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エルヴィスの生まれ故郷ミシシッピー州トゥペロから再スタートしてみた前回の「バーチャル・ロックンロールツアー」じゃが、今回はミシシッピー州全体を周回してみよう。 1955年のエルヴィスは全米各地で274回という凄まじい回数のコンサートをこなしており、内ミシシッピー州では25回。理由は不明じゃが、何故かミシシッピー州でのコンサートの写真が(ネット上では)非情に少ないので、このページ内で若きエルヴィスの躍動感を視覚的にお伝えすることが難しかった。その反面、ごく最近になって浮かび上がって来たミシシッピー州でのエルヴィスの興味深い足跡を付け加えることが出来たので、今まで同様に「バーチャル・ロックンロールツアー」をお楽しみ頂きたい!
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グレースランドと並ぶ、キングの富の象徴だった巨大牧場 Point-11 サークルGランチ エルヴィスが愛した巨大牧場として名高いサークルGランチ。ミシシッピー州ホーンレイクという地域にあり、グレースランドからは約16キロ(車で20分弱)、その広さは南北約1キロ、東西約700メートル。親族や側近者のみ出入りを許されていた、まさにキングの安息の地である! サークルGランチの詳しい説明は、以前にThe-Kingのボスが名前の由来から始まって様々なエピソードを交えた大変にオモシロイ記事を書いておるので、そいつをそっくりそのままちゃっかり転用してしまおう!また「サークルGランチ」の「G」から生まれた!とも言える素晴らしいニュータイプの「ホースシューリング」もThe-Kingは完成させておるので、その紹介文も併せて転用するぞ!! 【 以下、2020年3月9日アップ The-Kingウェブサイトより抜粋 】 ★ 王者の安らぎの地 Circle G Ranch (サークル・ジー・ランチ)とは? ★ サークルジーランチね。輪になってランチを取りましょうという集団ではありませんよ、ダンナはん。 エルヴィスは憧れのジミーのようなムービースターになりたくって、それを真剣に目指したかったというのだけども・・・映画会社やパーカー大佐マネージャーからの指令はというと、「ELVIS PRESLEY主演!!」っというキーワードだけで、興行収入は得られた事から、毎回決まって同じような内容のプレスリー映画ばっかで もうこれには本人はうんざりしており、60年代の中頃あたりから、マネージャーのパーカー大佐においても、ELVISを操るのが難しくなってきたみたい。 そりゃそーですよね、本人ムービースターとして真剣にガゼンやる気モードだというのに、儲かっているんだから、そのままでイイみたいな事言われると・・・やる気出ませんよ。あこがれのジミーみたいになるには、作品の内容が重要な事を物凄く理解しているというのに、ワンパターンなプレスリー映画が確立されてしまっているだけに毎回そーならない! 一方、音楽の分野ではザ・ビートルズが米国で快進撃という時代となり、エルヴィスにもストレスがっ! んで、エルヴィスの側近中の側近でメンフィスマフィアのボスを任されたマーティーさん曰く、テネシー州のお隣さんのミシシッピ州にエルヴィスがひと目惚れしてしまったかのような土地(牧場)があったという。 その広さはグレースランドの10倍以上で、美しい湖やライトアップされた吊り橋、そして何より決定的であったのは巨大な十字架が備えられていた。熱心なクリスチャンであったELVISは、この土地はサイコーに美しい!とっても安らげる場所だって確信し、サクッとどうかは定かではないが、とにかく購入したんですって。ELVISの豪快な買い物はこの時代あたりから開始されたようで、敷地内で使用するCIRCLE G RANCHのロゴ入りのクルマは一度に22台注文したそうです。 当初はグレースランドから引っ越してプリシラと過ごすための家、第二のグレースランド、そして側近達のそれぞれの家をこの土地に建てる計画があったらしいのですが、父でケチなヴァーノンプレスリーがその計画を反対。