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NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.412


第32回 エルヴィスゆかりの地
サウス・ダコタ州、ウェスト・バージニア州 + ワシントンDC

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)



 今回も「バーチャル・ロックンロールツアー」にご参加頂き、誠にありがとうございます!
 現在わしは諸君をアメリカ東部/東海岸地域へご案内する予定でおりますが、その前に今までの31回のツアーをかる~く振り返ってみたい。

 まず上の地図で
薄いピンク色の地の州がこれまでの「バーチャル~」で訪れた州
 次に地図右上、
薄いベージュ色の地域がこの先予定している(一般的に)アメリカ東部とカテゴライズされている地域

 更に
赤丸で囲った7つの州プラス一ヵ所(DC=ワシントン)は、周辺の州は訪れたものの、エルヴィスの軌跡、痕跡情報がネット上でほんの僅か、もしくは皆無なので今までご案内をスルーしてきた州
 今回はこの中から
「赤丸+×マーク」のアイダホ州、ワイオミング州、ノースダコタ州、デラウェア州を除く3つの州の内、サウスダコタ州、ウェストバージニア州、そしてワシントンDCを併せてご案内することに致します。メリーランド州に関しては次回ご案内致します。
(※ 「赤丸+×マーク」の州はエルヴィスのライブが一度も行われることなく、またエルヴィスが所要で訪れた記録もネット上で発見出来なかった州) 

 歯っ欠けのように今までご案内していなかった州を出来るだけフォローしてから、アメリカ東部/東海岸へと「バーチャル~」を続けていきますので、今後ともツアーご参加のほどをヨロシュー!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第32回
    サウス・ダコタ州、ウェスト・バージニア州 + ワシントンDC

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

【サウス・ダコタ州】
Area No.1/Serial No.247
  ラッシュモア・プラザ・シビック・センター
                     /ラピッドシティ
Area No.1/Serial No.248 ホリデイ・イン/スーホールズ
【ウエスト・バージニア州】
Area No.1/Serial No.249
 チャールストン・シビック・センター/チャールストン
Area No.1Serial No.250  ダニエル・ブーン・ホテル/チャールストン
【ワシントンDC】

Area No.1Serial No.251 
 SSマウント・バーノン号出航地点
Area No.2Serial No.252 ホテル・ワシントン
Area No.3Serial No.253 アーミー・ジョイ・ドーナツ跡地

★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」



 熱唱!June 21 1977
Area No.1/Serial No.247 
      ラッシュモア・プラザ・シビック・センター/サウスダコタ州ラピッドシティ

 
 エルヴィスの生涯最後の名唱、熱唱として名高い「アンチェインド・メロディー」の映像が知れ渡っておるライブ会場がラッシュモア・プラザ・シビック・センターじゃ。(上中央写真)映画エルヴィスのクライマックス・シーンにも挿入された映像であり、未だに瞼に焼き付いておる方も多いことじゃろう。時に1977年6月21日、エルヴィスが亡くなる56日前のライブじゃった。

 サウスダコタ州では1950年代は一度もエルヴィスのライブはなく、1976年10月18日とこの日、さらに翌日と3回ライブが行われており、76年10月18日と77年6月22日はラピッドシティの真東約550キロ離れたスーフォールズという街でのライブじゃった。しかしラピッドシティでのライブがあまりにも名高く、スーフォールズのライブ情報はネット上でほとんど無し!

 この日のライブと2日前6月19日ネブラスカ州オマハ・シティ・オーディトリアムでのライブはCBSテレビスペシャル番組「エルヴィス・イン・コンサート」用に映像撮影とライブ録音が行われており、EDDによるとネブラスカ州オマハでのライブは「エルヴィスがこれまで行ったライブの中で最も貧弱なもののひとつであり、ほとんどの部分において支離滅裂なパフォーマンスだった」とされ、一方この日のエルヴィスのパフォーマンスは素晴らしかったとも記されておる。
 テレビスペシャル番組「エルヴィス・イン・コンサート」は、エルヴィスの死から6週間後の10月3日にリリースされた同名ライブアルバムの基礎になった映像作品でもあり、キング・オブ・ロックンロール最後の雄姿が収録されたわけじゃが、何故か「アンチェインド・メロディー」のシーンはTV放映には含まれず、ライブアルバムの収録からも漏れておる。

