NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.377


第6回 エルヴィスゆかりの地~ルイジアナ州編


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 静かなる世相、身動きが取れない状況に陥った諸君の毎日に小さな風穴を開けるべくスタートした「バーチャル・ロックンロールツアー」も、2021年のラスト・プログラムに入らせて頂く。第6回目は前回ご案内したミシシッピー州の西隣ルイジアナ州をご案内するぞ!
 ルイジアナ州と言えば、初期のエルヴィス・フィーバーの火付け役となったラジオ番組「ルイジアナ・へイライド」の本拠地であり、傑作映画「闇に響く声」の舞台となったニューオリンズがあるな。50年代のエルヴィスの軌跡を追うと、ルイジアナ州においてかなり濃密な経験を繰り返しており、名ライブをはじめとして様々なエピソードが枚挙にいとまがない!
 本音を言うと「エルヴィスゆかりの地~ルイジアナ州大特集」と題して観光サイトまで圧倒する様なバーチャルツアーをぶちかましたい衝動に駆られたが、そんな思いのまま突っ走るとツアーの発表は年が明けてからになりそう(笑)まずはメジャーポイントとマイナーポイントを混合させて10ポイントに絞ったのでどうか御覧あれ。「大特集」の類はいずれ別の機会に企画致します!
 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー
           エルヴィスゆかりの地~ルイジアナ州編

 ・御覧になりたいPoint番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。

 
Point- 1  シュリーブポート・ムニシパル・オーディトリアム
 
Point- 2  
ハーシュ・メモリアル・コロシアム
 
Point- 3 サザン・メイド・ドーナツ店
 Point- 4 エルヴィスのスピード違反地点
 Point- 5 モンロー・シビック・センター

 
 
Point- 6 ラマダ・イン・ホテル跡地

 Point- 7  ニューオリンズ・フレンチ・クォーター
 
Point- 8 
ルーズベルト・ホテル・ニューオリンズ
 
Point- 9 コーンズトーク・ホテル
 
Point-10  ニューオリンズ・ムニシパル・オーディトリアム 


  【付録】  バーチャル・ロックンロール・ツアー・Googleマイマップ
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順


 エルヴィスが約50回にわたり出演した、スターへの登竜門「ルイジアナ・へイライド」
Point-1 シュリーブポート・ムニシパル・オーディトリアム


ンフィスのローカル・シンガーに過ぎなかった頃のエルヴィスの知名度を爆発的に跳ね上げたルイジアナ・ヘイライドとは、専用の劇場ムニシパル・オーディトリアムでのライブ・ステージの実況放送をする当時の人気ラジオ番組じゃ。エルヴィスは1954年末から1956年初頭にかけて50回以上も出演しておる!まずはルイジアナ・ヘイライドについて、Wikipediaの簡潔な紹介文を引用しておこう。

ルイジアナ・ヘイライドは、ルイジアナ州シュリーブポートのムニシパル・オーディトリアムから放送されていたラジオと、その後のテレビカントリーミュージックショーであり、1948年から1960年までの全盛期に、アメリカのカントリーミュージックと西洋音楽の有名人のキャリアをスタートさせるのに役立ちました。
(中略)
エルヴィス・プレスリーは1954年10月16日、ラジオ番組に初めて出演しました。元ヘイライド司会者のフランク・ペイジによると、プレスリーがサンレコードレーベル「That's All Right」でデビューリリースを行った反応は(ルイジアナでは)鈍かったものの、プレスリーはその後の出演のために1年間の出演契約にサインしました。プレスリーの人気は一気に上昇しました。


イジアナ・へイライドの詳細を調べていくと、様々なエピソードが浮上してきて大変オモシロかった!いくつかご紹介しよう。

①ヘイライドは当時のカントリー(ヒルビリー)番組の中で2番目に人気があり、1番人気はナッシュビルから放送されていた「グランド・オール・オプリ」(GOO)であり、ヘイライドはGOOのファーム的ステージだった。エルヴィスは1954年10月2日にGOOにも出演している。
②ヘイライド出演の初期やGOO出演のどちらも、エルヴィスは明らかに緊張していた。自らを解き放つためにも、エルヴィスは自分が信じたロックンロールを歌うしかなかったという!
③ヘイライドは放送中にエルヴィスのデビューシングル「That's All Right」が発売3週間でメンフィスで6,300枚売れ、2枚目「Good Rockin’Tonight」は発売直後に4,000枚売れたとアピールしたそう。こういう具体的な数字はリアルでいいな!
④ドラマーのD.J.フォンタナはエルヴィスのヘイライド出演初期からバックを務め始め、最初はステージカーテンの後ろから演奏していた。(確かにD.J.が写っていない写真が多い)D.J.は当時の思い出を次のように語っておる。「ルイジアナ・ヘイライドで、俺はシンプルという演奏の尊さを学んだよ。素晴らしいサウンドをひっかきまわす必要なんてないんだ」
⑤エルヴィス・ファン・クラブを立ち上げから取り仕切っていた女性ケイ・ウィーラー(以前The-Kingに写真同封の応援メッセージを送って下さった方)は頻繁にライブに駆け付け、「エルヴィスを観るたびに私はひっくり返ってしまいます」と。また「エルビスはティーンエイジャーに見られるべき存在であり、聞かれるべきではないという古い概念の生きた否定が私なのです!」と自信に満ちたコメントも残しておる。
⑥ヘイライドの番組プロデューサーだったホレス・ローガンは、当時のエルヴィスに対してなかなか含蓄のある言葉を残しておる。
「エルヴィスは全ての物事を変えてしまった。他の出演者たちは、エルヴィスを観ながら(音楽という)翼に乗って頭を振り続けるしかなかった。エルヴィスだけが、恥じることなくステージを跳ね回る常識外れなパフォーマンスが出来たのだ」