要するにキミ達には給料を払っているのだから、そこまでする必要はない的な考えだったとかで。当然、ヴァーノンプレスリーとメンフィスマフィアの関係は決して良かったとは言い切れないらしい。 結局、側近たちに家と土地を与えられなかったELVISは、メンバー全員にトレーラーハウスをプレゼントし、休日はこの地で仲間たちと本格的なカウボーイ遊びを楽しんだという。外の世界に出れば、モミクチャにされ、サイン攻め・・・・。結局の所、スーパースターとなるとこのような暮らししかなかったというわけであります。 ちなみにCIRCLE GのGはグレースランドから取ったそうで、また一方でこの土地はプリシラとの安らぎの場所を用意したともいわれており、1967年、二人は結婚。つまり、幸せの到来! !ELVISは結婚リングのホースシューリングのセンターに"G"を刻んだ。(■The-Kingのページはこちらから) 【 以下、2007年10月25日アップ The-Kingウェブサイトより抜粋 】 ★ ELVIS PRESLEY没後30周年 もう1つの決定的HORSESHOE RING ! ★ 1967年のエルヴィス&プリシラの結婚リングを超リアルに再現させたのが、このG・HORSESHOE RINGだ。ELVISは結婚の前に自宅グレースランドより10マイル南に位置した"Circle G Ranch" (サークルジーランチ)という広大な公園のようなリゾート地を購入している。 そこは牧場はもちろんの事(愛馬Rising Sunは有名)、2つの美しい湖を持ち、そしてエルヴィスとプリシラのための安全な避難所でもあった。当初その地は、Twinkletown Farmと命名されていたようだが、 グレースランドのGを用いりエルヴィスがそれをCircle Gに改名したとされ、更にCircle G Ranchがテキサスに既にあった事を知ったエルヴィスは後にFlying Circle G Ranchと改名するほどこだわりの場所であったという。 このカスタムメンドされた結婚リングは、そのCircle G Ranchのロゴマークからデザインされたと考えられており、本家は言うまでもなくもちろん天然ダイヤモンド&プラチナ製。言わばプリシラへの愛のG・HORSESHOE RINGであったのだ。(■The-Kingのページはこちらから) 【 七鉄からの新情報 】 ABCローカルメンフィスニュースというサイトの2021年9月18日付記事によると、「サークルGランチ」はミシシッピー州の歴史的文化財に認定されて、Mississippi State Historical Markerという記念標識が同敷地内に設置されたそうじゃ。記念式典にはエルヴィスの親戚であり、エルヴィスに「サークルGランチ」所有権があった期間に同地内に住んでいたドナ・プレスリーが招かれて感謝の意を表明しておる。ドナ・プレスリーは、同地での生活の思い出とともに、ここはエルヴィスがキングであることをひととき忘れることの出来る場所であり、またプリシラ・プレスリーが「エルヴィスはここでやっと平和を見つけたのよ」と語っていたエピソード等を読み上げたとのことじゃ。(下右写真) 下左写真は、かつてVistors Centerと名付けられていた「サークルGランチ」入口付近のストリートビュー写真。(2019年5月撮影) ■Google-map上の位置■ |
エルヴィスが人知れずレンタルしていた故郷トゥペロの隠れ家 Point-12 ピオミンゴ湖畔リゾート トゥペロにおけるエルヴィスゆかりの地をひとつ追加しておこう。 「ミシシッピー・トゥディ」なるウェブサイトの2017年6月10日付記事によると、エルヴィスの生まれ故郷トゥペロに生前のエルヴィスが密かに使用していた別荘があったことが紹介されておった。この別荘に関する情報は、それ以前には(少なくとも)わしは耳にしておらんし、多分初めて公開された情報である可能性が高い。 この別荘はエルヴィスの生家の北東約14キロの位置にあるピオミンゴなる小さな湖の畔に建てられておった。調べてみると湖の畔には何軒ものロッジが現在でも稼働中の様子じゃが、エルヴィスが使用していたロッジがどの位置にあったのかは記事内では詳らかにされてはいない。 