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(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。) |
久しぶりじゃ、諸君!一旦テネシー州へ戻った後、ひと月お休みを頂いた「バーチャル・ロックンロールツアー」を再びスタートさせるぞ。ご参加頂いた方々、あらためて御礼を申し上げまする! ツアーの再スタートをどこから切るか。アメリカ全土の地図を俯瞰しながら検討していたところ、テネシー州のひとつの特徴に気が付いた。左の地図をご覧頂くと分かるが、テネシー州は東西南北に隣接しておる州が8つもあるのじゃ。全米50州の中で、こうした立地状況は他にはミズーリ州のみ。そこでテネシー州を取り囲む州のエルヴィスゆかりの地を片っ端から訪ねることにした!ミシシッピー州、アーカンソー州は既にご案内済みなので、残りの6州の中からケンタッキー州とミズーリ州へのご案内から始めよう! 大まかな予定が決まったところで調査を開始したが、いきなりつまづいた!1950年代のエルヴィスのライブ記録の中でケンタッキー州はたったの2回しかなかった。テネシー州と隣接する他の6州はどこも15回前後のライブが行われているのに、ケンタッキー州だけが極端に少ないのじゃ。ちなみに1970年代に入っても4回だけ。 「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」「ケンタッキー・レイン」というエルヴィスの素晴らしいボーカルによるケンタッキー・ソングがあるだけに、「ゆかりの地もいっぱいあるだろう」と漠然と構えていただけに実に意外じゃった。これもナッシュビル同様に、伝統的にカントリー&ウエスタン・ミュージックの聖地という土壌と関係しておるんじゃろうか?それともエルヴィスはフライドチキンが好きではなかったとか(笑)後半はケンタッキー州西隣りのミズーリ州にも踏み込んでおるので、併せてお楽しみ頂きたい・
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フィリップ・モリス社危機一髪!?事件 Area No.1/Serial No.112 リアルト・シアター跡地/ケンタッキー州 エルヴィス&ブルームーンボーイズが初めてケンタッキー州でライブを行ったのは、1955年12月8日ケンタッキー州最大の都市ルイビルのリアルト・シアターであった。RCAとの契約直後の時期であり、既にアメリカ南部ではエルヴィスは堂々たるスターになっておった頃じゃ。 このライブに関しては、不思議な記録が残っておる。まずリアルト・シアターという存在じゃが、所有者は当時ケンタッキー州に全米最大規模のタバコ製造センターを運営しておったフィリップ・モリス社。アメリカのタバコと言えば、我々は「ラッキーストライク」や「マールボロ」を思い浮かべるが、当時最大の売上を上げていた銘柄は同社の同名タバコじゃった。 なんてことよりも、エルヴィスがリアルト・シアターで行ったライブはフィリップモリスの製造センターで働く大勢の従業員たちの慰労会用の演奏だったらしい。2本の映画上映とともに、会社側からの従業員たちへのクリスマス・プレゼント的催しじゃった。こりゃもう、会社の社員旅行で行った熱海の温泉旅館にエルヴィスが来ちゃったみたいなもんか! しかも当日のリアルトシアターにはエルヴィスのライブの前(?)に上映された「タランチュラ」という映画の告知がデカ過ぎて、「エルヴィス出演」の告知はまったく目立たない!(上写真)色んなサイトをチェックしたが、どうやらこの日シアターに入場出来たのはフィリップモリス社の従業員たちだけだったようなのじゃ。当然、新聞の広告も一切無し。 このフィリップモリス従業員慰労会ライブに招待されたのは「ハンク・スノウ・オールスタージャンボリー」であり、エルヴィスは1955年年初当時の「ジャンボリー」の“ペーペー”カントリーシンガー扱いだったみたい。