NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.384


第12回 エルヴィスゆかりの地~バック・イン・テネシー州②/メンフィス編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 前回約四カ月ぶりにテネシー州へ戻ってナッシュビルを周回してみた「バーチャル・ロックンロール~エルヴィスゆかりの地」。今回はエルヴィスのホームタウンであるメンフィスまで戻り、このツアーを続けるための原点回帰!のエネルギーを補充することにしよう。メンフィスに関してはツアーの第1回から3回にわたって合計32ポイントをご案内したので、今回のエリア番号はNo.33からスタートとなりますぞ。

 エルヴィス・ファンにとってメンフィスは聖地であり「今更七鉄ごときにガタガタ言われなくたって知ってるさ!」って方が多いと思われるので、あらためてご案内するメンフィスのポイントは少々マニアックな視点からピックアップしてみた。
 レコードデビュー以降のエルヴィスの足跡で、ネット上の情報が乏しくて記述が曖昧な時期がデビュー直後の1954年後半じゃ。特にライブ情報においては、もっとも信頼性が高いサンレコードとスコッティ・ムーアのサイトでさえ、それぞれの記述内容が食い違っていたり、一方がライブ記録ありで一方が無し等の場合もあるから頭が痛い。しかしエルヴィスがキングに成ってからではアリエナイ情報や噂に次々と出会うので調査が止められない!(笑)日時や演奏曲目などの細かいデータは正確には提供できないものの、調査段階のオモシロサが諸君にも伝わるようにご案内してみたい!
 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地~
       第12回 バック・トゥ・テネシー州②/メンフィス編 

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文 の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はメンフィス地域内での番号既出のメンフィス後編からの通し番号です。
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 
Area No.33/Serial No.104 グッドウィン・インスティテュート跡地
 
Area No.34Serial No.105 ケネディ記念病院跡地

 
Area No.35/Serial No.106
  ラマーエアウェイ・ショッピング・センター
 Area No.36Serial No.107  ワールアウェイ・クラブ跡地 
 
 
Area No.37Serial No.108
  ブルーライト・スタジオ跡地
 
Area No.38Serial No.109 
 プラスティック・プロダクツ跡地
 Area No.39/Serial No.110 メンフィス・ステイト・カレッジ
 Area No.40/Serial No.111  シビック・オーディトリアム/キングスポート
 

 
【付 録】  Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロール・ツアー訪問地」
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順


 【バーチャル・ロックンロールツアー第1回~11回 リンクバナー】


“エルヴィスお抱え”とはならなかった地元ラジオ番組用ライブ劇場
Area No.33/Serial No.104 グッドウィン・インスティテュート跡地
 まずスコッティのサイト内「Tour Dates」に掲載されていない1954年8月14日のライブ会場情報から!
 グッドウィン・インスティテュートとは1907年にオープンした7階建てのメンフィス老舗の大型市民ホール。何気に1907年を和暦におきかえみたら明治40年であって驚き!「ほほお~七鉄ジイサマの生まれた年ですかい?」ってヤカマシーワイ!メンフィスの様な地方都市でさえ、そんな大昔に7階建て大型市民ホールが建設されていたって、やっぱりアメリカの先進性って日本の比じゃないわな。

 この建物を調べていると、興味深い事実を発見。約900席あったといわれるビル内のライブ会場は、アーカンソー州のウェストメンフィスから移転してきた(別に新設された?)KWEMラジオのライブ番組収録用の会場だったのじゃ。アーカンソー州前編「Point-9 KWEMラジオステーション/ウェストメンフィス」において、エルヴィスが出演したのは「メンフィスか、ウエストメンフィスのどちらのKWEMだったか?またライブ会場はどこだったのか?」とご紹介したが、メンフィスのKWEMラジオだったならば、会場はココだったのである!しかしウェストメンフィスに遠征した(かもしれない)日は一週間前の8月7日なので、未だに7日の真相は不明じゃが、8月14日であったならばコチラじゃ。

 某サイトによると、既にメンフィス内でファーストシングル「ザッツ・オールライト」が売れ始めていたためか、番組「サタディナイト・ジャンボリー」への出演はKWEMからの招待だったと記述されておる。また当日客席がどの程度埋まっていたかは不明じゃが、エルヴィスが大勢の観客を前に歌ったのは、この日が生涯初であろうとしておる。

