NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.407


第28回 エルヴィスゆかりの地~インディアナ州/イリノイ州編

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 風の吹くまま気の向くまま!自由気ままに行きたい所に行きながら、というか調べたくなった場所を調べながら諸君をエルヴィスゆかりの地へご案内するお馴染みチリ紙、じゃなくてバーチャル・ロックンロール・ツアー。今回はエレクトリック・ブルース発祥の地シカゴのあるイリノイ州とそのお隣のインディアナ州へ行ってみるぞ!インディアナ州はエルヴィスのラストライブが行われた場所じゃあ~と意気込んではみたものの、1950年代のエルヴィスのライブは、この2つの州では僅か4回しか行われておらんかった!シカゴにおいてはたったの1回じゃ。
 毎回諸君に貴重な時間を頂いてツアーに参加してもらっておるのに、たった4ヵ所のご案内では申し訳ない。それでもアレコレとネット調査を進めた結果、この4ヵ所の情報がいずれも話題性があって資料は読み応えがあり、さらに関連情報も幾つか見つかったので、これらをまとめてご紹介することにする。該当するエルヴィスの写真もたくさんあるので、これまでと同様にお楽しみ下され!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第28回 インディアナ州/イリノイ州編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はインディアナ州/イリノイ州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 【インディアナ州】
 Area No.1/Serial No.221
 リリック・シアター跡地/インディアナポリス 
 Area No.2/Serial No.222  アレン・カウンティ・メモリアル・コロシアム
                   /フォートウェイン

 Area No.3/Serial No.223
  マーケット・スクエア・アリーナ跡地
                    /インディアナポリス

 【イリノイ州】
 
Area No.4Serial No.224  インターナショナル・アンフィシアター跡地/シカゴ
 Area No.5Serial No.225 
サドル・アンド・サーロイン・サロン跡地/シカゴ

 
Area No.6/Serial No.226 シカゴ・スタジアム跡地/シカゴ
 

★ 本文中の表記について ★
 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  SRW=サンレコードのウェブサイト 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」


フランク・シナトラ、そしてエルヴィスのインディアナ州デビューとなった会場
Area No.1/Serial No.221 リリック・シアター跡地/インディアナ州インディアナポリス

 1909年にオープンしたリリック・シアターは、以降移転、または定期的に増築、改築が続けられて、1930年代には新しい象牙と金色のロビーを備えたインディアナ州で最も優れた劇場の 1 つとして広く認められておった。1927 年に州内で最大の劇場オルガンを導入することで評判を高め、映画、演劇、ミュージカルが大恐慌を乗り切るのに役立ち、インディアナ州最大規模の劇場として長く君臨しておった。
 リリック・シアターの名を一躍高めたのは、フランク・シナトラがドーシー・オーケストラに参加してインディアナ州デビューを果たした会場になったことじゃ。(1940年)それから約15年後の1955年12月4日にエルヴィスがこの会場に登場した。エルヴィスがドーシー・ショウに初めて出演した約一ヶ月前の出来事じゃった。シナトラとエルヴィスのインディアナ州デビュー会場は計らずも同じ会場だったのじゃ。
 エルヴィスはハンクス・スノウを座長とするミュージック・ジャンボリーの一員としての出演じゃったが、12月4日から7日までの4日連続で同会場に出演。悪天候でインディアナポリス到着が遅れたハンクス・スノウ抜きでコンサートは続き、エルヴィスのお蔭で座長不在をものともせずにイベントの盛況は続いたんだそうじゃ!

 SMWにおいて、リリック・シアターでのライブについて見逃せない短いエピソードが記載されておる。東海岸でのエルヴィス売り込みに熱心だったパーカー大佐は当時全米で有数のプロモーター会社ウイリアム・モリス・エージェンシーにエルヴィスを売り込んでおり、ウイリアム・モリス・エージェンシーはこの日のライブにもエルヴィス調査部隊を派遣していたというのじゃ。
 さらに調査団はエルヴィス及びライブに対して好意的な報告を上げておったそうな。まだ一ヶ月先のニューヨークでのドーシーショウ出演契約が完了していなかったならば、好意的な報告がなされたこの日のライブが「ドーシーショウ」出演契約の引き金、もしくは決定打になったといえる!

