NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.416


第36回 エルヴィスゆかりの地~ニューヨーク州後編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)



  全米一のエンターテイメントのメッカ、ニューヨーク市を含むニューヨーク州におけるエルヴィスゆかりの地巡りの第3回目(後編)、これにて同州のツアーはラストになるぞ!
 1970年代にエルヴィスはキング・オブ・ロックンロールとしての威信をかけて臨んだような素晴らしいライブをニューヨーク州で何度も行っておる。当時日本のマスコミでもエルヴィスは完全に別格扱いされており、それ故に日本に入ってくる情報が却って少なかったものじゃ。ビートルズ、新進のレッド・ツェッペリンやピンク・フロイドの遥か上、まるで雲の上でエルヴィスは活動をしておるようなイメージを持ったものじゃった。今回はその“雲の上”辺りの軌跡、足跡をメインに巡ってみたい(笑)
 50年代のニューヨークではTV番組の視聴率稼ぎに利用された感も強かったエルヴィスじゃが、70年代は完全にニューヨークのマスコミ、オーディエンスを征服しておった。エルヴィスが今もなお全米でキングと称され続けるその所以が70年代のニューヨークでのライブに凝縮されておると言えるじゃろう。
 ニューヨーク州編をやる前は、わしは心の何処かで妙にビビッテおったが、なにはともあれ3回も皆様をご案内出来るようにはなった。書籍と違ってネット上での掲載内容には色々と制限が多いので皆様に堪能して頂ける内容とはとてもいえないが、どうかニューヨーク州編を最後までお楽しみ頂きたい!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第36回 ニューヨーク州後編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。


Area No.12/Serial No.273
  バッファロー・メモリアル・オーディトリアム跡地
                           /バッファロー
Area No.13/Serial No.274  ブルックリン・アーミー・ターミナル/ブルックリン
Area No.14/Serial No.275
 ニューヨーク・ヒルトン・ミッドタウン

Area No.15/Serial No.276  マディソン・スクエア・ガーデン
Area No.16Serial No.277 ヒルトン・ガーデン・イン・JFKエアポート
Area No.17/Serial No.278 ナッソー・ベテランズ・メモリアル・コロシアム/ユニオンデール
(※ 場所名表記後に“/〇〇〇”の表記がない場所はニューヨーク市)

【バーチャル・ロックンロールツアーのナックナンバー】

★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」


 50年代唯一のNY州ライブ!
Area No.12/Serial No.273 バッファロー・メモリアル・オーディトリアム跡地
 

 1956年初頭から翌1957年年初にかけて、「ドーシー・ショウ」「エド・サリバン・ショー」「スティーブ・アレン・ショー」出演とその前後にRCAスタジオでのレコーディングを行う等、エルヴィスは1年間に約10回もニューヨークにやって来ておるが、ニューヨーク州でのライブ・ステージは僅か1回。それが1957年4月1日ニューヨーク州の西端、エリー湖の畔に位置するバッファローという街でのライブじゃ。
 バッファローは日本人には馴染みの薄い街じゃが、五大湖(エリー湖)とハドソン川を結ぶ、19世紀には「工学の奇跡」「世界八番目の不思議」と呼ばれていたエリー運河の西端にあるアメリカ経済史においては表記不可欠の街じゃ。エリー運河の完成によってアメリカ北西部と大西洋側が水路で繋がったことがニューヨーク経済に絶対的優位性と急激な推進力をもたらしたとされておる!
 とはいえ、ニューヨークのマンハッタンからは約600キロも離れており、さすがのキング・オブ・ロックンロールも、単独ライブ開催となれば、ニューヨーク州の懐(マンハッタン)からここまで離れた街でないと集客が難しいほど、ニューヨーク市及びニューヨーク州の文化的牙城は高かったということなのかもしれん。

 バッファローのライブ会場「バッファロー・メモリアル・オーディトリアム」(右下写真)は、元々プロのバスケットボールチームやアイスホッケーチームのフランチャイズ・スタジアムであり、収容人数は約15,000人。これは1968年に移転、再竣工となったマディソン・スクエア・ガーデンに次ぐキャパであり、エルヴィスを迎え入れるには充分であり、もちろんゴールド・ジャケットを羽織ったエルヴィスはものの見事に満員にしてみせた!
 デビュー以来休む間もなくアメリカ全国ツアーを続けていたエルヴィスも、1957年度のライブは僅か20回程度になり、カナダ、西海岸、ハワイ等、それまで回り切れていなかった都市だけを訪れるようなスケジュールとなり、バッファローのライブも同じく「ニューヨーク州のファンへの初めてのお披露目、ご挨拶」でもあった。バックステージ、オンステージともに残されている写真が多いことは、当地のマスコミの注目度の高さを物語っておる。

