あらためまして、いつも「バーチャル・ロックンロールツアー」にご参加頂いている皆様、ありがとうございます。チョイ頑固まめ鉄でございます! テネシー州周囲の8つの州を周るツアーが終了し、お次はテキサス州へご案内する予定であり、七鉄師匠より先乗り部隊を任されている僕の調査は同州でただいま進行中であります。今回は、師匠が新しいPCを買ったとかでドタバタ、ジタバタしてますんで本編は1回お休みを頂き、その代わりに僕からテキサス州の先乗りレポをお送りします。まったくもう、新しいPCの快適操作発見の度にいちいち雄叫び上げながら感動していないで、さっさと仕事を進めろ!って師匠に言いたいトコではありますが(笑) とにかくテキサス州はデカイ!面積ではアラスカ州、人口ではカリフォルニア州に次いで全米第2位の州です。そして何よりも、1950年代のエルヴィスのライブ回数においてはテキサス州はダントツ!の第1位なのです。1954年度、1955年度だけで100回を越えており、「エルヴィスとテキサス」って一般的なイメージではあまり結びつかない様でもありますが、下積み時代(サンレコード時代)のエルヴィスを語る上では絶対に無視出来ない州です。 テキサス州のライブ回数があまりにも多く、エルヴィス・イン・テキサスを回想する私設サイトの数も膨大!(しかも掲載写真がメッチャいい加減なものが多いwww)ネット上にこんなに情報が乱舞しているのはテネシー州以来でした。 また1955年初頭までのライブデータがサンレコードとスコッティ・ムーアのサイトの不一致が多いこともあり、なかなか収拾が付かないのが正直なところです。エルヴィスの生涯の行動を日毎に記録した「Elvis Day by day」においては、その頃の記録は一応スコッティ・サイト寄りですが、どうも曖昧というか判然としないというか・・・。しかしそれ以上の調査能力が僕にあるわけもないんで(笑)、この際“事実、真実は不明”な記録も含めて、先乗り部隊提供ならではのこぼれ話、参考知識を含めて掲載しておきます! |
【エルヴィスゆかりの地・テキサス州先乗りレポ その1】 音楽の坩堝テキサス! まず単純な疑問として、「どうして約1年間に100回以上もテキサス州でライブをやったのか?」ってコト。エルヴィスは3日に1度はデカイテキサス州の何処かで歌っていたってことですもんね。人口が多い分、プロモーション効果が高いってことは当たり前ですが、それ以上に何かあるって僕はフンダんですが、それは「ルート66」の存在が根本的な部分でエルヴィスと大きく関与していました。 ルート66(国道66号線)は、イリノイ州シカゴと西部のカリフォルニア州サンタモニカを結んでいた、全長3,755km(2,347マイル)の旧国道で、アメリカ大陸を横断するこの道はアメリカ西部の発展を促進した重要な国道であり、映画や小説、音楽などの中に多く登場し、今なおアメリカのポップ・カルチャーの題材にされています。地図で確認するとテキサス州の北部も貫いていました。 このルート66によって、アメリカ東部、テネシー州周辺、アメリカ西部の文化がテキサス州に流れ込み、更にテキサス州は最南部がメキシコと隣接しているので、テキサス州全土が様々な異文化の坩堝と化していたことがwikipediaに明記されています。カントリー、ジャズ、ブルース、更にメキシカン・ミュージック等の音楽が偏見なく自由に楽しまれる土壌がテキサスに出来上がり、そしてエルヴィス・プレスリーというとてつもない異文化をも受け入れる大きな文化的器をも成立させていたのです! 1960年代後半に人気を博したロック・バンド、ザ・ドアーズのヴォーカリストであり、大のエルヴィスファンでもあったジム・モリソンは、全米各地を転々とした幼少期を振り返り、「テキサス州は、電波をキャッチ出来るラジオの局数がもっとも多く、様々な音楽を聞く事が出来た。それはある時は遠いメキシコからもやって来る」と語っておりました。モリソンはその貴重な体験を元に「テキサス・ラジオ&ビッグビート」という(僕にとって)名曲を書き上げています。 豊穣な音楽の海‐テキサス。それを知り抜いていたサム・フィリップスがエルヴィスを果敢にテキサスに売り込もうとしていた事は間違いないでしょう。 |