同年11月29日ヴァージニア州リッチモンドのモスキー・シアターでも、「ジャンボリー」はやはり同社の従業員慰労会ライブに招かれておるが、こちらは一般客も入場出来た模様。 フィリップモリス社は文化事業の一貫として古くからカントリー&ウェスタン・ミュージックの支援活動に積極的であったようじゃが、エルヴィスに関してはよく調査していなかったようであり、リアルト・シアターにやって来た社長さんはエルヴィスのセクシーなライブ・パフォーマンスを観て激怒!「なんじゃあ~あのシンガーは!早くステージから引きづり降ろせ!」と側近の者に命令したらしいが、従業員たちはエルヴィスに大歓声を送っていたので致し方なくライブを続行させたとか(笑) もし社長さんがエルヴィスのライブを中止させていたら、翌年年初から一大エルヴィス・ブームが爆発するだけに大恥をかくことになっていたかも!下手したらタバコの売上も激減していたかもしれない!なお約一年後、エルヴィス出演映画の第1作「やさしく愛して」は、何ら滞りなく(笑)リアルト・シアターで上映されたそうじゃ。(左写真)) リアルト・シアターは1969年に取り壊され、その後ルイビルの街全体の再開発が続き、現在の跡地には当時の面影はまったくない。右写真は2019年5月撮影のストリートビュー。写真右側の位置にリアルト・シアターがあった。 ■Google-map上の位置■ |
「神はアメリカの民衆を祝福し、神はエルビスを祝福する」 Area No.2/Serial No.113 ジェファーソン・カントリー・アーモニー跡地/ケンタッキー州 エルヴィスが再びケンタッキー州に登場したのは、1956年11月25日同じくルイビルにあるジェファーソン・カントリー・アーモニーじゃった。ローカルスターからキングになっての降臨であり、今度は一般客向けの通常のライブじゃ。約1年前のリアルト・シアターではフィリップモリス社の社長さんからクレーム未遂があったが、ここではライブ開催前に地元の警察を巻き込んでのエルヴィスと会場側とのひと悶着があった。要するに予想されるファンの熱狂ぶりに対して、会場側が「我々は会場と入場者の安全を保障出来ない」と警察に泣きを入れたのじゃ。 ルイビル警察側も「そりゃそうだ。エルヴィスは悪魔の申し子だからな!」と会場側の言い分に同調してしまい、FBIにまで連絡をとって警備を検討。さらにライブ前にエルヴィスに出頭を命じて「卑猥な動きをするな!」などの指示を出してエルヴィスは大いに気分を害したと言われておる。 さらにライブ当日の新聞には、警察のお偉いさんが「もしエルヴィスがライブ中に“不適切”なアクションをしたら私は彼を絶対に許さない」といった、まるで「エルヴィスのライブに行かないように」とも読める趣旨の声明を発表した。 しかしながらこんな事前騒動はエルヴィスにとっては当たり前になっておったんじゃろうな。昼夜2回のライブは、いずれも異常なまでの警備体制の元で行われたが、エルヴィスは開口一番「警察の中にこんなにもたくさんの僕のファンがいたとは知らなかったよ」とサイコーのジョークをかましたという! またライブがスタートする直前、エルヴィスのファンであるディスクジョッキーがステージに上がり、次のような感動的なコメントを発してからエルヴィスの登場の合図を行った。 「エルヴィス・プレスリーの音楽に対して批判的な新聞記事もありますが、彼らは文化団体ではないのです。またスターを選ぶ際に発言権を持っているのは社会的なスノッブ(知識人、良識人ぶっている人たち)ではなく、我々民衆です。神はアメリカの民衆を祝福し、神はエルビスを祝福します!さあ皆さん、ミスター・エルヴィス・プレスリーの登場です!」 エルヴィスは一応警察からの指示に従い、アクションは控え目にして、横の動きを封印する代わりに前後の動きを多用したそうな!(笑)また大ヒット曲を連発した後に、ルイビル郊外に住んでいてライブに招待した祖父母に敬意を表して「Peace in the valley」を披露し、熱狂する女の子たちの付き添いで来た親御さんたちまで感動させてしまった! 