回のミシシッピー州編でもご紹介したが、エルヴィスとはいえ駆け出しの頃は客の不入り、地元プロモーターの無理解と闘いながらライブ・ツアーを続けておった。しかし人気ラジオ番組の宣伝効果は絶大であり、ルイジアナ・ヘイライド出演のライブは大盛況の連続となり、1955~56年のエルヴィス・フィーバーの火付け役として位置付けられるようになったのじゃ。ミシシッピー州各地での苦闘の記憶を振り払うかのように、ムニシパル・オーディトリアムのエルヴィスは激しく躍動しており、1955年年末には、出演契約の延長要請(1年)をエルヴィスは快諾したという。

 ルイジアナ・ヘイライドで輝きを得たエルヴィスだが、その姿を複雑な思いで見つめる男が一人だけおった。エルヴィスのマネージメント権利の独占を目論んでいたパーカー大佐じゃ。出演料が安過ぎたのか、出演スケジュールに不満があったのか、契約延長に対してどうにも納得がいかなかったらしいことが各英字サイトで綴られておる。

 ムニシパル・オーディトリアムは現在でも稼働中であり正面入口前の通りはエルヴィス・プレスリー・アヴェニューと名付けられておる。(下左写真~ストリートビュー2021年1月撮影)またエルヴィスとジェームス・バートンの銅像も並んで設置されておる。(下右写真)「何故スコッティではなくて、ジェームス・バートン?」じゃが、ジェームス・バートンはムニシパル・オーディトリアムのあるシュリーブポートの東隣ミンデンなる小都市の出身者。ルイジアナ・ヘイライドに出演することを夢見て育ったというエピソードもあり、シュリーブポートでの人気が根強いのじゃ。

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「Elvis has left the building・・・」1956年12月15日、後世に残る明言が生まれた!
Point-2 ハーシュ・メモリアルコロシアム

イジアナ・ヘイライド効果でエルヴィス・フィーバーが高まる中、パーカー大佐は重大な結論を下した。それは
「もうルイジアナ・ヘイライドは卒業であ~る!」
1956年早々に出演契約解除を決定し、同年3月31日の出演をラストとしたのじゃ。
「エルヴィス・プレスリーは、若きカントリー・ミュージック界のスターごときに収まる器ではない。彼をキング・オブ・ロックンロールにせにゃいかん!」と本腰を上げたってことじゃな。
 ルイジアナ・ヘイライドとの出演契約は1956年いっぱい残っておったので、そこはスパッ!と違約金10,000ドルを支払って契約解除をしたのじゃ。
 ただし大佐は、もう1回だけエルヴィスのルイジアナ・ヘイライド出演を承諾した。それは同年12月15日、ムニシパル・オーディトリアムの南西約6キロの位置にあるハーシュ・メモリアム・スタジアムでのリモート出演じゃ。
 ハーシュ・スタジアムはムニシパル・オーディトリアムよりも収容人数が多く、「ルイジアナ・ヘイライド卒業」の場所としては相応しい会場じゃった。(ムニシパル・オーディトリウム約4,000人収容可に対して、ハーシュ・コロシアム約10,000人収容可)ちなみにチケット代は、約1年半前にエルヴィスが初めてルイジアナ・ヘイライドに出演した際が60セント、この時は約4倍の2ドル50セントだった。より巨額のお金儲けの為に切り捨てることにしたルイジアナ・ヘイライドでさえ、大佐は最後までガッツリ搾り取ったと解釈してよろしかろう。

 そんな世知辛い?取り引きをよそに、この日のライブはエルヴィス1956年のライブの中でも名演!の誉れが高い。ステージショットもメチャクチャ格好いいものばかり!集まった観客の熱狂も尋常ではなく、タイムズ紙のライターがロックンロール・コンサート評としてはこの日のライブについてマスメディア史上初めて「集団ヒステリック」というフレーズを使ったとされている。また「ほっといたら、いつまでアンコールが続くか分からなかった」と語り継がれておるライブでもある。

