NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.398


第22回 エルヴィスゆかりの地~テキサス州中編

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 広大なテキサス州のエルヴィスゆかりの地を周遊するツアーは中編に入った!前編ではエルヴィスが1954年11,12月に訪れた街に絞ったが、中編では1955年年初からのツアースケジュールに沿ってご案内致す。
 相変わらず日付に関して不確実情報が多いものの、そろそろネット上の公開資料も増え始め、前編よりは調査が楽になってきた。更に1955年度前半のテキサス州におけるエルヴィスの足跡は見逃せない小さなエピソードが多過ぎる!それはエルヴィスがキングになる予兆の数々であり、テキサス州の若者が潜在的に抱えていたロックンロール願望なるもんが、エルヴィスのツアーによって世の中へ向けて吹き出し始めたってことじゃ。
 エルヴィスの行く先々でロックンロール的なハプニング、アクシデントが起こったのが1955年のテキサス州であり、その一つ一つを丹念にご紹介していくと、ツアーが先に進まない!次回の後編でもテキサス州ツアーが完了しない!!しかしこの際だから目に付いた、オモシロエピソードのあったは場所は片っ端からご案内していくので、今回のテキサス州ツアーは「2022年度版」としておくことにした!ではでは皆様、引き続き「テキサス州編」をお楽しみ下さい。

 
【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
           第22回 テキサス州中編 

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はテキサス州内での番号、Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No. 9/Serial No.175  イーグルス・ホール跡地/ヒューストン

 Area No.10Serial No.176 シティ・オーディトリアム/サンアンジェロ
 Area No.11Serial No.177
  フェアパーク・コロシアム/ラボック
 Area No.12Serial No.178  コットン・クラブ跡地/ラボック
 
 Area No.13Serial No.179 ニューボストン・ハイスクール/ニューボストン
 
Area No.14/Serial No.180  メイフェア・ビルディング/タイラー
 Area No.15/Serial No.181 アルパイン・ハイスクール・オーディトリアム/アルパイン
 Area No.16/Serial No.182 ビエンヴェニード・モーテル/アルパイン 
 

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 【バーチャル・ロックンロールツアー第1回~21回 リンクバナー】


 スコッティの代役がエルヴィスの素質を見抜いた、1955年ニューイヤーライブ
Area No. 9/Serial No.175 イーグルス・ホール跡地/ヒューストン
 1954年11月からスタートしたテキサス州でのライブツアーにおいて、同年12月にやってきた大都市ヒューストンでは想定外?の歓迎を受けたエルヴィスご一行。(前回参照)そのままヒューストンで年を越して1955年の元旦には早くもこのイーグルス・ホールなる会場でお仕事!曖昧で不確実な情報ばかりの当時のライブ記録の中で、元旦ライブと会場は間違いないようじゃ。

 エルヴィスご一行は1954年の年末から1955年1月3日まで約一週間ヒューストンに滞在することになり、毎日小さなクラブで非公式のギグをやっていたといわれておる。ここまでエルヴィス一行をヒューストンに引き留めたのは当地の人気DJ兼プロモータでありクラブ所有者でもあったビル・コリーであり、彼は1954年11月にメンフィスのイーグルズ・ネストに出演中のエルヴィスを“発見”してヒューストンでの活躍の場を用意したといわれておる。当時のビル・コリーの妙に冷静なエルヴィスに対するコメントが残っておる。
「エルヴィスは衝撃的ってわけではなかったが、ミシシッピーの白人少年がゴスペルとか黒人音楽を歌えることが興味深かったのだ」
 このコメント、どこかで似たようなものを聞いた気がする。そう、映画「エルヴィス」の中で、パーカー大佐がハンク・スノウの倅から「ザッツ・オールライト」を聞かされた時の呟きじゃ。「これが白人だと?」。ビル・コリーも大佐も、エルヴィスの歌がアンテナにひっかかったんじゃよ。優秀なマネージャーやプロモーターってのは「うぉ~なんじゃあ~この音楽わ~!」って大騒ぎすることなく、「ふ~む。どうやらコレは他とは違うぞ」と冷静に新しいビジネスチャンスを嗅ぎつけられる能力が必要ってことなんじゃろうな。そして次に行動力じゃ。大佐は映画の中でも「バカを10回やったっていい。ひとつ賢い事をやればいいのだ」と語って試しにエルヴィスに接近しておったもんな!