上左写真は、エルヴィスが使用していた当時に存在していた別のロッジ。上右写真はその当時に配布されていたピオミンゴ湖畔ロッジのプロモ・ブロッシャ―。 別荘の持ち主は、1970年代当時に存在した「リードライブイン」というトゥペロ最大規模の屋外映画館(巨大な駐車場に大型スクリーンが設置され、駐車した車の中から映画を鑑賞できる)の女性オーナーであるジャネル・マコーム。マコームは元々エルヴィス・ファミリーと親交が深く、母親を亡くしてからのエルヴィスはマコームを第二の母親のように慕っていたとのこと。後にエルヴィス・プレスリー記念財団の会長にも就いた人物じゃ。 エルヴィスがこの別荘をレンタルするようになったのは、生涯でもっともツアースケジュールが過酷だった1973年以降とされておる。上記Point-10でご紹介した「サークルGランチ」をエルヴィスが手放したのが1972年夏頃とされておるので、ある意味で「サークルGランチ」の代わりとしてエルヴィスはこの別荘を使用していたのかもしれない。 エルヴィスが屋外映画館「リードライブイン」に出入りしていた目撃情報は多く、トゥペロでは「エルヴィスは映画好き」との評判がたっていたが、エルヴィスの目的は映画鑑賞ではなくて、マコームに会い、別荘の鍵を受け取ることだったのじゃ。 キングになったエルヴィスがプライベートにおいてトゥペロをどの程度の頻度で訪問していたのかは不明じゃが、この別荘使用の事実が浮かび上がったことによって、キングがトゥペロを忘れていなかったことがわずかながらも判明した。(右写真はストリートビューによる2014年4月撮影) なお、この情報源は「The Roots of Elvis Presley」の著者であり、歴史作家のJulian Riley。 ■Google-map上の位置■ |
エルヴィスの父ヴァ―ノンを震え上がらせ、トゥペロ退去を決意させた地獄の刑務所 Point-13 パーチマン刑務所 「トゥペロを出て行くか、パーチマン刑務所に行くか、どっちかを選べ」 1949年秋の某日、エルヴィスの父ヴァーノンは密造酒の配達途中で警官の検問に引っ掛かって二択を迫られたという。ヴァ―ノンは1939年に小切手偽造の罪でパーチマン刑務所に八ケ月収監された過去があり、その時の悲惨な思い出が蘇ってきてトゥペロ退去を即座に決めた。 パーチマン刑務所はミシシッピー州パーチマンにある州立刑務所(Mississippi State Penitentiary)であり、かつては厳格過ぎる規律と過酷な労働で悪名高き刑務所じゃった。主に貧しさから犯罪に手を染めた黒人たちが収監されていたらしく、規律を守らない囚人は情け容赦なく殺されていたとのことじゃ。 古い黒人ブルースやブルースロックで歌の題材として取り上げられた例もあり、少なくとも次の4曲でパーチマン刑務所が歌われておる。 「Grinnin’in Your Face/Son House」 「Penitentiary Blues/Blind Lemon Jefferson」 「Chain Gang/Sam Cook」 「Parchman Farm/John Mayall & The Blues Breakers」 中でも「Grinnin’in Your Face」は、黒人ブルースの歴史的な大家であるサンハウスが黒人の囚人たちの歌う即興の労働歌を基本にして作曲したとされ、そのスタイルやスピリットは間違いなくロバート・ジョンソンに受け継がれているというブルース研究家たちの声は多い。 ヴァ―ノン・プレスリーはパーチマン刑務所での強烈な体験がトラウマとなって、「あんな酷い所に閉じ込められるのであれば、トゥペロを出ていくことなど造作もないことだ」と即座にトゥペロ退去とメンフィス移住を決意したという。 ただし、エルヴィスを主体としてパーチマン刑務所の実態を調べて行くと、囚人たちは必ずしも酷い扱いばかりを受けていたわけではなかったようじゃ。定期的に家族との面会が許されており、しかも日本の刑務所の様に透明の衝立越しに面会するのではなく、小さな別室で直接の触れ合いが可能だったらしく、囚人の夫と面会に来た妻とのセックスも黙認されていたという。 