【エルヴィスゆかりの地・テキサス州編先乗りレポ その2】 テキサス初登場は、1954年11月12日か25日か?それとも22日?? エルヴィスが最初にテキサス州でライブを行ったのは1954年11月とされ、ルイジアナ・ヘイライドへの定期的出演は除き、テネシー州以外での初めてのライブ地でもあります。しかしこの記念すべき初の地方遠征の日付と場所が、サン・レコード及びスコッティ・ムーアのサイト両方で明確にされていません。 11月12日 グレイドウォーターという小さな街にあったミント・クラブなのか? 11月25日 大都市ヒューストンのパラディウム・クラブなのか? どちらの日も新聞広告が発見されていないので、両サイトとも断言出来ていないのです。もちろん、両日のエルヴィスの写真も発見されていません。サン・レコード及びサム・フィリップスはエルヴィスに大きな可能性を感じていたとはいえ、ライブ記録を正確に残しておくような緻密な仕事はしていなかったようですね。数多くの私設エルヴィス・サイトでは「11月25日ヒューストン・パラディウム・クラブ」をエルヴィス初のテキサス遠征としているようです。同年12月14~17日には間違いなくグレイドウォーターのミント・クラブでのライブ記録が残っており、こちらはエルヴィスの出演写真も発表されています。(左写真) ちなみに右下写真は、スコッティ・ムーアのサイト内Tour Datesにおける、1954年11月から1955年初頭のライブスケジュール表です。黄色のラインが入っている行がテキサス州ですが、ライブが行われた記録はあるものの日付は全て正確ではないとの但し書きが多いです。サンレコードのサイトでも、この頃のエピソードには同様の但し書きが結構見られるので、その点は予めご了承頂きたい。 日付はさておき、グレイドウォーターでのライブにはちょっとおもしろいエピソードが残されています。当時のエルヴィスのマネージャーは、まだスコッティ・ムーア。スコッティは後のボブ・ニールやパーカー大佐のようなマネージャー業専属者ではありません。それゆえなのか、エルヴィスは自ら地元の印刷所に出向いてグレイドウォーターでのライブ告知用のポスターの印刷を依頼していたそうです! 印刷所のオーナーだったE.L.スタッグス氏によると、エルヴィスの事は“ルイジアナ・ヘイライド定期出演契約者”として既に知っていたようで、「普通の人間とは明らかに違った雰囲気を持った男と感じましたが、まさかとてつもない大物になるとは思わなかった」と回想しています。 この回想が正しいとすれば、ライブ当日に宣伝用ポスターの印刷依頼にエルヴィスが来るはずもないので、11月12日はポスター印刷依頼にグレイドウォーターを訪れただけで、ライブは12月14日だったとも言えますが・・・。なおエルヴィスが印刷依頼したポスターのデザイン、サイズ、部数は不明ですが、費用は2ドル50セントだったとか。そのお金はスタッグス氏の記憶によると未払いだったらしいです。印刷依頼時の前払いではなかったんですね(笑) なお、グレイドウォーターのミントクラブの跡地には、現在「グレイドウォーター・アンティーク・モール」というアンティークショップが建てられていて、その壁面にはエルヴィスのイラストとともに、ここでエルヴィスはテキサス州初のライブを行ったという主旨の文面が刻されたプレートがはめ込まれています。しかし日付は11月12日ではなく 11月22日という新説が刻されています。 左写真左側が、ストリートビュー2022年6月撮影の「グレイトウォーター・アンティーク・モール」の建物側面。赤丸部分がエルヴィスのイラストとプレート。 左写真右側がプレート拡大写真で、緑色ライン箇所が「1954年11月22日ここでエルヴィスは~」と刻されている部分です。 今なお正確な日付が判明していないにもかかわらず、アンティークショップとしては大い箔が付く歴史的事実を知ったかこいたまま?チャッカリアピールしてます! まあ「12?22?」って日付の解明に目ん玉ひんむきながら熱く成り過ぎるのも異様かもしれませんが(笑)、細かいデータに拘りがちな日本人として一応3つの説を全部紹介致しました! 「ミント・クラブ」や「パラディアム・クラブ」でのライブに関する詳細は、次回の「バーチャル・ロックンロールツアー/テキサス州編」本編にてご紹介致します。 |
