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“ヘイライド効果”でクラブ文化のトップにあった人気店 Area No.11/Serial No.499 レイク・クリフ・クラブ跡地/シュリーブポート ミュニシパル・オーディディトリアム(ルイジアナ・ヘイライド出演)以外、1950年代にエルヴィスがシュリーブポートでライブを行ったのは、1954年11月19日、12月22日のレイク・クリフ・クラブとされておる。この会場はミュニシパル・オーディディトリアムの真西4.5キロの位置、クロス湖という湖周囲のレイク・リゾート・エリアに存在した。 レイク・クリフ・クラブ、またこの両日のライブに関する詳細情報は他には無い。現在クロス湖周辺には広大なゴルフ・エリアもあり、恐らくレイク・クリフ・クラブとはゴルフ会員専用のクラブハウスみたいな施設だったのじゃろう。 下写真左側は、エルヴィス出演をアピールする新聞広告であり、当時は時たま起こる“ミスプリント”がここでも!エルヴィスの名前が「エルヴィス・プレッスリー ELVIS PRESSLEY」となっておる。また下右写真はpinterestにアップされていた1954年11月19日のライブとされる1枚。左端にスライドギタリストが写っておるが、エルヴィスのライブにいつ頃からスライドギタリストがサポートで参加しているのかは諸説様々。 エルヴィスがルイジアナ・ヘイライドに初登場して好評を得たのは1954年10月6日であり、レイク・クリフ・クラブのライブまでに既に3回ヘイライド出演をこなしておる。シェルビーポートでのサポートメンバーの要請も難しくはなかったとは思えるものの、この写真の真偽は現在のところわしからは断定出来ないので、参考写真として御覧頂きたい。 レイク・クリフ・クラブがいつ頃まで存在していたのかは不明。シュリーブポートの歴史サイトの類には、ルイジアナ・ヘイライド全盛時代の1940~50年代には、ヘイライド予備軍や引退組のミュージシャンが出演するクラブがシュリーブポートにはたくさん点在しており、他の人気クラブを紹介したサイトには、レイク・クリフ・クラブは当時人気トップ3に挙げられていたクラブだったとのこと。 ルイジアナ・ヘイライドが終了し、時代が1970年代に入るとシュリーブポート特有のクラブ文化は完全に廃れたようで、その頃にレイク・クリフ・クラブも廃業となったと思われる。 現在跡地周辺にはクラブハウス時代の名残のある様な建物が点在しているが、Google-map上に施設名の登録はなく、現在は一般住居の集合区画かもしれない。右写真はストリートビュー2022年8月撮影。 |
“エルヴィスを観た瞬間、私なんか死んだ方がマシだと思いました” Area No.12/Serial No.500 ジーサイット・ハイスクール・オーディトリアム/ニューオーリンズ 1955年2月4日、エルヴィスはルイジアナ州最大の都市であり、ジャズ発祥の地ニューオーリンズで初のライブを行った。ニューオリンズは後にエルヴィスに多大な影響を及ぼすスワンプ・ポップ、ケイジャン等の音楽も盛んな街であり、エルヴィスにとっては浅からぬ縁のある街でもある。 既にルイジアナ・ヘイライドの大人気スターになったエルヴィスとはいえ、ニューオーリンズ初ライブは大きな劇場ではなくて、ジーサイット・ハイスクール(左写真)という当地のカトリック系高校の講堂が演奏場所だった。 この日エルヴィスと共演したシンガーは、人気子役スターだったアン・レイ。(下写真左側、中央、右側ー左端)「バーチャル~ミシシッピー州編」のビロクシという街のライブ会場のご案内で幾度となくご紹介してきたので覚えておる方もいらっしゃるかと思うが、アン・レイはビロクシのプロモーターであり、エルヴィスを“それなりに評価していた”ヤンキー・ハルバノビッチ氏の実娘じゃ。彼女がエルヴィスをお父様に推薦したという公式なコメントは残ってはおらんが、この日の2人の共演が1955年6月と11月に行われたエルヴィスのビロクシでのライブ実現の布石になったことは間違いはないじゃろうな! アン・レイ自身は個人的なエルヴィスのファンだったことは下右写真で明らか!