NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.401


第24回 エルヴィスゆかりの地~カナダと国境周辺州・前編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 2022年最後のバーチャル・ロックンロールツアーは草深きアメリカ南部を離れ、一気に北上して国境を越えてカナダにまで行ってみることにしたぞ!
 エルヴィスは生涯にわたってアメリカ国外でライブを行うことはなかったが、唯一の例外がカナダじゃ。1957年にカナダのトロント、オタワ、バンクーバーの3都市を訪れて熱狂的な歓迎を受けておる!
 一説によるとアメリカ不法滞在者だったパーカー大佐がパスポートを持っていなかったため、アメリカ人がパスポート無しで入国できるカナダだけはエルヴィスに同行出来たからカナダライブが実現したらしいが、まあ今回はその辺の真相調査はスルーしておこう。

 左地図でわかる通り、(地図左上から)ワシントン州、アイダホ州、モンタナ州、ノースダコタ州、ミネソタ州、ウィスコン州、ミシガン州の北端がカナダとの国境であり、エルヴィスはカナダ遠征時にこの国境周辺の州も訪れておる。
 しかしライブ・データを確認すると、1950年代においてアイダホ州、ノースダコタ州、モンタナ州でのライブは一度も無し。またミネソタ州は2回、ウィスコン州は1回、ミシガン州も2回とごく僅かな回数じゃ。カナダと国境周辺の州での1950年代のエルヴィスのライブは非常に少ないのじゃ。そこで前、中、後編の3回にわけてこの希少ライブの跡地をかたっぱしから訪れることにする!

 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第24回 カナダと国境周辺州・前編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はカナダと国境周辺州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。


 Area No.1/Serial No.191
  メープル・リーフ・ガーデンズ/トロント
 Area No.2Serial No.192  オタワ・ユニオン・ステーション跡地/オタワ
 
Area No.3Serial No.193
 ビーコン・アームス・ホテル/オタワ
 Area No.4Serial No.194  オタワ・オーディトリアム跡地/オタワ


 Area No.5Serial No.195  ホワイトフィッシュ・ステーション/モンタナ州
 Area No.6Serial No.196 
ハバー・ステーション/モンタナ州

 Area No.7/Serial No.197 メモリアル・スタジアム/スポーカン・ワシントン州
 

 Area No.8/Serial No.198 ファースト・アヴェニュー高架下/バンクーバー
 

★ 本文中の表記について ★
 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  SRW=サンレコードのウェブサイト 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」

 カナダ初演はオールゴールドスーツのラストライブ!
Area No.1/Serial No.191 メープルリーフガーデンズ/トロント
 
 エルヴィス初のカナダ・ライブがこちら!1957年3月27日イリノイ州シカゴから始まった北米/カナダツアーの6日目、4月2日にエルヴィスは初めて国境を越えてカナダのトロントにやって来た。この北米/カナダーツアーは別名“ゴールド・スーツ・ツアー”とも呼ばれており、エルヴィスはヌーディーズ製作のゴールドスーツを着てステージに立ったツアーでも有名じゃ。
 カナダでのエルヴィス人気はアメリカに負けず劣らず凄まじく、この日を含めて計3回のカナダ・ライブ(他オタワ、バンクーバー)はいずれも大盛況じゃった。収容人員約8,000人のトロント・メイプルリーフガーデンでは昼夜2回のライブが行われて、いずれも満員!昼間のライブ開催時間中は、会場内で熱狂する観衆と夜間ライブを待ちわびて会場外にいる観衆、その数合計約15,000人が放つトロント前代未聞の異常な熱気で会場周辺の気温が10度も上がったという伝説もあるらしい(笑)

 この日のライブ写真はわしがセレクトに困るほどの数がネット上にアップされておるが、メイプルリーフガーデン側が観客全員にフラッシュ撮影OK!の許可を出していたこともその要因であろう。エルヴィスが少々セクシーなアクションをしただけで凄まじい数のフラッシュがたかれて会場内は眩しいほどだったという!さぞかしゴールドのスーツが見栄えしたに違いない。
 昼夜2回のライブの休憩時間内(観客入れ替え時間)に会場に入った清掃係によると、夥しい数の使用済み閃光電球(当時のフラッシュ撮影用電球)が床に転がっておったとか。