 リリック・シアターは1969年に閉鎖され、その後解体。周囲の大規模な再開発が進んだこともあって、跡地周辺には当時の雰囲気はまったく残ってはいない。跡地には現在商業ビルが建てられておる。ネット資料では所在地は135番地North Illinoi St.だったとされておるが、土地再開発の為に住所が若干変更となって、現住所155番地辺りが跡地と思われる。(右写真ストリートビュー2022年11月撮影)
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 “エルビスは、高い目標に向かって努力するためのインスピレーションである!”
 Area No.2/Serial No.222 アレン・カウンティ・メモリアル・コロシアム
      /インディアナ州フォートウェイン
 

 1957年3月30日、エルヴィスは約1年4ヶ月ぶりにインディアナ州にやって来て、フォートウェインというインディア州で2番目に人口の多い都市でライブを開催した。フォートウェインとは日本人にはまったく馴染みの街なので、“インディア州で2番目に人口が多い”と言われてもピンとこないはずじゃ。そこで、諸君の脳みそにフォートウェインという街の名前を印象付ける格好の話題を与えてしんぜよう!

1957年3月28日からスタートしたエルヴィスのアメリカ東部/カナダ・ツアーの中で、前売りチケットがもっともスピーディーに売れ続けた都市がフォートウェインじゃったらしい!

 それだけに事前の新聞報道もかなり加熱状態だった模様。オモシロイのは「エルヴィスはメモリアル・コロシアムの観客動員数の新記録を達成するかもしれない!」と、それまでの最高記録であるボブ・ホープなるコメディアンのショーの観客数11,123人という具体的な数字まで引き合いに出しておること!結果、エルヴィスのライブ入場者は10,003人で僅かにボブ・ホープの記録に及ばなかったとまで報道されておった。
 またこのツアーにおけるエルヴィスの破格のギャラを、少年時代に母親から買ってもらったギターの価格(2.98ドル)やトラック運転手時代や劇場案内人時代のお給料と比較して「今世紀最大のアメリカン・ドリーム!」と表現したり、フォートウェインのマスコミは数字が大好きなご様子!

 

 また好意的な事前論評や後日のライブレビューがかつてないほど目立つので、最も特徴的な論評をご紹介しておこう。
「エルビスは、高い目標に向かって努力するためのインスピレーションです。彼はアメリカの若者に、不可能なことは何もないことを示しています。貧しいテネシー州のトラック運転手が1年以内に億万長者になることよりも不可能に思えるものはありますか?エルビスを愛するこれらのティーンエイジャーは次のように感じています。どのような職業に就こうと計画していても、頂点に達することができるということです。したがって、彼らは最低賃金の従業員になることを目指しているのではなく、高給の雇用主になることを目指しています。」

「私は、エルビスがこれまで世界が知っていた中で最も偉大なものだと証明しようとしているわけではありませんが、彼はこれまでにないほど偉大なエンターテインメント・パーソナリティであり、若い人たちが長い間追いかけてきた最も偉大なインスピレーションです。私が言いたいのは、私たちの世紀の歴史が書かれるとき、偉大なエルビス・プレスリー氏のために、大きな1章か2章を割くべきだということです。残念ながら、アメリカ合衆国大統領がそのような献身と崇拝の源ではありません」

 
 
「カメラで撮影したフラッシュ電球が、巨大なアリーナのあちこちで光り、7月4日(独立記念日)の祭典のフィナーレのように明るくまばゆい光を放ちました。その光は、激しい雷雨の中で、閃光が次々と重なっていくような鮮やかさであった。しかし、雷は鳴らない。黒髪にもみあげ、金色のジャケットを着たプレスリーは、まるで大風に吹かれるようにステージを揺れ動いたのでした!しかし、風は吹いていない。ただ、大声で、長く、けたたましく、絶え間なく続く叫びがあるだけ。
 私たちは、閃光弾も文明国の10代の行動も知らない無教養な野蛮人が、この中に異教の神の実体化を見たと思わざるを得なかった。超常現象のような怖さを感じたのでした」


