NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.409


第30回 エルヴィスゆかりの地~オハイオ州前編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 バーチャル・ロックンロールツアーも小さな節目、第30回目に突入じゃ。前回のオクラホマ州では、ネット情報があまりにも少な過ぎて、ツアーに参加された方に申し訳ない気持ちがあったが、今回のオハイオ州は参考文献、写真がどっさり!次回も含めて前編、後編に分けてご案内するのでじっくりとお楽しみ頂きたい!
 オハイオ州(左地図赤丸部分)とは、アメリカ北東部とカナダとの国境周辺に広がる五大湖の中で、地図左下に位置するエリー湖の南側に広がる州じゃ。エルヴィス&ブルームーンボーイズは、1955年になると地元テネシー州以外の地域へのロングツアーをスタートし、同年の2月終わりからオハイオ州を皮切りにアメリカ北東部を訪れるようになるのじゃ!
 オハイオ州は他の州よりも最初からエルヴィスならびにブルームーンボーイズのロックンロール・ミュージックの観客の反応は上々であり、たくさんの写真、たくさんのエピソードやアクシデントが残されておるぞ!ではいざ行かん!!
 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第30回 オハイオ州前編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はオハイオ州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.1/Serial No.235 ザ・サークル・シアター跡地/クリーブランド 
 Area No.2/Serial No.236  ブルックリン・スクール・オーディトリアム
                                     /ブルックリン

 Area No.3/Serial No.237
 セント・マイケル・ホール/クリーブランド

 
Area No.4Serial No.238  ベテランズ・メモリアル・オーディトリアム
                                      /コロンバス

 Area No.5Serial No.239  デイトン大学フィールドハウス/デイトン
                 Part 1 ステージ
                 
Part 2 バックステージ
 

★ 本文中の表記について ★
 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  SRW=サンレコードのウェブサイト 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」


クリーブランド、そこはエルヴィスの輝かしい未来を予言した街だった!
Area No.1/Serial No.235 ザ・サークル・シアター跡地/クリーブランド
 1954年7月からスタートしたエルヴィスらブルームーンボーイズの初のライブツアーは、地元テネシー州をはじめとして、アリゾナ州、テキサス州、ルイジアナ州等のアメリカ南部を延々と転戦。SMWによると初めて“北部の都市”を訪れたのは、1955年2月26日オハイオ州クリーブランドだったとされておる。当時のライブスケジュールを再確認してみると、テネシー州より北部ならば同年1月21日ミズーリ州サイクストン、アメリカ北部ならばクリーブランドが初になるので、まずは誤解無きように!

 まだまだ駆け出しだったエルヴィスはもとより、ロックンロール(もしくはロカビリー)という音楽が北部地方で受け入れられるか否かはまったく未知数だったはずじゃが、エルヴィスの当時のマネージャーのボブ・ニールにクリーブランドでのライブを依頼してきたのは、地元のラジオ局DJであるトミー・エドワーズだった。トミーはニューヨークを含めた北部地方に幅広く伝手を持つ凄腕のDJ、プロモーターであり、クリーブランドでロックンロールが受け入れられることを確信した上でミュージシャンたちを招き入れたのじゃ。
 ライブ会場になったザ・サークル・シアターは元々は映画や演劇用の大型劇場であり、客席数は約2,000。ステージとスクリーンショーを同時開催出来る設備を誇っておったそうな。残念ながら1955年2月26日のライブ写真は1枚も発見出来ず、見つかったのは小さな新聞広告のみ。「ヒルビリー・ジャンボリー」と銘打たれておるので、複数のミュージシャンが出演したようじゃが、記名されておるのはエルヴィスのみじゃ。(右下写真)
 幾つかの文字情報によれば、この日のライブはトミー・エドワーズの目論見通り大盛況だったようで、ボブ・ニールがメンフィスから車で運んできたロカビリーミュージシャンのレコードや写真はトミーの手によってライブ会場で販売されて飛ぶように売れたんだそうじゃ。

 トミーはライブ終了後にエルヴィスをニューヨークでも番組を持つ有名DJビル・ランドルに引き合わせ、エルヴィスの可能性と礼儀正しさに感心したランドルは、すぐにニューヨークの有名タレント・オーディションにエルヴィスが参加出来る手筈を整えたっつうから、当時のエルヴィスにとっては全国区のスターになる絶好のチャンスを手に入れたことになる!オーディションの結果や詳細に関しては後日「バーチャル~ニューヨーク編」を企画した際にご紹介しよう~!
 

