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テネシー州へ帰れ! エルヴィスのホームタウン、テネシー州メンフィスからスタートして、ミシシッピー州、ルイジアナ州、フロリダ州、アーカンソー州を約半年間にわたりエルヴィスに成り切って周回してきた(笑) 「バーチャル・ロックンロールツアー」。ここで一旦「バック・イン・テネシー州」と題して一度テネシー州に戻ることに致しやす!テネシー州メンフィスは既に3回に分けて32ヶ所をご案内しておるので、今回はメンフィスからハイウェイ40を約300キロ北東にぶっ飛ばした位置にあるナッシュビルのエルヴィスゆかりの地をご案内するぞ。 ナッシュビルは、「ナッシュビル・サウンド」と呼ばれたほどのカントリー系ミュージックのブームを作り上げたこともある街じゃが、メンフィスと同じテネシー州内ありながらエルヴィス・ファンにとってはマイナーな認識に留まっておる。しかし一昨年、昨年と立て続けにナッシュビルで録音された未発表テイク集「フロム・エルヴィス・イン・ナッシュビル」「エルヴィス・バック・イン・ナッシュビル」が発売されたので、エルヴィスとナッシュビルとの関係を掘り起こして着目してみるには今はいいタイミングだと思うぞ! お陰様で 訪問ポイント100ヶ所到達 致しました! ところで、これまでご案内してきたエルヴィスゆかりの地のポイントを第1回から何気に合計してみたら95ポイント、今回の「ナッシュビル編」で100ポイント突破じゃ!それに伴い、 各州(各回)のポイントの番号を、今後は「Area No./エリア番号(州別/地域別番号)」と、第1回目のツアーからの「Serial No./シリアル番号(通し番号)」と併記するので、どうか混乱なさらぬように! また毎回巻末付録として御覧頂いている「Googleマイマップ」をすべて統合してひとつの地図にまとめた 「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」を作成してみたぞ! これまで周回してきたすべてのポイントをひとつの地図内でご覧頂けるんで、どうぞヨロシク。
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“Elvis Presley Sh*ts The Bed During His Grand Ole Opry Debut”![]()
まあ早いハナシが、エルヴィスは古典的なカントリー・ミュージックの総本山ともいうべき「オープリ―」にはぜ~んぜん“お呼びじゃない”シンガーだったのじゃ。「ブルームーン・ケンタッキー」1曲の出演じゃったが、演奏後の拍手もまばら。ライマン・オーディトリアムにはシラケ鳥が飛びまくり・・・「メンフィスのトラック運転手に戻った方がいいよ」と番組のマネージャーであるジム・デニーに強烈な嫌味をかまされたのは有名じゃ。The-Kingのボス曰く「キング・エルヴィスとはいえ、決して“原点にして頂点だった”わけではなーい!」と、まさしくその通り。いつの時代も、革命児の出発とはハードなものなのじゃよ。
この「屈辱のオープリ―事件」の真相をあらためてネットでチェックしてみると、強烈な“見出し”が見つかった。それが“Elvis *hit the bed”。*hitとはもちろんshitであり、shit the bedとはアメリカン・スラングで「場違い」「やり過ぎ」って事。ボスのコラムにもリンクが貼ってあった「Good Rockin' Tonight」での再現シーンでは、エルヴィスが懸命に歌っておる様子が描かれておるが、実際には張り切り過ぎて“まるで高速列車から転がり落ちた様に”ステージで“一曲入魂”したらしい。 ボスは「盆踊り会場にレッド・ツェッペリンが来ちゃったみたいな」との名言を記しており、わしからは「ふるさと歌のお祭り」会場にセックス・ピストルズが乱入したみたいな」とでも言っておこう。それぐらいエルヴィスと「オープリー」とは水と油だったのじゃ。まだティーンエイジャーであり、元々ナイーブなエルヴィスが相当のショックを受けたことは想像に難くない。この日ナッシュビルは、エルヴィスにとって下積み時代の苦労を象徴する街になってしまったかもしれない。 「オープリ―事件」当夜の写真は1枚もないとされており、事件を紹介する各 ![]() わしがチェックした限り、もっとも当夜のエルヴィスっぽい写真を掲載しておったのが、「Elvis *hit~」の記事ページの1枚。(上右写真)当日のエルヴィスの衣装は赤のスーツであり、赤をモノクロで撮影した場合の色見や、当時のエルヴィスの髪型や雰囲気から判断して、この写真がもっとも“それっぽい”。ちなみに上左写真は「Good Rockin' Tonight」でのオープリ―出演再現シーンを一時停止させてモノクロ画像変換したもの。 「グランド・オール・オープリー」は専用劇場を別の場所に移して今でも継続されており、ライマン・オーディトリアムもまた稼働中である。(右写真ストリートビュー2021年1月撮影) ■Google-map上の位置■ |
