NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.402


第25回 エルヴィスゆかりの地~カナダと国境周辺州・中編

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 「バーチャル・ロックンロールツアー」2023年度版は、旧年最後の「カナダと国境周辺州」の続編(中編)からスタートするぞ。太平洋沿岸のカナダ・バンクーバー、国境を挟んで南側のワシントン州タコマとシアトル、更に南のオレゴン州ポートランドじゃ。1957年度の「カナダ/北米ツアー」の軌跡を網羅していくので、よろしゅーな!
 またシアトルについて調べていてあらためて気が付いたが、ここはエルヴィス12作目の映画「「ヤング・ヤング・パレード It Happened at the World's Fair」の撮影に使われた1962年度万国博覧会会場もあった。映画のロケ地の一部も紹介しておるんで併せて楽しんで頂きたい。




【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第25回 カナダと国境周辺州・中編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はカナダと国境周辺州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。


 Area No. 9/Serial No.199
 ホテル・ジョージア/バンクーバー
 Area No.10Serial No.200  エンパイア・スタジアム跡地/バンクーバー

 
Area No.11Serial No.201
 リンカーン・ボウル/ワシントン州・タコマ
 Area No.12Serial No.202  シックス・スタジアム跡地/ワシントン州・シアトル
 
  21世紀万国博覧会会場跡地/ワシントン州・シアトル
 Area No.13/Serial No.203 その1 モノレール・ターミナル

 Area No.14Serial No.204 
その2 スペース・ニードル

 Area No.15/Serial No.205 ポートランド・ユニオン・ステーション/オレゴン州ポートランド
 Area No.16/Serial No.206  マルトノバ・シビック・スタジアム
                                 /オレゴン州ポートランド

 

★ 本文中の表記について ★
 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  SRW=サンレコードのウェブサイト 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」


私の人生最大の失敗は、「エルヴィスは1226号室に泊まった」と言ってしまったことでした
Area No.9/Serial No.199 ホテル・ジョージア
 前回の「カナダと国境周辺州・前編」の最後で、エルヴィスはバンクーバーの到着駅にファンが集結して起きる混乱を避けるため、駅から約1キロ手前の地点で列車を降りて車に乗り込んだことをご紹介した。その後エルヴィスを乗せた車はダウンタウンにある超高級ホテル「ホテル・ジョージア」に向かった。(左写真)
 このホテルはカナダ国内外を問わず、バンクーバーを訪問した皇族や政府高官、ビッグスターたち専用ともいうべきバンクーバー一のハイクラスホテルじゃ。エルヴィスは12階の最上級スイート1226号室にチェックインしたといわれておる。このお部屋は現在では「ロード・スタンリー・スイート」と命名されており、その広さは約120平方メートルに及び、専用の屋上ガーデン、プール、暖炉があり、20~30名のハリウッドスタイルのパーティーが可能な広さと設備を誇っておる。お値段は1泊6,000ドル(現在のレートで約780,000円!)であ~る!
 試しにわしが世界放浪中に頻繁に利用しておったホテル・サイトの代表格booking.comでホテル・ジョージアの宿泊代を確認してみると、もっともお安いお部屋で1泊約40,000円でごぜーました!

 果たしてエルヴィスが屋上ガーデンやプールを使用したのかどうかは不明じゃけど、ひとつだけおもしろいエピソードがSMWに記載されておった。バンクーバーでのライブ前にエルヴィスにインタビューしたり、ライブで司会を担当した地元ラジオ局CKNWのDJだったレッド・ロビンソンが、ライブの翌日にラジオ番組内で「エルヴィスは1226号室に泊まっていた」と喋ってしまったため、ファンがホテル殺到!1226号室のカーペットをひっぱがすわ、ベッドシーツを奪い合ってびりびりにするわ、そりゃもう大騒ぎになってしまい、CKNWはホテル側から5,000ドルもの賠償金を請求されたという!もう60年以上前の5,000ドルって、とんでもねー金額じゃ!レッド・ロビンソンはラジオでの発言を「私の人生で最大の失敗」と後にコメントしておる!