わらないアンコール要請の中で場内アナウンサーだったロス・ホーガンが、後世に残る名アナウンスを発した。
「Elvis has left the building」
直訳すれば、「エルヴィスは建物を去った」であり、「もうエルヴィスは帰りましたよ。ここには居ませんよ」といった当たり前の呼びかけじゃ。
 しかし熱狂する観客には「もうエルヴィスはルイジアナに来ることはありません。今夜が最後でした。エルヴィスよ、さようなら」とでも聞こえたようで、観客は一斉にエルヴィスを追っかけるために出口に向かって猛然とダッシュし始めて会場内は大混乱!騒ぎを鎮静させるどころか、別の騒ぎを引き起こすアナウンスになってしまったのじゃ!
 エルヴィスの“影武者”として会場から高級車に乗り込んだスタッフによると、「若い女の子が鞄を開けてクリネックスを取り出し、彼女は車の埃を拭き取り、そのクリネックスを折りたたんで鞄に戻したりしていました。私はこのようなスターへの献身を見たことがありませんでした」とのこと(笑)ファンにとってはエルヴィスの車の汚れ、埃も宝物だったんじゃな~。

「Elvis has left the building」のフレーズを有名にしたのは、1957年にエルヴィス・グループの一員となり場内アナウンスも務めたアル・ドゥボリンなる人物。このフレーズを後々のライブの最後にかましまくったのじゃ。1972年のニューヨーク・マジソン・スクェア・ガーデンでのアナウンスは公式ライブ盤にも収録されておる。
 またエルヴィスは1975~6年にもハーシュ・コロシアムで数回ライブを開催しており、その時も「Elvis has left the building」とアナウンスされたかどうかは不明じゃ(笑)
 

 なお現在ハーシュ・コロシアムが稼働しているのかどうかも不明。ストリートビューで見てみると(2017年6月撮影)、正面入口へ続くストリートが進入禁止になっており、Googleの撮影隊も会場前までは入れなかったようじゃ。
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エルヴィスが“幻のジングル”を歌った、お気に入りのドーナツ店
Point-3 サザン・メイド・ドーナツ

 ではここでルイジアナ・ヘイライドに絡む小ネタをご紹介しよう。
 サザン・メイド・ドーナツは1937年にテキサス州ダラスで創業され、現在も健在。アメリカ南部を中心に約100店舗のチェーン店展開をしておる老舗のドーナツ店じゃ。1950年代の一時期、約数年間にわたり「ルイジアナ・ヘイライド」のスポンサーにもなっておる。
 エルヴィスがルイジアナ・ヘイライドに出演する頃にはルイジアナ州シュリーブポートにも店舗があり、午後4時から揚げ始めるという熱々のドーナツはシュリーブポートでも人気を呼び、真相は定かではないがエルヴィスはサザン・メイド・ドーナツ店に頻繁に通っていたという説が強い。エルヴィスのお気に入りはゼリー入りドーナツだったとか。

 ところで、サザン・メイド・ドーナツに関してエルヴィスの未発表“作品”が存在していたという説がマニアックなファンの間で実しやかに囁かれ続けておる。1954年11月6日にエルヴィスがルイジアナ・ヘイライドに出演した際、ジングルでサザン・メイド・ドーナツを宣伝したというのじゃ!
 ジングルとは、ラジオやテレビの番組が一旦CM等に移行する直前に流れる短い繋ぎのパートであり、エルヴィスはサザン・メイド・ドーナツをアピールする台詞を歌う様に喋ったというのじゃ。
 その台詞は「いかすぜサザンメイドドーナツ!俺も俺の彼女も首ったけ。ベイビー、今夜もショーが終わったら一緒に買いにいこう!」なんつう軽薄なモンではなくて(笑)、「午後4時過ぎに熱々ドーナツをゲット出来る」とかの極めて簡単なフレーズなんじゃ。これをエルヴィスがどうやってアレンジして喋ったのか、何だかとっても聞いてみたい!
 エルヴィスが喋った原文とされるもんを記載しておくので、英語の得意な方は読んでみてほしい。わしにはpipingって単語がどうにも意味不明(笑)揚げられる前の整形されただけのドーナツの事なんじゃろうか?

You can get ‘em piping hot after 4 pm, you can get ‘em piping hot.
Southern Maid donuts hit the spot.
You can get ‘em piping hot after 4 pm”
The store sold donuts all day but “after 4 pm” they could be made to order and served “piping hot”.

