バーチャル・ロックンロールツアー・エルヴィス所縁の地~メンフィス・テネシー 中編
(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)
 「バーチャル・ロックンロール・ツアー~エルヴィス所縁の地/メンフィス・テネシー」は第二弾中編に突入じゃ。エルヴィスの行動の実態に細かく拘れば拘るほど、「半世紀以上前」という時の壁が立ちはだかってくることが少なくない。ネット上で乱舞している私設エルヴィス・サイトの情報や、事実の証言者たちの記憶が食い違っていたりするのは当たり前。さらにメンフィスはあちこちで土地の再開発が行われてきたので、行政区画が大きく変わってしまった場合もある。エルヴィスほどの立場の者であれば、マネージメント側が細かい行動記録を残しておるが、行政区画が変わってしまうと住所(番地)自体が変わってしまったり、消滅している場合もあるので調査は難航するのじゃ。

 そこでこの度ネット上で1955年にメンフィスのバス会社が作成した古い道路地図を探し当て(上記スライダー画像1枚のバックスクリーンにも使用)、当時の行政区画情報の入手に成功!細かい番地までは記載されておらんが、地域名、ストリート名、行政区画の変化はこれでばっちり!今回は「前編」よりも少々マニアックな情報を紹介していくが、ネット上の文字情報とこの古地図を参照して、50年代の住所や建物が無い跡地でも可能な限り正確を期すことが出来た!今後もし諸君がメンフィスを訪れる機会があれば、どうか信用して参考資料にして頂きたい!

 【目 次】 バーチャル・ロックンロールツアー・エルヴィス所縁の地~メンフィス・テネシー中編
 
 ・御覧になりたいPoint番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Point番号は「前編 」からの通し番号になっています。

 
 Point-13  徒歩で帰宅するエルヴィス撮影地点
 Point-14  EP・ブールバード・パウン・ショップ/ラ・メゾン・アンティーク
 Point-15 オウデュボン・ドライブ・ビラ
 Point-16 元エリス・オーディトリウム(現キャノン・センター) 
 Point-17 ホテル・チスカ/WHBQオリジナル放送ブース
 
 Point-18 アメリカン・サウンド・スタジオ跡地
 Point-19 ロウズ・ステイト・シアター跡地
 Point-20 ホーム・オブ・ザ・ブルース・レコード跡地
 Point-21 OK・フック・ピアノ・カンパニー跡地
 Point-22 ホリディ・イン第1号ホテル跡地


メンフィス・テネシー前編 について】
「エルヴィス所縁の地~メンフィス・テネシー前編 」にてご紹介した12Pointは下記の通りです。
解説は「前編」のページにて御覧下さい。
Point- 1 ラスウッド・パーク跡地
Point- 2 バプテスト病院跡地
Point- 3 サン・スタジオ
Point- 4 ボンエアクラブ跡地
Point- 5 ザ・オーバートン・パーク・シェル
Point- 6 イーグルズ・ネスト跡地
Point- 7 ロウダ―デール・コーツ
Point- 8 ポプラーチューンズ・レコードストア跡地
Point- 9 ランスキーブラザーズ・アット・ピーボディ
Point-10 ランスキーブラザーズ・クローズ・トゥ・ザ・キング
Point-11 ハードロックカフェ
Point-12 アーケード・レストラン



※上記Googleマイマップ上の赤丸内ナンバーは、当ページ本文中のPointナンバーと同じです。



 キングが“普通の人間”でいられた最後のひととき

Point-13 徒歩で帰宅するエルヴィス撮影地
 (Google-map上の位置)

1956年7月1日ニューヨークでのハドソン・シアターで人気TVショー「スティーブ・アレン・ショー」に出演したエルヴィス。“例”の犬相手に「ハウンド・ドッグ」を歌ってみせたショーじゃが、まあこの辺のハナシは「ニューヨーク編」をやる時にでも詳しく!翌2日から3日にかけてエルヴィス一行は列車で27時間かけてメンフィスへ帰郷。4日(独立記念日)はラスウッドパーク(Point-1)での凱旋公演が予定されておった。
 列車が終着駅メンフィス・セントラル・ステーションに到着する前、エルヴィスは自宅のあるオウデュポン・ドライブに近い「ホワイト」駅で独りで降車。(左写真)やがて歩いて帰宅を始めたとされておる。その時、列車の中にいた写真家アルフレッド・ウォトハイマ―が慌ててシャッターを切ったのじゃ。

