NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.408


第29回 エルヴィスゆかりの地~オクラホマ州編

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 2023年度もガンガン飛ばしていきたいバーチャル・ロックンロール・ツアー!4月度のファーストはオクラホマ州に突入じゃ。オクラホマ州は地図で見るとテキサス州の真上、真北にある、アメリカでも有名なブラックカントリー(ど田舎)な州じゃ。半世紀前ぐらいまでは、生粋のニューヨーカーは“田舎者”のことを総じて“オーキー”(オクラホマ人)と呼んだりしていたっつうエピソードをどこかで読んだ覚えがある。また助っ人として日本に来日したガタイのデカイオクラホマ出身の野球選手に対して日本のマスコミ陣が「うわっ大きい!」って口走ったことを「へえ~俺たちオクラホマ人(オーキー)って日本で有名なんだな」って喜んだっつう笑い話もある!
 ってそんな与太バナシはこれぐらいにして、わしがお伝えしたいことは、このオクラホマ州のエルヴィス調査は、「バーチャル~」のスタート以来もっとも苦労したってことじゃ。とにかくネット情報があまりにも少な過ぎるのじゃ。1950年代のエルヴィスのライブ写真はわずか3枚。文字情報も、「〇〇年■月△日 ※※会場」といった最低必要事項ばっかり。ライブの新聞広告すら見つかっていない会場もある。
 こりゃもう~オクラホマ州はスルーするか!ってあきらめかけたものの、「情報が少ないという状況をベースにしてやっちまえ!」って開き直った強引なノリでオクラホマ州のエルヴィスの軌跡を追っかけてみることにした!「これもまた、悪かねえな」って少なからず楽しんで頂けたら幸いじゃ。


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第29回 オクラホマ州編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はオクラホマ州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.1/Serial No.227 ガイモン・ハイスクール・オーディトリアム/ガイモン 
 Area No.2/Serial No.228 マクマホン・メモリアル・オーディトリアム/ロートン
 Area No.3/Serial No.229
  ザ・サザン・クラブ跡地/ロートン
 
Area No.4Serial No.230 アルタス・シティ・オーディトリアム/アルタス

 
Area No.5Serial No.231  ミュニシパル・オーディトリアム/オクラホマシティ
 
Area No.6/Serial No.232  フェアグラウンド・パビリオン/タルサ
 
Area No.7/Serial No.233 ポーターズ・ハウス・ダイナー跡地/ウェザーフォード
 Area No.8/Serial No.234 トレード・ウインズ・イン/クリントン

 

★ 本文中の表記について ★
 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  SRW=サンレコードのウェブサイト 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」


詳細記録ゼロ・・・依然として謎のオクラホマ州初ライブ
Area No.1/Serial No.227 ガイモン・ハイスクール・オーディトリアム/ガイモン
 
 のっけから恐縮じゃが、1955年6月1日にエルヴィスが初めてやってきたオクラホマ州の場所ガイモンでのライブ記録はネット上ではほんの僅か。もちろんエルヴィスが訪れた時の写真も無し。唯一小さな新聞広告が見つかったので(上右写真)、ガイモン・ハイスクール・オーディトリアム(上左写真)でライブが行われた事だけは確かなようじゃ。しつこくネット検索した結果見つかったオーディトリアム内の写真の1枚には、客席数1,200人と表記されておる。(上中央写真)

 ガイモン・ハイスクール自体の情報としては、同校がネット上にアップしている「YEAR BOOK」という年毎に発行された卒業記念アルバムの様な写真サイトが見つかり、その中に「1955年度版」がアップされておるものの、この写真サイトは会員(同校の卒業生?)しか閲覧出来ず、小さなサムネイルのリストからは「本年度中(1955年)にエルヴィスが~」といったトピックスの表記は見つからずじまいでガッカリ。
 また同校は何度か建て替え(もしくは移転)が行われた歴史がネット上で確認できたが、建て替えなのか移転なのか、またその日付等の詳細表記は一切無し。従って現存するガイモン・ハイスクールが、エルヴィスがオーディトリアム(講堂)に登場当時のスクールと所在地が同一であるかも不明。
(下写真ストリートビュー2008年3月撮影)