 なお1955年元旦より、ボブ・ニールは正式にエルヴィスの専属マネージャー業を開始。一方パーカー大佐はミュージック・ジャンボリーの座長ともいうべきハンク・スノウのマネージャー。大佐はいきなりエルヴィスのマネージャーに申し出たわけではなくて、まず
ハンク・スノウ・ミュージック・ジャンボリーの中にエルヴィスを紛れ込ませて様子を見ていた感じじゃ。すぐにエルヴィスをトリに昇格させてハンクを怒らせたりしたようで、さし
ものカントリーの大御所も大佐の手によってエルヴィス人気を盛り上げるための道具にされちまったのじゃ。

 1955年からはブルームーン・ボーイズのギタリストに専念することになったスコッティ・ムーアは年末から体調を崩してしまい、この元旦ライブではステージに立てずじまい。代役は地元のミュージシャンでありプロモーターでもあったゲイブ・タッカー。(右写真)さすがの天才エルヴィスも勝手が違ったのか、最初は「窒息しそうな感じで歌っていた」という証言も残されておる。
 このゲイブ・タッカーという人物、ミュージシャンとしてよりもプロモーターとしてのセンスに長けておったようで、パーカー大佐に「早くエルヴィス専任になった方がいい」とアドバイスを送っており、1960年代からは大佐の側近として働くことになる。

 イーグルス・ホールの稼働期間は不明であり、当時の建物の写真もネット上では発見できず。跡地にはショッピングセンターが建てられておる。左写真はストリートビュー2020年1月撮影。

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 “Alvis”はピンク・スゥエード・シューズで女の子たちをノックアウト!
Area No.10/Serial No.176  シティ・オーディトリアム/サンアンジェロ
 1955年1月4日からエルヴィスご一行は西テキサスの中規模都市のツアーへ。このツアーで、エルヴィスはショーごとに最低150ドルの固定給と、車代として1日あたり10ドルを支払われたと伝えられておる。ただしこの料金はスコッティとビルとの間で分割された可能性も高い。
 何はともあれこれでツアー中の最低限の経費は保証されたわけじゃが、同時にツアーに明け暮れる日々が本格的にスタートしたのじゃ。1月4日はオデッサという街のハイスクール・オーディトリアムでのライブをこなし、同時にKOSAなるローカルテレビのロイ オービソンのプログラムにも出演したとされておる。シンガーとしてデビューする前にロイ・オービソンがテレビ番組を担当していたことは詳しい資料も見つからず真偽は?なので今回はスルー。

 翌1月5日はヒューストンの北西数百キロにあるサンアンジェロという街でライブ。約1,800人を収容するシティ・オーディトリアムは満員であり(右下写真)、ヘッドライナーのエルヴィスのライブは大盛況だった。ライブ終了後に何百人もの女の子たちがエルヴィス目がけてステージに殺到したんだそうじゃ。その後のエルヴィスのライブでは当たり前の光景ではあるが、何百人規模というのはこの日が初めてだったかもしれんな。写真の新聞広告で分かる通り、エルヴィスの名前が綴りミスでAlvis Presleyになっておる。「アルヴィス!」って叫んじゃった女の子もいたんじゃろうか!?
 この夜のエルヴィスの出演開始予定時間は午後9時半であり、エルヴィスは意図的?に会場に遅れて到着し、エルヴィスの出演を待ちかねていた観客をより煽り立てることに成功したとする向きもある。
 真偽のほどは定かでないが、これは1960年代後半になってローリング・ストーンズがよく使ったやり口じゃがエルヴィスははるか前からやっておった?大佐の指示なのかどうか判然とせんが、実際にエルヴィスの遅刻は1955年中盤まで時たまあったのじゃ。
 当時のエルヴィスは一番手だろうがトリだろうがミュージック・ジャンボリーの一員であり、出演予定アーティストが一人でも欠けた場合はその分の入場料の払い戻しをするのが当時の当然の慣わしであり、出演時間が近づいても姿を現さないエルヴィスに、プロモーターはその都度冷や冷やしておったとか。
 この日の午後、恐らくライブ前であろうが、エルヴィスは地元のラジオ局KTXLのコントロールルームにやって来たそう。目撃者の証言によると、エルヴィスはブルーではなくピンクのスゥエードシューズを履いていたそうじゃ!そのままライブ会場のシティ・オーディトリアムに行ったんじゃろうが、当会場でのショットとしてサンレコードのサイトに掲載されておるライブ写真(当パート、タイトルの下の写真)は残念ながら足元部分が写っておらん。トリミングされておる可能性もあるショットなので、モノクロ写真とはいえ元写真を探して判別してみたいものじゃ!
 また写真下に記載された、January 6, 1955 の表記は明らかにJanuary 5の表記ミスじゃ。

