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(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。) |
前3回にわたってアメリカ合衆国北東部/東海岸の最大都市ニューヨーク市を含むニューヨーク州をご案内してきた「バーチャル・ロックンロールツアー」。今回からはニューヨーク州の東に位置する“ニューイングランド”と呼ばれる地域へご案内致そう。 ニューイングランドとは、左地図内でピンク色で塗った6つの州を示すんじゃ。15~16世紀にイギリスから新天地を求めてアメリカ大陸にわたってきた白人たちが、この地域を新しい国(アメリカ)を作るための土台としたことから“ニューイングランド”と呼ばれておる。 実はエルヴィスと二ューイングランドとの関係は非常に希薄じゃった。1950年代は一度もライブを行っておらず、ニューハンプシャー州とバーモント州を除く4つの州において1970年代に各州1~2ケ所ほどがツアースケジュールに組み込まれていたに過ぎない。 よって、ライブ会場以外の“ゆかりの地”も少ないので、他地域同様にツアーを楽しんで頂けるかどうか心配ではあるが、“番外編”的な場所も少しばかりネット網の中からすくい上げてみたので、大都会ニューヨークの余韻に浸りながらのんびりと車窓を眺める気分でご覧頂きたい。 今回のニューイングランド地方前編は、メイン州とマサチューセッツ州(上地図赤丸部分)へのご案内と致そう。なお、ニューハンプシャー州とバーモント州(上地図赤×印部分)は、ネット上でエルヴィスの足跡がまったく見付けられなかったので「バーチャル~」ではスルー致します。 |
【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地 第37回 ニューイングランド地方前編 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。 ・Area No.は州内での番号、 Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。 |
【メイン州】 Area No.1/Serial No.279 オーガスタ・シビック・センター/オーガスタ Area No.2/Serial No.280 シェラトン・イン/ポートランド Area No.3/Serial No.281 ポートランド・インターナショナル・ジェットポート /ポートランド Area No.4/Serial No.282 カンバーランド・カントリー・シビック・センター/ポートランド 【マサチューセッツ州】 Area No.1/Serial No.283 ファースト教会/サンドイッチ Area No.2/Serial No.284 ボストン・ガーデン跡地/ボストン Area No.3/Serial No.285 スプリングフィールド・シビック・センター/スプリングフィールド ★ 本文中の表記について ★ ←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」 EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト) |
メイン州の伝説となった、1977年度のベストライブ! Area No.1/Serial No.279 オーガスタ・シビック・センター/メイン州オーガスタ シビック・センター運営者の供述によると、エルヴィス招致の為に3ヶ月間にわたってエルヴィスのエージェントへ手紙を書き続け、電話をかけ続けたという。最初はまったく無視され続けたので、「メイン州までの航空運賃の負担」という条件まで出して、エージェントを口説き落としたらしい! メイン州初のライブスケジュールが発表されると、やはりそれまでエルヴィスのライブが行われていなかったお隣のニューハンプシャー州、そのまたお隣のバーモント州まで巻き込む騒動になり、各チケット売り場には発売日前夜から大勢の徹夜組が殺到し、会場のキャパいっぱいに用意された約8,000枚は約2時間で完売!これは数年後にオンラインでチケット販売が開始されるまでのメイン州のチケット最速完売記録だったという。(下写真、左、中央の新聞記事参照) またどういった調査の結果なのかは分からんが、チケットを入手出来た者の3分の2はメイン州以外の州からやって来たファンだったという。