 またマスコミ自体が異常に盛り上がっていただけに、ライブ前のインタビュー・タイムの写真も豊富!(上写真)良いショットもあればピントがぶれたりフォーカスが定まっていないショットもあり、ファンよりもマスコミの異様な“舞い上がりぶり”を物語っておるようじゃ。

 なお、エルヴィスは1972年6月12日(左写真)、1976年10月25日にも同会場でライブを開催しておる。76年のライブ評ではエルヴィスは人間を超越した存在のように記されておる。
「エルヴィスは成熟した世界で最も甘いタフガイである。50年代のエルヴィスは脅迫的だったが、今や彼は大躍進し、既に自分の時代の伝説となった。最近、彼はまるでウィーン(超ハイクラスのクラシック音楽の会場?)のデザートのようだった」

 メモリアル コロシアムは現在でも稼働中であり、アイスホッケー、バスケットボール、アメリカンフットボールのプロチームのスポーツ・テナントじゃ。インディアナ州北東部、オハイオ州北西部、ミシガン州南部の 3 州地域にサービスを提供し続けており、音楽ライブ、スポーツ、様々なコミュニティ・イベントの中心地として、中西部各地からの訪問者を引き付けておる。(右写真右側、ストリートビュー2022年10月撮影)
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  キング・オブ・ロックンロールのラストライブ・アリーナ
Area No.3/Serial No.223 マーケット・スクエア・アリーナ跡地
                       /インディアナ州インディアナポリス
 

 エルヴィス・ファンならば誰でもご存知の通り、ここは1977年6月26日にエルヴィスの最後のステージとなったライブ会場じゃ。
グダグダ説明したところで「そんな事知っているよ!今更うるせーぞ七鉄!!」ってなっちまうんで、あらたまった解説、ご案内は止めておこう。その代りにネットで拾ったエルヴィスのラストライブに関する割と新しいレポートを引用しておくぞ。「Indiana History Blog」なるウェブサイトに2016年6月24日付でアップされた記事じゃ。
 ラストライブデー当時のエルヴィスは、アメリカ音楽シーンではキングを超越した存在であり、マスコミやファンはエルヴィスに対して「カラスは白でございます」だった時代。そんな頃に数少ない同情的、もしくは懐疑的だったエルヴィスのライブレビューが紹介されておる。少々読み応えがあったので諸君も是非御覧頂きたい。

 キング・オブ・ロックンロールと呼ばれたエルビス・プレスリーは、その伝説的な威厳と美貌、そしてユニークなボーカルスタイルで、何十年にもわたって観客を熱狂させました。1977年6月26日、インディアナポリスのマーケット・スクエア・アリーナで行われた最後のコンサート、約18,000人の観衆を前にした彼の最後のパフォーマンスは、多くのマスコミの注目を集めたのです。

 6月25日付の『インディアナポリス・ニュース』の記事は、この公演を音楽ファンにとって必要不可欠なイベントと位置づけていました。インディアナポリス・スター紙は、「エルビス・プレスリーの背中を見たいなら、明日の夜、マーケット・スクエア・アリーナで行われる彼のコンサートのステージ裏の15ドルの席がまだ買える」と戯れに書いています。15ドルというと大したことはないように思えるが、これは現在の60ドル近くに相当します。

 コンサートは午後8時30分に始まりましたが、エルヴィスが出演したのは午後10時でした。ブラスバンド、ソウルシンガー、コメディアンなどのウォームアップがキングの前の時間を埋めました。そして約80分間、エルヴィスは "Jailhouse Rock "や "Hound Dog "といった名曲から、"Hurt "やサイモン&ガーファンクルの "Bridge over Troubled Water "のカバーといった地味なナンバーまで歌い上げました。最後は、最も切ないバラードのひとつである "Can't Help Falling in Love with You "でコンサートを締めくくりました。

