バーチャル・ロックンロールツアー・エルヴィスゆかりの地~トゥペロ、ミシシッピー編
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 「バーチャル・ロックンロール・ツアー」第4回目は、エルヴィスの故郷ミシシッピー州トゥペロに入るので、どうか皆様ご参加のほどをよろしくお願いいたしやす!またトゥペロ以外のミシシッピー州のゆかりの地もこれからどんどんご案内することにする!

 エルヴィスは1935年に生まれてから1949年秋までトゥペロに住んでおり、スターになってからの凱旋公演の地以外はプロのミュージシャンとしての足跡はトゥペロにはない。トゥペロを周遊することはエルヴィスの少年時代の思い出に触れることであり、通り一遍のご案内をしてもあまりオモシロクないかもしれない。様々な資料を集めて参照した結果から見つけ出した、少々特異な角度や視点でご案内するので、どうか楽しんで頂きたい。
 

【目次】 バーチャル・ロックンロールツアー
           エルヴィスゆかりの地~トゥペロ、ミシシッピー編

 ・御覧になりたいPoint番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。

 Point- 1  エルヴィス・プレスリー生家
 Point- 2 ジョニーズ・ドライブ・イン・BBQ
 Point- 3 トゥペロ・ハードウェア・カンパニー
 Point- 4 メイホーン食料品店跡地
 Point- 5 旧WELOラジオステーション跡地
 
 Point- 6 
プレスリー一家トゥペロ最後の住居跡地
 Point- 7  フェアグラウンズ跡地
 Point- 8 
 ランドルフ・ハイスクール跡
 Point- 9 旧クラークスデール駅跡地(現デルタブルース・ミュージアム)
 Point-10  クラークスデール・シティ・オーディトリアム


  【付録】  バーチャル・ロックンロール・ツアー・Googleマイマップ
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順


  キング誕生せず!?“世紀の大誤診”が起きかけた、トゥペロ第一の観光地
Point-1 エルヴィス・プレスリー生家


ペロにおいては、まずはテッパン中のテッパン、というかトゥペロ最大の観光ポイントと言っても過言ではない、毎年5万人以上のファンが訪れるエルヴィスがお生まれになられたお家から。
 現在の生家は外壁は塗り直され、内部はプレスリー一家が住んでいた頃を再現したかのように家具等がディスプレイされており、コジャレタかわいいハウスになっておるが(上中央写真)、エルヴィスが生まれた当時の様子は小屋同然のショットガンハウス!(上左写真)ショットガンハウスとは、入口からショットガンをぶっ放せば一番奥まで貫通してしまうような、粗末で小さい家という意味じゃ。
  この家は、エルヴィスの母グラデスの妊娠により、父ヴァ―ノンが知人から180ドルの融資を受け、実家からは男手を借りることで完成させた完全手作りだったそうじゃ。何の仕事をしても長続きせず、大工仕事もたいした腕前でもなかったヴァ―ノンにとっては、「この家の建築は自分の最高傑作だった」と述懐しておる。

ルヴィスは1935年1月8日午前4時35分にこの家で生まれた。当日日の出前の刻、周囲は“不思議な青い光”に包まれたらしい。グラデスの出産に対応した医師は、最初の子供(エルヴィスの兄ガロン)が午前4時ちょっと過ぎに死産された時点で、もう一人の赤ちゃん(エルヴィス)がまだグラデスのお腹の中にいることに気が付かずに帰り支度を始めたという。出産に立ち会っていたヴァ―ノンの父(エルヴィスの祖父)が「もう一人、赤ちゃんがいるみたいだ」と医師に告げても「そんなはずはない」と医師は否定し、「これから(死産の赤ちゃんの)死亡診断書を書く為に帰る」と言い放ったというちょっとゾッとするような逸話が残っておる。
 ひとつ間違えば世紀の大誤診!になりかねなかった診察をしたこの医師、当時68歳のおじいちゃんセンセーだったらしい。やはり出産に立ち会っていたエルヴィスの祖母ミニーメイは後々まで「あのヘボ医者はトゥペロから追い出すべきだ」と語っていたらしい。しかしおじいちゃんセンセーはトゥペロの貧しい人たちの為にノーギャラで働かざるをえない事も多く、この日は深夜に突然ヴァ―ノンからの電話でたたき起こされたんだから、諸君におかれましては「テメエジジイ!とんでもない誤診をやらかすところだったんだぞ」と責めるのはやめましょうね(笑)