 1929年に開場したシティ・オーディトリアムは驚くなかれ現在でも稼働中。建物自体がエルヴィスが出演した当時のものかは不明じゃが、現在はサン・アンジェロ交響楽団とサン・アンジェロ・シビック・バレエの「くるみ割り人形」の年次公演の本拠地でもある。左写真はストリートビュー2022年3月撮影。
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 Buddy meets Elvis
Area No.11/Serial No.177 フェアパーク・コロシアム/ラボック.
 テキサス州にて順調なスタートを切ったエルヴィスの1955年ライブ・ツアーは、1月6日にはラボックという街で行われた。しかし当時西テキサス地域最大の歓楽都市だったラボックにおけるエルヴィスのライブ記録はまたまた不明瞭。西テキサス有数のビッグクラブ「コットン・クラブ」だったのか、会場オープンのこけら落としとして出演したとされる「フェアパーク・コロシアム」だったのか。
 以降少なくともコットンクラブでは2回、フェアパーク・コロシアムでは4回のエルヴィス出演記録や写真が残っておるが、1月6日の出演場所の判定や、そもそも1月6日にエルヴィスがラボックに居たのかどうかもクエスチョンのままじゃ。今回は日付を限定せずに1955年に出演したことだけは間違いないラボックの2つのライブ会場へご案内しよう。

 まずフェアパーク・コロシアムから(上写真)。他の州でもエルヴィスのライブ会場として同名の場所が登場するが、「フェアパーク」とはすなわち大規模な見本市会場であり、ご当地の肉や農作物等の特産物が披露されるお祭りのための会場じゃ。会場内には催事会場、遊園地会場、飲食店会場(フードコード)などが内包されておった。ラボックのフェアパークは1954年に完成し、大きな敷地内にある催事場建物「コロシアム」の中のステージにエルヴィスは登場した。当時の新聞広告の一部では、「コロシアム」ではなく「オウディトリアム」と表記されておる。

 

 フェアパーク・コロシアムについての最大のポイントは、ラボックはバディ・ホリーの出身地であり、バディが初めてエルヴィスを「観た」もしくは「逢った」所であることじゃ。1955年の1月6日、2月13日、6月3日、10月15日、1956年4月10日の計5回同会場でエルヴィスのライブ記録が残っておるが、バディが初めてエルヴィスを観た日が1955年のいつであるのかは未だに特定されてはおらんが、正確な日付はさておいて「Buddy meets Elvisの場所」としてフェアパーク・コロシアムの存在を記憶に留めておいて頂きたい。

 エルヴィスをとらえたショットの中に偶然バディが写りこんでいる写真が2枚公表されており、撮影日は1枚は1955年6月3日(上左写真)、もう1枚は1956年4月10日(上右写真)。写真内の赤丸部分がバディ。
バディ・ホリーは1955年当時バディ&ボブという名のデュオで活動しており、2月13日はエルヴィスの前座として出演していた記録となる新聞広告も残っておる。なおフェアパーク・コロシアムの出演のエルヴィスのギャラは、1955年当初が350~400ドルだったが、1956年4月10日は10倍の4,000ドルだった!