そのために「チケットを入手できなかった多くのメイン州のファンの心情を察すれば、今後はライブ開催州の州民が優先的にチケットを入手できるシステム、例えば購入時の身分証明書提示の義務付け等を検討するべきだ」という新聞のコラムまで登場した! 好不調の波が激しかった最晩年のエルヴィスのライブじゃが、この日はエルヴィスの機嫌も体調もよく、会場に集まった8,000人のファンは大喜びだったという。ライブの出来不出来は別として特筆すべきライブのレビューを数多くアップしておるサイト「エルヴィス・イン・コンサート」(以下EPC表記)でもこの日のライブ模様は掲載されており、「曲によっては1977年最高の出来」「全体的には1977年ベスト3に入るライブ」と評しておる。 スリードッグナイトの1972年のヒット曲「Never Been To Spain」のカバーでは、“Spain”を“Maine”に変えて歌うなど、エルヴィスの軽いユーモアやジョークも終始冴えておったという。 当時の会場警備員の当日の供述もネットに上がっており、ライブ終了後に会場を後にする際、エルヴィスは警備員全員に丁寧に御礼を述べるほど上機嫌だったという。「我々警備員たちに“皆さん調子はいかがですか”“今夜はありがとうございます”とエルヴィスは確かに言ったよ。だから彼は我々にとって永遠にキングなんだよ」 オーガスタ・シビック・センターは、現役のイベント会場として現在でも稼働中。メイン・ロビーにはエルヴィスが出演した日を刻するプレートが壁に埋め込まれており、今も来場者たちを迎えておる。(右上写真) 左写真はストリートビュー2023年5月撮影。開場当時の写真と比較すると、周囲の草むらは整備されたものの、建物の外観は現在でもほとんど変化していないようじゃ。 |
ドキュメンタリー「This is Elvis」にも登場するメイン州唯一の宿泊ホテル Area No.2/Serial No.280 シェラトン・イン/メイン州ポートランド 上記オーガスタ・シビック・センターでのライブの夜、1977年5月24日にエルヴィス一行が宿泊したホテル。当時のオーガスタにはエルヴィスが宿泊するに相応しいホテルがなかったらしく、オーガスタから車移動で約1時間(約100キロ)も要するポートランドという街にあるこのホテルが用意された。 オーガスタでのライブは午後10時からスタートして終了は日付が変わる直前であり、エルヴィスがシェラトン・インに戻ってきたのは深夜遅くだったということになる。翌25日にはメイン州の西側約800キロに位置するニューヨーク州ロチェスターでのライブが予定されており、このシェラトン・インがメイン州の空港(ポートランド・インターナショナル・ジェットポート~Area No.3にてご案内)にほど近いことも選ばれた理由だったのじゃろう。正面入口にあるメインボードには「WELCOME ELVIS~」のメッセージが見える!(左写真) エルヴィスは既に1977年8月17、18日にポートランドでのライブ(メイン州で2度目のライブ)スケジュールが発表されており(このライブ会場についてはArea No.4にてご案内)、この両日もシェラトン・インがブッキングされておったが、エルヴィスが亡くなったことにより再度の宿泊は実現しなかった。 エルヴィスの死後、1981年に公開された「This Is Elvis」なる短編ドキュメンタリー映画の中で、このシェラトン・インが約50秒間紹介されておる。胸に“Elvis”のロゴが入ったジャンパーを着たツアースタッフたちが、エルヴィスが泊まる部屋に衣装やドリンク用のアイスボックスを運び込んだり、部屋の窓に銀色のシートを貼り付けたりするシーンを見ることが出来る! また恐らくパパラッチの撮影じゃろうが、翌朝早くホテルを出て空港に向かうエルヴィスの姿や(下写真3枚)、チェックアウト後のお部屋の写真(右写真)も残されておる。 シェラトン・インはその後経営母体が変わり、現在はダブル・ツリー・バイ・ヒルトンと改称されているものの、エルヴィスが宿泊した当時と外観も形状もほとんど変わっていない。 ただし、現在はまったく同じ形状のホテルが隣にもう1棟立てられたツイン・ホテルになっており、エルヴィスは南側の旧棟に宿泊した思われる。左写真はストリートビュー2019年6月撮影。(パパラッチが撮影したと思われる上写真3枚の場所はストリートビューでは確定出来ず) なお、シェラトン・インから北へ約8キロ移動した位置にある「ケンタッキー・フライド・チキン」の店舗でも、シェラトン・イン同様の「エルヴィス歓迎」メッセージを店先に掲げておった。(右写真)これもまた「This is Elvis」の中で登場する。実際にエルヴィスとパーカー大佐が利用したかのようなメッセージじゃが、真相は不明じゃ。 この店舗は今でも営業しておるが、Google-mapのレビューを見るとすこぶる評判が悪いようじゃ。「エルヴィス歓迎」を掲げた栄えある歴史を現スタッフに伝えたら、少しは真面目に働くようになるかもしれん!?(参考までに場所はこちら) |