 スコッティ・サイトの「Tour Dates」にライブ記録の記載がない理由のひとつは、エルヴィスがバンド抜きで単独で出演した場合ではあるが、1954年8月14日エルヴィスがグッドウィン・インスティテュート出演と記載している全てのサイトに「エルヴィス単独ライブ」の但し書きは無い。
 何かと不明な点の多いKWEMラジオじゃが、エルヴィスはすぐにローカルスターへ成長しただけに、メンフィスのKWEMラジオやこのライブ会場はエルヴィスお抱えとして一躍人気を博してもおかしくない。しかしその後のエルヴィスの出演記録は残されていない。

 グッドウィン・インスティテュートの旧住所はマディソン・アヴェニュー127番地であり、 旧建物は1962年に取り壊されて銀行所有のビルが新建されて、今では正面入り口にヒストリカル・マーカー(歴史的建造物跡地に設置された記念標識)があり、エルヴィスの名前も明記されておる。(上写真、ストリートビュー2022年2月撮影)
 ちなみにメンフィス市街の1970年代の大掛かりな土地再開発によりマディソン・アヴェニューは行政区画が刷新になったが、新しい区画による現マディソン・アベニュー127番地には、故意か偶然か、(新)グッドウィン・インスティテュートなる建物が存在しており、Google-mapの表記では集合住宅とされておる。

 
【注意】行政区画刷新後もマディソン・アヴェニュー127番地の場所は同じままである可能性もあるが、現時点では「跡地には銀行が建てられた」「銀行の前にはヒストリカル・マーカー有」という情報を優先したのでご了承頂きたい。
■Google-map上の位置■


自宅近く、慰問演奏、軍隊適正試験、そして入隊。何かとエルヴィスと縁が深かった病院
Area No.34/Serial No.105 ケネディ記念病院跡地
 サンレコードのサイトによると、1954年7~9月頃のエルヴィス&ブルームーンボーイズのライブは、正式な記録として残されていない、メンフィスの小さなバーや退役軍人施設、また学校や病院での開催が結構あったらしい。レコードデビュー直後にしては、スコッティ・サイトの「Tour Dates」のスケジュールは不自然なインターバルが目立つので、恐らくその期間は当日に急に出演が決まったりした小さなライブが幾つかあったのだろう。エルヴィスとサンレコードとの契約やレコーディング自体がサム・フィリップスが急に決断したようなものであり、プロモーション・プランを綿密に立てるゆとりが無かったに違いない。

 そんな慌ただしい状況の中で、記録が残っている数少ない病院の慰問ライブが、1954年8月29日の「ケネディ記念病院Keneddy Veterans Hospital」じゃ。当時アメリカ最大の陸軍病院であり、戦地で負傷した兵士の治療のための病院である。
 エルヴィスの幼馴染の者の供述によると、アマチュア時代からエルヴィスは病院の入院患者や、退役軍人施設で寛ぐご老人相手に歌うことを好んでいたそうじゃ。またケネディ記念病院ではスコッティとビルがスターライトラングラーズ時代から度々慰問ライブを行っていたそうじゃ。(右写真)
 ライブ当日に関する病院関係者たちの供述によると、エルヴィス、スコッティ、ビルは、演奏前に病院の娯楽室まで、車いすに座った入院患者さんたちを運んだそうじゃ。中には寝たきりで動けない患者さんをベッドごと娯楽室に運んだという。一体何人の患者さんの前でエルヴィスたちは演奏したが不明じゃが、大規模な病院だったので、相当数の入院患者さんたちがいたと思われる。

 ブルームーンボーイズの演奏に果たして入患者さんたちはどんな反応を示したが大いに興味があるが、関係者の更なる供述によると、「患者さんは、今まで聞いたこともないような音楽を聞いて、まったく動けませんでしたが、表情はまるで拍手しようとしているようでした。本当にすごいことでした」とのことであ~る♪

 さてこのケネディ記念病院、エルヴィス・マニアならもうお気付きのことじゃろうが、この慰問ライブから約3年半後の1958年3月24日、エルヴィスが正式な軍隊入隊の手続きと身体検査のために訪れることになる病院じゃ。(下左写真)ここから、「アーカンソー州後編」でご案内した「Point-18 チャフィー・バーバーショップ博物館」のある「フォート・チャフィー・ジョイント・マヌーバ・トレーニングセンター」へ移動することになるのじゃ。
 入隊の約1年前の1957年1月4日には、軍隊適正検査テストを受けるためにも訪れておる。(下右写真)綺麗な写真ではあるが、エルヴィスの複雑な表情は「(試験問題が)難しくってわかんねーな」ではなくて、「こんなトコまでカメラ入れてんじゃねーよ」じゃろうな(笑)