 約8ヶ月後の同年10月19日、エルヴィスは再びこの会場に出演しており、初出演時とは対象的に貴重なカラー写真が残されておる!(上写真)撮影者は前述したトミー・エドワーズ。エルヴィスのパーマのかかったヘアスタイルとレッドジャケットにご注目頂きたい。EDDによると、これはビル・ヘイリーから受けた影響なんだそうじゃ。
 エルヴィスはこの3日前の10月16日オクラホマ州オクラホマシティのミュニシパル・オーディトリアムでビル・ヘイリーと初めて共演しており(前回の第29回Area No.5で紹介済)、その際にビル・ヘイリー・ファッションなるものに薫陶を受けたってことらしい。
 しかしジャケットのカラーは分かるとしても、パーマをかけたヘアスタイルがビル・ヘイリー風と言われてもなあ・・・?なおこの2回目のライブは、新聞広告によるとエルヴィスはあくまでも特別出演者(EXSTRA ADDED ATRACTION)だったようじゃ。(右写真)

 ザ・サークル・シアターは別名ホフマン・シアターとも呼ばれ、1920年に開場。クリーブランドの様々なイベント用の会場として運営が続けられていたものの、エルヴィスのライブから約4年後の1959年には早々と閉鎖。後に別の場所で再オープンしたという。元々の場所はイースト105番ストリートとユークリッド・アヴェニューとの交差点西側であり、その交差点には1914年8月14日に全米初の信号機が設置されたという説がある。その信号機は8月14日午後5時、緑から赤へのカラーチェンジからスタートしたらしい。
 それから約40年後、“クリーブランドのロックンロール信号”はエルヴィスによって突如緑(Go!)が点灯したのじゃ!左写真はストリートビュー2022年10月撮影の交差点西側。写真右側奥の位置にオリジナルのザ・サークル・シアターが建っておった。
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 エルヴィス幻の初演映画が撮影されたライブ
 Area No.2/Serial No.236 ブルックリン・スクール・オーディトリアム/ブルックリン
 
 
 1955年当時のエルヴィスの希少なカラーステージ写真の撮影が行われたクリーブランドのザ・サークル・シアター(Area No.1)のライブの翌日、1955年10月20日はクリーブランドから約15キロ南下したブルックリンという街でエルヴィスを含むビッグスターたちのミュージック・ジャンボリーが開催された。会場は当時のブルックリンで唯一のハイスクールだったブルックリン・ハイスクールのオーディトリアム(左下写真)。出演者はエルヴィス他、ビル・ヘイリー&コメッツ、パット・ブーン、更にカナダからやって来たコーラスグループのフォーラッツに同じカナダの14歳の少女シンガーのプリシラ・ライト。

 この日のエルヴィスのライブは、ビル・ランドル(Area No.1で紹介済)とスクールの校長が友人だったことから実現したと伝えられておる。1955年年初に開校したばかりの同校にとっての、最初の大きなイベントになった。
 しかし前日の盛況とは裏腹に、この日は「観客は600人弱」「パット・ブーンほどエルヴィスのステージは盛り上がらなかった」等と評判は芳しくはなかったが、初期のエルヴィスのライブの中ではいくつかの出色のエピソードがある。
 まずビル・ヘイリーと2回目の共演となり、貴重なカラーの2ショット写真が撮影されておること。これはエルヴィスがステージにあがる前に舞台裏で撮影されたという。撮影者は前述のトミー・エドワードじゃ。(上左写真)
 次にエルヴィスはステージでは“ビル・ヘイリーに影響を受けたというレッド・ジャケット”を着用しながらも、バックステージでのビルとの2ショットではブラウンのジャケットじゃ!何故エルヴィスはジャケットを着替えたのか?それを探ったり、想像したりすることはファンとしては楽しいに違いない!