幼いエルヴィスは母グラデスと共にトゥペロから長時間バスに揺られてヴァーノンに会いに行っていたらしい。ヴァ―ノンが犯罪を犯して刑務所にいることは知らされていないエルヴィスは、面会日をまるでピクニックに行くように楽しみにしていて、両親が久しぶりの情事に耽っている間は、子供専用部屋に集まっていた黒人の子供たちと遊んでいたという。それがエルヴィスにとって初めての黒人との交流になったと定義しているサイトもある。 いずれにせよパーチマン刑務所の存在は、メンフィスでエルヴィスの音楽的才能が花開く遠因になっているといえよう。(右写真)ストリートビューによる現状は右写真(2014年7月撮影) ■Google-map上の位置■ |
カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュと共演。エルヴィスが激しく燃えた! Point-14 エイモリー・ナショナル・ガード・アーモリー 1955年12月12日、エルヴィス、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュの“ロカビリー・キング・トリオ”の共演がミシシッピー州エイモリ―にあるナショナル・ガード・アモリ―(国家警備隊の武器格納庫施設)で実現した。このトリオの共演は二度しかないので、ロック史上極めて希少な記念すべき機会としてまずは記憶に留めてほしい。 またこの時エルヴィスがカール・パーキンスの歌う「ブルー・スゥエード・シューズ」を初めて生で聞いたコンサートとされておる。カールの出番はエルヴィスの前であり、既にGone Gone Goneがヒットしていたカールのライブの反響はスタートから上々!翌年年初から爆発的な大ヒットになる「ブルー・スゥエード・シューズ」も披露して大いにウケまくったという。またカールの前に出演したジョニーもFolsom Prison Bluesがヒット中だったので素晴らしい反響だった。 ジョニー、カールが立て続けに観客を湧かせていただけに、トリのエルヴィスは相当のプレッシャーを感じていたらしい。某コンサート関係者たちは、エルヴィスの出番の前に「3人の中で誰が一番客ウケするか」と賭けを始め、その様子に気が付いたエルヴィスは「勝者エルヴィス」に賭けた者に向かってウインクをしたという! エルヴィスがステージに向かう時、まだ観客はカールの歌ったプラターズの「オンリー・ユー」を捩って「オンリー・ユー・カール!」と叫び続けていた。そんな“形勢不利”な状況に対してエルヴィスは燃えに燃えた!狂ったように歌い、弦が切れるまでギターを弾きまくり、床板を叩き壊すようにアクションをキメた!結果、ジョニーよりもカールよりもエルヴィスの反響がもっとも凄まじかったという! ただし某英字サイトによると、“最終勝者はエルヴィス”だったが、演奏曲別に評価すると、カールが「ブルースゥエードシューズ」を歌った時がもっとも観客が湧いたとしている。 なおエルヴィスとカールは次の公演地アリゾナ州ヘレナでも共演しており、エイモリ―からヘレナへの移動中に2人はずっとプラターズの「オンリーユー」が如何に素晴らしいかを仲良く論じ合っていたという! (※注意~スコッティ・ムーア及びサンレコードのサイト内解説欄では、このエイモリ―公演の前夜12月11日がヘレナ公演と記述されているが、正しくは12月15日であろう。スコッティ・サイトのツアースケジュール欄の方では12月15日、カール・パーキンスのライブ履歴情報でも15日とされておる) またカールは同会場で同年11月8日にもライブを行っており、ライブ終了後にカールは「ブルースゥエードシューズ」を書いたとエルヴィスに語ったという説も存在する。 ストリートビューによる現状は右写真通り。撮影された2013年7月時点では建物の外装はまったく変っていない。 ■Google-map上の位置■ |