 偶然ながらケネディ記念病院は、1954年8月当時のエルヴィスの実家からほど近い距離にあった。また大ベストセラー小説「地上より永遠に」(後に映画化)を執筆したジェームズ・ジョーンズが負傷兵として入院していた病院でも有名。またジョーンズは、このケネディ記念病院での入院体験がもとになった遺作「ホイッスル」を執筆しておる。ちなみにジョーンズの入院期間は、時期的にエルヴィスが慰問ライブを行った頃ではなさそうじゃ。

 1967年に新しい陸軍病院が完成したことにより、ケネディ記念病院は閉鎖。以降現在まで敷地はメンフィス大学南キャンパスとなり、建物は企業事務所ビルとして現在でも稼働しておる。左写真はストリートビュー2019月4月撮影。
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ジョニー・キャッシュが初めてエルヴィスを観たライブ会場
Area No.35/Serial No.106 ラマ―・エアウェイズ・ショッピング・センター
在のところ、わしが知りうる限りにおいて、レコードデビュー直後のエルヴィスのライブ会場における写真でもっと鮮明なショットがコレである!(上写真2枚、左写真)1954年9月9日、ラマーエアウェイズ・ショッピングセンター内の大型店舗カッツ・ドラッグストアの開店記念日の催し物としてブルームーンボーイズの3人が登場した日の撮影であり、ステージ写真ではないものの、駐車場で辛抱強くエルヴィスの到着を待ち構えていた当時18歳のオパール・ウォーカー嬢による執念の賜物じゃ!

 またこの日のステージは、空軍勤務から退役したジョニー・キャッシュが初めてエルヴィスを観た日じゃ。ジョニーの伝記「 CASH: The Autobiography」に記されておるので間違いなし!
 更に、後にメンフィスで結成されたボックストップなるバンドのキーボード奏者として名声を博すことになる、ジョン・エバンス少年もこのライブを鑑賞しておる。
 パール嬢もエバンス少年も、エルヴィスのレコードをガンガン流していた有名DJデューイ・フィリップスのラジオ番組を聞いてエルヴィスのファンになってこの日に駆け付けたのだそうじゃ!ジョニー・キャッシュは最初の奥様と一緒に居たらしいが、ドラッグストアの開店セール目当てに来店したついでにエルヴィスを~なあ~んてことはないようじゃ!
パール嬢の回想によれば、エルヴィスら3人が駐車場に着いて車から出てきても、周囲にいた者は誰もエルヴィスに気が付かなかったという。まあレコードデビューからまだ二ケ月未満だから仕方がないな(笑)お陰で落ち着いて素晴らしい写真がバッチリと撮れたってわけじゃ!
 気になるエルヴィスのファッションじゃが、黒いパンツにはピンクのストライプが入っており、シャツもピンクだったとのこと。そしてエルヴィスのお顔には無精ひげがあったんだとか。
 「オパールちゃん!髭なんざどうでもええから、クールなシューズのスタイルとカラーは何だったんじゃ!」って大声で聞き迫りたいところじゃが(笑)、その辺の鑑定はThe-Kingのボスにお任せすることにしよう!なおオパール嬢は、写真を撮った後にエルヴィスから次のイーグルズ・ネストでのライブに招待されたそうな。
 当時のオパール嬢の写真を見ると(左写真)、清楚でおとなしそうな美少女。でもデビュー直後のエルヴィスに早くも激しい魅力を感じて、写真撮影の機会を伺っていた熱いロックンロール・ハートの持ち主だったのじゃ!