 更に、この日の共演者5組のステージがビル・ランドルの立案の元に短編映画用の撮影が行われておったことじゃ!(下右写真、左から2人目がビル)この動画は約18分の作品として編集されたという説があり、最終的には1956年のラスベガス・ライブやニューヨークでのTV出演の模様と併せて完成される予定だったとのこと。エルヴィス・マニアの間では「The Pied Piper of Cleveland」という名で知れ渡っておるそうじゃ、ってことは諸君ならご存知じゃろうな!
 ちなみにこの日のライブ映像のみのパートは、ブルックリンで一度だけ非公式に公開されたこともあるという。公開の事実に関する記述はSMWでは表記のされ方がイマイチ曖昧でヨクワカランが。 しかし後にパーカー大佐が映画「ラブ・ミー・テンダー」公開に際し、それ以前のエルヴィス映画の公開を一切許可しないという法的制限をかけたことによって、いわば「エルヴィス・ライブ・イン・ブルックリン1955」の映像は闇に葬られることになったそうじゃ。もし大佐からの圧力が無く小規模でも公開が許されておったら、エルヴィスのロッカーとしての名声の“種類”も変わっていたかもしれない!?ちなみに現在でも映画のネガはパラマウントに保管されておるというが、日の目を見る機会があれば結構な騒動になるはずじゃ。
 諸君にお伝えしておきたいことは、オハイオ州での最初のライブ(Area No.1)をセッティングしたトミー・エドワーズ、トミーがエルヴィスと引き合わせたビル・ランドル、このご両人はデビュー間もないエルヴィスの限りない才能と可能性を誰よりも早く見抜いておった人物であることを覚えておいてもらいたいってことであ~る。

 
 ブルックリン・ハイスクールは現在でも存続中であり、オーディトリアムも健在!SMWに掲載された2008年当時のオーディトリアムの正面入口写真と2022年10月撮影のストリートビューを参照すると、スクールの敷地内の東端に位置するBrooklyn City Schools Board of Education Officeなる教育機関の建物(下写真左側)が旧オーディトリアムに該当するようじゃ。
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 なお、ブルックリン・ハイスクールは2005年に開校50周年を迎え、大規模な同窓会がおこなわれた。その際に、エルヴィスが立った当時のオーディトリアムのステージ床板が、同窓会告知ポスターのデコレートフレームに使用されたそうじゃ。(上写真中央)
 また1956年のイヤーブック(卒業記念アルバム)には、1955年の同校のトピックスとしてエルヴィスがやって来たことが、ステージ写真入りで掲載されておる(上写真右側、エルヴィスは赤丸内))。このイヤーブックはエルヴィス・マニアの間ではコレクターズアイテムになっておるらしい!


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疲労困憊のエルヴィスを垣間見れる希少なショットは、ミュージシャンの原点を物語る!
Area No.3/Serial No.237 セント・マイケル・ホール/クリーブランド
 Arean No.2でご案内した、エルヴィスを含む5組のミュージシャンが出演したブルックリン・スクール・オーディトリアムのライブと同日(1955年10月20日)の夜、クリーブランドのセント・マイケル教会に隣接したセント・マイケル・ホールでも彼らはライブを行った。引き続き5組全て出演したかどうかは曖昧な記録しか見つかっておらんが、少なくともエルヴィスとパット・ブーンの出演は間違いない!

