NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.399


第23回 エルヴィスゆかりの地~テキサス州後編

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【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
            第23回 テキサス州後編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はテキサス州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 
Area No.17/Serial No.183 アップシャー・ルーラル地方電化局講堂/ギルマー
 Area No.18/Serial No.184 ギルマー・ジュニア・ハイスクール・ジムナジウム
 Area No.19Serial No.185
 ザ・レオ・パーム・アイル/ロングビュー
 Area No.20Serial No.186  デッソー・ホール跡地/オースチン
 
 Area No.21Serial No.187  マグノリア・ガーデン/ヒューストン
 
Area No.22/Serial No.188
  スポータトリウム跡地/ダラス
 Area No.23/Serial No.189 グレイドウォーター・ハイスクール・ジムナジウム
 Area No.24/Serial No.190 アメリカン・リージョン・ホール(跡地?)/ブレックンリッジ
 

 【お断り】 Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」掲載中断について

 【バーチャル・ロックンロールツアー第1回~21回 リンクバナー】

 ★ 本文中の表記について ★
 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  SRW=サンレコードのウェブサイト 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」


エルヴィス共演者営業妨害事件!?
Area No.17 Serial No.183 アップシャー・ルーラル地方電化局講堂/ギルマー
 ギルマーという街は、エルヴィスが初めてテキサス州を訪れたグレイドウォーターの真北約20キロに位置する小さな街であり、当地の電力協同組合(Upshur-Rural Electric Cooperative Corporation)の建物内にある講堂で1955年1月26日にエルヴィスご一行はライブを行っておる。(左写真)エルヴィスの最初の小さなジャンプアップのために貢献した、グレイドウォーターのDJ兼プロモーターのトム・ペリーマンによってブッキング/セッティングされたライブじゃ。
 ギルマーは取り立てて特徴のないテキサス州内の田舎町であるが、ブルース・ギタリストのフレディ・キング、イーグルスのドン・ヘンリー、歌手のジョニー・マティス、シンガーソングライターのミシェル・ショックドの出身地でもある。ドン・ヘンリーはかつてインタビューで「子供の頃は夢を見るしかやることがなかった」と語ったことがわしは印象に残っており、それほどギルマーという街は“何もなかった”ってことなんじゃろう!?

 トム・ペリーマンがセッティングしたギルマーを含む当時のテキサス州ツアーはエルヴィスとジム・エド&マキシン・ブラウン(カントリー・シンガー・グループ)との共演であり、スコッティ・ムーアのサイトには“ブラウンズのステージがエルヴィスを食った”(According to Maxine's recollection, Gilmer was one of the few times they had stolen the show from Elvis and she wrote,)というマキシン・ブラウンの回想が紹介されておる。ジム・エド&マキシン・ブラウンは前年の夏に全国ヒットチャート8位にランクされたヒット曲を携えてのステージじゃったが、真相は果たして?ちなみにブラウンズのバックを務めたのはスコッティとビルだったらしい。
 またペリーマンの回想においては、“エルヴィスが食われた”というその日の様子の表現のニュアンスが微妙に異なるのも確かじゃ。以下、ペリーマンの回想の大意じゃ。
「ブラウンズはハーモニー・ゴスペル・ソングをたくさん演奏し、集まっていた年配の家族たちを大いに楽しませた。しかし彼らのステージが終わった後、彼らのレコードが売れたり、サインを求めるファンが殺到したというわけではなかった。もう一人現れた少年(エルヴィスのステージ)に観客は呆気にとられたからだ。観客たちは(エルヴィスに対して)好むと好まざるとにかかわらず、どう反応していいのか分からない様子だった」
 要するにさっきまでブラウンズの演奏に盛り上がっていた観客が、エルヴィスが登場したことでブラウンズのレコードやサインを求めることも忘れてフリーズしてしまったってことじゃ。
 それ以降の様子はSRWに記述されておる。
「エルヴィスのステージが進行するにつれ若い女の子たちが熱狂し始めて大変な騒ぎになった」
「パット・ブーンの白いボタンダウンが一般的だった時代に、エルヴィスの鮮やかな色彩とビビッドなサウンドは同時に観客に衝撃を与えた。“良い女の子はパット・ブーンに、悪い女の子はエルビスに恋をした”という古い言い回しが正しければ、1950年代の女の子の90%は悪い女の子だった!」​
 以上、1955年1月26日、エルヴィス共演者営業妨害事件のご報告でありました!

