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「バーチャル・ロックンロールツアー」がスタートしてから34回目、約1年半の歳月の末についに「アメリカ経済の中枢」にして「エンターテイメントのメッカ」ニューヨークへ突入することになった!“バーチャル・ツアー”とはいえ、わしもチョット緊張してきたぞ! ニューヨークってのは大人の街だ。最初は“おととい来やがれ”って感じで相手にもされない。恋をするには何度も行かないとならない。でも不思議と何度も行ってしまうんだ。ストリートにはいつも“愛想のいいネエサンたち”がいるし”、行くたびに「お~ニューヨークに戻ってきたぜ!」ってなるから、バカみたいに何度も行っちゃうんだよ!(映画「ザ・バンド・ラストワルツ」より) “愛想のいいネエサンたち”がいるだとお?わしゃ~学生時代にニューヨークに行った時、安ホテルから出た途端にドギツイ化粧したソフィア・ローレンみたいな娼婦に腕を組まれて腰を抜かしちまったぜって何を言わせる! まあ「おととい来やがれ」ってのは言い得て妙じゃな。エルヴィスじゃろうが、この七鉄じゃろうが(笑)、ニューヨークってのは初心者には極めてハードルが高くて冷たいような街じゃ。でもその独特な排他的な雰囲気がよそ者の情緒の“ある片隅”を揺さぶるのもまた確か!我らがエルヴィス・プレスリーは如何にしてニューヨークに出撃し、そして征服していったのか。その辺も視野に入れながら、前・中・後編の3回に分けてニューヨークのエルヴィスゆかりの地へと諸君をご案内致そう! なお一般的にニューヨークと呼ばれる地域は、摩天楼がひしめくマンハッタンを中心としたニューヨーク市じゃが、「バーチャル~」においては、広くニューヨーク州全体におけるエルヴィスの軌跡を追っていくので、どうぞヨロシク!
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時期尚早?デビュー間もないエルヴィスが見向きもされなかったオーディション会場 Area No.1/Serial No.260 CBSタレントスカウト・オーディション・スタジオ跡地 「バーチャル~」第30回オハイオ州前編(Area No.1/Serial No.235 ザ・サークル・シアター跡地/クリーブランド)にて、駆け出しのエルヴィスの巨大な才能を見抜いた当地のDJ、プロモーターだったビル・ランドルが、さっそく自らのニューヨークへの強いコネクションを使ってエルヴィスへ有名タレントスカウト番組のオーディション参加の段取りをつけたことをご紹介した。今回のニューヨーク州へのツアーはここからスタートさせよう。 ニューヨークのタレントスカウト番組とはアーサー・ゴドフリーなる司会者が担当するTV番組「アーサー・ゴドフリー・タレント・スカウト」。1958年7月まで毎週月曜日夜8時半から9時までのゴールデンタイムに放映され、明日のスターを夢見る若きアーティストたちにとっての絶対的な登竜門であった。アーサーは他にも水曜日の夜に「アーサー ゴッドフリーとその仲間たち」、更に平日の朝1時間半のテレビ番組も持っておったというから絶大な人気司会者だったのじゃ。番組収録の場所はエド・サリバン・ショーで有名な「スタジオ50」じゃった。 ビル・ランドルのススメによって、1955年3月23日エルヴィスはこの番組に出演するためのオーディションを受けに生まれて初めて飛行機に乗ってニューヨークにやって来た。ビル・ランドルとエルヴィスが初めて会ったのが、先述したクリーブランドのザ・サークルシアターでのライブ後(1955年2月26日)であり、それからわずか一ヶ月のうちに大スターになるための大きなチャンスがエルヴィスに巡って来たのじゃ。ステージデビューしてからもわずか8ヶ月あまり後の大舞台である! 当時のマネージャーだったボブ・ニールの回想によると、オーディション参加が決まってから急遽エルヴィス、スコッティ、ビルの飛行機代をかき集めたんだそうじゃ。