 

 1970年代に入ると、エルヴィスは72年4月5日、76年4月25日にもこの会場でライブを開催しておる。エルヴィスは同時期にマディソン・スクエア・ガーデンも使用しておるだけに、ニューヨーク経済の歴史的原動力になったエリー運河とハドソン川をクルージングしながらバッファローからマンハッタンまでやって来たならば、大きなニュースになっておったかもしれない!まあそんなアイディアを出しても、「バカモノ!そんなことやったって何の得にもならんわいっ」って大佐に却下されちゃうじゃろうがな(笑)
 決して大都市ではないバッファローじゃが、エルヴィスの他にもボブ・ディラン、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、エアロスミスら超一流ミュージシャンのライブ履歴が同会場に残されておる。地理的にカナダの大都会トロントが近いこともあり、カナダのロックファンまで集客しておったようじゃ。
 メモリアル・オーディトリアムは1996年まで、ライブ会場、スポーツ会場として稼働した後に閉鎖。建物は2006年に取り壊されて跡地は長らく空地になっておる。
右写真はストリートビュー2022年6月撮影。


 軍隊がハウンドドッグを演奏してエルヴィスを送り出した!
 Area No.13/Serial No.274 ブルックリン・アーミー・ターミナル
 
 1958年9月、ドイツで軍役中だったエルヴィスは母グラデスの訃報を受け、急遽休暇を取ってメンフィスへ帰郷。約二週間喪に服した後に、ドイツへ戻ることになった。9月22日ニューヨーク州ブルックリンのアーミーターミナル(軍船専用の発着港)にやってきた。
 EDDによれば、母親の葬儀、さらにメンフィスマフィアの一員だったレッド・ウェストの父親の葬儀にも出席したエルヴィスは、一旦テキサス州フォートフッドのミリタリーハウス(軍役者の宿舎)に入り、9月19日にフォートフッドから深夜列車に乗り込んだ後、22日に朝9時にブルックリン・アーミー・ターミナルに到着。
 ターミナルでは、軍役に出発する時と同様の共同記者会見がパーカー大佐の手配によって行われた。記者会見の為に朝早くからターミナルに集まっていた記者たちは、「エルヴィスに1曲ぐらい歌ってもらおう」「そうだな、でもギターはあるのか?」「いや、そんなことは大佐が許可しないだろう」等と冗談を飛ばしながらエルヴィスの到着を待っておったそうな。
 エルヴィスは会見場に姿を現した途端にカメラマンに取り囲まれたためか?、すぐ近くにいた軍服姿の女性に腕を回してサインのサービス!(上写真中央)女性の後ろに写っておるパーカー大佐の「アイツ、折角わしが厳粛な場を用意してイメージアップを計ろうとしているのに、何をやっとるんじゃ・・・」って顔がオモシロ(笑)
 
 

 この時の記者会見の内容はかなり詳しくネット上で紹介されておるが、特筆すべき質問やエルヴィスから粋なジョークが発せられる場面はなかったようじゃ。エルヴィスはスターである前に「今は軍人」という立場が記者団から尊重され、エルヴィスも自分の立場をわきまえておったのかもしれない。
 唯一ご紹介しておきたい内容は、13歳の少女と結婚して大騒ぎになったジェリー・リー・ルイスに関して求められたコメントか。エルヴィスはジェリーと彼の結婚騒動に次のように答えておる。
「彼はグレイトなロックンローラーです。もし彼が結婚した相手を本当に愛しているのであれば、結婚に対して何も言うつもりはありません。私はそれでいいと思います」

 共同記者会見場では、軍楽隊によって「ハウンドドッグ」と「オール・シュック・アップ」が演奏されたというから驚き!某サイトでは、その演奏は「まるでジョン・フィリップ・スーザが書いたかのように聞こえた」とされておる。ジョン・フィリップ・スーザとは、国歌「星条旗よ永遠なれ」など100曲を超えるマーチを作曲し、「マーチ王」と呼ばれた作曲者、指揮者じゃ。要するに「威勢がいい演奏だった」と解釈してよろしかろう!その後エルヴィスは軍船に乗り込んで軍部隊に戻っていき、ドイツには10月2日に到着した。