 なおこの日のライブ写真は残っていないが、バックステージでの1枚は御覧あれ。エルヴィスが着ているジャケットが実にユニーク。(上写真)薄いピンク地にレッドの格子柄なんだそうじゃ!シューズはサイドゴアっぽいが、こちらのカラーも非常に気になるな!
 アップシャー・ルーラル電力協同組合の建物は現在でも存在しており、エルヴィスが観客をフリーズさせた講堂も当時の形状のまま残されておる!右写真はストリートビュー2022年6月撮影。
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  計画的に記念撮影が行われた?1955年9月度ラストライブ??
Area No.18 Serial No.184 ギルマー・ジュニア・ハイスクール・ジムナジウム/ギルマー

 アップシャー・ルーラル地方電化局講堂でのライブから8ヶ月後の1955年9月26日、エルヴィスとブラウンズはギルマーに戻り、電化局講堂から数ブロック離れたギルマーハイスクールのジムナジウム(体育館)で共演した。掲載写真で御覧の通り、エルヴィスは2種類のギター使用しておる。(上左、上中央写真参照))ボディカバーの付いていないギターは、ステージ途中でエド・ブラウンから借りたギターじゃ。自分のギターの弦が次々と切れてしまって弦の張り換えやチューニングが面倒になって借用したようじゃ。
 この日のライブは、ライオンズ・クラブというギルマー地元の慈善団体が企画したチャリティーライブ、またルイジアナ・ヘイライドのリモートライブでもあり、収益は目や脚に障害をもった子供たちの教育費用に割り当てられたという。
 ライブ自体に関しては、多くの鮮明な写真が公表されてはおるが、ギター交換というハプニング以外には目立った記録は残っておらんが、笑えるのが上右写真。先述した アップシャー・ルーラル地方電化局講堂でのライブで「私たちはエルヴィスよりもウケた」なんて述懐していたマキシス・ブラウン嬢とエルヴィスのツーショットじゃが、どう見てもマキシス嬢は「私、エルヴィス大好き」オーラがすごい!原文では“ウケた”はStoleと表現されており、Stoleを直訳すると「盗む」「奪う」ともなる。盗まれた、奪われたのはエルヴィスの立場じゃなくて、逆にあなたのハートでしょ!って言いたくなるな(笑)

 ところで1955年になるとエルヴィスのライブツアーの詳細は徐々に明らかになっていったものの、9月26日のギルマーでのライブ以降、一時的にまたまた情報が錯綜しておる。一体どういうことなんじゃろうか?
 SMWによると、9月28日にミズーリ州ゴブラーの「B & B Club」でのライブが記録されており、SRWでも同様の記述があるが、様々なサイトを参照すると9月28日にエルヴィスはゴブラーには行っていなかった可能性も出てきておる。「第13回 エルヴィスゆかりの地~ケンタッキー州&ミズーリ州編~Area No.3/Serial No.118」にてゴブラーの「B & B Club」でのライブ記録を紹介したが、1955年4月28日のみ同クラブに出演したのかもしれない。
 中にはこの日エルヴィスが出演したのは、同じミズーリ州でもカードウェルという街の「レベル・クラブ」だったという説もある。更に9月29日には、テキサス州オースチンのスポーツアリーナにエルヴィスが出演したかもしれないとSRWは可能性を示唆しておる。EDDは、アーカンソー州オーベリー・ハイスクールに登場としておる・・・。いずれにせよ、1955年9月のエルヴィスのライブが、どこの地で終わったのかが今のところ不明なのじゃ。
 これらをどうやって解明していけばいいのかわしには手だてが無いんで、今のところは「ギルマー・ジュニア・ハイスクールでのライブ写真が多い原因は、1955年9月ラストライブとして計画的な記念撮影が行われたのかもしれない!」って言っておこう!(笑)

