NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.395


第20回 エルヴィスゆかりの地~
ノースカロライナ州/サウスカロライナ州後編


(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 テネシー州周囲の8つの州を巡るツアーも今回で終わりじゃ!このところ各ポイントにおけるエルヴィスの写真が少なかったが、今回は1956年度のライブ会場がメインなので、写真も詳しい情報も結構バッチリなんでそれなりに楽しんで頂けると思うぞ!

 ノースカロライナ/サウスカロライナ州の調査中に唯一解せなかったのは、わしが全幅の信頼を寄せておるスコッティ・ムーアのサイトの中で、ライブが行われた会場の紹介が半分以上スルーされておったことじゃった。スコッティのサイトは2015年あたりからほとんどアップデートされていないように見えるが、それまでにノースカロライナ/サウスカロライナ州においてただ単に調査が行き届いていなかったのか?それとも何らかの理由で調査が難航していたのか?
 その反面、エルヴィス・マニアたちの数多くのサイトにおいて情報が散見されたのでこの度大いに役に立った。ただし個人レベルのサイト情報は、他のサイトからの丸写しも少なくなく、写真のセレクトもいい加減な場合が多い。この度の掲載に関しては複数サイトとの照合等、時間が許す限り「確認作業」を徹底したつもりでアリマスんで、どうぞよろしゅ~!

 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第20回 ノースカロライナ州/サウスカロライナ州後編 

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はノースカロライナ州/サウスカロライナ州内での番号、Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 【ノース・カロライナ州】
 Area No. 8/Serial No.159  カロライナ・シアター跡地/シャーロット
 
Area No. 9Serial No.160  ホテル・シャーロット跡地/シャーロット
 Area No.10Serial No.161  シャーロット・コロシアム/シャーロット
 Area No.11Serial No.162 ウォルト・ウィリアムス・ハイスクール/バーリントン
 Area No.12Serial No.163  YMCAジムナジウム/レキシントン
 【サウス・カロライナ州】 
 
Area No.13/Serial No.164
 カロライナ・シアタースパータンバーグ
 Area No.14/Serial No.165 カントリー・ホール跡地/チャールトン
 Area No.15/Serial No.166  チャールトン・カレッジパーク・
                   ベースボールフィールド/チャールトン 
 

 【お断り】
  Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」掲載中断について


 【バーチャル・ロックンロールツアー第1回~19回 リンクバナー】


 ライブショット多数!栄光の1956年のスタートを物語る名ライブ
Area No.8/Serial No.159 カロライナ・シアター跡地/シャーロット
ルヴィスの1956年度ノースカロライナ/サウスカロライナ州ツアーは2月6日から5日連続で1日4ステージ、合計20ステージのハード・スケジュールが組まれ、最終日の会場が2月10日ノースカロライナ州シャーロットにあったカロライナ・シアターである。
 カロライナ・シアターは当地の実業家サム・カッツが経営する映画館/劇場であり、他にも同名の劇場がノース・カロライナ州・ウィルソン、サウス・カロライナ州スパータンバーグ(後述)にもあった。元来映画館として開場したカロライナ・シアターはいずれも収容人員数が約1,500人であり、「ハートブレイク・ホテル」のヒットが爆発し始めた当時のエルヴィスを迎え入れるステージとしてはキャパが小さすぎたための、1日4ステージの5連チャンというハードスケジュールになったと解釈するべきじゃろう。

 またこのツアーの特筆すべき点は、各地でのエルヴィスの写真の公開数が突然多くなったことじゃ!これはエルヴィス・マニアや、わしのようなエルヴィス史の調査野郎(!)にとって大変に有難い。ということで、能書きよりも何よりも、カロライナ・シアターでのエルヴィスの写真を当ページの上部のスライドも含めてジャンジャン転載しておくぞ!ちなみに4回のステージの合計入場者はマックスの6,000人。更に入場出来なかったファンが少なくとも1,000人以上はおったと伝えられておる!左写真は1931年当時のカロライナ・シアター。開場は1927年じゃ。