 1955年6月1日当時のエルヴィスは、長期に渡るテキサス州やミシシッピー州へのツアーの最中に1日だけオクラホマ州に入ってガイモンでライブを行っておる。
 ちなみに前日のライブ地はテキサス州オデッサ、翌日もまたテキサス州へ戻ってアマリロという街でライブを行っておる。
■Google-map上の位置■(現ガイモン・ハイスクール)


オクラホマのセカンドライブは、インディアン強制退去(撃退)の地・・・
 Area No.2/Serial No.228 マクマホン・メモリアル・オーディトリアム/ロートン
 エルヴィスが再びオクラホマ州に登場したのは、1955年6月23日ロートンという街のマクマホン・メモリアル・オーディトリアム(左写真左側)でのライブじゃった。この日の記録も殆どなく、写真も無し。情報を確定する証拠として、唯一当日の小さな新聞広告が見つかった。 (左写真右側)広告の中では「8人のビッグスター出演」とのアピールがあり、エルヴィスは8人の中で先頭に名前が記されておる。

 エルヴィスとは関係のない情報じゃが、ロートンは元々様々な種族のインディアンが住みついておった地域を白人のたちの居住地として開発されたという。インディアンの強制退去、もしくは土地の再開発におおいに貢献したとされる陸軍のロートン将軍の名にちなんで土地名が付けられたのだそうじゃ。チェロキー・インディアンの血をひいておる(と伝えられる)エルヴィスの心境は如何に・・・。
 マクマホン・メモリアル・オーディトリアムは1955年3月にロートンとその周辺地域の文化活動推進の為に建築されたレクリエーション施設であり、エルヴィスらご一行は当会場最初のビッグイベントとして招聘されたのじゃ。同会場は現在でも稼働中であり、ロートンでもっとも知名度の高いイベント会場であり続けておる。右写真ストリートビュー2019年3月撮影。
■Google-map上の位置■


オクラホマ州のエルヴィス“最古のショット
Area No.3/Serial No.229 ザ・サザン・クラブ跡地/ロートン
  
 Area No.2のマクマホン・メモリアル・オーディトリアムでのライブ終了後、同日の午後11時からエルヴィスご一行はザ・サザン・クラブなるロートンのナイトクラブにも出演しておる。ここでようやくエルヴィス出演の証拠写真があった!(上写真2枚)
 この2枚の写真はザ・サザン・クラブに詰めかけた地元の高校生や大学生との記念撮影であり、右写真はスコッティやビルも写っておる希少なショットじゃ。
 上右写真の右端の人物は、後にオクラホマ州史上最年少で同州上院議院選挙に当選して、以降22年間議席を守り続けたという伝説的秀才だったアル・テリル君らしい!高校生や大学生、また大秀才まで深夜イベントに駆け付けたわけじゃから、ザ・サザ
ン・クラブは一般的なナイトクラブというよりも当時のロートン有数の社交場だったんじゃろうな。

 ザ・サザン・クラブはSMWによると1970年代に火事で焼失してしまったそうで、その後新クラブが近くの別の場所に建て直されたという。(下写真左、中央旧クラブの所在地まではSMWに記載されておらんかったが、有名ミュージシャンのライブ演奏曲目が紹介されておる英字サイトの中に、旧クラブの住所の記載があった!新クラブから約300メートル離れた場所にあったのじゃ!
新ザ・サザン・クラブは現在「Fubar Saloon」と名称を変えて存続中であるが、オリジナルの旧クラブの跡地は洗車場になっておる(下右写真ストリートビュー2022年5月撮影)
■Google-map上の位置■


  エルヴィス・マニアを悩ませる、情報ゼロのライブ地
Area No.4/Serial No.230 アルタス・シティ・オーディトリアム
 ご提供出来る情報が少な過ぎて“ツアー”になっとるんだかどうだが甚だ不安なオクラホマ州じゃが、この際開き直って最も情報の少ないっつうか限りなくゼロに近い場所まで紹介してしまおう!前述したロートンのマクマホン・メモリアル・オーディトリアム/ザ・サザン・クラブでのダブルライブの翌日1955年6月24日にライブが行われたとされておるアルタス・シティ・オーディトリアムじゃ。
 複数のエルヴィス・ライブ履歴サイトの会場リストの中に同日におけるこの会場の名前が確認できるものの、それを裏付ける記事、写真がネット上にまったく無い!シティ・オーディトリアム自体のサイトにも“Elvis”の記載が見当たらない。当時の新聞の広告までもゼロ!世界中のエルヴィス・マニアが血眼になってエルヴィスの生涯の軌跡を追い続けているというのに、未だにライブの新聞広告も見つからない会場は相当に珍しい。

