NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.404


第26回 エルヴィスゆかりの地~カナダと国境周辺州・後編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 エルヴィスの生涯唯一のアメリカ国外公演であるカナダ遠征を含む、カナダと国境周辺州へのバーチャル・ロックンロール・ツアーは今回がラストじゃ。いわゆる“五大湖”のうちのスぺリオル湖に接するミネソタ州とウィスコンシン州、ミシガン湖とヒューロン湖に挟まれたミシガン州へとご案内しよう!(右地図赤丸印)

 エルヴィスは1956年5月半ばから上記3つの州を訪れておるが、実はこのツアーは5月初めに行って“苦い経験”となった初のラスベガス公演の後にスケジュールされておったのじゃ。
 既に大ヒットシングルを連発して押しも押されぬスーパースターの座に駆け上がっていたエルヴィスだったが、意地悪なマスコミから「そうれみろ!所詮は女の子相手のいかがわしい音楽だ」「大人には相手にされない一過性のブーム」などとラスベガスの失敗をあげつらわれる状況下でのツアーじゃった。ミネソタ、ウィスコンシン、ミシガン各州でのファンの反応やいかに!


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第26回 カナダと国境周辺州・後編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はカナダと国境周辺州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。



 Area No.17/Serial No.207  セントポール・オーディトリアム跡地
                                 /ミネソタ州セントポール
 Area No.18/Serial No.208 シビック・センター/ミネソタ州セントポール
 Area No.19/Serial No.209
 ミネアポリス・オーディトリアム/ミネソタ州ミネアポリス

 Area No.20Serial No.210
  メアリー・E・ソーヤ・オ ーディトリアム
                                 ウィスコンシン州ラクロス

 Area No.21Serial No.211
 ストッダード・ホテル跡地/ウィスコンシン州ラクロス
 Area No.22/Serial No.212  フォックスシアター/ミシガン州・デトロイト
 Area No.23Serial No.213 
ウッドワード・アミューズメント跡地/ミシガン州・デトロイト

 

★ 本文中の表記について ★
 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  SRW=サンレコードのウェブサイト 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」


1956年の“仕切り直しライブ”は果たして盛況だったのか-Part 1
Area No.17/Serial No.207 セントポール・アリーナ跡地/ミネソタ州セントポール
 

 「ラスベガスは大好きな場所だよ。チャンスがあればもう一度チェレンジしてみたい」
時期尚早だった初のラスベガスツアーを終えた後、エルヴィスは上記の言葉を残して一旦メンフィスに帰郷。約一週間の休暇の後に、1956年5月13日ミネソタ州東部に位置する通称“ツイン・シティ”からツアーを再開することになった。
 “ツイン・シティ(双子都市)”とは、ミシシッピー川を挟んで広がる、セントポールとミネアポリスの2つの大都市圏のことじゃ。1956年5月13日午後3時、エルヴィスはセントポール・アリーナ(左写真)にて、ツインシティー第1幕目のライブを行った。午後8時からはミネアポリス・オーディトリアム(下記Area No.19でご案内)にて第2幕目のライブじゃ。

 EDDによると、パーカー大佐は「このツアーからはエルヴィス単独ライブじゃ。もうミュージック・ジャンボリー(音楽一座)や共演者はエルヴィスと一緒には出演させん!」と明言。このタイミングに関しては大佐の真意は不明じゃが、「ベガスでこけたからって何じゃっつうんじゃ!こんな時こそ強気の姿勢でいかねばいかん!」っつう大佐らしい決断とも思えるな!またその裏では、以降のエルヴィスのライブは「トム・パーカー・バラエティー・ショー」っつう冠を付けての興行にする手筈を大佐は着々と整えておったらしく、そろそろエルヴィスのお稼ぎを侵食していく大佐の悪行ぶりが本格的に発揮され始めたという。
 しかし「エルヴィス単独ライブ」と謳われたものの、実際にはエルヴィスと音楽的にバッティングしそうなミュージシャンは共演させないということであり、例えば地元のプロモーターの顔を立てる意味合いもあったのか、地域によっては地元出身のタレント等の前座出演が少々許可されており、セントポールでのライブではオージー・ガルシアというシンガーも出演。もっともエルヴィス登場を待ちわびる大観衆の凄まじいエルヴィス・コールの為か、オージー君は僅か2曲でステージを降りてしまったらしい。きっとステージの袖からは「はよう引っ込まんかい!」って大佐がオージー君にガンを飛ばしていたんじゃろうな!

