|
(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。) |
ついにニューヨーク州に到達した「バーチャル・ロックンロールツアー」、今回は第2回目(中編)じゃ~♪50年代のエルヴィスはニューヨーク州でのライブはたったの1回(次回の後編でご案内予定)だけではあるが、ニューヨーク市発信の3つのTVショーに出演した関係で、また世に名高いエルヴィスの最初の随行カメラマンだったアルフレッド・ワートハイマー氏の登場もあり、数多くの写真や滞在記録が残されておる。 ニューヨーク市に残されたエルヴィスの様々な足跡を追うと、やはりニューヨーク市での体験は、エルヴィスがキング・オブ・ロックンロールに成り上がるためには必要不可欠だったことがよぉ~く分かるってもんじゃ。 今回は滞在ホテル、レストラン、写真撮影スタジオ、TVショー出演スタジオ、映画公開シアター等、ご案内するポイントの種類が全て異なるので、前編とはまた違った「エルヴィス・イン・ニューヨーク」を体験できるかもしれないので、引き続きお楽しみあれ! |
【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地 第35回 ニューヨーク州中編 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。 ・Area No.は州内での番号、 Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。 |
Area No. 6/Serial No.267 ワーウィック・ホテル Area No. 7/Serial No.268 ヒッコリー・ハウス・レストラン跡地 Area No. 8/Serial No.269 カーネギー・ホール・スタジオ“カルーソ・ルーム” Area No. 9/Serial No.270 ハドソン・シアター Area No.10/Serial No.271 ペンシルベニア・ステーション Area No.11/Serial No.272 パラマウント・シアター ★ 本文中の表記について ★ ←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」 |
エルヴィス・イン・ニューヨーク! Area No.6/Serial No.267 ワーウィック・ホテル ニューヨーク滞在中のエルヴィスを捉えたシンボル的ショットの舞台となった場所、それがワーウィック・ホテルじゃ!ロングコートを着てホテルのエントランスへ向かうエルヴィス(上写真左)、室内の窓から外界を眺めるエルヴィス(上写真中央)のショットが特に有名じゃな。 1927年開業のワーウィック・ホテルは、当時のアメリカで著名な実業家であり、メディア王の異名をとったウィリアム・ランドルフ・ハーストによって建てられ、ハーストの知人であるハリウッドスターや彼の愛人たちのための住居としても使用されていたニューヨークでもっともスターが宿泊するに相応しい場所じゃった。
エルヴィスは1956年3月のニューヨーク滞在から断続的に何度かワーウィック・ホテルに宿泊するようになり、上記2枚の写真撮影をしたアルフレッド・ワートハイマー(ご存知「エルヴィス21歳の肖像」のカメラマン)もこの時初めてエルヴィスの撮影をRCAから依頼されていたのじゃ。 エルヴィスとワートハイマー氏の初対面は、エルヴィスがニューヨークの宝石商からホースシューリングを購入したCBSスタジオ50のバックステージであり、その時も含めてニューヨークでの撮影時間の思い出を次のように語っておる。 「出会った当時のエルヴィスは、まだゴールド(レコード売り上げ50万枚)も達成しておらず(その1カ月後に達成)、無名に近い存在だった。それが写真を撮る上ではよかったんだ。エルヴィスの何が特別だったのかとよく聞かれたけれど、声が素晴らしかったこと、そして友達のように接してくれたこと、って答えてきたよ。彼は遠くからではなく3フィート以内の至近距離で撮ることを許してくれた。ポートレイト撮影では雰囲気を出すために広角レンズを使っていたんだ。おかげで被写体により近づくことができた。自分が弱いところを見せるとエルヴィスも弱さを見せてくれる。撮影は互いの個性が共鳴する瞬間だからね。どこに行くのも彼と一緒だった。バスルーム、部屋の中、眠りに落ちる瞬間も、目覚める瞬間も」 「多くの人がエルヴィスのことを田舎者でバカだと言っていたけれど、みんなが思うよりずっとエルヴィスは頭がよかった。いつも礼儀正しく『イェス・マム、イェス・サー』という具合だった。