 見本市は「パンハンドル サウス プレインズ フェア」の名称で、ダラスの「ステートフェアオブテキサス」に次ぐ規模で現在でも継続して開催されており、フェアパーク・コロシアムも稼働中である。
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  「エルヴィスは〇、バディ・ホリーは×」!?
Area No.12/Serial No.178 コットン・クラブ跡地/ラボック

 1950年代のラボックのライブ会場として、「フェアパーク・コロシアム」とともに名高かったのが「コットン・クラブ」じゃ。正確な位置はラボックの東端から5キロ程のスラトンという小さな街の街はずれのハイウェイ沿いにあった。先述の通り、1955年に何度もラボックでライブを行ったエルヴィスは日によってどちらの会場に出演したのか、または両方の会場に出演したのかは不明じゃ。スコッティ・ムーアのサイトでは、一応は1955年4月29日、10月15日と推定しておる。
 「コットン・クラブ」はラボック周辺地域で最も影響力があり多様なライブ会場としての地位を維持しておった。かつては、ダラスとロサンゼルスの間の移動中にバンドが立ち寄る唯一の収益性の高い会場だったという。出演者たちの人種、肌の色、音楽のジャンルを特定しない先進的な方針を掲げておった会場じゃった。その音楽メニューは、ドーシー ブラザーズのビッグ バンド、ボブ ウィルズ、テキサス プレイボーイズから、レイ チャールズ、リトル リチャード、ジェリー リー ルイス、ルイジアナ・ヘイライドのスター、そしてエルヴィスまでさまざま。
 また新聞広告は出さずに(これは調査側としては厄介!)、KDAVラジオで出演者たちは宣伝され、カントリー ミュージックをフルタイムで演奏する米国で最初のラジオ局であると自負しておったそうな。(これは偉い!)

 当時の入場料は1ドル。出演者たちのギャラはその日の総入場料の50%を分け与えられていたという。エルヴィス、スコッティ、ビルが最初にギャラを受け取った時は3人で合計35ドルを受け取ったそうな。その次の出演時は合計75ドルに跳ね上がったとサンレコードのサイトに記載されておる。

 エルヴィスのコットン・クラブにまつわるその他のエピソードもいくつか同サイトに掲載されておったので、少々ご紹介しておこう。
 まず左写真(左側)に写っておる女の子はコットン・クラブのオーナーであるラルフ・ロウの娘のパットちゃん。まだ小さかったパットちゃんはエルヴィスが誰であるかは知らなかったが、「とても気さくで優しかった」「クラブは子供たちがいる環境ではなかったがエルヴィスは私たちの面倒をみてくれました」と述懐しております!「当時私は14歳だった」ってこれは記載ミスじゃろうな(笑)
 また「当時のミュージシャンはみんなお金がなくて、ファッツ・ドミノでさえ時には入場料が払えなかったものでした。私たちは時々バディ・ホリーなんかもキッチンにこっそり入れてサンドイッチをあげたりしてました」とさ!
 さらに幼少だった彼女は夜遅くまでクラブにいることが出来なかったものの、ある晩女性ファンがエルヴィスの前で突然胸を露わにして「ここにサインして!」と迫り、実際にエルヴィスが胸にサインしたことも覚えておるそうじゃ(笑)また別の晩はエルヴィスは彼女とTic/Tac/Toe (格子の中で〇×を3つ書き並べる子供のゲーム)を白いテーブルクロスの上に描いて遊んだらしく、後ほど父親(オーナー)はテーブルクロスの洗濯代としてエルヴィスに75セントを請求したとか!

 もう一人の小さな男の子もラルフ・ロウの息子ジュニアちゃん。(上右写真-右側)エルヴィスのステージを見て興奮してしまい、おもちゃのギターを抱えて勝手にステージに上がっちゃったそうじゃ(笑)ジュニア君の述懐もおもしろい!「「パパはエルビス・プレスリー、ファロン・ヤング、ワンダ・ジャクソンをクラブに150ドル(彼らのギャラの額?)で予約していたほど気に入っていたけど、バディ・ホリーは嫌いだったみたい。だから妹はバディを裏口からクラブにこっそり滑り込ませていました。コットン・クラブは当時、サイコーにスイング出来る場所であり、音楽ファンが西テキサスで唯一楽しめる場所でした。密造のウィスキーを買うこともできました! 」