 さてエルヴィスが降車した「ホワイト」駅じゃが、降車希望者からの申し出があった時のみ停車するこの駅は、鉄道路線図にも記載されていない小さな臨時停車場だったようじゃ。
 アルフレッド関連の複数のサイトや、この場所近くに現在店舗を構えている「La Maison/ラ・メゾン」というアンティックショップのサイトを照合すると、ポプラー&サザン・アベニューがほぼ平行しながらもっとも接近する区域内で、両通りと南に伸びるマウント・モライア・ロード(サウス・メンデンホール・ロード)がクロスする場所に「ホワイト」駅があったという。

時のメンフィスの道路地図(右写真)でその場所をチェックすると、正確にはサザン・アベニューが一旦途切れて、マウント・モライアロードと接する場所であり、バス停留所の名前が「ホワイトステイション」!(右写真、⑱の表記)駅名の方はシンプルに「ホワイト」だったのじゃ。これでメデタク!エルヴィスの降車位置が確定。現在のGoogle-map上でも確認出来る。
 しつこく迫るならば、「どうして名称が“ホワイト”だったのか?」。下写真右から2枚目に映る「WHITE」と表示された標識が気になって仕方がないので、この点は引き続き調査を進めます(笑)


ルヴィスは降車後にポプラーアベニューをダウンタウンに向かって歩き始め(上写真左端)、黒人女性に道を訪ねたり?(上写真左から2枚目)、列車に向かって歩きながら左手を振っておる(上写真右端)。列車が通り過ぎた後にエルヴィスは線路を横切ってオウデュポン・ドライブの自宅へ向かったというのが定説じゃ。それにしても、いい写真じゃ!キングが普通の善良な一市民に戻ったようでジ~ンとくるな。

 撮影したアルフレッド氏の生前の回想がとても良い。
「私はエルヴィスと一緒に列車を降りなくてよかった。もし降りてしまっていたら、エルヴィスがまだ歩いて自宅に帰る一般人のような行動が出来る最後の期間の希少な一場面を撮影できなかったからだ」


 ところで、ホワイト駅で降車したエルヴィスがポプラー・アベニューを歩いているお姿は、わしの目にはエルヴィスがそのまま自宅に直行したようには見えない。もし駅から自宅に直行するならば、ポプラーアベニュー側とは反対側に降車したはずじゃ。エルヴィスは何か目的があってポプラーアベニューをダウンタウン方面に歩き始めているように見えるのじゃって、わしは刑事かストーカーか(笑)この推理バナシは、以下Point-14、15まで続くので読み進めてくれ!

 右写真はストリートビューによるホワイト駅跡地周辺(2021年5月撮影)。上記古地図によると、地図内右下MT.MORIAH/マウント・モライアロードは線路によって寸断されておるが、周辺地域の再開発によって現在は御覧の通り線路先のサウス・メンデンスロードと繋がって十字路になっておる。



 エルヴィスが帰宅前に酒を買いに(?)立ち寄ったスーパーマーケット跡地

Point-14 EP・ブールバード・パウン・ショップ
              /ラ・メゾン・アンティーク
 (Google-map上の位置)


エルヴィス:あのお、すいません。〇〇はこっち方面でいいんですよね?
黒人女性 :そうだよ、この先をまっすぐだよ

なんて会話が聞こえてきそうな左写真じゃが、なんでエルヴィスは頭をカキカキしてるんじゃろう・・・じゃなくて、ホワイト駅で降車したエルヴィスは何処へ向かってポプラー・アベニューを歩いておるのか?この疑問を解くには、上記ラ・メゾンのサイトの記載が参考になった。
 ポプラーアベニューを更に1/4マイルほど西に進むと、通りの向こう側に当時エルヴィスがよく利用していたA&Pスーパーマーケットがあり、エルヴィスは帰宅前にA&Pに立ち寄ったのではないか、とのこと。そしてそのA&Pの跡地に現在ラ・メゾンが店舗を構えておるそうじゃ。列車を降りたエルヴィスは、その足でA&Pまで行って帰郷祝いの酒と肴でも買うつもりだったに違いない(笑)