「1950年代にエルヴィスを10代の少女たちの間で人気を高めるのに貢献した旋律は少なくなり、距離も遠くなったが、次々とゴールド・レコードを売り続けた声は、実際に聴いてみるとさらに良く聞こえた」
(サウスダコタ州地元サイトへの投稿より)

 エルヴィスのライブはラッシュモア・プラザ・シビック・センターのこけら落とし、オープニングイベントとして企画され、ライブ前にはエルヴィスはラピッドシティ市長の訪問を受けて記念の盾を贈呈されておる。
 またモニーク・ブレイブとい10歳のネイティブ・インディアンの子孫の女の子も同席し、彼女はネイティブ・インディアンの居住地だったサウスダコタ州で組織されていた「Sioux Indian Nation」を代表してお手製の“命のメダル”をエルヴィスに贈呈。エルヴィスは御礼にスカーフを彼女に贈ったそうな。(上左写真) インディアンの血が己の中に流れていること、黒人文化から影響を受けたことを隠すことなく、いわば白人社会における人種差別に対しては若かりし日より毅然とした態度で臨んでいたエルヴィスは、モニーク・ブレイブ嬢の訪問を穏やかに歓迎。それがこの日の素晴らしいライブをエルヴィスにもたらしたのかもしれない。このライブ前の訪問者たちとの記念撮影のシーンはyou tubeにアップされておるので御覧あれ。
 サウスダコタ州でのエルヴィスのライブ画像は、ネット上ではラピッドシティとスーフォールズが混同されておる場合が多いが、白いスカーフを巻いておる時がラピッドシティ、青いスカーフ(右写真)がスーフォールズじゃ。


 エルヴィスがオープニング・イベントを飾ったラッシュモア・プラザ・シビック・センターは現在も稼働中。フィールドハウス、芸術劇場、2 つの大きなコンベンション/展示ホール、その他多数の会議室を擁する建物が敷地内にあり、エルヴィスが出演した会場は2021年に「ザ。モニュメント」と改称されておる。
(左写真ストリートビュー2021年9月撮影)


“エルヴィスに最高のベッドで寝て頂きたかった”
 Area No.2/Serial No.248 ホリディ・イン/サウスダコタ州スーフォールズ
 1976年10月18日、1977年6月22日のスーフォールズ・アリーナでのライブの際にエルヴィスが宿泊したホテル。前述の通り、スーフォールのライブはラピッドシティ「ラッシュモア・プラザ・シビック・センター」の話題性に隠れてしまって情報が少ないものの、ホリディ・インに関しては少々興味深いエピソードを発見。
 1976年10月18日はサウスダコタ州での初のエルヴィスのライブであっただけに、地元のマスコミも色めき立ち、アリーナやホテルに待機してファンの動向を取材しており、当時のTVレポーターの様子が「Flashback Friday: Elvis Arrives In Sioux Falls」というタイトルでyou tubeにアップされておる。レポーターはホリディ・インの前からエルヴィス・ニュースを発しておる。

 また1977年の同ホテル宿泊の際は、地元紙「アーガス・リーダー」の取材記事によると、エルヴィスご一行の宿泊にホテル側は大わらわだったそうじゃ!
 エルヴィスが泊まるスイートルームには、地元のデパートから提供された真鍮で縁取られたキングサイズのベッドと枕、白と黒のリネンが急遽用意されたという。なぜこのような騒ぎになったのか?ホリデイ・インにはキングサイズのベッドが無かったのじゃ。(じゃあ、前年の宿泊の際はどうしたのか?っつう疑問は残るが)
 デパートの家具売り場のマネージャーからのコメントは「とにかくエルヴィスに最高のベッドで寝てほしかったのです」じゃった!その後「エルヴィスのベッド」はデパートのショールームフロアに戻され、以前の価格で販売されることになったという。デパートと家具担当者はともに匿名を希望しており、「私たちはエルヴィスのために全力を尽くしたし、お金儲けのためにやったのではありません」と語ったそうじゃ。
 匿名は結構じゃし、エルヴィスが使用したというとんでもない付加価値を付けて高値で売らなかった姿勢は素晴らしいが、せめてベッドの写真ぐらいは公表してほしかったわい!