 ラスベガス・ライブの不評により、その後のライブの盛り上がりがマスコミから意地悪く懸念されていたものの、仕切り直しライブともいえたこのセントポールはまずは盛況だったようじゃ。ヴェガス以前のライブと何ら変わりなく会場は女の子たちの絶叫で始まり絶叫で終了!現地の新聞でもその熱狂ぶりが報道されておる。(上写真)エルヴィスの出演時間は僅か30分未満だったが、ステージに押し寄せた女の子たちによってエルヴィスのグリーン・ジャケットが引き裂かれるほどだったそうな。まあ早くもベガスの失敗は「悪い夢」としてエルヴィスの中であっさりと葬り去られたに違ない。

 ライブ終了後には楽屋で短いインタビューが行われており、ロックンロールやエルヴィス・フィーバーの存続を疑問視する質問に対するエルヴィスの発言は自信を取り戻したかのように溌剌としておる!
「何も心配していません。私がデビューする前からたくさんの優れた『ロックンロール』のタレントがいました。私の後にも新しいタレントが続くことを願っています。ロックンロールが続く限り歌い続けます」
「そのうちに映画で本格的な演技に挑戦してみたいですね。 もしロックンロールブームが衰退したら、私にとって映画を頼りになるキャリアにしたい!」

 セントポール・アリーナは1985年までコンサート会場として稼働した後に取り壊され、現在はオーダウェイ・パフォーミング・アーツ・センターなる真新しいイベント会場が建てられておる。(左写真ストリートビュー2019年6月撮影)
■Google-map上の位置■


大佐の悪行報道当日のエルヴィスの心境やいかに!?
 Area No.18/Serial No.208 シビック・センター/ミネソタ州セントポール
 「シビック・センター」は元々は上記のセントポール・アリーナの増設会場であり、アリーナ側が取り壊された後も存続しておった。エルヴィスはこのシビック・センターの方で1974年10月2日(左写真)、1977年4月30日の2回ライブを行っておる。ここでのライブに関しては、各資料で目立った記述は見当たらなかったが、ひとつ余談的なエピソードをご紹介しておこう。
 EDDによれば、1977年4月30日の前日4月29日、同じミネソタ州のダルースでエルヴィスはライブを行っておるが、この日業界を揺るがしたニュースはミネソタ州のライブツアーの模様よりも、パーカー大佐に関する大暴露記事じゃった!ナッシュヴィルの老舗日刊新聞「ナッシュビル・バナー」が、「パーカー大佐は、その病的なギャンブル癖のために巨額の借金を抱え、エルヴィスのマネージメント権利の売却を画策している」とすっぱ抜いたのじゃ。同紙はこのニュースをナッシュビル、メンフィス、ロサンゼルスの信用できる情報筋から入手したと信憑性も主張。
 一方この記事に対する大佐の反応も早かった。「私は逃げも隠れもない。今もエルヴィスと一緒に仕事をしている。借金などないし、返済行為もしていない。私は心身ともに健康だ」とコメント!
 ナッシュビル・バーンズのこの報道は、大佐の大きな悪事に関するもっとも早く、かつ信憑性の高いすっぱ抜き記事とされており、一説によるとさすがの大佐もかなり動揺していたという。エルヴィスのこの時のリアクション記録は残されておらんが、記事が発表された1977年4月29日、大佐が素早く反応した30日、急逝する約4ヶ月前のミネソタ州でのエルヴィスの心中は穏やかではなかったはずじゃ。この両日のライブ音源が存在しておるのであれば、エルヴィスの心境を察する意味で聞いてみたいものじゃ!?