 多くの鮮明なライブ写真はファンとしては誠に嬉しく、写真で分かる見逃せないポイントも2つ挙げておこう。まずエルヴィスが上下オール・ゴールドスーツであることじゃ。SMWによると、エルヴィスがジャケット、パンツ、シューズともにゴールドで統一した最後のライブとなった会場がこのメイプルリーフガーデンだったという。ただし夜間ライブでパンツはブラックなので、昼間ライブがオールゴールドスーツのラストライブじゃ。以降のライブは、ゴールドのパンツがあまりに動きにくく、アクションに制限がかかるという事でやーめた!ってなっちゃったらしいわい(笑)

 また当時一部のシンガーの間で人気を誇っていた“コーク・ボトル・マイク”という“骸骨マイク”とは正反対のスマートな形状のマイクが使用されておることじゃ。会場側の元々の設備品だったのか、エルヴィスのリクエストによる設置だったのかは不明じゃが、いまのところエルヴィスが“コーク・ボトル・マイク”を使用しておる写真はお目にかかってはおらん。現在ではヴィンテージ・マイクになっておるようで、海外でのオークションでは現在でも使用可能品で3,000~5,000ドル前後で出品されておる。オークション出品者のコメントによると、ナッシュビルのRCAスタジオにも設置されておったそうじゃ。(エルヴィスが同スタジオ内で使用していたかどうかは不明)

 

 エルヴィスのカナダ初登場において、SMWは2人の熱狂的な女性エルヴィス・ファンの存在をフューチャーしておる。お二人ともカナダのファン・クラブ関係者らしいが、彼女たちのエルヴィス愛は新聞でも紹介されており(上中央写真)、それぞれに「エルヴィス・カナダ来訪嘆願書」を2,000人以上の署名を添えてパーカー大佐に送ったり、トロントの女性ファン全員に呼びかけてラジオ局にエルヴィスナンバーをリクエストしまくったり、45,000枚のクリスマスカードを前年の年末にエルヴィスに送ったりしておったらしい。その熱意と執念がパーカー大佐の心を動かしたそうな!当然のごとく、彼女たちはこの日のバックステージに招待されておる。(上右写真)

 メイプルリーフガーデンは長らく音楽ライブ会場、スポーツイベント会場として稼働しており、現在も現役のライブ会場じゃ。1964年9月17日にはビートルズもライブを行っており、その後ジョージ・ハリスン、ポール・マッカートニー&ウィングス、ブルース スプリングスティーン、エルビス コステロ、クイーン、エルトン ジョン、ザ フー、ザ クラッシュ、U2、マドンナ、ポール サイモン、ブライアン アダムス、プリンス、ニール ダイアモンド、エリック・クラプトンらも出演しているカナダの武道館的存在であり続けておる。
(右写真ストリートビュー2021年5月撮影)
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  プレスリー・スペシャル/ロックンロール・キャノンボールを迎え入れたステーション
Area No.2/Serial No.192 オタワ・ユニオン・ステーション跡地/オタワ
 上述のトロント公演の翌4月3日、エルヴィスご一行はトロントの東約400キロの位置にあるオタワへ鉄道で移動して、オタワ・ユニオン・ステーションに到着した。この日エルヴィスはカナダ2日目のライブとしてオタワ・オーディトリアムに出演じゃ。
 僅か3都市でしか行われなかったカナダ公演の中でもっともウェブサイト上で記述が多いのがこのオタワ・ライブじゃ。原因は当地の教育機関からエルヴィス側は事前に激しい抗議を受けておったからじゃ。「エルヴィスのライブに行ってはならん!」っつう教師から生徒への通告を各学校、各クラスに徹底させようとしたらしく、また通告を受けたノートルダム修道院では生徒たちに「私はエルヴィスのライブには神に誓って行きません」という誓約書にサインさせておったらしい。それでもライブに行っちゃった女の子8人は学校から退学処分を受けてしまい後に親御さんまで巻き込んでの騒動にもなった。(退学処分は後に取り消されたらしい)アメリカでもカナダでも、やはり熱狂の記録の裏には妨害は付きものだったんじゃな!それゆえに、エルヴィスの駅到着記録や駅からホテル移動記録がしっかりと残されておるのじゃ。
 SMWによると、オタワから更に東に約200キロ離れたモントリオールでもライブ会場がブッキングされていたらしいが、モントリオールでの「ノー・エルヴィス」の抗議がより激しくてこちらはキャンセルになったそうじゃ。(モントリオール中止の代替えライブがオタワだったという説もあり)
 
