再びこの会場でエルヴィスのライブが開催された時の撮影。不思議なことに、1月9日同様、この日の写真もプロショットはネット上にアップされていない。

 左写真2枚は客席にいた女性が撮影したもの。この女性はエルヴィスのファンではなく、エルヴィスの名前すら知らなかったが、友人から勧められて(チケットを貰って?)ライブに出かけたとのこと。
 「周囲の女の子たちがあまりにもエルヴィスに向かって叫び続けるので、私も一緒に叫んできました!何に叫んでいるのか自分でもよく分かりませんでしたが、良い思い出になりました」と。これが群集心理というか、いやいやステキな女性ですなあ~♪

 今まで公開されている写真は少ないものの、4月9日のライブではバックステージで地元のラジオ局からエルヴィスはインタビューを受け、その放送の録音がyou tubeにアップされておった! 3分ほどの短いインタビューじゃが、その中で既に映画「雨を降らす男/Rainmaker」への出演が決まっていて、そのポスターに自分の姿があしらわれるのが楽しみであるとエルヴィスは語っておる。映画「雨を降らす男」(1956年12月公開)は、バート・ランカスターとキャサリン・ヘプバーンが主演であり、エルヴィスはバートの弟役で出演予定だったのじゃ。 
 結局この映画は「エルヴィスが主役じゃなければダメだ」というパーカー大佐の意向によりエルヴィスの出演はキャンセルになったが、オファーとしてはエルヴィス出演映画第1作「ラブ・ミー・テンダー」よりも先だったのかもしれない。「ラブ・ミー・テンダー」でもエルヴィスは準主役扱いだったから、「雨を降らす男」の出演キャンセルには別の理由があったのかもしれない。右写真は「雨を降らす男」のポスター。この中にエルヴィスが~と想像してみるのもまたいとおかし!

 ウィチタファールズ・メモリアル・オーディトリアムの収容人員数は約3,000。現在でも多目的イベント会場として稼働を続けており、ラッシュ、ナザレス、ジューダス・プリースト、スティクスと、会場の歴代の出演者たちのラインナップを見ると、テキサス州では様々なタイプのロックバンドが受け入れ続けられておることが分かる。左写真はストリートビュー2022年3月撮影。


 50年代最多観客数ライブ!「戦争の中に放り込まれたようだった」(by D.J.フォンタナ)
Area No.29/Serial No.296 コットン・ボウル/ダラス
 まず左写真の巨大スタジアムを御覧頂きたい。テキサス第3の都市ダラスの東部に1921年に建設されたコットン・ボウルじゃ。元々は南部最大規模を誇った見本市会場(旧名フェア・パーク・フットボール・スタジアム」であり、定期的に観客席の増築が行われ、1949年には収容人数約75,000という南部最大、全米でも指折りのビッグ・スタジアムになった。日本で例えると、東京の国立競技場や兵庫の阪神甲子園球場なみの規模じゃ!

 エルヴィスは1956年10月11日にこのコットン・ボウルでライブを開催。コンサートでは当地で前例のない、約26,500人の大観衆が詰めかけた!この数字は1950年代のエルヴィスのライブにおける最大観客数でもあった!
 
 当日のステージはミュージック・ジャンボリー形式のミュージック・ショーであり、最初の1時間はシェリー・デイヴィス、ハワード&ワンダ・ベル、レックス・マーロウ、ヒューバート・キャッスル、ザ・ジョルネアーズが出演。エルヴィスはトリとして約35分間出演した。1時間待ちぼうけをくらった女の子たちの熱狂を超越した熱狂が炸裂するコットン・ボウルのステージに向かう時の気分を、ドラマーのDJ・フォンタナは「まるで戦争の中に放り込まれたようだった」と述懐しておる!


 
  当時の新聞記事によると、エルヴィスのジャケットはグリーン、シャツはホワイト、パンツはブラック。スコッティ、ビル、D.Jの3人はエルヴィスよりも先にステージに上がり、彼らがスタートの合図であるバップのリズムを刻み始めると、コットンボウル正面入口の外側で待機していたエルヴィスは車に飛び乗ってステージに向かったそうじゃ!
 そしてエルヴィスがステージ前で車を降りて大観衆の前に姿を現した時、コットン・ボウル全体が一瞬水を打ったように静まり返ったという。しかしその後エルヴィスは大観衆に二度と沈黙の時を与えなかった!という!
 
 上写真右側の芝生に膝まづくエルヴィスは、恐らくラストナンバー「ハウンド・ドッグ」の熱唱シーン。エネルギッシュに歌い、踊りまくったこの夜のエルヴィスも、時には近日公開予定じゃった映画「ラブ・ミー・テンダー」のPRをしっとりと語り、同時に「主演はジーン・ヴィンセントです!」とジョークをかましたり、35分間稀に見るほど上機嫌だったという!
 なお、上写真左側においてエルヴィスが抱えておるアコギはギブソンJ-200。同ギターを初めて使用したステージがコットン・ボウルじゃった。右上写真は、オープニング・アクトだったシェリー・デイヴィスとエルヴィス。

