NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.413


第33回 エルヴィスゆかりの地
ニュージャージー州、メリーランド州、ペンシルべニア州

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)



 既に1年半以上にわたり続けてきた「バーチャル・ロックンロール・ツアー~エルヴィスゆかりの地」は、前回のワシントンDCに続いていよいよアメリカ東部、東海岸地域へ本格的に突入じゃ。まずは手始めに、ニュージャージー州、メリーランド州、ペンシルベニア州(上地図赤丸地域)へとご案内しよう。
 意外にもアメリカ東部、東海岸地域における1950年代のエルヴィスのライブは非常に少ない。ロックンロールという真新しい音楽文化やムーブメントがすぐに受け入れられる風土や、他の地域のように地道にツアーサーキットを続けていれば自然と周知されていくような庶民文化構造が希薄であり、列記とした歴史と老若男女誰もが確信出来る将来性のあるエンターテイメント以外はプロモーター側から認められない地域だったといえよう。希代のペテン師、いやいや、名マネージャーだったパーカー大佐も、この地域へのエルヴィスの売り込みにはかなり苦労し、戦略を練りぬいていたようじゃ。従って、今後のこの地域のツアーは、50年代と70年代とが混合したエルヴィスゆかりの地巡りになり、中にはエルヴィスの音楽とは直接関係のない場所へのご案内にもなるので、その点は予めご了承頂きたい。

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第33回 ニュージャージー州、メリーランド州、ペンシルバニア州

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

【ニュージャージー州】
Area No.1/Serial No.254
 マクガイア空軍基地
Area No.2/Serial No.255 フォートディックス
【メリーランド州】
Area No.1/Serial No.256
 コール・フィールドハウス/カレッジパーク
Area No.2Serial No.257 ヒルトン・ホテル/ニューキャロルトン
【ペンシルベニア州】

Area No.1Serial No.258 
 フィラデルフィア・アリーナ跡地/フィラデルフィア
Area No.2Serial No.259  フィラデルフィア国際空港/フィラデルフィア

★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」



 キングご帰還の地
Area No.1/Serial No.254 マクガイア航空基地・ニュージャージー州
 

 1960年3月3日、エルヴィスは約2年間の兵役を終えてアメリカ本土に帰国した。キング“ご帰還”の場所は、ニュージャージー州バーリングトン郡にあるマクガイア空軍基地であった。
 エルヴィスを乗せた軍用機は空軍基地に午前7時42分に到着。写真でもお分かり頂けるが(上写真3枚)、吹雪に見舞われて真っ白になった空軍基地にエルヴィスは降り立った。一応当日午前8時の気象状況を調べてみたが、バーリングトン郡の気象データはネットにアップされていなかったが、北西約100キロ離れたニューアークという街は、「気温マイナス5.6度、曇り、吹雪、東の風29.6キロ」であった!

 「キングご帰還」のお写真は、空軍基地内を歩く姿と、その後の記者会見の模様がネット上にかなりの枚数がアップされておる。記者会見の模様は場所がフォートディックスとされておる場合が多い。フォートディックスとは、空軍基地の敷地西側に隣接する陸軍駐屯地であり、1960年当時は空軍基地とは役割が異なっておったようなので、別の場所と認識しておいた方がよろしかろう。エルヴィスはまずマクガイア空軍基地に降り立ち、そこからフォートディックス(陸軍駐屯地に)へ移動してから記者会見が開かれた模様。(フォートディックス内の施設や空軍基地からの移動に関する詳しい情報はネット上は無し)

 

 それにしても、早朝の悪天候もなんのその!帰国したエルヴィスをいち早く見たいと集まった女の子たちの情熱が凄い!ライブの熱狂状態よりもわしはじ~んときてしまったわい。上下6枚の写真は有名報道ジャーナル「LIFE」のサイトから転用させて頂いたが、さすが「LIFE」!素晴らしいお写真、お仕事であ~る。
 エルヴィスは一度基地内の兵舎に入った後、記者会見のためにすぐにフォートディックスへ移動した模様。正式な除隊は2日後の3月5日じゃった。以降は陸軍予備隊所属扱いとなり、4年後の1964年3月23日に予備隊からも除隊となった。