 いや、待てよ。安易にこの手の情報を鵜呑みにして「エルヴィスが酒を買いに行った」なんてノーテンキな想像をして喜んではならんな!ラ・メゾンの誘導作戦かもしれない(笑)なあ~んて疑ってみたが、ラ・メゾン自体を調べてみたら、アンティークショップと同時にグレースランドが経営する「エルヴィス・プレスリー・ブールバード・パウン・ショップ」の正規ディーラーであった!店内の一画ではエルヴィス関連のメモラビリアが販売されておった。
 グレースランド直系のディーラーがエルヴィスに関していい加減な情報を掲載するわけがないってことで、ラ・メゾンのある位置がエルヴィスが酒を買った(と七鉄が思いたい)A&Pスーパーマーケットの跡地と決定!(右写真、ストリートビュー2019年6月撮影)

 なお、エルヴィスのこの時の行動に関して、ドラッグストアに行って「ロイヤル・クラウン」なる銘柄のポマードを買ったという証言もあったりする。またポマード購入についてはビールストリートに行きつけの店があったという説もサンレコードがサイト内で記述しているので、エルヴィスが何を買ったかは、諸君のご想像お任せし、今後の自主的な調査に期待しよう(笑)  

 A&Pスーパーマーケットは19世紀末に創業して瞬く間に全米にチェーン店展開をして、最盛期の1920年代にはその数15,000店!やがて展開を縮小したもののそれでも1950年代は4,500店。1951年時点でメンフィスには4店舗あった、という軌跡までは調べが付いた。
 しかし肝心のラ・メゾンの場所にあった店舗の写真がネット上で見つからない。他の3店舗は見つかったのに、非常に悔しい~。同じポプラーアベニュー沿いにあった別店舗(ポプラーアベニューを更にダウンタウン方面へ約4.5マイル先)の写真を代わりに掲載しておくので、どうかご勘弁のほどを。(右写真、建物の左側部分がA&P)

 エルヴィスがA&Pに立ち寄ったとなると、お買い物をした荷物もあるので、ホワイト駅から徒歩で帰宅したってのはやっぱり疑わしい(爆)



サン・レコード時代のお稼ぎで購入した邸宅

Point-15 オウデュポン・ドライブ・ビラ 
(Google-map上の位置)

 ミシシッピー州テュペロからメンフィスに引っ越してきたプレスリー一家は、Point-7で取り上げたロウダ―デール・コーツ以外では長居することはなく、グレースランドのホームページによると8回も住まいを変え続けた。1955年エルヴィスがメンフィスでのローカル・スターになって一軒家を購入出来たので、一家はようやく生活が落ち着いた。
 そこはオウデュポン・ドライブ周辺の緑豊かで閑静な住宅街であり、流浪の一家が穏やかに生活するには申し分のない環境ではあったが、なにせ一家の大黒柱はロックンロール・スター!連日連夜ファンが押し寄せて来てパパもママもゆっくり休めるはずもない!?この辺の事情に関しては、The-Kingのボスの写真コラムで紹介されておるので、そちらを御覧頂きたい。
 現在の様子は上写真の通り。(ストリートビュー、2021年5月撮影)超ゴージャスなグレースランドがキングのお城であるならば、こちらは隠れ家の様な趣き。建物もお庭もきちんと手入れされておるようじゃな!