 この日のライブは午後9時から。演奏曲は、「ザッツ・オール・ライト」、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」、ビル・モンローの「アンクル・ペン」、ジェイムス・ブラウンの「クライング・ハート・ブルース」、更に「テネシー・サタデー・ナイト」、「オールド・シェップ」。メンフィスのヒットチャ―トを急上昇中のシングル2曲は、2回づつ演奏したらしい。
 駐車場に集まった観客は約300人。たまたまライブを観ることになった人も多かったじゃろうが、特にティーンエイジャーの女の子たちは、エルヴィスの歌に次第に興奮していった!とオパール嬢は語っております。なおこの日エルヴィスのライブを観た群衆の中には、後にエルヴィスの秘書になり、1997年に出版された「My Life with Elvis Presley」の著書ベッキー・ヤンシー嬢(当時14歳)や、メンフィス・マフィアの一員となるマーティ・ラッカー(ショッピングセンター内のデパートに勤務中)もおった。ちなみにエルヴィスの出演料は10ドルだったとか!

 下写真はショッピング・センター敷地全体の航空写真とストリートビュー2019年6月撮影写真。カッツ・ドラッグストアは既にショッピングセンターから撤退して久しく、現在建物内には別店舗が幾つか入居しておるとのこと。
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 「エルヴィスは客層が悪い」がアダとなった、元メンフィスNo.1クラブ
Area No.36/Serial No.107 ワールアウェイ・クラブ跡地
 正確な日時の記録は無いが、1954年8月に少なくとも1回はエルヴィスは「ワールアウェイ・クラブ」に出演した(もしくは出向いた)ことが、スコッティ・ムーアとサンレコード両サイトに記されておる。(証明する写真や新聞広告は無し)
 このクラブはメンフィスの繁華街から離れた位置にあったものの、当時“もっともホットなナイトクラブ”としてNo.1人気クラブだっただけに、エルヴィスは継続した出演希望を申し入れていたそうな。クラブのオーナーもエルヴィスに興味を示しており、当時頻繁にエルヴィスが出演していたイーグルズ・ネストまで演奏を聞きに来ておった。(左写真は、イーグルズ・ネストでのエルヴィス)

 イーグルズ・ネストでのエルヴィスの反響は上々ではあったが、ワールアウェイ・クラブのオーナーはエルヴィスの出演希望を断ったという。理由はエルヴィスの演奏を楽しんでいるイーグルス・ネストの客層が悪いことだった。
 ミシシッピー州との州境を越えたウェストメンフィスからもやって来る田舎者、荒くれ者、不良西洋人、ガラの悪いピックアップトラックの運転手たちがエルヴィス観たさにイーグルズ・ネストに集まって来る客であり、一方ワールアウェイ・クラブに集まるお客は大学生、若い弁護士、ビジネスマンたちが主流だった。オーナーはエルヴィスにこう告げたという。
「我々は君や君の音楽を愛しているよ。でも君が呼び込むタイプのお客を望んではいないんだよ」
まあオーナーは、エルヴィスの豊かな将来性と幅広い集客力を見抜けなかったのじゃ。

 「ほっほお~。おたくはそんなにお上品なクラブなんですかい?そーですかそーですか。そんなら、どんな“出し物”でお上品なお客様をもてなしておるんですかい?」ってのはエルヴィスじゃなく、サム・フィリップスでもなくてわしの返答じゃい!ちょっとムキになって調べてみたら(笑)こんな写真がサンレコードのサイトに貼り付けてあった。(下写真)


「どこか上品なんじゃ、バカモノ!まったくおゲレツではないか!」
ってなもんじゃが、他のサイトもよぉ~くチェックしたら、この広告写真は1960年代のものであるものの、「ワールアウェイ・クラブのショーは猥褻」という当局の裁定によって長期休業に追い込まれるきっかけにもなったようじゃ。

 恐らく1960年代になってワールアウェイ・クラブは営業状態が悪化し、客寄せの為にショーの内容が過激になっていったに違いない。客層がどうしたとか言ってらんない状況に追い込まれたのじゃ。デビュー当時のエルヴィスを出演させておけば、それだけで箔が付いてお店の評判は自然と口コミでメンフィス周辺に広がって安定した集客に繋がったはずじゃ。

