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アーカンソー州を走るロックンロールハイウェイ67に入ったバーチャル・ロックンロールツアー、今回はアーカンソー州のより奥地へ潜入じゃ。前編Point-7でご案内した通り、ロックンロールハイウェイ67は北側始点から南下するとブラッドフォードという街で一旦終わるんじゃが、実は追加されておる区間がその先にまだあるのじゃ。追加区間に行き付く途中、更に追加区間に入ってからもエルヴィスゆかりの地は点在しておる! 今回の9ポイントを含めてアーカンソー州へのご案内は合計18ポイントに設定させて頂いたが、1954年~1955年の一年間にわたり、まだ駆け出しだったエルヴィスがライブ、プロモーション、ファンとの交流、また時にはささやかなロマンスの為にロックンロールハイウェイ67を基軸にして駆け回ったアーカンソー州へのバーチャルツアーをどうか最後までお楽しみ頂きたい!
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57年の時を経て生々しく証明された、エルヴィス・ライブの凄まじさ! Point-10 ロビンソン・オーディトリアム(現ロビンソン・センター)/リトルロック リトルロックでのライブは、いずれもエルヴィスのライブ史上においてファンとしてはスルーし難い話題を伴っておる。まず1955年2月20日、エルヴィスは両親をライブ会場に招待しておる。これは両親にパーカー大佐を紹介するためだったらしい。エルヴィスと大佐は二週間前の2月6日にメンフィスのエリス・オーディトリアムでの2回のライブの合間に初めて接見しておる。(メンフィス中編Point-16参照)その時の大佐はまだ控え目な自己アピールに留まったとされておるが、エルヴィスは大佐を「頼りになりそうな人物」として注目していたってことじゃろうな! 1955年8月3日はカントリーシンガーのチャーリー・フェザーズが共演。このフェザーズは、エルヴィスのサンレコード最後のシングル「ミステリートレイン」のB面曲「忘れじの人 I Forgot To Remember To Forget」のデモヴァージョンを吹き込んでおり、「エルヴィスがレコーディングをする際は、このわしがヴォーカル・アレンジをエルヴィスに指導したんじゃ!」と後年のたまわっていたという(笑) フェザーズ君は1954~1955年当時はサン・レコードにちょくちょく顔を出しておったらしいが契約には至らず、メンフィス・ミュージック界のアンダーグラウンド・シンガーの立場からはついに脱却できなかったという。 そして1956年5月23日、この日のライブはリトルロックという街の歴史上で永遠に語り継がれることになるほどの大熱狂状態になった! 半世紀以上も過ぎた2013年7月21日付の「アーカンソー・デモクラット・ガゼット」なる地元新聞が、1956年5月23日のエルヴィス・ライブにおける思い出のコメント投稿をオンラインで募ったところ、夥しい数の投稿が寄せられた!当日のライブの熱狂をリアルに伝えるために、“熱いタッチで寄せられた”投稿の一部をご紹介しよう。 ♪~私たちは、何か巨大なものの始まりにすぐに飲み込まれたことが分かりました~♪ ♪~エルヴィスは痩せていて、明るい金色のきらびやかなスーツを着ていました。彼が歌い始めると、誰もが席から飛び上がり、彼の音楽のビートに絶え間なく熱狂的に身体を震わせていました。ロビンソン・オーディトリアム全体が揺れ動いていたのです!ショーが終わったとき、私たちは皆汗でびしょ濡れになり、疲れ果てましたが、それでも頭の中ではビートが跳ねまわっていました~♪ ♪~母はこの日の為に、私に新しいプリーツシャツとそれに合ったグレーのセーターを買ってくれました。柔らかいサドルシューズとボビーソックスによってオシャレは完成しました。髪はもちろんポニーテール。騒音は耳をつんざくような刺激的なものでした。