 しかし当時から超高級ホテルだったホテル・ジョージアが、たくさんのエルヴィス狂の女の子たちを12階のお部屋まで通してしまったってほんまかいな?ホテル側が無防備過ぎたのか?女の子たちの行動力が凄すぎたのか?
(下左写真ストリートビュー2022年10月撮影。下中央、右写真は、現在のロード・スタンリー・スイート)
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  観衆がステージに突進!22分で打ち切られた狂乱のライブ!!
Area No.10/Serial No.200 エンパイア・スタジアム跡地/バンクーバー
 エルヴィスの生涯最後のアメリカ国外でのライブ地となったカナダのバンクーバー(1957年8月31日)。アメリカとカナダの国境から約50キロの太平洋沿岸地域に位置するこの街は、カナダでも有数の大都市じゃ。約半年前にはほぼ真東に4,200キロ離れたモントリオールやオタワで起こった激しい「反エルヴィス騒動」もほとんどなく、ライブ会場になったエンパイア・スタジアムには約26,000人もの大観衆が詰めかけたと言われておる。たった一人のミュージシャンを観るために、これほどの大観衆が集まったのはカナダ建国史上初であり、エルヴィス・プレスリーの名はカナダの歴史にその名が輝かしく刻されることになったのじゃ。

 エルヴィスがバンクーバーにやって来た事自体が大きな事件であり、また集まった大観衆の行動も大事件となった。スタジアムのグラウンド上に設置されたステージは観覧席最前列から約90メートル離れておったが、ライブのスタートとともに大観衆が続々とグランドに降りてステージめがけて突進!予め大がかりな警備体制が敷かれていたので、グランドを突っ走る観衆はステージにまで至ることはなかったが、それでも観覧席後方の観客まで少しでもエルヴィスに近づきたいとばかりにグランド方向へ大移動を続けた。

 そんな騒動の中でライブは続けられたものの、やがてパーカー大佐はライブの中止をエルヴィスに指示。「エルヴィスの身に危険が及ぶことを察知したのだ。カナダの警備体制はまったくもって甘い!」とは大佐の後日談じゃ。当時エルヴィスのライブ時間は40分強だったものの、この日は僅か22分で終了となったのである。(一方では、大佐はこの日の騒動を伝える翌日の新聞をニヤニヤしながら読んでいたという証言もあり!)
 エルヴィスはライブ中止後すぐさま楽屋裏に移動し、スタジアムから姿を消したと言われておる。「Elvis has left the building」とアナウンスされたかどうか定かではないが、ライブが中止されたことが観客をよりエキサイトさせてしまい、熱狂的な女性ファンたちはグランドに降りるとステージ周辺のグランドの土をひっかき集めたりしたという!
 甲子園球児たちが甲子園の土を手ですくい集めて持ち帰ったのは1958年8月9日に初めて沖縄県から出場してきた首里高校の選手たちからだったらしいが、バンクーバーの女の子は約1年前に同じことをやったんじゃなってどうでもいいハナシじゃな(笑)

 随分後になってからの会場関係者の証言じゃが、ステージを降りて楽屋裏に消えた様に見えたエルヴィスは、実はファンの暴動が起きた場合を想定して予め作られたおったステージ下の小部屋に隠れていたんだそうじゃ。小部屋に逃げ込む際には、ゴールドラメのジャケットを脱いで側近の一人(多分ジーン・スミスとか)に渡したそう。ゴールドのジャケットはエルヴィスの囮役が着用し、囮役はそのままエルヴィスのふりをして駐車場に停めてあったキャデラックに乗り込んだとのことじゃ。
 一方エルヴィスはグランドに降りていたファンたちが立ち去った後に隠れていたステージ下の小部屋から出てきて、無事スタジアムを後に出来たということじゃ。

 

 なおArea No.9ホテル・ジョージアでご紹介した地元ラジオ局のDJであり、この日のライブの司会者だったレッド・ロビンソン(上右写真)は、約7年後の1964年8月12日に開催された同会場でのビートルズのライブでも司会役を務めた。ロビンソンの回想によると、ビートルズのライブは、グラウンドに座席があったことを除けば、まったくエルヴィスのライブ同様のファンの暴走が起こったという。
 またSMWのライブ記録ページの最後は、ビートルズがエルヴィス邸を訪問した時の記述で〆られておる。ジョン・レノンの回想によると、この日エルヴィスとビートルズはライブ・ツアー中に起こったおもしろい出来事について談笑し合い、エルヴィスはバンクーバー・ライブでのファンの様子をビートルズに話して聞かせたんだそうじゃ!

