バーチャル・ロックンロールツアー・エルヴィスゆかりの地~メンフィス・テネシー 後編
(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 The-Kingのボスと諸君のお陰で、「バーチャル・ロックンロール・ツアー~エルヴィスゆかりの地/メンフィス・テネシー編」も第3回目後編に入らせて頂くことに相成った。
 今回10ヶ所のPointを追加して、メンフィス・テネシー編は合計32Pointじゃ。バーチャルではなくて実際のバス・ツアーで32ヶ所を周遊するとしたら数日を要するじゃろうな。バーチャル・ツアーだからこそ実現した、たったの3回で32ヶ所周遊のお手軽さを享受しながら、今回も楽しんで頂けたら幸いじゃ。
 「バーチャル・ロックンロール・ツアー」は、回を追うごとに一ヶ所の説明文が長くなってきておる気がするが、途中「食事休憩」的な息抜きPointも用意してあるのでリラックスして読み進めてくれ!
 またThe-Kingのボスのご協力により、別ページの「マップの操作手順」(下の点滅する赤いバナーをクリック)も、よりシンプルで分かり易く改編してあるので、Google-mapや付帯機能にまだ不慣れな方は是非参考にして頂きたい。

【目次】 バーチャル・ロックンロールツアー
           エルヴィスゆかりの地~メンフィス・テネシー後編

 ・御覧になりたいPoint番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Point番号は「前編 」からの通し番号になっています。

 Point-23  シルバースリッパー跡地
 Point-24 クラウン・エレクトリック・コンスティテューション跡地
 Point-25 マルコ・シアター&ジムズ・バーバーショップ跡地
 Point-26 セント・ジョセフ病院跡地
 Point-27 コレッタズ・レストラン
 
 Point-28 パット・ピザ・レストラン跡地

 Point-29 バルムボズ・カフェ跡地 
 Point-30 メシック・ハイスクール跡地
 Point-31 プレスリー一家メンフィス7軒目の家
 Point-32  14歳のエルヴィス写真撮影地点


  【付録】  バーチャル・ロックンロール・ツアー・Googleマイマップ
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順


 もはや真相解明は不可?エルヴィス出演場所で最も謎だらけのナイトクラブ
Point-23 シルバースリッパー跡地

 

コッティ・ムーアのサイト内「Tour Dates」において唯一クエスチョンマーク付きで紹介されている演奏場所が、1954年10月8日の「TN Silver Slipper」(テネシー州シルバースリッパ―)。わしも結局、当日の「エルヴィス出演」の裏付けが取れなかった。

 スコッティのサイトでは、同年10月23日発行のビルボード誌が「アトランタのシルバースリッパ―で約二ヶ月前にデビューしたエルヴィスが出演した」という情報が掲載されていたと紹介。しかしスコッティはアトランタでライブをした記憶がなく、しかもその前後の日にメンフィスの「イーグルズ・ネスト」に出演しているので、両会場を短時間で車で移動出来るはずがないと。
 そうなると、アトランタではなくてメンフィスにある同名クラブの方に出演したのかもしれないが、その記憶もないという・・・。多くの私設エルヴィス研究サイトではこの日のライブ記録の表記はまちまちであり、空欄にしているサイトもある。誰も確証を得られていないのじゃろう。

 サン・レコードのサイトでも「当日の記録が無くてライブが行われたと断言は出来ないが、少なくとも1954年10月8日前後にエルヴィス一行がアトランタに滞在したという記録はアトランタ現地でも一切見つからなかった」としておる。上記ビルボード誌の記事は一体何なのか?それでもサンレコードをはじめ、幾つかのマニアックなサイトは、「正式デビュー前ならば、エルヴィスはメンフィスのシルバースリッパーに出演していた」としているので、この際出演した日付は抜きにしてシルバースリッパ―の実体に迫ってみたい。



の度ネット上で拾い集めることの出来たシルバースリッパ―の位置情報は4つのみ。
①当時の住所はメイコン・ロード70 ②メンフィス北東部の市境(英語表記はcity boader)を越えてすぐの場所 ③現在のシェルビー・オークス・ドライブから少し離れた場所 ④メンフィス中心地から約10マイル