 オタワ・ユニオン・ステーションに朝8時過ぎに到着したエルヴィスは黒いスーツ、バーガンディ・ベルベットのオープンネックシャツ、バラ色のレインコート姿だったそうじゃ。(モノクロ写真からは色の判別は難しい)駅構内は厳重な警備体制が敷かれており、エルヴィスにいち早く会いたい!という大勢のファンはほとんどエルヴィスに近寄れなかったらしい。
 エルヴィス側もボディガード陣をしっかりと同行させてエルヴィスの周囲を包囲。当のエルヴィスは厳重な警備体制など“どこ吹く風”な表情じゃけどな!もっとも到着したエルヴィスはお疲れのご様子であり、顔色は青白く目は赤く眠そうだったと新聞記事に書かれておった(笑)
 なおステーション構内を歩くエルヴィスや車に乗り込むエルヴィスに寄り添っておるボディーガードの一人はビスティ・モット。とてもボディーガードには見えないフツ~なオジサンじゃが(下中央写真、左側。下右写真、右から2人目)、この方は元メジャーリーガーであり、パーカー大佐の奥様マリーさんのお兄さんなのじゃ。ビスティに関して「バーチャル~」スタート直前にコラムを書いておるので、興味のある方は御覧ください

 

 この日、モントリオール~オタワ間のカナダ太平洋鉄道及び両ステーションは大忙し!?ライブが中止になったモントリオールのファン4~500人(一説では800人!)がオタワでのライブ鑑賞のためにオタワへ出発。ファンはユニオンステーション到着後にそのまま午後8時にスタートする夜間ライブ会場へ向かい、その後午後11時発のモントリオール行き列車に乗って帰るために再びユニオンステーションへ集結。この日のモントリオールとオタワを往復した列車は新聞では「プレスリー・スペシャル」と表現されており、またファン(実際の乗客)の間では「ロックンロール・キャノンボール」という愛称で語り継がれておるそうじゃ。
 この往復列車、実はエルヴィスのライブをキャンセルしたモントリオール市のチケット代理店が用意した特別列車じゃった。往復列車のチケット代は11ドル。多くのモントリオールのファンたちがオタワライブのチケットを購入したために、 この代理店はカナダ太平洋鉄道およびオタワ交通委員会とパッケージ契約を結び、往復列車サービス、オタワ・オーディトリアム(ライブ会場)への往復バス、ショーへのチケットを提供したのじゃ。
 オタワ・ユニオン・ステーションは後は廃止されたが、建物は政府機関のビルとして現在も稼働中であり、鉄道駅だった当時と外観はほとんど変わっていない。(左写真ストリートビュー2021年5月撮影)

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 カナダ最速記録で認定されたゴールドディスクが授与されたホテル
Area No.3/Serial No.193 ビーコン・アームス・ホテル
 オタワ・ユニオン・ステーションに到着したエルヴィスご一行は、まずはタクシーで当地のビーコン・アームス・ホテルのチェックイン。このホテルは1954年に開業したばかりであり、オタワを訪れるVIPクラスのゲストを迎え入れておった。エルヴィスご一行とともに、カナダまで運び込まれておったピンク&イエローのキャデラック2台もホテルの地下駐車場にチェックイン!
 エルヴィスのカナダでのスケジュール詳細はすべて極秘にされておったものの、どこで嗅ぎつけたのか、スケジュールを知り尽くしていたファンがユニオン・ステーションのみならずビーコン・アームス・ホテルにも押し寄せ、中にはホテル内に入れない腹いせ?に駐車場の方へ忍び込んでキャデラックのナンバープレートをはぎ取ろとして警備員に追い払われる一幕もあった。