エルビスがキスした女の子が気を失ったことを覚えています。日常は吹き飛んでしまい、とてつもなく楽しくて幸せな時間でした~♪ ♪~私はガールフレンドと一緒に席を離れてステージに駆け上がりましたが、それは私たちだけではありませんでした。警備員さんたちもさぞかし大変だったに違いありません~♪ ♪~ライブ会場に行く前、なぜこんなにワクワクするのかは正直わかりませんでしたが、素直に振る舞うべき!と思ったので、周りの女の子と同じように心に手を当て、髪と腕を振り回して心の限り叫びました。エルヴィスのライブが私の生涯において本当に無垢でいられた機会であったこと、その思い出を大切にすること、私をそんな風に導いてくれた存在がエルビスです~♪ ♪~当時16歳だった私は、その夜は男性とデートの予定でした。母親にエルビスのライブに行ったことを男性をに伝えてもらいました。彼は気分を害したはずですし、彼が私を許したことはないと思うけれど、それでも体験する価値があったライブでした~♪ ♪~当時14歳だった私は、母と一緒にライブに出かけました。2人ともエルヴィスを知らなかったのですが、父から2枚のチケットを貰ったのです。私も母も会場でエルヴィスに恋をしてしまいました。母は興奮し過ぎてバルコニーから落ちてしまうんじゃないかって心配したほどです。それでも母は帰宅するまでに冷静になりましたが、私はダメでした。すぐに自分の部屋の壁の一画はエルヴィスの写真、雑誌の切り抜きでいっぱいになりました。 ♪~兄と、兄のガールフレンドと一緒にライブに行きました。エルヴィスの身体の捻じれ具合、動き全てが衝撃的であり、そんな動きを私は見たこともありませんでした。とてもセクシーで、そんな事を感じる自分自身が、すぐ傍にいる兄に対して恥ずかしいほどでした!~♪ 半世紀以上も経っているのに、投稿者たちの記憶はスゴイ。仮に彼女たちの当時の年齢が15歳ならば、投稿の時点で72歳ではないか!ライブ状況だけではなく、ライブ当日の様々なシチュエーションまで明確に覚えているって、いかにエルヴィスの存在、ライブが衝撃的であったかを物語っておる。皆様のご健勝をお祈りする次第じゃ! なお、ロビンソン・オーディトリアムは「ロビンソン・センター」と改名して現在も稼働中。右写真は、ストリートビュー2021年5月撮影。 ■Google-map上の位置■ |
世界で初めてのエルヴィス・ファンクラブの集い! Point-11 ホープ・シティ・ホール&スイカ・パーティー・ハウス/ホープ Point-1で紹介したリトルロックから、更にハイウェイ67を約200キロ南下した場所にホープという街があり、エルヴィスは1955年2月22日シティ・ホールで、6月5日フェアパーク・コロシアムでライブを行っておる。 この2回のライブ情報は、現在のところウェブサイト上ではステージ写真が少々公開されてはおるが、詳細に関してはほとんど何の記述もない。基本情報のみ記載する代わりに、興味深い写真や記録が残っておる両日のライブ後のエルヴィスの行動を以降、Point-12,13まで含めてご紹介しよう。 上写真は左から、シティホール全景、エルヴィスのステージショット、更に新聞の広告。ちなみに当日のシティホールはガラガラだったらしい。真上の写真はストリートビュー2014年5月撮影。 ■Google-map上の位置■ ライブ終了後に、エルヴィスはルーラ・メイ・ミッチェルという女性の自宅で開かれた「スイカ・パーティー」に参加。下写真2枚はその時の模様。このスイカ・パーティは長らく6月5日フェアパーク・コロシアムでのライブ終了後との説が流布されておったが、6月5日の夜はテキサスとの州境の街テクサーカナへ向かう途中の路上でキャデラックが炎上する事故を起こしていることもあり(下記Point-13参照)、その他の状況も併せて現在では2月22日という説の方が有力じゃ。 上右写真左側の人物がスイカパーティーの主催者ルーラ・メイ・ミッチェル嬢。