またこのオーディションに合格して「アーサー・ゴドフリー・タレント・スカウト」で優勝した場合は、その後3週間に渡ってアーサーの朝の番組に出演出来るという好条件だったので、当時はまだコンサルタントとしての立場だったパーカー大佐からは「エルヴィスが優勝した場合は、その後のニューヨーク滞在中の経費を負担する」という言質をとったともボブ・ニールは語っておった。一説によると、さらにその後のエルヴィスのマネージメント権利をパーカー大佐へ譲渡するという口約束もあったとか。 エルヴィスらブルームーンボーイズがオーディションにやってきたのは、CBS本社ビル(左写真)の近くにあった別ビルのセカンド・スタジオともいうべき場所であり、到着時間は午後2時半頃だったという。 オーディションの結果は散々というか、CBS側はエルヴィスに対して何の興味も示さなかった。アーサー・ゴドフリーの女性アシスタントは、あくびをしながら「わざわざ来てくれてありがとう」とだけコメントしたという・・・。さらに帰り際に「電話なんかしてこないでね。(合格だったら)こっちから電話するから」と将来のキング・オブ・ロックンロールの背中に非礼な言葉を浴びせた。少年エルヴィスの初のレコーディングを聞いて「この子は何かが違う!」って直感したサンレコードのマリオンおねえさんとはエライ違いじゃのお!ちなみに、後にバディー・ホリーもオーディションを受けて不合格じゃったらしい。 このオーディションの時の写真、またスタジオの入ったビルやエルヴィスのニューヨーク滞在中の写真もまったく見つからなかった。滞在したホテルも不明じゃ。 スコッティはオーディション不合格という結果は大して気にもしていなかったらしく、あまり記憶もなかったそうじゃが、エルヴィスはCBS側の非礼な態度には結構ショックを受けていたらしい。それは礼儀正しくて元気なロックンロール・ボーイから、エルヴィスが大人の世界を知ることによって“男”に成長し始めたひとつの証であるとSMWは記しておる。 オーディション・スタジオの入ったビルの住所は501 Madison Av.、セントラルパーク南端からほど近い位置にあり、現在は複合商業ビルになっておる模様。このビルの14階の一画にスタジオが入っておった。(右写真ストリートビュー2022年8月撮影)CBS本社ビルは徒歩1分の485 Madison Av.にあった。 オーディション落選にもめげずに、エルヴィスは黒人音楽のメッカへ Area No.2/Serial No.261 アポロ・シアター 1955年3月23日、上述の通りオーディション不合格となったエルヴィスは、初めて訪れたニューヨークで一泊し、ツアーを再開するために翌日にメンフィスへ戻った。 この僅かなニューヨーク滞在中、エルヴィスは観光客気分が抜けずに、オーディション前には摩天楼を見て回ったりはしゃいでいて、服装もだらしなくて重要なオーディションに対して完全な準備不足だったという説もある。大都会でおのぼりさんになったというのはわからんでもないが、服装がだらしなかったという説は信じ難い! またエルヴィスはオーディションの後にハーレムにあるアポロシアターに出かけて、ボ・ディドリーのライブを観たという情報も残されておる。スコッティはエルヴィスの行動を記憶していないが、「エルヴィスだったら絶対に行ったはずだ」と語っておる。 試しに当日のアポロシアターの演目を調べたところ、間違いなくボ・ディドリーは出演しておった。ボ・ディドリーは当年年初に発表したデビューシングルがヒットチャートを登り始めた時期であり、アポロシアターで約1週間のロングラン・ライブを開催中であった。 エルヴィスがボ・ディドリーと会った記録や写真は無く、関係資料としては、最晩年の1977年にボ・ディドリー風に帽子を被っておどけているエルヴィスの写真を発見!ボ・ディドリーはエルヴィスにとってアイドルだったようじゃな。(右写真) 黒人音楽のメッカとして名を馳せたハーレムのアポロ・シアターは、幾多の改装を繰り返しながら現在でも存続中。(左写真ストリートビュー2022年6月撮影) 70年代にはニューヨークで何度もビッグ・ライブを開催しておるエルヴィスじゃが、その頃にアポロ・シアターに出かけたという記録はない。若きエルヴィスがオーデション不合格にもめげずに、まるで自分の音楽の原点を確認するようにボ・ディドリーを観に行ったという説はファンとしては信じておきたい! |