ブルックリン・アーミー・ターミナルは現在も稼働中。右写真(ストリートビュー2019年7月撮影)中央の埠頭に軍船が発着するようじゃ。エルヴィスはここから約200メートル離れた位置にある同名鉄道駅で列車を降り、恐らくプラットフォームに併設された駅舎内で記者会見を受けた後、右写真内の埠頭から軍船に乗り込んでドイツへ向かったと思われる。


キング、ニューヨーク初見参!記念共同記者会見
Area No.14/Serial No.275 ニューヨーク・ ヒルトン・ミッドタウン

 「エルヴィスが 70年代に行った230 回のツアーの中で、マディソン スクエア ガーデン(以下MSG)でのパフォーマンスと重要性が匹敵するのは、1973年のホノルルでの衛星放送番組だけです。エルヴィスが出演した当時MSGは、その莫大な収益創出力と米国で最も権威のあるエンターテイメント市場に位置することから、この国で最も著名なパフォーマンス会場とみなされていました。エルヴィスは、1972年6月9日にMSGでのライブを開始しました。
 午後4時に記者会見があり、その夜の8時30分からコンサートが行われました。翌日は、2時30分からと8時半からのショーがさらに2回ありました。プレスリーは6月11日の8時30分からのショーで市内での3日間の公演を締めくくった」(Elvis History Blogより)


 1972年6月9日、アメリカ最大のエンターテイメント市場であるニューヨークで初のエルヴィスのライブが開催された。このエルヴィスの記念すべき初ニューヨーク・ライブに先駆けて、1963年にオープンした大型ホテル・ニューヨーク・ヒルトン・ミッドランドのマーキュリー・ボールルーム(右写真)で大規模な共同記者会見が行われたのじゃ。(左写真は、オープン当初のニューヨーク・ヒルトン・ミッドランド)
 当初パーカー大佐は、エルヴィスの独占インタビューを12万ドルでマスコミに売りつけたが、これに応じるマスコミは無く、急遽マスコミ各社共同記者会見という形式になったらしい。当時エルヴィスの共同記者会見は非常に珍しかったという。

 インタビュー時間はわずか20分程度だったというが、父ヴァーノンを伴って会見に出席したエルヴィスは終始上機嫌であり、ジョークを交えながら矢継ぎ早に繰り返される様々な質問に応じた。幾つかの印象的なインタビューをピックアップしておこう!
 
Q: エルヴィス、ニューヨークシティでプレイするのにこんなに時間がかかったのはなぜですか?
A: 適切な会場をなかなか押さえられなかったことが問題だったと思う。私たちはMSGを押さえるために順番を待たなければなりませんでした。

Q: なぜ他のどのエンターテイナーよりも長続きし、依然として絶大な人気を獲得していると思いますか?
A:私はビタミンEを摂取しています!いや、冗談です!!それはわかりません、愛する人よ。ただビジネスを楽しんでいます。私は自分のやっていることを楽しんでいます。

Q: 多くの報道から、あなたは本当に内気で謙虚で素晴らしい人間だと聞いています。あなたもそれに同意しますか?
A: どうして彼らがそう思うのか分からない、私はこの金のベルトを手に入れましたよ!

(エルヴィスは立ち上がってジャケットのボタンを外し、ラスベガス公演の成功を記念してラスベガス・ヒルトンから贈られた金ベルトを披露した。謙虚と言われたことに対する、エルヴィスならではのジョークの切り返しじゃろう!)

Q:今後もライブ活動は続けていきますか?
A:そうしたいですね。まだ行ったことのない場所がたくさんあります。ニューヨークでプレイしたことがなかったような。私はイギリスにも行ったことはありません。

Q:本当に行きたいですか?
A: そうしたいです、はい。是非そうしたいです。ヨーロッパにも行ってみたいし、日本にも行ってみたいし、その他すべての場所に行きたいです。私は奉仕活動以外で国外に出たことはありません。

Q: 最近はロックンロールの曲はまったく録音していないようですね。
A: 良いハードロックの曲を見つけるのは非常に難しい。それらを見つけることができたら、そうするでしょう。