家の周囲は長らく美しく整備され続けており、3体の銅像や様々な施設、景勝ポイントが点在する約15エーカーの広さの「エルヴィス・バースプレイス・アンド・パーク」になっている。エルヴィス・ファンならば、各ポイントを知り尽くしておるはずなので、ここでは詳細の記述は避ける代わりに、当地で来訪者向けに配布されておるという地図のコピーを掲載しておこう。(上写真)
 このパーク内には3体の銅像のうち、名デザイン?として人気の高い「13歳のエルヴィス」(右写真左)は上記マップの⑥、スターエルヴィスがマントを広げている像と少年エルヴィスが座っている像の2体は㉑の位置に設置されておる。

 なおこのパークから北東約数キロの位置に、「エルヴィス・プレスリー・レイク&キャンプグラウンド」という広大な湖を臨むキャンプ場があるが、エルヴィス本人との関係が不明であり、色々とレビューを読むと「人種差別的扱いを受けた」とか「二度行きたくない」等の悪評が多い。勿論真相は不明だが、とりあえず今回のツアーではご案内を控えさせて頂く。

ース・プレイス・マップ左端に見える「Elvis Presley Drive」と名付けられた通りは、南はトゥペロ市街の真ん中を東西に貫くメインストリートから、北は国道78号線(メンフィスへと一直線に繋がる)手前まで、約4キロほどの長さ。試しにストリートビューでメインストリートの入口から入ってみると、入口には「生家」の案内モニュメントがあり(下左写真)、「バースプレイス&パーク」周辺は街灯が音符型に模られておる。(下中央写真)
 それ以外は特に見るべきポイントもなく、住宅が点在しているだけの至ってのどかな田舎道じゃ。北側の終点は行き止まりで、何の標識もないのが誠に残念!(下右写真)
 もしわしが地主なら、僅か150メートル先にある78号線まで繋げて、更に
「この先約180キロがメンフィス中心地。1949年秋、エルヴィスはキングに成る為にここからメンフィスへと旅立って行ったのだ」
なる大きな標識を立てたいところじゃ!
 「でもさあ七鉄のジイサマよ。事実としては“エルヴィスがキングになる為”じゃなくて、一家としては夜逃げ同然の旅立ちだったんだろう?」って、そーいうカワイクないツッコミはここではしないように(笑)
■Google-map上の位置■

エルヴィス・バーガーで21世紀も繁盛するドライブイン・レストラン
Point-2 ジョニーズ・ドライブ・イン・BBQ
 
 エルヴィス生家から、約500メートル離れた場所(徒歩数分)にある現在も営業中のドライブイン・レストラン。既に前回の「先乗りレポ」でご紹介した通り、エルヴィス少年が学校帰りによく立ち寄っていた(かもしれない)お店じゃ。
 1956年の初めにエルヴィスが訪れた時の写真(左写真)が40年以上も経ってから撮影者からお店に送られてきて、その写真を店内に飾ってから一躍有名店になった(ようじゃ)!スターになってからのエルヴィスがお店を訪れた時の様子を知りたい方は「先乗りレポ」を読んで頂きたい!

 スター・エルヴィスが座った場所は「エルヴィス・ブース」として大人気。エルヴィス少年が学友と座っていたのは入口横のポーチ席だったとされておるが、お店の創業当時(1945年)の古い写真を拡大しても(下中央写真)ポーチ席らしきものは見当たらないが、車の陰に隠れてしまっているのか?
 なおエルヴィスがいつもオーダーしていたというチーズバーガーは、現在ではエルヴィス・バーガーの名で看板メニューとなっておる。(右写真)ストリートビューによる現状は下右写真(2019年5月撮影)
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エルヴィスが“ロックンロール・スナイパー”の道を歩み始めた!
Point-3 トゥペロ・ハードウェア・カンパニー 

 1947年、12歳のエルヴィスが母グラデスから“初めて”のギターを買ってもらったお店としてあまりにも有名じゃな。(1946年説もあり)お店の解説に入る前に、チト正しておきたい事がある。
 このお店はエルヴィス関連の日本語サイトでは「金物屋」との表記にて紹介されておる場合がほとんどじゃが、わしのような昭和の人間にしてみれば「なんで金物屋にギターがあるんだ?」ってなる(笑)
 金物屋さんと言えば、鍋釜、金ざる、包丁等の調理用品や工具用品を取り扱うお店を想像してまうわな!Hardware Storeでグーグル翻訳をしてみると確かに金物屋と訳されるが、ここは「金属製品店」と訳した方がスッキリくるわい(笑)

 母グラデスは当初自転車を買ってあげる予定だったらしいが22ドル50セントと高くて買えず、その代わりに7ドル90セントのギターをエルヴィスに買い与えたという。エルヴィスは最初は22口径のライフルを欲しがったらしいが、12歳の子供に母親がライフルを買い与えるはずもない!というか、ライフルまで取り扱っていたんだから、やっぱり「金物屋」って日本語表記はおかしいな!(笑)