なお、マクガイア航空基地のGoogle-map上の位置や現況は、下記Area No.2にてフォートディックスと併せてご案内しています。

 


ナンシー・シナトラがお出迎え!キング復帰のゴングは早くも鳴らされた!
Area No.2/Serial No.255 フォートディックス・ニュージャージー州
 
 フォートディックスでの記者会見で、エルヴィスは除隊することに対して素直に喜びを口にしておる。

「軍隊から出られるのは素晴らしいことです。おそらく大声で叫びすぎたら、あと2年は延長させられるでしょうね。歌ったり、旅行したり、映画を撮ったり、そして何よりグレイスランドで昔の友達たちに会ったりするのが待ち遠いよ」

 集まった報道陣から矢継ぎ早に様々な質問が浴びせられる中、なかなか冴えたジョークでエルヴィスが切り返す場面もあった。「あなたはもうすぐ陸軍から除隊されることになりますが、2年間の厳粛な陸軍生活でロックンロールに対する考えは変わりましたか?」なる少々意地悪な問いかけに対してエルヴィスの返答はこうじゃ。
「厳粛な軍隊生活?いいえ、そうではありません。私は長い間戦車に乗っていたので、その考えは変わりませんし、戦車はかなりロックンロール的です!」

 また何故か記者会見場に入り込んでいたティナ・クルーズという女優さんの「また思わせぶりな腰の動きをやるのですか?」という場違いな質問には、
「私がやっているのは思わせぶりな動きではなく、自然と出てくる動きですよ。ファンが望む限り変えるつもりはありません」
「私が動かないで歌わなければならないとしたら、それは私が道に迷ってしまうということです」

と真っ当な返答!(右写真)

 そしてこの記者会見には重要な発表が予定されておった。それは
エルヴィスが「フランク・シナトラ・タイメックス・ショー」に招待を受けて3月26日にシナトラと共演することじゃった。
 シナトラの娘であるナンシー・シナトラは、父親からの招待状とプレゼント(シルクシャツ2枚)をエルヴィスに渡すために、フォートディックスでエルヴィスの帰国を待っておった。(シナトラとの共演に関しては「バーチャル・ロックンロールツアー第8回フロリダ州後編Point-9 フォンテンブルーホテル/マイアミ」参照)
 注目すべきは、上写真で見られるように、当時まだ19歳だったナンシー・シナトラの堂々たるプレゼンターぶり!歌手として人気がブレイクする前であり、エルヴィスに会うのもこの日が初めて。それなのに大した“たま”じゃ。さすがは天下のシナトラの娘じゃのお~父からの命を受けて、なんら臆することなくキングに対峙しておる!

 (←)右マークは「マクガイア空軍基地」のGoogle-map上の位置。右下の同マークは「フォートディックス」の位置。
 両ポイントともに軍関連施設の為か、敷地内のストリートビューの撮影には制限があるようなので、代わりに航空写真を掲載しておこう。下写真右側がマクガイア空軍基地の敷地。写真下部分の白い写真が滑走路エリアで、エルヴィスはここで軍用機を降りたと思われる。赤丸部分のみストリートビューの撮影があり、下段写真が2018年3月撮影の滑走路。
 
 下写真左側が、空軍基地西側に位置するフォートディックスの航空写真。敷地内には数々の施設があり、何処でエルヴィスの記者会見が行われたかは不明。
現在、マクガイア空軍基地とフォートディックスは、併せて「マクガイア・ディックス・レイクハースト統合基地」と呼ばれておる。



重要なことは、今夜この男をステージに“立たせない”ことだった
 Area No.1/Serial No.256 コール・フィールド・ハウス/メリーランド州カレッジパーク
 1974年9月27,28日両日は、世界中のエルヴィスを愛するファンにとっては“あってほしくなかった日”であるかもしれない。一方世界中のエルヴィス研究家にとっては、研究題材の見地から興味が尽きない日であるかもしれない。

