NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.397


第21回 エルヴィスゆかりの地~テキサス州前編・1954年11,12月



 「エルヴィスの50年代は謎が多いから調査が大変でしょう?」
これは「バーチャル・ロックンロールツアー」の連載をスタートさせた当初にThe-Kingのボスからかけて頂いたお言葉じゃが、テキサス州にやって来てそれを嫌と言うほど味わっておる!
 サンレコードとスコッティ・ムーア、その他様々な私設エルヴィス関連のサイトは、1954年のテキサス州ライブ・ツアーに関する記述はほとんど特定、断定がされておらんし、情報そのものが激しく錯綜しとるのじゃ。「いい加減、“思う”“可能性はある”は止めろ!」って喚き散らしたくなって投げ出したくなったもんじゃ。いやあ~マイッタ(笑)
 しかしこういう時こそ大事なのは「丹念にひとつひとつの情報を確認しながら、錯綜状態そのものをまとめ上げる」ことじゃ。謎や不明な点が多いってことは、冷静になって考えるとこれほど調査が楽しいことはないのじゃ!と思い直して、とりあえずテキサス州前編をなんとかまとめ、皆様を各地へご案内出来るようになりやした!まずは1954年11月、12月に絞って数多くの不確実情報に挑戦してみましたんで、どうかお楽しみ下さい!

 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー~エルヴィスゆかりの地
    第21回 テキサス州前編/1954年11月、12月 

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はテキサス州内での番号、Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.1/Serial No.167 ミント・クラブ跡地/グレイドウォーター
 Area No.2Serial No.168 KSIJラジオ局跡地/グレイドウォーター
 Area No.3Serial No.169 
ラウンドアップ・クラブ跡地/グレイドウォーター
 Area No.4Serial No.170 レスモール・モーテル跡地/グレイドウォーター
 
 Area No.5Serial No.171 パラディアム・クラブ跡地/ヒューストン
 
Area No.6/Serial No.172 ホーキンス・ハイスクール跡地/ホーキンス
 Area No.7/Serial No.173 アメリカン・リージョン・ホール跡地/マウント・プレザント
 Area No.8/Serial No.174 クックズ・ホウダウン・クラブ跡地/ヒューストン 
 

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奇跡的に数多くの記録が残っているテキサス初見参の地
Area No.1/Serial No.167 ミント・クラブ跡地/グレイドウォーター

 まずは、「エルヴィス・テキサス初登場」の地グレイドウォーターにおける数多くの記録からミュージック・クラブ「ミント・クラブ」をご案内しよう。
 グレイドウォーターという街はテキサス州最大規模の都市ダラスのほぼ真東200キロに位置し、お隣ルイジアナ州との州境テクサーカナ、そうエルヴィスが頻繁にライブを行っていた街へは北東約150キロ、ルイジアナ・ヘイライド出演会場のあるシュリーブポートまでも約150キロの位置にある。19世紀までは小さな小さな街じゃったが、やがて林業、農業(主に綿花栽培)の発達によって人口が増えていき、油田が発掘された後の1940年代には人口5,000人あまりの街に成長。また1933年に禁酒法が解禁になった直後から、周囲では真っ先にアルコール度数5%未満のビールの販売が行われた“ウェット郡”だったという!

 前回の先乗りレポでご案内した通り、このグレイドウォーターのミント・クラブにエルヴィスが最初にやって来た日付が未だに特定されてはおらん。1954年11月12日、22日、24日のいずれかじゃ。一方翌12月の14~17日の出演記録の方は確定されており、この時期のツアー記録にしては大変に珍しく何枚かの貴重な写真がネット上にもアップされておる。この4日間がテキサス初登場の時期ではないかという説も存在する。
 なお上、左の写真は全て1954年12月にミント・クラブ出演時の撮影。この中の一部は元々エルヴィスの母グラデスが保管しておったらしい。

 エルヴィス(ブルームーンボーイズ)をテキサス州へ呼び寄せることになったのは、1954年10月に契約が交わされた「ルイジアナ・ヘイライド定期出演」という小さな栄誉であり、テキサス州のミュージック・プロモート関係者の目を引いたのじゃ。仮にエルヴィスのミントクラブ初出演が11月12日だったとすれば、それまでに既に3回ルイジアナ・ヘイライドにエルヴィスは出演しておる。