ースカロライナ/サウスカロライナ州ツアーには数多くの新聞記事(コンサートレビュー)も残されており、注目すべきは「ロックンロール」という表現によってエルヴィスの音楽が語られておることじゃ。「ハートブレイク・ホテル」のヒットによって、もはや“ニュータイプのカントリー”“ミスター・リズム”“ミスター・ダイナマイト”といった形容が一般読者にとってもそろそろ必要無くなってきたということじゃ。
 しかしながらこの点に関してはエルヴィスの発言は慎重であり、「ヒルビリー、ロックンロールとは呼ばないでほしい。自分のやっている音楽が、まだはっきりと分かっていないし、“うまくいっている”と断言はできないんだ」とシャーロッテのマスコミに答えておる。

 シャーロットのマスコミの記事に目を通して見ると、彼らのエルヴィスに対する洞察力、表現力はなかなか!まだまだ“悪魔の音楽”と大人たちから毛嫌いされていたエルヴィス・ミュージックの特徴を非常にリリカルに表現しており、中でも「ザ・オブザーバー」という新聞のライターは初めてロックンロールという音楽を聴いた者の驚き、喜びを生真面目に描写しておって微笑ましい(笑)

「10代の若者たちは教科書を膝の上に抱えてリズミカルにガムを噛み、プレスリーは「ブルー スエード シューズ」と「メイベリン」でボ・ディドリーの厳粛さとラバーン ベイカーの肉体的な熱意を組み合わせました」
「エルヴィス・プレスリーは(身体を)ガタガタと揺らし、ステージ上でほとんど転がりそうになったが、金曜日に大勢の聴衆が彼のアクションを受け入れることを甲高い声で叫んでいました。ビルボードやその他の業界誌から“国内でナンバーワンの新人シンガー”に選ばれた21歳のシンガーは、ブルースのリズムを西洋音楽に加えているのです!」

 カロライナ・シアターは映画ブームの終焉とともに廃れていき、1978年ブルース・リー主演「ドラゴン怒りの鉄拳」の上映を最後に閉館。その後何度か投資家たちによって改築/再開場が試みられたものの、2010年代に入るとその計画も頓挫し、正面入り口を含むメインの建物は取り壊された。
 ストリートビューで確認すると、現在は建物の後部(劇場が内包されていた部分?)のみ残されていて(右写真、左側のレンガ色の建物)、取り壊されたメイン部分にはオフィスビルがたてられておる。
■Google-map上の位置■


エルヴィスがレコードプレーヤーを置き忘れた超高級ホテル
Area No.9/Serial No.160 ホテル・シャーロット跡地/シャーロット 
 このホテルはかつてノースカロライナ州有数の著名なホテルであり、アメリカ歴代の政府要人、映画スターらがシャーロットを訪れた際には必ず宿泊していたという。1920~30年代にキング・オブ・ベースボールと称された伝説のベーブ・ルースも、当地のマイナーリーグ・チームとの親善試合の際に宿泊しておった。そして、キング・オブ・ロックンロールのエルヴィスもまた、先述したArea No.8カロライナ・シアター出演の際に宿泊したことが某英字コラムに掲載されておった。

 実はこのホテルの10階のスイートルームは、かつてRCAレコードの録音ルームとして使用されており、ロイ・エイカフ、モンロー・ブラザーズ、カーター・ファミリー、ゴールデンゲート・カルテットらがレコーディングしておる。そうした歴史的背景もあってRCA所属のエルヴィスは宿泊したのかもしれない。
 「ホテルの部屋でレコーディング?」とお若いビュワーの方は不思議じゃろうが、レコーディング・スタジオなる施設の絶対数が少なかった時代、ホテルの部屋はレコーディングに使用されることは珍しくなかったのじゃ。キング・オブ・デルタ・ブルースと称されておるロバート・ジョンソンが1936~7年に残した29曲の楽曲も、ホテル・シャーロットではないが、ホテルの一室でレコーディングされたのじゃ。

 ホテル・シャーロットはノースカロライナ州最大規模のホテルというキャパだけではなく、かなり格式の高いホテルだったようじゃ。「見知らぬ人が常に集まって食べたり寝たり、一時的な家として住んだりする場所以上のホテル」なるフレーズがPRとして使用されており、また「私はシャーロット・ホテルに滞在しています」とは最高の優越感を抱かせる有名な挨拶文句だったという。まあエルヴィスの宿泊先としては申し分なしじゃな!
 輝かしい歴史を重ねていたホテル・シャーロットじゃが、1970年代からは周辺地域の荒涼化、過疎化の波に飲み込まれていき、1979年に閉館。やがて再開発によって地域は生まれ変わり、現在跡地には巨大なビジネス・タワーが聳えておる。左写真はストリートビュー2021年7月撮影。
■Google-map上の位置■