 スーフォールズのホリディ・インは現在でも稼働中。Google-mapによると3つ星ホテルになっておるが、エルヴィスご一行が宿泊した当時はもっとグレードが高かったのじゃろう。
 建物最上階中央から円形にせり出した部分がスカイ・レストランだったようで(右上写真)、エルヴィスもここで食事をしたのかもしれない。最上階を含む3フロアの上層階を一行は貸切っておった。左写真ストリートビュー2022年5月撮影。


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1975年度最高のライブが繰り広げられた会場!
Area No.1/Serial No.249
          チャールストン・シビック・センター/ウェストバージニア州チャールストン


 エルヴィスが初めてウェストバージニア州にやって来たのは、1975年7月11,12日のチャールストン・シビック・センター(左写真)でのライブの時であり、12日は昼夜2回のライブが行われた。
 この時のツアーに随行していた記者の当時の回想録がネット上で見つかった。それによると1975年のツアーにおけるエルヴィスは好不調の波が非常に大きかったという。ウエストバージニア州初上陸の前夜は、21,000人というツアー中最大の観客の前で素晴らしいパフォーマンスを披露(オハイオ州クリーブランド)。スカーフを実に36枚もファンに手渡し、20人の女性客にキスのサービス!
 ウエストバージニアのライブも好調が維持されると思われたが、11日と12日昼間は標準的な出来。ところが12日のナイトライブはツアー中で最高のパフォーマンスだったそうじゃ。(しかし13日のナイアガラ・フォールでのライブは最悪だったらしい)

 この随行記者の12日の個人的な回想が興味深い。
「エルヴィスは偉大だ。どうしてあんなにも素晴らしいライブを繰り広げながら、あんなにも楽しそうなのだろう。だから観客を魅了してしまうのだ。彼はとても元気でユーモアのある演奏を、果てしなく続くエネルギーで披露してくれた。彼の元気さと力強さで彼はとても幸せで安心しているように見えた。同時にアリーナにいるすべての人々を完全に魅了した。近年のエルヴィスのパフォーマンスに対して懐疑的であり、彼の人格や75年の他のトップスターの優位性について意地悪に口にしていた人たちさえ、突然エルヴィス・ファンに変わり、大声で叫び、座席で飛び跳ねていた」
 

 当時ド派手化に拍車がかかっていたジャンプスーツは、時には同じデザインのスーツをエルヴィスは何日か連続して着用するようになっていたが(その意図は不明)、ウエストバージニア州での合計3日5回のステージではいずれも異なるスーツを着用。11日はホワイト地にレッド・フェニックス(上左写真)、12日昼間はネイビーブルー地にホワイトフェニックス、絶好調だった12日夜はホワイト地にメンフィス・インディアン・フェザーだった。(上中央写真)
 翌1976年7月24日は昼間は袖がホワイトのライトブルー地、夜は袖がライトブルーのホワイト地(刺繍はいずれも孔雀)のスーツを着用しておる。

 チャールストン・シビック・センターはウエストバージニア州有数の大規模なイベント会場として繁盛し、何回かの増築、別種の大型施設の増築を続けて、現在は巨大複合施設の一部になっており、コンサート会場として今も稼働中。近年になってチャールストン・コロシアム・アンド・コンベンション・センターに改称された模様。
右写真はストリートビュー2013年8月撮影。


 ライブ出撃前のキングが“4度”撮影されていたホテル
Area No.2/Serial No.250 ダニエル・ブーン・ホテル/ウエストバージニア州チャールストン
 上記した合計3日(ステージ回数5回))のウエストバージニア州でのライブの際、いずれもエルヴィスの宿泊先はダニエルブーン・ホテル。(左写真)
 1929年にVIP専用の豪華ホテルとしてチャールストンにオープンしたこのホテルは、1930年代の全国的な不況時も第二次世界大戦時も繁盛し、1949年には2度目の拡張工事が行われて、豪華なボールルーム、会議室、465の客室が設けられたという。
 エルヴィスが宿泊した1970年代は地域の経済衰退が始まっており、客足が伸びない時期だったものの、エルヴィスのライブが週末に当たったこともあって、1975年7月11,12日、1976年7月24日いずれも満室になったと伝えられておる。