時代のタイムラグが生んだ、哀しきウェルカム・メッセージ
Area No.1でご案内した通り、1977年5月24日、僅か1回しか開催されなかったメイン州でのエルヴィスのライブ。実は8月17日からスタートする予定じゃった同年2度目のツアーはメイン州ポートランドからだったのじゃ。 エルヴィスの再訪が翌日に迫った8月16日、メイン州のエルヴィス・ファンたちは「エルヴィス死亡」のニュース(死亡した15日の翌日発表)に激しく打ちひしがれた。そんな不幸なファンの涙を今でも誘う、メイン州では有名な写真がある。 それはエルヴィス死亡のニュースを知る前、8月16日午前中に、エルヴィスが翌日到着する予定のポートランドの空港のフェンスに「Welcome Elvis~」のメッセージを貼り付けている親子の様子を捉えたショットである。(左写真) これはエルヴィスがやって来るはずだった17日に発行された地元の新聞に掲載された写真じゃ。この親子はわざわざ空港側にメッセージの貼り付け許可を願い出て、正式に貼り付け位置の指定まで受けておったというから、空港側もまた「エルヴィス歓迎」の準備を嬉々として進めておったに違いない。 皮肉なことに親子が貼り付け作業をしている時点で既にエルヴィスは死亡しており、写真が掲載される翌17日発行の新聞が印刷されておる最中に「エルヴィス死亡」のニュースがメイン州に届いたのである。そして、17日に“今日エルヴィスがやって来る。幼い子供も待っている!”という記事が掲載されたままで新聞が発行されてしまった。情報伝達スピードが格段に早くなった現代のインターネット社会では起こりえないことではあるが、エルヴィスの突然の逝去と当時ならではのタイムラグによって、この写真はファンの哀惜の涙を殊更熱くしてしまう1枚となったのじゃ Area No.2でご紹介した通り、エルヴィスは1977年5月25日にシェラトン・インからポートランド・インターナショナル・ジェットポートへ移動してから次の公演地に向かったが、空港にとっては“エルヴィスが使用した”という事実以上に、エルヴィスとの永遠に色褪せない繋がりを証明した写真でもある! 先述の通り、メッセージを貼り付けた親子は、空港側から正式に許可をとっており、空港側が指定した貼り付け位置は、写真が掲載された新聞によると、“Johnson Road側”とのこと。下写真右側が空港全体の航空写真であり、赤丸印部分がJohnson Road側。下写真左側が赤丸印部分のストリートビュー写真。(2019年6月撮影) 航空写真赤丸位置からJohnson Roadを南に約1キロ下った位置にエルヴィスの宿泊予定だったシェラトン・インがある。空港側も、エルヴィスが到着便の機内からメッセージを発見出来なくても、車で空港からシェラトン・インに行く際にJohnson Streetを必ず通り、メッセージを見ることが出来ると予測してこの位置を指定したに違いない。 |
1977年8月17日、エルヴィスのツアーが再開されるはずだった会場
エルヴィスが亡くなった1977年8月15日時点で、8月17日からスタート予定のツアー会場は約10ヶ所ほど公表されておった。現在ネットで確認出来る各情報は微妙に異なっておるが、スタート直後の8月17日と18日はメイン州ポートランドのカンバーランド・カントリー・シビック・センター(左写真)がブッキングされておったことは間違いなし。この両日のライブを待ち侘びていたファンが、今も大事に所持している未使用のチケット画像が多数ネット上で拝見出来る。 カンバーランド・カントリー・シビック・センターは、予定されていたエルヴィスのライブの半年前に会場した当時は真新しい会場であり、2日間のライブのチケット約12,000枚は完売状態だったそうじゃ。 8月17日当日、既に「エルヴィス死亡」のニュースが全米を駆け巡っていたものの、会場側は正面入口に「ELVIS TONIGHT 8:00 pm」の告知看板を掲げた。