でも、それは南部の習慣だったかもしれない。自分のペースでものごとを進め、独特な目立つ衣類を身に着けた。細いベルトを何本か持っていて、バックルを横に移動させていた。スーツは、保守的な服装を好んだマネージャーのトム・パーカー大佐が着ていたのと同じ生地を使っていたと思う」 「現代では、有名人にこれだけの接触機会が与えられる(至近距離での撮影が許可されるということか?)ことはないだろうけれど、当時のエルヴィスはその辺の事情をよくわかっていなかったし、私もわかっていなかった。この写真(左写真)を撮ったとき、エルヴィスはニューヨークのホテルに泊まっていて、私はバスルームに入り込んだ。そのときエルヴィスが肌荒れに悩んでいてよく消毒をしていることや、ワセリンをヘアトニックとして使っていることを知った。背中に結構な数の吹き出ものがあったよ」 ワーウィック・ホテルは現在でも営業中であり、36階建ての堂々たる外観は未だに健在!SMWによると1989年時点ではエルヴィスが宿泊した部屋もそのまま稼働していた模様。(下写真左側)その後、エルヴィスルームは幾つかの他の部屋と併合されたとのこと。下写真中央は、ストリートビュー2022年8月撮影のエントランス。 なお、ワーウィック・ホテルに関する小さなエピソードとして、エルヴィスは1956年3月23日付けで、当時交通事故に遭って入院中のカール・パーキンスへお見舞いの電報を打っており、「ニューヨークではワーウィック・ホテルに宿泊する予定なので、何か困ったことがあったらホテルまで連絡してほしい」との文面を見ることが出来る!(下写真右側) |
エルヴィス(&大佐)も好んだ!?ブルーノート・ジャズハウス・レストラン Area No.7/Serial No.268 ヒッコリー・ハウス・レストラン跡地 エルヴィスのニューヨーク滞在記録を英字サイトで追うと、ほぼ例外なく「1956年3月17日エルヴィスは大佐とともにワーウィック・ホテルにチェックインした後、ヒッコリーハウス・レストランで食事を摂った」と記されておる。またサイトの中には、この日のみならずエルヴィスはニューヨーク滞在中に何度か同レストランを訪ねたという記述もある。 オールド・レストラン情報サイトにヒッコリーハウス・レストランの名は見当たらなかったので、ニューヨークのど真ん中にあった単なる人気レストランだったのだろうと侮りかけたものの、よぉ~く調べてみたら当時の超有名なジャズ・ハウス(兼レストラン)であった! 当時のニューヨークはロックンロールではなくてジャズ、それもブルーノート・レコードの最盛期に当たり、同レコード・レーベルから売り出された個性的なジャズミュージシャンが大活躍しており、ヒッコリーハウス・レストランはそのライブ会場として連日連夜大盛況しておったのじゃ!大佐はジャズなんぞ興味が無かったはずじゃから、恐らくエルヴィスがヒッコリーハウス・レストランに行きたがったのじゃろうな!まあ大佐はジャズだろうが何だろうが、お金になりそうなミュージシャンを探す目的はあったかもしれない!? ジャズ情報サイドから調査を進めたところ、ヒッコリーハウス・レストランには当時の錚々たるジャズ・ミュージシャンが出演しており、ライブ盤も何枚か世に出されておる。マニアの投稿によると、ステージの近くにキッチンがあったので、ライブ盤の中には、演奏の合間に食器が触れ合う音が入っているとか! ライブ盤発表記録の中からエルヴィスが訪れた1956年当時の録音盤があるかどうかチェックしたところ、アリマシタ!ユタ・ヒップなる女性ピアニストが残したライブ録音盤じゃ。(上写真右側)クレジットは1956年のみで月日のクレジットは無いので正確な日付は分からないが、ひょっとしたら観客の中にエルヴィスと大佐がいたのでは!って想像するとワクワクしてしまう(笑)you tubeにアップされておるんで、諸君も是非聞いてみてほしい! ちなみにわしは、1970年末期から80年代初頭にこの類のブルーノート・ピアノの生演奏を聞かせるジャズ・ハウスで長らくウェイターのアルバイトをしておっただけに、ヒッコリーハウス・レストランの実体を知って感慨もまたひとしお!? ヒッコリーハウス・レストランは、ブルーノート・レコードと盛者必衰の運命をともにし、1980年後半には閉店したという。現在跡地とその周辺は都市再開発の為に当時の面影はまったくなく、ストリートビューで見る限りでは無機質なビジネス街と化しておる。(右写真2021年6月撮影) |