スコッティ・ムーアのサイトは、このパーティーを事実上世界で初めてのエルヴィス・ファンクラブの集いである!と記述しておる。ミッチェル嬢はエルヴィスのコピー屋君として前座にも出ていたトミー・サンズというアイドル的シンガーのファンクラブの会長を後に務めていたそうじゃ。既に地元のエルヴィス・ファンの女の子を集めたファンクラブの前身的活動もやっておったのじゃろう。ちなみにこのスイカ・パーティーは「18歳以下は出入り禁止」だったそうじゃ。 何故スイカ?じゃが、ジャンボ・スイカがホープの特産物として売り出されていたので、ホープ自慢の逸品でエルヴィスをもてなそう!って企画だったんじゃろうな。 ところで、アメリカのエルヴィス・マニアがスイカ・パーティが開かれたミッチェル嬢の自宅を突き止めた動画をネット上で発信しておった! 動画撮影時点(動画公開は2020年11月)でミッチェル嬢は同じ住居にてご健在であり、快く撮影を許可した模様じゃ。しかしミッチェル嬢の自宅位置が分かる映像、会話、ナレーションは一切無かったので場所は特定出来ず。その他のホープ発信のサイトもしらみつぶしにチェックしたが、ミッチェル嬢が動画公開時期から約1年後に他界されたことや、彼女の生前の職業や略歴や埋葬地までは探し当てたが、自宅の場所はついに判明しなかった。現在もご家族が住んでいらっしゃることが考慮されての情報未公開なのじゃろう。その点、どうか悪しからず。 下写真は動画の静止状態でのスクリーンショット。下左写真が、エルヴィスが寝そべっていたソファが置かれていた位置。右がエルヴィスが立っていたキッチン。 【 参考 】 スイカ・パーティーの日付について。アーカンソー州の別地域の調査から興味深い情報を得ることが出来た。Point-16にてご紹介する、テクサーカナという地域でエルヴィスと食事デートをしたマージー・マレク嬢の供述じゃ。1955年当時ホープの高校生だったマージー嬢は、食事デートの後にエルヴィスと再会を果たした時、エルヴィスに「どうして、ホープでのスイカパーティーに来なかったの?」と訊かれて、次のスイカパーティーに招待されたらしい。ということは、両日ともスイカ・パーティーが開催された可能性があるということじゃ。 |
1955年6月5日は、1台目のキャデラックが燃えた日 Point-12 フェアパーク・コロシアム/ホープ Point-13 ピンク・キャデラック炎上地点/フルトン 上右写真は、公演終了後にエルヴィスがキャデラックの上に乗っかっているショット、更に前日のルイジアナ・ヘイライド(シェリビーポート)のライブ後に知り合って意気投合?してホープまで同伴して来た新しいガールフレンドのシャーリー・デルガド嬢とのツーショット。いずれも当日のライブの成功にエルヴィスが上機嫌だったことが伺い知れるショットじゃ。 この当時のエルヴィスの写真の中には、「これって本当にエルヴィス?」と思える少年のようなお顔が登場してくることがある。それもまたエルヴィス探しの旅の魅力じゃ。右写真はフェアパーク・コロシアムのストリートビューによる2008年4月撮影。(1950年当時の写真は見つからず) ■Google-map上の位置■ しかし“好事魔多し”とはこの事。4日後のテキサス州スイートウォーター公演に向けて、エルヴィス一行はこの夜の内にアーカンソー州とテキサス州の州境の街テクサーカナで宿泊するために、ハイウェイ67をぶっ飛ばしている最中にキャデラックが炎上するという事故に遭ってしまうのじゃ。 このキャデラックは同年3月に購入したばかりのピンクの1954年型であり、約二ヶ月前の4月3日にはルイジアナ州シェリーブポートにてスピード違反で25ドルの罰金を払ったこともあり、どうもエルヴィスとは相性が悪かったようじゃ。(ルイジアナ州編「Point-4 エルヴィスのスピード違反地点」参照) 事故原因については詳しい調査はされておらんようで、元々欠陥車だったのか、整備不良だったのかは不明。