 一方、エルヴィス、スコッティ、ビルへのツアーの収益が50:25:25の比率で分配された最後の月が1955年9月だったとの明確な記録が残っておるだけに、ファンにとってはギャラのことよりもツアー記録の方をハッキリされてもらいたいものじゃ。
 余談ながら、1955年9月30日はエルヴィスの憧れだったジェームス・ディーンが亡くなった日じゃ。
 ギルマー・ジュニア・ハイスクール・ジムナジウムは、現在「トリニティ ストリート ジムナジウム」と改称されて、各種イベント会場として稼働中じゃ!右写真はストリートビュー2022年6月撮影。写真右側のかまぼこ型の建物がジムナジウム。
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 時期尚早だった!?テキサスNo.1クラブでの出演
Area No.19 Serial No.185 ザ・レオ・パーム・アイル/ロングビュー
 もともとパーム・アイル・クラブと呼ばれていたこのクラブは、1935年9月にオープン。当時テキサス州で最大かつ最高のダンス クラブとして建設された。特別な照明、最高のサウンド システム、最大のダンス・フロアが特徴で、フロリダから直送されたヤシの木と葉で飾られておったという。ダンスフロアは1500組のカップルを収容できるように作られ、ドレスコードはフォーマルで、最新のアンプと音響機器を備えた最高級の拡声システムを誇っていたという。 「国内で最大、最高、そして最も人気のあるオーケストラと音楽団体をフィーチャーする」と宣伝され、最高のビッグバンドとスウィング楽団が演奏しておった。
 ジョージ ハミルトンのオーケストラ、グレン・ミラー、トミー・ドーシー、テッド・ルイス、オジー・ネルソン、エラ・フィッツジェラルド、ジャック・ティーガーデンクヴ、ルイ・アームストロング、ボブ・ウィルズ、ジーン・クルーパ、グレン・グレイ、ハリー・ジェイムス、ルイ・ジョーダン、エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ウッディ・ハーマン、ジミー、トミー・ドーシー、フランク・シナトラなどの錚々たるミュージシャンの出演記録が残っておる。時代の推移とともに出演バンドはスウィングからカントリー、そしてロックンロールになっていった。

 しかしながらこのクラブがいかに最新の素晴らしい設備を備えたビッグイベントホールだったかを伝える文面は各サイトで見受けられるものの、エルヴィスが1955年に4度も出演しておるにもかかわらず(1月27日、3月31日、8月11日、11月18日)、その記述が非常に少ないのはいかに?
 デビューしたてのエルヴィスがこのテキサス一のビッグクラブに出演出来たとは少々驚きじゃが、最初の出演日は1800席のうち160席しか埋まらず、しかも100人はプロモーターであるトム・ペリーマンの招待客だったという。
 また日付は不明じゃが、エルヴィスの出演から続いて夜通しダンスパーティーが開かれた際、どこからか集まってきた水兵たちが酔っぱらってエルヴィスに絡み始めてちょっとした騒ぎになったとか。当時すでにエルヴィスのボディガードだったレッド・ウェストは「エルヴィスを守るために必死だった」と回想しておる。この騒ぎの中、スコッティとビルはさっさとクラブから消えたが、女の子にサインしたりサービス中のエルヴィスは水兵のターゲットにされちまったようじゃ。水兵たちは何が気に入らんかったのか知らんけど、恐らく女の子に囲まれて真摯に対応していたエルヴィスに嫉妬したんじゃろうな。
 こんな冴えない記録しかネット上で発見出来んってことは、4回の出演ともにあんまり盛り上がらなかったのかもしれない。例えば、スケールは違うとはいえ、1956年の「初のラスヴェガス公演」と同様に、テキサスNo.1のクラブに出演するにはエルヴィスといえども早過ぎたのかもしれん。(右写真は1955年3月31日出演時の撮影)