 この日のライブ模様の記述記録もまた不明瞭であり、「エルヴィスはギターの弦を折ってしまったり、ギターを床に叩きつける等、激しいアクションを繰り返した」「生徒たちがエルヴィスやパット・ブーンに殺到しないような教育関係者たちの妨害行為があった」というステージがどちらの会場でのライブだったのか等判別しにくい。

 このセント・マイケル・ホールでのライブの開催も、前述したトミー・エドワーズとビル・ランドルの両凄腕DJ(兼プロモーター)が大きく関与しており、エルヴィスの激しいライブ・パフォーマンスも、実は映画撮影用のシーンとしてランドルがエルヴィスに指示を出していただけで、エルヴィスは終始穏やかに観客と触れ合いながら演奏していたという証言も残っておる。
 その証言者の一人、ナンシー嬢は下写真(右カラー)の右端に写っておる女性であり(撮影者はトミー・エドワーズ)、エルヴィスやパット・ブーンに群がった女の子たちは写真で分かる通りにスムーズにステージ裏に入ることが出来たほど、とりたてて騒動は起きなかったという。エルヴィスはとても感じがよく気さくだったそうな!そのナンシー嬢自身の撮影したエルヴィスの写真が、下写真中央。下写真左側はビル・ランドルの撮影じゃ。
 余計な詮索じゃが、1954年7月から連綿と続いていたツアーサーキットの影響なのか、バックステージのエルヴィスのショットはどう見てもいずれもかなりお疲れのご様子じゃ。それでも前述の通りファンに丁寧に接していたという証言があるだけに、若きエルヴィスの誠実さが偲ばれるというものじゃ。ライブよりも、SNSに熱を入れがちな現代のミュージシャンは原点に立ち返って見習うべき姿勢ではなかろうか!

 

 セント・マイケル・ホールの建物は現在も存続中であり、名称はエル・ハサ・テンプル(右写真)。名もない地方の街の郵便局みたいにこじんまりとしておるが、地下にはボーリング場があり、敷地の奥にイベント用のホールがある。2009年時点でのSMWによると、以前の教会の神父さんや教会関係者は映画「The Pied Piper of Cleveland」の存在、撮影の詳細についてこれまで多くの問い合わせを受けたらしい。ということは、セント・マイケル・ホールでも撮影が行われておったということじゃ。右写真はストリートビュー2022年9月撮影。
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 エルヴィス・プレスリーは、究極的自由主義のシンボル!
Area No.4/Serial No.238 ベテランズ・メモリアル・オーディトリアム/コロンバス
 1956年5月26日、エルヴィスは約7ヶ月ぶりにオハイオ州に戻ってきた。場所はコロンバスのベテランズ・メモリアル・オーディトリアム(左写真)。当時のオーディトリアムの収容人員数は約4,000であり、前年のライブ会場の倍以上のキャパじゃ。
 1956年はご存知の通り「エルヴィス元年」であり、エルヴィス人気は朝陽のごとく昇るばかり。この年オハイオ州ではこの日を含めて5回のライブが行われたが、前年にエルヴィスの為に東奔西走していたトミー・エドワーズ、ビル・ランドルご両人の影はない。エルヴィス・ビジネスをパーカー大佐が独占、掌握してしまったってことじゃ!

 あっという間に大スターに成ったエルヴィスを約7ヶ月ぶりに迎え入れたオハイオ州凱旋ライブの記録は、何よりもカメラマンのフィル・ハリングトンの撮影写真が素晴らし過ぎる!アルフレッド・ワートハイマーやエド・ボンジャをはじめとして秀悦なエルヴィス・ショットを残してくれたカメラマンは何人か存在するが、フィル・ハリングトンもその一人であり、あらためてお見知りおき頂きたい!とノウガキはこれぐらいにして、ハリングトンの作品を御覧頂きたい!(下写真6枚) 
 
 世の中に星の数ほどいるエルヴィス・ファンの中には「他のライブ写真と見比べて、どうしてこの写真が優れているんだあ?オセ~テ!」って方もいらっしゃるだじゃろう。一応わしの自論を申し上げよう。わしはこれらのショットを見た時、他のカメラマンのライブ写真と“何か”が違うっつう特異性を感じた!
 一応フィル・ハリングトンの略歴を調べてみたところ、この方は文化面だけではなく様々なジャンルの撮影をしておる完全自由主義のカメラマンじゃった。自由主義者としてのエピソードとして、1957年、アメリカ人ジャーナリストの中国入国を禁止する米国の布告に違反して中国に乗り込んだっつう仰天するような勇気をもったカメラマンでもあった。
 そんな略歴を踏まえてからあらためてエルヴィスのライブ・ショットを見てみると、カメラのファインダーを通して見たエルヴィスは、ハリングトンにとってロックンローラー、エンターテイナーというよりも、既成概念や公の規制をものともしない完全な自由主義者だったのじゃろう。その確固たる視点こそ、このライブショットの真髄じゃと思うぞ!
 もしエルヴィスがご存命で、ハリントンの撮影写真に対するわしの自論をぶつけたとしても、エルヴィスはかる~く受け流すじゃろう。
「いやいや、動かないと歌えない、それだけだよ」
まあ、こういうところがエルヴィスの人間的魅力なんじゃけどな!