またスコッティとビルも同乗していたのか、していなかったのかも記述が様々。間違いなく女性が同乗していたものの、誰であったのかも長らく不明とされておった。 スコッティ・ムーアのサイトによると、2013年2月にテクサーカナの新聞に、事故現場にもっとも早く遭遇して消火と荷物の運び出しを手伝ったという男性の証言が掲載されたとのこと。 その男性の記憶と証言に間違いが無いとすれば、最初は事故車の所有者(運転者)がエルヴィスであることは気が付かず、一緒に楽器や衣類を運び出したという。その後、エルヴィスと同乗していた女性をテクサーカナのモーテルまで自分の車で連れて行き、モーテルの横のカフェでは、スコッティとビルが待っていたという。2人はキャデラックの事故についてはそれまで気が付いていなかったらしい。 エルヴィスはキャデラックがおしゃかになったことに勿論ショックを受けていたが、自慢のムービーカメラを運び出せずに燃やしてしまったことも嘆いていたという。カフェ到着後、エルヴィスが御礼として5ドルを差し出したので男性が受取を断ったところ、代わりにエルヴィスはカフェのコーヒー代を支払ったとのことじゃ。 なお消火後のキャデラックの残骸を撮影したのは誰なのか?何気にスコッティのサイトをチェックしたら、上の写真で紹介した新しいガールフレンドだったシャーリー嬢の名前がクレジットされておった。同乗していた女性は、やはりシャーリー嬢だったのである。彼女はテキサス在住者であり、公演のためにテキサスに向かうエルヴィスの“あんよ”は彼女にとっても好都合だったのじゃ(笑) ■Google-map上の位置■(キャデラック炎上地点) |
出演料17.5ドル!だったクラブ周辺から再スタートするロックンロール・ハイウェイ Point-14 ロックンロール・ハイウェイ67追加区間北側始点 &ハット・クラブ跡地/テクサーカナ 2010年1月20日付けの「アーカンソー州高速道路委員会議事録」全460ページ内の190ページ目に、ロックンロール・ハイウェイ67追加区間が記載されておる。追加区間は、アーカンソー州とテキサス州の西州境、ミラー郡テクサーカナ内を通るハイウェイ67を「ロックンロール・ハイウェイ67」として追加認定するとされとった。テクサーカナ内のハイウェイ67全区間なのか、ある一部なのか、どうも判然としないものの、現時点では議事録の字面を「テクサーカナ内ハイウェイ67全行程」と判断させて頂く。 とりあえずGoogle-mapでテクサーカナ区域を指定し、その中を走るハイウェイ67の北端周辺をストリートビューで散策すると、「ハイウェイ67」の標識を確認出来た。(左写真)しかし南端(テキサス州との州境)周辺では標識が見当たらなかったので、その点はご了承願いたい。■Google-map上の位置■ テクサーカナ北端で標識を確認できた地点から4キロほどロックンロール・ハイウェイ67を南下した地点に、エルヴィスが1955年11月17日に出演した「ハット・クラブ」なるミュージック・クラブがあった。ハット(hut)とは小屋の事であり、その名の通り小さなクラブだったようじゃ。 エルヴィスがハット・クラブにやって来た時刻は夜の11時前。当日は既にテクサーカナ・ムニシパル・オーディトリアムにおいて昼夜2回のライブをこなしており、また時期的に大手RCAと契約を果たした直後でもあり、どうしてわざわざ深夜に小さなミュージック・クラブに出演したかが解せない。しかも約一ヶ月後に出演した、アーカンソー州スウィフトンの小さなクラブ「キング・オブ・クラブス」の出演料は450ドルだったのに(アーカンソー州前編Point-3参照)、ハット・クラブの出演料はたったの17.5ドルだったという・・・。 スコッティ・ムーアのサイトでは、クラブ側はエルヴィスの出演を予めブッキングしていなかったのでは?としておる。何かワケありの出演のようじゃな。上写真は、同日のムニシパル・オーディトリアムでのステージショット。