 その後のワールアウェイ・クラブの顚末に関するネット情報は無く、廃業時も不明。他の写真も見当たらない。悲しいかな「エルヴィスの出演を断った」大失態の事実と、おゲレツな写真のみが後世に残されてしまったってわけじゃ。
 上写真に印されたクラブの住所による現状は左写真の通り。(ストリートビュー2022年1月撮影)
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【 追記 】
 ワールアウェイ・クラブに関するその後の情報じゃが、ひとつだけ予期せぬ方面からエルヴィスとの関わりを発見。右写真は、1972年6月30日メンフィスのサウスパークウェイとエルヴィス・プレスリー・ブールバードの交差点で偶然撮影された、女性同伴でバイクに乗っておるエルヴィスじゃ。
 女性はメアリー・キャスリーン・セルフという方で、当時のエルヴィスのガールフレンドであり、ワールアウェイ・クラブのダンサーだったらしい。エルヴィスとメアリー嬢が何処で知り合ったかは不明じゃが、メンフィスマフィアの一人に言わせれば「彼女はプリシラに似ていた」とか。
 なおメアリー嬢はこの写真が撮影された二週間後に交通事故でこの世を去っており、葬儀にはエルヴィスから美しいフラワー・プレートが届けられたという。


 “スター・エルヴィス”の初ショットが撮影された写真スタジオ
Area No.37/Serial No.108 ブルーライト・スタジオ
ビューシングル「ザッツ・オール・ライト」のレコーディングから10日後、サンレコードのシンガーとしての初舞台となる「ボン・エア・クラブ」のステージの2日前の1954年7月15日、エルヴィスはサンスタジオからほど近い「ブルーライト・スタジオ」にて、プロのシンガーとしての初めてのプロモーション用ポートレートを撮影しておる。(上左写真)撮影者はマーガレット・サットンなる女性カメラマン。左下写真はエルヴィスの服装から同日の撮影と思われるが、明らかにスタジオ外での撮影であり、サットン女史撮影か否かは不明。

 当時の「ブルーライト・スタジオ」は、エルヴィスご用達のテーラー「ランスキー・ブラザーズ」の第1号店が占拠していたビール・ストリートとサウス・セカンド・ストリートとの北西角にあった。(上右写真)ランスキーブラザースは2014年にこの場所をハードロックカフェに譲り、ピーボディ・ホテル1階に移転。(メンフィス前編、Point-10参照)

ルヴィスはその後もプロモーション写真をブルーライト・スタジオに依頼しており、下写真2枚もブルーライト・スタジオでの撮影とされておる。
 当時のエルヴィスはセルフポートレートの出来栄えに対して、実際の年齢より少し上に見えることを希望し、またユニセックス的な仕上がりはあまり好まなかったようじゃ。今日ネット上で閲覧できるブルーライト・スタジオでのエルヴィス・ショットは当時のエルヴィスの希望を叶えた出来栄えには見えないが、ロックンロール・スターとしてのエルヴィスとは別の魅力、例えば映画スターやファッション・モデルとしての魅力を捉えているようじゃ。
 ブルーライト・スタジオが長らくエルヴィスの写真を綺麗に店内にディスプレイしていたことを目にしていたエルヴィスは、その営業姿勢に敬意を表していたという。後にプリシラを連れて行き、彼女のポートレート撮影も依頼しておる。(下右写真)

 1960年代後半になるとメンフィスは経済停滞期に陥ってしまい、ダウンタウンは荒廃化していったが、ブルーライトスタジオは危機を乗り越えて現存しておる。ビールストリートでさえ一時期廃れた1970年代は、数ブロック離れた場所へ移転し、 1994年のメンフィス復興期に再びユニオンアベニューに移転して今日に至っておる。今でもエルビスのポートレートがディスプレイされておるそうじゃ。

 ブルーライト・スタジオの跡地は、上述の通りランスキー・ブラザースが移転したことにより現在はハードロック・カフェになっておる。(右写真/ストリートビュー2021年11月撮影)
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 エルヴィスと共に、レコード盤大量生産時代を支え続けたレコードプレス工場
Area No.38 Sirial No.109 プラスティック・プロダクツ・カンパニー跡地