【エルヴィスゆかりの地・テキサス州先乗りレポ その3】 “マネージャー”スコッティ・ムーアのエルヴィス売り込みレター スコッティ・ムーアのマネージャーとしてのお仕事を証明する希少なブツを紹介しましょう。これはサンレコードのサイトに掲載されていた、スコッティがトム・ディスキンなるシカゴのコンサート・エージェントに送った売り込みのお手紙であります。(左写真)日付は1954年12月13日で、内容は下記の通り。 「あなたの会社が出版社なのか、それともブッキング・エージェントなのか、いくつか情報をお願いします。私はサンレコーディング・スターであり、 「ブルームーン・オブ・ケンタッキー b/w ''ザッツ・オールライト」 と 「グッドロッキン・トゥナイト b/w お日様なんて出なくても構わない」の2つのヒットシングルを発表したエルヴィス・プレスリーのマネージャーです」 「そちらの業務に興味があるので、私の持っている情報を提供したいと思います。シカゴ地域でコンサートブッキングについて情報を提供していただければ幸いです」 この手紙に対するトム・ディスキンの返信も残されています。(こちらはタイプされた手紙) 「あなたのアーティストに関するお手紙をありがとうございます。私たちはブッキングとプロモーションのエージェンシーですが、現時点ではあなたのアーティストに提供出来る情報は何もありません。シカゴ周辺のこの地域には、ヒルビリー、エンターテイナー向けの会場はほとんどありません」 う~ん、何ともすげない返信ですなあ~。せめて「参考までにレコードを送って下さい」ぐらい返しておけばいいのに(笑)エルヴィス一行は翌日から先述したテキサス州グレイドウォーターでのライブを控えており、恐らくグレイドウォータへの移動中にテキサス州の何処かでスコッティはこの手紙を投函したものと思われます。 ちなみにこの手紙が投函された2日前の12月11日は、パーカー大佐が初めてエルヴィスを観た、そう映画「エルヴィス」で「運命の出会いだった」と大佐が回想するライブ、ルイジアナ・ヘイライドが開催された日でもあります。トム・ディスキンなる人物は後にパーカー大佐の一番弟子として大佐に仕え、エルヴィスのツアーにも同行するようになります。 それにしても「奥様が代筆したのか」って見えるぐらいスコッティは達筆というか“美筆”ですね! 【エルヴィスゆかりの地・テキサス州先乗りレポ その4】 やはりミュージシャン・エルヴィスのベースはブラックミュージック 上述した11月12日同様、1954年のテキサス遠征中にもう1日詳細がはっきりされていない日があります。12月16日、ライブ記録が残されているグレードウォータのミントクラブでライブが行われた日ですが(12月14日から17日まで4日連続)、エルヴィスは当時のガールフレンドだったディキシー・ロックとメンフィスのビールストリートにあった「フラミンゴ・クラブ」というミュージックハウス(左写真)を訪れたかもしれないという記述がサンレコードのサイトにありました。 テキサスでのライブツアー中にメンフィスにエルヴィスが現れたなんてありえないハナシではありますし、これは一体どういうことでしょうね。 フラミンゴ・クラブは煽情的でアクロバティックなアクションをするミュージシャンが出演するクラブとして名高く、エルヴィスはこの日の出演者であるブルース・ギタリストのカルヴィン・ニューボーン(右写真)のライブ鑑賞の為にやって来たんだそうです。当時エルヴィスはメンフィスのナイトクラブに頻繁に顔を出しており、カルヴィンとは一時期大変に仲良くなり、まるでバスケットボール選手のような飛び跳ねる彼のステージパフォーマンスを学んでいたそうです。 エルヴィスのフラミンゴ・クラブの訪問記録はもうひとつありました。1954年9月後半、サム・フィリップスの案内でR&Bギタリストのピー・ウィー・クレイトンのパフォーマンスを観に行ったそう。また同日、当時史上最高の黒人ジャズ・ピアニストと称されていたフィニアス・ニューボーンも出演していて、エルヴィスはフィニアスの演奏をバックにして数曲歌ったそうです。 フラミンゴ・クラブとテキサスは何の関係もありませんが、虚実様々の入り乱れた情報の中からも「やはりエルヴィスの音楽、パフォーマンスの原点は黒人音楽」であることがあらためて浮き彫りになったのでお伝えしておきます! 【エルヴィスゆかりの地・テキサス州先乗りレポ その5】 ライブツアーはもとより、エルヴィスのテキサスの日常を支えていたDJ 1954年11月からスタートしたエルヴィスのテキサス州ライブツアーの軌跡を色んなサイトで追っていくと、特に1955年前半までの記録の中にある人物の名前がやたらと登場します。