 ところで、エルヴィスの50年代最大規模のライブとなったこの日、ちょっとしたややこしい事件がステージに向かう直前のエルヴィスに降りかかった。当地のプロモーターがエルヴィスとパーカー大佐に対して多額の損害賠償を求める書面をエルヴィスにつきつけた。このハプニングにエルヴィスはかなり動揺したという。
 損害賠償請求の内容は諸説あるが、要は前年(もしくは当年)にエルヴィスが契約通りの回数のライブをダラス周辺で行わなかったという事らしい。パーカー大佐の言い分は次の通り。
「その契約はエルヴィスが国民的スターになる前に交わされた、1回の出演につき500ドルという契約じゃ。そんなはした金でエルヴィスを出演させられるとでも思っとんのか、あほんだら!」
 とりあえずエルヴィスはステージに向かい、大佐とプロモーターは何らかの折衷案によって和解したという。しかしこの一件は、1950年代において以降エルヴィスがテキサスでライブを行わなくなった原因のひとつとされておる。
 
 またスコッティ、ビル、DJの3人とパーカー大佐とのギャラに関するトラブルが深刻化していた時期であり、彼らはこの日のライブの後、「このままでは生活出来ない」との理由で一時的にエルヴィスの元から離れることになった。ちなみに3人は、翌年10月5日から20日まで行われたコットン・ボウルでのミュージック・イベントに出演シンガーのバックバンドとして登場しておる。(エルヴィスの出演は無し)
 結局パーカー大佐は3人のギャラを週給200ドルからライブ毎に相応の額を払うことで彼らを再びエルヴィスの元に還らせるに至る。しかしこれは、時期的にエルヴィスの徴兵が近づき、ライブの回数が激減していくことを見込んでの大佐の悪知恵に過ぎなかった。

 コットン・ボウルはその後もテキサス州最大規模のフットボール会場、コンサート会場として稼働し続けておる。様々な事情により観客席は増設、減設が繰り返されたが、現在は76,000人収容可能。

 歴代でもっとも有名なミュージック・フェスは、2004年6月に3日間開催されたエリック クラプトンのクロスロード・ギター・フェスティバル。カルロス・サンタナ、ジョー・ウォルシュ、J・J・ケイル、ロバート・クレイ、バディ・ガイ、BB・キング、ヒューバート・サムリン、ジミー・ヴォーン、ジェームス・テイラー、ヴィンス・ギル、ダン・ティミンスキー、ジョン・メイヤーらが参加した。右写真はストリートビュー2022年4月撮影。


ボニー&クライドゆかりのクラブにエルヴィスは出演していた!
Area No.30/Serial No.297 ラウンドアップ・クラブ跡地/ダラス
 エルヴィスが出演した200ヶ所を越える1950年代のライブ会場の中で、デビュー当時の月日もあやふやな小さなクラブを除けば、現在もっとも情報が無い会場のひとつが、このラウンド・アップ・クラブかもしれない。ネットで何度も検索してみたが、エルヴィスの出演月日と会場名以外はなぁ~んも出て来ない!
 唯一文章らしき情報が僅かに掲載されておったサイトがSMW。このラウンド・アップ・クラブにエルヴィスは1955年4月16日、9月3日に出演しておる。それは1955年に8回も出演したスポータトリウム(2022年テキサス州後編/Area No.22/Serial No.188)でのライブの後、同日深夜の出演じゃった。スポータトリウムとラウンド・アップ・クラブは約1キロしか離れていなかった。
 左写真左側はクラブの新聞広告、右側はエルヴィスが出演することを告げる1955年9月3日の広告。
 
 SMWに掲載された文字情報はたったの2行ではあるが、その中にスルー出来ない情報が記載されておった。それはラウンド・アップ・クラブは、1930年代全米に悪名を轟かせた凶悪強盗カップルのボニー&クライドがたむろしていたという伝説が残っておるスピークイージー的なナイトクラブだったことじゃ。
 「俺たちに明日はない」等の数多くの映画に描き出されたボニー&クライドは、ロックやポップスの中でも歌詞の題材として際限なく取り上げ続けられておる。「勇気ある者は盗賊になれ」と囁かれた1930年代の禁酒法時代にあって、殺人を犯しているとはいえ、その鮮やかな窃盗手口と逃走劇から彼らを“庶民のヒーロー”と書き立てる新聞もあったブラック・ヒーローじゃった。彼らが出入りしていたという悪名高きレッテルが貼られているだけに、ラウンド・アップ・クラブは決して品の良い夜の社交場であったはずはないじゃろう!もちろん、ボニー&クライドとエルヴィスは何の関係もないが。

 

 驚くことに文字情報がほぼ皆無だったにも関わらず、ラウンド・アップ・クラブ内で撮影されたというエルヴィスの写真をネット上で3枚発見。内1枚はクラブ内の客席で同席者たちと寛いでおるショットじゃ。(上写真左側)ちなみにこの写真の掲載サイトは、イタリアのエルヴィス・ファンの私設サイトじゃ。写真の出処は一体どこなんじゃろうと大いに気になる1枚じゃ。女性2人はエルヴィス・ファンのお客としても、男性3人は地元のワルソーな輩に見えないこともないな(笑)
 ラウンド・アップ・クラブがいつまで存在していたのかは、まったく不明。エルヴィスが以降も訪れたのかどうかも、もちろん不明。
 唯一、残された新聞広告に記載されていたアドレスから所在地だけは判明。跡地に立っているビルは長らくテナントは入っていないようじゃ。(右写真ストリートビュー2022年3月撮影)
ネット上では詳細がほとんどワカランエルヴィスの足跡を見付けるたびに、キョーレツに現地調査をしたくなるもんじゃ(笑)


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