 ②の当時の市境の境界線が不明だが、上写真左側の1955年にメンフィスのバス会社が制作した道路地図における、白と薄いグレーとの境界線を市境の目安とすれば、この道路地図にはメンフィス市より外側は、ほとんど記されていない(泣)
 そこで現在のGoogle-mapと古地図とを参照してみると、メイコンロードは高速道路建設のための土地再開発によって市境あたりから一部撤去(廃止)されたことが判明。更に現存するメイコンロードの番地は全て4ケタ番号であることから、①の70という旧番地は廃止になった道路部分にあったとも考えられる。 そして②③④の情報を重ね合わせることによって大体の位置は推定できたので、ご参考までに!(上地図、右航空写真、緑丸マークがシルバースリッパ―があったと思われる場所)

 Google-Mapの航空写真(右写真)で周囲をチェックすると、廃止されたメイコンロードの跡がうっすらと見える。この部分に現在道路はなく、ストリートビューでの現状チェックは不可なので悪しからず(笑)なお廃止されたメイコンロードは、市境を越えてしばらくすると、シェルビーオークスドライブの先からほぼ旧道通りに復活しておる。

ルバースリッパ―の当時の評判をまとめると、「ショー良し、食事良し、インテリア良しの、メンフィス界隈で有数の人気ナイトクラブ」だったようじゃ。出演していたショーマンたちの実体は「デビュー直後の有望な若手か、落ちぶれ始めた元スター」(笑)またどうやらギャンブルも出来て、ストリップ紛いのバーレスクショーも頻繁に行われていたようで、メンフィスだけではなく遠方の地域からも大人たちが車をかっ飛ばして夜な夜な集結していたらしい。
 上述通り、上地図「1955年の道路地図」右側の薄いグレー部分に位置するシルバースリッパ―は、メンフィス市当局の管轄外であり、当局の風紀、風俗規定に引っかかるようなヤバイ演目やお遊び(売春とか?)もお咎めなしだったのかもしれない。

 しかもお客は金回りの良い者ばかりだったろうから、ショーマンたちへの“おひねり”も多く、ギャラ自体も悪くはないはず!そんな“ゴージャス&デンジャラス”なナイトクラブにも関わらず、スコッティは出演の記憶がないという。やっぱり謎のナイトクラブじゃ・・・。右写真は、1954年のシルバースリッパ―の妖しさ満点の雑誌広告。その左上にはElvis Presleyと表記されたイーグルズ・ネストの広告もある。

にどうしても解せない謎がもうひとつ。サン・レコードのサイトによると、シルバースリッパーは1958年に火災で全焼し、29年にわたる営業の歴史に幕を下ろしたという。そしてエルヴィスは焼け跡から“記念品”として店のインテリア・シンボルだったミラーボールを持ち去ったとの記述がある。
 エルヴィスが焼け跡に行って、焼け残ったブツを持ち去っただと?到底アリエン!と思いつつ調査を進めていると「シルバースリッパー全焼」の新聞記事を発見。(右写真)そこには「敷地内には消火栓も無く、駆け付けた消防隊は焼け落ちる建物を見つめるしかなかった」と書かれておる。要するに、絶望的な大火事だったのじゃ。

 新聞の日付を確認すると唖然!1958年7月18日って、その頃のエルヴィスは軍隊じゃろう。最愛のお母上が亡くなって一時帰宅が許可されたのが8月12日でご葬儀が15日。そんな悲しくて慌ただしい時期に、エルヴィスはわざわざ全焼して一ヶ月近く経った店の焼け跡にまで行ってブツを漁るか?ほんまでっか、サン・レコードさん。
■Google-map上の位置■ 
※跡地は土地再開発によって現在は住所が末梢された場所なので、Google-mapには周囲の地図が表示されるだけです。


無名時代の有名な職場!?
Point-24 クラウン・エレクトリック・コンスティテューション跡地
 
 エルヴィスがサンレコードで最初の録音を果たした頃に勤めていた職場がクラウン・エレクトリック。英字サイト「Our Daily Elvis」と「Rex Martin's ELVIS Moments in Time」とでは、エルヴィスがクラウン社で働いていた期間の表記が微妙に違うが、レコード録音当時(1954年7月5日)には間違いなく籍を置いており、エルヴィスは時給1ドルで働いていたとのこと!

 クラウン社は電力会社であり、エルヴィスは電気技師見習いとして雇われたが、現実としては工事現場へ資材等を運ぶトラック運転手をやっておった。上記英字サイトをはじめとして、当時の同社のピックアップトラックの写真が掲載されておる。(左写真)
 写真下には「エルヴィスはここでトラックを運転していた」って但し書きがあるが、写真を慎重にチェックすると、トラックのドアに表示されているクラウン社の住所は、エルヴィスが退社した1954年10月の後、1956年に会社が移転した場所のもの(笑)まあ、この種のトラックをエルヴィスが運転していたということで!