Q:テネシー州ナッシュビルでは、ソングライターらが大手レコード会社に対し、公平なチャンスが与えられていないとして訴訟を起こしたばかりだ。あなたの推測とあなたの知識では、ソングライター、インディペンデントのソングライターには大手レコード会社で公平なチャンスが与えられていますか?
A:必ずしもそうなっているとは思っていません。ヒット曲を1つ作ると、彼らは自分たちの会社を設立したがりますからその数は非常に多くなります。また、曲を書いた人たちも自分の曲をレコーディングし始めているので、良い素材を入手するのがより困難になっていると言ったのはそのためです。

Q: どんな曲を作るのが一番楽しいですか? トップはロックとバラードのどちらが好きですか? 言い換えれば、「Bridge Over Troubled Water」のような現代的なバラードと「Hound Dog」のようなオールディーズはどちらが好きですか?
A:それは意識的なことだよ、わかる?私はそれらを混ぜるのが好きです。言い換えれば、私は『Bridge Over Troubled Water』や『American Trilogy』などの曲を作って、それをミックスしてロックンロールやハードロックをやるのが好きなんです。


以上の他、ソングライターとレコード会社の契約問題や、ワールドツアーの計画、エルヴィスが興味を持っている他のアーティストに関する質問が続いたところで、「リハーサル時間が迫っている」ことを理由にパーカー大佐によってインタビューは打ち切られる形になった。インタビュー記事の字面だけを追っていると、エルヴィスへの質問が“自分の音楽以外の外界への興味、見解”に及んだことを大佐が訝しく感じておったような節もある(笑)
 ちなみ大佐は、インタビューの時間内で良い撮影位置が確保出来ていないカメラマンを見付けて、彼のためにより適切な位置へ案内するような配慮?もみせておる。

ニューヨーク・ヒルトン・ミッドランドは現在でも稼働しており、最新のストリートビューでみると(右写真左側2022年8月撮影)とさすがに外観は古ぼけてきておるようじゃ。右写真左側上下は、現在でも利用されておる、エルヴィスがインタビューを受けたマーキュリーボールルームのプレートと現状じゃ。


 1972年6月、遂にニューヨークも征服!
Area No.15/Serial No.276 マディソン・スクエア・ガーデン
 

「彼は別の惑星から来た王子様のようだった」

「彼は最後にそこに立って、腕を伸ばし、大きな金のマントが彼に翼を与えた、エルヴィスはチャンピオンであり、彼は唯一無比の存在だ」

「エルヴィスはマディソン・スクエア・ガーデンで歌ったときよりも歌が上手かったことはないと確信している。.彼はパワーをオンにし、そしてそれは力強かった」

「批評家が認めるよりも常に優れていたエルヴィスの声は、以前よりさらに豊かで共鳴するようになった。何千もの電球が破裂してサイケデリックなライトショーを生み出し、ステージは震えて飛び跳ねているように見えた。エルヴィスは時代と場所による腹立たしい制約を乗り越えてみせた」

「もしニューヨークがエルヴィスのことを気にしなかったらどうなるのか?当然のことながら、そんな心配は杞憂に終わり、コンサートは大成功にだった。エルヴィスはMSGで4公演連続満席となった初めての人物となった。これは、当時他のアーティストが達成することを夢見ることしかできなかった栄誉だった。チケットは8万枚販売され、73万ドルの収益があった」

「エルヴィスがマイクを握り始め、右手は空中を舞い、左足はまるでそれ自体が生命を持っているかのように動き出したとき、時間は止まり、その場にいた全員が17歳に戻った。それは支配のレッスンだった。私たちは、自分自身さえも、誰もコントロールできない劇的なストーリーを見て緊張してしまった」

「このショーは、エルヴィスがプロのエンターテイナーとして活動していた18年間に、ニューヨークのファンが見逃していたすべての再現だった。彼は自分自身はおろか、ファンにも曲の間に息を整える機会をほとんど与えなかった」

 1972年6月9日、エルヴィスの記念すべき第1回目のニューヨークのライブは、大絶賛の雨あられ!上記の通り、当時のマスコミ評のほんの一部だけを拾い上げてみても、これ以上ない賞賛の言葉で埋め尽くされておる!エルヴィスは途轍もないハイヴォルテージのライブをニューヨークのオーディエンスに見せつけたのである。そしてそれは4回のライブ全てにおいて維持されたのじゃ。
 初日のステージは、ボブ・ディラン、ジョージ・ハリソン、デヴィッド・ボウイ、アート・ガーファンクルも鑑賞していたらしいが、いかにトップ・ミュージシャンの彼らといえども、キングと自分との格の違いを痛感させられたに違いない!デヴィッド・ボウイは、“ジギー・スターダスト”のメイクと衣装のままで前方の席に座っていたこともあり、感動とエルヴィスの視線で「死にそうな思いをした!」と語っておる。