 上記Arean No.37にてご紹介したブルーライト・スタジオにエルヴィスが最初のプロモ用写真の撮影に出かけておる頃、サンレコードのサム・フィリップスは「偉大なるシンガーが我がレーベルからデビューするぞお~今日は祝杯だあ~」と飲みまくっていたわけでなくてだな(それはわしか!?)、10日前にレコーディングが完了したエルヴィスのデビュー曲「ザッツ・オール・ライト/ブルームーン・オブ・ケンタッキー」のマスターを持って、メンフィスにあるレコード・プレス工場「プラスティック・プロダクツ・カンパニー」(以下PPC表記)でシングル盤1,000枚のプレスを依頼しておった。ついにキング・オブ・ロックンロールのレコードが世界制覇に向けて製造され始めたのじゃ!
 当時はシングルレコード盤は78回転盤と45回転盤の端境期に当たり、サンレコードやエルヴィスにとっては、運良くメンフィスには1949年に全米で二番目に出来たプレス工場PPCがあり、エルヴィスの音楽を拡散させるためには誠に好都合な存在だったのである。
 PPCの正式名称じゃが、サイトによっては「クォンセットハット・オブ・プラスティック・プロダクツ」と表記されておるが、クォンセットハット(Qonset hut)とはカマボコ型建物という意味であり、第二次世界大戦後にイギリスから大量輸入されたことで全米に広がった軽量金属製の工場用の屋根の総称。エルヴィスのレコードをプレスした工場の名称はシンプルに「プラスティック・プロダクツ」じゃ。エルヴィスは自分の最初のシングル盤がプレスされている様子を見学するためにPPCにやって来たらしい。

 工場の創設者であるロバート "バスター"ウィリアムスは1992年に83歳で亡くなったが、生前に周囲の者や工場従業員たちにこう話していたという。
「エルヴィスを育て上げたのはRCAじゃない。サンレコードのサム・フィリップスだ。そこをはき違えちゃいかんぞ!サム・フィリップスはエルヴィスだけでなく、優秀なミュージシャンを次々と世に送り出したんだ。サムやミュージシャンをサポートするために、我々は工場を24時間稼働させて懸命に働いたのだ。アメリカのポピュラー音楽文化、レコード文化を作り上げたのはサムと我々なのだ」
素晴らしいプライドじゃ!ロックンロール関連事業に携わりし者であれば、一度はこんなセリフを吐いてみたい!!
 
 PPCは工場立ち上げ当初はジュークボックスの製造も行っており、エルヴィスのレコード盤が世に出ると同時にジュークボックスもレコード盤も製造依頼が急増し、会社の業績は飛躍的に上昇!サンレコード衰退後も、1960年代になってメンフィスには「アメリカン・サウンド・スタジオ」が出来たことでレコード盤の発注は留まることを知らなかったという。(左写真は、1997年撮影)
 アーカンソー州出身のPPC創設者のウィリアム氏は、自家製塩茹でピーナッツを売り歩く貧しい少年時代を送っていたらしいが、元来かなり優秀な頭脳の持ち主であり、ジュークボックスやレコード製造業が軌道に乗ってからも常に従業員の作業効率や製造機能のコストパフォーマンスのチェック、また第二、第三工場設立のタイミングの検討を怠らなかった仕事熱心な方だった。適切なタイミングの増資による新工場設立や新技術導入によって、急速に膨れ上がっていった世の中のレコード盤需要に対応し続けていたというからスゴイ!ついには会社を自社用飛行機まで所有出来るほどの超ビッグな組織に成長させた!ロバート "バスター"ウィリアムスは、まさにロックンロール、アメリカン・ポピュラー・ミュージックの歴史を裏から支えていた偉人といえよう。
 
 2012年8月17日、メンフィス恒例の「エルビス・ウィーク」の祭典が終わると、工場跡地にPPCとウィリアム氏の業績を讃える「ヒストリカル・マーカー(歴史的文化財記念標識)」設置式典が行われ、ウィリアム氏の遺族や100人を越える音楽ファン、またジェリー・リー・ルイスのバンドのドラマーだったJ.M.ヴァン・イートンが出席した。イートン氏は自分がプレイした曲がレコード盤となり、それを持ってラジオ局を周ってレコードをかけてもらった遠い日の感激を述べることで、PPCと故ウィリアム氏へ感謝の意を表したという。

 なお工場の建物は現在でも残されており、Google-map上では「博物館、美術館」と表示されておる。当時のレコードプレス機械やレコード盤が展示されておるのかもしれんが、詳細は不明なので悪しからず。(右写真は、ストリートビュー2019年3月撮影)
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“デブ扱い”されても、貧血で倒れてもいいから、エルヴィスを観たい!
Area No.39 Sirial No.110 メンフィス・ステイト・カレッジ(現州立メンフィス大学)
 1954年のエルヴィスのライブ軌跡において、もう一ヶ所詳細が不明ながらも興味深い記録をご紹介しておこう。
 スコッティのサイトにおいて、11月8日メンフィス・ステイト(カレッジ)出演という表記がある。一方サンレコードのサイトでは日付は11月3日であり、エルヴィス単独出演とされておる。その他私設サイトでは何を根拠にしておるのか分からんが、3日か8日かのどちらかの表記。