 ザ・レオ・パーム・アイルはそのネームバリューゆえであろうか、何度も巨額の売却と買収を繰り返す歴史を辿っておるものの現在でも存続中じゃ。建物自体は1962年に一度焼失した後に建て替えられ、その後リノベーションを繰り返しながら現在に至っておる。メイン看板ともいうべきサインボードは、エルヴィス出演時のレトロな雰囲気を残しておる。

 なおエルヴィスが160席しか埋まらなかったザ・レオ・パーム・アイルでプレイした同日、大佐の部下トム・ディスキンは寂しいライブ会場を目にしたかどうかは定かではないが、「ニュースターとなるべき少年を発見した。その名はエルヴィス・プレスリー~彼はフランク・シナトラと同じく女の子たちを熱狂させるに違いない」といった趣旨の手紙をシカゴのブッキングエージェンシー宛てに送っておる。(左写真)優れたマネージャー業を遂行できる人物とは、やはり少々の厳しい現実(客の不入り)に動じることなく自分の目利きを信じて行動するものなのじゃろう。
 またSRWでは、客の不入りの原因は、ひとえに事前のプロモーション不足としておる。この日に限らず1955年度のエルヴィスのツアーでは度々客席ガラガラ状態が起こり、これらは当時のマネージャーだったボブ・ニールの責任とするニュアンスでサイト上に記述しておる。
 ただし「ボブ・ニールは全米各地のツアーよりもテネシー州(メンフィス界隈)でのライブ活動を主体にするべきであるという方針が強く、地方のライブサーキットには積極的ではなかったためにプロモーションに手落ちが目立った」と少々のフォローはしておる。

 現在は「Reo Bar & Grill」と改称して営業が続けられており、ミュージックライブの他に格闘技ショーも演目に加えられておる。右写真はストリートビュー2022年6月撮影。サインボードは往年のデザインが使用されておる。
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  僅か75人のお客でも、エルヴィスのロックンロール道に迷いなし!
Area No.20 Serial No.186 デッソー・ホール跡地/オースティン
 

 オースティンはヒューストンの西約250キロにあるテキサス州第4の人口が集まった中規模都市であり、デッソーはオースティンの北東にある小さな町じゃ。19世紀後半にドイツからの移民たちが入植し、ドイツの都市デッソーにちなんでその名が付けられたという。ドイツの伝統的なポルカのダンスとドイツ音楽の会場として、デッソーホールは1876年に地元の人々によって建てられた。デッソー自体の人口が50人を超えることは滅多になかったが、デッソーホールはオースティンと周辺のコミュニティから大勢の人が集まるイベント会場としての歴史を重ねてきたんだそうじゃ。最大収容人員数1,500人という当時のテキサス州有数の規模を誇っておった大型イベント会場でもある。
 テキサス州という土地に様々な音楽が流れ込んできた歴史的事実は既に紹介しておるが、このデッソーホールを調べてみて、ドイツ音楽までがテキサス州で嗜まれていたことを初めて知って驚いたわい!