 Point-13から疑問を呈してきたが(笑)、このオーデュポン・ドライブまでエルヴィスはホワイト駅もしくはポプラーアベニュー沿いから歩いて帰宅したのか?試しにGoogle Mapの「ルート・乗り換え」機能を使って、ホワイト駅地点からオウデュポンの自宅までの距離を計測したところ、約2マイル弱で徒歩30分以上もかかる。(右写真)
 列車を降りた時点ではエルヴィスは書類入れのような薄い紙袋ひとつだけを持っておるが、Point-14での仮説「飲食品のお買い物」が事実であったならば尚更徒歩で帰宅ってのは???
 もうひとつ、正反対の仮説を立てるならば、この距離をエルヴィスはあえて徒歩で帰宅したかったってことじゃ。実際にこのルートを自分の足で歩いて辿りながら「エルヴィスは一体何を考えながら歩いていたのだろう?」と思いを巡らすのも楽しいかもしれない!


メンフィス・ミュージック・カルチャーのメッカだった劇場


Point-16 元エリス・オーディトリウム(現キャノン・センター) 
(Google-map上の位置)

 1955年2月6日を初めとして、エルヴィスはこの会場で合計5回のコンサートを開催しておる。スコッティ・ムーアのサイトによると、1920年代にメンフィスにはたくさんの劇場が建設され、エリス・オーディトリウムは1924年にオープン。エルヴィス初登場の日には、エルヴィスのレコードをはじめてラジオで流した有名DJデューイ・フィリップスもステージに上がった!
  1956年3月15日には「コットン・カーニヴァル」という綿花の豊作を祝う(?)地元のフェスティバルが開催され、既に地元の大スターとなっていたエルヴィスは特別出演をしておる。その出演直前、ミス・コットン・フェスというコンテストの優勝女性が王冠を被ってエルヴィスと記念撮影!(右写真)この写真は「エルヴィスにキスするなんて、一体どこの国の王女様なのか?」と一時期わしを勘違い調査に走らせやがった(笑)
 
 エリス・オーディトリウムは、数あるメンフィスの劇場の中でもかなり格式が高く、エルヴィスの他に数多くのビッグ・シンガーのコンサートが行われており、後にジミ・ヘンドリックスも登場しておる。エルヴィスの業績を讃える1992年8月開催の「グッド・ロッキンナイト」も開催されておる。

 1999年に閉鎖されて建物は取り壊され、現在は「キャノン・センター・フォー・パフォーミング・アート」という新しい劇場に生まれ変わっておる。(左写真-ストリートビュー2020年3月撮影)2004年エルヴィスのサンレコードからのデビュー50周年を記念する「50周年アニバーサリー」は「キャノン・センター」で開催され、スコッティとD・J・フォンタナは共演をしておる。


 ところでこのエリス・オーディトリウムじゃが、ロック史上より重大な「事件」を孕んだ会場だったことを付け加えておこう。エルヴィスが初登場した1955年2月6日の公演は、午後3時からと午後8時からの2回のダブル開催じゃったが、その合間の時間帯にエルヴィスは初めてパーカー大佐と面会しておるのじゃ!この件に関しては、次回「後編」で詳しくご紹介しよう!


That’s Allright Mama」「Blue Moon of Kentucky」大拡散攻勢スタート!

Point-17 ホテル・チスカ/WHBQ放送ブース (Google-map上の位置)

 現在でも稼働中であるメンフィスの老舗ホテルであるホテル・チスカ。エルヴィスのデビューシングル「That’s Allright Mama/Blue Moon of Kentucky」を初めてラジオで流した伝説のDJ、デューイ・フィリップスの放送ブースがあったホテルじゃ!1913年に創業され、長らくメンフィスのダウンタウンの有名ホテルであり続けたものの、1980年代から周囲の治安悪化や建物自体の老築化により、廃業と取壊しがほぼ決まりかけていたという。しかし地元民からの熱心な存続要請運動によってその計画は中止となり、新しいオーナーに買収されて大掛かりなリノベーションが進められて現在に至っておる。

 ラジオ局WHBQの放送ブースはホテルの中二階にあった。DJのデューイ・フィリップスはアラン・フリードとともに、当時アメリカ南部のDJ人気を二分していた人物であり、デューイはエルヴィスの限りない才能をレコードを一聴して感じ取り、以降自分の番組でエルヴィスのレコードを流しまくった!いわば、エルヴィスのロックンロール拡散の最大、最強の貢献者である。
 左写真は1955年2月6日、上記エリス・オーディトリウムでのエルヴィスのコンサートに飛び入りしたデューイ。かなり“かっとんだ”キャラとトークが売り物だったデューイだけに、コンサートをヒートアップさせる演出をかましたに違いない!