同年5月26日ミシシッピー州レイ・スタジアムでのエルヴィスのライブに駆け付けており、右端の“ハートブレイクホテル”作曲者であるメイ・ボーレン・アクストンとの3ショットは有名じゃ。 もう、私(程度のシンガー)なんて死んだ方がマシだと思いました! エルヴィスは腕にフリンジが付いたピンクのジャケットと、ピンクのストライプが入った黒いパンツ姿でメチャクチャ格好良かったです!でも、彼のステージは衝撃どころではなかったんです。ラジオではエルヴィスを聞いていたのでもっと年上の人だと思っていたこともありますけど、彼が歌い始めた瞬間に、ポップ・ミュージックの歴史に二度と同じことは起きないだろうと即座に悟りました。 この人なら絶対に成功すると思いました! ひっさしぶりに触れた若きエルヴィスに対する物凄いファーストインプレッション!熱狂的なファンとは一味違う、シンガーという同業者の視点から感じたエルヴィスの才能と存在の凄さが語られておる。こんなコメントに触れると、あらためてエルヴィスと同じ時代、同じエリアに自分自身も存在したかったと! アン・レイ嬢の故郷ミシシッピー州ビロクシはハリケーン・カトリーナ(2005年8月)によって壊滅的な被害を被ったが、ジーサイット・ハイスクールも同様の被害に遭い、学校の敷地全体が浸水してしまった。アンとエルヴィスが歌ったオーディトリアムも機能完全停止状態となった。その後、関係者たちの懸命な復旧工事の末に現在では稼働しておる模様じゃ。(右写真はオーディトリアムの入口。ストリートビュー2022年7月撮影) なおアン・レイ嬢は、プロモーターである父親がエルヴィスをビロクシに招いたこともあり、1955年にエルヴィスと何度かデートをしたという。その後結婚のためにシンガー生活にピリオドを打ち、地元ビロクシで有名なレストラン「バーガーバーガー」を長年経営しておった。この店のウェブサイトは今でも存在し、現在はアン・レイ嬢の子孫が経営されておる模様じゃ。 |
“謎の寄進者”からキャデラックを贈られたDJの主催したビーチ・ライブ ポンチャートレイン・ビーチ・アミューズメントパーク跡地/ニューオーリンズ
SMWによると、レッド・スミスはニューオーリンズでの実績が認められて、60年代に入るとオハイオ州の大きなラジオ局WKCWに移籍し、アメリカ全土でレッド・スミスの放送を聞くことが出来るようになったとか。60年代初頭のトラック運転手や夜型人間の嗜好フォーマットを作り上げておったという。 後に“謎の寄進者”からピンクのキャデラックがレッド・スミスの放送スタジオに届けられたという!寄進者が誰であろうと、アラン・フリードの「ペイ・オラ事件」の後では名を明かすわけにはいかなかったじゃろうが、「プレゼンターはエルヴィスだったのでは?」というニュアンスでSMWはこの一件を記述しておる。 上写真左側は「レッド・スミスWBOKデー」出演時のエルヴィス。右側写真は出演者全員のショット。右端がエルヴィス。前列でロカタイをしておる人物がレッド・スミスであり、その左側が出演者の中で紅一点だった(上記Area No.12で紹介した)アン・レイ嬢。 ポンチャート・トレイン・ビーチ・アミューズメントパークは開園以来白人専門の遊園地であったが、1960年代に入場者の人種の壁は取り払われた。しかし1960年代中期から集客数が伸びずに閉鎖の道を辿ったという。 右写真はGoogle-map空撮写真。(ストリートビューは近くまで入っておらず)赤丸部分がビーチステージが設置されていた場所。SMWには2008年撮影の、ステージのコンクリート土台が撮影された空撮写真が掲載されておったが、現在では御覧の通り土台は撤去された模様。 |