 

 このニューヨーク初のライブ終了から僅か一週間後の6月19日、4回のライブのレコーディングから編集された「エルヴィス・イン・ニューヨーク/As Recorded at Madison Square Garden」(右下写真)が手回しよく発売された!ライブから10日も経たないうちに発売されたライブ・レコードなんて前代未聞じゃ。スタジオでの修正作業がほとんど必要なかったほど録音状態が素晴らしかったとしか考えられない!いやいやそれ以前に、エルヴィスのライブパフォーマンスが絶好調だったということじゃな!!
 このアルバムは発売後わずか数週間後の1972年8月4日にゴールドレコードに認定され、1988年5月にプラチナ、1992年3月にダブルプラチナ、そして1999年7月にトリプルプラチナに認定された。時代を越えて売れ続けておったんじゃな。

 なお、TCBバンドのドラマーであるロン・タッドが生前このアルバムについて、下記の通り興味深いエピソードを残しておる。
「あのレコードはパーカー大佐が自分勝手な理由で手を加えているんだ。アルバムのミックスをスピードアップしているんだよ。より多くのトラックを1枚のディスクに収めることが出来れば、その分だけ自分の印税を増やせるからさ」

前回の「バーチャル~ニューヨーク州中編」のペンシルベニア・ステーションでご紹介した通り、マディソン・スクエア・ガーデンは現在地下にペンシルベニア・ステーションを擁する構造に改築されている。1968年に現在の場所に移転してきた当時の独特の外壁をはじめたとした荘厳な姿は今も健在!(左写真ストリートビュー2022年8月撮影)
 エンターテイメントのメッカとして長らく君臨し続けておるMSGには数多くのビッグ・ミュージシャンが出演し続けておるが、現在のところMSG最多出演記録は、地元のビッグスターであるビリー・ジョエルとのこと!


希少なショットもある!?パパラッチ撮影のエルヴィス
Area No.16/Serial No.277 ヒルトン・ガーデン・イン・JFKエアポート
 

 1975年7月19日、エルヴィスはナッソー・ベテランズ・コロシアムで昼夜2回のライブを開催しており、当日宿泊したホテルがヒルトン・ガーデン・インじゃ。ニューヨークにはヒルトンの名を冠する系列ホテルがたくさん存在するが、こちらはJFK国際空港から車で僅か5分足らずの距離にあり、ホテル名とともに「JFK International Airport」が併記される場合が多いホテルじゃ。エルヴィスにとって次のライブ地に飛ぶ前夜に宿泊するには好都合だったのじゃろう。

 エルヴィスがヒルトン・ガーデン・インにチェックインした当日(7月19日)、ライブ会場ナッソーコロシアムに向かうためにホテルを出るエルヴィスが撮影された写真が数多く残っておる。上写真左側と中央は、昼のライブへご出勤のエルヴィス。(余計な事じゃが、父ヴァーノンのジャケットやネクタイがステキじゃ!)上写真右側は、夜のライブを終えて当時のガールフレンドだったダイアン・グッドマンを伴いながらホテルに戻ってきたエルヴィス。昼と夜とでは、ジャンプスーツが異なっております!
 
 

 また、エルヴィスがチェックアウトした直後の使用したベッドの様子や、食事をした後のテーブルまで撮影されておる。(上写真中央、右側)これらの写真は、ハリウッド初のパパラッチだったロン・ガレラというカメラマンが撮影したらしい。お世辞にも上品な写真とは言えないが、いかにもパパラッチといった撮影じゃ。
 更にパパラッチは、翌朝(20日)JFK空港に向かうためにホテルを出てきたエルヴィスも撮影。(右写真)パパラッチはそのまま空港までエルヴィスを追いかけて搭乗前のエルヴィスも撮影しておる。やっぱり、しつこいやっちゃ!