 コットン・クラブは1960年代初頭に一度火事で全焼して建て直された後、1978年には閉業、取り壊しとなった。跡地には似たような形状の建物が建てられてアダルト映画ビデオ/ブックストアが営業されておった。ストリートビューで確認すると、2013年8月撮影時点では正面入口に2つのギター型モニュメントを掲げたコットン・クラブという名の店(ライブハウス?)になっており(下左写真)、2021年7月撮影では建物が青く塗り替えられ、コットンクラブの表記も塗りつぶされていて正体不明。(下右写真は2022年5月撮影)
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 “女の子たちが泣いていましたよ”“ぬわにい~、よっしゃー!”
Arean No.13/Serial No.179 ニューボストン・ハイスクール/ニューボストン

 テキサス州の東隣アーカンソー州へのご案内でも紹介した通り、1955年のエルヴィスは両州を頻繁に行き来しており、州境にあるテクサーカナ(アーカンソー州側)で何度もライブを行っていた。テクサーカナからもっとも近いテキサス州のライブ会場は、西へ約40キロほど離れた位置のニューボストンという街のハイスクールで、1955年1月11日(ジムナジウム=体育館)、4月21日(フットボール場)にライブを行っておる。
 約1年間で100回以上ものライブスケジュールがテキサス州内で組まれておっただけに、エルヴィスにとってはニューボストンという小さな街のライブは取るに足らない経験だったかもしれない。しかしエルヴィスの歴史において、1月11日のライブは後の“キング・オブ・ロックンロールへと成長する過程で見逃せない事実”を引き起こしたライブでもあった。

 この日から1月末までブルームーンボーイズには、ピアノ奏者のレオン・ポストとスティール・ギタリストのソニー・トランメルが参加することになり、ソニー・トランメルの回想によると、「ハイスクール・ジムナジウムには500人以上、ニューボストンの全人口よりも多い観客が集まった」とか。一応調べてみたら当時のニューボストンの人口は約800人であり、“全人口よりも多い”というのはちと過剰表現じゃったが、当地在住者のほとんどがエルヴィスを観た勘定にはなるな!
 “キングへの成長過程で見逃せない事実”とは、この日会場には後にパーカー大佐の右腕、有能な部下となるトム・ディスキンがいて、トムがこの日のライブ状況を大佐に報告したことで大佐は「エルヴィスの専属マネージャーになることを決意した」と伝えられておることじゃ。「若い女の子たちがライブ中にずっと泣き叫んでいた」というトムの報告に大佐がビビッとキタ
 トム・ディスキンは、「テキサス先乗りレポ」でご紹介したシカゴのプロモーターであり、前年11月にデビュー当時のエルヴィスを売り込みの手紙をスコッティ・ムーアから送られ、その時には「シカゴにロックンロールの需要はありません」と断った人物じゃ。それからわずか二ヶ月あまりで大佐の配下にいたとは驚き!それだけデビュー当時のエルヴィスの勢いが凄まじかったのじゃろうな。1954年11月中旬からスタートしたエルヴィス初のテキサス州ライブ・ツアーは、この地で一旦終了することになった。

 残念ながら、ニューボストン・ハイスクールでのライブ写真は、4月21日のフットボール場でのショットしか発見できなかった。(上左写真)サンレコードのサイトには体育館の写真が掲載されておったが撮影日が不明であり、エルヴィスが出演した当時の様子なのかどうか?参考までに掲載しておくぞ。(上右写真)

 右航空写真は、現ハイスクール周辺。赤丸が校舎で、体育館はこの中に含まれておるようじゃ。
 青丸はLion Stadiumという競技場。ここにかつてフットボール場があったのかもしれない。校舎や競技場の周囲は大きな駐車場や芝生が広がる空地であり、エルヴィスが歌った場所は今のところ特定出来ず。
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  薔薇の街で躍動した“ピンク・フリル”のエルヴィス!
Area No.14/Serial No.180 メイフェア・ビルディング/タイラー
 一般的にはテキサスとエルヴィスってイメージが繋がらないが、もうひとつ“繋がらない繋がり”で言うと、テキサスと薔薇。テキサスって全米でも有数の薔薇の産地なんだそうじゃ。「ツマンネーダジャレや前置きはいいから、早くエルヴィスの話をしろよ、ジジイ!」って言われちゃいそうじゃが、アメリカで生産される商用薔薇の5分の1は1955年1月25日にエルヴィスがライブを行ったスミス郡産であり、ライブ会場となった「メイフェア・ビルディング」のあるスミス郡タイラーは「ナショナル・ローズ・シティ」と呼ばれておる。タイラーには毎年10万人が訪れる国内最大の市立バラ園もあり、定期的に大規模で開催される薔薇祭りも有名じゃ。(左写真)