「Peace in the valley」の反応があまりにも良かったためか、ライブ終了後のインタビューで「バラードタイプの歌手に転向する予定はありませんか?」という質問に対して、「今のスタイル(ロックンロール)が人々に受け入れられている間は転向するつもりはありません」とエルヴィスはキッパリ!さらに「ロックンロールを歌う事が青少年に対して犯罪になるとは思いませんか?」の質問には「犯罪?私は誰も撃ったことはないし、何かを奪ったこともありません」とこれまたキッパリ!!インタビュワーはすっかり黙り込んでしまったとか(笑) センスねえよな、このインタビュワーは!わしだったら「でもあなたのロックンロールは少年少女の心を撃ち抜いてしまってますよね」ってジョークで返すけどな(笑) なおライブの模様が撮影された1分44秒の動画がyou tubeにアップされておる。残念ながら音声無しじゃが、これは“いざという時のために”警察側が証拠品として利用するために撮影したものらしい。超満員の会場、割と機嫌よさそうに?歌っておるエルヴィス、また物々しい警備の様子もチラリと見えたりする! この日のエルヴィスのステージ衣装は、昼間は緑のディナータイプのジャケットと黒のスラックス。夜はゴールド・ジャケットだった。このゴールド・ジャケットは、約4ヶ月後にハリウッドのヌーディーズによってカスタムメイドされてステージで着用されることになるゴールドラメのスーツの原型になったとも言われており、製作はメンフィスのランスキー・ブラザースじゃ。 右写真は、3日前に行われたオハイオ州トレドでのライブ会場スポーツアリーナのバックステージでゴールドスーツを着るエルヴィスじゃ。右の人物は若き日のバーナード・ランスキーであり、わざわざゴールドスーツをエルヴィスに届けに来たんじゃろうな!超感動モノのショットじゃ。 1905年に建設されたジェファーソン・カントリー・アーモニーは、当初は軍事施設(武器格納庫)として使用され、その後長らくルイビルにおける音楽やスポーツの会場として機能し続け、1980年には国家歴史登録財に追加され、1991年からケンタッキー芸術センターによって管理されるようになった。 何度か経営者や名称が変り、現在は「The Garden」という名称でルイビルの現役のイベント会場として存在しておる。 ■Google-map上の位置■ |
ダンディだったエルヴィスのおじいさんの家に500人のファンが集まった! Are No.3/Serial No.114 ジェシー・D・プレスリー住居跡地/ケンタッキー州 ここで、「あれ?エルヴィスの祖母はずっとエルヴィスと一緒に住んでいたのでは?」と思った方は相当のエルヴィス研究家!ではあるが、エルヴィスが100ドルを渡した祖母ベラさんは、ジェシーおじいさんの後妻じゃ。ジェシーおじいさんは、長らくエルヴィス・ファミリーの中ではかなりの悪者と語り継がれてきたらしく、メンフィス・マフィアの一人マーティ・ラッカーも「エルヴィスの語っていたおじいさんの話は、“祖母ミニー(ジェシーおじいさんの先妻)がいつも悪口を言っていた”みたいなものばかりだった」と発言しておる。 しかし近年の調査では必ずしも“悪いおじいさん”ではなかったらしい。エルヴィスがスターになってもお金を無心してくることは一切無かった。先妻ミニー・メイさんはグレースランドに住み、息子のヴァーノンよりも、孫のエルヴィスよりも長生きしたが、ジェシーおじいさんは後妻のベラさんとともにエルヴィスとは無関係の人生を送っていたことを評価するべきである、と強調しておるサイトもあった。 またジェシーおじいさんはエルヴィスの祖父としてインタビューを受ける時は(上左写真)いつもきちんと正装して、「孫(エルヴィス)は私の誇りである」とかくしゃくとした態度だったそうじゃ。現にエルヴィスが訪れて車をプレゼントした時の記念写真も(上右写真)、正装に着替えて姿勢を正して撮影されておるから立派な方じゃ。わしも見習わないと! かなりダンディであり、更にちょっと中性的な感性の持ち主でもあり、その辺から周囲の誤解を招きやすいタイプの人物だったようじゃ。しかしエルヴィスの独特の感性というのは、ジェシーおじいさんからの隔世遺伝もあったのではと思わせるな。エルヴィスは毎年必ずクリスマスカードを祖父母に贈っていたという。 エルヴィスがジェシーおじいさん宅を訪れた時は、周囲に500人ものエルヴィス・ファンが集まったとされておる。当時の家屋の写真は残っていないが、現在同住所にある家屋同様の住居だったらしい。(右写真はストリートビュー2021年6月撮影) ■Google-map上の位置■ |