 じゃあ「1955年6月24日アルタス・シティ・オーディトリアムでライブ」という記録の出処は一体何処なのか?只今SRWが閲覧不可なので、SRWでの確認も出来ない。これが2023年4月時点における、この日、この会場でのエルヴィス・ライブ記録に関するネット上の情報公開状況の事実じゃ。

 なおアルタス・シティ・オーディトリアムは現在でも稼働中。前述のザ・サザン・クラブからは、クラブと至近距離にある62号線を真西に約90キロ移動した位置ある。右写真はストリートビュー2022年6月撮影。
■Google-map上の位置■


 エルヴィスとビル・ヘイリーが初共演した会場!
Area No.5/Serial No.231 ミュニシパル・オーディトリアム/オクラホマシティ
 1955年10月16日、エルヴィスは同年6月頭と同様にテキサス州ツアーの最中に1日だけオクラホマ州へ入って、オクラホマシティのミュニシパル・オーディトリアムでライブを行った。(左写真)
 当日のライブ写真、バックステージ写真はネット上で1枚も発見できなかったものの、この日はロックンロール史で重要な事件が起こっておる。ビル・ヘイリーとエルヴィスが初めて同じステージで共演したのであ~る。ミュニシパル・オーディトリアムは収容人員約8,000人の周辺地域で当時最大のイベントホール。エルヴィスとビル・ヘイリーというロックンロール黎明期の2大スターの初共演の場所としては申し分のないスケールじゃ。しかし当日の観客数の記録や観客の熱狂ぶりに関する記述はネット上で見当たらず。

 ビル・ヘイリー&コメッツのシングル「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が映画「暴力教室」に使用されたことで全米で爆発的大ヒットとなったのが同年7月。ビル・ヘイリーはエルヴィスよりも一足先にロックンロールの大スターになっており、オクラホマシティでのライブでは、当然エルヴィスはビル・ヘイリーの前座としての出演じゃった!
 当日の写真が無いものの、おもしろいブツを発見!それはライブの告知ポスター2種類じゃ。ビル・ヘイリーの名前がデカデカと踊り、既に“ルイジアナ・ヘイライドの若き火の玉”と言われてローカル・ヒーローにはなっていたエルヴィスとはいえ、その名前が無い。(右写真左側)
 またもうひと種類のポスター(右写真右側)は、ハンク・スノウがフューチャーされておるが、やはりエルヴィスの名前が何処にも無い!これはプロモーター側もしくはポスター制作側の単なるミスなのか、何なのか!?エルヴィスのポスター・マニアの間では密かに名の通ったポスターらしい!

 一説によると、この日ビルはエルヴィスに「ステージではアップテンポの曲だけに専念した方がいい」とアドバイスを送ったとされておる。
 「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の大ヒットによって、ビルはこの頃から実入りの額が跳ね上がったらしいが、それでも週給350ドルだったという。ただし、ツアー中の移動費用、宿泊代、衣装代、会場の機材使用代などはすべてマネージメント側持ちになったとのことじゃ。
 
【参考情報】左写真は、有名なエルヴィスとビル・ヘイリーの2ショット。一部ではこの日のバックステージで撮影されたとされておるが、真相は4日後のオハイオ州ブルックリンのセント・・マイケル・ホールのバックステージの様じゃ。

 なおSMWによると、ライブ当日より約一週間前のビルボード紙にパーカー大佐に関する記事が掲載されたそうな。大佐はまだエルヴィスのマネージャーではなかったが、じわじわとエルヴィスに近づいていた頃。その大佐の仕事っぷりを「ポップスとカントリーとヒルビリーのシンガーを抱き合わせた一夜限りの興行を続ける新しいビジネスを考案した凄腕のブッカー」と評しておる。ミュージック・ジャンボリー・ツアーというのはパーカー大佐の発案だったのか!?