セカンドアルバム・ジャケット写真撮影スタジオ Area No.8/Serial No.269 カーネギーホール・スタジオ“カルーソ・ルーム” カーネギーホールは、ご存知の通りニューヨークの音楽の殿堂と言われるコンサートホールじゃ。1891年に創設されて以来、マンハッタンの7番街57丁目の一角を占めるミッドタウンのランドマークであり、古くからクラシック音楽、ポピュラー音楽などのコンサートが頻繁に開催されてきた。かつてはニューヨーク・フィルの本拠地でもあった。(左写真は1930年代当時のカーネギーホール全貌) エルヴィスは意外なことにカーネギーホールに出演したことはなく、1970年代のニューヨークでのライブは、新しい音楽の殿堂となったマジソン・スクエア・ガーデンを使用しておった。恐らく収容人数約3,000人というカーネギーホールのキャパがエルヴィスの集客力にはるかに及ばなかったことが使用されなかった要因じゃろう。 しかしながら、カーネギーホールにおけるエルヴィスの足跡がひとつだけある。それはホール内にあった別称カルーソ・ルームというスタジオで、1956年1月に写真撮影が行われており、その写真の1枚がセカンドアルバム「エルヴィス!」のジャケットを飾ることになったのじゃ。 セカンドアルバムに使用された写真をはじめとした“カルーソ・ルーム”での撮影の詳細は長らく不明瞭ではあったものの、1994年3月22日発行の「Elvis the official collector's edition No. 11」に、カメラマンのデヴィッド・B・ヘクトのインタビューが掲載されたことによってある程度の事実が明らかになった。 “カルーソ・ルーム”とは、20世紀初頭にカーネギーホールに出演していたイタリア人オペラ歌手エンリコ・カルーソがリハーサルルームとして好んで使用していたことから付けられた別称じゃ。カルーソはこのスタジオ・スペースの音響効果が気に入っっており、RCAニューヨークから発表したレコードの録音もこのスタジオで行ったそうじゃ。 カルーソが使用していた時期から時が流れ、やがて写真撮影の場としてデヴィッド・B・ヘクト氏がほぼ専属で使用するスタジオになっており、エルヴィスは1956年1月26日もしくは27日にやって来て写真撮影に臨んだという説が現在のところ有力じゃ。 エルヴィスのカラー写真からお分かり頂けるが、背景にはこのスタジオ独特の“オーロラ”と呼ばれるスクリーン(ライティング?)効果が当時の業界でも人気だったらしい。超ワイルドだったファーストアルバムとは対照的なセカンドアルバムの色彩感は、このオーロラ効果から生み出されておった。なお、当日はカラー撮影だけではなく、モノクロ撮影も行われておった。(下写真)
ところで、カルーソ・ルームでエルヴィスがこのレッドブルゾンを着ているショットはまだまだ存在し、上記「Perfect for Parties」の他にレコードスリーブに使用されたショットもある。ヘクト氏は右のスリーブ写真については、「エルヴィスがこのようなカラーのジャケットを着用していた覚えはない。これは明らかに後ほどジャケット部分が着色されたはずだ」という写真マニア注目(?)の発言も残しておる。どうやらパープル・ブルゾンってのはエルヴィスは使用していなかったと判断してよかろう。 さてと、カルーソ・ルームご紹介の〆として、この撮影に関するヘクト氏のおもしろい回想録がネットにアップされておったのでご紹介しておこう。「大佐よ、あんたって人はまったくもう」って笑ってしまったがな!! 「私がエルヴィスとの写真撮影を終えてから 1 ~2 日後、パーカー大佐が結果を見るために私のスタジオにやって来ました。彼はすべてのフィルムを持ち去りました。どの写真を使用するかについて話し合うために、RCAの人々と会議を開くつもりだと言いました。 彼は私に、翌週RCAに連絡して契約を結ぶように言いました。RCAに電話したところ、撮影結果には満足しているが、支払いについては大佐に連絡するようにと言われました。当時の私はかなり世間知らずで、電話をかけるたびに大佐が外出中だという秘書の言葉を信じていました。しばらくして、彼が私とビジネスの話をしたくないことが明らかになり、私は彼が私の仕事に対してお金を払うつもりがないことに気づき始めました。彼がオリジナルのフィルムをまだ持っているかどうかは知りませんが、今日に至るまで、私はそれらのフィルムを見たことがありません。ビジネスのことなど気にしていられなかったエルヴィスは、きっとこの状況を知らなかったでしょう」 “カルーソ・ルーム”がカーネギーホール内の何処に位置していたかは未だ不明。エルヴィスの撮影が行われたという事実と“オーロラ効果”以外の記録としては、天窓があって太陽光が充分に入って来たという記述だけじゃ。カーネギーホール自体は現在でも稼働中なので、 “カルーソ・ルーム”の位置は現場に行って劇場関係者に問い合わせれば分かるに違いない。右写真はストリートビュー2022年8月撮影。 |