 「また会おう、神のご加護を、アディオス」と告げ、エルヴィスはステージを降りたと伝えられています。映像で見る限り、観客は熱狂しているように見えますが、地元マスコミは少々懐疑的でもありました。インディアナポリスのマスコミ界では、彼のパフォーマンスの質について賛否両論があったようです。
 インディアナポリス・スター紙のリタ・ローズの記事は、エルヴィスの外見を批判しながらも、このショーを同情的かつコミカルに書いていました。
 「大きな疑問は、もちろん、彼が痩せたかどうかです。約2年前のコンサートでは、エルヴィスは太りすぎ、病気がちで、無気力なパフォーマンスをしていました。休憩を終えてアリーナの照明が落とされると、観客の間に無言の嘆願が響くのを感じたものです。エルビス、お願いだから、太らないで!」。
 彼女は「42歳のエルビスは、まだお腹に余分な荷物を抱えているが、それでもプレスリーらしいパフォーマンスは止められない」と書いて、読者を安心させました。彼女は、"It's Now or Never "や "This Time You Gave Me a Mountain "など、いくつかの曲で彼がいかにうまく歌っているかを熱く語っている。ローズの作品は、コンサートの良い要素と観衆の興奮を強調していたのです。

 逆に、インディアナポリス・ニュース紙に掲載された評論家ザック・ダンキンの記事は、完璧な悪評でした。(中略)ダンキンが最も強く批判したのは、キング自身である。彼は、"エルヴィスは歌おうとすれば歌える "と書いたのです。ダンキンの見解では、エルヴィスのベストナンバーは「Hurt」と「Bridge over Troubled Water」の演奏であり、しかしエルヴィスは「なぜか歌詞をシートから読まなければならなかった」としています。
 ダンキンの冴えないキングの印象は、最後にこう締めくくっています。「熱烈なプレスリー・ファンは、自分たちのアイドルを守るのをやめて、もっと要求するようになる時だ。彼らは "ザ・キング "がもっとうまくやれることを知っているのだ」。
 悲しいことに、エルヴィスはインディアナポリスでの公演が最後となり、それ以上のことをする機会を得ることは出来ませんでした。マーケット・スクエア・アリーナでのコンサートの後、エルヴィスはツアーから離れ、グレースランドに帰郷。そしてインディアナポリスでのコンサートから約6週間後、エルヴィスは1977年8月16日、自宅で心不全のため亡くなりましたが、これは長年にわたる処方薬の乱用が原因だったようです。

 その後数ヶ月間、ダンキンはエルヴィスのファンから、自分の書いた不評レビューに対して怒りの手紙を何通も受け取ったそうです。ダンキンは受け取った手紙について、特に彼の人格に対する攻撃と、エルヴィスに対する「嫉妬」と思われるものについて話していました。
 しかし、他の手紙(彼の見立てでは20%程度)は同情的で、ある手紙はキングを "家にいるべきだった "と言っていたそうです。ダンキンのレビューは、今ではエルヴィスのファンや音楽史の研究者から注目されています。

 マーケットスクエアは2001年に解体され(下左写真)、跡地は長らく駐車場になっておったが、2018年フードセンターを含む28階建て大型アパートメント「360マーケットスクエア」が建てられた。(下中央写真、ストリートビュー2022年11月撮影)「エルヴィス・ラストコンサート記念碑」が駐車場だった頃から設置されており、360マーケットスクエア完成に合せて、マーケットの西側に隣接するフードセンター前にあらためて奉納されておる。(下右写真)
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 出来立てゴールドスーツでイリノイ州初見参!
Area No.4/Serial No.224 インターナショナル・アンフィシアター跡地/イリノイ州シカゴ
 
 1950年代においてイリノイ州で行われた唯一のエルヴィスのライブは、1957年3月28日シカゴのアンフィシアター(左下写真)で行われた。納品されたばかりの上下ゴールドのスーツで登場した最初のライブとしても有名であり、エルヴィス史の中で見逃せないポイントになっておる。

 当日の観客数約12,000人。ゴールドスーツ2,500ドル&ゴールド・シューズ50ドル。演奏時間47分。披露した曲数16曲。会場の総売り上げ3万2千ドル。ライブ中に気絶してしまった女の子13人!チケットが入手出来なかったにもかかわらず、13ドルのドレスを着て70マイルをドライブして会場までやってきた15歳の少女もいた、といった様々な具体的な数字がSMWに踊っておるが、それよりも目を引く記述は次の通り。