 まあ我々ファンとしては、この時入手したギターによってエルヴィスの音楽的才能が本格的に開き始めた!と理解すれば、そのギターは後に世界中のエルヴィス・ファンの心を撃ち抜くライフルになったとも言えるな!!
 一般的にはまったく話題にはならないが、スコッティ・ムーアもジョニー・キャッシュも、エルヴィスのリズム・ギタリストとしての腕前も非常に高く評価しておる。それだけに、シンガーとしてだけではなく、エルヴィスのロックンローラーとしての原点を語る上では欠かせないポイントのお店じゃな。

 「トゥペロ・ハードウェア・カンパニー」は現在の外装も内装もエルヴィスがギターを買った当時とほとんど変わっていないらしく、エルヴィスがギターを受け取った販売カウンターの床には「×マーク」が印されておるぞ!(上写真、赤丸内)

 ギター購入のきっかけになった微笑ましいエピソードも存在する。トゥペロ一帯がトルネードに襲われた際、シェルターの中で母グラデスは怯えるエルヴィスを抱きしめながら、既に音楽的才能が現れ始めたエルヴィスを勇気づけるために「トルネードが去ったら、ギターを買ってあげるね」って約束したという。

 ストリートビューによる現状は右写真の通り。(2019年3月撮影)上写真(白黒)と照合すると、見事に昔の佇まいのまま。天然記念物的建物じゃ!
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エルヴィス少年にとっての、白人音楽と黒人音楽の合流地点
Point-4 メイホーン食料品店跡地 

 ノース・グリーン・ストリートとノース・スプリング・ストリートという二つの通りの合流地点に存在していた「メイホーン食料品店 Mayhorn Grocery」。ここはエルヴィス少年の音楽的素養の形成に絶大な影響を与えた場所として、銅板入りの記念碑が設置されておる。(下写真/ストリートビュー2013年8月撮影))
 名前は食料品店(Grocery)だが、地元密着型のパブといった方が適格じゃろうか。また地元の音楽好きの白人たちがやって来ては外のポーチ席辺りで気軽に演奏を楽しむ場所であったようじゃ。当時ノース・グリーン・ストリートに住んでいたエルヴィス少年は、演奏を聞く為によくポーチ席にやって来ていたらしい。

 またノース・グリーン・ストリート側のお店の対面にはスプリング・ハブテスト教会があり(現存中)、ここからは黒人の礼拝者たちの歌うゴスペル音楽が聞こえてきたという。「メイホーン食料品店」のポーチ席では、白人音楽と黒人音楽の両方を聞くことが出来たのである。

 エルヴィスの父ヴァ―ノンは当時食品卸業者のトラック運転手をしており、どうやらメイホーン食料品店も配達先になっていたようじゃ。配達中に音楽を楽しむ息子エルヴィスを何度か見かけていたかもしれない。 なお当時トゥペロは禁酒法が施行されていたので、メイホーン食料品店で提供されていたアルコールは当然密造酒じゃ。
 ヴァ―ノンは密造酒の配達中に警察の検問に引っ掛かって「刑務所行きかトゥペロを出て行くか」の選択を迫られたという説が有力じゃが、その日の配達予定の中に、案外このお店も含まれていたのかもしれない(笑)ショッピカレタ場面を息子に見られてしまった!という話は聞いたことはないが(笑)
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トゥペロの大人気DJが活躍したラジオステーション
Point-5 旧WELOラジオステーション跡地 

 WELOは1941年5月に開局したトゥペロのラジオ局。開局当時はトゥペロ群庁舎敷地内に放送ステーションがあり、1940年後半に看板DJでありカントリー・ミュージシャンだったミシシッピー・スリム(左写真)の番組にエルヴィス少年は夢中になった。スリムは漫画の主人公ではなく、エルヴィスにとっては初めての生きているアイドルとなったのじゃ。

 WELOが開局してから間もなく、ミシシッピー・スリムはライブ・カントリーミュージックショー「「Singing And Pickin'Hillbilly」」を開始。元々は15分の土曜日のショーだったが、やがて30分に拡大され、最終的には毎日1時間、週5日のレギュラー放送枠を与えられるほどの人気者となった。また毎週土曜日の午後には、「Saturday Jamboree」なる別番組も任されていたという。

 ミシシッピー・スリムは時にはラジオステーションの外に出て、群庁舎敷地内で様々な音楽イベントを開催してその模様を生中継でラジオで放送。エルヴィスが11~14歳の頃(1946~1949年頃)からこの野外音楽イベントを鑑賞するために、当時の住居のあった東トゥペロからヒッチハイクをして群庁舎までやってきていたらしい。
 