それはトム・ペリーマンというテキサス州のDJ兼プロモーターです。 この時代のDJというのは、ラジオ局でオススメのレコードをかけておしゃべりをするだけではなく、贔屓のミュージシャンが自分の地元にやってきた場合のライブ会場や宿泊先のブッキング、更に気のいいDJはよそ者であるミュージシャンの身の回りのお世話までしていたようです。トム・ペリーマンもそうしたDJの一人でした。(左写真は、1955年1月25日テキサス州テイラー・メイフェア・ビルディングでのライブ。左端がトム・ペリーマン) ペリーマンに関する記述に付随して目立つのが「当時エルヴィスもスコッティもビルも、とにかくお金が無かった」ってヤツ(笑)モーテル代が払えなかったとか、メンフィスまで帰るまでのガソリン代もなかったとか、ライブは盛り上がったが客数が少なくてギャラも少なかったとか! 僕がもっとも興味を持ったお金に関するエピソードは、「エルヴィスは街に入るとまずクリーニング屋に行ってジャケットをドライクリーニングに出すが、クリーニング後の受取時に支払うお金もなかった」ってヤツ!お金はなくともエルヴィスはオシャレ、身ギレイを心掛けていたんですね~。 しかしクリーニング代はともかくとして、宿泊代とかガソリン代とかって必要経費としてサンレコードから前払いしてもらえなかったんですかね(笑)サンレコードがケチだったのか、当時はそれが業界の常識だったのかどうかは分かりませんが、とにかくエルヴィス&ブルームーン・ボーイズはツアー中はかなりの貧乏だったようです。 ってハナシが脱線してしまいましたが、そんなエルヴィス&ブルームーン・ボーイズを救っていたのがトム・ペリーマンだったのです。ブルームーン・ボーイズがミントクラブに出演した時には、プロモート手数料の15%を受け取らず、売上の全額90ドルを渡したり、時にはバンドを自宅に呼んで奥様の手料理を振舞っていたんだそうです。ペリーマンの奥様の回想にはちょっと胸が熱くなりました。 「エルヴィスは髪の毛がベタベタしていましたが、私はすぐに彼が好きになりました。いつ会っても“こんにちは。ミセス・ペリーマン”と丁寧に挨拶をする礼儀正しい青年でした。エルヴィスは好き嫌いなく何でも食べていまして、特に私の作ったバナナ・プディングが大好きでしたよ」 ペリーマンもまた次のようにエルヴィスを回想しています。 「ガソリン代とかなんやら、時々工面してあげていたと思うよ。感心したのは、エルヴィスもスコッティもその恩義を決して忘れなかったことだよ。心の優しい青年たちだったよ」 当時の有名DJといえば、なにはともあれデューイ・フィリップスとアラン・フリード。彼らはラジオのトーク同様にかなり“かっ飛んだ”人物であったこともまた有名でしたが、ネット上で発見した希少な1950年代当時ペリーマンの写真を見ると(右写真。右端がペリーマン)、普通の優しそうなオジサンですね(笑) 本当にDJ?って風貌のペリーマンですが、この方は後にナッシュビルとテキサスの両方の「カントリーミュージックの殿堂」に迎えられたほどの功績があるんですね。2018年に90歳で亡くなられるまで、その経歴と名声もさることながら、奥様を大切にする紳士として業界で大変に評判のよろしい方だったようです。 ぺリーマン生前最後のインタビューがテキサス州の地元ネットに掲載されていました。そこで「エルヴィスが初めてテキサスでライブをやったのは、グレイドウォーターのミントクラブだよ」と断言していました。そしてエルヴィスに関する短いコメント、これが印象深かったです。 「エルヴィス・・・驚くべき才能を持った男だったよ。人間はみんな歳を取ってしまうけれど、エルヴィスの様な男は年を取らなくて良かったのかもしれない」 トム・ペリーマン。キング・オブ・ロックンロールの本当の下積みを支えた人物として、記憶に留めておいてほしいです。 以上、まめ鉄のテキサス州先乗りレポでした。次回から本編を再開致しますので、ご参加の程よろしくお願い致します。テキサス州におけるエルヴィスの軌跡、及び広大なテキサス州を吹き抜ける風の音や空気の匂いもお届け出来たら幸いです。とはいえ、担当は七鉄ジジイ、いや師匠なんでお酒の匂いを先に届けちゃうでしょうが、皆様どうかご容赦を(笑) |
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