 エンパイア・スタジアムは、長らくアメリカン・フットボールやサッカーのプロチームの本拠地グラウンドとして利用されておったが、1990年代初頭に取り壊し。しばらく大規模な見本市会場の駐車場となっておったが、近年はエンパイア・フィールドというサッカーグランドになっておる。(右写真ストリートビュー2020年9月撮影)

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“The Elvis Presley National Anthem !”♪~You ain't nothin' but a hound dog!
Area No.11/Serial No.201 リンカーン・ボウル/ワシントン州・タコマ
 
 1957年8月31日狂乱のカナダ・バンクーバー・ライブを終えた翌日9月1日、エルヴィスはアメリカへ戻り、ワシントン州タコマでPM2:00よりライブ。さらに同日PM8:00には、列車で1時ほど北上したシアトルでライブ(下記Area No.4参照)というハードスケジュールをこなしておる。
 バンクーバーのライブは約26,000人という大観衆に迎えられ、大勢のファンがステージに押し寄せてきて僅か22分でライブは打ち切られたが、タコマ・リンカーン・ボウル(野外フィールド)では前夜の騒動など無かったようにエルヴィスは絶好調で歌いまくって、約6,000人の観客をあらためて熱狂させたという記録が残っておる。

 この1957年8~9月の北米/カナダ・ライブツアーにおける目に付いた新しい記述記録は、エルヴィスがラストナンバーを歌う前のMCで「The Elvis Presley Anthem !(エルヴィスの国歌)」と前置きした上で「星条旗よ永遠なれ」ではなくて「ハウンドドッグ」を歌ったってことじゃ!さらに野外のスポーツ会場が使用されたために、エルヴィスがステージから飛び降りてひざづいて歌った場所の土をファンがライブ終了後にひっかき集めた!というヤツ!
 このタコマでも同様のシーンが見られ、スタートから爆発したファンの熱狂はクライマックスの「ハウンドドッグ」でまるで戻ることのできないようなハイテンションに達した!「アメリカ国歌~」ってくだりはエルヴィス特有の体制側へのブラックジョークなんじゃろうが、まさにキングと呼ばれたロックンローラー、エルヴィスだけに許された超特権的暴言じゃ!さしものビートルズもレッド・ツェッペリンもここまでは言えなかった!!

 なおライブ翌日に発行された地元紙「タコマ・トリビューン」にパーカー大佐のオカシナ!?な談話が掲載されておった。その内容は、まず大佐が禁酒法時代にアメリカ南部でハダコールという酒の代わりになるビタミン・サプリメント・ドリンク(アルコール度数約12%)を売ってお金を稼いでいたことに触れ、更に「エルヴィスってえのはとても良い若者だよ。何も問題はない。まあエルヴィスとハダコールとどっちが売りやすいかは分からんけどな!」ムカつくような笑えるようなコメントじゃ!?
 
 リンカーン・ボウルは、1914年に開校されたリンカーン・ハイスクール所有のスポーツ・フィールドであり、現在でもアメフト用のスタジアムとして稼働中。ストリートビューでは会場内が分からないので航空写真を代わりに掲載しておく。(右写真)

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  エルヴィスは真っ赤に燃えていた!
Area No.12/Serial No.202 シックス・スタジアム跡地/ワシントン州・シアトル
 

 1957年北米/カナダ・ツアー4都市目は、日本人メジャーリーガーだったイチロー選手が長らく活躍した場所として日本人にもなじみの深いシアトルじゃ。またこの日のライブ(1957年9月2日)は、10年後に突如ロックシーンに現れて新たなる革命を起こしたジミ・ヘンドリックスが鑑賞していたライブとして、エルヴィス、ジミ両者のマニアの間でも名高いライブである。当時まだ14歳だったジミは、この日のライブ体験を数か月後にドロウイングとして作品化しており、エルヴィスが着ていたゴールドラメのジャケットを真っ赤に描いたジミらしい超独創的な画風としても有名じゃ。(左写真)