 エルヴィスとミシシッピー・スリムとの関係は諸説様々あるが、真偽はともかく、いくつかピックアップしてみよう。

・当時エルヴィスが通っていたミラン・ジュニア・ハイスクールの学友の中にスリムの実弟が在籍していて、彼を介してエルヴィスはスリムの仕事場にまで入り込む事が出来た。
・毎回のイベントに必ずやって来るエルヴィスの熱意に胸を打たれたスリムのバンドメンバーが、ヒッチハイクでやって来るエルヴィスを特定の場所まで迎えに行っていた。
・イベント開催日は、エルヴィスは会場内はフリーパスとなり、“まるで犬が飼い主に付いていく”様にスリムを追いかけ回していた。
・WELOがフェアグラウンズで開催したタレントコンテストにエルヴィスは参加し、「Old Shep」を歌って入賞。(下記Point-7参照)その様子を目撃したスリムは、エルヴィスの非凡な才能を見抜き、エルヴィスにギターを弾くことを勧めて幾つかのコードを教えた。
・スリム自身はミュージシャンであると同時に優れたパフォーマー、イベントマスターとしての演技に対しても熱心であり、エルヴィスはそれを食い入るように見ていたことが後の豪快なステージ・アクションを生み出す重要な基礎になった。

 トゥペロのローカル・ヒーローだったミシシッピー・スリムは1950年代前半にメンフィスへやって来て、サンレコードで15曲のデモ・テープのレコーディングをしておる。サンレコードのサイトによると、そのオリジナルテープには、演奏に入る前に「私はエルヴィス・プレスリーにギターを教えた男です」という語りが録音されていたという。

 旧WELOラジオステーション跡地は現在自動車管理局(Lee Country Tax Collection)として使用されておるが、建物自体はトゥペロの歴史的建造物として当時のまま保存されている。(右写真、ストリートビュー2016年8月撮影)また現在WELOは別の場所に移動しており、クラシック・ソウル・ミュージックの専門放送局となっておる。
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トゥペロ出立の地は、生家のすぐ近くだった
Point-6 プレスリー一家トゥペロ最後の住居跡地 
 上記Point-5解説文で、8歳のエルヴィス少年が当時の自宅からミシシッピー・スリムのイベント会場まで毎回ヒッチハイクをしてやって来ていたことをご紹介した。
 某英字サイトに掲載されていた当時の住居の住所を頼りにGoogle-mapで検索すると、生家から徒歩数分の場所であった。イベント会場のラジオステーションまでは徒歩約30分、子供の足なら30数分か。車では数分の位置であって大した距離ではないが、11~14歳の子供が臆せずヒッチハイクをすること自体が驚きであり(アメリカでは普通なのか?)、そこまでしてミシシッピー・スリムのイベントを観たい!というエルヴィス少年の情熱を讃えたい!(心配性の母グラデスは知っていたのか?)

 なおストリートビューでは、2013年8月の撮影ながら当時の住居の住所には家屋も建っておった。(上写真)この家屋がプレスリー一家が住んでいた家屋と同一かどうかは不明。この住所は一家にとってトゥペロ在住時最後の住居のあった場所でもあり、ここからメンフィスへと引っ越していっただけに見逃せないポイントじゃ。

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 トルネードより凄い衝撃!田舎町トゥペロに5万人を集めたエルヴィス故郷凱旋ライブ
Point-7 フェアグラウンズ跡地 

ルヴィスのライブ歴において、故郷トゥペロでの公式ライブは1956年8月1日、9月26日の2回のみ。会場はいずれもフェアグラウンズ。その名の通りフェア(屋外娯楽イベント、農畜産物品評会)が毎年夏から秋にかけて1~2回開催される野外催し物会場じゃ。トュペロの街全体をあげての「トゥペロ祭り」が開催される場所じゃ。
 1909年の第1回目のフェアは「リー・カントリー・フェア」の名で開催され、やがて「ミシシッピー・アラバマ・フェア」と改名されて、毎年様々な農畜案物品評会や芸人ショー、コンテスト、ミュージック・ジャンボリーなどが開催され、メインストリートでパレードも行われる等、華やかに歴史を重ねてきた。

 1945年エルヴィスは10歳の時に上記Point-5で紹介したラジオステーションWELOがフェアグラウンズ内で主催したタレントコンテストに参加し、「Old Shep」を歌って5位に入賞。(右写真、右端がエルヴィス))翌年エルヴィスは最初のギターを手に入れておる。(Point-4参照)

2回のフェアグラウンズでのライブ情報を集めてみると、テキストデータも写真も99%が9月26日の情報ばかり!スコッティムーアのサイトでさえ、8月1日のライブについてはほとんど触れられていない。8月1日はエルヴィス単独公演ではなく、ワンダ・ジャクソンを始めとした10人ほどの他のミュージシャンと共演したミュージック・ジャンボリーじゃった。