 シビック・センターは現在エクセル・エナジー・センターと名称を変えて稼働中である。右写真はストリートビュー2019年6月撮影。
■Google-map上の位置■



  1956年の“仕切り直しライブ”は果たして盛況だったのか-Part 2
Area No.19/Serial No.209ミネアポリス・オウディトリアム/ミネソタ州ミネアポリス
 
 1956年5月13日ミネソタ州“ツインシティ”でのWライブの様子はSMWに詳しく記載されており、午後3時スタートのセントポール・アリーナは上々の盛り上がりだったと記載されておる。ところが、約17キロ離れたミネアポリス・オウディトリアム(右写真)で午後8時にスタートしたライブは、某DJ兼映画作家による非常にネガティブなコンサートレビューを転載して、一読しただけではあたかもまったくツマンナイライブだったような記載になっておる。事実を確かめる術がないので何とも言えんが、ページ編集をしたSMW側の意図がどうもよく分からない・・・。
 レビューを書いた人物は、「自分はエルヴィスのファンだ」と前置きした上で、要約すると下記の様な内容を書き綴っておる。

「ツインシティー二ヵ所のライブ会場の合計収容人数25,000人に対して、2回のライブの合計観客数は僅か6,000人だった」
「この日は酷い悪天候に加え、母の日であり、多くの女の子たちが家にいることを余儀なくされていたことを差し引いても、エルヴィス・ブームが下火になっていると思われる」
「エルヴィスは相変わらず“骨盤ダンス”を披露し、それは服を着ている男性のバーレスクダンサーであり、非常に低俗なアクションだった」
「インタビューや求められたサインに対しては非常に誠実に対応するエルヴィスは少年少女たちの手本なのに、何故彼はその良い評判をライブでぶち壊すようなことをするのか」
「ステージ・アクションの見えないレコードでのエルヴィスの歌は素晴らしい。彼に熱狂する女の子たちの母親も魅了しているはずなのに、今日のライブはそんな母親たちを失望させるだろう」等々。
 ふ~む。ミシシッピー川を挟んで位置する2つの都市、セントポールとミネアポリスでエルヴィス人気やライブの反響が正反対だったとはとても考えにくい。「バーチャル~」の調査において大いに頼りにしておるSMWの、まことに訳がわからないミネアポリスのライブ紹介ページの内容じゃ。
 わしの浅知恵による深読みをしてみるとだな、セントポールとミネアポリスのライブは、ラスベガスの失敗直後、さらに悪天候と母の日によるお客の不入りもあって、エルヴィスをこき下ろしたいマスコミ連中にとっての恰好の機会になってしまったのかもしれん。
 それでもライブに駆け付けた女の子たちの熱狂ぶりは両会場ともに相変わらず凄まじく、SMW側としてはセントポールとミネアポリスのライブをあえて両極端な描写をすることで、熱狂的支持派と絶対的否定派が激しく混在しておる当時のエルヴィス現象というものをより浮彫りにしたかっただけなのかも!?あんまり賢いアイディアとは思えんがな。

 ミネアポリス・オウディトリアムは当地最大級のコンサート会場として長らく君臨。ジミ・ヘンドリックス、ドアーズら、エルヴィスの次の世代である60年代のアメリカン・ロックスターたちが数多く躍動した会場だったが、1989年に老築化から取り壊し。跡地には新しいコンサート会場「ミネアポリス・コンベンション・センター」が建てられておる。(左写真ストリートビュー2022年6月撮影)

■Google-map上の位置■


エルヴィスの東部戦線に異常なし!
Area No.20/Serial No.210 メアリー・E・ソーヤ・オーディトリアム
                               /ウィスコンシン州ラクロス


 SMWのライブ記録では、盛り上がったのかシラケタのかよくわからないミネソタ州ツインシティでの“仕切り直しライブ”。ツインシティからミシシッピー川を約230キロ南下したウィスコンシン州ラクロスにおける翌日1956年5月14日のライブは何ら滞りなく大熱狂状態だったようじゃ!収容人員約4,000人の会場メアリー・E・ソーヤ・オーディトリアム(左写真)を埋め尽くした大観衆の熱狂ぶりについて、SMWは次のように書き記しておる。