 SMWには、当時のオクラホマのマスコミのライブ・レビューが転載されておるが、その内容はハリングトンのライブショットを文字で解説しているようなものばかり(笑)ライブではなく、写真を見ながら書かれた様な記事じゃった(笑)それは、この日のエルヴィスのライブ・パフォーマンスが絶好調だったことの証明にはなるかもしれんが、ハリングトンの写真ほどのインパクトはないのでここにあらためて転載するのは控えておこう!

 ベテランズ・メモリアル・オーディトリアムは、エルヴィスのライブを皮切りとして以降ビッグミュージシャンのライブ招聘に積極的であり、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン、ザ・ドアーズ、バリー・マニロウ、デヴィッド・ボウイ、ラッシュ、デュラン・デュラン、ベック、ザ・クラッシュ、シカゴ、REM、ブリタニー・スピアーズらが登場。何度かの拡張、改装工事を経て現役のイベント会場として稼働中じゃ。(右写真、ストリートビュー2022年9月撮影)
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 果たして、神か愚者か!?マスコミが真摯にエルヴィスを追い始めた!
Area No.5/Serial No.239 Part1 デイトン大学フィールドハウス(ステージ)
 1956年5月13日からスタートしたエルヴィスのアメリカ北東部ツアーは、5月27日まで休みなしのぶっ通しで行われ、1日2回もしくは3回のステージもあって、15日間で合計24回ものステージをこなした!その最終日がオハイオ州のデイトン大学フィールドハウスじゃった(左写真)。
 フィールドハウスでのライブ契約は「チケットの売上次第では3回のライブも可」だったそうじゃが、3回目分までは売り上げは届かず2回のライブで販売打ち切りになったそうな。現代では考えられないハードスケジュールじゃし、当のエルビスも「2回で良かった」って案外ほっとしていたかも!?

 この日のライブには「Seventenn Magazine」という当時の文化/文芸雑誌のアート・ディレクター兼カメラマンのマービン・イスラエルが会場に到着してエルヴィスの写真を撮りまくった!マービン・イスラエルは後に「Elvis Preley 1956」という写真集が出版されたお方じゃ
 また前述したArea No.4でのライブを撮影したフィル・ハリングトンも同じくシャッターを切っておるので、イスラエルとハリングトンのショットを見比べて頂きたい。
 SMWには2人のカメラマンのライブ写真、また休憩時間中の写真がふんだんに掲載されておるので、ここにドカン!と転載することにする。

 更に「Seventenn Magazine」のライターであるエドウィン・ミラーもライブに同行して、後日発売された「Seventenn Magazine」にほとんど「エルヴィス特集」といえる超長文のエルヴィス・プレスリー紹介&批評を掲載しておる。この文章が、当時加熱の一途をたどっておったエルヴィス・フィーバーの火の粉をマスコミ人として上手に振り払いながら、実に丁寧かつ冷静にエルヴィスの実体を描写した秀文なので、わしの拙訳ながらも、2人のカメラマンの写真とともにお楽しみ頂きたい!なお写真と文章のご紹介の便宜上、Part-1をステージ、Part-2をバックステージと分けた次第じゃ。


