NANATETSU ROCK
FIREBALL COLUMN Vol.411




 The-Kingのウェブサイトのビュワー様、及びバーチャル・ロックンロール・ツアー参加の皆様、ご無沙汰しております。約半年ぶりの登場の「チョイ頑固まめ鉄」であります。
 七鉄師匠はここんとこ毎回休むことなくツアーを継続していますね。皆様、お付き合い頂きありがとうございます。しかしなにせ師匠はお歳だし、頑張り過ぎると後ほど激しくリバウンドがくるに違いないので、今回は僕の方から強引に休ませました(笑)
 「バーチャル~」は未だアメリカ東海岸、西海岸、ベガスにも行っていないし、広いテキサス州もまだ半分ぐらい残っているし、師匠にはまだまだツアーを続けてもらわないといけませんので!

 前回、前々回にご案内したオハイオ州は、ネット資料も証拠写真も大変に多くて下調べはサイコーに楽しかったですが、師匠のご案内の仕方はいかがでしたでしょうか?オハイオ州におけるエルヴィスの足跡、訪れた回数はそれほど多くはありませんが、一ヵ所ごとの情報はとても多彩でして、師匠の最終原稿を読んでみたら、適度に端折ってまとめるのにかなり苦労されたことが分かりました。
 そこで今回は端折られた情報の中から「これはもっと掘り下げてエルヴィス・ファンに再確認して頂いた方がいい」と僕が判断した情報をひとつ取り上げておきます。それは幻のエルヴィス初演映画である「The Pied Piper of Cleveland」です。もちろんエルヴィス・マニアの方ならその存在をご存知であり、関連情報を取り上げているサイトもありますが、どれも内容的に不十分なものばかり。しかし各サイトを参照しながらひとつにまとめてみるとそれなりのボリュームになることが分かったので、この映画に関する最新情報版をお送り致します。




オハイオ州ブルックリンでの撮影の基礎知識と映画の存在証明

  Area No.2/Serial No.236 ブルックリン・スクール・オーディトリアム/ブルックリンでご案内した、未だ公開されていない短編映画「The Pied Piper of Cleveland~A Day in The Life of A Famous DJ,」。タイトルを直訳すると「クリーブランドの笛吹き男~有名DJのある一日」ってなりますが、これはクリーブランドの有名DJだったビル・ランドルによって製作されたエルヴィスを含む5組のミュージシャンが登場するコンサート映像が盛り込まれた短編映画です。
 実はこの映画、一時期その存在自体が怪しまれたものですが(原因は最後に記述)、撮影の約三ヶ月後にエルヴィスがニューヨークのドーシーショーに出演した際に司会を担当したビル自身の口からちらりとその存在をアピールする発言がありました。(右写真)

「多くのパフォーマーと同じように、どこからともなく一夜にして大スターになる若い男を紹介したいと思います。制作中の短編映画の撮影で初めて見たこの若い男は、今夜あなたのためにテレビの歴史を作ってくれると思います。エルヴィス・プレスリー!彼はここにいます!」

この発言記録が音声として残されていたことが、あらためて「The Pied Piper of Cleveland」の存在証明になっています。また撮影の2日後のクリーブランド・ニュースという新聞に、ビルの「短編映画を製作中である」というコメントが残っています。

 映画の基本スクリプトは、上述したエルヴィスら5組による1955年10月20日ブルックリン・スクール・オーディトリアムでのライブ、1956年1月28日ニューヨークCBSスタジオでのドーシーショウ、さらに1956年4月23日からスタートしたエルヴィス初のラスベガス・ライブをミックスした内容だったという説が強いです。当初は40分の映像に仕上げ、劇場公開用に更に20分ほどの長さに編集される予定だったそうです。
 ビル・ランドルは当時、クリーブランドのラジオ局WEREで平日毎日5時間放送することに加えて、ニューヨークのCBSで土曜日の朝の番組の司会も務めていました。また彼はユニバーサル・ピクチャーズと自分自身についての短編ドキュメンタリー映画を制作する契約を結んでいて、エルヴィスの才能を見抜いていた彼は映画の中でエルヴィスのライブを基軸とした「DJの1日」というスクリプト構想を立てていたのです。