 一方9月26日の公演は、まさに故郷の英雄の帰郷を歓迎する「大エルヴィス・プレスリー祭り」!当日は元々のフェア開催日であり「こどもの日のなんとか~」と銘打たれておったらしいが、そんなお決まりはエルヴィスの凱旋騒ぎが吹っ飛ばしてしまったようじゃ!
 写真を見る限り、パレードが行われたメインストリートには「お帰りエルヴィス!我が郷土の英雄!!」みたいな横断幕がドド~ンと張られ(左写真)、フェアグラウンズのバックステージにはミシシッピー州知事、トゥペロ市長、警察のお偉いさん、全米各地からのレポーター等でごッた返しておる。
 エルヴィスは当初オープンカーに乗ってパレードに登場する予定じゃったらしいが、エルヴィスの身の安全とパレードの大混乱の回避が考慮されて中止され、その代わりにトゥペロや近隣地域からの楽団がエルヴィス・ナンバーを演奏したらしい。

コッティ・ムーアのサイトには、この日のトゥペロの民衆の盛り上がりを報道した新聞記事の数多くが掲載されており、それによると当時人口12,000人のトゥペロに、エルヴィスのライブと「エルヴィス祭り」を観るために全米から50,000人以上の人間がトゥペロに集結したという。「トルネードより凄い~」というわしが付けた見出しは、実はミシシッピー州の某メディアが使った表現を借用させてもらった!

 知事だったか、市長だったか、オモシロイコメントが紹介されておったな。「エルヴィス殿、君は故郷の英雄にしてなんたらかんたら」って表彰状を読むためにステージに上がった際、
「エルヴィスの登場を待ち焦がれている物凄い数の観衆から当然ブーイングされると覚悟していたんだが、みんな拍手をしてくれたんだ。このショーが故郷の英雄エルヴィスの帰郷をみんなで祝う祭事ということを分かっていたんだろうね」
エルヴィスは「トゥペロの人たちはみんな素晴らしいよ。大好きだよ」と一応優等生的な返答をしておる(笑)

日のショーは昼夜2回。会場の収容可能人員数は12,000人とされており、これはトゥペロの人口と同じ数!勿論2回ともチケットは売り切れたので合計24,000人がエルヴィスのライブを観た計算になり、会場に入りきれなかった大勢の観客も含めれば、当日トゥペロに50,000人が集まったという報道は決してモリモリではないじゃろう。

 トゥペロ市発足以来の大盛況となったライブだけに、撮影者不明なものを含め、素晴らしいステージ・ショットが数多く残されておる。その中でもわしはエルヴィスの表情が分かる近影っぽい写真が好きじゃ。「俺は成功したぜ」「ついに俺の時代が来た」といった驕り高ぶりが見えず、ロックンローラー特有の危険な男性美と突き抜けた様な清々しさが共存した実にいい表情をしておる!ステージ上から女の子たちを煽る姿も、巧みに“境界線ギリギリ”まで誘導しておるようでスマートでカッコイイ。

ェアグラウンズの跡地周辺は、現在は「フェアパーク」として美しい公園になっている。ウエストメインストリートからみると、「FAIR PARK」と記されたアーチがかかるゲートがあり、ゲートをくぐると左手前方に、数あるエルヴィスの銅像の中でも「最高傑作!」との誉れ高い逸品がお目見えする!
 フェアグランズでのエルヴィスの有名なパフォーマンスが再現された銅像であり、その全長は実物のエルヴィスよりやや背が高めに造られておるとか!(下写真はストリートビューより。2019年3月撮影)
 
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   こんな山奥の小さな学校にまで!若きキングのプロ根性に敬服するライブ軌跡
Point-8 ランドルフ・ハイスクール跡地  

1956年1月5日(もしくは6日)にライブが行われたミシシッピー州ランドルフ・ハイスクールについては、「先乗り部隊レポ」にて詳しく説明しておるが、「レポ」を読んでいない方に向けてここで内容を要約しておこう。とにかく謎多き1月5日(6日)であり、学校であった!

①1月5日だったのか6日だったのか、依然として不明。
②ジョニー・キャッシュと共演しているはずだが、写真資料は皆無であり、ジョニー関連のサイトでは共演クレジット無し。日付は1月6日。
③ランドルフ・ハイスクールは山奥の小さな中高一貫スクールであり、生徒数は多い年度でも70~80名。
④現在の航空写真で見ても緑一色の山奥(上右写真)で超ド〇なか。こんな所までエルヴィスやジョニーがやって来た事が驚き!
⑤既に廃校になって久しく(1972年廃校)、またネット上の資料も極めて少なく、同名のスクールの存在も支障となって現在地の特定は困難を極めた!!