このジングルは勿論正式に発表されたことはなく、ネット上で音源を探してみたが今のところ見つからない。なお後にジョニー・キャッシュがルイジアナ・ヘイライドに出演した際に同じくジングルでサザン・メイド・ドーナツを宣伝したらしいが、ジョニーはあのシブイ声でボソボソと台詞を喋っただけだったらしい(爆笑)

 エルヴィスが通ったとされる店舗は今も健在であり、ストリートビューによる現状は右写真の通り。(2021年3月撮影)またレビューに投稿されている店内写真によると、エルヴィスがルイジアナ・ヘイライドに出演した時の写真がディスプレイされておる。
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エルヴィス、ピンクキャデラックで時速20マイルのスピード違反!
Point-4 エルヴィスのスピード違反地点

 ルイジアナ州シュリーブポートにおけるエルヴィスのエピソードをもうひとつ!
 1955年4月3日、エルヴィスはシュリーブポートのUS-171という地点で制限速度60マイルを20マイルオーバーして警官にショッピカレタという(笑)この時運転していた車が約一ヶ月前に購入したばかりの1954年型ピンク・キャデラックじゃった。(左写真は、スピード違反を起こした時とは無関係)

 このキャデラックは、エルヴィスがスコッティ・ムーアとビル・ブラックと楽器を運搬することを主な目的として購入しており、ショッピカレタ時もスコッティとビルは同乗しておったらしい。
 前日はテキサス州ヒューストンでのルイジアナ・ヘイライドのリモート・コンサートに出演しており、この日エルヴィスは翌日のメンフィスでのライブに備えての帰路についており、スピード違反はその途中のアクシデントじゃった。罰金は25ドルだったとのこと。当時のルイジアナ・ヘイライドのエルヴィスの出演料は1回18~20ドルだったという説があり、25ドルの罰金額はエルヴィスにとって如何に?(笑)

 US-171という表記じゃが、これは国道171号線のことのようで、これだけではどの区域だか不明。ただしエルヴィスが罰金を支払う為に連行された警察施設の位置からその警察の管轄区域を想定すると、Point-3のサザン・メイド・ドーナツ店周辺ではないかと推察できないこともない。(右下写真、ストリートビュー2021年3月撮影。右手前方がサザン・メイド・ドーナツ店)
 サザン・メイド・ドーナツ店は国道171号線に面しており、ストリートビューで確認するとその周辺の現在の制限速度は35マイル。まあ1955年当時は国道周囲の建物も交通量も少なく制限速度も違っていたということにしよう!大好きなサザン・メイド・ドーナツ店に急ぐあまりにスピード違反をやっちまったのか?それともドーナツを仕入れて、ルンルン気分でメンフィスへ向かって車を飛ばし過ぎてしまったのか?そんなことを想像するのもたまには楽しいではないか!まあこれはあくまでもわしの仮説(でっち上げ?)に過ぎんので、かる~く流して頂いて結構ですわい(笑)

 なおこのピンク・キャデラックじゃが、エルヴィスが購入した1台目のキャデラックであり、エルヴィスとはあまり相性が良くなかったようじゃ。
 スピード違反の約二ヶ月後の6月5日、公演先のアリゾナ州ホープで運転中の車両故障から炎上してオシャカに。
 エルヴィスがこのキャデラックを大切にしていた事を常に目の当たりにしていたスコッティとビルは、慌てて楽器と荷物を道路脇まで持ち出したものの、キャデラックが燃える様子を「まるでエルヴィスの夢が燃え上がる様に見えた」と語っておる。
 この場合、「エルヴィスの夢が潰えてしまった」とネガティブに訳すのか、「エルヴィスの更に大きな夢が燃え上がった」とポジティブに訳すのか、スコッティ・ムーアのサイトに記された原文からだと、わしの英語解読力ではチト判断が難しい(苦笑)やがて7月7日、エルビスは2番目のピンクキャデラックを購入するに至るのじゃ。
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70年代の隠れた名ライブとの評判が高い、小都市のライブ会場
Point-5 モンロー・シビック・センター 


 キングを超越してゴッドにまで昇りつめたかのような1970年代のエルヴィス。その1970年代のライブ・スケジュールを流し見している際、Monroe Louisianaというわしの知らない都市名が目に留まった。ちょいと調べてみると、Point1~4の都市シュリーブポートの真東約160キロに位置する小都市であり、Wikipediaによると1970年代以降今日まで人口が約5万人から大きく増加することもなく、文化、歴史、産業に関しても特徴ある記述がない。
 20世紀初頭に南部の綿花畑を絶滅させた害虫の駆除薬がモンローで開発されたとか、コカ・コーラの最初の瓶詰業者が移住してきたとか、バーチャル・ロックンロール・ツアーの下調べとしては要領を得ない記述ばっかり。さらに小さい街であるにも拘わらず、犯罪と貧困については平均より高く、アメリカの危険な都市100傑に含まれることがあったそうな。人口が20万人未満の都市では、犯罪件数で第3位になっていたこともあるとか。