 9月2日に約20日続いた1974年度のラスベガス・ロングラン・ライブを終えたエルヴィスは、9月27日から北米/東海岸ツアーをスタートさせ、そのオープニングがメリーランド州カレッジパークじゃった。(左写真)しかし25日間の休暇明けにも関わらず、この日と翌28日のカレッジパークのライブはエルヴィス史上最悪と評されるライブ・ステージになってしまった。
 70年代のエルヴィスのライブ・レビューが数多く掲載されておる「Elvis Presley in concert」や時にマニアックに周辺情報を掘り下げておる「Elvis Information network」において、ほとんど演奏曲目毎のレビューを読むことが出来るが、もう読んでいて気が滅入る内容ばかりであり、事細かに「バーチャル~」に転用するのははばかられてしまったわい。
 この当時のエルヴィスは、毎年開催され続けるロングランのラスベガス幽閉ライブの激しいストレスと処方箋の誤用による薬物乱用から体調は最悪状態。その悪影響がもろに爆発してしまったのが、この両日のライブじゃった。

 メリーランド州では初めてのエルヴィスのコンサートだっただけに、両日ともに15,000人という大観衆が詰めかけた。しかし会場の音響効果は非常に悪く、「今、目の前にエルヴィスがいる」という事実だけで興奮している大観衆たちにはエルヴィスの絶不調のヴォーカルも大して聞こえていなかったようで、エルヴィスが何をやろうが何を言おうがオオウケ状態という悪循環になってしまったようじゃ。

 「ライブの何がどう酷かったのか」
この点については、音程が外れる。高音が歌えない。バックの演奏に合っていない。呂律が回らず、センスもないMCの連発。バックメンバーへの侮辱的発言等々、要するにシンガーの酷いライブ要素のオンパレードだったとだけわしから伝えておこう。唯一の救いとしては、観客や警備員を罵倒するまでの悪態はつかなかったことか。ライブの内容をより詳しく知りたい方は「Elvis Presley in concert」「Elvis Information network」両サイトをご自身で御覧頂きたい。
 またyou tubeにはオーディエンスの手による録音音源や映像がアップされておる。わしはエルヴィスに限らずブートレッグの類を辛抱強くチェック出来るだけの堪え性がないので大して見ても聞いてもおらんが、録音、録画状態は酷く、確かに観客の絶叫もすさまじくて解説する気も起きないので、興味のある方はやはりご自身でどうぞ。「Elvis sepetemeber 28 1974」のキーワードで検索するとヒットします

 映画エルヴィスのワン・シーンで、バックステージの通路で体調不良のエルヴィスがぶっ倒れて側近者たちが駆け寄り、医者が注射をするシーンがあったな。この日のライブ前の状況の再現シーンのようじゃ。またこの日のエルヴィスはライブ会場に到着したリムジンを降りた途端にその場にひっくり返ったという。慌てて駆け寄った側近者たちの手を振り払ったエルヴィスは何とか自力で立ち上がったものの、足元もおぼつかないほど体調は最悪だったようじゃ。
 映画ではパーカー大佐がやって来て「重要なことは、今夜この男をステージに立たせることだ」と周囲にげきを飛ばすが、実際はエルヴィスをステージに立たせられないほど危険な状態だったのじゃ。(左写真は、側近者に守られながらステージに向かう9月28日のエルヴィス)

 余談じゃが9月28日の観客の中には、エルヴィスのかつてのガールフレンドだったバーバラ・ハーン嬢がいた。you tubeで聞ける「バーバラ・ハーン・ラスト・インタビュー」の中で、彼女は淡々と「もう私の知っているエルヴィスではなかった」「エルヴィスは自分を見失っているように見えた」とだけ語っておった。
 インタビュワーも「あぁ、“あの日”のライブを御覧になっていたんですね」と返すのみで、最悪のライブを見てしまったバーバラ嬢の心情を慮ってか、それ以上のコメントはとっておらんかった。

 コール・フィールド・ハウスは現在でもスポーツ、コンサート・アリーナとして稼働中。メリーランド大学の広い敷地内にあり、Cole Student Activities Bldgという大学本部のある建物の北側に隣接しておる。右写真はストリートビュー2022年8月撮影。このビルの真裏に位置しており、現在の名称は「ジョーンズ・ヒルハウス」。