 1956年3月9日には、当時ホテルの地下にあった「チッカソウ・ボールルーム」にてエルヴィスのコンサートが開催されておる!ホテル専用の宴会場みたいな所であり、キャパにも限界があっただろうが、エルヴィス側はデューイへの深い感謝もあって使用したのかもしれない!個人的にもデューイとエルヴィスはウマが合っていたのか、ツーショットが何枚も残されておる。
 ホテル内がリノベーションされる際は、ファンから「デューイの放送ブースをきちんと残してくれ」とのリクエストが絶えなかったという。スコッティ・ムーアもサイト内でデューイの業績や放送ブースの保存に対して感謝の意を表しておる。

 わしはメンフィスに行った際には、まずホテル・チスカにチェックインすることに決めておる!それがエルヴィスとロックンロールを愛する者としての正しいアクションじゃろう(笑)ストリートビューによる現在の姿は右写真の通り(2020年撮影)。外装はリメイクされておるが、当時の雰囲気は残されておるようじゃな。
 


1970年代に向けての「キング健在宣言アルバム」が録音されたスタジオ

Point-18 アメリカン・サウンド・スタジオ跡地
 (Google-map上の位置)

 実はRCA移籍後のエルヴィスは一度もメンフィスのスタジオでレコーディングを行っておらんかった。(ほとんどが、ナッシュビルかニューヨークのRCAスタジオを使用)
 初めてメンフィスのスタジオ「アメリカン・サウンド・スタジオ」が使用されたアルバムが大傑作『エルヴィス・イン・メンフィス/From Elvis in Memphis』(1969年発表)であり、オリジナル盤未収録テイクは次作『バックイン・メンフィス』に収録されており、この2作分のレコーディングセッションは“伝説のメンフィス・セッション”と呼ばれておる。わしにとっても、この2作はファーストアルバムと並ぶフェイバリット・アルバムなので、スタジオの跡地を紹介させて頂こう。

 1967年から1971年、ビルボードトップ100にチャートインした曲のうち、約120曲がこのアメリカン・サウンド・スタジオで録音されており、スタジオのオーナーでありプロデューサーだったチップス・ノーマンは大忙し!スタジオの稼働期間が僅か9年間(1964~1972年)だったのは、60年代後半からは稼働率がハンパではなくなり手狭になったということじゃろう。
 当時の写真を見ると(上写真)、「こんなちっちゃなスタジオで、キングが大傑作をレコーディングしてたのか!」って思えるほどかわいらしい建物(笑)人目に付きそうで付かなさそうな外観なので、却ってエルヴィスはリラックスして大仕事をやってのけたのかもしれない、なんて感慨にふけってしまうな!スタジオ閉鎖後も1989年まで建物は取り壊されずに残っていたそうな。
 スタジオの跡地をストリートビューで確認すると(2020年3月撮影)、現在は「Family Dollar」なるスーパーマーケットになっておった。かつてこの地に音楽史上に残るスタジオがあったという記念標識が目の前の通り沿いに立てられておる。


スクリーン・デビュー作「やさしく愛して」の地元公開劇場にして、かつてのアルバイト先!

Point-19 ロウズ・ステイト・シアター跡地 
(Google-map上の位置)

 エルヴィスの記念すべきスクリーン・デビュー作「やさしく愛して」を地元メンフィスで上映した劇場(映画館)であり、また1950年、51年の二度にわたって学生時代のエルヴィスが館内案内人としてアルバイトしておった場所じゃ。

 「やさしく愛して」は元々西部劇映画であり、エルヴィスはまだ準主役扱い。しかし同名シングルが映画公開時に爆発的にヒットしていたので急遽タイトルが変更になった、なんて事は今更どうでもよくて、サン・レコードのサイトで紹介されていた、エルヴィスが1956年11月20日の一般上映前にプライベートで試写するためにここを訪れた際に支配人アーサー・グルーム氏と支配人夫人がエルヴィスにかましたジョークがフルっているので大意を引用しておこう!