 オースティンという街、デッソーホールというライブ会場はエルヴィスの1955年度テキサス州ライブ・サーキットにおいてブッキングされて当然だったともいえるが、ここでもプロモーション不足が災いして、1955年3月17日デッソーホールでの最初のライブは観客はわずか75人という記録が残されておる。
 SRWにちょっと悲しくなるようなエピソードが掲載されておったのでご紹介しておこう。共演したミュージシャンによると「観客の誰一人としてエルヴィスの存在を知っている者はいなかったような雰囲気だった」「会場にいた老夫人はエルヴィスのことを“あの子は偽物よ”と言っていたな」。
 また会場にいたという女性の証言も何だかな~って感じ・・・。「私はエルヴィスが好きになったわ。でも彼の音楽なんか全然興味なかったし好きになれなかったわ。私はあくまでも彼のビジュアルに夢中だったのよ」。
 また後の調査により発覚した事実によると、当時オースティンでエルヴィスのレコードをかけていたDJは一人の黒人DJだけであり、その黒人DJの番組を聞くような白人はオースティンにはほとんどいなかったらしい。こんな状況の街で、さらに十分なプロモーションが行われていなかったなら観客75人という惨状も無理はない。

 しかし不思議なことに、このオースティン・デッソーホールでのライブ写真、会場外の写真のエルヴィスは溌剌としており、とても閑古鳥が鳴いていたライブを行ったようには見えないのじゃ!ある意味でココがエルヴィスの若くしてスゲーところというべきかもしれんな。客入りの良し悪しに関わらず全力でプレイし、ライブ終了後も集まってきた僅かなファンと交流をする。こうした些細な営業努力の積み重ねもまた後のキング・オブ・ロックンロールの座の礎になっておるのじゃ。

 デッソーホールは、SMWによって少なくとも2010年までは存続が確認出来たが、ストリートビュー2022年1月の撮影では建物自体が稼働していない模様じゃが、建物の形状、外観はエルヴィスが出演した当時とほとんど変わることなく現在放置されたままになっておる。
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  エルヴィスお気に入りだった野外ステージ会場
Area No.21 Serial No.187 マグノリア・ガーデン/ヒューストン
 1954年11/12月から55年1月にかけてヒューストン各地のライブ会場で歓迎を受けたエルヴィスは、1955年3月半ばにヒューストンに戻ってきて3回のライブを開催。うち1回(3月20日)がマグノリア・ガーデンという野外ステージ会場だった可能性が高いSMWに記載されておる。(SRW、EDDではこの日のライブ記録はスルーされておる)
 更にSMWは、当時エルヴィスは週末になるとヒューストンにやって来ては昼間はマグノリア・ガーデン、夜はクックズ・ホウダウン・クラブ(テキサス州前編Area No.8/Serial No.174)かイーグルズ・ホール(テキサス州中編Area No. 9/Serial No.175)でライブに勤しんでいたと大まかに推察しておる。
 エルヴィスは以降、1955年4月24日、5月22日、6月19日、8月7日にもマグノリア・ガーデンでライブを行った記録があり、1955年のカレンダーを確認してみるとすべて日曜日であり、「週末はヒューストンへ行き、昼間はマグノリア~」というスケジュール説は有力じゃ。
 マグノリア・ガーデンは、サンジャシント川のほとりにあるマグノリアパークという広大な緑地公園の中にあり、週末は近隣に住む人々がピクニックを楽しむ癒しの公園であり、エルヴィスは好評を得ていたヒューストンのライブ会場の中でもとりわけマグノリア・ガーデンでの演奏を楽しみにしておったそうじゃ。野外ステージ会場は最大で3,000~4,000人がライブステージを鑑賞できる規模であり、客席で“ビール瓶がビュンビュン飛び交う”ほど観客たちはビール片手にライブを楽しんでいたそうで、そうした光景をエルヴィスは演奏しながら楽しんでいたのじゃろう。また当時としては珍しい野外会場での屋根付ステージもお気に入りだったとか。後にマグノリア・ガーデンでのライブを懐かしむエルヴィスのコメントも残されておる。
 撮影日が明確にされているステージ写真は8月7日のみ(上写真2枚)。他の写真は撮影日が不明じゃが、なんと!8月7日のライブでは超貴重な映像(観客の手による無声8ミリビデオ)が発見されておる。