 ミント・クラブは幹線道路271号線沿いにあり、周囲にはたくさんのホンキ―トンクなバーやミュージッククラブが点在しておったそうじゃ。各クラブの収容可能人員数はせいぜい50人程度であり、それでもまだ駆け出しのエルヴィスだっただけにお客は半分も入っていなかったらしい。典型的な“ドサ周り”じゃな。もっとも21歳以下は入場不可という規制があったんだそうじゃ。それがなければ女の子たちでいっぱいになった可能性も無きにしもあらず!?なおミントクラブ以外の周囲のクラブにもエルヴィスは出演しておったようじゃ。
 エルヴィスの最初のテキサス進出をサポートしていたのは、やはり前回の先乗りレポでご紹介した、グレードウォーターのDJでありプロモーターであったトム・ペリーマン。ペリーマンはたくさんのクラブへの伝手を使って若きエルヴィスを懸命に売り込んでおったようで、当時お金の無かったエルヴィスたちにプロモート代を抜かずに全額を支払ったりしておったらしい。それだけエルヴィスの才能を見抜いておったのかもしれない。

 さて「ミントクラブ」があった場所は、サンレコードのサイトに記載された住所の位置がオリジナルのミント・クラブの様じゃが、使用されておる跡地写真の方は、スコッティ・ムーア―のサイトと参照すると、どうやら後に他者に買収されて、271号線を渡ったほぼ対面に移転した位置のショットのようじゃ。(上左地図参照)上右写真は、ストリートビュー2022年6月撮影の元祖ミントクラブがあったと思われる場所。
 上述の通りミントクラブの跡地を検証した結果、前回の先乗りレポで写真をご案内した現「グレードウォータ・アンティーク・ショップ」の位置はミントクラブ跡地ではありませんでした。「アンティーク・ショップ」にはエルヴィスの壁画や記念プレートまで建物の壁面に埋め込まれておるので、まめ鉄君は完全に早とちりしてしまったようなので、どうかご容赦のほどを!
 実際にミントクラブがあった位置からアンティークショップまでは、271号線を4キロほど北上した場所じゃ。アンティーク・ショップは何も「ここがエルヴィスのテキサス初登場の場所だ!」みたいなハッタリなんざかますことなく、「この先4.5キロ」って正直に言っときゃええのにな!

 なお余談ながら、ミントクラブの跡地を紹介した私設エルヴィス・サイトが散見されるが、そこで使用されておる写真(下写真。撮影は2011年頃)は、サンレコードのサイト掲載写真同様に、移転した場所の跡地写真であり、エルヴィスが出演した場所ではないので以降お間違えの無いように。
 右写真には50年代当時から使われていた建物の残骸が写っておるが、数多くの証言からミントクラブは当初地元民から「緑の小屋」と呼ばれる緑色の建物だったそうじゃ。(白に塗り替えられたという証言は今のところネット上では見つかっておりません)
■Google-map上の位置■


エルヴィス・ロックのテキサス拡散に貢献したラジオ局
Area No.2/Serial No.168 KSIJラジオクラブ跡地/グレイドウォーター 
 今やほとんど正式記録と認定されておる、1954年12月14日~17日のグレイドウォーター/ミント・クラブでのエルヴィスの出演に関して、同じ期間に追加演奏記録も残されておる。それはグレイドウォーターのラジオ局KSIJ内でのスタジオ・ライブじゃ。先述したDJ兼プロモーターだったトム・ペリーマンの所属するラジオ局がKSIJであり、エルヴィスはペリーマンの番組「ヒルビリー・ヒット・パレード」に出演しておる。以降ペリーマンはエルヴィスが周辺地域をライブツアーで訪れた際には可能な限りエルヴィスを出演させておった。
 KSIJラジオ局は、リービルディングなる建物の最上階にあった。エルヴィスのロックンロールがテキサス州全土にむけて最初に積極的に放送された場所であ~る!ペリーマンの証言によると、エルヴィスはスタジオ内の床に寝転んでは雑誌を見ながらリラックスしておることが多かったらしい!