今回あらためてランドルフ・ハイスクールを取り上げ、追加情報を余すことなくご紹介致す。

題に入る前に、ひとつの地図をご紹介しよう。(右写真)これはグレースランドのホームページに掲載されている「1956年エルヴィス・プレスリー・全米ツアー軌跡」じゃ。
 一年間でエルヴィスが周回した全米のライブ地を曲線で結んでおり、その距離はまだ計算しておらんが、おそらく軽く地球1周分はあるじゃろう!グレースランドは、文面でも移動距離の凄まじさを強調しておるが、その中に「そりゃあ~ねーだろう」というか、ムカツイタ一文があった!(笑)

 「エルビスは56年にさまざまなステージで演奏しました。彼はテレビ局から講堂、高校の体育館、大学のフィールドハウスまであらゆる場所で演奏しました。町の大きさも、アトランタ、デトロイト、サンディエゴなどの主要都市から、ミシシッピ州ランドルフ(彼が生まれたテュペロからそう遠くない)などの小さな町まで様々でした」(byグレースランド)

 「ミシシッピ州ランドルフ」が「彼が生まれたテュペロからそう遠くない」って、説明はたったそれだけかよ!他に伝えることあるだろう!!跡地を特定するのにどれだけ苦労したと思ってんだ!!!
 って天下のグレースランドに喧嘩を売ってもしょーがねーけど、あまりにもかる~くスルーされちゃってるみたいで、少しはわしの苦労、じゃなくて山奥の小さな学校にまで行って演奏した若きエルヴィスのプロ根性を讃える一文があって然るべきじゃろ!って感じた次第じゃ(笑)

ンドルフ・ハイスクール公演から時を遡ること約1年、実は1955年2月1日にも同校でのライブが予定されておった。しかしミシシッピー気象庁から、当日現地は竜巻に襲われる予報が発表されてライブは中止。それに伴い、当時のエルヴィスのマネージャーだったボブ・ニールはランドル・ハイスクールのレングス女性学長に当日付けで「公演断念」を知らせる手紙をお詫びの一文を添えて送っておる。(左写真)「ランドルフには電話がないので、お手紙で失礼します」なる断り文から、同校がど〇なかにあったことが伺い知れる。

 中止になった2月1日の振り替えライブとして、3月1日に同校でライブが開催されたという説が有力じゃ。確かにボブ・ニールの手紙には「3月の初めにあらためて伺えることができます」とは書かれてあるが、実際に3月1日に振替ライブが行われた確証を得ることは出来なかったわい。スコッティ・ムーアのサイトでも同日は記載無しじゃ。どこまでも悩ませてくれるランドルフ・ハイスクール!

 また写真資料がネット上でまったく見つからないが、中止になった1955年2月1日のライブ広告だけはサンレコードのサイトに掲載されている。(右写真)バーチャルじゃなくて、本当のツアーを企画したら絶対に現地に行って“何か”を掴みたい!(笑)

 なお同校のあったミシシッピー州ランドルフという地域じゃが、すぐ東側はポントックという地域。ポントックはエルヴィスの母グラデスの生まれ故郷じゃ。もちろんポントックもランドルフ同様にド〇なかであり、そこでグラデスの父は一時期密造酒業をやっておったという。誰よりも母グラデスを愛していたエルヴィスは、「ランドルフは母の故郷近く」と特別の親近感を抱き、喜んで山奥まで演奏をしに行ったのかもしれない。
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名曲「ミステリー・トレイン」のインスピレーションになった(かもしれない)駅
Point-9 旧クラークスデール駅跡地(現デルタ・ブルース・ミュージアム)

 ご存知The-Kingブランドのテーマソング!にして、エルヴィスの歌い残した名曲「ミステリー・トレイン」。元々はこの曲の作者でもあるジュニア・パーカー(黒人ブルースマン)が1953年にサン・スタジオでレコーディングした曲じゃ。
 ジュニア・パーカーは1932年ミシシッピー州のボボという小さな街で生まれ(アーカンソー州ウエストメンフィスという説もあり)、その後ボボから北東に10キロほど離れたデルタ・ブルースの中心地クラークスデール(伝説の「クロスロード」がある)で育ち、活動していたという説が有力じゃ。このクラークスデールは近い将来「ミシシッピー・デルタ・ブルースゆかりの地」をやる時に詳しくご紹介する予定じゃが、今回はエルヴィスに関連する2ポイントのみやらせてもらう。そのひとつが現デルタ・ブルース・ミュージアムであり、かつて旧クラークスデール駅があった場所じゃ。

 多くのブルースミュージシャンが一旗揚げるためにこの駅で下車してクラークスデール入りし、またエレクトリック・ブルースの地シカゴへと旅立つ時もこの駅が起点のひとつになったという説は、ブルース調査サイドで入手した資料で何度も確認しておる。まあそれだけで、旧クラークスデール駅と「ミステリートレイン」を結び付けるのは強引かもしれん。
 しかし「デルタ・ブルース・ミュージアム」のサイトを拝見すると、旧クラークスデール駅がいかに黒人たちの憩いの場であり、出会いと別れの場であったかが記述されており、わしは心を打たれて「ミステリートレインのインスピレーションになった場所かもしれない」と閃いた!(勘違い!?)