 ダニエル・ブーン・ホテルとエルヴィスとの“関わり”については、ファンが撮影したと思われる写真が残されておる!いずれも駐車場へ続く裏口から出て車に乗り込む時のエルヴィスじゃ。
 下写真上段3枚はいずれも1975年7月12日昼のライブへ出発するエルヴィス。ネイビーのジャンプスーツに注目!この時の模様は当時ニュースでも報道され、その時の映像がyou tubeにアップされておる。下写真下段左写真は、同日夜のライブへ出発するエルヴィス。
 下写真下段中央写真は、1976年7月24日昼のライブ、下段右写真は同日夜のライブへそれぞれ出発するエルヴィスじゃ。
 両日ともにホテル出発シーンが昼と夜の2回撮影されておるということは、エルヴィスは2回のライブの間の休憩時間に間違いなく一度ホテルに戻っていたという小さな事実の証拠じゃ。

 

 チャールストン地元発信サイトによると、ダニエルブーン・ホテルは1981年に一度閉鎖され、1984年に建物はオフィスビルとして再利用されることになったとされておる。
 現在グールグマップでの表記は「ホテル」とされておるものの、ストリートビューで建物外装をチェックしても「ホテル」の看板はない。
 エルヴィスが車に乗り込んだ裏口付近(右写真右側)のスペースは、外壁が貼り換えられたようではあるが変化はあまりないように見える。エルヴィスが降りていた階段もそのまま!(右写真ストリートビュー2022年11月撮影)


 キング唯一の首都ライブはクルーズ船上だった!
Area No.1/Serial No.251 SSマウント・バーノン号出航地点/ワシントンDC
 アメリカ合衆国の首都であるワシントンDCは、全米50州のどの州にも属さない連邦直轄地であるコロンビア特別区(District of Columbia)であり、バージニア州とメリーランド州を隔てるポトマック川河畔に位置する。
 キング・オブ・ロックンロールと称されたエルヴィスには、生涯に渡ってこのワシントンDCでのライブは僅か1回という意外な事実がある。それは「ハートブレイクホテル」がヒットチャートを昇り始めた頃の1956年3月23日であり、通常の劇場ライブとは異なる趣向で開催されたためか、少なからず特異なアクシデントを巻き起こした伝説のライブとして地元では語り継がれておるようじゃ。

 ライブ会場となったSSマウント・バーノンとは、当時ポトマック川を遊覧していた豪華クルーズ船SSマウント・バーノン号のことであり、マウントバーノンとはワシントンDCからポトマック川を大西洋に向かって約40キロ南下した位置にある、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの大邸宅があるプランテーションの名称じゃ。このマウント・バーノン及びポトマック川の対岸にあった大遊園地マーシャル・ホール・パークとワシントンDC間を遊覧するクルーズ船がSSマウント・バーノン号と命名されておった。(SSとはSteam Ship=蒸気船の略であろう)
 SSマウント・バーノン号は最大で2,400人の乗船が可能の当時最大かつ最高級の蒸気船であり、遊覧時間内に船上で催される様々なコンテストやショーが大人気であり、運航を指揮するウイルソンラインという船会社の収益は莫大だったそうな!エルヴィス&ブルームーン・ボーイズは、このクルーズ船のショウの目玉として招聘されたのじゃ。

 ネット上で公開されておる記録が少なくて詳細は不明じゃが、まず当日は強風が吹き荒れる悪天候であり、また蒸気船運航主要機能の圧力バルブが故障しており、当日の運航自体が危ぶまれる状況にあったという。また「エルヴィス出演」ということで、乗船時間よりも早く桟橋に集まった数百人を越える若者たちの“熱い騒ぎっぷり”によって、船員たちが安全運航を保証出来そうもないと運航に反対し始めたそうじゃ。ちなみにわしも「エルヴィス・クルーズ船上でライブ」という事実を知った際、すぐに「果たして無事の運航が出来たのじゃろうか?」って思ったわい!