 ブルックリン・スクール・オーディトリアム(左写真)の撮影については、高校の真新しい講堂(オーディトリアム)であり、鮮明な撮影条件、多種にわたる撮影機材が揃っていたことが選ばれた理由とされています。
 この日のライブ出演者はエルヴィスの他、ビル・ヘイリー&コメッツ、パット・ブーン、カナダのコーラスグループのフォーラッツ、更にカナダの少女シンガーだったプリシラ・ライト。5組の登場時間は午後1時30分から4時まで。その後、(恐らく)ビル・ヘイリー&コメッツを除く4組は約20キロ離れたクリーブランドのセント・マイケル・ホールでのイブニング・ライブにも出演(Area No.3/Serial No.237)。ここでも映画撮影が行われたとされています。




ヘッドライナーは実はパット・ブーン?

 映画のサブタイトルからもお分かり頂けますが、ストーリーは多忙を極める人気DJビル・ランドル自身のアグレッシブなタイムテーブルを追ったものだったようす。エルヴィスらミュージシャンのライブがビルの仕事っぷりを鮮やかに彩っていく、恐らくそんな展開だったのでしょう。出演するミュージシャンの中でヘッドライナーは当初はエルヴィスではなくパット・ブーンだったことが、パット・ブーンの晩年のインタビューで明らかにされています。まだ当時はパット・ブーンの方がエルヴィスよりも遥かに知名度が高く、「ヘッドライナーとしての出演」という条件でビルからパットへオファーが来たそうです。

 この日初めてエルヴィスに会ったパット・ブーンの回想がオモシロイ!
「エルヴィスは学校では付き合ってはいけないような悪者に見えた。髪が長くて、Tシャツの袖にタバコの箱を丸めて入れているような油まみれのタイプの男で、仲間たち(他の出演者?)は嘲笑していたが、女の子たちは彼に魅了されていました」

 エルヴィスは既にスターだったパットの前でやたらと緊張していたらしいですが、見かけはワルでもエルヴィスのナイーブな一面を見せられただけに、パットは「エルヴィスはステージに上がっても大丈夫なんだろうか」とも感じたそうです!(上右写真は撮影当日ステージ上のパット・ブーン)

 余談ながら、1960年代の一時期、エルヴィスはロサンゼルスに自宅を持っていましたが、近所にはパット・ブーンも住んでいました。2人はすぐに仲良くなり、パットはエルヴィスに「何故、あの時僕の前であんなに緊張していたんだい?」と聞くと、エルヴィスは「だって、君は既に大スターだったじゃないか。どうやって接すればいいのか分からなかったんだ」と答えたそうです。
 パットはこの時の会話を振り返りながら、「エルヴィスは若い時からどんな世界でも成功者には敬意を表するタイプの人間なんだ。見てくれとは正反対で、生意気なところがない良い青年だったよ」と語っています!



錯綜する撮影現場情報

 この日の撮影状況に関しては、ネット上で散見出来る基本的な情報からしてひっちゃかめっちゃか。調べれば調べるほど、事実から遠ざかってしまうような感じです。

 エルヴィスは当初ライブ出演予定はなかったものの、急遽映画用の撮影が決まり、エルヴィスはビル・ランドルによって前夜のライブ地クリーブランドから連れてこられたとか。
 この日のエルヴィスは口パクだけで、演奏シーンの撮影時は会場内にレコードが流されていたとか。またエルヴィスはギターを床に叩きつけるアクションを見せたとか、いやいや至ってジェントルなステージだったとか。
 イブニング・ライブのセント・マイケル・ホールでは、途中で撮影用のフィルムのストックが無くなってしまい、撮影クルーの一人は「エルヴィスのステージは撮影していないはずだ」と証言したとか。
 またビルがハリウッドから連れて来た撮影クルーは、そもそも「イブニングショーの撮影仕事(夜間仕事)は契約に入っていない」と撮影を拒否していたとか、ビルがごねるクルーを説得するために急遽残業手当を用意したとか。
 