オーナー「もっと歌ってくれ」、エルヴィス「7曲しか歌えません」!? Point-15 キースラー空港基地内エアメンズ・クラブ跡地 Point-15から17までは、ミシシッピー州ビロクシというメキシコ湾に面した街に点在するエルヴィスゆかりの地をご案内しよう。ミシシッピー州というとアメリカ大陸の内陸部というイメージが強いが、実は南端部分約250キロはメキシコ湾に面している。海洋&カジノ・リゾート地としても古くから富裕層に隠れた人気を誇っておる地域じゃ。 エルヴィスがビロクシでコンサートを開催する運びとなったのは、1955年2月14日お隣りのルイジアナ州ニューオーリンズでのエルヴィスのコンサートを観ていたビロクシのプロモーターであるヤンキー・バルハノビッチが、「この得体の知れない若者歌手がビロクシという特殊な土地柄の地元民にウケルかどうか試してみたい」という衝動に駆られたからだという。 バルハノビッチは1955年にビロクシ内の3つの会場にて合計7回のエルヴィスのコンサートを企画、開催しており、その内の4回はこのキースラー空軍基地内にあった「エアメンズ・クラブ」が使用された。若い空軍兵のためのレクリエーションおよび娯楽センターであり、 カフェテリア/食堂、そして地元の人々も入店できるダンス/コンサート・ルームが含まれておった。 エアメンズ・クラブでのコンサートの反応に関しては不明じゃが、スコッティ・ムーアのサイトによると、少なくともクラブのオーナーは満足しなかったようじゃ。その理由は演奏状態やお客の反応ではなく、エルヴィスの持ち歌(レパートリー)が少なすぎるからだったそうな!オーナーの「もっと歌ってくれ!」という要請に対して、エルヴィスは「7曲しかレパートリーがありません」と返答したというが、果たして?(笑) それでもエルヴィスの礼儀正しさに感銘を受けていたオーナーは追加コンサートを要請。しかし当時のエルヴィスのマネージャーだったボブ・ニールが出演料を倍に跳ね上げてきたために、その代わりにスコッティとビルの出演料がカットされる算段が下され、2人はエルヴィスを残してメンフィスへ帰る羽目になったという。 その後エルヴィスは何日間か、クラブ側が用意した別バンドをバックにして出演したとされているが真相は不明。スコッティのサイトでは、4回目の「エアメンズ・クラブ」出演日の翌日(11月9日)から3日間はライブ記録が無いのはその為か? 一方、オーナーの息子さんはエルヴィスの追加コンサートに猛反対!その理由はエルヴィスの宿泊先に押し寄せる大勢の女の子たちを追い払うのが大変だったからとか。男の嫉妬じゃろうな!(笑) なお「エアメンズ・クラブ」はエルヴィスのコンサートの約二ヶ月後(1956年1月)に火事で全焼したため、元の図面通りに復元、立て直しされたという。現在は基地内の医療関連施設として利用されている。(左写真) 【注意】アメリカ空軍施設の為か、ストリートビューの撮影が許可されていないようです。 ■Google-map上の位置■ |
エルヴィスが女の子のハートを襲撃してから半世紀後、 ハリケーン・カトリーナによって消滅した会場 Point-16 スロベニアン・ロッジ跡地 ビロクシという街は海洋リゾート&カジノ地帯という特徴の他に、もうひとつの特殊な側面があった。それは19世紀あたりからヨーロッパからの移住者が多く住み着いた地域であり、1955年6月26日エルヴィスがこの地で初めて演奏をした場所「スロベニアン・ロッジ」は移民たちのコミュニティーセンターじゃった。 当時「スロベニアン・ロッジ」を切り盛りしていた人物は、Point-15でご紹介した当地のプロモーター、ヤンキー・バルハノビッチの娘であり、かつてバルハノビッチがアン・レイの芸名で子役女優として活動させていたマーサ・バルハノビッチ。スコッティ・ムーアのサイトに記載されている彼女の回想によると、父親の話からエルヴィスに興味を抱いていたマーサは、エルヴィスのコンサートを楽しみにしていたらしいが、残念ながら客足は伸びず、300席の会場は50~70席程度しか埋まらなかったという。 しかしその50~70人のお客の反響が凄まじく、やがて街中の多くの若い女の子たちがエルヴィスのコンサートを見逃してしまったことを後悔して悲しみにくれたという。またマーサのエルヴィスの音楽に対する当時の感想もシンプルでとても良い! 「それはどんな種類の音楽とも非常に異なっていたし、当時は誰も彼(エルヴィス)の様なパフォーマンをしていなかった」 更にスコッティ・サイトはエルヴィスが食事をするために立ち寄ったレストランでウエイトレスをしていた若い女性の記憶も併せて記述されている。