“守銭奴パーカー大佐”を物語るもっとも古いエピソード! Area No.14/Serial No.502 ウェスト・モンロー・ハイスクール・オーディトリアム/モンロー モンローという街はシュリーブポートの真東約150キロに位置し、「バーチャル~ルイジアナ州2022年編」にて、1974、1975年に計7回ライブが行われ、合計約6万人もの観衆を集めた当地シビック・センターをご案内した(Point-6)。 今回はエルヴィスのデビュー間もない1955年2月18日に駆け出しライブが行われたウェストモンロー・ハイスクール・オーディトリアムへとご案内しよう。 ご多聞に漏れずこの時期のライブは情報が非常に少ないものの、ここ3~4年長く地元に住む識者たち、マニアたち(?)によって少しづつ70年近くも前のエルヴィス情報がネット上にアップされるようになっており、モンローにおいてもこの度一件発見出来た。 その情報はライブ状況ではなくて、この時期にしては珍しいパーカー大佐にまつわる詳しいオハナシだったのオモシロク読ませて頂いたのでご紹介しよう。 この日のライブは将来のモンロー市長になる人物の選挙活動費の捻出のために企画され、事前に企画側からエルヴィス側へライブ開催の打診があった。エルヴィス側の窓口は大佐であり、大佐はいきなり前金として1,250ドルを要求。会場側が「今はそんな大金は払えない」とツッパネルと、大佐は即座にライブの収益の折半を提案。それを承諾出来るならば広告費の一部も大佐が負担するということだったらしい。 また企画側の担当者の供述によれば、昼夜2回のライブの収益を誤魔化されることのないよう(?)、大佐はアシスタント(多分トム・ディスキン)とともに会場入りし、お客が会場入りする際に回収された販売チケットの半券や収益金の紙幣の枚数を自らの右手で恐ろしく正確かつ素早くカウントしていたという。さらに半券の枚数と収益金の誤差を即座に指摘してきたから恐れ入ったそうな!(さすがは守銭奴!!)大佐ら2人は、ライブ中何度もお金の計算を繰り返し、ライブ自体にはまったく興味を示さなかったという(笑) さらにこの関係者は重要な供述をしておる。ライブは熱狂状態になったにもかかわらず、会場にはお土産らしき物は何も売られておらず、会場を去り難くしている多くのお客から不満が出たという。この時、カーニバルの行商人上がりだった大佐が「音楽だけではなく“グッズでがっぽり儲けることが出来る”」と初めて気が付いたのではないか!としておる。 それにしても、大佐は早くもボブ・ニールを差し置いてライブの現場を仕切っていたという事実には驚かされた!まあ現地視察という目論みもあっただろうが、エルヴィス独占契約計画の初期段階から実に抜け目ない仕事をしておった大佐って、やはりタダモノではないな! ウエスト・モンローハイスクールは現在も存続しており、オーディトリアムの外観は往年とほとんど変化がなさそうじゃ。なおスクールの敷地はかなり広大であり、Google-mapでみた場合は敷地の東南角エリアにオーディトリアムは建てられておる。右写真はストリートビュー2023年11月撮影。 |
生まれて初めて観た魅力的宇宙人は、地元の“輩”をぶん殴っていた!? Area No.15/Serial No.503 サウスサイド・エレメンタリー・スクール跡地/バストロップ バストロップとは、上記モンローの北東45キロにある街。1955年2月24日、モンローでのライブの8日後にエルヴィスはやって来た。 場所はサウスサイド・エレメンタリースクールという当地の小学校。各エルヴィス・ライブ・スケジュール・サイトや新聞広告内(左写真左側)には会場表記は学校名のみで、オーディトリアム(講堂)やジムナジウム(体育館)という表記は付記されていない。ライブは学校内でもっとも大きい部屋(ホール)で行われたのかもしれない。バストロップには他に大き目のライブ会場は当時無かったのであろうか?左写真右側はHistoric Arerias掲載の1956年空撮写真。赤枠がエレメンタリー・スクール、青枠はアリス・カフェ。アリス・カフェに関しては後述しております。 バストロップのライブにおいても、上記モンローと同様に地元民や関係者の古い記憶、記録が近年掘り起こされており、その一部はSMWにも掲載されておる。そこにはバストロップという小さな街に、ハンクス・スノウ・ジャンボリーの一員としては現れたエルヴィスが、バストロップ史上初の女性客をヒステリックなパニックに陥れた熱狂が綴られておる! 「田舎の女の子たちにとって、エルヴィスは生まれて初めて観た魅力的な宇宙人の様だった」!! この小学校は随分前に廃校になっており、南側のカフェテリアスペースだった場所には、エルヴィスがライブに使用したと言われるピアノがずっと置かれたままになっており、SMWがその写真を掲載しておる。