「永遠に行き来する盲目の歌手や足の不自由な吟遊詩人なしにはここ(駅)は成り立たなかったのです。彼らは貧しかった。線路を下って散歩に来た人もいれば、貨車から降りた人もいれば、大きな荷車に積まれた綿の俵の上に乗って町に入った人もいました。彼らのお気に入りのたまり場、それが駅でした。そこでは、観客が魚やパンを食べ、サトウキビを噛み、嗅ぎタバコを楽しみ、電車がやって来るのを待っている間、彼らは歌を聞いて歌って心を満たしていたのです」(byデルタ・ブルース・ミュージアム)

 またサム・フィリップスは楽曲「ミステリートレイン」に関して、次のようなコメントを残している。
「当時の列車や駅っていうのは(飛行機ほど無機質ではなく)、この先二度と(家族や恋人に)会えなくなるんじゃないかって思いにさせられたものだ。ミステリートレインの根幹はそこにある」

 ジュニア・パーカーは1950年代に入ると、メンフィスで知り合ったハウリング・ウルフらのブルースマンたちと南部をサーキットする長期演奏ツアーに出かけており、その際にブルースの本場クラークスデールを素通りするはずもなく、クラークスデール駅を利用していた可能性は極めて高い。

 これらの事実やコメントを総合するとクラークスデール駅がミステリー・トレインのインスピレーションになったというわしの仮説はまんざら突拍子もないことでもないじゃろう!

 因みに、The-Kingと親交のある「706ユニオン」のブログで、ミステリートレインについての丁寧な解説があるので是非チェックしてみてほしい。
(「706ユニオン」のブログはこちら)

 「デルタ・ブルース・ミュージアム」に関しては可能な限りネット情報を探ったが、現在エルヴィスに関する展示や資料の類は見当たらない。ドロドロ、ゴリゴリのデルタ・ブルースやシカゴ・エレクトリック・ブルースに携わった巨人たちの魂が乱舞しておる博物館じゃ。黒人ブルース・クレイジーな方にはタマラン場所じゃが、只今は「エルヴィスゆかりの地」がテーマなので詳しい館内のご案内は別の機会に。 
※なお、ストリートビューでは現在のところ建物前まで撮影されていないので、ご注意下さい。
 
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 キングがクロスロードにやって来た!? その日大佐はエルヴィス獲得を決意した!
Point-10 クラークスデール・シティ・オーディトリアム

ルースの本場クラークスデールからもう一ヶ所ご案内しよう。サンレコードからデビューして約半年後、1955年の年初からエルヴィスはテネシー州南隣りのミシシッピー州でのライブをスタートすることとなり、ミシシッピー州デビューの場所が、なんと伝説の「クロスロード」のあるクラークスデールじゃった。時に1955年1月12日。しかも会場になったシティ・オーディトリアム(現シビック・オーディトリアム)は「クロスロード」から徒歩約15分の場所!(左下写真地図参照)
 クロスロードでブルースの悪魔と契約してロバート・ジョンソンは「キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース」となり、そのクロスロードから至近距離の会場で「キング・オブ・ロックンロール」がミシシッピー・デビューを果たした!伝説と事実とをごちゃまぜにしておるのは重々分かっておるが、これがブルース/ロックンロール・クレイジーの性、ロマンっちゅうもんじゃ!同会場では同年3月10日、9月8日と計3回ライブをやっており、9月8日は“Cry Cry Cry”がヒット中のジョニー・キャッシュと共演をしておる。(右写真参照)

バート・ジョンソンは生前はあくまでもローカルのカルト・ヒーローに過ぎず、死後20年以上も経った1961年になってレコーディングした曲を集めたLP盤が発売されて世間から注目を浴びただけに、1955年当時にエルヴィスがロバートの存在を知っておったかどうかは不明。会場近くのクロスロードをエルヴィスが見学しに行ったのかどうかも、もちろん不明(笑)
 大体「クロスロード伝説」自体がいつ頃から実しやかに語られ始めたかも不明じゃ。まあ若くして黒人音楽のマニアだったエルヴィスの事、何処かの黒人からロバート・ジョンソンの噂を聞いていたとしても不思議はないが、まあこの辺りは個人的に死ぬまで情報を探そうとは思っておりますわい!