 このシアトルのライブに関しては、2015年に「超頑固七鉄コーナー」第213回目において、「エルヴィス、ジミヘン、イチローetc・・・!?シアトルにまつわる“ザ・キング・レジェンド”!」と題して書かせて頂いておる。わしとしては大変に懐かしいコラムであり、エルヴィスのみならず、ジミ・ヘンドリックス、イチロー、またシアトルという街にまつわる様々な“キング伝説”についても触れておる。あらためて書くコラムよりも是非ともそちらを諸君に読んで頂きたいので、よろしくお願いいたします!!
 
 シックス・スタジアムは1972年に取り壊され、現在跡地にはLowe's Home Improvementというホームセンターが建てられておる。(下中央写真。ストリートビュー2022年10月撮影)また跡地の北東角には、かつてこの地にシックス・スタジアムが存在していたことを知らせる小さな標識も設置されておる。(下右写真)
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  21世紀万国博覧会会場跡地
第12作目のエルヴィス映画でもっとも印象的なロケ地!
Area No.13/Serial No.203 その1 モノレール・ターミナル
 ここで時計の針を少々早送りしてみよう。シックス・スタジアムでのライブから約5年の後、エルヴィスは再びシアトルにやって来た。12作目の映画「ヤング・ヤング・パレード It Happened at the World's Fair」の撮影のためじゃ。丁度シアトルでは「21世紀万国博覧会」が開催中であり、万国博覧会会場は映画のロケ地としてふんだんに使用されたのじゃ。.
 当時の知事アルバート・D・ロゼリーニ氏は、元々映画を利用して全米にシアトルと万国博覧会をアピールしたい目論見があり、知事の意向が反映されたのか、映画のタイトルも当初「Take me to the fair」だったという。当然エルヴィスのシアトル入りも大歓迎しており、1962年9月5日から約10日間の撮影期間中に知事は何度かエルヴィスを訪問しておったそうじゃ。

 万国博覧会会場での撮影ポイントを現在地と参照していくとかなりの数になってしまうので、今回は2ポイントのみご案内しよう。まず映画内の印象的なシーンのひとつであるモノレール・ターミナルじゃ。モノレールは万国博覧会会場からダウンタウンまでを結ぶ高架鉄道して博覧会の開催に合わせて開通した。ターミナルやモノレール車内がエルヴィス映画によってスクリーンに登場したことは知事の目論見通りに大いにPRに繋がったはずじゃ!
 映画の撮影開始日が9月5日に設定されたのは、シアトル地域の公立学校の始業日にあたり、撮影現場にファンが押し寄せて撮影に支障をきたすことを避けるためだったという。しかしそれでもモノレール・ターミナルには何百人ものファンが集まったという。

 

 まず上左写真。左端がロゼリーニ知事。映画撮影初日(1962年9月5日)に、現場入りしたエルヴィスをモノレール・ターミナル前で出迎えたとされる1枚じゃが、2009年ワシントン州無料ネット百科事典に寄せられた当時の関係者のコラムによると、撮影日は9月12日と判明。
 エルヴィスと知事が手にしておるデカイぶつは、テネシー州知事ビュフォード・エリントン氏からロゼリーニ氏へ贈られてきた高級ハムらしい。エルヴィスはプレゼンターとして担ぎ出されたのじゃ。しかしエルヴィスから知事へのプレゼント然!とした撮影アングルは、ちゃっかりさんの知事のアイディアか!?
 このハムについてオモシロエピソードがひとつ。テネシー州から届いたこのハムを見た大佐は、「(表面の)焦がし具合が適切ではない!これじゃ超高級ハムには見えんぞ!」って“注文を付けた”らしい。さすがは偉大なる詐欺師の大佐じゃ!(笑)