このステージの後、ハットクラブに出演しておる。 どうやら、テクサーカナ・ムニシパル・オーディトリアム入り前に、スコッティ・ムーアがハンドルを握っていたキャデラックがオーディトリアム付近でピックアップ・トラックと衝突事故を起こし、キャデラックを修理に出したので(?)その夜3人はテクサーカナで足止めを食っていたらしい。 そこでコンサート終了後に地元の関係者が3人をハットクラブに案内したというのが真相であり、要するに交通事故後の気分転換、時間つぶしのためにハットクラブを訪れたってわけ!(左写真は、ストリートビュー2016年5月撮影) 3人は翌日午前1時過ぎまでハットクラブにいて、スコッティとビルはブルースのインストルメンタル曲「ナイト・トレイン」を演奏し、エルヴィスは「セントルイス・ブルース」を歌ったという。「ナイト・トレイン」とは多分1952年にヒットしたジミー・フォーレストの曲であり、めっちゃカッコイイ! 「セントルイス・ブルース」は、ブルースの女王ベッシ―・スミスが1925年に、また後にビリー・ホリデーも歌ったブルース・スタンダード。ハイウェイ67の遥か先には大都会セントルイスがあるので、片田舎のハイウェイ沿いの小さなクラブでコイツを歌ったのは、エルヴィスの粋な洒落だったのかもしれない。いやあ~聴いてみたかったわい!お車代程度のギャラだったが、オーナーと懇意になった3人は以降度々ハット・クラブを訪れておったそうじゃ。 なおハットクラブの写真はネット上では見つからず、いつまで営業していたのかも不明。唯一2017年5月に火事で全焼してしまった建物の残骸写真のみ現地の報道サイトに掲載されておった。(右写真) 敷地内には同様のクラブ「エレクトリック・カウボーイ」が1998年から2016年の間営業しており、元ハットクラブの建物はエレクトリック・カウボーイの別棟として機能していたのかもしれない。 ■Google-map上の位置■ |
1955年当時は可能だった、女性ファンとの交流の痕跡地 Point-15 リーズ・ドライブイン・レストラン跡地/テクサーカナ 1954年11月からの1年間において、エルヴィスはアーカンソー州とテキサス州の州境に位置するテクサーカナという街を9回も訪れておる。ライブ会場はいずれもアーカンソー・ムニシパル・オーディトリアム(下記Point-17参照)であり、テクサーカナは1956年に人気が大爆発してキングの座に君臨する以前の重要な足固めとなった街じゃろう。 テクサーカナ(Texarkana)という名前は、テキサス(Texas)、アーカンソー(Arkansas)、ルイジアナ(Lousiana)の合成であり、テクサーカナの名の市街地は西がテキサス州、東がアーカンソー州に分かれているのでツインシティー(双子都市)とも呼ばれておる。(ムニシパル・オーディトリアムはアーカンソー州側) 当時のエルヴィスのライブ軌跡とその詳細を追っていると、エルヴィスがライブ終了後にバックステージにやって来た女性ファンと交流している写真が結構登場してくる。その後、エルヴィスと女の子たちは一緒に食事に行ったり、次の公演地まで車で移動したというエピソードもある。まだキングになる前のエルヴィスだったので、女性ファンがエルヴィスとお近づきになるのも可能な時期だったのじゃ。 女の子たちは、警備の盲点やあらゆる伝手、また突進あるのみ!の行動力でエルヴィスにむしゃぶりつこうとしていたのじゃろうが、このテクサーカナではマージー・マレクという女子高生が果敢にエルヴィスに近づき、エルヴィスを食事に連れ出すことにメデタク成功!写真を見ると、これで高校生か!と驚くほどのヤバイ女っぷりじゃ。(左写真)マージー嬢とお友達2人がエルヴィスを案内した場所が、地元のティーンエイジャーの溜まり場だったというリーズ・ドライブイン・レストランじゃった。(上写真) 「君たち、ご飯食べたの?」というバックステージでのエルヴィスのひと言から実現したマージー嬢たちにとっての“夢のエルヴィスとデート”。