 困り果てた主催者側は夜になってSSマウント・バーノン号の出航中止と、停泊したままの船上でエルヴィスを含むミュージックライブを2回に渡って行うという代替え案を発表。「お気に召さない場合は乗船料をお一人様につき2ドル返金致します」とまでしてこの緊急事態の収拾を図った。コニー・B・ゲイという船上ミュージックライブの企画者自らがドルの現金を持って桟橋の入口に立ち、約100人の希望者たちへの返金作業に追われたという!
 最終的に何人が乗船してエルヴィスのライブを船上で体験したかは不明じゃが、SSマウント・バーノン号のメイン宴会場であるガラス張りの室内デッキでライブは行われ、停泊中にも関わらずSSマウント・バーノン号は“激しく揺れていた”と言い伝えられておる。
 エルヴィスはギターの弦を3本折るほどの熱演をしたが、観客に対しては非常に愛想が良く礼儀正しく振舞ったらしい。残念なことは、この希少なエルヴィスの船上ライブの写真がネット上で僅か1枚しか見つからなかったことじゃ。(左写真)

 「カントリーミュージック界の若きスター、エルヴィス・プレスリーが首都ワシントンDCに登場」という恰好のネタに対して、何故RCA側やパーカー大佐は充分な記録/報道体制を敷いていなかったのじゃろうか?その謎を解くカギのひとつは、当時のエルヴィスのスケジュールじゃ。翌3月24日はニューヨークでのTV番組「ドーシーショウ」の出演が予定されており、その後ハリウッドに行ってスクリーン・テストを受けることになっておった。
 更に4月3日はサンディエゴで、西海岸で最も人気の高かったTV番組「ミルトン・バーレー・ショウ」に出演。(ちなみにこれも船上ライブ!)RCA上層部も大佐も全米に向けてのエルヴィスの大々的なプロモーションの段取りを重視したあまり、(推定)観客数1,000人にも満たないワシントンDCのライブのサポートを疎かにしてしまったのかもしれない。

 事実、この船上ライブの主要な段取りをしたのは、上述した返金作業に携わったコニー・B・ゲイという当時の有名DJじゃ。(右写真)元々船上ミュージックライブを売りにしていたSSマウント・バーノン号のクルーズに目を付けていたコニー・B・ゲイは実業家としてかなりの手腕の持ち主であり、グランド・オール・オープリに対して強力なコネクションを持っており、オープリーのスターたちを集めてアメリカ東海岸地域において多彩なミュージックジャンボリーを企画して成功を収めておった。エルヴィスのSSマウント・バーノン号ライブも彼の主導の元に実現した企画じゃった。

 コニー・B・ゲイという名でピン!とキタ方はすごいミュージック・マニアじゃ。ラジオの担当番組を使って、ヒルビリー・ミュージックを初めてカントリー・ミュージックと表現した方なのじゃ。
 コニー・B・ゲイ個人を調べてみると、意外なことにエルヴィスやロックンロールにはあまり興味がなかったようで、エルヴィスに対して「RCAと巨額の契約を果たした将来性豊かな若手シンガー」以上には評価していなかった節もある。よって船上ライブが満員になればそれでいいって程度に考えていたのかもしれんな!
 ちなみにエルヴィスのニューヨーク進出に尽力していたパーカー大佐も、TV出演以外には大型ビジネスの成立には当時は四苦八苦していたようで、ニューヨーク周辺の東海岸地域のエルヴィス・プロモーションをコニーに委ねる契約を持ちかけたことがあったそうな。この大佐の要請に対するコニーの返答は「腰振りシンガーのプロモートには興味ないね」と結構すげなかったという。

 なおワシントンでコニーが担当する毎日3時間のラジオ番組「タウン&カントリー・タイム」に、エルヴィスは船上ライブ前に出演しておる。この番組の司会者であり、カントリーシンガーだったジミー・ディーンとエルヴィスとの当日の2ショットが2枚ネット上で拾えた。(左写真、下写真)エルヴィスはカメラを意識し過ぎてかなり緊張していたそうで、ディーンのインタビューに対しても「イエス、ノー」以外の返答が出来ないほどだった。後にエルヴィスはこの件に対してディーンに謝罪したという。
 長きにわたって多彩な催しを擁したクルーズで人気を博したSSマウント・バーノン号は、1962年に船体の破損により停泊中に船体が部分的に水没するという事態になった。
 やがてクルーズ船として機能不可となり、海難救助権は1967年に国際船員組合に売却され、チャールズ S.ジマーマン号と改名され、ハリーランドバーグ船員学校の水上寮として再使用するために改装。80年代のうちに廃船となったようじゃ。