支配人:出世なさいましたなあ~。あなたがここに働きに戻ってくることを、我々はいつでもお待ちしていますよ(笑)
エルヴィス:サンキュー・サー!まだその準備が出来ておりません(笑)
支配人夫人:ちょっとあなた(支配人)、エルヴィスが今乗っている車を(再び)買えるようになるまで、一体ここで何年働き続けなければいけないと思ってるの?(笑)

 ここで働いていたエルヴィスは、仕事中に他の案内人と口論になってその場で支配人からクビを宣告されたらしいが(後に再雇用)、そんな過去の小さなわだかまり(?)も吹っ飛んでしまったエルヴィス君大凱旋劇のひとコマじゃ。 「やさしく愛して」以降も、「監獄ロック」など何作かのエルヴィス出演映画のメンフィスでの試写会にも使われた劇場じゃ。

 1920年に開館したロウズ・ステイト・シアターは入口は普通の劇場然としておるが、内部はかなりゴージャスな造りであり、エルヴィスというよりもオペラやクラシック音楽が似つかわしいスタイル。またメンフィスの劇場では初めてエアコンディションが設置されていたことでも有名じゃった。
 当時のシアターの場所は152サウスメインストリートだったが、周辺地域の再開発に伴い1970年に閉館。シアターをはじめとして周囲の建物のほとんどは壊され、行政区画も新しくされたので、その跡地の現住所も変わっており、現在は「PEABODY PLACE」というオフィスビルになっておる。(右写真、ストリートビュー2020年3月撮影)


エルヴィスの情報源でもあった南部最大のレコード店

Point-20 ホーム・オブ・ザ・ブルース・レコード跡地 
(Google-map上の位置)

 かつては「南部のミュージシャンで知らない者はいない」とまで評されていたレコード・ショップ。「顧客に人種の壁はない」というポリシーの元に多様な音楽のレコードを製作する同名のレコードレーベルをも所有し、レコード店にはまるで当時の音楽アーカイブと言っていいほどの新旧バラエティ豊かなレコードの大量ストックを抱えておった。Point-6の「ポプラー・チューンズ」が地元密着型で顧客の細かい要請に応える個人経営店ならば、こちらはビールストリート(107番地)にあるストック(情報量)のスケールで勝負する大型店であ~る!

 エルヴィスより先にロカビリーをやっていたとも言われたジョニー・バーネット・トリオは古くからこの店の常連であり、デビュー前後の頃のエルヴィスをこの店で頻繁に見かけていたらしい。彼らの言葉を借りれば「どんなに古いカントリーミュージックでもカッコイイビートを取り入れればロカビリーになる!(売れる!)。エルヴィスが“ブルームーン・オブ・ケンタッキー”でやったようにね」となり、独自のアレンジによって磨き上げられる曲を探し出すためにミュージシャンたちはこの店に来ておったのじゃ。
 Point-15で紹介したDJデューイ・フィリップス、またジョニー・キャッシュもエルヴィスとともにこの店の大常連じゃった。ジョニー・キャッシュはこの店にインスパイアされた''You'll find me at the home of the blues''をレコーディングしておる。不思議なことに、それだけの有名店であったにもかかわらず、店内の写真が見つからないことじゃ。外観の写真も僅か。まさか、撮影禁止のレコードショップだったのだろうか?
 
 オーナーであるルーベン・チェリーは元々はアタマのキレルビジネスマンだったらしいが、音楽にはのめり込み過ぎてしまって、レーベルやレコード店の経営状態はイマイチだったとか。
 しかしルーベンはデビュー当時からエルヴィスの才能を高く評価しており、“つけ”でレコードを買わせたり、他のアーティストのライブを視察させるためのチケット代を貸したり、若きエルヴィスへの投資を惜しまなかったという!また「エルヴィスのレコードは俺んトコで買う、それがメンフィスの音楽ファンってもんだ!」と豪語していたとか!
 ミュージシャンにも音楽ファンにも愛されていたレコード店だったが、1970年に廃業。かつてエルヴィスはルーベンにデビュー当時の支援に対する感謝状を送ったことがあり、それは1976年のルーベンの葬儀で読み上げられたという。