「金色に輝くエルヴィスが“ハートブレイク・ホテル”を歌い始めると、巨大な轟音が10分間に渡ってアンフィシアターを揺るがした。それはまるで部族の宗教儀式のようで、エルヴィスは高位の首領のようだった」

 大観衆がロックンロール・ライブに熱狂してスターを崇め奉る様子が「宗教儀式の様」と表現されるのは、ビートルズ、ローリングストーンズが登場した60年代以降は当たり前になったが、その最初の例はエルヴィスがゴールドスーツで登場したこの日だったのかもしれない。
 また警官を制止をかいくぐってステージに突進する女の子に衝突された会場の案内係だった18歳の少年は、衝突の反動でひっくり返って頭蓋骨を骨折して病院に搬送されるというハプニングもあったそうな!

 ゴールドスーツをめぐるエルヴィスとパーカー大佐のオモシロイやりとりもSMWで紹介されておる。エルヴィスはこれまでのステージと同じように時には膝から腰を下ろしてゴールドのパンツを床にこすりつけながらファンを煽るセクシーなアクションを見せ、またゴールドのシューズを脱いでみせたりしたという。
 ライブ終了後にそのアクションを大佐から「今後は絶対にやらないでくれ」と咎められたそうな。ゴールドスーツの着用は大佐の発案だと言われておるが、膝をついたパンツが擦り切れたり、脱いだシューズが熱狂するファンに盗られてしまうことを懸念したのか!?う~ん、お金にケチくさい大佐の考えそうなことではあるがその真相や如何に!ゴールドスーツはステージでは動きにくいという理由から、エルヴィスはパンツの着用をすぐに止めてしまうことになるが、案外スーツやシューズを何回も作り直す費用をケチった大佐の指示だったのか!?

 インターナショナル・アンフィシアターは、その後長らくシカゴの大型コンサート会場、政治集会場のメッカとして稼働した後、2000年8月に取り壊された。跡地にはAramark Uniform Service なる各種ユニフォームを製造する大型工場が建てられておる。(左写真ストリートビュー2022年11月撮影)
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【余談】
 エルヴィスが初めてゴールドスーツ姿で登場したアンフィシアターのライブ写真は幾つかネット上でアップされておるが、そのうちの1枚が意外なジャンルにおいて商業目的で利用されておったことを発見した。
 1967年、新聞とテレビが激しく競合したため、新聞社は購読者数を維持するためにさまざまな仕掛けを試すようになったという。その試みのひとつが、シカゴの新聞社が行った有名人のポスターを新聞に挿入するというサービスじゃ。
 ジェームス・ディーン、ナンシー・シナトラ、ジェームス・キャグニー、ジェームス・スチュワート、ビートルズ、そしてエルヴィスなど、当時の有名人の写真がポスターに使用されたのじゃ。エルヴィスの写真はアンフィシアターでのライブ写真じゃった。(左写真)1967年ならば、まだエルヴィスも大佐も健在の頃じゃ。よくまあ大佐が写真の使用許可を出したもんじゃ!それとも大佐は気が付いていなかったのじゃろうか!?

 この情報は2020年7月10日に入札が締め切られたアメリカの某オークション情報サイトに掲載されておった。出品されたポスターは(左写真)、捨てられやすい紙媒体という新聞の特性上、存在自体が希少。また新聞の中の封入物という新聞の印字が滲みやすいことを考慮するとかなりの美品状態だったという。(ポスターサイズ63.5×60cm)


“超イケメン状態”でエルヴィスはシカゴにやって来た!
Area No.5/Serial No.225 
        サドル・アンド・サーロイン・クラブ跡地/イリノイ州シカゴ


 
 こちらはアンフィシアターに隣接していた「ストックヤードイン」というホテル内にあった高級レストラン&舞踏会場。エルヴィスはアンフィシアターでライブを行う前に「サドル・アンド・サーロイン・クラブ」で記者会見を行っておる。写真撮影時のエルヴィスの表情は冴えまくった爽やかな表情をしており、カラー写真も残されておるだけに、後にエルヴィスのイケメンぶりが紹介される時にこの時の写真が数多く使用されることになった!