 ところでじゃ。いろんなシャーロット関連のサイトをチャックしてみたところ、ホテル・シャーロットにエルヴィスが宿泊したという記述は、上記のコラムサイトのみ。わしは複数の(お互いに関係性のない)サイトでひとつの事実が同様に記述されていることを「バーチャル~」掲載の基準にしとるので、ホテル・シャーロットへのご案内は諦めかけておったが、思わぬ方面でエルヴィス宿泊の小さな証拠を発見した。それは某海外オークション・サイトであり、そこに1956年2月11日ホテル・シャーロットにエルヴィスが置き忘れたというポータブル・レコード・プレーヤーが出品されておったのじゃ!

 このプレーヤーは1955年型RCA製であり、ブツとしても歴史的価値があるシロモノじゃろうな。ホテルの従業員によると、エルヴィスがチェックアウトした後に使用した部屋に置き忘れていたらしい。発見した従業員から何人かの手に渡り続けた後にオークションにお目見えしたってわけじゃ。
 ちなみにエルヴィスがこのプレーヤーを置き忘れたホテルの部屋は、東西南北いずれかの角部屋だったらしいが、何階であったかはオークションサイトには明記されておらんかった。右写真が撮影された時点では、エルヴィスが置き忘れた時からこのプレーヤーはあえて一度も洗浄されていないそうじゃ(笑)添えられておる2枚の写真は、カロライナ・シアターのステージに立つエルヴィスであり、撮影用にディスプレイされたもの。



 爆発するエルヴィス人気の象徴!地方都市にもニッパー君が登場!
Are No.10/Serial No.161 シャーロット・コロシアム/シャーロット 
ロライナ・シアター出演から約4ヶ月後、エルヴィスはシャーロットの街に帰還した。1956年6月27日、今度はキャパがカロライナ・シアターの約4倍(収容人員約6,000人)のシャーロット・コロシアムじゃ。(右写真)エルヴィスは開口一番「シャーロットに戻ってきました」と威勢よく発し、この一言だけで会場は興奮の坩堝と化したそうじゃ!

 僅か4ヶ月間とはいえ、立て続けにヒット曲を飛ばしていたエルヴィスの人気は全米で大爆発!エルヴィスを取り巻く環境、世間の評判は激変しておった。それはシャーロットのマスコミのレビューにはっきりと見て取れる。4ヶ月前はロックンロールという新しい音楽を誕生させたエルヴィスに対して極めて好意的な記述が多かったが、良識派を自負する大人連中からエルヴィスは目の敵にされていただけに、下述の通りキングの帰還を少々シニカルに綴っておる。

「全米でもっと非難され、議論を巻き起こしている人物がエルヴィス」
「マネージャー(パーカー大佐)は、“ジャーナリストに近づくな”と評判の悪いエルヴィスに指示を出している」
「“骨盤プレスリー”と呼ばれることもあるエルヴィスは、そのくねらせる腰が世界中の音楽評論家を激怒させたロックンローラーである」

 しかし世論に同調してエルヴィスを非難しておるのではなく、記事全体のニュアンスとしては「エルヴィスを攻撃しているのは、新しい文化を受け入れられない大人たち」「若者の指示を得ているエルヴィスは世論と戦っている」といった一文も添えられておる。シャーロットという街は、こうした先進的なマスコミが当時から存在出来る土壌だったことをエルヴィス現象が証明しており、わしとしては一度は訪れてみたい街じゃよ(笑)

 シャーロット・コロシアムでのステージ写真じゃが、RCAの大きなロゴ看板と、犬のニッパー君の模型が写り込んでおる。同類の他の会場写真は幾つか公表されておるが、地方都市のステージにRCAロゴやニッパー君が登場したのはこの日が初めてかもしれない。「何故シャーロット・コロシアムで?」との疑問が湧くが、明快な解答は未だ見つからず。しかしライブ前に、シャーロット周辺地域の数多くのRCAディーラーたちが集まって会議を開き、ロゴ看板とニッパー君の模型をステージ上に展示してRCAをアピールするという決議が下されたことが関係各サイトに記述されておる。