  ホーム・オブ・ザ・ブルース・レコードは、ビール・ストリートをサウス・メイン・ストリートとの交差点から東へ向かってすぐ右手にあり、現在は「Elvis Presley Plaza」という広場になっておる。広場の中央にはエルヴィスの銅像が建てられておる。(上写真、ストリートビュー2020年3月撮影) この銅像は第2体目らしく、ホースシューリングまでデザインさ れとる!(左写真)リングのデザインの最終チェックはThe-Kingに依頼されたっていう噂は定かではない(笑)しかし第1体目は何処に?

 交差点にはアーチがかけられており、西から見ると「Beal Street」だが、東から見ると「Home of the Blues」と大きく表示されておる。(右写真、ストリートビュー2020年3月撮影)この店が「音楽の街メンフィスのシンボル」だったことへの敬意の表示かもしれない。


エルヴィス・サウンドを紡いだ楽器を供給し続けた楽器ディーラー

Point-21 O・K・フック・ピアノ・カンパニー跡地
 (Google-map上の位置)

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 スコッティ・ムーアのサイトは、ライブ記録のみならず、使用楽器についてもその入手時期、入手目的、入手先の細かい記述が多くて実に楽しい!
 O・Kフックピアノカンパニー(以降O.K.H.P.Co.表記)は、1950~1960年代にメンフィスのみならず周辺地域のミュージシャンがこぞって頼りにしていた楽器ディーラー(有名ブランドの特約店)じゃ。左写真、赤矢印の下「Houck’s」の看板が目印。(矢印は元々の写真に表記済)当時のメンフィスの楽器店はブラスバンド用の吹奏楽器の取り扱い店が多い中、O.K.H.P.Co.は有名ブランドの弦楽器をズラリと揃えておった有名店じゃった。

 エルヴィスはサン・レコードからデビューする前から度々訪れており、アコギを中古のマーティン000-18へ、次にマーティンD-18へ、更にD-28へとトレードアップする毎にO.K.H.P.Co.に世話になっておった。スコッティも、「ミステリートレイン」録音の為に、ギブソンL5をO.K.H.P.Co.で入手したという!

 デビュー当時のエルヴィスは、ギターのバージョンアップすらいちいちパーカー大佐の許可を得なければならなかったそうじゃ。それが面倒だったエルヴィスに代わって、スコッティは自分が入手してからエルヴィスにレンタルするという体裁をとってあげていたらしい(笑)
 またO.K.H.P.Co.側がエルヴィスにギブソンを薦めたい旨をスコッティに相談した際には、「エルヴィスに売るのではなく贈呈した方が店に箔が付く(?)」とスコッティは進言したとのこと!なおポール・マッカートニーが所有していることで名高い、ビル・ブラックのKayベース(ウッドベース)も、ビルが1954年にO.K.H.P.Co.から購入したそうじゃ。
 O.K.H.P.Co.は当時4階建てのビル全てを貸し切り、楽器展示&販売フロアをはじめとして、楽器教室、修理室などもあり、上記Point-18の「ハウス・オブ・ザ・ブルース・レコード」同様に、メンフィス及び南部でのミュージシャンたちから絶大な信頼を寄せられておったのじゃ。

 50~60年代は栄華を誇ったOK.H.P.Co.も、1968年に廃業。「ホーム・オブ・ザ・ブルース・レコード」もDJのデューイ・フィリップスも、サンレコードも、初期のエルヴィスの快進撃を支えた存在は、まるで歩調を合わせる様に1960年代になると勢いが衰えて行く。それは音楽ファンの需要が、地元のライブサーキットで叩き上げられてたきた本物たちの音楽ではなく、耳障りが良くてラジオで流しやすいトップ40向けのサウンドに変ってしまったことが最大の要因であるという指摘もある。楽器ディーラーまでその波に飲み込まれてしまったわけじゃが、それでもキングは前進は止めず、時代と戦って勝利を収めていくのである!