神様、仏様、エルヴィス様・・・ Area No.4/Serial No.115 フリーダム・ホール/ケンタッキー州 1950年代のケンタッキー州でのライブは僅か2回(一般客向けは1回のみ)だったエルヴィスも、1970年代にはルイビルのフリーダムホール(左写真)にて、1971年7月11日、1974年6月26日、1976年7月23日、1977年5月21日の4回にわたり開催しておる。キングのライブ会場として相応しい、約2万人収容可のキャパがモノを言ったに違いない。 年々跳ね上がっていくチケット代は、1977年には約13ドルであり、これは当時スーパー・ロッカーにのし上がったイーグルスやエルトン・ジョンのチケット代金の約2倍。それでも毎回完売という凄まじい人気であり、噂によると各地の有力者たちがチケットを事前に買い漁っており、若者たちはおいそれとは入手出来ない超プラチナ・チケットになっていたという。 インターネット上において、1970年代に入ってからのエルヴィスに関する情報になると「あの時のライブを観た」「ブレてるけど写真を撮った」「エルヴィスの声はサイコーだった」「これが当時の新聞記事だ」といった無邪気な私設サイト/ブログが俄然多くなるので、調査がそれなりに楽しくなってくることもある! かつてエルヴィスは「健全な若者にとっては悪魔の申し子」と大人たちから目の敵にされた。しかしこの2枚の写真が物語る、エルヴィスのライブが「富裕層たちの慰安会化、宗教団体集会化」になってしまった事の方が文化的見地からすれば遥かに危険であり、エルヴィスを苦しめることにもなったのじゃ。エルヴィスは一体いつからロックンローラー、音楽家ではいられなくなってしまったのか。誰が、何がエルヴィスにそうさせてしまったのか・・・。 こちらの(↑)新聞記事と新聞掲載写真は、エルヴィスが亡くなる約1年前1976年7月23日のライブが報じられたもの。記事を斜め読みしたところエルヴィスの神格化のされ方がハンパない!エルヴィスの好不調など関係なしで、我が街にキングがやって来た!というだけで大騒ぎってノリじゃ。写真を見るとやはりエルヴィスは太ってしまっており、体調は明らかに良くなさそうじゃが、その辺もスルーされてのひたすら賛美の嵐。恐らく全米の何処でライブを行っても同じような状況だったじゃろうが、生涯アーティスト志向の強かったエルヴィスにとって、これもまた“追い詰められる”要因だったに違いないと思うと、やはり複雑な心境になるな。ステージで熱唱するエルヴィスの姿は、目の前にあることは分かっているのに、どうしても叩き潰すことの出来ない巨大な敵と戦っておるようで胸が痛い・・・。 フリーダム・ホールは、現在でも音楽やスポーツの多目的イベント会場として稼働しており、正面玄関はかなり改装され、エルヴィス、ドアーズ、レッド・ツェッペリン、ニール・ヤングらのヴィンテージ・ロッカーたちがライブで躍動した1970年代当時の面影はまったくないようじゃ。(右写真はストリートビュー2018年10月撮影) ■Google-map上の位置■ 【 注意 】 サイトによっては、フリーダム・ホールと同じケンタッキー州ルイビルの「ロバーツ・スタジアム」でも1976年10月24日にエルヴィスのライブが行われたという記述が見られますが、これはインディアナ州エバンビルにあった「ロバーツ・ムニシパル・スタジアム」(2013年取壊し)の間違いかと思われます。 |