 エルヴィスの生まれ故郷トゥペロよりも小さく、犯罪件数の多いこの田舎街でエルヴィスは1974、1975年に計7回コンサートを開き、合計約6万人もの観衆を集めておる。(1974年3月4、7、8日。1975年5月3、4日-いずれも2shows)
 会場になったのは全てシビック・センター。モンロー唯一最大のエンターテイメント会場であり、公式発表の収容可能人員数は約7,000人。ここにエルヴィスは毎回8,000人以上の観客を集めて、7回目で合計観客動員数が人口を上回ったのじゃ。小都市における観客動員数の対人口率みたいなエンターテイメント・ショーの評価算出法があるならば、モンローはエルヴィスのライブ史上屈指の街に入るのでは? エルヴィス・ファンならばモンローの犯罪数ではなくて、こういう事を独自で計算するべきじゃな(笑)

 数多くの私設エルヴィス・サイトによると、モンロー公演でのエルヴィスは毎回絶好調であり、シビック・センターは興奮の坩堝と化していたそうな!エルヴィスの降臨はモンロー始まって以来の最大のイベントであり、「1歳の幼児から80歳のおばあちゃんまでがエルヴィスの歌に酔いしれた」といった記述もあるほどじゃ。
 また、エルヴィスの死の直前の“絶不調”のライブを体験したという当時の“エルヴィス追っかけオジサン”のブログでは、「私は3,4年前のモンロー・シビック・センターでのエルヴィスの素晴らしいパフォーマンスを体験しているだけに、人生を終えようとしていた頃のエルヴィスのライブは観るに忍びなかった」と、間接的にシビック・センターでのライブを讃えておる。

 
 シビック・センターは現在も稼働中であり、正面入口周囲がモダンに改装されておるが、コンサートホールの外観はエルヴィス出演時とほとんど変っていないようじゃ。(右写真-ストリートビュー2018年12月撮影)
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貴重なチェックイン直後のエルヴィスの写真が残る、モンローのドライブイン・ホテル
Point-6 ラマダ・イン・ホテル跡地


 エルヴィスがモンロー・シビック・センターでコンサートを開催した7日の内、少なくとも1974年3月7,8日に宿泊したホテルは判明しておる。当時から高層ビルがなかったモンローの中では、数少ない2階建てかつ最大のホテルだった「ラマダ・イン」である。3月7日、午後の早い時間にエルヴィスがチェックインを終えて2階の部屋へ向かう様子が撮影された2枚の写真がネットで公開されておる。(下写真)
 また「ラマダ・イン」の全容が確認出来るカラー写真は、現在ネット上では当時のパンフレットからスキャニングされたものだけが公開されておるので、画像の粗さはご勘弁頂きたい。(上写真)

 パンフレット写真の撮影アングルの素晴らしさもあってなかなかの豪華ホテルに見えるが、所詮は2階建ての小規模ホテル。キングが宿泊するべきホテルのクオリティーに達していたのかどうかは不明じゃが、とりあえずエルヴィスとメンフィスマフィアたちは2階を全て借り切って使用していたようじゃ。非常階段?を昇って部屋に向かっている様子は、ある意味で「さすがはキングご一行様」じゃ!(笑)他の宿泊客に気づかれぬようにコッソリとチェックイン&入室をしたのじゃろうな。

 

 時期は不明じゃが「ラマダ・イン」は既に取り壊されており、現在跡地にまったく別のモーテルが建てられておる。その現モーテルのサイトをチェックしてみたが、「エルヴィス云々」の記載はまったく無い。現モーテルは「ラマダ・イン」とは縁もゆかりもないのかもしれない。
 それにしても、現モーテルはアメリカの田舎街ならどこにでもある何の変哲もないモーテル風情じゃ。とてもエルヴィスがこの場所に宿泊したとは思えない、時の流れだけを物語る切ない風景じゃ。(右写真、ストリートビュー2016年7月撮影)
 でもエルヴィスが部屋に向かう上写真、そして現状の右写真、背景の空の碧さだけは半世紀以上経過しているのに変ってはいない。いつの時代も、エルヴィスの存在、エルヴィスの痕跡はファンの視界を明るくしてくれることを物語っておるようでもある!
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 エルヴィス映画の最高傑作「闇に響く声」代表的ロケ地
Point-7 ニューオーリンズ・フレンチ・クォーター

「キング・オブ・ロックンロールは、除隊後の新しい可能性を示すことが出来た!」
 これは映画「闇に響く声の/King Creole」公開後の某マスコミの映画評であり、エルヴィスの演技の素晴らしさを讃えたコメントである。兵役に就く為に活動を一旦停止しなければならなかったエルヴィスは、兵役前の最後の大仕事として「闇に響く声」に出演して素晴らしい演技を披露したのじゃ。
 映画製作関係者の一人は、「エルヴィスは驚くほど活動的であり、常に何か探求している男だ 。機敏で弾力性があり、ベテランに期待される滑らかさも備えていた」と撮影中エルヴィスを評しておる!