 エルヴィスは前日のトロントのライブ終了後の夜遅くに深夜列車に乗り込んで早朝にオタワに到着。ライブ前の休養のためにホテルでひと眠りした後にRCAカナダの重役連中の訪問を受けてカナダレコードアワード製作のゴールドディスクを授与されたという。エルヴィスを訪問した一人、RCAカナダの副社長だったケン・ミドルトンの回想がSMWに記載されており、オモシロカッタので転用しておこう。
「エルヴィスは驚くほどナイス・ガイだった。我々全員に対して“サー”を付けて話をするほど礼儀正しく、そして驚くほど派手な服装をしていました!」
「初めてRCAレコード販売部署に配属された日、社長が大声をあげて部屋に入ってきたのを覚えています。1956年の夏頃でした。エルヴィスのシングルが最速で(RCA史上?カナダ史上?)ゴールドレコードに達したからです。社長は“この男(エルヴィス)はレコードでSHITが出来る!(SHITとはとんでもない事、下品な事って意味か)絶対に売れるぞ!!”と叫んでいましたね」

 多くの記録や写真が残っておる1957年4月3日のエルヴィス・イン・オタワじゃが、このビーコン・アームス・ホテル内のエルヴィスの写真は1枚もネットにアップされてはいないのが残念。当時の写真は外観、部屋内の写真が1枚づつ見つかったので掲載しておくぞ。その後何度も経営者、ホテル名が変わる歴史を繰り返しており、現在はキャピタルヒル・ホテル&スイーツとして営業しておる。(左写真ストリートビュー2021年5月撮影)

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  数々の“妨害工作”を吹き飛ばして大盛況となったカナダ2都市目のライブ
Area No4./Serial No.194 オタワ・オーディトリアム/オタワ
「エルヴィスのライブに行ってはならん!」
「ライブに行かないと神に誓いなさい」
「ライブ当日はおうちにいると誓約書を書きなさい」etc
複数のなんとかかんとか教育委員会だか機関だかが全ての学校を巻き込んで「何が何でもエルヴィスのライブに水を差してやろう!」と大騒ぎしていたオタワ。某お偉いさんたちが某学校に集まって開かれた「ライブ妨害会議」では、こともあろうに学内で販売されているエルヴィス・プレスリー鉛筆が出席者たちの筆記用に配布されてしまい、「な、なんじゃあ~この鉛筆わあっ!」って会議は最初からヒートアップ!なんてこともあったそうな。その場で鉛筆の学校販売は禁止されたっちゅうから、いやはやなんとも!
 右写真は海外オークションに出品されていた1956年製エルヴィス鉛筆。これが会議出席者の逆鱗に触れた!?しかしこれを準備して配った学内の職員さんよ。ひょっとしてブラックジョークだったのならブラボー!(笑)
 
 

 さて開催が危ぶまれそうにもなったオタワ・オーディトリアム(左写真)でのライブは、1955年4月3日の午後4時と8時の2回行われ、いずれも超満員。合計観客数は約18,000人じゃった。ライブスタート直前にも警察のお偉いさんがしつこいぐいらいに「もし、席を立って通路に飛び出したら~」「もしステージに駆け上がったら~」「もし大声で叫んだら~」の“もしもし警告”を連発!
 やりたい事を理不尽に妨害されたら俄然燃えてくるのが人間の性!この日集まった観客は凄まじい熱狂状態だったとして不思議はないが、カナダの女の子たちは意外とマナーが良かったらしく(笑)、ライブ後のインタビューでエルヴィスはそのマナーの良さをほめたたえながらカナダの女の子たちへラブ・メッセージを送っておる。
 それでもSMWにはこの日の女の子たちの騒ぎっぷりが克明に記載されており、字面を追っておる限りはアメリカのライブ状況と何ら変わりはない熱狂状態!(笑)マナーが良かったというのは、激しい妨害があったにもかかわらず普段通りの熱狂状態だったってことか!?