 ストリートビューでクラウン社のあった場所をチェックすると(下写真、2020年3月撮影)、当時を偲ばせるものはなあ~んも無し。現在は「サザン・スティール・サプライ」なる製鉄工場の様だし、「エルヴィスが~」という記念標識も見当たらない。それでもわしは、エルヴィスが働いていたクラウン社のあった場所を見つけられただけで満足じゃ。

 なお、イギリスのキャスリン・ウィリアムスという女性シンガーソングライターが2013年に発表したアルバムのタイトルが『クラウン・エレクトリック』。収録曲「ゲイブ・イット・アウェイ」は、スタートからいきなり“エルヴィスはキングに成る前はクラウン・エレクトリックで働いていたのよ”と歌われる。
 またグレースランド取扱い商品の中には当時のクラウン社のデザイン・ロゴを復刻させたワッペンが付けられたシャツがある。スコッティ・ムーアやサン・レコードのサイトにも丁寧な記載がある。エルヴィス・ワールドの住人たちにとって、実はマイナーな存在ではないクラウン・エレクトリックであった!

■Google-map上の位置■


若きエルヴィスの超絶クールなショットが、劇場と床屋の存在を永遠にした!
Point-25 マルコ・シアター&ジムズ・バーバーショップ跡地 


 「後編」はのっけから少々マニアックなPointを続けたので、気分転換に話題性の多いメジャーなPointをご紹介しよう。星の数ほどあるエルヴィスの写真の中で、この1枚(上左写真)は人気の高いショットであるに違いない。撮影された状況が極めて庶民的なエピソードに彩られ、またエルヴィスのファッションがメッチャクールでポーズもさり気なくキマッテおる!そう、エルヴィスが床屋さんで髪の毛をカットしてもらっておる間に(上右写真)、街中を巡回中の警察官から情け容赦なく駐車禁止の切符を切られた時に撮影された写真であり、床屋さんの住所は201サウスメインストリートじゃ。
 わしなんかはこの写真を何度見ても、高いスタンドカラーに黒(?)のリボン(??)がステッチの様に入った(???)ベイビーピンクのシャツに見とれてしまう。まあこの辺の専門的な分析はいずれThe-Kingのボスにお任せするとして、わしの方は撮影されている場所の説明をしよう!

 まずエルヴィスのバックに見える大きな縦型の袖看板の建物がマルコ・シアターという劇場。現在の名称はオルフェウム・シアター。1890年に開場になった古いオペラ劇場であり、時代の推移とともに、オペラ、演劇、音楽ショー、映画などメインの演目は変わっていったが、終始一貫してメンフィスを代表する劇場のひとつとして君臨してきた。
 「グランド・オペラ・ハウス」、「オルフェウム」、「マルコ」、再び「オルフェウム」と経営者やメインの演目が変わる毎に劇場名も変わっており、現在は「オルフェウム」の名でブロードウェイショーがメインのようじゃ。1990年代に大掛かりな改修が行われ、その際にステージそのものが大幅に拡張されてからはスケールの大きいハイテクな演出が可能なコンサートや演劇が実演されておるそうじゃ。
 実はこの劇場の古い写真をチェックしてみたら、マルコ・シアターを名乗っていた時代の、しかも袖看板まで写っている写真が非常に少ない。(上中写真)エルヴィスが写っている写真とともに希少なショットとも言える!


 一方床屋さんは、マルコ・シアターの入口隣にあった「ジムズ・バーバーショップ」。オーナーのジム・トーマスを初めとして、従業員の大半は黒人さん。エルヴィスはスターになる前からこの床屋さんを贔屓にしており、人気が爆発した後は“店に行っても、おちおち髪の毛も切っていられない”状態になったので、お気に入りのヘアデザイナーを自宅まで呼び寄せておったとか。
 1980年代、オルフェウム劇場の改装にあたって店舗はモンローアベニューへ移
動した後、サンレコードのサイトによるとダウンタウンのビジネス地区の中心部にあるノースサードストリートに再移転したとのこと。
 残念ながらノースサードストリートの店舗の現状は確認出来なかったが、The-Kingと親交のあるフィフティーズ・ショップ「706 union」の船橋氏が2005年にモンローアベニューの店舗を訪れており、その時の写真をご提供下さったので掲載しておこう。(上中、右写真)お客用のチェアはエルヴィスが通っていた時代の物らしい!船橋氏、ご協力ありがとうございます!!(「706union 」のサイトはこちらから)