 もっとも有名なシーンは、エルヴィスがフレンチクォーターの建物の2階に登場し、笑みを湛えながら「ざりがに/Crayfish」を歌う場面、また窓からフレンチクォーターの通りを眺める場面じゃろう。キング・オブ・ロックンロールがステージで醸し出す男性美とは一味違った、甘さと逞しさが同居した他の俳優さんたちにはない魅力をエルヴィスは振りまいておる。さっそく映画のシーンとストリートビューでの建物の現状(2021年11月撮影)を見比べてくれ!
  上左の写真の現状が、下左写真の2階じゃ。この建物は現在アパートとして利用されており、建物は奥へと広がっており、映画内でちらりと登場する中庭も残されておるという。またエルヴィスが手すりに手を付いておるこのシーンのみ現地ロケであり、奥の部屋内での撮影はパラマウントスタジオのセットだったという。
 そして上右の写真じゃが、フレンチクォーターを見下ろしているエルヴィスの背景に写っておる場所が、下右写真じゃ。建物の形状、ベランダを支える細い支柱など、撮影当時のままじゃ!

画撮影のほとんどはハリウッドのパラマウント・スタジオの特別セット内で行われ、ニューオリンズでのロケは映画シーン全体の10%程度だったらしい。しかしロケ現場となったニューオリンズのフレンチクォーターという地域の特異な風情もあって、エルヴィス・ファンにとっては現地ロケシーンは強烈な印象を残しておる。
 フレンチ・クォーターは、まだ当地がフランス植民地だった頃のコロニアル調の建物が建ち並ぶストリートじゃ。(別名ロイヤル・ストリート)建築専門家に言わせると、フランス調よりも、オールド・スペイン調の建物が多いらしい。上述した映画のあまりにも有名なシーンの他、何ヶ所か現地ロケが行われておるが、そのほとんどはこのフレンチクォーター内での撮影じゃ。

念ながら除隊後に製作されたエルヴィス映画は「闇に響く声」を上回る評価を得ることは出来きず(作品の好き嫌いはファンそれぞれじゃが)、エルヴィス自身も俳優として名誉ある称号を得ることは出来なかっただけに、エルヴィスの見果てぬ夢が漂うロケ地であるフレンチ・クォーターを堪能したいものじゃ。
 どうかロケ地だけでなく、ストリートビューでフレンチクォーター全体を見てほしいぞ。ここはジャズとロックンロール、コロニアル・カルチャーにシビレ、そしてキング・オブ・ロックンロールの確かな足跡を確認出来るワンダフル!な一画じゃ。
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「闇に響く声」撮影中にエルヴィスご一行様が滞在した大型ホテル
Point-8 ルーズベルト・ホテル・ニューオリンズ
 ザ・ルーズベルト・ニューオリンズ(通称ルーズベルト・ホテル)は、1893年創業のニューオリンズの超一流ホテルじゃ。そのホテル名は第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの偉業を讃えて命名されたという。

 エルヴィスは1958年3月1日、映画「闇に響く声」の撮影の為に列車でニューオリンズ入りし、駅からはリンカーンに乗ってルーズベルト・ホテルに到着。(下左写真)
 エルヴィスと撮影部隊一行はホテルの10階を全て借り切り、ホテル側はファンの侵入を防ぐために厳重な警備体制を敷き、エレベータは10階には停止しないようにコントロールされていたという。
 それでも何処からチェックインの日付が漏れたのか、いち早くエルヴィスに会おうと、多くの女性ファンがホテル内のそこかしこに潜入していたらしい。
 右下左側写真はエルヴィスが初めてホテルに到着した時の撮影とされているが、ホテルに滞在した10日間のほとんどは、エルヴィスは混乱を避けるために一度隣接するビルに入り、ルーズベルト・ホテルの非常階段に移ってから、えっちらおっちら非常階段を使って10階の部屋へと登っていったという。いかに大スターとはいえ、非常階段を登らされるなんて何とも気の毒なハナシではあるな!

 しかし驚くことに10階に辿り着いたファンもいたようで、しっかりとエルヴィスと記念撮影をしておる。(右写真)興味本位ながらも、どうやって警備の網をすり抜け、エレベータを使わずに10階に辿り着いたのか知りたいもんじゃな!
 エルヴィスが泊まった部屋は今でも「エルヴィス・ルーム」と名付けられて稼働中とのことじゃが、エルヴィス滞在中の写真は他にはネットにアップされておらんので、なかなか貴重なショットじゃ。あっぱれじゃ、お嬢ちゃん!