 ビル・ヘイリーの前座を務めてから約半年後、エルヴィスは1956年4月19日、再びオクラホマのミュニシパル・オーディトリアムに登場。(右写真)もちろん、この日は単独ライブじゃ。昼夜2回、チケットはいずれも完売で総入場者数約12,000人じゃった。
 「The Daily Oklahoma」という新聞によると、エルヴィスが羽織っていたブラックベルベットの襟の付いたジャケットのカラーは黄色だったっという。(“ロング・スポーツ・コート”と記述しておる!)エルヴィスはこのジャケットを、前日ライブを行ったオクラホマ州タルサという街(AreaNo.6参照)で、オクラホマシティへ移動する当日早朝に購入したとも。
 
 ちなみにこのオクラホマ・ミュニシパル・オーディトリアムには他の大型会場と真逆の歴史がある。オクラホマという都市の規模からするとキャパが大き過ぎたようで、エルヴィス以降も数多くのビッグ・ミュージシャンが出演したものの、エルヴィスのライブ以外には満員になることはなかったという。
 そしてエルヴィスの登場から10年後の1966年に改修工事が行われて、1967年に座席数が約半数の3,200席にまで縮小された上に、「シビック・センター・ミュージックホール」と名称も変更されて再オープンしたそうじゃ。
 エルヴィスは70年代に入ると4度オクラホマシティでライブを行っておるが、新しい「シビック・センター・ミュージックホール」ではキャパが小さ過ぎて別の会場が使用されることなった。現在は舞台芸術の会場として機能しておる。左写真はストリートビュー2021年1月撮影。
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ライオンの前に放り出されたキリスト教徒の絶叫も、この日の女の子ほどではなかっただろう!
Area No.6/Serial No.232 フェアグラウンド・パビリオン/タルサ
 オクラホマ州において、1950年代に5都市6回(昼夜2回は1回で換算)行われたエルヴィスのライブの内、現在もっともネット上の情報が多いライブが行われた会場へご案内しよう。上記オクラホマシティ・ミュニシパル・オーディトリアムのライブ前日、1956年4月18日の会場じゃったタルサという街のフェアグラウンド・パビリオンじゃ。(左写真)

 「タルサ・ワールド」という地元新聞に掲載されたこの日のライブ・レビューは約3,000字にものぼり、エルヴィスの人気が全国的に大爆発する以前のレビューとしては異例の文字数だったそうじゃ。わしはその記事をチェックしてみたが、エルヴィス登場前から(前座のステージから)異様に盛り上がっていた観客の様子や、ヒステリックに泣き叫ぶ女の子たちの熱狂ぶりなど、当時のライブレビューと何ら変わらない内容であり、とりたてて目に付いたレポートではなかった。唯一ユニークな表現(大意)は下記の通り。

 ブラームスやバッハを愛する中年の観客には、このショーは美的感覚を満足させるものではなかったが、熱狂的ヒステリー現象の研究的視点からすると、かつてローマ人の娯楽のためにライオンの前に放り出されたキリスト教徒の恐怖の絶叫すら、この日の女の子ほどではなかっただろう。

 ライブレビューの後半にはインタビューの様子も盛り込まれており、「観客同士が憎しみ合うようになってしまったらライブは行いません。今までも、小さな子が大きな子に押しつぶされそうな場面を目撃してきましたから」というエルヴィスの紳士的なコメントを紹介している一方で、「普段は何を飲んでいるかって?僕はお酒すら飲みませんよ。〇〇や△△(ドラッグのこと)はやってますよ」といった当時としてはちょっと危険なジョークも紹介しておる。

 以上の「タルサ・ワールド」の記事を紹介しておるサイトには、わしにとっては大変有難い(?)証言が掲載されておった。エルヴィスのステージアクションがあまりにもセクシーだったため、「タルサワールド」をはじめとした当時の新聞は、エルヴィスの全身写真を決して掲載しなかったそうじゃ。ということは現在でも未発表の写真が存在しておる可能性が高いということじゃ。オクラホマ州でのライブ写真の少なさに納得したと同時に、今後未発表写真が公開されるかもしれないというかすかな望みが湧いてきた!