 リービルディングは現在でもアパートメントビルとして稼働中であり(下右写真はストリートビュー2022年6月撮影)、スコッティのサイトによると2008年当時はKSIJラジオ局だったスペースは「スタジオ27」というレコーディング・スタジオとして稼働しており、ペリーマンの手によって1980年代に売却された後も、扉や床には「KSIJ」のロゴが残っておった。(下左、中央写真)現在スタジオの稼働は不明。
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エルヴィスは“もっともワイルドなクラブ”へハシゴしていた!
Are No.3/Serial No.169 ラウンドアップクラブ跡地/グレイドウォーター 
 ミント・クラブのあった271号線(サウス・タイラー・ロード)は、ホンキ―・トンク・バー(ジューク・ジョイントともいうが、要するに安酒場!)が点在しておった。正式な記録は残されておらんが、エルヴィスはミントクラブの他に少なくとも、ラウンドアップクラブ、ブルージーンクラブには出演していたとする証言がネット上で拾うことが出来た。まあハシゴ・ライブ、ハシゴ酒ってトコだったんじゃろうな!こういう想像をし始めるとキリがないが、たとえ不確実情報であっても絶対に現地に行ってみたいわい!(笑)上記の通りクラブの位置を示した簡易地図を作っちゃったんで、ご参考までに!
 
 某英字サイトには、1954年当時存在したこれらのクラブの中で「ラウンドアップクラブがもっともワイルドだった」という記述があった。わしの大好きなドロッドロの黒人ブルースをやるブルースマンたちが出演していたってこと?わしの様な質の悪い酔っ払いが多かったってこと?
 周囲のクラブの中でも唯一営業当時の店舗写真やテーブル予約用パネルカードの写真がネットで発見できたし(上写真左側。店舗写真は1971年撮影)、その外装の様子から客入りがそれなりに良かったと推察出来るクラブじゃ。駐車場に立つ“ハウンドドッグ君”がいい味出しとるわい(笑)上述した「グレイドウォーター・アンティークモール」内に、エルヴィスがラウンドアップクラブに出演したことを証明するブツが展示されておるらしいぞ。ちなみにこのサイトによれば、エルヴィスの同クラブ出演は、1954年11月23日と推察されておる。右写真はストリートビュー2022年6月撮影の跡地周辺。
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67年前の領収書が残っている、エルヴィスの常宿
Area No.4/Serial No.170 レスモール・モーテル跡地/グレイドウォーター
 グレイドウォーター及び周辺地域でエルヴィス一行がライブを行う際の宿泊先として頻繁に利用されたモーテル。1954年11月(もしくは12月)にエルヴィスが初めてグレイドウォーターを訪れた際に、トム・ペリーマンが手配したとされておる。
 平屋建ての小さなモーテルの様じゃが、ライブ会場への所要時間等の立地条件の良さからか、エルヴィスは1955年までよく利用していたようじゃ。エルヴィスは104号室がお気に入りだったそうじゃ。
 左写真は、1940年代に発行されたモーテルの絵葉書。下左写真は1955年9月25日付けのモーテルの支払い領収書。宛名書スペースのトップにエルヴィスの名前が書き記されておる。

 レスモール・モーテルがいつまで営業されていたのかは不明じゃが、建物自体は現在でも残っておる。下中央写真はストリートビュー2022年6月撮影の跡地写真。下右写真は、下中央写真に写っている看板の拡大写真。現在は低層アパートとして営業しており、看板の文字は塗り潰されておるが、建物の形状はエルヴィスが宿泊した当時とほとんど変っておらん!
 なおここから数ブロック先にエルヴィスお気に入りの「シャムロック・カフェ」というレストランがあったそうで、エルヴィスがファンとともに食事をしたというエピソードが残っておるが、残念ながら場所の特定が出来ず、当時の写真も発見出来なかったので悪しからず。