(上写真右側))さも何もなかったような、さもエルヴィスが生きているようなこの会場側のアクションには、今更ながらにじぃ~んとくるな。ファンの心情を慮り、とても「ライブ中止」の告知は掲げられなかったのじゃろう。 エルヴィスが死亡したというニュースが広がり始めると、人々は自発的にこのライブ予定会場に現れ、ロビーを歩き回ったという。会場のマネージャーのマーク・ワーナー氏はその時の模様を次の様に供述しておる。 「人々はメモ、花、写真など、あらゆる種類のものをロビーに残していきました。それから数日後、私たちは会場でエルヴィス追悼式を行い、ステージには彼の大きな肖像画が掲げられました。彼の音楽がバックグラウンドで流れていて、人々はただ入ってきて座っているだけでした」(右写真左側) なお会場側は、余分に印刷したチケット約200枚を、以降会場に出演したミュージシャンの中でエルヴィスのファンがいたならば、出演記念としてプレゼントしておったという。追悼式にせよ、チケットのプレゼントにせよ、「ここにエルヴィスが出演するはずだった」ということを一人でも多くのエルヴィス・ファンに伝えたいという会場側の切なる願いが伝わってくるというものじゃ。 カンバーランド・カントリー・シビック・センターは、幻に終わったエルヴィスのライブ日程の後に実現した最初のビッグ・ロッカーのライブはイギリスからやって来たクイーンじゃった。現在ではクロス・インシュアランス・アリーナと改称して現役のイベント会場として稼働しておる。 「ELVIS TONIGHT 8:00 pm」の看板を掲げた正面入口付近は改装工事によって形状が大きく変化しておるのがちょっと残念。左写真、ストリートビュー2018年7月撮影。 |
ゴスペル・アルバム「ゴールデン・ヒム」のアルバムカバーを飾った教会 Area No.1/Serial No.283 ファースト教会/マサチューセッツ州サンドイッチ メイン州の南に位置するマサチューセッツ州は、幾多の高名な工学博士を輩出しておる超一流理科系大学マサチューセッツ工科大学がある州じゃ。また州都ボストンの名を冠するロックバンドが70年代後半から80年代前半に世界的な人気を博し、ギタリストのトム・ショルツがマサチューセッツ工科大学出身者であることがオールドロックファンの間では有名じゃ。 さて、マサチューセッツ州とエルヴィスの関わりじゃが、意外な場所からご案内していこう。1967年、「カムバック・スペシャル68」のアルバムを先送りにしてまで発表した、エルヴィスが全曲ゴスペルを歌い上げたアルバム「ゴールデン・ヒム/How Great Thou Art」のジャケットを飾ったファースト教会じゃ。 実際にエルヴィスがファースト教会を訪れたという記録は見つからないし、何故アルバムカヴァーに教会の写真が使用されたのかも不明じゃ。しかしこのアルバムを紹介しているサイトの幾つかの中で、カバーデザインが検討される段階になってエルヴィスが真っ先にこの教会の名を挙げたとされておる。 教会の歴史を簡単に調べてみると、設立は1638年と大変に古く、アメリカ合衆国が建国される以前から存在しておった。名称のファースト(First)とは、社会的立場や人種に関係なく、すべての人に対してオープンであることと、その方針を積極的に肯定することの両方を意味するとか。そうした極めてリベラルなスローガンを初めて掲げた教会という意味も含まれておるのかもしれない。教会の歴史を知っていたエルヴィスがゴスペル・アルバムのカバーに写真の使用を希望しても不思議ではないな。 このアルバムはエルヴィスに初めてのグラミー賞をもたらした大ヒットアルバムになり、この類のアルバムのレコーディングに難色を示し続け、エルヴィスの申し入れを何度か却下していたRCA側も大喜び! 更に大ヒットによってファースト教会の名は一気に全米に広がり、訪れる観光客も激増して“アメリカでもっとも写真撮影される教会”と呼ばれるようになった。現在、当地のツアーガイドは「ファースト教会」ではなく「エルヴィス教会」と呼んで観光客を案内しておるそうじゃ。 由緒正しい教会だけに写真撮影には制限があるようで、印象的な尖塔を含む外観の写真のみネットで閲覧可能。教会内に入ると「ゴールデン・ヒム」のLPジャケットが綺麗に額装されて飾られているという。 あまりにも歴史が長いだけに、今まで何度も改修工事行われてきたファースト教会は、時に「エルヴィス慈善財団」に改修工事費の援助を申し入れたこともあるそうじゃ。 ストリートビューで現状を確認すると、「ゴールデン・ヒム」のカバー用に撮影された時点と外観はほとんど変わりなく改修されておるようじゃ。(左写真はストリートビュー2019年1月撮影) 周囲に高層の建物がまったく無いだけに、数マイル先からでも教会の白い尖塔を肉眼で確認出来る美しき道標の役割も担っておる。 |