 1955年1月25日はエルヴィスの第二次テキサス州ツアーがスタートしたばかりであり、第一次テキサス・ツアーの成功を受けて新たにスタートして後の大成功へ直結することになる第二次ツアーが、綿花や畜産の街じゃなくて薔薇の街から華やかに幕を開けたなんて素敵なエピソードではないか!大スターならではの華麗な運命と思うぞ!(まあバーボンの街の方がロックンロールのキングらしいか!?)

 メイフェアとは、Area No.11/Serial No.177で先述したラボックのフェア同様の大規模な見本市会場であり、メイフェア・ビルディングは見本市敷地内に建てられておる特別イベント会場じゃ。エルヴィスは1955年内の1月25日、5月23日、8月8日、計3回メイフェア・ビルディングにライブ出演しており、もともとタイラーのメイン音楽会場だったメイフェア・ビルディングはエルヴィスの出演によって俄然箔が付き、以降長きにわたって当地の音楽会開催会場として機能し続けておった。フェア自体も「イーストテキサス・ステートフェア」と改称されて現在でも継続中である。

 

 3回のライブのいずれも当日のエルヴィスの写真がネットにアップされておる。特筆すべきショットは1955年5月23日にバックステージで撮影された1枚。(上右写真)エルヴィスはフリルシャツ(ピンクらしい)を着ておるが、この写真は別の日の別の会場の写真としてもあちこちの私設エルヴィス・サイトで使用されておるが、どうやらスコッティ・ムーアのサイトによる「1955年5月23日テキサス州メイフェア・ビルディングでの撮影」が真実のようじゃ。ちなみに上左、上中央写真は1月25日撮影。
 またこのシャツはスコッティ・サイトによると、約10日前の5月12日、フロリダ州・アクストンのジャクソンビル・ボールパークでのライブ前に、「ハートブレイク・ホテル」の作者メイ・ボーレン・アクストンが「女の子たちに引き裂かれる前に(その場に同席していて、そのシャツを欲しがった女性ファンに)あげた方がいい」と言ったシャツと同タイプらしい。(「バーチャル~」第7回Point-5 ジャクソンビル・ベースボール・パーク跡地」参照)
 同タイプのシャツを着ているエルヴィスの写真は他州でのライブ会場でも見られるので、ファンに引き裂かれ続けながらも何度も入手していた当時のエルヴィス大のオキニ・シャツだったようじゃ。同タイプでブラックカラーは、映画「エルヴィス」の“ロックンロール誕生のシーン”でオースティン・バトラーがピンクスーツの下に着用しておったな!
 なお8月8日のライブから、ドラマーのDJ・サンタナはブルームーン・ボーイズの正式メンバーとなり、スコッティとビルと同様に週給200ドル(ライブの無い週は100ドル)が支払われるようになった。

 長らく音楽会会場として機能し続けていたメイフェア・ビルディングは、現在は史跡となっており、公民館としては使用されておる模様じゃ。右写真はストリートビュー2019年6月撮影。
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女性が下着にサインをせかんだ!交通事故後のエキサイト・ライブ
Area No.14/Serial No.180  アルパイン・ハイスクール・オーディトリアム/アルパイン
 1955年1月末からスタートしたエルヴィスの第二次テキサスツアーは、2月に入ると一度お隣のニューメキシコ州にも入り、再びテキサス州に戻って2月中旬まで続けられた。ニューメキシコ州に入る前日の2月10日は、テキサス州アルパインという街のハイスクール・オーディトリアムでライブが行われた。スコッティ・ムーアやサンレコードのサイトには当日の模様が詳しく記述されておるので、一部の英字サイトの「会場はキャロライン・シアター」との表記は入力ミス的なイージーミスであろう。