大ヒット曲連発のロケットスタートはここから! Area No.3/Serial No.262 RCAビクタービル/RCAニューヨーク・スタジオA跡地 1955年11月21日、メンフィスにてエルヴィスとRCAビクターの契約(サンレコードからの契約譲渡)が成立。その10日後、11月30日にエルヴィスとパーカー大佐はニューヨークへ飛び、翌12月1日RCAビクターのお偉いさんたちと会見。場所は大小2つのスタジオや様々な施設が入った通称RCAビクタービル。(上左写真) この日RCAはウイリアム・ポプシー・ランドルフという名のカメラマンも呼び寄せ、後にファーストアルバムの裏ジャケット用の写真の撮影もスタジオAで行われておる。(下写真)この時はレコーディングの予定はなく、エルヴィスが抱えておるギターはスタジオA内に保管されていた物。ファーストアルバムの裏ジャケには4枚の写真があしらわれておるが、他のショットもかなり存在しておる。スタジオBでの撮影写真は以降も一度も行われなかった模様。 1956年3月17日からエルヴィスの写真撮影をスタートさせたカメラマンのアルフレッド・ワートハイマーによるスタジオAの回想は以下の通りじゃ。 「スタジオは1930年代のSF映画のセットのようだった。モノリシックな半円筒でリブを施した吸音タイル壁でできた大きな長方形の空間でした。高い天井は、より多くの平行な円柱と 2 本の蛍光灯のパイプによって波打っていました。部屋の中央には、ミュージシャンたちが楽器を置いたカーペットが置かれていました」 再びRCAスタジオAにエルヴィスがやって来たのは、1956年1月28日ドーシー・ブラザーズ・ステージ・ショーで全米テレビに初出演した後、1月30日月曜日午前11時から7時間、1月31日には3時間のレコーディング。これらのセッションにより「ブルー・スエード・シューズ」「マイ・ベイビー・レフト・ミー」、「ワンサイド・ラヴ・アフェア」、「ソー・グラッド・ユーアー・マイン」「アイム・ゴナ・シット・ライト・ダウン・アンド・クライ・オーバー・ユー」、「トゥッティ・フルッティ」が完成。 更に2月3日、エルヴィスは翌日の「ドーシー・ショー」に2度目の出演する前に2曲を追加レコーディング。そして1956年7月2日月曜日、スティーブ・アレン・ショーに出演した後にスタジオにやって来て、7時間以上かけて「ハウンド・ドッグ」と「ドント・ビー・クルー」を完成させた。 1956年度エルヴィスはニューヨーク、及びニューヨーク州では一度もライブを行っていないという意外な事実があるが、TVショー出演の際には上述通り必ずその前後にスタジオで長時間のレコーディングを実施しておる。RCAニューヨーク・スタジオAのレコーディング環境や録音機器をエルヴィスが殊更気に入っていたというエピソードは見つかっておらんが、プロデューサーのスティーブ・ショールズを遥かに越える異常な熱心さで長時間のレコーディングをこなしたエルヴィスであった! 上写真4枚は、いずれも1956年7月2日撮影。この日がエルヴィスにとってニューヨークでの最後レコーディングになった。 RCAニューヨークスタジオは、1969年に別の場所へ移転。1980 年代に、建物と周囲の土地は CUNY (ニューヨーク市立大学) に買収された後に1990 年代後半まで使用されたが、大学の拡張時にブロック全体が取り壊された。 旧RCAスタジオが入ったビルが取り壊される前はスペースは空き家だったものの、ハリソン・フォードとブラッド・ピット主演の 1997 年の映画「デビルズ・オウン」の撮影に使用するために一時的にレンタルされた。現在、バルーク大学の新しいキャンパス、大学施設の建物によって周囲は占められておる。右写真はストリートビュー2022年11月撮影。 |