エルヴィスは、自分の名声、成功、偉大さに対して保険をかける必要のない 世界で唯一のエンターテイナーである Area No.2/Serial No.284 ボストン・ガーデン跡地/ボストン 1970年代初頭のライブの最高峰!として名高いボストン公演、それは1971年11月10日ボストン最大のイベント会場(収容人員数約16,000)だったボストン・ガーデン(左写真)にて披露された。“ブラック・トルネード”(黒い竜巻)とも呼ばれたこの日のライブは、ステージ写真からもお分かり頂ける通り、エルヴィスはブラックのジャンプスーツに身を包み、ときにはレッド・ベルベットのマントを翻しながら絶好調で歌いまくった。そのビジュアルは溜息が出るほどカッコいいですな~♪ 当時ローリング・ストーン誌で音楽評論家として健筆をふるっていたジョン・ランドゥ氏がこの日のライブを鑑賞しており、素晴らしいレビューを書き残しておる。ジョン・ランドゥ氏は、後にブルース・スプリングスティーンのデビュー直後の快進撃に対して、「私はロックンロールの未来を見た!それはブルース・スプリングスティーン!」という名言を発したライターでもある。 わしは学生時代にローリング・ストーン誌のレコードレビュー集の翻訳本を入手して彼の評論を読みまくったことがあるので、ボストン・ガーデンのレビューを一部ご紹介しておきたい!それらは「エルヴィス・プレスリーを讃えて」というタイトルで書かれたものじゃ。演奏曲毎のレビューは個人的な好き嫌いの感情が入り混じるので、この日のライブ・ショー全体からジョン・ランドゥ氏が見たエルヴィス像の描写をピックアップしておくぞ。 「プレスリー、あるいはキング・エルの今の姿。エルヴィス(以下、「彼」表記)の演技の素晴らしさは、彼を王族として表現していることにある。彼は、自分の名声、成功、偉大さに対して保険をかける必要がない世界でただ一人のエンターテイナーである」 「ビートルズの方がもっと人気があったかもしれないが、彼らはグループだった。彼は観客と純粋な一対一の関係に参加しており、ステージに上がると、アメリカのスターシステムの中核である躁的で制御不能で不合理な賞賛の対象となれるのは彼だけだ」 「ボブ・ディランがロックンロールを貫いたとき、彼は聴衆の側に過去よりも大きな許容量を想定する、より自由なアプローチを先導した。しかし、エルヴィスは依然として古いスタイルを保っている。彼には聴衆がいて、聴衆には彼がいて、彼は聴衆を愛し、聴衆も彼を愛している。そして彼の目的は、彼らを喜ばせることで自分を喜ばせることであり、決して自分自身を喜ばせることで彼らを喜ばせることではない」 「彼の31本の映画は彼に十分な試練を与えたので、今日私たちが彼を見るとき、私たちは最初にミュージカルコメディ俳優を見、その後純粋なミュージシャンを見ているようだ。彼がその才能と、非常に個人的なある種の威厳の投影を組み合わせると、その結果、美しく仕上げられた現代のページェントが生まれるのだ」 「彼がコンサートで明らかに望んでいないことの一つは、制御されない感情の表出である。彼は以前にはそれらを持っていて、それらを引き出す方法を知っており、望めば今でもそれらを表現することができるが、それらが起こらないように自分のパフォーマンスを見事にコントロールしている。それらは彼を怖がらせ、彼が対処できない自分自身の概念へとさらに追い込んでいる。彼は人々に楽しんでもらいたいし、彼らと一緒に楽しみたいと思っているのである」 「彼は過去を振り返らず、成長を止めていない。15年前と同じように、彼はアメリカの大衆文化を純粋に反映している。彼は一方では粗野で、過剰で、虚栄心があり、ナルシストで、暴力的である。もう一方では、信じられないほど有能でプロフェッショナルで、気取らず、爽快で本能的で、生来の肉体的で、可能な限り最も自然で個人的な意味で才能に恵まれている」 「すべては彼自身の栄光のためなのだ。ステージ上のすべての人、すべての衣服、すべての楽器、照明、マイクは小道具である。彼ら(バックメンバー)がソロを弾くのは、音楽のためではなく、効果のためなのだ。