ころで、「エルヴィス・ライブ・アット・クロスロード(近く!)」といった話題性の他に、もうひとつ1955年1月12日に関する興味深いエピソードがある。
 スコッティ・ムーアのサイトによると、当時金の卵探しのアンテナを張り巡らせていたパーカー大佐は、既に関係者(手下?)たちからエルヴィスの存在を聞いてはいたが、このシティ・オーディトリアムでのライブ前日のテキサス州ニューボストンでのエルヴィスのライブ報告があらためて入ったことにより(恐らく1月12日)、大佐はエルヴィス獲得を決意したとのこと。その報告とは

「ライブ中に女の子たちが泣いていましたよ」

手下のこの一言で大佐のアタマん中のソロバンがモーレツにはじかれ始めたに違いない!

たエルヴィスの伝記「Last Train to Memphis」の著者ピーター・ギュラルニックによると、9月8日の同会場でのライブにおいては、当時のマネージャーであるボブ・ニールとパーカー大佐との間でトラブルが勃発!ボブは「エルヴィスのギャラ(ショー全体のギャラ?)が安過ぎる」と電報で文句を言ったらしい。大佐からの返答は総じて「年上の(会計)専門家を雇いなさい」的なボブのマネージメント力不足を指摘するような内容だったとか(笑)
 遅くとも同年2月6日にはメンフィス・エリス・オーディトリアムでのショウの合間に大佐はエルヴィスとの初会見を済ませ
(メンフィス・テネシー中編Point-29「バムルボズ・カフェ跡地」参照)、以降じわじわとエルヴィス・サイドに近づいていただけに、9月8日時点では大佐はエルヴィス関連ビジネスに対してかなりの発言権、決定権を握っていたのだ!

 シビック・オーディトリアムと名称が変わった同会場は現在でも稼働中であり、近年になってエントランスには遠い昔にエルヴィスがライブを行ったことを讃えるモニュメントが設置されておる。(上写真ストリートビュー2019年9月撮影)
■Google-map上の位置■

 なお、前回「先乗り部隊レポ」で既にご紹介済みじゃが、クロスロードとエルヴィス生家、更にエルヴィスの正式デビューステージとなったメンフィスのボンエアクラブの地図上の位置を直線で結ぶと、綺麗な正三角形が出来上がる。名付けて「ブルース/ロックンロ―ル・エボリューショナリ―・トライアングル」である!


ゥペロ時代のエルヴィス、つまり小、中学生時代のエルヴィスに関する文献を読むと、とにかく初めは「ママの坊や」「甘ったれ小僧」と周囲から揶揄われていたという記述が多く、「だから生涯エルヴィスはマザコンだった」といった程度の低い評論文も見かけたりする。諸君も何度か目にして複雑な心境になったこともあろう。
 父ヴァ―ノンが職業をコロコロ変え、飲んだくれで夜はあまり帰宅しなかったから、エルヴィスは母グラデスと2人でいる時間が長かったのは確かじゃろう。しかしグラデスのエルヴィスへの躾の教育は厳しく、周囲とトラブルを起こさぬよう「辛抱」することをエルヴィスは教え込まれたという説も存在する。それがエルヴィス少年を一時期、書籍や漫画の世界にのめり込ませることになったようじゃ。

 1949年にプレスリー一家はメンフィスへと引っ越すことになるが、それはエルヴィス少年にとっては矢が放たれる様な機会になった。トゥペロ時代に溜め込んだ夢と希望、そして自我がメンフィスで「ロックンロール」となって数年後に大爆発を起こすことになるのだ!そうした視点でトゥペロ時代のエルヴィスに思いを馳せて頂けたらわしとして幸いじゃ。
 今回はトゥペロが7Pointで、ミシシッピー州のその他の地域は3Pointに留めたので、次回は全面的にミシシッピー州各地を周回致します!(上写真は、トゥペロ凱旋公演の地フェアグラウンズ跡地にあるエルヴィスの銅像)


【付録】 バーチャル・ロックンロール・ツアー(エルヴィスゆかりの地)Googleマイマップ

下地図の内容をここでは気にされる事なく、

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"拡大地図を表示"させて下さい。

バーチャル・ロックンロールツアー~」でご紹介してきた全Pointが再度、ナンバー入り赤丸で表示されます。(ナンバーは、上記本文中のPointナンバーと同じです)
メンフィス全域内における各Pointの位置や、Point同士の距離感等も確認出来ます。

      ※詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 

                                       
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