「エルヴィスがステージに登場した瞬間、4,000人の観衆はまるで40,000人が一斉に鋲の上に座ってしまったような絶叫状態となった」
「プレスリーレッグの最初のタップで、会場はほとんど爆発した」
「半分ダンス、半分歌のステージを繰り広げるエルヴィスは、絶叫する大群衆から巨大なキック(圧力)を受けていた。群衆のエネルギーはエルヴィスを圧倒していた」
「会場の外にはチケットを買えなかった女の子たちが群がっていて、彼らは“人間梯子”まで作って会場の2階の窓までよじ登ろうとしていた」
「会場近くには1歳の男の子がベビーカーの中に置き去りにされていた。エルヴィスを一目見たいだけのベビーシッターが仕事を忘れてしまっていたのだ」等々。

 エルヴィス狂騒状況は通常通りであり、ヴェガスの失敗なんて何の影響もなかったことが分かる!前日のツインシティがもし盛り上がっていなかったのであれば、それはやはり悪天候と母の日という日程の影響に過ぎなかったと判断すべきじゃろうな!

 1955年に開場したメアリー・E・ソーヤ・オーディトリアムは1988年までライブ会場として稼働した記録が残されておるが、所在地に関しては2つのストリートの交差点としか各資料に記されておらん。正確な住所は判明していないので、現在地写真(ストリートビュー)は、交差点全体のショットを掲載しておく。(下右写真)
■Google-map上の位置(交差点)■

 なお2009年になってエルヴィスのメアリー・E・ソーヤ・オーディトリアムでの未公開ライブ写真が発見され、「Second Supper」なる地元紙に掲載された。(下左写真)そのうちの1枚は、ライブ・チケットを購入するために徹夜で会場に並ぶ少女たちが収められており、当地のエルヴィス人気の高さを立証する貴重なショットといえる。
 またエルヴィスが地元ラジオ局のインタビューを受けている写真もある。このインタビューでは、つい一週間ほど前のヴェガス・ライブについてエルヴィスは下記の様に語ったとされておる。
「ラスヴェガスは失敗でした。だから私は今も安心はしていません。何故失敗だったのか。あそこは映画スターたちがたくさんいて、その状況が私にとって不利だったのかもしれない」
ごくありふれた優等生的なインタビューにも聞こえるが、失敗の要因をヴェガスの「観客」に向けていないことが、音楽や音楽ファンそのものを大切にしていたエルヴィスらしい非常に賢明な見解として捉えることも出来る!




エルヴィス“太ももサイン事件”が起こったホテル
Area No.21/Serial No.211 ストッダード・ホテル跡地//ウィスコンシン州ラクロス

 ウィスコンシン州ラクロスでは間違いなくエルヴィス・フィーバーが巻き起こった証拠として、1,000人以上の熱狂的なファンがエルヴィスの宿泊先だった当地の最高級ホテル「ストッダード・ホテル」へライブ終了後に殺到したという事実がある。深夜になってもファンはホテルの周囲から離れることなく、ホテル側は可能な限りの人数の警備員を急遽かき集めてホテルとエルヴィスの警護に当たらせたという。
 エルヴィスが“4階の窓から足を突き出し、狂ったように小刻みに動かす”までファンはホテル前から立ち去らなかったらしく、緊急招集された警備員たちのお仕事は午前3時まで続いたらしい。しかし““4階の窓から足を突き出し~”って一体どんなポーズなんじゃ!(笑)