“トリップ中”のエルヴィスが警察官たちと“謎の記念撮影”
Area No.2/Serial No.257 ヒルトン・ホテル/ニューキャロルトン

 なにはともあれ1974年9月27日にメリーランド州初のライブを終えたエルヴィスは、ライブ会場コール・フィールド・ハウスから約15キロ離れたニューキャロルトンという街にあるヒルトン・ホテルに宿泊。このヒルトン・ホテルでの滞在中に、エルヴィスの奇妙な撮影写真が残されておる。翌28日同じくコール・フィールド・ハウスでのライブに出発する前に、当地の警察官たちと行った記念撮影じゃが、ライブの絶不調を物語っておるようにエルヴィスは顔色も表情もまったく冴えず、見ようによっては目の焦点すら合っていない。
 警察官たちは一体何のためにエルヴィスを撮影を申し込んだのじゃろうか?彼らはライブ会場の警備も担当して、前日のライブがあまりにも酷かったので、お見舞いにでも来たのか?それとも例えばエルヴィス薬物使用というきな臭い噂の尻尾でもつかみに来たのか?いずれにせよ、撮影に引っ張り出されたエルヴィスは気もそぞろのご様子で、写真を見ているだけで胸が痛くなってくる。
 エルヴィスの衣装もまた奇妙。ブラウンレザーの上下のようじゃが、似合う似合わないではなくて、とてもホテルでリラックスしている時の服装とは思えない。撮影用に急遽着用したのだろうかとか勘繰りたくなる。

 

 警察官たちだけではなく、エルヴィスの空手の指導者の一人だったエド・パーカーが一緒に写っておる写真があることもなんかイミシン。(上写真中央、左側の人物がエド))エドは数少ないエルヴィスの理解者であり、エルヴィスが心を許せる友人でもあったらしいが、そんなエドがこの日のエルビスの心身状態に気が付いていないはずがない。エルヴィスの死後、割と早い時期に「エルヴィスを殺したのは、食べ物でも薬物でもない。それはファンへの愛だった」という、「映画エルヴィス」の根本のテーマの様な誠実なコメントまで発表しておるエドが、警察官の撮影申込みに対して「彼らが何かを探っているにしても、ここはテキトーに彼らの申込みを受けておいた方が無難だぜ」とエルヴィスにアドバイスしたのか?いずれにせよ、あまり目にしたくないエルヴィスの写真ではあるが、メリーランド州での希少なエルヴィスのオフショットであることは間違いない。

 ヒルトン・ホテルは現在は経営者が代わり、「メトロ・ポインツ・ホテル」となっておる。予備知識のためにGoogle-mapレビューを覗いてみたが、近年の評判はあまりよろしくないようで。エルヴィスが本意ではない撮影を了承したという負の経緯が伝承されているってわけではないんじゃろうが。右写真ストリートビュー2022年8月撮影。




 エルヴィス黄金時代に唯一起きた、学生たちの「I hate Elvis事件」
Area No.1/Serial No.258 フィラデルフィア・アリーナ跡地/ペンシルベニア州フィラデルフィア
 

 史上最強のロックンロール・ハリケーンを巻き起こしたエルヴィスが行く先々で巻き起こす騒動は、ライブ会場の熱狂とともに枚挙にいとまがない。しかしその騒動のほとんどは、教育機関、宗教団体、市町村議会に携わる良識派を名乗った大人たちが起こした「反エルヴィス運動」だが、1957年4月5、6日両日に初めてペンシルベニア州で行われライブ前、そしてライブ当日に起きたフィラデルフィア・アリーナ(左写真)での事件は、地元の大学生たちが主役じゃった。