【 ELVIS PRESLEY: 新星か一時の流行か? (著)エドウィン・ミラー 】


 出番を待って落ち着かず楽屋を歩き回る姿も、ウェーブのかかった栗色の長い髪に櫛を入れ続ける姿も、爪を食いしばる姿も、今はない。エルヴィスは、2年の経験を積んだパフォーマーの確かなアプローチで、マイクをほうきの柄のように握り、「みなさん、全米とアフリカの一部でちょっと話題になっている曲です」と告げ、身を乗り出してロングトールサリーを歌い始めたりする。
 まるで生き物のように、マイクに向かって歌う。その表情は、口の端に浮かぶ気さくな微笑みの亡霊を除いては、決して変わることはない。エルヴィスのユーモアのセンスは、観客も認めるところである。悶えるファンにタイミングよく指を当てると、見ている人たちは笑いの渦に巻き込まれる。
 観客にとって選曲は実は重要ではなく、歌詞は、彼らが彼を迎えるときの興奮した叫び声、手拍子、足踏みでかろうじて聞き取ることができる。

 エルヴィスは観客を魅了する。何千人もの観客がそこに座っている。大多数は10代の女の子で、子供の兄弟や姉妹、年配の人たち、男の子もいるが、多くはない。ある少女は、客席に入る途中の列で、「5人の男の子の友達が、エルヴィスのことで私を捨てていったのよ!」

 エルヴィスの観客は座席に身を乗り出して、彼の一挙手一投足に集中し、完全に吸収して見ています。ある者は唖然とし、ある者は驚愕し、ある者は歓喜の声を上げ、両手で宙を叩きながら見守る。「エルビス、エルビス、エルビス 」と叫ぶ。「俺を見ろ!」「エルビス、こっちを見て!」 静粛に入場してきた観客が、次第に熱狂していく。

 エルヴィスの歌声は、バリトンからテナーまで、さまざまな音階を行き来する。(エルヴィス自身、自分の歌い方を説明するのに苦労している)
「ロックンロールでもなく、カントリースタイルでもなく、何と呼べばいいのかわからない」
彼は6、7曲のナンバーの間に、演奏ごとに動きを変えている。彼は言う。「何をするかは、その場になってみないとわからない」。
(中略)
 ショーが終わるころには、彼は汗びっしょりで、栗色の髪はオイルで固めてあるにもかかわらず乱れ、(なぜカットしないのかと尋ねられるのを彼は嫌う)観客は悲鳴を上げる一つの塊に溶けてしまっている。ステージの前に膝をついた12人の警察がロープを持ち、熱心なファンが暴走しないようにと、エルヴィスが颯爽と去っていく。エルヴィスがいなくなれば、ショーは終わりである。

 エルヴィスを敬愛する人たちの多くは、エルヴィスが自分たちにどんな影響を与えたかを語るとき、言葉にならない。「エルヴィスは違う」と彼らは言う。「彼は私を良い気分にさせる 」「彼はキュートだ 」と、何度も何度も聞かされる。エルヴィスのファンは、彼の個人的な特徴について、バカだとか、賢いとか、たぶん文盲だとか様々だが、多くの人は、「もし彼が私に頼んだら、すぐにでも彼と結婚するだろう」と付け加える。
(※以降の文章はPart 2へ続く)

(上掲載のライブ写真は全てマービン・イスラエル撮影。白っぽい生地にチェック柄のジャケットはセカンド・ステージ。右写真2枚はフィル・ハリングトンの撮影)



Area No.5/Serial No.239 Part2 デイトン大学フィールドハウス(バックステージ)
 
(上写真はマービン・イスラエル撮影)

【 ELVIS PRESLEY: 新星か一時の流行か? (著)エドウィン・ミラー 】~Part 1よりつづき

 エルヴィスのファンたちは、時々思い出の品を手に入れようと必死になることがある。一度目は、フロリダ州ジャクソンビルでのことだった。
「女の子たちは私の服を引き裂き、ズボンの袖口も引き裂いた。あっという間の出来事で、怖がる暇もなかったよ」(上写真、及び左写真はフィル・ハリングトン撮影)