 両ヶ所の現状は上左写真の通り。(ストリートビュー2020年3月撮影)ジムズ・バーバーショップの入っていたスペースは長らく空いたままのようじゃ。

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エルヴィスがファンを見舞い、エルヴィスの魂によって“命が繋がった”病院
Point-26 セント・ジョセフ病院跡地 


 上左写真は、エルヴィスが交通事故で入院中のお母さんと娘さんのお二人をお見舞いに訪れた、あまりにも有名な1枚じゃ。場所はメンフィスの中心地にあったセント・ジョセフ病院。
 ラスウッド・パークでの公演を大成功させた翌日、1956年7月5日にエルヴィスはピンクのキャデラックを自ら運転して病院を訪れたという。エルヴィスのお見舞いを受けたお二人は、ラスウッドパークに向かう途中に事故に遭い、憧れのエルヴィスのライブを体験出来なかったので(ライブの後、帰宅途中の事故という説もあり)、思いもよらぬエルヴィスの慰問にお二人はそりゃもう死ぬほど感激した!という美談が語り継がれておる。

 また同じくセント・ジョセフ病院におけるショットで、エルヴィスがカメラを持っておるものがあるが、これまた非常に気になる!(上右写真)このカメラはアメリカのグラフレックス社(Graflex Co.)製造の同名の機種であり、当時報道カメラマンの神器とまで評されたカメラじゃった。1972年に製造が中止されても、カメラマンたちが中古品を血眼になって探し回っていたという逸話が残っておるほどの名機じゃ。わしも見つけたら是非入手したい!
 そんなビンテージ・カメラを何故エルヴィスが持っておるかというと、カメラはエルヴィスの所有物ではなく、その場に報道カメラマンがいたっつうことじゃ。そのカメラマンがお見舞いの1枚を撮影したってのが定説じゃ。
 交通事故に遭ってエルヴィスのライブに行けず、失意のうちに入院したお二人の元に翌日エルヴィスがお見舞いにやって来て、偶然にも報道カメラマンが病院にいて「スーパースターの美談」が報道されたって、ちょっと出来過ぎた話じゃなあ。まさかパーカー大佐が「エルヴィス・アピール」の為の“絵を描いた”のか?

「おいおい、七鉄のジイイよ。オマエさん性格悪すぎるぞ。美談を素直に受け止められねーのかよ!」
ってお叱りを受けそうなんで、ツマラン想像は止めておくが、その代わりにわしの名誉の為にも(笑)セント・ジョセフ病院が知られざる更なる美談ともいうべき団円を迎えることを紹介しておこう。

 セント・ジョセフ病院をちょっと調べてみたのじゃが、20世紀末になると経営危機に陥って別の病院と合併することになるんじゃ。その別病院というのが、「前編Point-2」でご紹介したパブテスト記念病院なのじゃ。ラスウッドパークの目の前に聳えていて、リサ・マリーが生まれ、またエルヴィスの死体が運ばれて正式な死亡診断がなされた大型病院じゃ。
 両病院は共にキング・エルヴィスと関わり合いを持っておったので、代表者同士できっとエルヴィス談義に花が咲き、合併の諸条件はよりスムーズに折り合いが付いたと信じてみたいものじゃ。
 
 2000年11月17日、セント・ジョセフ病院の最後の入院患者さんたちはパブテスト病院に移され、そのバブテスト病院も2003年に別の場所に移転しておる。
 エルヴィスが見舞ったお二人を治療した病院は、その21年後にエルヴィスの死亡診断を下した病院と繋がることで歴史を維持することが出来たのじゃ。


 病院の跡地は、現在土地の売却先セント・ジュード病院所有のセント・ジュード・ガーデンなる庭園になっておる。(左写真はストリートビュー2020年3月撮影)
 ちなみに、黒人解放運動指導者だったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが狙撃されて運び込まれた後に死亡した(1968年4月4日)病院が、このセント・ジョセフ病院であった。

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創業100年間近!エルヴィスをピザ好きにさせた伝説のイタリアン・レストラン
Point-27 コレッタズ・レストラン 