最初のRCAニューヨーク訪問時の宿泊先だった質素なホテル Area No.4/Serial No.263 ビクトリア・ホテル跡地 エルヴィスが初めてニューヨークのRCAスタジオを訪ねた1955年12月1日の様子を伝えるウェブサイトには、ほぼ例外なく最初に「エルヴィスはパーカー大佐とともに、その前日にビクトリア・ホテルにチェックイン~」と記載されておる。見栄っ張りの大佐であり、しかもRCAと大型契約を果たした直後なので、ビクトリア・ホテルとはさぞかし豪華なホテルだろうと予測したが、これが見付けるのにひと苦労した(笑) 「new york victoria hotel」でウェブ検索をかけると、すぐにブロードウェイ界隈の幅広い敷地を占拠していた老舗の荘厳なホテルがヒットするものの、詳細を確認すると1914年に閉業、取り壊しとなっておった。 それから思いつくままの検索ワードでしばしネットチェックしたところ、同名のホテルがニューヨークに存在していたことを写真検索で発見(上写真)。しかし詳細は分からず往生していたところ、Victoria Hotelの看板の後ろにもうひとつAbbey Hotelという袖看板があることに気が付き、Abbey Hotelでも検索したところ、正体が判明! エルヴィスと大佐が宿泊したと思われるビクトリア・ホテルは、タイムズ・スクエアまで徒歩4分、RCAスタジオまでは車で10分ほどの距離にあり、立地的にはニューヨークのど真ん中に位置する(多分)中級クラスのホテルだったようじゃ。 アビーホテルはビクトリア・ホテルに隣接しており、こちらは庶民価格の安ホテルだった模様。Victria/Abbey Hotelと両ホテル名を併記しているオールド・ホテル・サイトもあり、提携していた可能性もあるが、エルヴィスと大佐が泊まったのはビクトリア・ホテルの方じゃろう。 タイムズ・スクエアが近いこともあり、ホテル周囲は今も昔も昼夜問わずかなり騒々しくて多少はイカガワシイ地域であり(下写真中央)、ビクトリア・ホテルの方は宿泊客が外界の喧噪から遮断されて落ち着けるようなロビーの造りになっておったらしい。(下写真左側)) ビクトリア・ホテルは1984年頃に閉鎖、取り壊しになった模様。現在跡地にはシティ・バンクの建物がある。右写真右側ストリートビュー2022年8月撮影。 エルヴィスの宿泊中に多くの写真撮影が行われたワーウィック・ホテルは、1956年1月末の滞在から利用されることになる。ワーウィック・ホテルは次回ご案内の予定じゃ。 |
エルヴィスの存在を全米に知らしめた栄光のTVスタジオ Area No.5/Serial No.264 CBS TVスタジオ50/エド・サリバン・シアター Point-1 TV番組用ステージ CBS TVスタジオ50は1967年にエド・サリバン・シアターと改称された通り、「エド・サリバン・ショー」も行われていた場所じゃ。エルヴィス&ブルームーンボーイズは「エド・サリバン・ショー」には1956年10月28日、1957年1月8日に出演しておるので、当時の超ハードなツアースケジュールの合間を縫うようにニューヨークの同じスタジオに8回もやって来て全国に向けてパフォーマンスをしたのじゃ! 「エド・サリバン・ショー」は1956年9月9日が初演になるが、この日はエルヴィスが西海岸に滞在しながらの映画「ラブミーテンダー」の撮影期間だったこともあり、ハリウッドのCBSテレビジョンシティでの出演となっておる。 SMWによると、バンドはドーシー・オーケストラの真正面にあるステージのエリアでセットアップされ、DJのドラムとスコッティとビルのアンプは小さなプラットフォーム(演壇)に設置された。