 ライブ詳細についてはサンレコードのサイトのみ、次のような内容の記述があった。このライブはエルヴィスがメンフィス市の献血運動のスポンサーとなることにより(?)、メンフィス・ステイト・カレッジ(現州立メンフィス大学)の体育館で開催された。(スコッティ、ビル抜き)何だかよくワカンネー説明書きじゃが、ヨースルニ献血に協力してくれた学生さんはエルヴィスのライブを無料で(?)鑑賞出来るってことだったみたい。丁度「グッドロッキングトゥナイト」がメンフィスのヒットチャートでトップ10内にランクインした頃であり、「エルヴィスが観られる!」ということになれば、献血希望の学生さんがたくさん集まる!ってのが学校側の算段だったようじゃ。サンレコードに協力を打診したところ、エルヴィスの出演料は10ドルでOK!だったらしい。

 献血出来る人の条件は体重110ポンド(約50キロ)以上だったので、痩せっぽちだった(体重50キロ未満)女学生たちは、下半身(のどっか)に小さなレンガを縛り付け、大きく膨らんだフープスカートをはいてレンガを隠して体重測定をクリアしようとしたらしい!「例えデブになっても、貧血で倒れてもいいからエルヴィスを観たい!」という健気でカワイイ浅知恵じゃな!献血現場で働いていたナースは、そんな女学生を何人も発見したらしい!

 上写真は、左から学生代表のバーバラ・ネットプリチェットさん、エルヴィス、学部長さん、そしてエルヴィスのギターを抱えてご満悦の表情のご老人は当時のメンフィス市長のフランク・トビーさん。市長さんはこの一年後に心臓発作で急死されたとか。ネットプリチェットさんの供述によると、「学校の体育館はあっという間に女学生たちで一杯になりました。重要な事はエルヴィスのお陰でこの日は、メンフィス史上もっとも成功した献血運動になったことです。エルヴィスはとても礼儀正しく、そしてシャイでした」とのことじゃ(笑)
 またエルヴィスが着ておるジャケットは、ネットプリチェットさんによれば「控え目なジーン・オートリー風(有名カントリーシンガー風)」だったという。切り返しや生地がThe-King製の懐かしい初期型のガウンナッソーっぽくてわしはガン見してしまった!
 

 メンフィス・ステイト・カレッジは、名前が定期的に変更されていた為に現在地の特定に手間取ったが、1957年当時のキャンパス写真(下中央写真))を載せておるサイトによって現メンフィス州立大学である確証を得ることが出来た。
 ストリートビューの撮影は現在のところ大学周辺にまでは及んでいないので、大学キャンパスの航空写真(下右写真)を代わりに掲載しておくぞ。

■Google-map上の位置■


「ねえリズ、リズ・テイラー!こっちへおいでよ」
Area No.40 Sirial No.111 シビック・オーディトリアム/キングスポート
 「バック・イン・テネシー州」のラストは、ナッシュビルでもメンフィスでもない地域へ一ヶ所ご案内しよう。
 メンフィスから約770キロ、ナッシュビルからは約450キロ離れたテネシー州キングスポートという小さな街に、1955年9月22日エルヴィスがやって来た。ライブ会場は約300人を収容できるシビック・オーディトリウム。(左写真)新聞広告による事前プロモートは行われていたが(右写真)、ライブ終了後のレビュー等は新聞に掲載されなかったという。しかし地元の新聞記者が、ライブ体験者の記憶がまだ比較的鮮明だった1970年代半ばに、この日のライブについて数十人の地元の人々にインタビューしており、それ以来、何度か彼らの回想が紙上で発表されておるらしい。以下、スコッティ・ムーアのサイトに転載されておったエピソードじゃ。

 メンフィスと同じテネシー州内とはいえ、エルヴィスにとってキングスポートに足を踏み入れるのは初めてだったようで、ライブでの開口一番「キングスポートって、何処にあるんだい?」とジョークをかましたそうじゃ。ライブの詳細に関する人々の記憶は「ロック・アラウンド・ザ・クロック」でスタートして「アイ・ラブ・ユー・ビコーズ」で締めくくられた曲目以外は特に語られておらんが、ライブの後に地元の女子高生とエルヴィスが束の間のデートを楽しんだエピソードが紹介されておる。
 ライブ終了後にエルヴィスは会場のロビーで自らプロマイドを1枚50セントで売り、買ってくれたファンにはその場でプロマイドにサインをしておった。その最中、エルヴィスは一人の女子高生に声をかけた。