 公演の最中や終了後、関係者は入場料(価格は2ドル半まで)、エルヴィスの「サイン入り」写真の販売(サイズによって1ドルから1ドル50セント)、記念パンフレット(50セント)、ソングブック(1ドル50セント)で得たお金を数え終わる。そして、エルヴィスのロードマネージャーと地元の警察との間で、彼を待っているファンの間を縫って安全な場所に連れて行くための最善の方法について、ささやかな相談が行われるのです。エルヴィスは暴徒化には多少慣れてきたようで、「ジャクソンビルから何度もあったよ、事実上いつもね」と指摘する。もう怖くはないけど、ひっかかれないか心配なんだ」と付け加えた。

 エルヴィスが同じ講堂で昼と夜の公演を行う場合、彼は会場内に残ることを好みます。大勢の女の子を待たせることなく、自分の楽屋で過ごす。この部屋は、誰かがマットレスや古い簡易ベッドを放り込んで休めるようにした、その場しのぎの寛ぎのスペースがあることが多い。ショーとショーの間の4時間は、ステージにチェックしに戻ることもある。彼の崇拝者たちは常に建物の周りに群がっていて、鍵のかかったドアを大声で叩いている。

 ショーとショーの間に閉じ込められ、エルヴィスは誰かに夕飯の注文をする。ステーキもローストビーフも魚も食べたことがないエルビスは、「あの味が好きだと思ったことはない 」と言う。
 だいたい、彼はサンドイッチをいくつも頼み、ミルクかコーラ、あるいはその両方を飲みながら飲み込む。一時期はチーズバーガーばかり食べていたが、4個、5個、7個と食べ続けているうちに、嗜好が変わってきた。現在はグリルチーズとベーコンのサンドイッチを好んで食べている。
 2番目はホットドッグにスロウとマスタードをつけたものだ。エルヴィスはクッキーが大好きで、ココナツを細かくしたものがお気に入りだ。しかし、彼は「1日1食、1日中食べている」と言う。(下写真はマーヴィン・イスラエル撮影)

 
 エルヴィスの身長は180cm、体重は「70kgと80kgの間を行ったり来たりしている」。

 まだ21歳のパフォーマーなのに、エルヴィスは大衆に対して驚くほど成熟した態度を持っている。「サインを断るとか、そういうことは絶対にしない」と彼は言う。「100人分のサインがあったから1人に断ると、相手には断ってることがバレるだけ。どんなに疲れていても、そういうことは絶対に断らない。もうプライバシーはないだろうと思っていました。それはデビューしたときからわかっていたことです。それがビジネスの一部であり、自分にとって過酷であるなら、その仕事から手を引いたほうがいい。 そして、「もし "スクリーマー "がいなかったら・・・.心配だよ!」と付け加えた。
 ステージ上では、突然の名声を得たショービジネス界での悩み、突然売れなくなるというような不安をエルヴィスはほとんど感じさせない。エルヴィスは、「そんなことにはならないよ」と言い張る。
「でも、もし何かのきっかけですべてが止まってしまったら.・・・.そうならないことを願うし、そうなるとは思っていないけど、数年間は働きまくって、自分の才能について考え、ただ楽しむことができるように、そして十分にお金を貯めておくことを目標にしているんだ」。(上写真はマービン・イスラエル撮影)

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 フィル・ハリングトン、マービン・イスラエル両者の写真、およびエドゥイン・ミラーのエルヴィス論を楽しんで頂けたかのう?その後長く報道カメラマンとして活躍したフィル・ハリングトンとは対称的に、マービン・イスラエルの写真家としての活動は1956年を挟んだ数年間に過ぎなかったらしく、1984年に急死した後に「ELVISPRESLEY 1956」が出版された。
 なお、両者の写真の他にも地元新聞社のカメラマンの写真もかなりネット上でアップされておるので、チョイ頑固まめ鉄君に頼んで「オハイオ州アウトテイク集」の中で紹介してもらおうかのう!

 素晴らしき写真家二人による幾多の貴重なエルヴィス・ショットが生まれたデイトン大学フィールドハウスは、その後増築、改修が続けられ、現在は「トーマス・J・フレデリックス・センター」と改称されて、収容人5,000人のバスケットボール専用コートとして稼働しておる。(左写真はストリートビュー2015年3月撮影)
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