 バーチャル・ツアーとはいえ、やはり旅先での食事(情報)は欠かせない楽しみ(笑)息抜きとして、エルヴィスにまつわるレストランをご紹介しておこう。
 2023年に創業100年を迎える、メンフィスのイタリアン・レストランでは最古の歴史を誇る「コレッタズ・レストラン」。元々は自家製サンドイッチ、アイスクリーム、パスタを提供。時代の推移とともに徐々にイタリアン料理の需要が高くなり、メニューを拡張。やがて旧メンフィス海軍の船員たちがレストランを訪れてはピザのリクエストを続けたことがメニューにピザを加えるきっかけになったという。当時アメリカでピザを食べる習慣があったのは、ニューヨークやシカゴといったごく一部の地域だったらしい。
 1950年代に入り、船員以外のお客は遠巻きに見ていたピザにメンフィスの郷土料理ともいうべき肉のバーベキューをドカンとトッピングしてみたら、これが大当たり!やがてキング・エルヴィスまで足を運ぶようになり一躍超人気店に変身した。エルヴィスは元々バーベキュー料理をそれほど好んで食べていなかったそうじゃが、ポークバーベキュー・ピザには飛びついたというから不思議!

 エルヴィスが「コレッタズ・レストラン」でピザを食べている写真はまだお目にかかったことがないが、店内奥にはエルヴィスが仲間(メンフィス・マフィア?)と訪れた際に決まって陣取っていたというエルヴィス・テーブルがある!(下左写真)ピザと言えば、ジジイのわしなんかはチーズもトマトソースも控え目で、表面にシラスや紫蘇が振りかけられたヘルシー和風ピザしか食べようとは思わんが、メンフィスを訪れた際にはここに立ち寄ってポーク・バーベキュー・ピザにトライするぞ!ストリートビューによる現状は下右写真の通り。(2019年5月撮影)
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エルヴィス、ジェリー・リーetc、夜毎アーティストたちが集った深夜営業専門のレストラン
Point-28 パット・ピザ・レストラン跡地 
 パット・ピザ・レストラン(Pat’s Pizza Restaurant)は、創業から廃業までの約50年間(いずれも正確な年は不明)、メンフィスでは珍しかった夜間営業専門(深夜営業もあり)のイタリアン・レストランじゃった。
 エルヴィス、ジェリー・リー・ルイス、ロニー・ミルサップス(盲目のカントリーシンガー)を初め、メンフィス在住のミュージシャン、俳優、アーティスト等が深夜になると大勢集まってくることで名高く、常連客に言わせると「あの店を経営しているご夫婦は太陽を見たことがないんじゃないか?」ってほど、深夜営業に徹したお店じゃったらしい。そりゃあ、朝が苦手で日没とともに目がらんらんとして来るアーティスト連中にとっては大変に有難い店であったはずじゃ。
 その反面、ただの不眠症の方、アーティスト紛いの素行の悪そうな連中の溜まり場になりやすく、店内の雰囲気は必ずしも良くはなかったとの評判もある!?

 ロニー・ミルサップスは、1968年の“伝説のメンフィス・セッション”(名盤「フロム・エルヴィス・イン・メンフィス」のレコーディング・セッション)に参加するために初めてメンフィスにやって来たので、セッションが終わるとエルヴィスらとともにこの店にやって来て腹を満たしていたことじゃろう。
 セッション中、常にエルヴィスから「ロニー、ピアノに雷が落ちた様に弾いてくれ!」と言われ続けたというが、「エルヴィス雷サウンド・セッションの後の食事処か!」って思うと味わい深くなってくるレストランじゃな!

 既に廃業している現在でも、かつての顧客(?)が店名をそのまま名乗ったFacebookを開設しており、記事に寄せられたコメントまで丹念にチェックしないと、店舗が現在も営業中のような錯覚に陥る仕掛け(?)がされておる(笑)
 またFacebook開設者は廃業間際の撮影と思われる動画もアップしておるので、エルヴィスやジェリー・リーが深夜に訪れていたイタリアン・レストラン内の雰囲気を味わいたい方は是非観てほしい!
 ストリートビューで跡地の現状を確認すると(2021年7月撮影)空き家になって久しいようだが、店舗正面からサマーアベニューに向かってせり出していた3つの庇(ひさし)は残っておるようじゃ。(下右写真)
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音楽史上最大級の“事件現場”。エルヴィスとパーカー大佐が初めて会った小さなカフェ
Point-29 パルムボズ・カフェ跡地 
 
「彼は本当に頭の良い男だよ。彼がいなかったら俺はここまでビッグになることは出来なかった」

 1970年代に入るとエルヴィスの稼ぎの50%もぶんどっていたと言われ、エルヴィスとのトラブルも絶えなかった悪名高きパーカー大佐。それでもエルヴィスは上記の通りパーカー大佐のマネージャーとしての優れた手腕自体は最後まで認めておった。グレースランドのサイトでも、「エルヴィスが音楽に専念するために、パーカー大佐は必要な存在であった」と一定の評価が記述されておる。そんな二人が初めて会った場所は諸説様々じゃが、スコッティ・ムーアのサイトに二人が会うまでの過程まで詳しく付記されておるので、スコッティ・サイトの情報を信じてみたい。