(左写真。撮影日時は不明)ストリートビューで廃校になった建物を四方からチェックしたみてが、残念ながらピアノは確認出来なかった。今は一体何処にあるのじゃろうか? エレメンタリー・スクールでの昼夜2回のライブの出演したジャンボリー一座のメンバーは、エルヴィスをはじめとしてスクールから真北に550メートル離れた「アリス・カフェ」で食事をとっておったそうな。その時エルヴィスは地元民の一人から「なんだ、そのもみ上げは!」と因縁を付けられて、店の外でつかみ合いの大喧嘩になったらしい(笑)喧嘩の勝者はエルヴィスだったらしい! なお、エルヴィスの古い軌跡を掘り起こしておる地元サイトの数々では、「エルヴィスは“少なくとも2回”はバストロップでライブを行っている」と記載しておるが、この1955年2月24日以外に明記された日付はなく、数あるエルヴィス・ライブ・スケジュール・サイトでも2月24日のみの表記。今後、新しい情報が出てくるのか!? 右写真左側は、スクールの正面入口付近。ミュージック・ジャンボリー一座が登場したホールはこの写真の真後ろ辺りに位置しておった。 右写真右側は、上述した食事中のエルヴィスが因縁を付けられたアリス・カフェの跡地。一時はゴスペル愛好家の集まり、小さな礼拝堂もあった施設だったが、現在は空き家になっておる。いずれもストリートビュー2023年12月撮影。 |
キング・メモリーの再発掘と復興推進都市! Area No.16/Serial No.504 ハイスクール・オーディトリアム/バトンルージュ こちらのライブ情報も近年あらたな情報がネットにアップされて多少の詳細を知ることが出来た!バトンルージュとは、ニューオリンズの北西約150キロに位置する中規模の都市であり、1955年5月2日にエルヴィスはやって来た。 約1年前に公開された新しい情報によると、ライブ会場になったハイスクール・オーディトリアムはバトンルージュにやって来る名の通ったミュージシャンのほとんどが演奏することになる当地の名劇場であり、既にルイジアナ・ヘイライドのスターとなっていたエルヴィスの登場は歓迎ムードじゃったという。それにもかかわらず、新聞広告はまたしてもミスプリントをやらかし、エルヴィスはELVIS PRESTLEYと表記されておった(笑) エルヴィスは当時恒例のハンクス・スノウ・ミュージックジャンボリーのメンバーだったので、2022年バトンルージュ地元サイトで公開された情報ではハンクスの息子ジミー・ロジャース・スノウのインタビューも掲載されておった。ジミー君は決して聞き逃せない発言をしておるので紹介しておこう。 「映画では父はエルヴィスに批判的だったように描かれているけれど、決してそんなことはなかったはずだよ。父はエルヴィスがもっとも客ウケがいいことを分かっていて、まだエルヴィスは新人だったのに、いつもジャンボリーのトリとして出演させていたんだよ。父はミュージシャンであると同時に賢いプロモーターでもあったんだ」 また新情報の中には当時16歳で、ハイスクール・オーディトリアムにミュージックジャンボリーを観に来た少女のおもしろい証言も紹介されておる。共演者のフェロン・ヤングがファンと交流しているのを何気に見ていた彼女は、誰かに後から首にキスされたことに気付いた。振り向くとエルヴィスだったという!エルヴィスは走って逃げる素振りだけをみせて笑顔で彼女をチラチラと!「エルヴィスはとてもお茶目でした」とのこと! またビル・ブラックがやって来て、エルヴィスのギター弦の交換を始め、交換が終わるとビルは彼女にそのギターを渡して「弾いてみたら?」と!ギターにはエルヴィスの署名がされてあったこという!!ライブの熱狂状態は既に充分過ぎるほど各地の情報で読んできたので、こうした何気ないエピソードや、ファンにとってはこの上ないハプニングを知ることが出来るのはとても嬉しい!(上写真右側は、この証言の主である女性が当日エルヴィスから貰ったサイン) バトン・ルージュ・ハイスクールは現在でも存在し、校舎もオーディトリアムも改修を続けながら往年の姿をキープし続けておる。(下写真左側はストリートビュー2023年5月撮影)現在の正式名称は、バトンルージュ・マグネット・ハイスクール。 右写真は、ハイスクールで企画、撮影が行われた、同オーディトリアムのステージ上で、若い俳優さんを起用して1955年5月2日のライブを再現したという作品のサムネイル。正式映画作品なのか、短編イメージフィルムなのかは不明だが、かつてのキングのライブ会場が実践した、栄えある歴史を残す新しい方法としておおいに讃えたい! |