バンドのパフォーマンスは 2台 (あるいは3台)のテレビカメラ(1台はクレーンに設置) で撮影された。「CBS TVスタジオ50」における最初の2回の出演では、バンドはすべて自分たちの楽器を使って演奏。 3回目、4回目、5回目の出演では、ビルはレンタルしたベース(3回目と4回目、5回目では異なる)を使用し、DJはレンタルしたドラムセットを使用した。また5回目と6回目では、エルヴィスはD28の代わりに時折使用するマーティンD18を使用して演奏。6回目と最後のステージショー出演では、バンドはすべて自分たちの機材を使用して演奏したとされておる。 「ドーシー・ショー」や「エド・サリバン・ショー」などのバラエティ番組は、生の観客の前でステージで生演奏されており、原則として軍隊に勤務している人には優先的に公演への入場が与えられたそうな。 エルヴィス初演を観たニュージャージー駐在の軍人の一人はこう語ったという 。 「私は土曜日の夜にドーシー・ショーによく行きました。エルヴィス・プレスリーがそのショーで全国テレビデビューを果たしたときもそこにいました。私はエルヴィスを聞いたこともなかったので、彼がステージに現れたときはびっくりしました、そして何百人もの女の子が叫び始めました!」 ※(上写真3枚は、ドーシーショー出演時) SMWによる「エド・サリバン・ショー」の方の特筆事項は次の通り。 1956年10月28日ニューヨークでのショーに際、当時のヒット曲「ドント・ビー・クルーエル」「ラヴ・ミー・テンダー」「ハウンド・ドッグ」を演奏しながら、エルヴィスは主に10代の聴衆から歓喜の叫び声を受けた。今回、彼はリーバー&ストーラーの「Love Me」をプレイリストに追加。エルヴィスのインスピレーションに満ちたパフォーマンスと、腰の振りと官能的な回転に対する評判の高まりにより、CBSの検閲官は、次のエド・サリバン・ショー(1957年1月6日)では、エルヴィスの腰から上だけを撮影すべきであると判断した。 最後のサリバン・ショーでもエルヴィスは通常通りのパフォーマンスを披露。ショーが何事もなく終了した後、エド・サリバンはエルヴィスを「本当にまともな良い子だ」と宣言。サリバンはその独特のスタイルでさらにエルヴィスに感謝の意を表し、「大物アーティストとの番組で、あなたと過ごした以上に楽しい経験をしたことはありません。あなたは全く問題ないです(You're thoroughly all right)」と付け加えたという。 ※(上写真3枚はエド・サリバン・ショー出演時) 「CBS TVスタジオ50」は60年代に入っても、「エド・サリバン・ショー」へビートルズ、ローリング・ストーンズ、ドアーズらの若手人気ロッカーたちの出演が相次ぎ、その存在も番組も隆盛を極めたものの、1971年にエド・サリバン・ショーが終了すると急速に衰退した末に閉鎖となった。 取り壊しも噂される中、90年代に入って長年シアターをレンタルしていたCBSが買収。1,200席あった客席を400席に減らす等の大改装が施され、最新の設備を導入した新時代の劇場に生まれ変わって現在に至っておる。右写真は大幅に改装された正面入り口(ストリートビュー2022年8月撮影) |
約60年前にファンが群がった場所は、現在もほとんどお変わりなし! Area No.5/Serial No.265 CBS TVスタジオ50/エド・サリバン・シアター Point-2 53rdストリート側出入口 「CBS TVスタジオ50」はブロードウェイと53rdストリートの交差点西側に位置しており、正面入口はブロードウェイ側にあり、53rdストリート側には別の小さな出入口があった。(上写真左側、STAGE ENTRANCEの看板あり)恐らく出演者や会場関係者たち専用の出入口だったのじゃろうが、上写真3枚で御覧の通り、エルヴィスはここでファンとの交流を楽しんでおる。 上写真中央の真ん中あたりを拡大すると、エルヴィスが背にしている扉に「219」という番地プレートが貼られておりのが見えてくるが、この番地プレートは現在でもそのまま。2022年8月撮影のストリートビューでも確認出来る。右写真、赤丸部分が「219」のプレートが貼られた扉であり、エルヴィスはこの前に立っていたのじゃ。 「219」の扉は元より、この53rdストリート側の外壁等は1956年当時とほとんど変わっていない。エルヴィスの上部で点灯している「STAGE ENTRANCE」の看板は取り外されておるようじゃ。 |