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エルヴィス・サクセスストーリーの原点となった会場
Area No.5/Serial No.171 パラディアム・クラブ跡地/ヒューストン
 1954年11月25日、アメリカの感謝祭(Thanksgiving Day)の日にエルヴィス一行はテキサス州ヒューストンにいたとされておる。感謝祭とは、もともとはイギリスからアメリカに渡ってきたピルグリムと呼ばれる人たち(主に巡礼者)が新しい土地での初めての収穫を神に感謝をしたことが起源とされておる。ミュージシャンとしてデビューした直後のエルヴィスたちの全米ツアーサーキットはスタートしたばかりであり、感謝祭に準えて言えば彼らはミュージック・ピりグリム!そして感謝祭の日のライブは予想外?に盛り上がり、当初1日だけの予定だったライブが急遽2日の追加ライブが決定、実演されたという。Happy Thanksgiving Day(幸せな感謝祭の1日)になったわけじゃ。
 エルヴィスはこの追加公演に気を良くして、メンフィスにいる父親バーノンへ送金をして、11月26日付けでテレグラム(電報)も送っておる。(左写真)電報の最後には「後ほどもっとお金を送ります!」と記されておる。追加公演による臨時収入も送金するつもりだったのじゃろう。
 クラブ関係者の記憶によると、エルヴィスのギャラは1日40ドル。集まったお客は25、26日で合計200人。27日(土曜日)は400人という異例の大入りだったという!またエルヴィスの出演前、ドレッシングスペースに女の子たちが押し寄せて来た時、「彼らを(スペース内に)入れないでほしい」と頼んだそうじゃ。「エルヴィスは頭のいい子だと思いましたよ」といった証言も残されておる。

 エルヴィスに小さな幸せをもたらした1954年11月25日のヒューストンでのライブじゃが、肝心の会場が未だに何処だか明確にされておらん。サンレコード、スコッティ・ムーアのサイト、また記録集「Elvis Day By Day」全てにおいて“多分”“恐らく”“可能性が高い”という注意書きを添えて「ヒューストンのパラディアム・クラブ」としておる。残されておる同会場の新聞広告も日付の記載が無い。(右写真)おまけに“ELVIS PRESSLEY”と綴りミス(笑)
 テキサス州ヒューストンは同州内の最大人口を擁する大都市であり、1950年代には少なくとも8つのラジオ局があり、それぞれにお抱えの番組用ライブ会場、ミュージッククラブがりあり、この当時のミュージックライブ会場を特定するのは非常に困難であるらしい。

 パラディウム・クラブに関するネット上の公開資料は非常に少なく、建物の写真も無し。別称にテキサス・コラールという呼び方があったことを発見して再検索をしたところ、時期は不明じゃが2枚の店内写真を発見。(下写真)エルヴィスとは何ら関係のない写真ではあるが掲載サイトには、“当時ヒューストンの有名クラブであり、エルヴィスさえも出演したことがある”と明記されておった。
 ヒューストンの売れっ子DJであり、いくつかのミュージッククラブの所有権のあるビフ・コリーはパラディウム・クラブでのエルヴィスの演奏とお客の反応に大変喜んだ一人だったが、エルヴィスに向かって「君たちの演奏しているリズム&ブルースは永遠に(人気が)続く音楽じゃないよ。もっとスローな曲をやるつもりはないのかい?」って言っちゃったらしい(笑)エルヴィスは次の様に返答したという。
「スローな曲は今は歌いたいとは思いません。僕は今歌いたい歌を歌っていきたい。それが僕にとってもっとも気持ちの良いことだから」。う~ん、非常に優等生的な返答でありますな!(笑)

 パラディアム・クラブは少なくとも2つの店舗があったと推察され、エルヴィスは恐らくアドレス1600 Old Spanish Trailにあった店舗の方に出演したらしい。その周囲は土地再開発が続き、往年を偲べる雰囲気はまったく無くなっており、現在は広大の空き地になっておる。(右写真ストリートビュー2022年6月撮影) 
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エルヴィスがNBAにスカウトされなくて良かった!?
Area No.6/Serial No.172 ホーキンス・ハイスクール跡地/ホーキンス

 これまた日付に関する諸説様々だったライブ会場へご案内しよう。現在のところスコッティ・ムーアのサイトに記載されておる1954年12月20日説がもっとも有力な、ホーキンスという街のホーキンス・ハイスクールじゃ。
 スタンリー・オーベストの著書『ロッキン・アクロス・テキサス』では出版当初は1954年12月17日に設定。しかしこの日付は、エルンスト・ヨルゲンセンの著書『テュペロから来た少年』にて、当日エルヴィスはメンフィスにいたのでオーベストの日付は不可能であると主張した上で12月23日と推測。
 そして後日、スコッティのサイトが12月21日付のGladewater Daily Mirrorという新聞の小さなレビューを発見したことで、12月20日説で落着したのじゃ。なおサンレコードのサイトでは12月23日という記載から現在のところ更新はされておらん。こういう細かいところに拘って、他人様の調査の経緯をおもしろがっちゃって、わしもやっぱり日本人じゃな~!
 だがしかし、もうひとつ問題を発見!サンレコードのサイトに掲載されていたステージ写真(上写真)、これはスコッティのサイトでは1955年9月25日、テキサス州ギルマーでのライブ写真として掲載されておる。いやあ~疲れますな~(笑)どっちが真実なんだが現在は分らんので、あくまでも参考写真として見ておいてほしい。ちなみにサンレコードのサイトは、この日のエルヴィスの衣装は“ピンクと黒のスーツ”としておる。掲載写真(上写真)はモノクロながら、どう見てもピンクと黒には・・・。