「僕がエルヴィス・プレスリーだよ。トイレ使わせて下さ~い!」 Area No.1/Serial No.116 ナショナル・ガード・アーモリー/サイクストン・ミズーリ州 ケンタッキー州でご案内出来るポイントが少ないので、西隣りのミズーリ州へ移動するぞ!エルヴィスがライブのために初めてミズーリ州へやって来たのは、1955年1月21日。サイクストンという街のナショナル・ガード・アーモリーじゃ。 “ナショナル・ガード・アーモリー”という施設は全米の各州にある軍事施設であり、今までも別の州で何度かご案内したが、あらためて概要を説明しておこう。ナショナル・ガード・アーモリーとは武器格納庫、軍人たちの教育施設、また地元民も利用できる大型レクリエーション・スペースもある建物じゃ。軍事施設だけに頑丈な建造物であり、築100年近くも経過しているのに現役として今でも稼働しておる場合が多い。 ミズーリ州初登場のエルヴィスのライブについての詳しい記述は残念ながら無いが、余談を少々。エルヴィス一行が会場に到着した時は、2人の陸軍警備隊の軍人さんが会場で座席のセッティング中だった。2人とも当日の出演者の名前も知らず、もちろんエルヴィスの存在すら知らなかった。エルヴィスはカギのかかった会場の入口を大声で叫びながら叩いたという。どうやらエルヴィスはトイレに行きたかったようじゃ(笑)そんなどうでもいいエピソードがスコッティ・ムーアのサイトに記載されてあったわい(笑)ちなみにその時エルヴィスは「I am Elvis Presley Boy !」って名乗っていたらしいが、なんでBoyを付けたんじゃろう?(笑) ■Google-map上の位置■ |
「アンコールに何度も応えるなんて、出演契約に入っておらんぞバカモノ!」by パーカー大佐 Area No.2/Serial No.117 ザ・アーモリー/ポプラーブラフ・ミズーリ州 サイクストンの真西約80キロの位置にあるポプラー・ブラフという街にも、上述したナショナル・ガード・アーモリー同様の施設「ザ・アーモリー」があり、こちらには1955年3月9日にエルヴィスはやってきた。その月から約三ヶ月間は、オニー・ウェーラーらのカントリーシンガーたちとのジャンボリー・ツアーじゃ。 (左写真はザ・アーモリーのバックステージでのショット。エルヴィス右隣がボブ・ニール、右端がオニー・ウェーラー) このオニー・ウェーラーというエルヴィスより14歳年上のシンガーは、当時としては珍しくエルヴィスの才能を大変高く評価していた先輩であり、ミズーリ州で放送される自分のラジオ番組の中でエルヴィスのレコードをかけ、また1月21日のナショナル・ガード・アーモリーのライブ前にはエルヴィスをラジオ局まで招いてインタビューをしている。ウェーラー自身は1957年にはサンレコードと契約もしておる。 ウェーラーはエルヴィスのライブ終了後に奥さんと6歳の娘を連れてエルヴィスのバックステージを訪れた。後の娘さんの談話によると、「エルヴィスは私を可愛い、可愛いと褒めてくれてとても優しくしてくれました」「母は、それまでは父がどんなにエルヴィスを褒めても、“奇妙なステージアクションをする眠そうな目をしたシンガー”としか見ていませんでしたが、このバックステージで母は一変にエルヴィスに恋をしてしまいました(笑)」とのことじゃ! ザ・アーモリーでのライブは、ウェーラーのラジオ番組での宣伝効果もあって大盛況だったようで、アンコールはエルヴィスのギターの弦が切れるまで終わらなかったという逸話が残っておる。 しかしこの件に関して、既にエルヴィスのマネージメント権利の一部を握っていたパーカー大佐は、「そんな過剰なサービス(アンコールの連続)は契約には入っとらんぞ!そんなことは時間と労力の無駄だ」と当時のマネージャーだったボブ・ニールに側近を介して厳重注意をしたという! 右写真は、ストリートビューの最新撮影写真(2013年8月撮影)によるザ・アーモリー。名称は「ミズーリ・アーモリー・ナショナル・ガード」に変っておるようじゃ。 ■Google-map上の位置■ |