 この日エルヴィスらを乗せた車は会場に向かう途中に事故に遭い、会場入りが遅れたそう。しかし急ぎ会場に駆け付けたエルヴィスは、そのハイテンションのままパフォーマンスしたので観客は異常に盛り上がったそうじゃ。ライブ終了後は観客がバックルームに押し寄せ、興奮した女性ファンの一人は自分のペチコート(スカートの下に履くスカート型の下着)にサインをせがんだという!この女性、現地の銀行家の娘さんというお嬢様であり、その後エルヴィスとデートまでしちゃったのじゃ。
 この日のライブ出演契約書が残されており(下中央写真)、エルヴィスはサインしていないが、マネージャーのボブ・ニールのサインがされておることで契約完了となったようじゃ。エルヴィス&ブルームーン・ボーイズの出演料は3人で250ドル。この額は当時のバンドの出演料としては平均的であり、バンド内で分割されて各人のポケットに収まった。
 なおエルヴィス一行は翌日ニューメキシコ州カールスバッドへ移動することになるが、カールスバッドでのライブはパーカー大佐が初めてエルヴィスのためにブッキングした会場らしく、エルヴィスとボブ・ニールへの“初めての厚意”とされておる。まあ厚意というよりも、約一ヶ月前のニューボストンでのライブで「エルヴィス獲得」を決意した大佐の(上記Area No.13参照)、「エルヴィス一人占め大作戦」がスタートしたっちゅうこっちゃ!

 アルパイン・ハイスクールは現在でも別の場所へ移転して存続中。旧ハイスクール跡地はジュニア・ハイスクールになっておる。ストリートビュー2019年1月撮影写真によると建物はオリジナルの外装通りに建て替えられておるようじゃ。(下右写真)
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 エルヴィス宿泊の形跡が今も漂う希少なモーテル
Area No.15/Serial No.181 ビエンヴェニード・モーテル/アルパイン
 先述の通り(Area No.14)、パーカー大佐の“ご厚意”によりニューメキシコ州へ乗り込むことになったエルヴィス一行は、アルパイン・ハイスクールでのライブを終えた後、当地のビエン・ヴェニード・モーテルに宿泊した。エルヴィスはペチコートにサインをせがんだ女性ファンとデートの後、スコッティとビルは地元のイベント事業関係者主催のパーティに参加した後に、このモーテルで眠りについたのじゃ。(左写真)

 このモーテルは長きにわたり経営されており、ストリートビューでも2019年1月時点では存在が確認できたが、現在では「Oyo Hotel」と改称されておる。(下写真)建物の外観はエルヴィス一行が泊まった当時のままである!
 アルパインの街を東西に貫く国道90/67号線沿いに位置しており、周囲にはたくさんのモーテルが点在しておるので場所の特定が難しかったが、Google-mapにアップされた同ホテルの数々の写真の中に「ビエンヴェニード・モーテル」時代の写真も含まれておるのでここで間違いなし!
 女の子とデートした後に宿泊したエルヴィスは、「翌日早い時間にチェックアウトしてニューメキシコ州へ向かった」とされておるので、このモーテルにエルヴィスが滞在したのはせいぜい数時間程度だったのじゃろう。そんな僅かな時間とはいえ、“旅がらす時代”のエルヴィスの痕跡が明確に証明されている数少ない宿泊場所だけに、生涯一旅がらすのわしとしては見逃せない場所なのでご案内した次第次第じゃwww
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(以降、テキサス州後編に続く)


【 お断り 】
Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」掲載中断について

今まで「バーチャル・ロックンロールツアー」にてご紹介してきた全ての場所をGoogle Map上で一覧出来る
「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー」の更新を一時中断致します。

「一覧!~」の基本機能である“Googleマイマップ”の更新機能の上限を越えてしまったため、
新たにご紹介する場所が追加出来なくなりました。

ただ今、別の機能等にて新たにご紹介していく場所を追加出来る方法を検討しております。しばらくお待ちください。


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