エルヴィスはオーダーしたメニューが運ばれてくる度に、ウェイトレスに向かって丁寧に御礼を述べていたという。Point-15でも紹介したが、当時のエルヴィスの礼儀正しさを賞賛する供述は実に多い! (右写真は、同年11月6日当会場近くのビロクシ・コミュニティ・ハウスでのライブ写真) 一方プロモーターのヤンキー・バルハノビッチの回想によると、当時のエルヴィスのファッションはいまひとつイケテなかったという。恐らくまだギャラが低かった事がその原因と推測され、エルヴィスから新しいマネージャーになって欲しいとの要請があったとか。まだエルヴィスの将来性を計り切れていなかったハルバノビッチは、この要請を断ったという。この件に関してハルバノビッチは「後悔はしていないが、翌年からエルヴィスのギャラが高騰して二度とビロクシにエルヴィスを呼ぶことが出来なかったことが残念である」と負け惜しみにも似たコメントを残しておる(笑) ビロクシはエルヴィスが初登場した日から約半世紀後、2005年8月にアメリカ南東部で発生した大型台風ハリケーン・カトリーナによって壊滅的な被害を被り、「スロベニアン・ロッジ」も全壊。(下右写真)その後跡地は整地され、現在はエルヴィスがコンサートを開いた事実が記載された記念標識が設置されておる。(下左写真、ストリートビュー2021年3月撮影) ■Google-map上の位置■ |
若きキングは、アル・カポネの隠れ家で寛いでいた! Point-17 ガルフ・ヒルズ・ホテル&リゾート ビロクシ3つ目のポイントは、「サークルGランチ」同様に、つい最近になってエルヴィスが使用していたリゾート地としてあらためて脚光を浴びた「ガルフ・ヒル・アンド・リゾート」じゃ。正式な所在地は、ビロキシの西隣オーシャン・スプリングに入ってすぐの場所じゃ。 メキシコ湾の入り江、広大な牧場、ゴルフコースに囲まれたこのリゾート施設は、1927年に当時のキング・オブ・ギャングだったアルカポネの隠れ家として建てられた。1955~56年頃、エルヴィスが頻繁に利用していたことでも名高く、その他マリリン・モンロー、ジュディ・ガーランド、ジェーン・マンスフィールドらの銀幕のスターたちにも贔屓にされておった。 建物の老築化が進んだことにより、21世紀になって290万ドルで売りに出されておったが長らく買い手が付かず、「2人のキング(アル・カポネとエルヴィス)に愛されたホテルが消滅する」と関係者の間で噂が広まっていたものの、2020年12月31日についに新しい買い手が現れてかろうじて栄光の歴史に幕が引かれる危機を乗り越えることが出来たのじゃ! エルヴィスがこのリゾートを利用し始めたのは、恐らくビロクシでコンサートを開催した1955年11月とされておる。当地で知り合った少女ジューン・ジュリコとエルヴィスは急速に仲を深めていき、二人で「ガルフ・ヒル・アンド・リゾート」を利用していたという説が有力じゃ。(左写真) 特に有名なエピソードとしては、翌1956年7月にはエルヴィスはジューンを同伴したまま両親をここへ招待したことじゃ。既に「エルヴィス&ジューン婚約説」が出回っていただけに二人の結婚は間近である!と報じたマスコミもあったそうな。エルヴィスのライブ履歴の中で、1956年7月~8月はほとんど記載がなく完全休養期間だったようで、その内の約三週間をエルヴィスはジューンとともに「ガルフ・ヒル・アンド・リゾート」で過ごしていた可能性が高い。 「ガルフ・ヒル・アンド・リゾート」で撮影されたショットの内、エルヴィスが水上スキーを楽しんだり、ラウンジでピアノを弾いているショット(右写真)はファンの間では知れ渡っておるな。「ピンク・ポニー」の名のラウンジは、アル・カポネの意向でシカゴのスピークイージー(密造酒バー)風なインテリアにされておったようじゃ。 またエルヴィスはこの地で水上スキーを習得したらしく、「ガルフ・ヒル・アンド・リゾート」が売りに出された当初、そのキャッチコピーのひとつが「キング・オブ・ロックンロールが水上スキーを身に付けたリゾート」じゃった。 新しいオーナーになってから断続的にリノベーションが進行しているようじゃが、残念ながらGoogle-mapレビューにおける利用者の評判はあまり良くない。従業員の接客姿勢やら館内設備といった基本部分での不平不満の書き込みが多い。栄光の歴史に傷が付かぬよう早期の改善を期待したい。 ストリートビューによる現状は左写真の通り。(2019年5月撮影) ■Google-map上の位置■ |