“酒は飲めるし“、夜通し騒げるし、エルヴィスは来るしサイコーだぜっ! Area No.3/Serial No.118 B & B Club/ミズーリ州 サイクストンからミズーリ州を約100キロ南下した地点、ペスミコット郡とダンクリン郡との郡境にゴブラーという街がある。ストリートビューや航空写真で確認すると今でも見渡す限りの大平原が広がっておる地域であり、かつては一面が綿花畑だったそうじゃ。そんな地域にエルヴィスは1955年4月8日、9月28日にやって来た。 時期的にまだドサ周りをやっていた頃ではあるが、とにかく規模の大小は関係なく、車移動が出来て、出演させてもらえる場所はかったぱしからブッキングしていたことを象徴するような街じゃ。 ゴブラーでライブを行った会場が「B & B Club」。ミズーリ州の歴史に触れているローカル・サイトによれば、このクラブは当時の周辺地域の娯楽施設ではかなり悪名が高かったようじゃ。ペスミコット郡に位置していたためにビールが販売出来て(お隣のダンクリン郡はダメだった?)、デカイダンスホールがあって、しかも深夜営業もOK!典型的な南部のホンキートンクバーだったようじゃ。噂によるとクラブに隣接した酒屋では、ハードリキュールがご法度だった当時に「パッケージ・リカー」(ビールと抱き合わせの密造酒?)も入手出来たことが人気の秘訣だったとか!?ロックンロール・バンドが出演するにはもってこいのクラブだった。当時の愛称が“血まみれのバケツ(The Bloody Bucket)”ってスゲー! しかし残念ながらどうしても場所を特定出来なかった。サンレコードのサイトには「Grobal Mercantile」という当時南部の農民を相手にした大手マーケット内にあったとされているが、説明不十分によりそのマーケットの位置が分からず、他サイトにはB & B Club単体の写真(上写真)も紹介されているが住所が分かる資料がまったく無い。 手かがりは、サンレコードのサイトによる記述、旧108号線(現164号線?)沿いのペスミコット郡側だったこと(ダンクリン郡側の間違いの可能性もあり)、また当時の電話番号からホーンズビルという地域内にあったということ。(ホーンズビルの住所はダンクリン郡) 他には「私の父がB & B Clubでエルヴィスを観た」と記述された某ブログの中で、「B & B Clubは綿花畑の中にあった」という記述のみ。したがってGoogle-mapの位置とストリートビュー(下右写真、2008年3月撮影)は、上記3点から仮定した地域(164号線とカントリーライン・ロードとの交差点から東方面)であるので、どうか悪しからず。 ちなみに、「私の父がエルヴィスを観た」というブログによると、そのお父さんはライブに感動してエルヴィスにチップを50ドルも渡したという。(日時に関する記述は無し)当時のエルヴィスのギャラは1ステージ10~15ドルだったから破格の額のチップじゃ!エルヴィスは後のスケジュールが詰まっていたのか、50ドルを受け取ると足早にB&B Clubから立ち去ってしまったらしい。 ■Google-map上の位置■ |
キングがギャラを貰えず、一宿一飯をお願いして、お金まで借りてしまった日 Area No.4/Serial No.119 リトルマンズ・カフェ跡地/ミズーリ州 エルヴィスが上記「B&Bクラブ」に初めてやってきた日(1955年4月8日)は、ゴブラー地域は激しい雹(ひょう)“The dengerous ice storm”が降る危険な気象状況だったという。チケット代金は1.5ドルだったが、この悪天候のために客足が伸びず、クラブ側はエルヴィス、スコッティ、ビルに出演契約通りのギャラを払えなかったとされておる。“血まみれのバケツ”も悪天候には勝てなかったってわけじゃ。 ライブ終了後にエルヴィスら3人は、オニー・ウェーラーと彼のバンドメンバーの故郷であるサイクストンに行き、そこで1月21日にライブを行った「ナショナル・ガード・アーモリー」(Area No.1参照)の向かいにある「リトルマンズ・カフェ」で食事をしたらしい。 