 その後シャーロット・コロシアムは周辺地域の重要なコンサート会場として機能し続け、エルヴィスは1972年4月13日、1974年3月9日、1976年3月20日、1977年2月20、21日に登場しておる。ノース・カロライナ州における“ザ・キング・オブ・ロックンロール・コロシアム”と言えよう。
 エルヴィス以外にも、スティービー ワンダー、ブルース・スプリングスティーン、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、クイーンなどのビッグ・スターたちが出演しておる。
 コロシアムは1988年に閉鎖されたが、大規模な改装と改造の後、1993年に再開場。元々のコロシアムのクラシックな雰囲気が復元され、現在では「ボージャングルズ・コロシアム」の名称で稼働中じゃ。
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“The King left high school gyms way behind.”
Area No.11/Serial No.162  ウォルト・ウィリアムス・ハイスクール/バーリントン
 1956年2月15日にエルヴィスがライブを行ったウォルト・ウィリアム・ハイスクールのあるノース・カロライナ州バーリントンは、1893年に同州に出来上がった人口5万人に満たない小さな街。当時ハイスクールは2校しかなく、ウォルト・ウィリアムス・ハイスクールは白人専用の学校じゃった。
 この時のライブの資料はネット上ではほとんど無く、エルヴィス1956年の軌跡の中では取るに足らない小さな出来事だったのかもしれない。しかしながら、地元のライターがネット上で寄稿していたショートコラムに少々惹かれてしまったのでご案内しておこう。

 “The King left high school gyms way behind”とはそのコラムのタイトルであり、“キングはハイスクールの体育館を後にした”って意味じゃ。有名な“Elvis has left the bilding”を捩ったモンじゃけど、調べてみると少々イミシンではあった。コラムには、エルヴィスが名も知れぬ田舎の高校の体育館で演奏したのはこの日が最後だったとしておる。
 その後エルヴィスは1956年いっぱいに100を越える会場でライブを行い、どこも凄まじい熱狂に包まれ、キングへの階段を一気に登って行ったが、“そんなエルヴィスの1956年の日々、最初はバーリントンに居たのである!”と記述されておった。試しにエルヴィスの50年代のライブスケジュールをチェックし直したところ、少なくとも会場がハイスクールだったのはこの日が最後じゃった。確かにThe King left high school gyms way behind.であった!

 バーリントンは1993年の100周年記念式典に合わせて、大きな倉庫4つの壁に地元の有名ペインターへバーリントンの歴史を一望できる壁画の作成を依頼。そこにエルヴィスの姿がしっかりと描かれておる。(左写真)また100周年記念ビデオも製作され、その映像の中には1950年代のウォルト・ウィリアムス・ハイスクールの貴重な写真(ネット上では無し)も挿入されており、ナレーションではエルヴィスがライブを行った事実も語られておる。
 右写真はストリートビュー2022年6月撮影。スクールは現在に現役中である。
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 “エルヴィスの全て”が報道され始めた!もう誰もエルヴィスを無視することはできない!!
Area No.12/Serial No.163 YMCAジムナジウム/レキシントン
に日にエルヴィス・フィーヴァーが巨大になっていく中、エルヴィスご一行は1956年2月中旬のノース・カロライナ州ツアーを終えた後にフロリダ州まで南下。ルイジアナ・ヘイライドの出演をこなしながらフロリダ州、ジョージア州でライブを重ね、約一ヶ月後の3月21日に一度ノース・カロライナ州に戻ってきた。レキシントンという街のYMCAジムナジウム(体育館)でのライブ出演の為である。
 エルヴィス・ファンならばこの日のライブは、エルヴィスのライブ軌跡の中で要チェックかもしれない!?スコッティ・ムーアのサイトで顕著じゃが、ライブ当日のエルヴィスの情報が初めててんこ盛りで掲載されておるのじゃ!会場や街の歴史といった周辺情報でもなく、女の子たちの熱狂ぶりやマスコミの紹介記事の記録でもなく、エルヴィスの1日の行動の詳細が明確に残されておるのじゃ。また現代でも読むに値するハイクオリティな当時のライブ・レビュー、エルヴィス評がついに世に登場し始めた事実も掲載されておる。