エルヴィスが見向きもされていなかったミュージック・フェスティバル Point-18 ジミー・ロジャース・メモリアル・フェスティバル撮影跡地 1955年5月26日、27日、エルヴィスはメルディアンという都市でコンサートを開催。(アメリカン・レジョン・ホールとレイ・スタジアム)両日ともにコンサートは大盛況だった!と言いたいところじゃが、実は5月26日はメルディアン出身の大ヒーローであるカントリー・シンガー、ジミー・ロジャースのメモリアル・フェスティバル開催日に当たり、エルヴィスのコンサートはフェスティバルを彩る出し物のひとつ的扱いだったようじゃ(笑) ジミー・ロジャースはカントリー音楽の初期スーパースター達の中でも、「カントリー音楽の父」、「歌うブレーキ係」、「ブルーヨーデラー」などとも呼ばれており、活躍したのは1927年から1933年と短く、35歳で早世した。しかし後世のミュージシャンに与えた影響は絶大であり、エルヴィスも「もっとも影響された偉大なるシンガー」としてジミー・ロジャースへの賛辞を惜しまなかったほどの存在じゃ。 スコッティ・ムーアのサイトでも、この両日のコンサートに関する記述は少なく、ジミー・ロジャースの略歴、功績が連綿とつづられている。 メルディアンの目貫き通りで行われたフェスティバル・パレードには数万人の見物客が押し寄せたとされており、招待された人気ミュージシャンがオープンカーに乗って次々と登場。エルヴィスもその一人であり、群衆で溢れかえっている沿道をバックにしたショットがいくつか発表されておる。その中でももっとも有名なショットが、メリディアンのYMCAビルの前での1枚じゃ。(上写真) 現在YMACAは別の場所に移されており、元の建物はローカルテレビ局(WTOK-TV)が使用しておる。ストリートビューによる現状は右写真の通り。(2019年8月撮影) ■Google-map上の位置■ 【追加情報】 パレードが撮影された写真はすべてモノクロじゃったが、先日ジミー・ロジャースの公式ウェブサイトをチェックしておったら、カラー写真が発表されておってビックリ!(左写真)エルヴィスが着ていたスーツはホワイトではなくグレー(ライトブルー?)だったんじゃな! それにしても気になって仕方がないのは、モノクロ写真でもカラー写真でも、写り込んでおる群衆のほとんどがエルヴィスをまったく見ていない事じゃ(笑) サンレコードのサイトによると、典型的なオールド・スタイルのカントリーシンガーだったジミー・ロジャースを英雄と讃えるメルディアン市民にとって、当時のエルヴィスの音楽的スタイルもファッションもただただ奇抜以外の何ものでもなく、フェスティバル・フィーヴァーも重なってエルヴィスは完全なよそ者的扱いじゃったとか。しかし2回のコンサートの衝撃性によって、エルヴィスはメルディアンで受け入れられるようになったそうじゃ。 |
2020年に明るみに出たエルヴィスの隠し財産 Point-19 コールド・ウォーター森林地帯 2020年3月、エルヴィス関連の新しいニュースの発表に世界中のエルヴィス研究家たちが色めき立った!それはミシシッピー州コールドウォーターの不動産屋からの情報であり、当地の森林地帯の一部の所有者名義がエルヴィスの父ヴァ―ノンだったことが判明したという。 その広さは約33エーカー(13,3546.3平方メートル)にも及び、Point-11でご案内したサークルGランチよりもはるかにデカイ!場所はサークルGランチのほぼ真南40キロの位置じゃ。エルヴィスが亡くなってから実に43年あまりも経ってからの新しい発見であり、多くの報道サイトで取り上げられることになった。 