 このライブにおいては、当時としてはアルアルだったとはいえ、後のキング・オブ・ロックンロールにまつわるエピソードとしては到底アリエナイ“前日談”があった。ホーキンス・ハイスクール側としては生徒たちのフロリダ州への修学旅行用の資金が足りず、その不足額の調達手段としてエルヴィスを学校に呼んだらしい!生徒側の責任者みたいな者が「ルイジアナ・ヘイライド」のステージまで行き、エルヴィスに直接「我が校で演奏して下さい」と果敢に誘致して実現したライブだったらしい!エルヴィスのギャラの額は不明じゃが、ライブの入場料はお一人様1ドルだったらしい。
 ハイスクール関係者の証言によると、エルヴィス、スコッティ、ビルのステージ作りの動作はあまりにもスピーディーでアクロバティックであり、まるでバスケットボールの選手の様だったとか。「この日NBA(ナショナル・バスケットボール・アソシエーション)のスカウトマンが来てなくてよかった(エルヴィスがスカウトされなくてよかった)」というジョークを飛ばしております!実際にバスケット部のキャプテンはエルヴィスの動きを見て、「俺たちと一緒にやってみないか?」と誘い、「おい、誰かヤツ(エルヴィス)にジャージとショートパンツを買ってやれ!」って言ったんだそうじゃ!

 ホーキンス・ハイスクールは現在でも存在しているが、エルヴィスが出演した当時の場所からは移転済み。旧ハイスクールは、ホーキンス・ジムナジウム(ホーキンス体育館)の名で建物は2013年6月時点では取り壊されておらずに存在しておったが(右写真ストリートビュー撮影)、現在は如何に?
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女性ファンの日記によってほぼ判明した、エルヴィスの1954年12月3日
Area No.7/Serial No.173 アメリカン・リージョン・ホール跡地/マウント・プレザント
 上述したホーキンス・ハイスクール以上に情報が不明瞭なライブ記録をもうひとつ。テキサス州マウント・プレザントという街にあったアメリカン・リージョン・ホールで1954年12月3日にエルヴィスがライブを行ったという記録がネット上で散見出来る。マウント・プレザントはグレイドウォーターの真北約70キロの位置にある小さな街じゃ。サンレコードのサイトでの紹介によって私設エルヴィス・サイトの数々が記載することになったと思われるが、スコッティのサイトでは当日はアリゾナ州テクサーカナのミュニシパル・オーディトリアム出演とされておる。
 更にサンレコードのサイトには、実際にアメリカン・リージョン・ホールでエルヴィスを観た!という女性ファンの証言も掲載されており、彼女はライブ終了後にエルヴィスはルイジアナ・ヘイライドの会場のあるルイジアナ州シュリーブポートへ向かったとしておる。翌12月4日は確かにルイジアナ・ヘイライド出演の記録が残ってはおる。ご自身の当時の日記を元にこの女性は証言されておるそうじゃ。
 更に不明瞭なのは、サンレコードのサイトにアメリカン・リージョン・ホールでのエルヴィスと女性のツーショットが掲載されておるが、女性が誰であるのか、会場の何処で撮影されたのか、そもそも写真の出処は何処なのか、その全てが不明とされておる。エルヴィスは確かにデビュー当時の雰囲気ではあるのじゃが・・・。