 さらにレコードデビューに至るまでのエルヴィスの経緯まで詳らかにされ始めておる。一挙手一投足に留まらず、過去も現在も未来もエルヴィスの全てにマスコミが目を離せなくなってきたのじゃ。その内容を紹介していくとそれだけで「バーチャル~」1回分(でも足りないかもしれない)の文字量になっちまうので、ここではほんの一部だけご紹介しておこう。

★ブルームーンボーイズはショー当日の早朝にレキシントンに到着し、エルヴィスは体調を崩していた。ノースメインストリートにあるニューレキシントンホテルにチェックインし、数時間寝た後、彼らは洗濯のためにレナードのクリーナーに行き、エルヴィスはオーナーのドン・レナードからウィンザーノット(ネクタイのスタイル)の結び方を教えてもらった。
 エルヴィスはホテルに戻ると、ミルトン E. ブロック博士の診察を受け、軽度のインフルエンザと診断され、2 つの処方箋が与えられた。「私は軽いインフルエンザに罹っています」とレコーディングで有名な「ミスター・ダイナマイト」は楽屋で確かに言っていた。 「少し休むべきだと思うけど、友達が私に会いに来ているし、ショーは続けなければならない」とも言っていた。

★ショーのチケット(約4,000枚)は完売し、さらに2,000人以上が売り切れに涙をのんだ。 LCハープ博士(眼科医、上左写真左端)、ドン・レナード(クリーニング店オーナー、上左写真左から2人目)、ヘインズ・シェロンがYMCAでエルヴィスを待っていた。彼らは、階下と更衣室で彼のボディガードとして働くことになってしまった!6:30頃にエルビスが到着し、男たちは駐車場で彼に会った。彼が車から出てきた時、女の子たちは彼に近づき始めたので、男たちは彼を更衣室に連れて行くことに。エルビスはドン・レナードにもう一度ネクタイ結びを手伝ってくれるように頼んだ。レナードはエルビスがウィンザーノットを結び、最後にもう一度調整するのを手伝った。

★ジムナジウムのエルビスの更衣室への廊下は混雑するばかり。パーカー大佐が更衣室のドアを開け、写真を撮りたいと言い、エルヴィスとポーズをとるための女の子を何人か選び始めた。(上右写真~うーん。皆さん、どっちかというと“おっかさん系”の女の子!?大佐の好みか!)
 エルヴィスと写真を撮った女の子の一人バーバラは、「エルヴィスはとても恥ずかしがり屋で、とても優しく、とても礼儀正しい」と説明していた。彼はすべての女性に「奥様(マダム)」と言い、 バーバラは彼女が去る前に彼のサインをもらった。

★若いエルヴィスは、インフルエンザのために少し元気がなかったが、それでもできるだけ多くの人に挨拶をした。エルビスは恥ずかしがり屋で、大衆が「彼を受け入れてくれた」ことにいつも感謝していると言った。「私の人気上昇を可能にしてくれた人々、特に私の母と父を決して忘れません 。私にはただ夢のようです。大衆を喜ばせ続けられることを願っています」

★100人ほどのファンが中に入ってこようとしている楽屋の隅に静かに立っていたのは、ジーン・スミスという名前の若い男だった。ジーンとエルヴィスはいとこ同士で、一緒に育った仲だった。彼はエルヴィスのキャデラックを運転します。金切り声を上げる若者たちがエルビスに触れたりサインを求めたりすると、ジーンは脇に消えるのである。ジーン・スミスは、熱狂的なエルヴィスファンに畏敬の念を抱かれていて、(会場の座席スペースの中で)見栄えのする端っこの位置に立っていた。

以上、ほんの僅かな抜粋なので、全部読んでみたいみたい方はスコッティ・ムーアのサイトの方でどうぞ!

の日のエルヴィスの行動、エピソード各種、またライブ評などは、「Pageant」なる月刊誌の7月号に「Elvis Presley GO, CAT, GO」のタイトルにてより詳しく掲載されることになった。
 この中で紹介されている最大のオモシロ・エピソードは、エルヴィス・ファンの女の子の母親からエルヴィスの元に手紙が届き、その内容は下記の通りだった!
「娘があなたの子供を生むことが出来なければ自殺すると、私を脅迫しています。どうか私と娘を助けて下さい」

 右写真は半ばエルヴィス特集号と化していた「Pageant」7月号の表紙とエルヴィスのモノクロ写真が使用された裏表紙。エルヴィスの写真を表紙にした方が売上は爆上げじゃっただろうに!当時の風潮が、スターの上半身裸写真の表紙なんざ許さなかったのかもしれんなあ~。