この土地の売買を仲介する不動産屋によると、以前の所有者としてヴァーノン・プレスリーの名を示した法的証と所有権証書を発見し、事の真相をロックミュージックの歴史研究家であり、「Rockology」なる店名のロックンロール・メモラビリア・ショップのオーナーであるスティーブン・シャッツなる人物に連絡し、スティーブの新たな調査によって間違いなく1960年代にヴァーノンの名義で購入されていたことを証明できたという。 もちろん出資者はエルヴィスであり、ヴァーノンはあくまでも名義人。エルヴィス本人が名義人にならなかったのは、恐らく過剰な税金上の問題を回避する為だったらしい。この広大な土地は後にエルビスの母親であるグラデスの兄弟で義理の姉妹であるジョニーとロイス・スミスに譲渡された。 1972年、スミスはこの物件をウィリアムM.マクレガーという名前の男へあらためて売却した。このマクレガーなる人物は、サークルGランチの農業従業員であり、またエルビスのために革製品やジュエリーを製作していた人物だったという。 以降何人かの所有者を経て、2020年3月に売却に出されたことで明るみなったエルヴィスの知られざる財産じゃが、その金額は485,000ドル(約5,335万円)。現時点で新しい買い手が付いたというニュースは報じられてはいない。 残念ながらこの土地はコールドウォーターの森林地帯のどの部分に該当するかは、各ウェブサイトに明記されてはおらんので、ストリートビューでのご紹介は不可。その代わりに、コールドウォーター全域の航空写真を掲載しておこう。(右写真)如何に緑豊かな大自然であるかがお分かり頂けるだろう。 なお発表された土地写真の1枚には1955年型のアメリカ車ビュイックが写っており(上右写真)、そのボディには散弾銃が撃ち込まれた跡がある。これは「エルヴィスの射撃練習の痕跡か?」と報じられたが、上記のスティーブン・シャッツはその説をきっぱりと否定。エルヴィスが大金を稼ぎ出し、車を買いまくりプレセントしまくったのは1957年からであり、既に中古車扱いとなった1955年型ビュイックをエルヴィスが買うはずがないとのことじゃ。これは後の所有者の誰かが廃車扱いしたものとしておる。 ■Google-map上の位置■ |
ミシシッピー州でのエルヴィスのライブはその大半が1955年に集中しており、以降は同州でのライブはほとんど行われておらん。また特に同年前半のライブではエルヴィスは各地で苦戦を強いられた(観客が少ない。評判がイマイチ等)という記述が各サイトに目立っている。エルヴィスにとっては案外忘れ難き1955年、ミシシッピー州のライブ体験だったのかもしれない。 それでもエルヴィスはめげずに各地で衝撃的なライブ・パフォーマンスを叩きつけていたようで、そのエネルギーとガッツが翌1956年に大輪の花を咲かせることに繋がったことは間違いないじゃろう。(左写真は、Point-17 ガルフ・ヒル・アンド・リゾートで休暇を楽しむエルヴィス)) 冒頭でもお断りしたが、1955年のミシシッピー州でのライブ写真が非常に少なく、「エルヴィス苦闘の姿」を視覚的にお届け出来ないことがつくづく残念である。今後新しい写真がネット上で登場してくる可能性もあるので、チェックを怠らずにいつか別のスタイルで諸君にご紹介出来ることを願っておる。 前回と併せて、トゥペロ8ポイント、その他ミシシッピー州各地11ポイントをご案内したところでミシシッピー州編は終了させて頂きます。ツアーにご参加頂いた方々、誠にお疲れ様でございました。次回は趣きを変えて都会に出てツアーを再開しようかと考えておりますので、乞うご期待! |
【付録】 バーチャル・ロックンロール・ツアー(エルヴィスゆかりの地)Googleマイマップ 下地図の内容をここでは気にされる事なく、 まずは地図右上の[ ]マークをクリックし"拡大地図を表示"させて下さい。 バーチャル・ロックンロールツアー~」でご紹介してきた全Pointが再度、★印入りマークで表示されます。 メンフィス全域内における各Pointの位置や、Point同士の距離感等も確認出来ます。 ※詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 まずはコチラの[ ]をクリック ↓ |
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