 ヒルトン・ガーデン・インのオープン時期等の詳細はネット上では明らかにされておらんかったが、間違いなく現在でも稼働中。ストリートビューで現状を確認したところ、外観はエルヴィスの宿泊当時とほとんど変化無し!
 エルヴィスが車に乗り込んだのは、正面入口前(右写真左側)ではなく、真裏の駐車場専用スペース(右写真右側)と思われる。(ストリートビューの撮影はいずれも2022年11月)ちなみにホテルからライブ会場だったナッソー・ベテランズ・コロシアムまでの所要時間は車で約20分じゃ。


 “プレスリー、ファンに最高のおもてなし”(1975年7月21日月曜日/ニューヨーク・タイムズ)
Area No.17/Serial No.278 ナッソー・ベテランズ・メモリアル・コロシアム/ユニオンデール
 

 ニューヨーク州でのライブ履歴において、マディソン・スクエア・ガーデンの次に名ライブとの誉れが高かったのが、1975年7月19日、ニューヨーク州郊外のユニオンデールという地域にあるベテランズ・メモリアル・コロシアムでのライブじゃろう。
 ハイライトは、エルヴィスが一人でピアノの前に座って歌った「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」(ロイ・ハミルトンの1954年のゴスペルを織り交ぜたバージョンにインスパイアされたアレンジ)の息を呑むようなパフォーマンスじゃった。

 既に1973年6月22日、23日、24日にエルヴィスは同会場で4回のライブを行っておった。(チケットは完売)約2年ぶりに登場したエルヴィスは明らかに太ってしまっており、それを少しでも隠そうとするようなデザインのジャンプスーツがファンには少々痛々しく映ったようじゃが、いざライブがスタートするとエルヴィスは絶好調!
以下、「プレスリー、ファンに最高のおもてなし」のタイトルでこの日のライブを絶賛したニューヨークタイムスの記事を引用しよう。

「太っていようが痩せていようが、威圧的であろうが無益であろうが、彼は依然としてキングの威厳でファンの崇拝を受け入れることが出来る。最近では彼のファンが全国にいるわけではないかもしれない。また彼のレコードはいつもチャートのトップの座を保証されてはいない。しかしプレスリー氏はロックしたいときにはロックができるし、土曜日にユニオンデールのナッソー・コロシアムで行われた公演では、観客全員が彼の爽快なロックに酔いしれた。」

「コロシアムの観客は小さな子どもからおばあちゃんまで、まんべんなくいた。彼らは礼儀正しく、きちんとした身なりをしている。スターが登場する前は礼儀が重んじられ、彼がステージに立つと行儀よく恍惚の表情を浮かべる。プレスリーのコンサートでの儀式は、年を重ねるごとに華やかになってきている!」

「プレスリー氏は誰の真似もしていない。若々しいセクシュアリティはとうの昔に消え去った。しかしその代わりに、驚くほどリラックスした皮肉な愛情があって素晴らしい。
 彼のバリトンは相変わらずしっかりしていて、ユーモラスな海綿状の底部と鼻にかかったビブラートが上部にある。土曜の午後と同じように彼が音を出し、トップノートに手を伸ばし、常に彼の最高傑作をマークしてきたのと同じ簡単な個性でフレーズを形作っているとき、彼は依然としてキングのままであるだろう。」


 マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)の絶賛記事にも見られたが、わしにはどうもよく理解出来ない褒め方があるな(笑)アメリカ人特有のロック感性故なのか、キングへの崇拝の高さ故なのかはよくワカンネーけれど、やっぱりニューヨークの記者ってのはインテリジェンスに満ちておるというか、理屈っぽいというか、批評意識が異常に高いことだけは分かる。そんなマスコミを完全にノックアウトしてしまったのだから、MSG同様にこの日のライブは素晴らしかったのじゃろう。
 純然たる音楽の批評ではないが、上記の「観客がきちんとした服装をしている」というレポはええな!当時のニューヨーカーたちのエルヴィス崇拝意識の高さがうかがい知れるってもんじゃな!

 「ナッソー・コロシアム」のオープンは1972年であり、プロ・アイスホッケーチームとプロバスケットボールチームの本拠地として使用されており、スポーツ以外で満席になったイベントはエルヴィスのライブが初じゃった!なおエルヴィスは1977年8月22日にもここでライブを行う予定じゃったが、その一週間前にエルヴィスは亡くなってしまったので、幻のライブとなった。
 その後ナッソー・コロシアムは2015年に大規模改修工事のため一度閉鎖され、2017年4月に再オープン。全面メタリックタッチの外装によって新たなる営業をスタートさせた。右写真はストリートビュー2018年6月撮影。



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