「エルヴィスは両親の為に新しい家を手に入れ、親族を助け、父親を説得して由緒ある塗装工場の仕事を引退させた。エルヴィスの古くからの友人は言う。大きな成功も巨額のお金も、エルヴィスを変えることはなかった」(上記「Pageant」Elvis Presley GO,CAT,GOより)

 YMCAジムナジウムはその後経営母体が変わり、現在はJ.スミス・ヤング・YMCAと名称を変えて現役のコンサートホールとして機能しておる。何度か改修工事が行われているが、エルヴィスが登場した当時の建物の一部は残されておる。(左写真はストリートビュー2021年11月撮影)
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大佐の守銭奴ぶりも明らかになってきた、繊維の街にあったライブ会場
Area No.13/Serial No.164 カロライナ・シアター/スパータンバーグ
 ここからはサウス・カロライナ州へ移ろう。まず1956年2月15日のライブ会場、スパータンバーグという街の「カロライナ・シアター」じゃ。スパータンバーグという街は、19世紀から綿紡績、繊維工業で栄えた街じゃ。繊維工業といえば、当時アメリカ東海岸マサチューセッツ州のローウェルという街がもっとも有名じゃったが、スパータンバーグは“南部のローウェル”と称されたほどじゃった。
 「カロライナ・シアター」は、1950年代のスパータンバーグでもっとも高層だったビル「モンゴメリー・ビルディング」の1階にあった。元々この場所には、アメリカ南部の繊維業界のリーダーじゃったキャプテン ジョン H. モンゴメリーの住居があったという歴史的なポイントであり、若きキング・オブ・ロックンロール出演に相応しい背景がって、そうではなくてだな(笑)、わしゃ~“繊維”“紡績”って業種名にビビッとキタ。まさかこのスパータンバーグやローウェルで、ナッソージャケット(ハリウッドジャケット)のオリジナル・マテリアルが作られていたんじゃなかろうか!ってな!!勘違い、早とちりかもしれんけど、こりゃ~調べてみる価値アリと踏んだ。


 ハナシが脱線してしもうたが、このスパータンバーグでのライブでも、ノースカロライナ州各地でご紹介済みのミュージックジャンボリー参加メンバーの出演料に関するトラブルが起こった。ノース・カロライナ州各地では、お客のアンコールによる追加出演のギャラをエルヴィス以外の出演者にも払うか払わないかでモメタが、スパータンバーグではそもそもの売上金全体における各人の取り分で不満が噴出したことがスコッティ・ムーアのサイトに明記されておった。既にエルヴィスのマネージメント全権を握っておったパーカー大佐は、エルヴィス一人に売り上げ総額の50%を支払う条件で出演会場と契約しておリ、それを知ったミュージックジャンボリーの他の出演者の憤慨はハンパなかったという。
 まあ大佐に言わせれば「ふん!エルヴィスのお陰で大勢の客が集まっておるんじゃろうが!取り分が不満なら、今後ミュージックジャンボリーに参加しなくてヨロシイ」ってトコじゃろうが、どうやらそれを実際に口に出していたらしい!スコッティやビルに対しても同様の発言をしとるぐらいじゃから、ジャンボリー参加ミュージシャンへは造作もないことじゃろう。
 大佐も何か計算があっての発言ではあろうが、この頃より既に大佐に対する悪評は表立っておった。「エルヴィスの為じゃない。その後の自分の取り分の為には他人を平気で犠牲に出来る男だ」と!スコッティ・ムーアのサイトに「カロライナ・シアター」とエルヴィスとの契約書のコピーが掲載されており(左写真)、その中にはっきりと“エルヴィスの取り分50%”との表記がある。
 ちなみにスコッティのサイトにおけるこの日の記述は、ライブに関する情報はあまり見られず、この金銭トラブルの実態についての記述が大半じゃ(笑)