 「中編Point-16」でご紹介した通り、1955年2月6日メンフィス・エリス・オーディトリウムでの2回のライブの休憩時間中にエルヴィスとパーカー大佐は運命の出会いを果たした。場所はエリス・オーディトリウムからほど近いバルムボズ・カフェ。
 パーカー大佐の仲間の一人が1954年10月、つ
まりエルヴィスのデビュー直後のライブを見て「コイツは大化けする!」とパーカー大佐に報告し、パーカー大佐は1955年1月15日にルイジアナヘイライドでエルビスのライブをチェック。それから三週間後にエルヴィスとのミーティングを実現させた。
 ただしこの時は「私ならエルヴィス君をとてつもなくビッグにすることが出来る」「私は業界に強力なコネクションがある」と言い放ったものの、しつこい自己アピールはしなかったという。それは同席していたサム・フィリップスが、あまり“いい顔”をしていなかったからとか!?もっともこの日を皮切りにパーカー大佐はサム・フィリップス、ボブ・ニール(当時のエルヴィスのマネージャー)にジワジワと近付き続け、エルヴィス完全譲渡を好条件で成功させるための布石を着実に打ち続けたようじゃ。エルヴィスがパーカー大佐と正式専属契約をするのはこの約一年後、1956年3月15日じゃ。

 それにしてもこのバルムボス・カフェ自体の資料がまったく見当たらない(涙)またこの時のミーティングの際にオーダーされた料理や飲み物なんかの記録も何処にも無い(笑)エルヴィスは休憩時間中だったので、きっと腹が減っていただろうし(笑)、パーカー大佐が「好きな物を好きなだけオーダーしなさい」と言っても不思議はない。でもメニューなんてそんなに多くなさそうな小さなカフェみたいだしって、そんな事ばかり気になるわしはパーカー大佐に相手にもされないスケールの小さい野郎じゃな(苦笑)
 バルムボス・カフェがあった場所は、現在のシビック・センター・プラザの敷地の北端から通りを隔てた位置にあったという。この周辺も土地の再開発がされて、当時の面影は全くない無味乾燥なビジネス街になっておる。(右写真、ストリートビュー2019年
11月撮影)
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※跡地は現在住所の消えた場所なので、Google-mapには周囲の地図が表示されるだけです。



エルヴィスが高校生徒会選挙の応援演奏! 誰でも駆け出しの頃は大変だ!!
Point-30 メシック・ハイスクール跡地  
 キング、スーパースターとはいえ、やはり駆け出しの頃は色々とやらされるものじゃのお。1955年1月の終わりから2月の頭にかけて、エルヴィスはメンフィスのメシック・ハイスクールという学校の講堂で演奏をしておる。スコッティ・ムーアのサイトで詳細を確認してみると、なんとそれは生徒会幹部選挙に立候補した一人の男子高校生の為の応援演奏だったそうな!
 いやいや、わしは自分の英語翻訳力を疑って、いくつかの翻訳アプリでサイトの記述内容を確認したが、やはり大意はどれも同じじゃった!これは、学園祭にゲストで呼ばれるよりも奇妙なハナシじゃ?

 
なんで高校の生徒会幹部選挙なんぞにエルヴィスが呼ばれたのかと原因を探ると、選挙に立候補した高校生が、当時エルヴィスのマネージャーだったボブ・ニールの息子さんじゃった(笑)(上写真の右端の男の子)ニールは息子さんを溺愛していたらしく、息子可愛さのあまりに公私混同、職権乱用の暴挙に出たわけじゃ!
 というよりも、自由と民主主義の国アメリカの教育機関、しかもメンフィス市内でもっとも歴史の古い厳格なカトリック系の学校だったメシック・ハイスクール側が、世の大人たちから悪魔の申し子とまで言われたエルヴィスに、たった一人の生徒の為の応援演奏を許可したってのがアンビリーバブルじゃわい! 