 マグノリア・ガーデンでエルヴィスを観た人の証言がSRWのサイト内に見られ、別の出演者たちがプレイしている時は川で泳いだり、公園内で寝そべっていた人たちも、エルヴィスが登場すると続々と観客席へ戻ってきて大変な盛り上がりになったという。
 また公園内の駐車場でエルヴィスを待っていて実際にエルヴィスと楽しく会話したファンの証言もあり、駐車場内で撮影された写真もネット上にアップされておる。中には当時エルヴィスが大切にしていた8ミリビデオカメラを肩から下げている写真もある。(上写真)

 マグノリア・ガーデンは現在は有料の私有地公園になっているが、エルヴィスが出演した頃とほとんど変わらぬ様子でヒューストンの人たちを迎え入れておる。左写真はストリートビュー2011年5月撮影のガーデン入口。
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  1955年にエルヴィスが8回も出演した、ダラスの“キング・オブ・スポーツアリーナ
Area No.22 Serial No.188 スポータトリウム跡地/ダラス
 1955年4月16日エルヴィスはテキサス州最大の都市ダラスにやってきた。ミュージック・ジャンボリーのトリとして、テキサス州最大の音楽イベント「ビッグDジャンボリー」に出演するためじゃ。デビューから僅か約半年で、エルヴィスはテキサス州では早くも大スターになっておったのじゃ。
 「ビッグDジャンボリー」は、ルイジアナ・ヘイライドやグランド・オープ・オープリーよりもテキサス州では人気のあるラジオ局企画の大型イベントであり、その模様は全米でも有数の巨大出力電波によって広大なテキサス州全体に発信されておった。やがて「ビッグDジャンボリー」の会場としてスポータリウムの名は全米に轟くようになった。

 スポータトリウムは元々は約7,000人を収容出来る特大のスポーツ・イベント会場であり、プロレスやボクシングの会場として大いに賑わっておった。スポータトリウムを経営するコックス・フェンス・カンパニーについてSMWのちょっとオモシロイ記述があった。1940年代から経営に参画したエド・マクレモアという人物が敏腕ぶりを発揮し、会場内でポップコーン、冷たいドリンク、ホットドッグをオーナーに無断で売り始めて莫大な業績をもたらし、以降誰も彼の仕事に口出し出来なくなり、結果として会社の重鎮に昇りつめたとか。ちょっとパーカー大佐っぽい男だったのかもしれない(笑)大佐っぽいどころか、ひょっとして大佐と懇意にしていたのかもしれない。エルヴィスは1950年代にダラスで10回ライブを行っておるが、その内8回までが会場がスポータリウムなのである!
 また当時の会場管理者のコメントも聞き逃せない!「ビッグDジャンボリーは1954年頃に一旦観客が減り始めていたが、そこにロックンロールってものが出てきた!エルヴィスが現れたんだ!!」
 レイ・チャールズ、ファッツ・ドミノ、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュ、ジェリー・リー・ルイスら当時のスターミュージシャンのほとんどが「ビッグDジャンボリー」に出演しておる。

 

 ビッグDジャンボリーにおいて、エルヴィスよりも先に一番人気を博していたのが、“女性ロカビリアン”と言われていたチャーリン・アーサー。(左写真)それまでの女性シンガーの“清楚に歌う”イメージを覆し、ステージで飛び跳ねたり寝転んだりしながら歌うスタイルは“少なくとも”ダラスでは好評だったようじゃ。
 実はパーカー大佐はエルヴィスよりも先にチャーリンに注目しており、後にRCAレコードと契約させておるのじゃ。大佐は基本的に型破りなシンガーがお好きなようで(笑)
 チャーリンのレコードは残念ながらあまりヒットに至らず、また我の強い性格ゆえに、こともあろうに当時RCAのトップセッションマンだったチェット・アトキンスとレコーディングで衝突するなどのトラブルが続いたことでRCAとの契約を破棄されておる。チャーリンとエルヴィスとの交流記録はネット上で発見出来なかったが、チャーリンの経歴が紹介される際には必ず“全盛期にエルヴィスと共演した”という事実が付記されておる。