エルヴィスはマージー嬢とお友達2人の分のチーズバーガーとポテトフライ、さらにチョコレートミルクシェイクをオーダーしたらしい! 「リーズ・ドライブイン」はテクサーカナの人気レストランとして長らく繁盛したようじゃが、近年はメキシコ料理レストランに変っており、それもいつの間に廃業になっておった。右写真はストリートビュー2019年5月撮影。 ■Google-map上の位置■ ロックンロールハイウェイ67・モーテル! Point-16 パーク・プラザ・モーテル跡地/テクサーカナ ムニシパル・オーディトリウムでの9回のライブの際、特に1955年前半期に宿泊していたと思われるホテルがパーク・プラザ・モーテルじゃ。上記リーズ・ドライブイン・レストランからわずか250メートルの位置じゃ。モーテルというと大通り沿いの平屋建てドライブ・イン・モーテルを連想するが、パーク・プラザ・モーテルはハイウェイ67沿いにあった部屋数80を越える大型モーテルであり、写真を見るとプール付きの豪華ホテルである!当時既にテクサーカナの他にダラス、メンフィス、セントルイス等にチェーン展開をしておった。メンフィスのハイウェイ沿いで1号店を出店して後に大規模なチェーン店ビジネスを成功させた有名な「ホリディ・イン」(メンフィス前編Point-10参照)のビジネスモデルになった様なモーテルと言えよう。 上記Point-13で先述した「キャデラック炎上事件」の際、事故現場に遭遇してエルヴィスと同乗者の女性を、スコッティとビルが待つテクサーカナまで自分の車で送り届けたという男性は、恐らくこのパーク・プラザ・ホテルのカフェまで2人を乗せたのかもしれない。 ハイウェイを挟んだ対面にはガソリンスタンドがあったようで、そこでキャデラックを洗車しているエルヴィスを目撃したという当時の地元民の声は多い。 パークプラザ・ホテルの跡地には、現在はドーナツ店が建てられておる。右写真はストリートビュー2018年12月の撮影。ドーナツ店の敷地と左横の駐車スペースいっぱいにモーテルがあったと思われる。 この度のロックンロールハイウェイ67調査上、ストリートビューチェックにおいて「パークプラザ・モーテル」はもっとも華やかなモーテルであった可能性は高い。「ロックンロールハイウェイ67・モーテル」という称号を授けてもいいじゃろう(笑) ■Google-map上の位置■ |
絶対的にダイナマイトでゴージャス、それがエルヴィスよ! Point-17 アーカンソー・ムニシパル・オーディトリアム &ロックンロール・ハイウェイ67追加区間南側始点/テクサーカナ シングル「ハートブレイク・ホテル」の歴史的な大ヒットで1956年より大ブレイクを果たす前のエルヴィスが、実に9回もライブを行ったテクサーカナのムニシパル・オーディトリアム。アーカンソー州とテキサス州の州境近くにあり、ロックンロール・ハイウェイ67追加区間の南側始点からは300メートルほど離れた位置だが、ロックンロール・ハイウェイ67の南側始点というべき存在である。 9回も出演すれば撮影ショットも様々あり、その都度のエルヴィスの顔つきや衣装の変化が少々楽しめるのが嬉しい!その一部をご紹介しておこう。 下写真、横1列目左3月6日、右4月22日。横2列目左4月22日、右5月27日。縦型写真9月2日。横3列目左11月17日、右は1934年当時のオーディトリアム。写真と日付データはいずれも、スコッティ・ムーアのサイトから。 ~絶対的にダイナマイトでゴージャス、それがエルヴィスという男性です!~ ~入場料を支払って最前列まで猛烈にダッシュして、幸運にもステージの左側に3つの席が空いていたのでゲットしました!カーテンが開いた時にエルビスは目の前から現れたんです! 前座がステージを去った後、テクサーカナのDJであるジム・ルファンは、女の子たちを静めようとしましたが女の子たちは次は誰が登場するのかを知っていました。会場の張り詰めた緊張感の中から電流を感じることができました!