「リトルマンズ・カフェ」は当地で1942年にオープンしたレストランであり、現在の「ランバート・カフェ」。カフェの創設者のランバートさんは、かつては“リトルマン”と呼ばれておったそうな。いつ頃「ランバート・カフェ」に改名されたかは不明じゃが、現在は元の位置から東へ約3.5キロ離れた位置にあり(下左写真)、自社サイトの「Famous Customer」のリストには「Elvis Presley King Of Rock n' Roll」とトップに掲げられておる。 上写真は、自社サイトにアップされておった1955年当時のお店正面の映像の静止画像。(他に当時の写真が見つからず)映像はわずか31秒なので興味のある方は御覧頂きたい。下右写真は跡地。現在は保険会社所有の建物が建っておる周辺と思われる。(ストリートビュー2019年8月撮影) なお翌9日はルイジアナ州シェルビーポートの「ルイジアナヘイライド」に出演予定だったエルヴィスじゃが、悪天候が続いていたのでその晩の移動を断念。エルビスら3人は、ウェーラーのバンドメンバーだったアーニー・トンプソンの家の居間の床で寝ることに。翌朝、アーニー・トンプソンはB&Bクラブのギャラが少なかったエルビスにお金を貸したんだそうじゃ。 この日エルヴィスがお金を借りてしまったってことは、上述した“チップを50ドルも貰った”日は2度目のB&Bクラブ出演時(9月28日)ということになるな! ■Google-mapの位置■ |
ケンタッキー州のご案内出来るポイントが少なかったので、お隣のミズーリ州まで行ってみたが、次回は全面的にミズーリ州のツアーになる予定じゃ。ミズーリ州にはセントルイス、カンサスシティという2大都市があり、先乗り部隊のまめ鉄からの報告によるとエルヴィスゆかりの地も色々とあるそうなんで、どうぞお楽しみに! 1950年代は僅か2回しかライブが行われなかっただけに、ケンタッキー州は他州に比べてエルヴィスは敬遠されがちな存在だったのかとも思えるが、1956年度には地元のビジネス野郎がちゃっかりエルヴィス人気を利用しておったから笑えた。 リアルト・シアターが映画「やさしく愛して」を上映中、向かい側にあったオハイオ・シアターという劇場では「アボット&コステロ」というコメディアンのショーが出し物じゃったが、劇場入場先着500名は劇場内で同時開催しておった「エルヴィス写真展」に無料ご招待!(上左写真) またジェファーソン・カントリー・アーモリーのライブ・チケットは、当時オープンしたゲイ・デパートが「9.95ドル以上お買い物のお客様にプレゼント!」っつうサービスを企画!(上右写真)これって、パーカー大佐は気づいておったんじゃろうか?それとも大佐はオハイオ・シアターとゲイ・デパートからガッツリとマージンを取っていたんじゃろうか?以上、ご案内ポイントの少なかったケンタッキー州のオマケ情報でありました。 それでは諸君、次回全面ミズーリ州ツアーの参加もよろしくな! |
【付録】 Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」 下地図の内容をここでは気にされる事なく、 まずは地図右上の[ ]マークをクリックし"拡大地図を表示"させて下さい。 ★当ページでご案内してきた全場所が再度、エリア番号(赤丸内番号、州もしくは地域内の番号)と第1回からのシリアル番号(通し番号)で表示されます。 ★地図の初期画面では現在御覧頂いているページで案内されている地域が表示され、更に地図を縮小していくと、第1回目からご案内してきた場所が表示されていきます。 ★地図上の番号入り丸印(州、地域によって色分けされています)をクリックすると、その場所の名前、写真、簡易紹介文が御覧になれます。 ※更に詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 まずはコチラの[ ]をクリック ↓ |
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