 上述の通り、エルヴィスが演奏したSSマウント・バーノン号の船体は既に存在しないが、演奏中に停泊していたポトマック川沿いの「第4桟橋」は現在も稼働中。右写真左側が「第4桟橋」の入口。入口を抜けてSSマウント・バーノン号へ乗り込むための橋げたが右写真右側。(いずれもストリートビュー2019年5月撮影)現在は別個の船会社によるクルーズ船がこの桟橋で発着しておる模様。



キング初の“単独旅行”で飛び込み宿泊したホテル
Area No.2/Serial No.252 ホテル・ワシントン/ワシントンDC
 エルヴィスとワシントンDCとの関わりでもっとも有名なエピソードは、後に映画「エルヴィスとニクソ~写真に隠された真実」の題材にもなった、エルヴィスが当時のニクソン大統領とホワイトハウスで会見したことじゃろう。
 スーパースターになってから初めてともいえるこの単独行動の際、エルヴィスがワシントン滞在中に利用したホテルがホテル・ワシントン(現W・ワシントンDC)じゃ。エルヴィスは恐らく「部屋ある?」って飛び込みで宿泊を申し込んだはずじゃ。
 さすがに政府官邸の目の前だけに、ホテルワシントンは外観も内装も荘厳そのもの。歴史的な格式に彩られた超高級ホテルであり、その場所はホワイトハウス敷地の東側を走る15thストリートを隔てた真向いであった!

 エルヴィスがどういった経路でホワイトハウスの建物内に入ったかは分からんが、仮に一般的にホワイトハウス正面と言われるラファイエット広場を通ったならば、ホテル・ワシントンの西側出口からラファイエット広場東側入口まで徒歩5分の至近距離じゃ。エルヴィスは5階のお部屋に宿泊したという証言が多く、部屋番号は505,506もしくは508だったらしい。(左上写真、左側がホテル・ワシントン、右側がホワイトハウス)

 EDDによると、1970年12月19日グレースランドにて父バーノンと妻プリシラから病的な浪費癖を咎められたエルヴィスは、ほとんど突発的にグレースランドを飛び出し、空路によりワシントンDCへ向かい、ホテル・ワシントンにチェックイン。当日夜、今度はワシントンDCから空路ロサンジェルスへ。12月21日早朝にはワシントンへ戻り、その日のうちにニクソン大統領との会見を果たした。
   
 
 そして22日にはエルヴィスはグレイスランドへ戻ったとされておる。その間ホテル・ワシントンはチェックインしたままであり、ホテルの記録上エルヴィスは12月19日から21日まで3泊宿泊したことになっておる。
 なおEDDには12月22日付、エルヴィスの署名入りのホテルの請求書写真も掲載されておる。(右写真)この請求書はエルヴィスがチェックアウトした22日の発行であることは間違いないが、宿泊した3日分、もしくは前日21日分のみの請求なのかはどうもよく分からない。
 請求金額は1426.76ドル!1970年当時は日本円は米ドルに対して固定相場制だったので1ドル360円換算すると513,630円!一緒にニクソン大統領と会見したソニー・ウェストやジェリー・シリング、またガールフレンドのジョイス・ボヴァ嬢の宿泊料も含まれておるとしても、半世紀前の宿泊料として目の玉の飛び出るような金額じゃ。グレースランドを飛び出した理由が、凄まじい浪費癖を父と妻から非難されたことだったのにのおって大きなお世話じゃな!