それからエルビスが登場し、暗くなった講堂の明るいスポットライトが輝きがエルヴィスの笑顔を照らし出しました。 ~最初にエルヴィスを見た瞬間から私はフリーズして口もきけず、息もできなくなったんです。私はエルヴィスに対して完全に畏敬の念によって打ちのめされました。私はエルヴィスから目を離すことができませんでした。まるで呪文がかけられたかのようでした! エルビスは演奏中に自分の服を観客に投げ始めました。私は彼のシャツを手にしましたが、私の後ろの女の子もそのシャツを掴んでいて彼女に奪われました。靴、靴下、ベルト、ポケットコームを次々と群衆の中に投げ込んだ後、エルヴィスはポケットチェンジ(小銭)やガムまで投げ始めました(当時、エルヴィスは常にリグレーのスペアミントガムを噛んでいました)。最後にエルヴィスに残っていたのは、ライトブルーのスラックスだけでした~ ムニシパル・アーディトリアムの収容人員数は約2,000人。1955年当時のアメリカ南部のライブ会場としては中規模クラスだったこともあり、やがてキング・オブ・ロックンロールとなったエルヴィスのライブ会場としてはキャパ的に機能しなくなり、1955年11月16日が最後のエルヴィス・ライブとなった。 エルヴィスの出演がなくなった以降も、ムニシパル・オーディトリアムはアーカンソー州やテキサス州の地元ミュージシャンのライブ会場として使用され続け、現在も稼働中じゃ。左写真は2019年5月ストリートビュー撮影。 エルヴィスのアーカンソー州でのライブは、翌1956年は僅か3回。サンレコードからRCAビクターへの移籍は、エルヴィスのアーカンソー州の数々のライブ会場やロックンロール・ハイウェイ67での日々を、紛れもなく熱い現実であったと同時に、車のバックミラーに映る光景の如く瞬時に消え去ってしまう様な儚い過去にしてしまったのかもしれない。 しかし、わしの様な老いぼれの拙いネット調査でも有難い情報に辿り着ける事実は、1954~1955年にエルヴィスのアーカンソー州でのライブに触れた多くのファンの感動が永遠であることを物語っておる。 ■Google-map上の位置■ 【 ロックンロール・ハイウェイ67追加区間南側始点 】 当パート冒頭で先述の通り、ムニシパル・オーディトリウムから約300メートル離れた位置が、ロックンロール・ハイウェイ67追加区間の南側始点と思われるテキサス州との州境となる。ストリートビューで周辺を確認してみたが、標識は見当たらず。右写真は、2021年12月撮影の州境付近。(テキサス州側からの撮影)ハイウェイ67は、この地点の約800メートル先(Point-16パークプラザ・ホテルの先)よりテキサス州に向かって二車線(一車線づつ一方通行)になっておる。 ■Google-map上の位置■ |
軍施設もちゃっかりエルヴィスに便乗!3月24日は、エルヴィス・G.I.カット・デー!! Point-18 チャフィー・バーバーショップ/フォートスミス アーカンソー州ラストは、ロックンロールハイウェイ67から離れ、Point-17アーカンソー・ムニシパル・オーディトリアムのあるテクサーカナ地域南端から約300キロ北上したフォートスミス郡チャフィーにあるバーバーショップ博物館じゃ。 ご存知の通り、ここは1958年3月24日にアメリカ陸軍に入隊したエルヴィスがG.Iカットにしたバーバーショップじゃ。(実はヘアカットしたのは翌25日だったようじゃ)バーバーショップは、「フォート・チャフィー・ジョイント・マヌーバ・トレーニングセンター」という軍事訓練施設の敷地内にあり、エルヴィスはG.I.カットした後4日間敷地内の兵舎で寝泊まりしながら訓練の準備を整えた後、テキサス州フォートフッドへ移動して本格的な陸軍兵士としての訓練を受けることになったのじゃ。 エルヴィスの入隊に際する周辺情報をあらためて確認したので、一応念のために。3月24日早朝メンフィス徴兵局86支局に出頭して、軍籍番号US53310761を授与。