効果の積み重ねがエルヴィスの芸術の核心である。その成功により、彼はアメリカン・ミュージカル・コメディの数少ないツアー実践者の一人となった」 う~ん・・・分かるようで分からん部分もあるけれど、凄腕ライターにここまで賞賛記事を書かせてしまうのだから、この日のライブがいかにグレイトであったかを思い知らされるってもんじゃな。 中にはチャーリー・ホッジ君の描写もあったぞ(笑) 「かわいそうなチャーリー・ホッジ。でもエルヴィスは『彼は私に水とスカーフを運んできてくれます』と聴衆にきちんと紹介している」 エルヴィスが常にサポートメンバーへの気遣いを絶やさないことも、ジョン・ランドゥ氏はしっかりと見ていたのじゃ。 ボストン・ガーデンは地元NBAのセルティックスの本拠地会場でもあり、仮にセルティックスが劣勢でも試合終盤になると奇跡的なプレイが続出して劇的な逆転勝ちを収めることでも有名であった。相手チームからは“ボストン・ガーデンには魔物がいる”と恐れられたそうじゃが、1971年11月10日は、神様はセルティックスではなくてエルヴィスに奇跡をもたらしたのかもしれない! その後ボストン・ガーデンはセルティックスの本拠地、大型音楽イベント会場として繁栄したものの、建物の老朽化から1993年に閉鎖、1995年に取り壊しとなった。もともと鉄道駅North Stationを内包する大型ビルであり、現在建物は完全に造り替えられて、North Stationのステーションビルとして稼働しておる。(右写真はストリートビュー2020年11月撮影) |
チケット販売中に追加公演3回決定! Area No.3/Serial No.285 スプリングフィールド・シビック・センター/スプリングフィールド 当初は1975年7月14日1回のみのライブスケジュールが発表されていたため、チケットの完売スピードが猛烈だったという。発売開始12時間前から、唯一の販売場所であったシビック・センター前に長蛇の列が出来、用意された約5,000枚のチケットは数時間以内に完売。シビック・センターのマネージャーは急遽パーカー大佐に翌日の追加公演の要請をして了承を得たものの、そのチケットも同じく猛スピードで完売。 さらにその翌日も2回目の追加公演を要請したものの、その日はコネチカット州でのライブが既に決定していたために断念し、代わりに翌1976年7月29日のライブ開催契約が交わされたという。さらに1978年2月のライブまで事実上の開催契約が交わされていたらしい! マサチューセッツ州を含むニューイングランド地方では1950年代にライブが一度も行われていなかったこともあり、1970年代のライブチケットの売れ行きはどこも凄かったようじゃが、中でもこのスプリングフィールドでは殊更チケット争奪戦がヒートアップしておったのじゃ。 ここに掲載した写真は、モノクロ、カラーともに1975年7月14日のライブ。観客の中には小さな子供や、杖をついた高齢者、もちろんステージに押し寄せる若い女性もおり、会場関係者は「チケット販売時も含めて、来場した全てのエルヴィスファンの身の安全を守るために、とにかく疲れた」と仰ったとか! 肝心のステージは、エルヴィスは終始ご機嫌で好調!必死でチケットを買い求めた大勢のファンの期待を裏切らないハイ・クオリティのステージじゃった。 ステージまで突進してきた女性ファンから薔薇の花束を渡されるシーンが、この夜のライブの盛況を物語っておるな。当時の新聞記事は、「最高のキング・ショー!唯一残念だったのは“ラブ・ミー・テンダー”がセットリストに入れられなかったことだ」と評しておる。 参考まで、7月14日のライブ写真は長らくバックメンバーが写っていないショットばかりだったそうじゃが、上写真右側の赤い衣装のチャーリー・ホッジまで写っているこの日のショットは割と最近見つかったんだとか!(トリミングされてエルヴィスのみ写っておるショットは有り) スプリングフィールド・シビック・センターは、エルヴィスが出演した当時の収容人員数は約5,000じゃったが、後に約8,000まで増設。現在はマス・ミューチュアル・センターと改称されて現役のイベント会場として稼働しておる。 Wikipediaでは何故かエルヴィスの出演記録が記載されておらんが、他の地元サイトには明記されておるので間違いなし!(左写真ストリートビュー2023年6月撮影)) |
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