 一方、1956年1月28日ニューヨークCBSスタジオでのドーシーショウでの撮影は行われませんでした。原因はハリウッドの撮影クルーに対する、ハリウッドとニューヨーク両方の労働組合同士の管轄問題が発生し、CBS側が関与を避けたので問題が解決されなかった為と言われています。
 ご存知の通り、ドーシーショーはエルヴィスの存在を全米に知らしめるための最初のビッグショットであり、もちろんそのお膳立てをしたのは、前年末にエルヴィスの専属マネージャーとしての契約を果たしたパーカー大佐。既にエルヴィスの俳優としてのハリウッド・デビューをも目論んでおった大佐にとって、ビル・ランドルの短編映画の企画は邪魔でしかなく、CBSを抱き込んで何らかの圧力をビル側にかけていたのかもしれません。

 しかし解せないのが、1956年4月23日からの初のラスベガス・ライブでは撮影が行われていることです。これはビル自身の発言によるものなので間違いはないでしょう。ラスベガス・ライブは芳しくない結果に終わったものの、当時のエルヴィスの活動は完全に大佐の手の中でコントロールされていたので、もうビルの出る幕ではなかったはず。
 ということは、この時のビルは一介の映像製作者であり、「The Pied Piper of Cleveland」とは関係のない撮影だったのでしょうか!?ちなみにラスベガス映像の一部は「エルヴィス56」の中に挿入されています。



一度だけTV放送されたものの、結局は未公開

 クリーブランド、ニューヨーク、ラスベガスのライブ3点セットがスクリプトの原案とされている短編映画「The Pied Piper of Cleveland」ですが、結局どの程度完成していたのかははっきりしません。未完成状態ながらも既に商業映画として成立しうる内容だったのか、また何故公開されなかったのか、ファンとしては興味が尽きません。

 一般公開はされなかった「The Pied Piper of Cleveland」は、一度だけクリーブランドで公開上映され、またその抜粋映像が現地のTV局WEWSチャンネル5で放映されたという説があります。しかし放映日時や放映時間や映画の内容に関する情報はまったく見つかりませんでした。
 本当に放映されたのであれば、クリーブランドでのライブ映像部分のみが放映されたのでしょうか。ちなみに現在我々が見ることの出来る当日のライブ写真の多くは映像の静止画だそうですが、どの写真が該当するのかは分かりません。ステージの袖からのショットなどは、映像の静止画の可能性はありますね!
 
 未公開の原因としてもっとも有力な情報は、パーカー大佐がエルヴィスの映画「ラブミーテンダー」出演契約を行った際、同映画以前に制作されたエルヴィスの映像の公開を一切許可させないという条件を付けたというヤツ。またパラマウント側が(ビルとの映画製作契約をしていたこともあって)1956年に「The Pied Piper of Cleveland」の上映を検討していたところ、パーカー大佐はどうしても上映するならば、エルヴィスは既にスターなので、出演料50,000ドルを支払うように要求したために上映がオジャンになったという説もあります。

 またビル・ヘイリー&コメッツのベーシストだったマーシャル・ライトルの回想録『スティル・ロッキン・アラウンド・ザ・クロック』では、パーカー大佐が「The Pied Piper of Cleveland」のフィルムを買い取り、既存のコピーを破棄したと事実誤認が書かれているそうです。
 もしこの映画が公開されていれば、ビル・ヘイリー&コメッツにとっては2作目の映画出演となり、バンドの人気存続に役立ったはずだった!というライトルの悔恨から発せられた「パーカー憎し節」だったのかも!?