 この騒動によるホテル側の器物破損などの被害は無かったものの、後日別の問題が発生した。「私、エルヴィスからココにサインしてもらっちゃった!」って自分のお腹や太ももを自慢する女学生2人が出現!よって彼女たちが警備の網をくぐりぬけてホテルの非常階段を登ってエルヴィスの部屋に入り込んだことが明るみになったんだそうじゃ。
 そうなったら黙っていないのが、良識派を自認する連中ども。地元の新聞記者の一人がFBI連保捜査局宛てに出した「少年少女を性的倒錯へ誘導するエルヴィス・プレスリーの活動停止要請」の手紙がSMWに掲載されておった。手紙の中でこの記者は、エルヴィスのホテルの部屋へ侵入成功した女学生2人を個人的な知り合いとしており、どうやらエルヴィスが彼女たちのお腹と太ももにサインしたことに激高しておったようじゃ。
 この手紙自体は公開されてはいるが、手紙を書いた本人が誰であるかは伏せられておる。どうやら当時の地元新聞の副編集長であり、以前は諜報機関に勤めていた人物らしいとSMWは推察しておる。
 なおこの手紙に対するFBI側からの返信も残されており、その内容が意外じゃった。
「ご指摘の件は FBI の捜査管轄外であります」
チャンチャンって感じじゃな!

 1904 年にオープンしたストッダードホテルは、ラクロスの初代市長であるトーマス・ストッダード大佐にちなんで名付けられた。ジョン F. ケネディ大統領やリチャード ニクソン大統領、エルヴィス、カウント・ベイシーなどの数多くの著名人の滞在記録が残されておる。
 当時のホテル業界としては大変珍しくオーナーは長らく女性であり、その方はホテルに押し寄せた女性ファンに対してではなく、彼女たちを熱狂、倒錯させたエルヴィスの言動を訝しく思っておったらしい。ホテルを1972年に売却してからはビジネス界から退き、2008年に98歳で亡くなられる前にはストッダードホテル全盛時代のホテルの記念品をラクロス歴史協会に寄贈しておる。(上左写真) ホテルの跡地は現在駐車場になっておる。(上右写真ストリートビュー2018年6月撮影)
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 モータウン誕生前夜、デトロイトを通過して行った“エルヴィス・ハリケーン”
Area No.22/Serial No.212 フォックス・シアター/ミシガン州デトロイト

 1956年5月25日エルヴィスはアメリカ有数の自動車製造工業地帯デトロイトにやって来た。音楽ファンにとってデトロイトと言えば、1960年代に全米を席巻したモータウン・サウンドの発祥の地であるが、エルヴィスのライブが行われた時はモータウン・サウンドはまだ生まれてはおらんかった。
 あえてモータウンの歴史の細かい部分に光を当ててみると、エルヴィス・ライブの翌1957年はモータウン・サウンドの生みの親ベリー・ゴーディ・ジュニアが作曲し、ベリー自ら見出したR&Bシンガーのジャッキー・ウィルソンに歌わせた「Reet Petite」が全米で中ヒットとなり、モータウンサウンドの歴史が動き出したとする向きもある。エルヴィスのライブはモータウン・サウンド誕生前夜にデトロイトを突発的に襲ったミュージック・ハリケーンだったとしておこう!

 ライブ会場となったフォックス・シアターは、アメリカ東部に幾つか点在しておる映画会社20世紀フォックス社直営の劇場のひとつ。1928年開場当時は“世界で2番目に大きい劇場”とのフレコミじゃったらしい。収容人員は約5,000人であり、「世界で2番目」とは「?」じゃが、これは単に客席数だけのランキングではなく、荘厳なインテリアや照明設備等を含めた「芸術的建築様式による大型劇場」という範疇におけるランキングであろう。全米に幾つか存在するフォックスシアター、特にデトロイトのシアターは「娯楽の殿堂」と呼ばれておったらしい。ライブ当日には、等身大以上のエルヴィスのモニュメントを会場内にディスプレイして来場した多くの女の子を喜ばせた!(上左写真)
 エルヴィスのライブは、昼、夕方、夜の3回開催され、合計観客数は12,500人。この日だけでエルヴィスは最低でも10,000ドルのギャラを受け取ったと言われておる。

 

 現在では数多くのライブ・ショットがネット上でも閲覧出来る。当時のライブショットの中ではかなり秀悦なショットが目立ち、さらに2008年になって発表された未発表写真集「A Moment in time , 4 days in 1956」では写真作品としてハイクオリティなショットが数多くあるらしい。(上右写真)