 更に困ってしまったのは、アメリカン・リージョン・ホールが何処にあったのかもネット調査上では不明。エルヴィスの全てのコンサート会場を訪ねる「Elvis Presley In Concert」という素晴らしい私設サイトがあり、その中に跡地の写真が掲載されておったが(右写真)、肝心の住所の記載が無い(泣)散々調べまくったが現時点では不明なので、判明次第更新情報として追加致しやす。
 「Elvis Presley In Concert」なるサイトは、遥か昔に使用されたライブ会場を探し出す苦労、また勘違いや間違った情報に振り回された経緯なども簡潔に紹介されておるから、実にオモシロイ!
 このアメリカン・リージョン・ホールの跡地も、現地人や現地のマスコミ関係者の協力の末に見つけ出すことが出来たそうじゃ。やっぱり過去の調査ってのは現地に行ってみないと正しい情報は得られないってことじゃ。それにしても住所は記載しておいてほしかった。写真に写っておる建物は旧アメリカン・リージョン・ホールではなく、目の前に広がる駐車場スペースに会場が建てられておったそうじゃ。



1954年ラストを希望に満ちたライブで飾ったクラブ
Area No.8/Serial No.174 クックズ・ホウダウン・クラブ跡地/ヒューストン

 1954年エルヴィス・イン・テキサス最終ライブ地は、12月28日ヒューストンの「クックズ・ホウダウン・クラブ」という説が有力じゃ。これにもやっぱり他説が存在しており、12月31日に同じくヒューストンの「イーグルス・ホール」に出演したとか、ニューボストンの「レッド・リバー・アーセナル」に出演したとか。イーグルス・ホールは1955年元旦には間違いなく出演しておるんで、次回あらためて。レッド・リバー・アーセナルは参考資料がまったく見つからないので今回はスルー。これまた新事実が判明次第、更新情報としてお届けいたす。

 1954年の年末、エルヴィスはヒューストンとメンフィスを何度か行き来しており、「ホウダウン・クラブ」出演の前日12月27日は、メンフィスにてボブ・ニールと専属マネージャー契約を行っておる。余談じゃが、当時のサンレコードのボブ・ニールに関する評価がオモシロイ。「ボブ・ニールはエルヴィスのライブ出演料をアップさせるために多大な貢献をしたといえるが、ボブは必ずしも毎回多額の出演料契約を果たせる腕前ではなかった。現に1955年の一時期、エルヴィスは不当に安いギャラで出演せざるを得ないことが少なくなかった」とか(笑)

 ホウダウン・クラブは先述したパラディアム・クラブとほぼ同時期(1948年)にオープンしたヒューストンの人気クラブであり、1954年12月28日はエルヴィス見たさに異例の150人が集まったとされておる。関係者の記憶では、ステージ前の座席はほとんど女性たちで埋まっていたそうじゃ。トミー・サンズら複数の出演者がいた当日のミュージック・イベントでエルヴィスはトリを務め、当然のごとくもっとも客ウケが良く、アンコールにも応対!当時の人気女性R&Bシンガーだったラヴァーン・ベイカーの大ヒット曲「トゥイードル・ディー」をカヴァーして大喝采を浴びたという。エルヴィスの見事なカバーぶりにスコッティ・ムーアやビル・ブラックが驚いたという証言もあり、エルヴィスが観客の前で同曲を披露したのはこの日が初めてだったのかもしれない。
 11月末のパラディアム・クラブでの好評の噂が消えることなく、約一ヶ月後のホウダウン・クラブの盛況に繋がったのじゃ。テキサス州ヒューストンはテネシー州以外でもっとも早い時期ににエルヴィス人気に火が付いた地だったようじゃな!

 ホウダウン・クラブがいつまで存在していたかはまったく不明であり、その跡地周辺はコンサートスペースもあるジョーンズ・プラザという大きな公園になっておる。(右写真)ストリートビューで確認すると2022年3月現在、公園敷地内で大規模な改修工事かビル建設工事が行われておる模様。
■Google-map上の位置■

 (以降、次回「テキサス州中編」に続く)


【 お断り 】
 Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」
掲載中断について


今まで「バーチャル・ロックンロールツアー」にてご紹介してきた全ての場所をGoogle Map上で一覧出来る
「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー」の更新を一時中断致します。

「一覧!~」の基本機能である“Googleマイマップ”の更新機能の上限を越えてしまったため、
新たにご紹介する場所が追加出来なくなりました。

ただ今、別の機能等にて新たにご紹介していく場所を追加出来る方法を検討しております。しばらくお待ちください。


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