エルヴィスがホースシューリングを購入した記念すべきバックステージ Area No.5/Serial No.266 CBS TVスタジオ50/エド・サリバン・シアター Point-3 バックステージ エルヴィスがリングを購入した日付は1956年3月17日、ドーシーショー出演前のリハーサルと本番の合間の休憩時間だった。売り手さんはニューヨークの宝石商という以外は何も分かっていないようじゃ。The-Kingのボスが長年必死に宝石商の正体を探っておるから、いつの日か分かるようになればええがな。まあニューヨークに行ってみないと尻尾もつかめないかもしれんが・・・。 エルヴィスは約ひと月前のドーシーショー出演の際にこの宝石商にリングのオーダーをして、この日はいわば納品日だった。 また宝石商は、リング受け渡しの際にエルヴィスに向かって「あなたは、このリングをもう2個買うべきだ」と勧めたものの、エルヴィスに却下されたなんて小さなエピソードもある。 このバックステージがスタジオ内の何処にあったのか。それはスタジオ全体が大幅な改装がされてしまったために、工事関係者にでも聞かないとワカラン事じゃが、常識的に考えて、上述した53rdストリート側の出入口からエルヴィスも宝石商もスタジオ内に出入りしていたはずなので、この出入口から近い位置にバックステージがあった可能性は高い。 このバックステージでの写真は、かの有名なカメラマン、アルフレッド・ワートハイマー氏撮影によるものじゃ。アルフレッド氏が亡くなる半年前の2014年4月、彼がエルヴィスの写真撮影を依頼されて、エルヴィスと初めて会うことになった時の思い出を語ったインタビューが見つかった。アルフレッド氏の回想によれば、ホースシューリングが購入されるこの時が、エルヴィスとの初対面だったという。インタビューの内容を丸ごと引用しておこう! 「エルヴィスは顔すら上げなかったから、第一印象は最悪だったよ。ダイヤモンドをちりばめた馬鉄型の金のリングしか見ていない。新しい幸運のお守りに夢中だったんだ。下を向いたまま私の顔も見ずに、小さく(撮影を)『OK』とつぶやいただけだった。楽屋にはひとりの中年の宝石商が気まずそうにうろうろしていた。テーブルの上に足を乗せて座っていたエルヴィスは、裾からアーガイル柄のソックスをのぞかせた格好で、自分の指をじっと見つめていた。そうか、この中年男はエルヴィスの注文したリングを持ってきた宝石商なんだと気がついた。エルヴィスはリング以外のことにまるで関心がないかのようだった。ひとつのことに没頭すると周りがまったく見えなくなるタイプなのだ。おかげで、素晴らしい写真が生まれることになった訳だけれどね」
現在ストリートビューで現エド・サリバン・シアター内を閲覧出来るが、正面入口付近のレストラン・スペース以外は、ステージ会場は機材のセッティング中、それ以外は工事中の写真ばかりであり、現在のバックステージすら何処なのかも分からないので、現状写真の掲載は割愛させて頂くので悪しからず。左Googleマップ位置マークの情報は、上記の53rdストリート側出入口と同じにしておくぞ。 ホースシューリング無くしてThe-Kingブランド無し!とも言える我々にとっては絶対的なアイテムなので、それが初めてエルヴィスの手に渡った場所は、ニューヨークに行けたならば真っ先に突き止めてみたい。その後のミッションは、もちろん宝石商の正体の追求じゃ! |
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