 1950年代末期の第一次ロックンロールブームの終焉とともに客足が遠のいたスポータトリウムは再びスポーツイベント開催をメインに掲げて長らく営業を続けておったが、20世紀末に遂に閉鎖。2003年の原因不明の出火で全半焼したことを機に取り壊されることになった。SMWに取り壊し前の朽ち果てた建物の写真が掲載されておった。(右写真左側)跡地は現在空地のままである。右写真右側はストリートビュー2022年5月撮影。

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 Baby Let's Play Houseのお披露目会場
Area No.23 Serial No.189 グレイドウォーター・ハイスクール・ジムナジウム
 1955年4月30日、テキサス州デビューの地となった(1954年11月)グレイドウォーターにエルヴィスは約5ヶ月ぶりに戻ってきた。SRWには新聞の事前告知記事がいくつか掲載されており、この日のライブはルイジアナヘイライドのリモート放送番組でもあった為に「ヘイライドの新しいスターが出演」と宣伝されてはいるものの、特に「グレイドウォーターにエルヴィスがカムバック」といった記述は無い。1954年11月~12月のエルヴィスのライブは当地においては一般的に知られてはいなかったのじゃろうな。
 グレイドウォーターハイスクール・ジムナジウム(体育館)は、1954年8月に校舎から独立して建設され、非学校関連のイベントとしては初めてエルヴィスのライブが開催された。エルヴィスの他に20組あまりのバンド/ミュージシャンが集まったヘイライドのイベントだっただけに、ハイスクール側は体育館に設置されている2,000席の他、フロアシートを使った特設座席500を用意したものの、それでもチケットを買えない数百人が体育館の外にたむろっていたらしい。

 この日のエルヴィスには真偽不明の幾つかの伝説がある。会場に遅れて到着して1曲しか歌わなかった。それも持ち歌ではなくラヴァーン・ベーカー(女性ソウル歌手)のヒット曲「トゥイードリーディー」の短い2分間ヴァージョンだったとか、スコッティとビルは会場に現れなかったとか。SMWによると、これらの伝説はテキサス州ツアーにおける非公式の小さなクラブ出演の際のエピソードではないかとしておる。
 またエルヴィスはエキサイトし過ぎてギター弦を切りまくり、共演者から2度もギターを借用したとか!SMWでは一度目はジム・エド・ブラウンのMartin D-28(右写真左側)で、二度目はベティ・アモスのギブソンだろうと。確かに右写真右側は当時のエルヴィスのステージ写真では珍しい黒ボディのアコギ(ギブソン?)を抱えておる。

 なおSRWによると、同日にエルヴィスの4枚目のシングル「Baby Let's Play House/I'm Left, You're Right, She's Goneをリリース。これはメンフィス以外でプレスされた最初のエルヴィスのシングルであり、ロサンゼルスのモナーク・レコードで数千枚が生産されたという。故意か否か、エルヴィスはB面の「I'm Left, You're Right, She's Gone」もステージで歌ったそうな。
 グレードウォーター・ハイスクールは1969年までにジュニアハイスクールと統合され、80年代初頭までに街中に移転建設された。エルヴィスが出演した当時の以前の学校は現在でもジュニアハイスクールとして使用されておる。右写真はストリートビュー2022年6月撮影。
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 軍からの公開記事規制?エルヴィスがメインアクトかゲストか不明なライブ記録
Area No.24 Serial No.190 アメリカン・リージョン・ホール跡地(?)/ブレックンリッジ
 