 ひとつは、地元フィラデルフィアの大学生たちが「エルヴィスの髪の毛を強制的に切る」という行計画を立てていたことじゃ。事件というよりは事件未遂、陰謀といった方が正確か。これは地元のデイリーニュースなる新聞が「親愛なるエルヴィスへ: 私たちはあなたの襲撃事件を阻止しました」というタイトルでライブ当日に学生たちの計画をすっぱ抜いた(?)ことにより明らかになった。
 記事によると、エルヴィス憎しの学生たちが、4月5日のライブ後の翌日深夜午前3~5時にエルヴィスの宿泊するホテルを襲撃して、エルヴィスの髪の毛を切って丸坊主にするという計画じゃ。学生たちが提供したと思われるエルヴィスを丸坊主にした加工写真(下写真左側)までご丁寧に掲載されておった。この計画の首謀者にどこそこで会って直に計画を聞き出したというコメントもある。
 なんだか目立ちたがり屋の学生たちが起こしたただの話題作りっぽいオハナシではあるが、ひょっとしてデイリーニュースという新聞側が企んだヤラセだったのかもしれない。
 その後5日のライブ前には、ザ・アリーナのバックステージにて地元も女子高生たちのエルヴィスへのインタビューが和やかな雰囲気の中で行われ(下写真中央)、また発売になったばかりの「Elvis Presley Game」なるカードゲームが地元の販売元からエルヴィスに手渡されるなど(下写真右側)、4月5日、6日それぞれ昼夜2回合計4回のフィラデルフィアのライブは滞りなく進行していった。
 

 ところが6日の夜のステージでは予想外の事件が起こった。今度は別の男子学生たち4人による「生卵事件」じゃ。「All Shook Up」の演奏中に4人の学生たちがステージに向かって生卵を投げつけたのである。ゴールド・ジャケットを着て熱唱中だったエルヴィスには当たらなかったものの(左写真)、生卵のひとつはスコッティのギターを直撃して卵の中身がギター内部に入ってしまったために演奏は数分間中断された。
 ステージに押し寄せるファンたちを普段は迷惑そうに阻止していた警察官たちも、この時ばかりは犯人拘束のために素早く行動!ライブに熱狂していた女の子たちの中には「あいつよ!あいつがエルヴィスに卵を投げつけたのよ!」と絶叫証言する者もいて、犯人4人は短時間のうちに取り押さえられたという。

 この騒ぎにもエルヴィスは特に動揺した様子はなかったものの、演奏中断中に開口一番「愚か者め!(Idiot)」と口走ったそうな。その後警察官に取り押さえられた犯人を見ながら
「アイツが卵を彼(スコッティ)のギターに投げつけたのか。まあ誰が投げたって、ヤンキース(の一員)にはなれないだろうな!He got egg on his guitar, Whoever threw that will never make the Yankees.」
と粋なジョークで会場を和ませたという。
 なおこのフィラデルフィアのライブは、初回ステージは会場の収容人員数(約6,500人)の三分の一程度しかお客が集まらなかったが、生卵事件が起きた4回目の最終ステージは約5,500人と初回の倍以上の観客数だったという記録が残っておる。

 「ザ・アリーナ」は当時フィラデルフィア最大の収容人員数を誇る屋内イベント会場であり、60年代後半にはジミ・ヘンドリックスやドアーズも出演したものの、1970年代に入ると新しいスペクトラムという会場がオープンしたこともあって衰退の一途を辿ることに。ボクシングの興行以外では特に利用される機会もなく、競売にかけられても買い手はつかずに建物は長らく放置されっぱなし。
 エルヴィスのペンシルベニア州でのライブは50年代はこの2日間のみ。70年代には数回同州でライブを行っておるが、この会場が使用されることはなかった。キングに対して起こした無礼な事件が罰当たりとなったのじゃろうな!
 その後建物は取り壊されて、周辺地域の再開発が終わった現在その跡地はタウンハウスの複合施設になっておる。(右写真ストリートビュー2023年4月撮影)
 なお跡地の住所はSMWでは46th Market St.とされておるが、正確には4530 Market St.である。