 ルーズベルト・ホテルにエルヴィスが滞在中のおもしろいエピソードがグレースランドのホームページに記載されておった。撮影が夜遅くまで長引き、深夜にホテルに戻ったエルヴィスはさすがに非常階段を登る元気がなかったようじゃ。通常客のようにエレベーターを使って10階に登ろうとすると、エレベーター係はこう言ったという。
「10階にはエルヴィス・プレスリーが泊まっているので止められません」

エレベータ係はエルヴィスの顔を知らなかったのか。
それとも、相手がエルヴィスだろうが「10階停止禁止」の命令を愚直に守ろうとしたのか(笑)
もしくは「あなたは非常階段を使って下さい」とでも言いたかったのか!?
そんなタリナイ従業員を雇ってしまうホテルではないはずじゃが!

ストリートビューによる現状は左写真の通り。(2021年11月撮影)
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ホテル/トラベル・サイトのみ表記されている、エルヴィスが宿泊した(らしい)ホテル
Point-9 コーンズトーク・ホテル

 映画「闇に響く声」のニューオリンズでの撮影中、エルヴィスはずっとルーズベルト・ホテルに滞在していたとされておる。一応念のために「Elvis Neworleans Hotel」をキーワードにして検索してみると、意外にももうひとつのホテルが浮上してきた。それがこのコーンズトーク・ホテルなのじゃ。
 Point-8で紹介した映画の代表的シーンのロケ地からほど近い、同じフレンチ・クォーターにある創業100年を越える小さなブティック・ホテルじゃ。ブティック・ホテルとは、小規模ながら外観や内装に拘り、お洒落で独特のリラクゼーションを提供するホテルのことじゃ。(左写真はストリートビュー2021年11月撮影)

 あらためてコーンズトーク・ホテルを検索してみると、ホテル/トラベル関連のサイトのみ「映画撮影中にエルヴィスが滞在した」との短い一文が記載されてある。それ以上は「エルヴィスは101号室に滞在した」「エルヴィスはこのホテルを“ホーム(家)”と呼んだ」という情報が散見されたのみ。その後もしつこく検索を続けたが、エルヴィス滞在の真偽を裏付ける情報は何も見つからなかった。

 ということでここで紹介する事を諦めかけたが、ひとつだけ見落としていたブログをつい先日発見。それはニューオリンズの歴史と文化を実に美しく情緒的な文章で紹介する英文ブログじゃった。
 「闇に響く声」の現地ロケは約10日間の強行スケジュールで行われ、監督以下スタッフ全員は早朝から大忙し。早朝のミシシッピー川にかかる霧の中に蒸気船が隠れて行くシーンの撮影中、「主役のエルヴィスは、まだ出番ではないのでコーンズトークホテルで眠っていた」と記述されておった!

 当然「エルヴィスが寝ていたのはルーズベルト・ホテルではなかったのか?」という疑問も生じるが、ミシシッピー川撮影の後はすぐにフレンチクォーターでの撮影に移る為に、エルヴィスの準備や移動時間の節約を考えて急遽コーンズトークホテルが第二の宿泊先にされたとも考えられる。タイトな撮影スケジュールが生んだ想定外の出来事じゃな。
 もっともPoint-8でご紹介した通り、ルーズベルト・ホテルでは大勢のファンから身を隠し、時には非常階段を使って部屋に戻ったりと大スター故の不便、不自由を強いられていたエルヴィスが密かに別のホテルを使用していたとしても不思議はないな!
 エルヴィスが使ったとされる101号室の部屋の写真が1枚だけネットにアップされておる。(右写真)局部的な写真ながらも、ぐっすりと眠ることが出来そうな安寧の雰囲気じゃ。
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 偉大なるブルームーン・ボーイズのロングツアー終結の地
Point-10 ニューオリンズ・ムニシパル・オーディトリアム


ニューオリンズを代表する大型コンサート会場だった「ムニシパル・オーディトリアム」。1930年に建設された当時は全米で最大規模の収容人員10,000人を誇る大型ホールであり、1919年に火事で全焼した「フレンチ・オペラハウス」に代わる、音楽の街ニューオリンズのシンボルとしてお目見えした。
 エルヴィスは1955年5月1日、1956年8月12日の2回ここに出演。エルヴィスの伝記「ラスト・トレイン・トゥ・メンフィス」の著者ピーター・ギュラルニックによると、エルビスの4枚目のシングル「ベイビー・レッツ・プレイハウス」がリリースされた翌日が5月1日に当たり、この「ムニシパル・オーディトリアム」からフロリダ州を含むアメリカ南東部20都市ツアーが始まったとしておる。それは、31組の異なるアーティストによるミュージック・ジャンボリー・ツアーであり、当初エルヴィスは31分の1的な存在に過ぎなかったという。事実、5月1日のムニシパル・オーディトリアム第1回目の出演時の記述も写真もネット上でまったく見当たらない。(掲載してあるライブ写真は、全て1956年8月12日の撮影)メンフィス圏外のコンサート関係者たちもマスコミも、当時のエルヴィスにはそれほど注目していなかったのじゃろう。