 最後にこの日のライブ情報が、その内容の質はともかくとして、何故ネット上で多いのかを解説しておこう。例えば「Elvis Tulsa」でネット検索すると幾ばくかの情報サイトがヒットする。その大半はタルサ発であり、「エルヴィスは後にタルサに敬意を表している」という共通の記載がある。
 これは映画「G.Iブルース」でのエルヴィスの役柄が、オクラホマ出身者のタルサという名前の男性であり、軍を退役してからはオクラホマに帰ってナイトクラブを経営することを夢見ているというストーリー設定だったかららしい。この映画の設定はタルサの住人にとっては大いに名誉なことであり、タルサでエルヴィス人気が衰えない秘訣にもなっとるんだそうじゃ!
 1972年6月20日、1974年3月1日と3月2日、1976年7月4日(ラストから2番目のライブ)にもエルヴィスはタルサでライブを行っており、その都度エルヴィスは観光ポイントを訪問していたとするサイトもある。ここら辺は今後あらためて調査致しやす!

「フェアグランド・パビリオン」は、1960年代よりバスケットボールやホッケーのプロチームのフランチャイズ競技場となり、以降はスポーツイベント会場として栄え、現在も「エキスポ・スクエア・パビリオン」と名称を変更して稼働中じゃ。右写真はストリートビュー2022年8月撮影。
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1960年4月22日、確かにエルヴィスが利用した記録が残る小さなダイナー
Area No.7/Serial No.233 ポーター・ハウス・ダイナー跡地/ウェザーフォード

 オクラホマ州のエルヴィス周辺情報をチェックしまくっていたところ、更に2つのゆかりの地を発見したので追加案内を致そう!

 まず同州最大の都市オクラホマシティから40号線道路(旧ルート66)を真西に約100キロの距離にある小さな街ウェザーフォード。ここにかつてポーターハウスという、小屋同然の小さなダイナーがあった。ほとんどテイクアウト専門店だった様であり、“ステーキ”との表示はあるものの、メニューのほとんどはジャンクフードだったという。このお店にエルヴィスは何度か立ち寄っていたというのじゃ!

 ポーターハウス・ダイナーの建物は、現在ウェザーフォードの“歴史文化財”として、当地の「Heartland of America Museum」の敷地内に移されて保管管理されておる(上写真)。建物を訪れると、当時のゲストブック(来客者記帳ノート)があり、1960年4月22日付のエルヴィスの直筆サイン、更に“Cool Daddy”というお店への直筆メッセージを拝見することが出来るという!残念ながら当時のお店や残されておるゲストブックの写真は発見出来なかった。
 エルヴィスは1960年代に入ると映画撮影のためにウエストコーストへ出向く機会が多くなり、ルート66を頻繁に通っていたために、ルート66沿いにあったこのダイナーに何度も立ち寄っていたと言われておる。

 ダイナーのあった跡地は、現在ガソリンスタンドになっておる。右写真はストリートビュー2022年6月撮影。写真内に見える小さな“ROUTE 66”の赤い看板が旅の情緒をくすぐるのお~♪
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風前の灯!?ルート66付近に残る希少なエルヴィスの痕跡
Area No.8/Serial No.234 トレード・ウインズ・イン/クリントン



 上記ポーターハウス・ダイナーから、さらにルート66を真西に30キロほど行ったクリントンという街には、やはり1960年代にエルヴィスが少なくとも数回は宿泊していたと伝えられているモーテル、トレード・ウインズ・インがある。61の客室、プール、美容院、コーヒーショップ、ダイニングルーム等を備えておった。一部のスイートルームには「サンデッキ」と呼ばれる中庭があり、エルヴィスの部屋は215号室と決められておったという。(上中央写真、上右写真)関連サイトでは「ジャンクフード好きのエルヴィスは、ポーターハウス・ダイナーで夜食を買って、215号室で食べていたに違いない」という紹介がされておる!

 このモーテルは数年前に取り壊し、土地の再開発計画が発表され、「キングが宿泊したモーテルが遂に~」とニュースになったものの、最新のストリートビュー(右写真、2021年3月撮影)では存在が確認出来る。(営業は終了?)
 ちなみにホテル前のストリートを隔てた対面には、「オクラホマ・ルート66・ミュージアム」がある。結局モーテルが取り壊されるのであれば、上記ポーターハウス・ダイナー同様に、ミュージアムの方にエルヴィス・ルームをそっくりそのまま移動させてもらいたいものじゃ!
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