 

 数多くの写真がネット上にアップされておるオタワ・オーディトリアムのライブじゃが、わしはステージ写真よりもむしろバックステージ写真の多さに注目した。まずは何故かエルヴィスはテーブルの上に胡坐をかいて座っておる。このポージングはこの北米ツアー中に数多く見られるのじゃ。最初は「エルヴィスにしては珍しく行儀が悪いな」と見えたが、実はインタビューを受けながら時々に写真撮影にも応じていたためにテーブルが小道具に利用されたってのが真相みたい。押しかけたマスコミ陣の発案だったのかもしれんな。


 また同じ面々の女の子たちとのショットも多い。この女の子たちはモントリオールから「ロックンロール・キャノンボール」に乗ってやって来たメンバーらしい。(Area No.2 ユニオンステーション跡地参照)彼女たちは数社のラジオ局がそれぞれに企画した「どうしてエルヴィスのコンサートに行きたいのか」の作文コンテストの勝者たちだったそうで、オタワライブへの招待客であり、また写真撮影用のモデルだったのじゃ。
 そのうちの一人が、エルヴィスの死後1年後にこの日の「追憶記」を書いてカナダの全国紙に掲載された。その内容が美しもちょっぴり切なくてわしの胸を濡らしたので(笑)、超意訳による大意をご紹介しておこう。

 ~エルヴィスのライブに行けなかったら、私は死ぬしかないと思って必死に作文を書きました。エルヴィスへの情熱を韻を踏んだ文章で書いたのです。
 実際に会ったエルヴィスは礼儀正しくて、ステージ裏に集まったマスコミの人全員に“サー”を付けて応じていたのを覚えてます。

 エルヴィスがコンテストの勝者の女の子たち全員と一緒に写真を撮られている時、あるカメラマンが「誰かエルヴィスにキスして」とリクエストを出したらエルヴィスは私の方を見たんです!でも私は恥ずかしくてキスなんか出来なかった。自分の勇気の無さ、愚かさを未だに悔いています。以降私はおかしな幻想に駆られました。キスを拒否した私をエルヴィスは絶対に覚えているはずだから、エルヴィスは私に電話をしてくるに違いないって。でもそんなことはついになかったです。エルヴィス・プレスリー・・・当時まだ15歳の子供だった私に、自分が女性であることを気がつかせてくれた存在でした~


 オタワ・オーディトリアムはその後オタワの音楽イベントのメッカとして稼働し続け、1960年代中期にはYMCAオーディトリアムと改称。現在ではTaggart Family YMCAなるフィットネス・スポーツ・センターになっておる。ストリートビューで外観を確認したところ(左写真2021年7月撮影)、オーディトリアムとして稼働していた頃の外観とよく似ておるが、当時の原型が残されたまま使用されておるのか、建て直されたものかは不明。


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  1957年8月風光明媚なる鉄道3,400キロの旅~その1 “ファン至福の20分!”
Area No.5/Serial No.195 ホワイトフィッシュ・ステーション/モンタナ州
 1957年カナダのトロントとオタワで初のアメリカ国外ライブを大成功させたエルヴィスは、同年8月末の北米ツアーの最中にもう1回だけカナダを訪れておる。(8月31日バンクーバー)
 この北米ツアーは同年のエルヴィスにとって4カ月半ぶりのツアーであり、このライブ空白期間は映画「監獄ロック」の撮影に費やされた。撮影終了後、エルヴィスはメンフィス・マフィア同伴でシカゴからエンパイアー・ビルダー(グレイトノーザン鉄道)に乗り込み、ツアーのスタート地であるワシントン州スポーカンに向かった。エンパイアー・ビルダーはイリノイ州シカゴと西海岸ワシントン州ポートランドを結ぶ大陸横断鉄道であり、当時は全長約3,400キロの距離を45時間かけて走行しておった。またカスケード山脈とロッキー山脈、グレイシャー国立公園の昼間の美しい景色を乗客に提供出来るように運行スケジュールが調整されていたという。
 