 O.K.H.P.Co.の跡地は、廃業後の周辺地域の再開発によって建物は建て替えられておるが、細長い立体構造はO.K.H.P.Co.時代と同じであり、住所も変ってはいない。現在はタイ料理レストランになっておる。(右写真、ストリートビュー2020年3月撮影)


エルヴィス・デビュー地の傍では、もう一人の偉人がデビューしていた!

Point-22 ホリディ・イン第1号ホテル跡地 (Google-map上の位置)

 エルヴィスがプロとしてステージ・デビューしたボンエアクラブ(Point-4)に出演した当時、クラブ前を通るサマーアベニューを挟んだ斜め東南側に、後に短期間で世界一のホテル・チェーンを展開することになる「ホリディ・イン」の第1号ホテルがあった。(1952年創業、左写真)
 ホリディ・インの創設者ケモンズ・ウィルソンはメンフィス在住者であり、60年代になると「Holiday Inn」の名でレコードレーベルまで立ち上げておる。さらに後にレーベルの権利は、50年代からホテルの株主でもあったサム・フィリップスに売却された。サムとケモンズは一種のビジネス・パートナーだった。
 そもそも「Holiday Inn」という名は、ビング・クロスビーとフレッド・アスティアが共演した1942年のミュージカル映画のタイトルから引用されており、「Holiday Inn」と大衆音楽の権化とは浅からぬ縁があったとも言えよう。

 一説によると、1955年頃借金が膨れ上がっていたサム・フィリップスに、大手レコードレーベルへ「エルヴィス売却」を進言したのはケモンズだったとも言われておる。サム・フィリップス繋がりで、エルヴィスはRCA移籍後に何度かケモンズに会うことになったそうじゃが、その度に「ケモンズさん、(俺を売るなんて)あなたは大失敗をやらかしましたね」と言っていたらしい(笑)
 
 エルヴィスとケモンズはまったくの畑違いとはいえ、50~60年代に巨大開花する2大アメリカン・カルチャーの担い手同士。その2人の記念のファースト・アイコンともいうべき物件は近隣に存在しておったのじゃ。 ストリートビューで現状をチェックすると斎場になっておるようじゃが(右写真2017年4月撮影)、奇跡的な偶然があった地域として、ボンエアクラブとともに訪問しておきたい。

ンフィスの古地図を探し出せたので、今まで正確に位置が分からなかったエルヴィス所縁の地が特定し易くなり、正直なところ調査が止まらなくなってきた!視点が度を越えてマニアックになると自己満足に陥るので、これでも自己制御しとるつもりじゃが、次回もメンフィス編(後編)を予定しておるんで、どうかお付き合いのほどを!
 
 まだたったの22ヶ所の紹介に過ぎないので決してエラソーな口は叩けんが、今までチェックした様々なエルヴィスやメンフィス関連のウェブサイトのひとつに次のような記述を見つけてシビレてしまったのでご紹介しよう。
 メンフィスという街は1950年代に入ると、ミシシッピー川周辺の繁華街、ダウンタウン一帯から、ポプラーアベニューを中心にして東、東へと開発が進み、多くの住人もそちらへと流出していったという。そんな時期に永遠のキングであるエルヴィスが登場してきた。ポプラーアベニューの発展とエルヴィスの快進撃こそが、メンフィスを愛する者にとって1950年代の躍動の記憶、そしてノスタルジーそのものであるという。

 ポプラーアベニューはビールストリートの様な濃厚なエンターテイメント・ストリートではなくて、都市を貫く長い幹線道路じゃ。しかしこれまでご紹介してきた通り、エルヴィス所縁の地が周囲に幾つも点在しておる。そこを中心としてメンフィスが開発されていったとは、エルヴィスという存在が都市全体に与える神的な影響力を感じざるを得ない!
 次回の後編でもポプラーアベニューは登場してくるので、20世紀中盤のメンフィスにおけるもうひとつのエルヴィス・プレスリー現象なんかも感じ取ってもらえたら幸いじゃ!(右写真は、ポプラーアベニューを歩くエルヴィス)
 
エルヴィス・プレスリー在る処に精華あり!


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