 このミュージック・ジャンボリー・ツアーじゃが、トリを務めるミュージシャンは開催地毎に変っていたらしい。まだルーキー扱いじゃったエルヴィスがトリを務めることはなかったものの、各地の観衆のエルヴィスへの熱狂ぶりは圧倒的であり、次第に先輩ミュージシャンたちはエルヴィスを羨望の眼差しでみるようになった。某ミュージシャンは「なんでアイツ(エルヴィス)の周りばっかりに女の子が群がるんだ!」と呆れ、別の某ミュージシャンは「俺はアイツみたいになりたい」と熱く語っておったそうな!(イエ~イ♪)

2回目の出演(1956年8月12日)はもちろんエルヴィスの単独公演であり、エルヴィスはツアー途中のフロリダで購入したというリンカーン・コンチネンタル・マークIIに乗ってニューオリンズ入り。(左下写真)もう31分の1のペーペー・ロッカーではなく、キング・オブ・ロックンロールとなっての再登場じゃ!当然マスコミの注目度も1回目とは雲泥の差であり、エネルギッシュにコンサートを展開するエルヴィスのパフォーマンスが数多く撮影されておる。
 この日のコンサートは昼、夜と2回いずれも超満員の中で繰り広げられ、1回のコンサートの平均時間は35分。観衆のほとんどは20歳未満の女の子たちだったという。コンサート終了後、エルヴィスはニューオリンズの鍵(key to the city=一種の名誉市民に贈られる大きな鍵型の記念品)と、エルヴィスの幸運を祈るニューオーリンズの若者5000人以上の署名がされた巻物、更に「エルビス・フォー・プレジデント」と刻まれた旗が縫い込まれた巻物を贈られた。

ーター・ギュラルニックは更に当時のエルヴィスの状況を詳しく記述しておる。この日の公演は前回(前年5月1日)と正反対に、アメリカ南東部を周るロング・ツアーの実質的な最終日に当たり、以降ザ・ブルームーン・ボーイズというロック史上不滅のゴールデン・カルテットのロングツアーは組まれなかったという。
 また当時のエルヴィスのギャラは1回のコンサートで最低500ドル、もしくは1日2,000ドル(複数回公演や複数都市公演の場合であろう)であり、この最終ツアーだけで20,000ドルとグッズの売り上げの手数料として7,500ドルを受け取ったという。ご参考までに、バンドメンバーたちのギャラは週給200ドルだったらしい。(エルヴィスと差があり過ぎ!)
 エルヴィスはこの後、1956年年末から1957年前半にかけては20回程度のコンサートを開催した後、軍隊に入隊するまでの期間を俳優業に費やすことになる。

 なおこのムニシパル・オーディトリアムじゃが、2005年のハリケーン・カトリーナによって水没。重厚な建物自体はびくともしなかったが、地下の電気系統が壊滅的な被害を被ってしまった。以後大規模な補修工事を請け負う者もなく、長らく閉鎖状態になっておる。
 ストリートビュー2012年5月撮影時点の様子は右写真の通り。
■Google-mapでの位置■


ライブあり、名映画あり、名言あり、スピード違反あり、ドーナツ屋さんあり!で、精一杯切り口を盛沢山にしてみたルイジアナ州編はいかがでしたかのう?
 前回のミシシッピー州とは正反対で、他にもライブ写真、資料、そして話題もたくさん見つかっただけに、冒頭で述べた通りに「ルイジアナ大特集」を早くもやってみたくなった!諸君に対して、今回がその誘い水になってくれることを願いながらの10ポイントでありました!
 2022年はもっとページに工夫を凝らして、バーチャルならではの“ツアー感”を出していきたいと思っておる。でも本当は現地に行って、よりリアルで貴重な情報、証拠を集めたいんじゃけどな~(笑)本当に、コロちゃんよ早う消えろ!ってなもんじゃ。

 さて年明けの次回は何処に諸君をご案内するか?新春祝いとしてラスベガス、ハワイ、ニューヨークなどにどっか~ん!と攻め入る豪華ツアーにするか?それとも再びメンフィス周辺の地方都市に戻って、エルヴィス苦闘の歴史を回想するツアーにするか?
 案内される諸君としては前者、調査するわし自身としては後者の方が楽しいだけに、とりあえず両方のプログラムを用意して酒でも飲みながら検討しますわい!では諸君、2021年バーチャル・ロックンロールツアーのご参加、誠にありがとうございました。来年のツアーでまた逢おう。Keep on Rock n’Roll Tour! 

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