燕尾服のエルヴィスもクールじゃないか! Area No.9/Serial No.270 ハドソン・シアター エルヴィス史上、もっとも“屈辱的な”ステージと伝えられておるテレビ番組「スティーブ・アレン・ショー」が行われた場所、それがハドソン・シアターじゃ。(右写真)時に1956年7月1日、燕尾服を着せられたエルヴィスはお犬様を相手に「ハウンドドッグ」を歌わされたのじゃ。 映画エルヴィスにおいては、あの温厚なスコッティ・ムーアが「俺たちを何だと思っているんだ!」と、エルヴィスの母グラデスが「田舎者に燕尾服を着せて笑いものにしているのよ!」と怒り、地元メンフィスのラスウッドパークでの凱旋ライブではエルヴィスに「本当のエルヴィスを見せてやる!」と反逆のロックンロールショーを炸裂させた、その元凶がスティーブ・アレン・ショーと設定されておった。 現在ネット上でも「スティーブ・アレン・ショー」に関する記述は多岐にわたるが、要するにどれもこれも「エルヴィスはエド・サリバン・ショーとの視聴率争いに利用されたのだ!」との「エルヴィス擁護」「スティーブ・アレン非難」の論調ばかりじゃ。 今風の言葉で言えば、エルヴィスを見事に“ディスった”このスティーブ・アレンという人物、ちょっと調べてみたがただのテレビ司会者ではなくて、恐ろしく多面的なタレントじゃった。ラジオ・プレゼンター、作曲家、ピアニスト、コメディアン、作家、映画俳優として八面六臂の活動をしておったのじゃ。 それだけにプライドが高く、番組がスタートしたばかりの「スティーブ・アレン・ショー」において、何が何でも先輩格のエド・サリバンに勝たなければ気が済まなかったようで、また単なる視聴率の数字だけではなく、「世の大人たちの敵エルヴィス・プレスリーを手なずけてみせた」という評判まで勝ち得ようとした節が非常に強かったようじゃ。良識派ぶって面と向かってエルヴィスを非難するのではなく、一旦自分の懐に入れてから骨抜きにするという悪意に満ちた、悪知恵を駆使したプログラム、それが「エルヴィス・ディスり番組」だったのじゃ。 わしとしては、もう70年近い前の出来事じゃし、今更スティーブ・アレンを攻撃するつもりもなく、「真実はどうであれ、燕尾服のエルヴィスもカッコいいではないか!さすがエルヴィス!!」と言って〆ておきたい! スティーブ・アレン・ショー出演時のエルヴィスは多数の写真が撮影されており、現在ネット上で確認出来る写真は燕尾服を着ていないリハーサル時のショットの方が多い。当ページ上部のスライド写 真1枚目、右側のカラー写真もそのうちの1枚。(右カラー写真はスライド使用写真と同一) また下写真左、中央の2枚は、スティーブ・アレン・ショー当日午後1時、ハドソン・シアターに到着したエルヴィスと、シアターの前で4時間エルヴィスを待ち続けた女性ファン。 「ハドソン・シアターは、様々なイベント開催劇場、また一部ホテルにも改造されて現在でも稼働中じゃ。ストリートビューで見ると(下写真右側-2022年7月撮影)外装、外壁は往年のまま!周囲の摩天楼に圧し潰されそうになりながらも懸命に歴史を守り通しておるようじゃ。 |
エルヴィスとジーン・ヴィンセントが偶然遭遇した北米最大の鉄道駅 Area No.10/Serial No.281 ペンシルベニア・ステーション スティーブ・アレン・ショーの出演(上記Area No.9)を終えたエルヴィスは、1956年7月3日にニューヨークのペンシルベニア・ステーション(通称ペン・ステーション)から鉄道で地元メンフィスへ向かうことになった。ステーション構内、周辺でもアルフレッド・ワートハイマーのカメラがエルヴィスを追い続けており、印象的なショットが残されておる。 ペン・ステーションは1910年にオープンした北米最大の鉄道駅。多数の鉄道路線が乗り入れるこの駅の完成によって北米(または東海岸)とアメリカ南部間の移動がスムーズになり、アメリカ経済の推進に与える影響は大じゃった。現在でも毎日65万人の利用客で溢れかえっておるアメリカ有数のビッグ・ステーション、それがペン・ステーションじゃ。 よく知られたエピソードではあるが、エルヴィスがペン・ステーションを利用した7月3日、偶然にもエルヴィスはジーン・ヴィンセントとステーション構内で出くわした。この際にジーンは「ビーバップルーラ」の大ヒットによってエルヴィスを模倣していると評されていたことをエルヴィスに丁寧に謝ったらしいが、エルヴィスは快く「君の実力だよ」とジーンを祝福したという。 実にイイ話じゃけど、どうにも解せないのは、その時の写真が残されておらんことじゃ。