 スコッティ・サイトのなが~い記述を最後まで諦めずにチェックしたら、このメシック・ハイスクールはお堅いだけの学校ではなかったようで、スポーツや文化芸術活動も活発に行われていた事が記されておった。卒業生の中にはブッカーT&MG’Sのギタリスト、スティーブ・クロッパーやベーシストのドナルド・ダック・ダンもおる!スティーブとドナルドは、校内でのバンド活動がプロ・ミュージシャンへの道に直結したようじゃ。

 そんなユニークな校風にボブ・ニールが着目して、エルヴィスを息子さんのために演奏させちゃったようじゃ!恐らくノーギャラのボランティア演奏だったに違いない。因みにニールの息子さんは選挙に当選したのじゃろうか(笑)

 エルヴィスが演奏しておる写真は何枚か残されておるが、エルヴィスもスコッティもビルも実に爽やかな表情じゃ!(上写真)学生時代に戻った気分で楽しんでおった様にも見える!
 上写真、ビルの斜め後ろで座っておるお坊ちゃんとお嬢さんが立候補 した生徒さんのようで、上述の通りお坊ちゃんがニールの息子さんで、お嬢さんの方にはスコッティ・ムーアのサイト制作側が近年コンタクトをとったらしく、お嬢さんの話によると、応援演奏は2回行われてエルヴィスはデビューシングルに収録された2曲を歌ったという。またお嬢さんの親戚の方は60年代にエルヴィス関連の雑誌の発行に携わっていたそうじゃ。


 個人的に気になるのは、当時メシック・ハイスクールに在学中だったはずのスティーブ・クロッパーとドナルド・ダック・ダンがこの時のエルヴィスの演奏を聞いた可能性が高いことじゃ。彼らのスルドイ感性はエルヴィスのロックンロールをどのように受け止めたのじゃろうか?

 メシック・ハイスクールは1980年代に別の場所に移転。エルヴィスが演奏したハイスクールの敷地内には当時の面影は現在は全くない。(右上、下側写真はストリートビュー2021年5月撮影)「ここであのキング・エルヴィスが高校生のために(ボランティア)で演奏した」なる標識ぐらい立てれば、何某かの地域振興になるのにのお!

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プレスリー一家メンフィス7軒目の家跡地
Point-31 プレスリー一家メンフィス7軒目の家跡地  
 グレースランド公式ホームページの中のブログ「Elvis Presley's Home Sweet Homes」によると、メンフィスに移ってからのプレスリー一家は、サンレコード時代のお稼ぎで購入したオウデュポン・ドライブの一軒家に至るまで都合8度も引っ越しをしておる。

 7軒目の家はラマーアベニュー通り沿いにあり(1954年移動)、「前編Point-6」のイーグルズ・ネットまで約8キロ、車で10分程度の距離じゃ。「前編」でご紹介した通り、エルヴィスは1954年後半だけで「イーグルズ・ネスト」で14回もステージをこなしており、立地的にこのお家までのお帰りはラクチンだったに違いない!
 まあ、そんな理由で「イーグルズ・ネスト」が14回もライブ会場として選ばれたとは思えんが(笑)、スコッティ・ムーアの記憶によると、イーグルズ・ネストでのステージにはエルヴィスの両親をはじめとして親族が頻繁に応援に駆けつけに来ていたという。プレスリー一族にとっては、エルヴィスの大願成就を祈願し、活動を支援する場所としては都合の良い立地だったはずじゃ。

 プレスリー一家が住んでいた頃の家屋と断定できる写真はネット上ではどうやら無さそう。某個人英字ブログによると、家屋自体は現存しておるとのことじゃが、真偽のほどは不明じゃ。ストリートビューでチェックすると(上写真、2019年6月撮影)、黄色い家屋がエルヴィスが暮らしていた家屋そのものなのか、どうか?プレートに表記された住所(2414-Lamar Ave.)は合致してはおる。現在は24時間営業の幼児お預かり施設になっておるようじゃ。わしとしてはイーグルズ・ネストを訪ねる道中に、もらさず立ち寄っておきたいポイントじゃ。