 ワシントンDCに単独で行って、さらにニクソン大統領にまで会いにいったエルヴィスの真意については、映画「エルヴィスとニクソン~写真に隠された真実」でもあれこれ詮索されておるが、エルヴィスが突然ホワイトハウスに訪れた日にニクソン大統領がホワイトハウスで執務中だった事自体が偶然以上の奇跡であり、さらに時の大統領がエルヴィスの要請を短時間のうちに受理したという事実は、当時のエルヴィスの存在がいかにアメリカで絶大だったかを物語っておる。

 ホテル・ワシントンは現在でもホワイトハウス横にご健在中!内部のリノベーションは頻繁に行われておるようじゃが、外装は往年のまま。ホワイトハウスの侍従武官のごとく寄り添って屹立しておる。(左写真ストリートビュー2022年11月撮影)ホワイトハウスに面した西側入口には、旧名「Hotel Washington」の表示が残されておる。
 ちなみに現在のホテル探しアプリでチェックしたところ、もっとも安価なお部屋で一泊約45,000円でごぜーました!


大統領と会見!の一方で、GFとデートはドーナツ屋さん!
Area No.3/Serial No.253 アーミー・ジョイ・ドーナツ跡地/ワシントンDC
 ホワイトハウス&ホテル・ワシントンのお次はドーナツ屋さん!このギャップが「バーチャル~」のオモシロさって感じて頂けたら嬉しいわい!
 アーミー・ジョイ・ドーナツは、その名の通り軍隊(アーミー)向けのドーナツ・デリバリー専門店っていうのは冗談じゃが、ネットで画像検索すると、確かに大勢集まった軍服姿の軍人さんがドーナツを手に談笑しておる写真がたくさんヒットする!
 このドーナツ屋さんとエルヴィスとの関わりは、実はエルヴィスの突然のワシントンDC行きの本当の理由を解き明かす小さな証拠としてファンの中では時折取り沙汰されてきた。
 “本当の理由”というよりも“当初の理由”は、当時のガール・フレンドの一人だったジョイス・ボヴァさんに会いたかったから、という説が案外強い。確かに、父バーノンと妻プリシラから「お金使いすぎ!」って怒られちゃったからって、「バーロー!俺を誰だと思ってけつかんねん!!チキショ~大統領に言いつけてやるう~」ってなったってのはちょっとハナシが飛躍し過ぎとは思えるな。

 エルヴィスとジョイス・ボヴァさんはラスベガス公演の際に知り合ったものの、一旦は口喧嘩をして別れたという。しかしエルヴィスはいたくボヴァさんを気に入っており、彼女の勤め先がホワイトハウスだったのでワシントンDCへ飛んでっちゃったってことにもなっておる。まあワカランでもない行動ではあるな。
 口喧嘩の際にボヴァさんの連絡先が記されたメモを捨ててしまったエルヴィスは、結局はワシントンDCでボヴァさんとメデタク再会。その時のデートの場所がアーミー・ジョイ・ドーナツだったのじゃ。映画「エルヴィスとニクソン」で、エルヴィスがこのドーナツ屋さんに入るシーンがあるが、実際にはお店の前の駐車場でエルヴィスに気が付いたファンと一緒にたむろっていただけだったらしい。運転手が気を利かせてエルヴィスとボヴァさんのためにドーナツを買いに行ったということじゃ。この辺の詳細は近年のボヴァさんへのインタビューで明らかにされておった。
「最初は私に会うためにワシントンに来たってエルヴィスは言ってたわよ。ニクソン大統領と会見するっていうのは、また別のオハナシよ」とボヴァさんは言っておりました。真実はどうであれ、まあ天下のエルヴィスの元ガールフレンドとしてはそう言いたいじゃろうな!

 アーミー・ジョイ・ドーナツはホワイトハウスからは車で20分ほどの距離にあり、ボヴァさんの案内でエルヴィスは同行したのじゃろうか?その跡地は後にKFCになったとボヴァさんは語っておったが、ストリートビューで確認してみると2018年3月撮影時点では空地になっておった。(左写真)
 それにしても、アーミー・ジョイ・ドーナツ跡地の背景に広がる青空を見ていると、時の大統領との会見という歴史的一大事をあっさりと実現させながらも、その一方でドーナツ屋さんでガールフレンドとデートしていたって、ある意味でこうした極端な二面性がエルヴィスの人間的な魅力だったって思いに駆られてしまう!またそれが幅広いタイプの楽曲を歌いこなせたエルヴィスの未曾有の歌唱力と編曲センスの源だったのかもしれないとまで言ったら、諸君に笑われてしまうだろうか!?


     
   
 
   


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