 次に上中央写真。ターミナル内での撮影の休憩時間のショット。ちっちゃい女の子は映画に出演したヴィッキー・ティウちゃん。彼女はかなりの両家のお嬢ちゃんだったらしく、後に第5代ハワイ州知事の奥様となった!上右写真は、モノレール内での撮影時間内でのひとコマじゃ。

 更に左写真は、エルヴィスと知事はハムの受け渡しが終わった後、ターミナル入口近くに集まっていたファンたちにサインのサービス。この時エルヴィスから受け取ったハムを持っていなかった知事は「エルヴィスから渡されたハムはどうしたんですか?」という意地悪なマスコミの質問に対して「Olympiaに送り返した」という意味不明?な発言をしておったそうな。
 実は知事はハムを贈呈されたことに動揺しておったらしい。「テネシー州からの賄賂」とでも世間から受け取られることを危惧しておったのか、その点は謎じゃ。

 シアトル世界万国博覧会会場は、現在は「シアトル・センター」なる巨大複合施設として稼働しており、音楽、イベント会場、スポーツ会場、劇場、子供用レクレーション施設等が敷地内に点在しておる。モノレール・ターミナルはシアトルセンター敷地内のほぼ中央に位置し、エルヴィスが映画撮影用として使用した時からほとんど変化することなく現在も現役のステーションとして稼働中である。右写真はストリートビュー2015年9月撮影。
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映画撮影時はアメリカ本土初の回転式だった展望レストラン

Area No.14/Serial No.204 ~その2 スペース・ニードル
 シアトルの21世紀万国博覧会のシンボルでもある、高さ184メートルのタワーがスペース・ニードル。映画の中でもちらほら写っており、宣伝用ポスターでもエルヴィスの右隣りに描かれておる。エルヴィスとヒロインのジョーン・オブライエンとのロマンチックなお食事シーンは、スペース・ニードルの展望レストランで撮影されておる。(下写真)このシアトルの街並みが一望出来る展望レストランは47分間で360度回転するアメリカ本土初!のパノラマ・レストランじゃった。

 アメリカ合衆国での最初の回転レストランは、1961年にハワイ州ホノルルのアラモアナショッピングセンターのオフィス棟頂上部に設けられた「ラ・ロンド」とされる。これを設計したシアトルの建築家であったジョン・グラハムは、シアトルの展望塔「スペース・ニードル」にも回転レストランを設けた。
 累計230万人が入場した万国博で、毎日2万人がエレベータを使ってこのタワーに登った。来場者は時速16キロメートルのエレベータで展望台に43秒ほどで上がることができる。
(以上、ウィキペディアより)

 万国博覧会のシンボルとして建設が計画されたスペース・ニードルは、展望台のデザインの段階から変更が繰り返され、当初気球型だったものの、最終的には当時流行のUFO(未確認飛行物体)の円盤型になったという。さらに博覧会計画自体の資金難もあり、スペースニードルは万国博覧会開催1年前からようやく建築工事が始まったそうじゃ。突貫工事にも莫大な費用がかかったという。そこで「エルヴィス人気にあやかって観光客をぎょうさん呼ぶしかない!」ってなったんじゃろうな!

 スペースニードルはモノレール・ターミナルから徒歩1分、80メートルほどの距離にあり、現在の入場料はGooglre-mapによると約4,000円じゃ。なお回転式レストランの建設は1960~70年代にはアメリカや日本でもブームとなったものの、維持費や修理費が莫大にかかるということで20世紀中にはほとんど“回転しなくなった”らしい。スペースニードルの展望レストランが現在回転しているのか否かはネット上では不明じゃ。
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2014年に発見された、映像と写真によるエルヴィスご到着の様子!
Area No.15/Serial No.205 ポートランド・ユニオン・ステーション
                               /オレゴン州ポートランド

 
 