 エルヴィスを乗せた列車は、ワシントン州到着までの途中で2度の停車記録がネット上で見つかった。いずれもエルヴィスが1950年代にライブを行っていない州のひとつモンタナ州じゃ。
 まず8月29日ホワイトフィッシュという街のステーション。何事も抜かりないパーカー大佐が事前に停車駅近隣のマスコミに列車到着時間を知らせておいたようで、予定到着時間の午後6時前から駅には約800人のファンが待ち受けておった。エルヴィスはドアの窓から姿を見せただけでプラットフォームには降りなかったという。数人の少女が窓にむかって果敢にジャンプを繰り返し、かろうじてエルヴィスとタッチだけ出来たんだそうじゃ(笑)列車の停車時間は約20分だったとか。
 上写真は一部の私設エルヴィス・サイトでは最終降車駅のワシントン州スポーカンのステーションでのショットとしておるが、現時点でのわしの調査ではこの写真が掲載された当時の新聞記事も発見出来たので、ホワイトフィッシュ駅での撮影を正解としておく。
  エンパイア・ビルダーの路線、ホワイトフィッシュ・ステーションともに現在も稼働中!エンパイア・ビルダーの路線は空路や高速道路が発展したした現代でも需要度が高く、年間50万人以上が利用しておるそうじゃ。左写真左側は、1971年当時のホワイトフィッシュ・ステーションの駅舎。右側はストリートビュー2016年3月撮影。
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 なお余談ながら、この鉄道移動中のどの区間であるかは不明じゃが、エンパイアー・ビルダーの車両内でエルヴィスから直接サインをもらうことができた幸運な女性ファンもおった。当の本人がSMWに証明用の文面と写真をメールで送っておる!
 偶然エルヴィスと同じ列車に乗り合わせた彼女は、同行の女の子たちと一緒にエルヴィスの車両を訪問し、彼女たちはその時エルヴィスが所持していた万年筆やコームをもらっちゃったらしい。さらに「ネクタイもちょーだい!」っておねだりすると、エルヴィスはネクタイを外してナイフで3等分に切り分け、それぞれの裏地にサインをして彼女たちにプレゼントしたんだそうじゃ。そのネクタイが、ホワイトフィッシュ・ステーションでファンの前に顔を出した時にしていたネクタイではないか!と彼女は推察しておる。(上写真参照)
 なおネクタイを切り分ける際に使ったナイフは、近くにいたスコッティ・ムーアの物だったような気がすると彼女は回想しておるがこれは記憶違い。スコッティ、ビル、D.J.の3人はエルヴィスとは別行動であり、車でメンフィスからワシントン州へ長距離移動しておったのじゃ。


 1957年8月風光明媚なる鉄道3,400キロの旅~その2 “Where is Elvis ?”
Area No.6/Serial No.196 ハバー・ステーション/モンタナ州
 ホワイトフィッシュ・ステーションに集まったファンとは対照的に、不運にもエルヴィスの姿を見ることが出来なかったのが、約5時間半前に列車が到着したハバー・ステーションに集まったファンたちじゃ。エルヴィスが乗っている車両は312号車という情報をキャッチしていた大勢のファンたちは、「We want Elvis !」「Love me tender!」と叫びながらプラットホームの312号車の停車位置に群がっておったが、約20分の停車時間内にエルヴィスが車両の中から顔を見せることはついになかったという。左写真はプラットフォームでエルヴィスを待ち続けるファンたちを取り上げた「Where is Elvis ?」というタイトルの新聞記事用のもの。