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 グレースランドが真相を解明!数年前に突如公開されたエルヴィス少年14歳の写真
Point-32 14歳のエルヴィス写真撮影地点 
2014年1月に未発表写真としてネットに登場した、テュペロ在住時(と発表された)の自転車に乗ったエルヴィス14歳の時の写真である!(上左写真)。「本当にエルヴィスなのか?」「この場所はテュペロの何処なのか?」と、エルヴィスの親族や多くのエルヴィス研究家を巻き込んで騒動を起こした1枚じゃ。
 一時はテュペロの場所を特定した情報も出たが、グレースランドが調査に乗り出した結果、2015年10月に「恐らく、写真の少年はエルヴィスに間違いない」とした上で、場所はテュペロではなくてメンフィスであると発表!(ホームページに掲載)Point-8の「ポプラーチューンズ・レコードストア」から約200メートル東、同じくポプラーアヴェニューに面した「S&Sドラッグ・ストア」前での撮影と断定された。
 当時の「S&Sドラッグストア」の経営者がエルヴィスがピンボールをやるために店をよく訪ねて来た事を子息に話していたらしく、その子息のコメントが最後の決め手になったらしい。
 またテュペロが属するミシシッピー州リー郡は1966年まで禁酒法が敷かれており、写真の中に酒屋が写り込んでいる(らしい)ので、
グレースランドの調査部隊は早い段階でテュペロ撮影説を否定してメンフィスに的を絞れたとのこと。
かしながら、ロウダ―デール・コーツに引っ越す前のプレスリー一家がこの写真の撮影場所の目と鼻の先に住んでいたこともあり、エルヴィスがメンフィスにやって来てもっとも早い時期(1949年秋頃)に撮影された、価値の高い写真であることをグレースランドは讃えておる! 
 ストリートビューによる現状は上右写真の通り(2019年5月撮影)。上左写真との2枚を照合すると、いずれもほぼ中央に立つ電信柱がポイント。1949年当時の木製の電信柱がそのまま現在も使用されているはずはないが、自転車をレンタルして記念撮影をしたいところじゃ!
(右写真は、S&Sドラッグストアが存在した当時のポプラー・アベニューを撮影したもの。撮影年度は不明)
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ルヴィスゆかりの地~メンフィス・テネシー編は、後編の今回をもって一旦終了させて頂くことにする。諸君の中にはGoogleマップやストリートビューの使い方に慣れていらっしゃらない方がいるかもしれんが、まずはバーチャル・ロックンロール・ツアーに参加頂き、大変お疲れ様でございました!
 The-Kingは年24回の新作発表(サイト・ページ更新)のアクションを「ミステリー・トレインの旅」とカッコよくネーミングしておるだけに、わしの「バーチャル~」ってタイトルは当たり前過ぎてオモロないなあ~。なんかクールなヤツはないかのお~。まあモノホンのツアーではないので、当面は「バーチャル~」でいくか!
 「え?当面はって、今後も続けんのかよ?ジイサマ大丈夫??」
って声が聞こえない事もないな(笑)体力、気力の衰えを自覚せにゃいかん年齢に達しておるだけに、わし自身も継続に自信がないのであまり期待はせんように(笑)

 自分でページを製作しておいて何だが、この度ご紹介した32ヶ所を周遊するツアーが実際にあったら、諸君は参加するかい?(笑)もちろん、主催はThe-Kingでバスガイドはわしじゃ!バーレスクのオネエサマ方にご同行頂けるかどうか、また参加費用はいかほどかはともかくとして(笑)、ドレスコードはあるぞ。もちろん全身The-King製ファッション着用じゃ!
 サイト内で記述した説明文は、調査の段階で収集した情報のほんの一部なんで、実際のツアーではわしはダイナマイト・シャウト、じゃなくてマシンガン・トークで喋りまくるぞ!移動中のバスの中では酒は飲み放題、ロックンロール演奏し放題だから、その内にわしのガイドなんて誰も聞かなくなってしまうじゃろうけどな!!

 恐らく、行く先々で周囲の現地人から「一体なんなんだ、あのやかましい集団は」って訝しがられるか、「アイツラ、どうやらただのおのぼりさん、エルヴィスおたくじゃなさそうだな」ってThe-Kingファッションとともに話題になって、やがてマスコミがツアーの取材に来るようになるかもしれんぞ!(笑)
 などと勝手に想像していたら俄然やる気モードになってきた!次回は(って、さっそく来月ってお約束ではないが)テュペロとかミシシッピー州とかの括りでやるつもりでアリマス。その際はあらためて「バーチャル・ロックンロール・ツアー」にご参加頂けますよう!
(上写真は、Point-25で紹介した、床屋さんで髪の毛をカットしておる間に“駐禁”をくらったエルヴィス。エルヴィスの左後方にジムズ・バーバー・ショップの“クルクル”が見える)


【付録】 バーチャル・ロックンロール・ツアー(エルヴィスゆかりの地)Googleマイマップ

下地図の内容をここでは気にされる事なく、

まずは地図右上の[ ]マークをクリックし
"拡大地図を表示"させて下さい。

バーチャル・ロックンロールツアー~」でご紹介してきた全Pointが再度、ナンバー入り赤丸で表示されます。(ナンバーは、上記本文中のPointナンバーと同じです)
メンフィス全域内における各Pointの位置や、Point同士の距離感等も確認出来ます。

      ※詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 

                                       
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