 エルヴィス1955年度前半のテキサス・ツアーのネット情報において、SMWとSRW両サイトともに“妙に気になる”紹介をしている会場をひとつ発見した。6月10日にライブが行われたブレックンリッジという小さな町のアメリカン・リージョン・ホールじゃ。アメリカン・リージョンとはアメリカ軍直営の退役軍人や戦没者遺族の慰労施設であり、その中にあった音楽会/舞踏会会場がアメリカン・リージョン・ホールと呼ばれておる。
 当日のライブに関して、SMWとSRW両サイトはともにディーン・ビアードという地元で人気のカントリーシンガーのライブに“エルヴィス一行がふらりと立ち寄った”といった紹介の仕方がされておる。SMWは正式スケジュールに組み込まれていたような表記がされておるものの、エルヴィスの出演に関しては触れずにディーン・ビアードの紹介ばかり。SRWも同様じゃが「エルヴィスはかる~く300ドルを稼ぎ出した」といった記述もされておる。エルヴィスがメインアクトだったのか、たまたまのゲストだったのかがさっぱり不明!?それでいて、鮮明なステージ写真が残されておる。(それは嬉しいがな!)

 テキサス州前編「Area No.7/Serial No.173 アメリカン・リージョン・ホール跡地/マウント・プレザント」でも、会場の所在地や詳細が不明であることをご紹介した。アメリカン・リージョンという施設は約100年前から全米各地で設置され、その数は無数にあり、各施設の旧住所や存続期間等が明記された資料がまったく見つからない。軍関連施設なので詳細情報の公開は控えられているのかもしれない。
 もしくは、当時のエルヴィスは“好ましからざるミュージシャン”というレッテルをアメリカン・リージョン運営の上層部からはられてしまっていて、取材公開記事の内容に規制がかけられていたのじゃろうか。
 よって現在テキサス州ブレックンリッジにある同施設がエルヴィスが出演した場所なのかどうかがまったく分からないので悪しからず。(右写真ストリートビュー2022年6月撮影)
 エルヴィスは他地域や他州のアメリカン・リージョン・ホールにも出演しておるだけに、真相は現地に行って調べるしか無さそうじゃ。
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(現ブレックンリッジ・アメリカン・リージョン・ホール)


【あとがき】
 先乗りレポを含めて4回にわたり連載した「テキサス州編」は、これにて一旦終了とさせて頂きやす。エルヴィス・イン・テキサスの情報は、不確実情報を入れると膨大な数であり、到底4回では紹介し切れない!今回のご案内はとりあえず「テキサス州編2022年度版」として、また来年にテキサス州を再訪することにいたそう!!
 左写真はArea No.19 Serial No.185 にてご案内したザ・レオ・パーム・アイル/ロングビューに出演した時のエルヴィス。(1955年11月18日)ブラック系ではなくホワイト系?のパンツを履いておる当時としては珍しい?ステージショットじゃ。ドレープの美しさに見とれてしまうわな~。テキサス州再訪の折りにはこうした細かい事実にももっと着目出来たら!と思っております。
 二ヶ月間のテキサス・バーチャル・ツアー、ご参加いただいた方々、お疲れ様でございました

 なあ~んてしおらしくしておる場合ではないな!次回は頑固七鉄コラム節目の400回目じゃ。テキサス州の調査で結構疲労困憊であり、まだ400回記念寄稿的なことは何も考えておらんわい。何食わぬ顔してするっとスル~しちゃおうかな~と下手なダジャレで誤魔化すのが今のところ精一杯!?何が出るか、いや何も出ないかもしれない400回目じゃが、連載回数の節目なんぞは気にされることなく、皆様におかれましては今後とも「バーチャル・ロックンロール・ツアー」へのご参加をお待ちしております!



【 お断り 】
Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」掲載中断について

今まで「バーチャル・ロックンロールツアー」にてご紹介してきた全ての場所をGoogle Map上で一覧出来る
「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー」の更新を一時中断致します。

「一覧!~」の基本機能である“Googleマイマップ”の更新機能の上限を越えてしまったため、
新たにご紹介する場所が追加出来なくなりました。

ただ今、別の機能等にて新たにご紹介していく場所を追加出来る方法を検討しております。しばらくお待ちください。

 

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