 ハバーステーションでの停車時間内に車両に乗り込み、エルヴィスに会うことが出来た人物が一人だけおった。それは当地の副保安官じゃった。就寝中だったエルヴィスはよろよろと寝台から起き上がり、オレンジジュースを飲みながら副保安官の訪問に対応したらしい。「どうしてファンに顔を見せないのか?」とエルヴィスに尋ねると、「ものすごく疲れている」とエルヴィスは返答したという。
 「子供のためにサインがほしい」という副保安官の要望には快く応えたエルヴィスは差し出された万年筆を手に取り、朝食用のトレイの上に紙製コースターを乗せ、裏側にサイン。最初のサインの筆跡が薄かったことに気が付いたエルヴィスはサインをし直したそうじゃ。「そのサインは子供のためであるので、エルヴィスはあらためて丁寧な姿勢をとったのであろう」と副保安官は述懐しております!
 右写真はストリートビュー2016年3月撮影のハバー・ステーションのプラットフォーム。この辺りに不運なファンが集まっていたのかも!?

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 北米/カナダ・ツアー初日はチケットが半分しか売れなかった!?
Area No.7/Serial No.197 メモリアル・スタジアム/スポーカン・ワシントン州
 1957年8月30日からスタートした北米ツアーは、カナダとの国境があるワシントン州スポケーン、カナダ・バンクーバー、ワシントン州タコマ、シアトル、オレゴン州ポートランドと続き、この時の模様は2008年に出版された「エルヴィス '57: The Final Fifties Tours」に詳しく記載されておるだけに、様々な記録や写真が数多くネット上にアップされておる。しかし不思議なことに、北米ツアーのスタートとなったワシントン州スポケーンにおいては未だに解明されていない(?)いくつかの謎がある。

 まず、プロショットのライブ写真がネット上で非常に少ない。SMWにアップされた僅かなライブ写真は画質が良くないし、まるで1955年のドサ周り時代の様なクオリティじゃ。ライブ前の記者会見のショットはまともなクオリティなのに何故じゃ???
 またライブに使用されたメモリアル・スタジアムはフットボール用のスタジアムであり、収容人員は約25,000人にもかかわらず、エルヴィスのライブには半分の12,000人しか集まらなかったという。その内有料入場者数は約8,000人という市の財政記録も残っておるそうじゃ。ちょいと調べてみたらスタジアム側の目論見通りにはチケットは売れず、ライブ直前になってスタジアムの西側半分のスタンドだけを使用するというレイアウトに変更になったという。この煽りを食ったのは、早々と別方角のスタンド前方の座席(3.5ドル)を確保していた女の子たち。結局西側の通常席(2.5ドルか1.5ドル)の座席に移動せざるを得なかったという。

 

 更に、英文資料に対するわしの読解力不足かもしれないが、エルヴィスのパフォーマンスは“いまひとつ”みたいな記述があったりもした。その原因を、エルヴィス一行を乗せた列車が前夜29日スポケーンのステーションに到着した時、出迎えた観衆はわずか十数人だったので、エルヴィスのテンションが上がらなかったのかもしれないという「あのなあ~」ってな記述すらあった。エルヴィスのステーション到着時間は午後11時半であり、いかにエルヴィス狂のティーンエイジャーの女の子だって、こんな深夜の時間帯に家を飛び出せるはずはないんじゃないかのお?まあネット資料だけでは謎の原因を断定出来ないので、いずれ「エルヴィス '57: The Final Fifties Tours」を入手して熟読してみることにする。(下左写真は、ステーションでエルヴィスを待ちわびていた女性ファンにサインするエルヴィス)

 
 
 それでもライブ中の女の子たちの写真を見ておると、通常通りにライブは盛り上がっていたと想像できる。(上中央写真)警備員の証言のひとつが、エルヴィスの調子、ライブの盛り上がりが凄かったことを証明しておる。
「巨大な音の塊、渦の中でエルヴィスの歌声ははっきりと聞こえてきました。でも私は熱心には聞いていませんでした。ただただ、暴動が起きることなくライブが終了して、女の子たちみんなが無事に家にたどり着くことを願っていました」
「ライブ終了後、多くの女の子たちがエルヴィスが跪いて歌ったグラウンドの土までひっかき集めていました。この娘たちは、エルヴィスを愛してるなんてレベルではなかったです!」