「ねえリズ、リズ・テイラー!こっちへおいでよ」

 エルヴィスの声掛けの先におった女性は、地元の女子高生ビリー・メイ・スミス嬢。写真で見る限り(左写真)、確かに若き日のエリザベス・テーラーに似た清楚な知的美人さんじゃ。エルヴィスは「愛しのリズへ」とコメントまで添えたサインをプロマイドにして、すぐにビリー嬢へ渡したんだそうじゃ。無料?いつの時代も美人は得じゃのお~(笑)
 当時のエルヴィスの恋人は高校時代からお付き合いしていたバーバラ・ハーン嬢。(「フロリダ州編アウトテイクその5~バーバラ・ハーン嬢の思い出!」参照)やはり清楚な知的美人さんじゃ。このタイプの女性が当時のエルヴィスのお好みだったんじゃな~(笑)

 ビリー嬢は終始落ち着いた態度でエルヴィスにこう言ったらしい。
「あなたがピンクのキャデラックを女の子たちに見せびらかした後に、私のお友達にもサインしてあげてちょうだい」
 やがて空腹を訴えたエルヴィスを彼女は地元の若者の溜まり場だった「ジミーズ・レストラン」へ案内し(下左写真。下中央写真はストリートビュー2012年10月撮影のレストラン跡地)、一緒にペパロニピザを食べた後に自宅に招待してコーヒーをご馳走したそうな。
 ビリー嬢の本意はエルヴィスとドライブしたかったらしい(笑)途中、ビリー嬢のボーイフレンドがやって来てエルヴィスに嫉妬した(?)なんてこともあったらしい!その後エルヴィスは車を飛ばしてメンフィスへ戻ったんだそうじゃ。エルヴィスにとってもビリー嬢にとっても、まさに束の間の幻のようなロマンス!
 以上の回想は2009年の日付で紹介されており、その時点でビリー嬢はご健在、高校時代と変わらぬ美貌を保っていて、エルヴィスとの儚いロマンスを「これ以上ないスリルでした」と語ったという。
 ジミーズ・レストランはもう無いが、シビック・オーディトリアムは現在も稼働中。(ストリートビュー2018年5月撮影)
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コードデビュー直後のエルヴィスの足取りを追ってみた「バック・イン・テネシー州②メンフィス」。バーチャルでエルヴィスゆかりの地を周回するツアーの原点回帰も、これにて完了じゃ。

 ライブ終了後に自らプロマイドを売ったり、献血運動に協力させられたり、客層が悪いと出演を断られたり、ショッピングセンターの開店記念祭りに引っ張り出されたり、キング・オブ・ロックンロールもデビュー直後は色々あったわけであります。
 左写真は1954年~1955年当時のライブ会場で売られていた、今で言うコンサート・プログラムみたいなピクチャーアルバム。PRESLEYの表記下に見えるMr.Rhythmが当時のエルヴィスのキャッチフレーズだったようですな!この後にMr.Dynamiteになって、1956年にはもうKing of Rock n’Rollになるんじゃから、このキャッチフレーズ/ニックネームの昇華具合はある意味でエルヴィスのすさまじい出世スピードを象徴しておるな。
 インターネットなんか影も形もなく、全国放送のテレビ番組出演回数も充分ではなかったはずなのに、僅か2年弱で全米制覇をやってのけたってのはほとんど「奇跡」じゃ!今回ご紹介したデビュー当時の地元メンフィスでペーペーシンガーなりのエピソードの数々は、その「奇跡」の起点をより鮮明にしとるようなものじゃ!

 さて、一度エルヴィスのホームタウンに戻ったので、これから先の「バーチャル・ロックンロール・ツアー」は何処に行くべきなんじゃろうかのお(笑)って綿密な計画なんか立ててもどうせポシャルので!元来旅がらすであるわしの現実の旅同様に、“風任せ、酒任せ”で行かせてもらいます。では、次回のツアーのご参加もお待ちしております!
 


【付録】 Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」

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