 アンフィシアターは、元々近隣から集められた畜産用動物/食肉の大博覧会場として使用されており、1924年をピークに、世界のどの場所よりも多くの肉がシカゴで加工されていた食肉産業の発展を象徴する場所じゃった。
 ストックヤードインは、いわばシカゴ産の食肉を求めてアンフィシアターの博覧会にやって来た業者たちの宿泊施設であり、クラブはその食肉に舌鼓を打ちながらの高級社交会場だったのじゃ。
 エルヴィスがライブ前にクラブで記者会見を行うことになった経緯は定かではないが、約10年後にビートルズがシカゴ・ライブの前に同じ場所で記者会見を行ったこともあり、ビッグスターたちのシカゴお披露目会場としても稼働していた場所じゃ。
 

 SMWにクラブでのインタビューの概要が掲載されており、その内容の大意は次の通り。
 去年はいくら稼いだのかという質問に対して、エルヴィスは「100万ドルちょっとです」と返答。今年はいくら稼ぐつもり?との質問には「もう100万ドル以上稼いだよ 」と!更に「もうちょっと稼いでもいいが、もうすぐ軍隊に行かなければならない」というコメントも発しておる。
 またパーカー大佐からは2,500ドルのゴールドスーツが紹介され、エルヴィスはゴールドスーツと同時着用するゴールドシューズを報道陣に披露しておる。(上左写真)
 さらに、冗談なのか嫌がらせなのか、クラブ内には犬が連れてこられており、差し出されたエルヴィスが抱き上げる一幕もあった!


 ストックヤードイン/サドル・アンド・サーロイン・クラブはアンフィシアターとともに取り壊されており、跡地の現状やGoogle-map上の位置に関しては「アンフィシアター」を参照。


どうしてエルヴィスはジャンプスーツを着ていないのか!?
Area No.6/Serial No.226 シカゴ・スタジアム跡地/イリノイ州シカゴ

 1972年6月17日、シカゴ・スタジアム(左写真)でのエルヴィスのライブは何ら滞りなく敢行され、相変わらずの大盛況。キングの歩む道に死角なし!といった状況が続いておった。
 当時はまったく話題にならなかったが、あらためて各ライブをチェックしていくと、この日はひとつだけ異変が起こっておった。既にエルヴィスのトレードマークとなっていたジャンプスーツを着用していない珍しいライブだったのじゃ。しかもジャケットはシンプルなデザインのピュアホワイト(アイボリー?)。襟だけはジャンプスーツばりのハイ・スタンドカラーじゃ。(上左、右写真)インナーのシャツもデザインの詳細はワカランがクールじゃのう!(上中央写真)

 何故エルヴィスはこの日ジャンプスーツを着ていないのか。ちょいと調べてみたが理由らしきもんはまったく見つからずで、スイマセン。ちなみにホワイトジャケットを着ておるのは14:30スタートのファーストステージであり、セカンド・ステージではブルーのジャンプスーツを着ておる。6月17日前後のライブショットを可能な限りチェックしてみたが、大半のライブもジャンプスーツが着用されておる。
 EDDもチェックしたところ、もうひとつの例外が3日後のオクラホマ州タルサでのライブじゃった。シカゴ・スタジアムでのジャケットと酷似しておるが、左側のオープンポケット上の刺繍?が違うようにも見える。こちらのジャケットについては後日オクラホマ州をご案内する時にでもあらためてご紹介しよう。

 なお同年8月から1972年度版エルヴィス・ラスヴェガス・ショーがスタートするが、ヴェガスでのエルヴィスはホワイトジャケットをよく着用しておった。上述した両日での着用はヴェガス・ショーの為の試着の機会だったのであろうか!?

 シカゴ・スタジアムは2つのプロ・フットボールチームの本拠地であり、またエルヴィスの他にもエルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、レッド・ツェッペリン、クイーンら錚々たるロックスターたちのライブ会場として長らく栄えたシカゴ一のイベント会場じゃった。エルヴィスは1977年1月にも再びシカゴ・スタジアムでライブを行っておる。その後1997年に解体され、跡地は現在も広大な駐車場のままである。(右写真ストリートビュー2019年6月撮影)
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