 ライブ前後のバックステージでの記者会見やフォトセッションに女の子たちが招き入れられることはこの晩はなかったようじゃが、それでも一人だけ幸運な少女がいた。(上右写真)このお嬢ちゃんは市のお偉い役人さんの娘さんらしい。エルヴィスは70年代に二度ワシントン州でライブを行っておるが、いずれもバックステージに関係者以外は入り込めなかったので、このお嬢ちゃんは、唯一エルヴィスに密着出来たスポケーン一のラッキー・ガールとしてネット上で紹介されておった!

 なおエルヴィスはスポケーン滞在中はリドパス・ホテルに滞在し、8月30日昼間には数百人のファンがホテルに集まったという記録も残っておる。銀行のメッセンジャー嬢が書類をエルヴィスに届けるために12階のエルヴィス・ルームへ派遣され、メッセンジャー嬢はエルヴィスから直接サインをもらうことに成功したらしい!またセント・ルーカス病院で働いていた看護婦さんの一人は、看病を担当していた事故で両脚を切断された少年のお見舞いにエルヴィスが現れたという証言もしておる。ホテルや病院の証拠写真や具体的エピソードがもう少し発見できたら「バーチャル~」の訪問ポイントとして追加案内したいところじゃが、今回はこんなところで!

 メモリアル・スタジアムはその後ジョー・アルビ・スタジアムと改称されて長らくフットボール場、コンサート会場として稼働しておったが、2022年3月に解体。現在は広大な敷地内にローラースケート場やサッカー場、ベースボールフィールドを含む「ジョー・アルビ・スケートパーク」になっておる。
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 エルヴィスが極秘で列車を降りた場所
Area No.8/Serial No.198 ファースト・アベニュー高架下/バンクーバー
 

 1957年8月31日、エルヴィスは3都市目のカナダ・ライブのため、そして生涯最後のアメリカ国外ライブ地となるバンクーバーに列車で到着した。ライブの様子は次回の後編でご案内するが、その前にバンクーバー入りした時の些細ではあるがレア~な証言による情報をご紹介しておこう。
 2007年にカナダで出版された「The Providence」という情報書籍の中にエルヴィスのバンクーバー・ライブを体験した女の子たちの膨大な数の証言が掲載されており、その中に父親が当日エルヴィスを鉄道降車位置から宿泊先のホテル、またホテルからライブ会場のエンパイアー・スタジアムまでの車の送迎を担当した運転手だったという話が掲載されておる。(SMWより)
 表向きはエルヴィスはバンクーバーのメインステーション(現パシフィック・セントラル・ステーション)で降車することになっておったが、ファンが殺到して混乱を避けるためにエルヴィスは約1.5キロ手前の地点で列車を降り、その近くに待機していた女の子の父親の車に乗ってホテルへ向かったんだそうじゃ。
 この事前に決められていた極秘移動の段どりを運転手の父親から聞いていた女の子は、母親と一緒にエルヴィスが列車を降りる地点まで父親と一緒に行ったそうな!彼女はまだ9歳だったが、母親はエルヴィス・ファンであり降車するエルヴィスに向かって手を振っていたとか(笑)

 「ファースト・アベニューと線路が高架で交差した地点でエルヴィスは列車を降り、父の車は高架下でエルヴィスを待っていました」との女の子の記憶が正しければ、上写真2枚がその位置じゃ。左写真、赤丸部分がファースト・アベニューと鉄道の交差地点。右写真がその周辺のストリートビュー。(2022年6月撮影)右写真左側に線路があり、右側の道路はエンパイアー・スタジアム、宿泊先のホテル・ジョージア方面へ向かっておるので、この辺りでエルヴィスは車に乗り込んだのであろう。車種はリムジンだった! 
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 (以降「第25回カナダと国境周辺州・中編」へつづく)



     

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