 1980年代からの繊維産業の停滞に伴い、スパータンバーグ全体が寂れ、モンゴメリービルディング内のテナントの撤退が続き、ビル自体の取り壊しも検討されたという。
その後投資家たちや経済プロジェクトの手によってモンゴメリービルディングの保存が試み続けられた後、現在は新しいオフィス・ビルとして機能している。かつて「カロライナ・シアター」と呼ばれた建物内部の劇場部分も改装されて機能しておる。右写真はストリート・ビュー2019年7月撮影。
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キングがキングストリートに来たから、ただ今キング・アパートメント
Area No.14/Serial No.165 カントリー・ホール跡地/チャールトン
 Area No.13でご案内したスパータンバーグでのライブから約一ヶ月後、1956年3月19日エルヴィスご一行はスパータンバーグから約400キロ離れた大西洋沿岸の街チャールトンにやって来た。
 チャールトンは大西洋へ流れ込むクーパー川とアシュリー川に挟まれた半島の様な地域である。地図で確認すると、ライブが行われた「カントリーホール」は半島のど真ん中に位置しており、住所の番地はきっかり1000。そして地名はキング・ストリート(笑)
 カントリーホールは1902年に建設された繊維工場を機能の始まりとし、1941年に劇場に改装されてからはコンサート、スポーツ・イベントとして長らく使用された。エルヴィスの他にも、ボブ・ディラン、ドアーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ジミ・ヘンドリックスらのビッグネームの出演記録が残されておる。収容人数は約4,000人だったという。上右写真は、恐らくまだ繊維工場だった頃の撮影。上左写真は、新聞のライブ事前広告じゃ。そして左写真はネット上で公開されておる唯一のカントリーホールでのエルヴィスの写真である。

 ライブに関する記述はサイト上では見当たらなかった。「ハートブレイク・ホテル」がビルボート・ベスト50内にランクインしてまだ3週目であり、地元の有力紙「Charleston Evening Post」も「The News and Courier」もライブ・レビューを記事にしなかったらしい。(というか、取材に行っていなかったってだけじゃろうがっナマケモンめ!www)
 カントリーホールの現在は住所をそのまま名乗った「1000・キング・アパートメント」という中級の集合住宅に改装されておる。(右下写真は、ストリートビュー2022年2月撮影)この建物は原型が改装/改築されたものなのか、まったく新しく建て替えられたものかは現時点では不明。
 アパートの自社ウェブサイトをチェックすると、オリジナルの建物に使用されていたと思われるレンガがロビーの壁面のとして転用されておる。アパート内に「かつてエルヴィスが~」といった記念碑的な物はないが、Facebookの方には上写真を掲載して旧施設(カントリーホール)にエルヴィスが出演した事実を記載している。
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 エルヴィスはストリッパー!?エルヴィスに噛みつかれた!?迷報道に世間が揺れた一夜
Area No.15/Serial No.166 チャールトン・カレッジパーク・ベースボールフィールド/チャールトン  

画「エルヴィス」のハイライトシーンのひとつ、ラスウッド・パークで「トラブル」を熱唱した際に最前列にいた女性ファンにエルヴィスが噛みつかんばかりに迫るシーンがあったな!「指1本動かしたら逮捕だぞ」と脅しをかける警官への反抗のアクションなんじゃろうが、実際のラスウッドパークでのライブでは起ってはいないはずの架空のシーンだっただけに、わしなんかは「“反逆のロックンロール”ってのを強調し過ぎじゃなあ~」なんて感じたもんじゃ。

 映画のハナシはさておき、実際にエルヴィスがファンに噛みついて大騒ぎになった事件は確かにあった!1956年6月28日エルヴィスは約三ヶ月ぶりにサウスカロライナ州チャールトンに戻って来て、チャールトン・カレッジパーク・ベースボールフィールドでライブを行った。三ヶ月前はArea No.14でご案内したカントリー・ホールでのライブであり、この時はマスコミのライブレビューが無かったからなのか、エルヴィス人気が大爆発していたこの日は地元紙「The New and Courier」が若い女性レポーター2人をライブ会場に派遣した。その女性レポーターの一人ベティさんがライブ終了後にエルヴィスに噛みつかれた事を記事にしちゃったのであった!(下写真右端の記事部分)

 実際の場面は、ライブ終了後にエルヴィスが車に乗って会場を去る直前に起こった。大勢の女性ファンが車の周囲に群がり始めた時、エルヴィスはライブ前にインタビューを行っていたベティさんを見つけてお別れの握手をした時に手に噛みついたんだそうじゃ!その時の2人の会話は次の通り。
ベティ:ちょっとエルヴィスったら、何考えてんの!?マーロン・ブランドか誰かのように振舞っているわけ?
エルヴィス:僕は小さな子犬がじゃれるように友好的にしているだけだよ。
ベティ:まあ!私に親しみを示すために、誰かが私に噛みついたのなんて初めてだわ。
エルヴィス:レディ、もし目立ちたいなら、人と違ったことをしなきゃね!