ブルームーンボーイズの非公式アルバイト!? Area No.17/Serial No.505 ジョイ・ドライブ・イン・シアター跡地/ミンデン 1955年7月9日、ビルボード誌は次の様に報じた。(左写真) 「エルヴィス・プレスリーのマネージャー、ボブ・ニールは、今週の担当はテネシー州マディソンのジャンボリー・アトラクションズのトム・パーカー大佐が手配する夏と秋の多忙なスケジュールに着手する前に2週間の休暇を始めると報告した。 7月の最終週には~」 EDDでは確かに7月10日から19日まで、16日のルイジアナ・ヘイライド出演以外はライブ記録の記載はない。(休暇は2週間ではなく10日だったが) ところが、SMWでは7月15日ミシシッピー州ミンデンのドライブ・イン・シアター(左下写真2枚)でのライブ記録がある。同会場では7月22日にも「?」マーク付きでのライブ記録もある。 SMWには更に不可解な記載があり、「15日と22日、どちらか1日の出演かもしれない」「出演料は25ドルだった」としながらも、掲載しておる写真は全て7月15日撮影であると??(ここに記載したエルヴィスの写真全てはSMWから転載) また残されておる新聞広告は7月14日(木)とされておるが、これも21日(木)の可能性ありと??? 要するにライブが15日か22日か未だに明確になっていないということだが、SMWはニュアンスとしては15日、22日両日開催説をおしておるようでもある・・・。わしが妙にひっかかるのは日付よりもむしろ25ドルというエルヴィスにしては激安過ぎる出演料。 そもそもドライブ・イン・シアターの出演は、シアターのオーナーがルイジアナ・ヘイライドのエルヴィスを観てライブ開催を申し込んだという経緯があり、しかもミュージック・ジャンボリーではなくてブルームーン・ボーイズ単独出演の依頼だったのじゃ。また下写真の3枚はエルヴィスがオーナーの自宅に招かれた際の撮影じゃ。そこまでエルヴィスを気に入っていて、出演料が激安とはどうも解せない・・・。 15日、22日両日説が正しいと仮定してみたら、クダラネーかもしれないがチョットおもしろい想像が出来た。休暇が発表された7月9日はルイジアナ・ヘイライドに出演したので、ブルームーンボーイズはそのままルイジアナ州で短い休暇をとり、15日はギャラの少ないスコッティとビルのためにボブ・ニールやパーカー大佐には内緒でアルバイト出演をしたのかもしれない!?その時のギャラが25ドルだったのではないか?インターネットなんて影も形もない時代なので、ミンデンというルイジアナ州の田舎街(シュリーブポートの東約50キロ)でこっそりアルバイトしていたってバレやしない時代じゃ!(笑)エルヴィスの古いライブ軌跡を追っていると妙にこっちの脳裏ひっかかる靄(もや)のかかった様な痕跡が時たま見つかるが、真実は案外“そんなところ”にあるのかもしれない!? なお、上(↑)の2枚のライブ写真でスコッティが使用しておるギターは、伝説の名器「ギブソンL5」。一週間前の7月7日に、「ミステリー・トレイン」のレコーディング用にスコッティが495ドルで購入しており、SMWはヘイライド以外でスコッティがこのギターを初めてライブで使用した時の写真の可能性が高いとしておる!そんな記念すべきライブ会場ならば、いずれ正確な日付が解明されるべきじゃ! ドライブ・イン・シアターは長らくオーナー一族で経営されておった映画館じゃったが、1983年にひっそりと閉鎖したという。跡地にはレンタル倉庫のようなプレハブが立ち並んでおる。土地の管理者は当地の歴史博物館団体らしいが、エルヴィスのライブ跡地としてはかなり侘しい光景になってしまっておる。右写真ストリートビュー2023年4月撮影。 |
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