「あまり期待し過ぎてもいけない」

 「The Pied Piper of Cleveland」を撮影したジャック・バーネットは1967年に、監督のアーサー・コーエンも1968年に亡くなってしまいました。彼らの夭逝がある意味でこの映画の存在を益々謎めいたものにしていたのかもしれません。
 一方2004年までご存命だった製作者のビル・ランドルも、フィルムの行方に関しては長らく口をつぐんでいたようですが、約2年前you tubeに「Lost Elvis Movie October 1955」のタイトルで、ビルとフィルムの行方についてかなり詳しい証言をした人物のインタビューがアップされておりました。
 それはElvis:The Ultimate Fan Channelと称する発信元が、1970年代にビルと一緒に仕事をしていたロジャー・ホールという人物に対して行ったインタビューです。(左写真は、「Lost Elvis~」のサムネイル写真。クリックすると該当サイトに飛びます。)
 ロジャー氏の証言によると、1974,1975年頃にビルは「あのフィルムは今も大事に金庫に保管してある。発表出来る機会を待っているんだ」と話していたそうです。しかしその機会がやってくることはなく、ビルは1992年頃にロンドンを拠点にしていたイタリア人のミュージシャン兼映画プロデューサーであるレイ・サンティリという人物にフィルムの売却を申し込まれ、レイの何度かの値切り交渉の末、最終売却金額190万ドルで交渉が成立。しかしレイはすぐさまフィルムをポリグラムに220万ドルで転売したそうですが、その後のフィルムの行方は分からずとのことです。
 ロジャー氏によると、レイ・サンティリという男は現在でもエルヴィスの様々な音源や映像(ブートレッグ)でネットビジネスを行っているそうです。またレイは21世紀に入ってから4本のエルヴィス関連のドキュメンタリー映像作品を世に送り出していますが、「The Pied Piper of Cleveland」のコピー映像が使用された形跡は無いとのこと。ひょっとして彼の存命中に「The Pied Piper of Cleveland」がネット上で出回る可能性もあるとしています。

 僕はロジャー氏のインタビューを聞いていて「ひょっとしてこの人、『The Pied Piper of Cleveland』をビル・ランドルから観せてもらったんじゃないか?」と勘繰りました(笑)インタビューすべてにとても誠実に回答していて、「もし公開されることになっても、過剰な期待は危険かもしれない」と言っているからです。
 「撮影クルーはみんな急ぎの仕事だったらしいから、映像自体が良くない可能性もあります。例えば、映像と音声が一致していないとか、カメラの焦点が合っていないとか」とかなり具体的に映像内容を予想しているんですね!観たならばはっきりと観た!って言ってしまったらマズカッタんでしょうか?



フェイク騒動!?

 1992年時点でのフィルムの所有者が明らかになったことで、「パラマウント社の倉庫の何処かにフィルムが眠っているのでは?」という噂は完全に覆されることになりましたが、フィルムをポリグラムに転売したレイ・サンティリは、ある意味で「The Pied Piper of Cleveland」の存在価値を一時期著しく貶めたともいえます。何故なら彼は1995年に「エイリアンの解剖」という宇宙人に関する偽ドキュメンタリー映画の製作者だったからです。この映画の内容が偽物と判明した時の彼のコメントがもうメッチャクチャ!

「映画のカメラマンと称する男から、1992年にエルヴィスの未公開映画のフィルムの買い取り依頼があった。しかしそのフィルムの内容がエイリアンの偽映像だったのだ」とかなんとか!?

 しかもレイは、フィルムを買った相手が既に四半世紀前に亡くなっている「The Pied Piper of Cleveland」の撮影者ジャック・バーネットだったと偽証していたのです。 レイのこの意味不明の発言のとばっちりを受けて、「エルヴィス未公開映画」つまり「The Pied Piper of Cleveland」の存在説自体も「エリアンの解剖」同様にでっち上げだったのでは?との騒ぎが起こってしまったのでありました。
 「The Pied Piper of Cleveland」の制作関係者、また公開を望んでいる数多くのファンの夢に一時的にせよ泥をぶっかけた男、それがレイ・サンティリだったのです。

 さあてレイ・サンティリにはもう消え失せて頂くとして、あとは現所有者とされるポリグラムがフィルムをどうするのか!心密かにポリグラムの今後の動向に注目しておきたいところです。
(右写真は、ビル・ランドルとエルヴィスの2ショット)


 以上が僕がネット上からかき集めた「The Pied Piper of Cleveland」に関する情報の全てです。未発表ライブ映像ってシロモノは、エルヴィスに限らず存在価値以上のクオリティではないことがほとんどですが、この映画に関しては基本的にプロショットであり、RCA移籍以前のエルヴィスのステージに触れることが出来るだけに観てみたいものです。七鉄師匠がご存命の内になんとか公開されることを望むばかりです!
 ではわたくしまめ鉄の出番はこれぐらいにして、次回の「バーチャル・ロックンロールツアー」へのご参加をお待ちすることに致します。皆様ごきげんよう~♪



過去の「バーチャル・ロックンロールツアー」を御覧になる場合は各バナーをクリックして下さい。 
     
     
 

GO TO TOP