その後ベティさんはマスコミの取材を受けて、エルヴィスに噛まれた箇所を嬉しそうに見せつけていたなんて後日談もあり、要は“エルヴィス大好き”が高じて自分アピールをするためにレポーターという立場を利用しちゃったと解釈出来る!
しかし「エルヴィスは悪魔だ!」と報じたい一部のマスコミにとっては恰好のネタになってしまい、「狂犬病になったら大変だ。彼女は除菌が必要だ」「女性に噛みつくなんてトンデモナイ!エルヴィスはちゃんと教育を受けているのか」「野蛮人のエルヴィスが毎日歯を磨いているはずがない」とか、バカバカしいまでの騒ぎになったらしい!

性レポーターさんたちの肝心のライブ・レポの方じゃが、こっちはマトモ(笑)というか、独特の表現が話題になった。ベースボール・フィールドに集まった約4,000人の女の子たちは、“誰一人気絶しなかったはず”としておる。気絶なんてしたらモッタイナイ!とばかりに女の子たちは全身全霊でエルヴィスのアクションを追っかけていた様な熱狂状態だったという。
 またエルヴィスの動きを“壊れたG・ストリング”“バーレスク・ルーティン”と独特の表現をしておる。G・ストリングとは、ストリッパー(バーレスク・ダンサー)の下半身の細部を覆う紐の様な小さな着衣(パンツ)のこと!それだけエルヴィスのアクションがセクシー過ぎたということじゃろう!こんな表現までされちゃうんだから、世の中の“お年を召した野郎ども”に目の敵にされても当然じゃな!

チャールトン・カレッジ・パーク・ベースボール・フィールドは、マイナーリーグに所属する球団チャールトン・レベルズ専用の球場であり(下左側写真)、観客席は小さなバックネット裏席と内野席のみだったようで、エルヴィスのライブに集まった観客のほとんどはフィールド上に設置された仮設席にいたんじゃろう。
 球場は現在でも使用されており、形状はエルヴィスが登場した頃とほとんど変化しておらんようじゃ。ストリートビューで現状を確認してみたが、球場の敷地が四方完全に白い壁で囲まれておってよおわからんので、代わりにフィールド内から撮影された写真を掲載しておくぞ。(左写真右側) 
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れ?この写真(左写真)どっかで見た覚えがあるぞ!って方は、わしの「バーチャル・ロックンロールツアー」に毎回ちゃんと参加して下さっておる方じゃ(笑)
 コイツは第15回ジョージア州編の「Are No.3/Serial No.130 ベル・オーデイトリアム/オーガスタ」に掲載した写真じゃ。それが、この度の「Area No.15/Serial No.166 チャールトン・カレッジパーク・ベースボールフィールド/チャールトン」の調査中にネット上で検索ヒットしてしまった!

 本文中に記述したが、この日のライブは女性レポーター2人が現場取材に訪れており、そのお二人が写真に収まっておるお嬢さん方って事らしい。決定的証拠は掴んでおらんけど、この写真のお嬢様方はどう見ても取材陣には見えんわな!というか、音楽ライブに限らず現場取材を仕事とする者独特のクセがこのお嬢様方からは感じられんわい(笑)ライブの後の打ち上げパーティーに招待された何らかのコネをもったいいトコのお嬢さんにしか、わしには見えんわい。「いや、取材者だろうが何だろうが、エルヴィスを前にしたら女性はみんな“一人の恋する乙女”に戻ってしまうだろう」というご指摘もあるじゃろうがな(笑)

 今後も続く「バーチャル~」の調査において、こうした“どっちの撮影場所が正しいのか”ってな写真に出くわす機会は多くなると予想出来るので、今のうちに諸君に対して予防線を張っておこう!判定の証拠がつかめないネタや写真を掲載する場合、長年取材屋をやってきた七鉄の勘によって決断が下されておるとな!わしの勘を信じて下さる方は、今後ともツアーへのご参加をお願い致しやす!(笑)


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