片時もエルヴィスから目を離さなかったというアルフレッド・ワートハイマーは、この肝心な時に何をやっておったんじゃろう?フィルムの入れ替え?、うたた寝?、それともおトイレ?アルフレッドさんには大変失礼な言い方になるが、これは彼の大きなミステイクじゃなあ・・・。 ペンステーションはエルヴィスをメンフィスへ送り出したその10年後、1966年から大改装工事が行われることになる。それは第4代マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)との合体じゃ。工事は1968年に完了し、4代目MSGがオープンした時は鉄道駅は全て地下に移動されており、以降そのまま現在に至る。 この大規模な改装合体工事の為、エルヴィスが列車の到着を待っていた大きなホール(上写真左側)が現在のMSGのどのあたりに該当するのかが残念ながらさっぱりワカラン・・・。これはステーションの当時の見取り図でも入手しない限りは判明は不可能じゃろう。現在ストリートビューによってMSG内の写真が数多く見ることが出来るので、御覧になる方々それぞれにエルヴィスが立っていたと思われる場所を想像してみてくれ~。 左写真左側はストリートビュー2022年8月撮影のMSGおよびペンステーションの正面入口。左写真右側がMSG東側の巨大ロビー。 |
映画界でも伝説となった、映画「ラブミーテンダー」世界初“大熱狂”上映劇場 Area No.11/Serial No.282 パラマウント・シアター エルヴィス出演映画の記念すべき第1作目「ラブ・ミー・テンダー」は、1956年11月15日パラマウント・シアターで世界初公開された。エルヴィス自身がシアターに現れて映画上映前にステージでご挨拶、なあ~んて事は有るはずもなかったが、シアターには前夜から約1,500人ものファンが集まって公開を待ちわびるという映画史上前代未聞の事件が起きた! 初のエルヴィス映画公開を記念して、シアターの正面には高さ40フィートもあるエルヴィスの巨大フィギアがセットされ、序幕とともにシアター周辺には女性ファンたちの大声援が轟いたという!またシアター内にも等身大のパネルが置かれるなどパラマウント側も精一杯のファンサービスを行った。 ニューヨーク周辺のファンは、50年代にエルヴィスのライブを観る機会がほとんどなかったこともあり、写真でもお分かりの通り、映画上映中もライブさながらの大歓声、悲鳴が爆発!彼らにとってTVショー以外では初めて見る“動くエルヴィス”だっただけに、映画鑑賞を超越した熱狂ぶりもうなずける!っちゅうもんじゃ。 ところで、ニューヨークで映画ラブミーテンダーが大熱狂の内に封切られていた時、肝心のエルヴィスは何をしておったかというと、丁度その時期は約一ヶ月のバカンス期間であり、エルヴィスはメンフィスへ戻っておった。EDDによると、服やバイクを購入したり、お気に入りのミュージック・エンターテイナーだったリベランチェのショーに出かけておったようじゃ。 エルヴィス自身が「ラブ・ミー・テンダー」を劇場で鑑賞したのは、同年11月20日メンフィスでの「プライベート・ミッドナイト・ショー」(関係者のみの夜間鑑賞会)とされておる。母グラデスも鑑賞会に同席しており、エルヴィスの演じた役柄が命を落とすことに涙したそうな。 メンフィスでの「ラブミーテンダー」の興行成績も素晴らしく、初週収益540,000ドルというすさまじい記録を作ったという。この記録は、メンフィスでは長らく、同年末に公開されたジェームス・ディーンの遺作「ジャイアンツ」に次ぐ第2位であった! 1926年にオープンしたパラマウント・シアターは収容人員約3,500人を誇るニューヨーク有数の大型劇場として長らく栄えた。ニューヨークでスイング・ジャズのブームを迎えた時期には、長編映画上映とともにライブ会場としての機能も兼ね備えるようになり、ロックスターのエルヴィス出演映画の世界初上演の場所としてまさに申し分なし!エルヴィス自身がパラマウント・シアターに出演したことはないが、間違いなくエルヴィスの魂が息づいておる場所である! 1966年にシアターは閉鎖されてビルも取り壊され、ニューヨークタイムス運営の新しい商業ビルに変わってしまったので、跡地に往年の面影はなくなってしまった。 しかし21世紀に入ってオーナーが変わり、かつてのシアターのシンボルだったアーチとマーキー (パラマウントのロゴ) が復元され、現在ではハード ロック カフェの本部として機能しておる。建物の名称も「パラマウント・シアター」の名が復活した!(右写真はストリートビュー2022年8月撮影) |
バックナンバーを 御覧になる場合は 各バナーをクリック! |
- | |||||
GO TO TOP |