ケネディ軍役記念病院での身体検査の後、夕方バスでチャフィーへ移動。 軍支給のお給料は月78ドル。その他に徴兵期間内はRCAビクターから月1,000ドルが支給されていたそう!軍の支給78ドルをエルヴィスは全額慈善団体に寄付していたとか、同期入隊者や身近な者には新たな軍服をプレゼントしていたという説もある。 バーバーショップは当時から一般人も利用しており、現在ではエルヴィスの写真やゆかりの品、軍関連の記念品などを展示する「チャフィー・バーバーショップ・ミュージアム」としても稼働しておる。 毎年3月24日は「Elvis Hair Cut Day」と称されたイベントが開催され、エルヴィス・トリビュート・アーティストのパフォーマンスやエルヴィス出演映画の上映等の多彩な演目を楽しめるようじゃ。(右縦型写真)。バーバーショップには椅子に座った等身大のエルヴィス・パネルもある。(右写真右上)右写真右下はストリートビュー2014年4月撮影) ■Google-map上の位置■ |
アーカンソー州をミズリー州との州境からテキサス州との州境まで、ロックンロールハイウェイ67に沿って南西に下るバーチャル・ロックンロールツアーはいかがでしたかのう? ロックンロールハイウェイ67(111マイル)に指定されていない区間を含めて、走行距離(笑)は317マイル(約500キロ)。さらにハイウェイ67から外れている別地域にも立ち寄ったので1,000キロぐらいは移動したのではないかのお!車を時速100キロで走らせ続けるだけでも10時間。実際にマイペースで自分の足(車)で周回したとして1週間ぐらいは要するロングツアーになるな。自分で企画しておいて恐縮じゃが、ご案内していて今回も実に楽しかったわい! 某アーカンソー地元民のブログで「エルヴィスのアーカンソーでのランドマーク(記念碑的建物)はほとんど消滅してしまっているので寂しい」と書き綴られておったが、跡地の訪問も事前調査をして予備知識があれば趣深いものじゃ。願わくば地元民の方々には跡地にそれなりのクオリティーのモニュメントか標識を設置するべき意向を州議会に提案するなど、キング・オブ・ロックンロールの痕跡を後世に伝えて頂きたい。 上写真はグレースランドに展示されておるエルヴィスにとって2台目のキャデラック。1台目は今回ご紹介した通り、ハイウェイ67を走行中の車両故障により炎上の末にオシャカに。一ヶ月後に買い換えたのがコレという説が有力じゃ。購入直後はロックンロールハイウェイ67を華麗に疾駆していたのかと思うと早く現物を観に行きたいものじゃ! しかし2台目のキャデラックは母グラデスにプレゼントされたという説もあり、アーカンソー州にまつわる情報はやっぱり錯綜しておって、ホンマ頭が混乱したわい。バーチャル・ロックンロールツアーも早くも10回目が終了したが、ネット上の資料不足(七鉄のジイサマの英文読解力不足だろう!ってそれも多分ある、と思うが)にもっとも悩まされて調査に手間取ったのがアーカンソー州じゃった。それだけに何とか諸君に“ツアーにご参加”頂ける形に出来たので、今は安堵感に浸っておるわい! それでは諸君、次回のツアーまで御機嫌ようじゃ! |
【付録】 バーチャル・ロックンロール・ツアーGoogleマイマップ「アーカンソー州後編」 下地図の内容をここでは気にされる事なく、 まずは地図右上の[ ]マークをクリックし"拡大地図を表示"させて下さい。 当ページでご紹介してきた全Pointが再度、通し番号入り赤マーク(各番号はPoint番号と同じ)で表示されます。 州全域内における各Pointの位置や、Point同士の距離感等も確認出来ます。 ※詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 まずはコチラの[ ]をクリック ↓ |
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