 ではここでご案内ポイントを1957年北米/カナダ・ツアーゆかりの地に戻そう。Area No.12のワシントン州シアトル・シックス・スタジアムのライブの翌日、1957年9月2日はワシントン州の南隣りオレゴン州のポートランドにエルヴィスはやってきた。このツアー最後のライブスケジュールである。
 エルヴィス一行はシアトルから数時間かけて鉄道でポートランドへ移動。)到着駅ポートランド・ユニオン・ステーション(左写真)では、大きな混乱もなく、エルヴィスは列車降車後は割とスムーズに乗用車に乗り換えてホテルへ向かったとされておった。
 エルヴィスに付き人のように寄り添って歩きながらインタビューしておる者が1名。(上左写真)地元新聞に掲載された写真が1枚(上中央写真、右側)。車に乗り込んだ時の写真が1枚。(上右写真)発表されていたステーション到着時の写真は恐らくこの3枚だったはずじゃ。

 やがて時は2014年、オレゴン州の地元ウェブサイト「オレゴニア」がエルヴィスがユニオン・ステーションに到着した時の写真があらたに発見された!と発表し、約57年前のエルヴィスのライブを体験した方は是非ご連絡を!とオレゴン州はちょっとしたエルヴィス・リヴァイバル・ブームになったとか!?それが左写真2枚じゃ。幼子を連れた女性ファンファンに丁寧にサインする写真と、送迎用の車をとらえた写真じゃ。幼子はおもちゃの小さなギターを手にしとるな。「これにサインしてちょーだい」って事だったんじゃろうか(笑)

 この2枚の写真を見る限り、確かにステーション構内にファンが溢れて混乱!なんてことはなかった様子じゃ。しかし某サイトには500人ものファンが集まっていたという記述もあり、エルヴィス一行はどうやって大勢のファンを“巻いた”んじゃろう?なんてついつい余計な想像をしてしまったもんじゃ!
 さらにYOU TUBEにおいても、ユニオン・ステーションでのエルヴィス移動の様子の動画がアップされておって驚いた!アップされた日付も2014年だったので、写真と同時に発見されたのであろうか!って一人でコーフンしてしまったが、The-Kingのボスに確認したら「“エルヴィス1956”に収録されてますよ。七鉄っあん、ボケちゃったんじゃないの?」って(笑)とまあ、そんな事はさておき、この映像の最初は無声状態じゃが、新しく発見されたファンにサインをする写真の場面(の様な状況)が収録されておる!さらに駅構内を移動するエルヴィスの映像のバックにはインタビューの音声が被せられておる。このインタビューは冒頭で紹介した既に発表されていたインタビュー写真の時のものだったら、併せて観ればなかなかリアルじゃ!

 ポートランド・ユニオン・ステーションは現在でも稼働中。シアトルからやって来たエルヴィスは最後尾の列車に乗車していたという。「シアトル方面からの列車の最後尾」という条件で、現在のプラットフォームでの最後尾車両停車位置/エルヴィスの降車位置を想定し、ストリートビューで確認したところ右写真がその位置じゃ。(2021年10月撮影)綺麗な落葉のわびさび効果もあって、「ここでエルヴィスが・・・」と想定するとなんかじ~んとくるな(笑)
■Google-map上の位置■ (←ステーション・メインエントランス位置)


  1957年北米/カナダ・ツアー終焉の地
Area No.16/Serial No.206 マルトノバ・シビック・スタジアム
                             /オレゴン州ポートランド
 
 1957年度北米/カナダ・ツアー最後のライブ地オレゴン州ポートランドのマルトノバ・シビック・スタジアムへご案内しよう!このスタジアムの歴史は古く、開場は1893年で130年前じゃ!開場当時既に3,000人収容の観客席があり、野球、フットボール、陸上競技、自転車レース、クリケット等の人気スポーツイベント会場として北米有数の人気スタジアムとして君臨してきた。特に19世紀の終わりにメジャーリーグ・ベースボールのゲーム(エキジビジョン)も開催されており、当時北米、西海岸にはメジャーリーグ・チームが存在していなかっただけに、これはかなり貴重な記録なのじゃ!1910年頃までに収容人員数が10,000人を越えるまで観客席は増設された。
 エルヴィスが登場する約4年前の1953年には、北米初のスキー・ジャンプ会場にもなった!(左写真)熱にもとけにくいスノーセメントと呼ばれる化学降雪添加剤による特殊加工の雪を運び込んで行われ、全米を驚かせるニュースにもなったという。ロックンロールという熱い若者文化を作り上げたエルヴィスの4年後のライブ・ステージは、マルトノバ・シビック・スタジアムに新しい輝かしい歴史を付け加えたと言っていいじゃろうな!