 機上の時間、それはエルヴィスのささやかなやすらぎの時だったのか?
Area No.2/Serial No.259 フィラデルフィア国際空港
 1970年代の凄まじいライブ・スケジュールをこなす為に、当然のことながらエルヴィスは飛行機を使って広いアメリカ大陸を移動し続けておった。自家用機リサ・マリー号を購入して使用するのは1976年からであり、それまでは既存の飛行機を一機まるごとレンタルしておった。
 場所柄撮影の規制はあったにせよ、飛行場でのエルヴィスの撮影は少なく、取り立てて名ショットと思える写真もない。そんな飛行場での撮影写真の中で、もっとも撮影枚数が多いと思われる場所がフィラデルフィア国際空港じゃ。(左写真1972年撮影の航空写真))

 まず1974年6月23日フィラデルフィア・スペクトラム公演の翌24日、ニューヨーク州ナイアガラフォールへ移動する時のショット。
 エルヴィスはナイアガラフォールでのライブ終了後、24日のうちに翌25日のライブ地オハイオ州コロンバスではなく、一旦フィラデルフィアに飛行機で戻り、25日になってからフィラデルフィアからコロンバスに向かった。よって25日の飛行場撮影もあるとのことじゃが、両日とも飛行機に乗り込む際の服装が同じなので、肉眼では撮影日の解明は難しい。

 

 下写真左側は、フィラデルフィアでの宿泊先だったヒルトン・ホテルを出て空港へ向かう際のショット。赤丸内は、この時に集まったファンから手渡されたピーナツバタークリームの瓶。下中央の写真は空港内でその瓶を持ったままのエルヴィス。よほどのお気に入りのブランドたったのであろうか!?下右側写真は同じく空港内の写真じゃが、ピーナツバタークリームの瓶を持っていた右手には何もなく、手を振っておる。瓶は側近に渡したのであろうか?なんてエルヴィス・ファンならではの(?)どうでもいいが楽しくなる想像をしてしまったわい(笑)
 この他にも、滑走路上で撮影された数枚の写真がネット上で拝むことが出来るぞ!

 

 さて、ここで調査上の謎がひとつ浮上してしもうた。上写真、エルヴィスはブルーレザーがあしらわれたベストを羽織り、アンダーはホワイトのシャツじゃな。この写真のファッションは、「バーチャル~第31回オハイオ州後編/Area No.11/Serial No.245 ヒルトン・スマグラーズ・イン跡地/コロンバス」(1974年6月25日夜~翌26日朝))をご案内する際に掲載した写真のファッションそのまま。(右写真)この写真は実はフィラデルフィア空港の中の写真だったのか、それとも?
 仮にエルヴィスは少なくとも6月24日フィラデルフィアからニューヨークへの移動時から、26日早朝まで、オフのファッションが同じだったとしたら、この独特のデザインのベストは当時かなりのオキニイリの一着だったのだろうか?とか、またまたミーハーな想像をしてしまった!

 フィラデルフィア国際空港での撮影写真は、もう1日、約1年後の1976年6月29日、今度は次のライブ地バージニア州リッチモンドへ飛ぶ為にリサマリー号へ乗り込む時が残されておる。(下写真3枚)
 ツアー地獄、ラスベガス地獄に陥った70年代のエルヴィスのライブは好不調の波が激しく、都市間の移動もしんどかったはずじゃが、フィラアデルフィア国際空港でのエルヴィスの表情はいずれも悪くはなく、搭乗直前までファンを大事にしていた様子には胸を打たれるわい。機上でのエルヴィスの取材記事はほとんどお目にかかったことはないが、俗界から完全に遮断された雲の上の時間はエルヴィスにとってささやかながらも待ち遠しい安らぎの時だったのもかもしれない・・・。

 

 1929年に開港したフィラデルフィア国際空港は、その後1973年までにターミナルAからEまで
拡張を続け、現在ではアメリカ東部有数の大規模な国際空港として存続中。エルヴィスがどのターミナルから飛行機に乗り込んだのかは不明。(現在はターミナルFも増設)左写真はGoogle-mapによる航空写真。
 なお一部のサイトでフィラデルフィア国際空港を、エルヴィスが利用した当時の別称をPhiladelphia Eppley Airportと表記しておるが、空港の歴史を辿ってみたところ、そのような別称で呼ばれていた形跡は無かった。Eppley Airportとは、ネット上ではネブラスカ州オマハ空港の別称になっておる。



   
     
         
     
         
     
         
       
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   

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