 フォックス・シアターはモータウンサウンドの本拠地がロサンゼルスに移った1970年代から客足が遠のき、ホラー映画やカンフー映画の上映でなんとか経営を維持していたものの、老築化も重なって一時閉鎖。1988年に巨額の補修費が投入されたことで見事にリノベーションされて復活。復活祭にはライザ・ミネル、サミー・デービス・ジュニア、フランク・シナトラも出演した。その後も順調に稼働を続けて現在に至っておる。(左写真ストリートビュー2022年9月撮影)

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ライブの休憩時間にエルヴィスがゲームに興じたゲーセン
Area No.23/Serial No.213 ウッドワード・アミューズメント跡地/ミシガン州デトロイト
 
 
 上記フォックス・シアターでの1日3回のライブの休憩時間、ファースト・ステージとセカンド・ステージの合間に、エルヴィスはフォックス・シアターを抜け出し(ナッソー羽織って)、ダウンタウンのゲームセンターで息抜きをしていたことは上写真2枚、左写真によって多くのファンがご存知じゃな。飛ぶ鳥落とす勢いの若きロック・スターではなく、普通の若者に戻ったような表情でシューティング・ゲームやピンボールに興じるエルヴィスの姿もまたとてもクール!

 このゲームセンターの様な場所は何処なのか?既存の活字資料やネット資料の全てはdowntown arcadeとしか記載されていないので、わしとしては長らく場所が特定が出来なかった。ところが、アメリカのファンがアップしておる動画サイトの中で、約1年前にこのdowntown arcadeの場所が特定されておる映像が公開されておった!
 その動画によるとこのゲームセンターは、フォックス・シアター正面入口の前を走るウッドワード・アベニューを北へ約150メートル進んだウェスト・フィッシャー・サービス・ドライブとの交差点南西側の敷地にあった「ウッドワード・アミューズメント」としておる。(フォックス・シアターから徒歩2分)
 動画内の英語ナレーションを聞いていると、ゲームセンターのオーナーの写真を挿入するなどして信憑性の高い情報であることをアピールしておるが、当時の建物の写真の紹介は無く、100%信用出来る情報とは言い難い。しかしエルヴィスがライブの休憩時間に訪れたということはフォックスシアターからほど近い場所にこのゲームセンターがあったことは間違いないこともあり、ウッドワード・アミューズメントが最右翼の情報であることをご紹介しておこう。

 跡地と思われる場所は現在は空地になっておる。(右写真茶色の建物の前の敷地。ストリートビュー2019年6月撮影)すぐ近くにはメジャー・リーグのデトロイト・タイガースの本拠地「コメリカパーク」もあることから、エルヴィスがやって来た1956年当時から現在に至るまで、この周辺はデトロイト有数の商業地域であることが分かるだけに、現在空地で、しかもきちんと垣根が植えられて整備されておる状態がわしには妙に不可解じゃ!?エルヴィスが天国から「俺の希少な休憩時間を過ごした土地をむやみに再開発するな!」って厳命しておるのかもしれない(笑)
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 3回にわたってご案内してきたカナダと国境周辺州を巡るツアーはこれにて終了致しやす。ライブ地に関しては、ミシガン州デトロイトにもう一ヵ所、1957年3月31日のライブ会場になったオリンピア・シアターがあるが、こちらはわしの英文資料読解力不足というか、同時期にライブが行われた他の会場と差別化できる価値付けがどうしても出来なかったので、スルーさせてもらったわい。
 エルヴィスの1950年代における同地域のライブが少ない理由は定かではないが、周到なマーケティング/集客作戦を練っていたパーカー大佐が、同地域はさほどドル箱ではないと踏んでいたのかもしれないし、また当時のエルヴィスが飛行機による長距離移動を嫌っていたことも関係しておるのかもしれない。いつになるかはまったく分からないが、ライブ情報以外に同地域でのエルヴィスの痕跡がたくさん集まり次第、あらためて踏み込むことにしよう。ツアーにご参加頂いた皆様、お疲れ様でした!次回のツアーの参加もお待ちしておりますわい。




    
   


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