 ライブツアー最終地だっただけにエルヴィスのパフォーマンスも冴え、観客も大いに盛り上がったことは間違いなく、SMWでもシアトル、タコマに勝るとも劣らない熱狂状態だったことが記載されておるが、またまたライブ状況をご紹介するのもマンネリなので、ライブ前に行われた約30分間の共同記者会見の模様をご紹介しよう。エルヴィスはかなり誠実に返答をしており、その様子はSMWをはじめとして数多くのウェブサイトで散見出来る。下写真は、スタジアムに隣接するアスレチック・クラブで行われた記者会見時のエルヴィス。ファッションは、黒のスラックスと靴、黒と銀のネクタイとスティックピンが付いた白いシャツ、そして水色のディナージャケットじゃ。

 

 ライブ前の記者会見でのエルヴィスの返答を幾つかご紹介しよう。

「ロックンロールは私が発見した音楽ではありません。ロックンロールは、ずっと前から存在していた音楽です。リズムは本当にブルースです。私は時流に乗っただけです」
「私が生まれた土地は一日中歌が歌われている所であり、私も小さい時からずっと教会で宗教的な歌を歌いました。一緒に歌っていた仲間は、ロックタイプの音楽的精神が大好きでした」
「フォー・エース、ナット・キング・コール、ディーン・マーティン、パット・ブーンら人気者のレコードは持ってます。もちろんリトル・リチャードも!」
「コンサートでは時にはアクシデントも起きます。(バンクーバーでのファンの暴走の事?)有名になった代償は神経質になって対処しなければならないものです」
「結婚することになっているのに、別の女の子デートしてしまった夢を見ることがあります。大丈夫、いつかは結婚しているのだからと自分を言い聞かせます」(笑)
「(当時結婚の噂があったアニタ・ウッドについて)彼女とは深刻なことは何もありません。私たちは友達以上ですが、深刻なことは何もありません」
「(ロックンロールは衰退するという指摘に対して)今歌いたい歌を歌い、毎日をありのままに受け止めているだけで、未来のことは深くは考えていません」

 わしとしては最後の“未来のことは深く~”って受け答えが引っかかるな。実はツアー終了後にロサンゼルスへ行き、エルヴィスは「クリスマス・アルバム」のレコーディングをする予定じゃった。SMWによるとその後、エルヴィスがピアノを弾くインストゥルメンタル・アルバムのレコーディングをする腹積もりじゃったらしい。これはエルヴィスの発案であり、スコッティとビルのための救済アルバムだったとか。スコッティとビルのギャラがあまりにも安過ぎるためのエルヴィスの温情、気遣いからの企画でもあった。
 1957年のライブ・スケジュールも残り少なくなり、その後兵役も予定されており、エルヴィスはスコッティとビルの今後の仕事状況、懐具合まで気を使っていたのじゃ。同時にエルヴィスは2人をとても信頼しており、将来的にも活動をともにするつもりだったのじゃろう。しっかり先々の活動もエルヴィスは考えておったのじゃ。
 しかしエルヴィスのこの計画はパーカー大佐によってすべて無かったことにされてしまった。大佐にとっては「バンドなんて誰だって構わん」ってことなんじゃろうなあ・・・。エルヴィスの意志と大佐の商魂との乖離がそろそろ表面化してくる1957年9月であった。

 マルトノア・スタジアムは、現在ジェルドウィン・フィールドと名称が代わり、現役の多目的スポーツ・スタジアムとして稼働中。エルヴィスが記者会見を受けたスタジアムに隣接したアスレチッククラブも稼働中。上航空写真、グリーンのフィールドの下に見えるグリーンでマーキングされたビルがアスレチッククラブ。こちらの名称はマルトノア・アスレチッククラブのままじゃ。
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  (以降「第26回カナダと国境周辺州・後編」へつづく)


 
   


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