失意のエルヴィスが一時避難したレコード店![]() ![]() 「オープリー」で赤っ恥をかかされたエルヴィスは、ライマン・オーディトリアムからほど近いここに“すぐさま逃げ込んだ”とのことじゃ。エルヴィスが訪ねた当時は既に40歳になっていたタブ氏は、若い頃に相当苦労を重ねた方だっただけに、失意にくれる若いエルヴィスの愚痴を優しく辛抱強く聞いてあげたという。 エルヴィス:カントリー&ウエスタン・ミュージックは長い歴史があるけれど、僕は新しいスタイルで旋風を巻き起こしたいのです。 タブ:君はたくさんお金を持っているかい? エルヴィス:いいえ。 ![]() エルヴィス:・・・。 タブ:お金さえ稼げるようになったら、好きな事が出来るようになるよ。 エルヴィスとタブ氏の間でこんなやりとりがあったらしいが、いつの時代も、何の仕事をやろうとも、バカでなければ必ず気づかされる世の中のしきたりをタブ氏はエルヴィスに説いておるな。 しかし若者ならばすぐさま「はい、そうですか。分かりました」とはならんもんじゃ。きっとエルヴィスは「“お金を稼げるようになること”イコール“己のロックンロール道を命がけで貫くこと”」と決心したに違いない! 「アーネスト・タブ・レコード・ショップ」は現在もご健在!老いも若きも、人生の進むべき道に迷ったら訪れてみたいようなお店じゃな!!(じゃあ、オマエがまず行ってこいよって言われそうじゃなあ~笑) ■Google-map上の位置■ |
![]() ![]() ![]() 一方、翌年に大ヒットすることになる「ハートブレイク・ホテル」の作者、メイ・ボーレン・アクストン女史も、同曲のデモを収録したサンプル盤レコードをエルヴィスに渡すためにアンドリュー・ジャクソン・ホテルへと向かった。コンベンションの表彰式の後にエルヴィスとメイ女史は同ホテルの一室で落ち合い、その場でメイ女史はポータブルレコードプレーヤーでデモ盤をエルヴィスに聞かせたという。 ![]() エルヴィスは既にRCAへの移籍契約直前であり、このコンベンションはいわばエルヴィスのサンレコード時代の活躍に対する表彰(右写真)、「マイナー時代慰労会」ってトコじゃな。 そして同日にエルヴィスに渡された「ハートブレイク・ホテル」は、マイナーからメジャーへ一気にジャンプアップするためにこれ以上ない贈り物じゃった。1955年11月10日は、エルヴィスの人生の中でもっとも重要な分岐点になった日であ~る♪ 下左写真は、メイ女史がエルヴィスに渡したと思われるデモ盤。レア~ですなあ~ ![]() メイ女史はデモが収録されたテープをナッシュビルまで運んで当地でレコードプレスしたのじゃろうか?住所の位置から、アンドリュー・ジャクソン・ホテルまでは徒歩数分じゃ。TREEなる表記は店名じゃろうが、今後時間をかけて実体を探ってみたいところじゃ。ラベル表記の住所の現状は右写真の通り。 「マダム(メイ女史のこと)、もう一度聞かせて下さい」と、エルヴィスはこのデモ盤を繰り返し聞いていたという。メイ女史曰く「仕舞には、エルヴィスは曲中でグレン(デモを歌っておる歌手)が息継ぎをするタイミングまですっかり頭に叩き込んでしまったようでした」。曲の骨格を把握し、独自の編曲アレンジのイメージまでエルヴィスはその場で成し遂げてしまったようで、翌年年初のレコーディングの際はメイ女史が驚愕するほどの歌唱法でもってエルヴィスは歌い上げることになる!このデモ盤に収録されていたと思われるテイクがyou tubeにアップされておったのでご一聴を。グレン・リーブスの歌い出しの前に、メイ女史が弾くピアノのイントロも含まれておる。 下中央写真は、当日ホテル内でのショット。エルヴィスの後ろに部屋の扉があるようで、残念ながら部屋番号が見えない。 下右写真は「ハートブレイク・ホテル」が大ヒットした直後に再会したエルヴィスとメイ女史。
![]() 確かな事は2つ。「ハートブレイク・ホテル」はメイ女史とトミー・ダーデンがエルヴィスの為に書いたこと。そしてRCA移籍第一弾シングルとしてこの曲を選んだのは、エルヴィス自身だったことであ~る♪ 音楽史上歴史的な楽曲の受け渡しが行われたアンドリュー・ジャクソン・ホテルは、1929年に開業。当時は客室数400を誇るナッシュビル最大級のホテルであり、「カントリーアンドウエスタンミュージック・ディスクジョッキー・コンベンション」の他にも、ミュージック・イベント会場としても使用され続けたが、1971年に閉業、取壊しとなった。跡地には「テネシー・パフォーミング・アートセンター」という新しいコンサート会場が建っておる。(右写真はストリートビュー2019年6月撮影) ■Google-map上の位置■ |
ハートブレイク・ホテル録音スタジオ![]()
ウィキペディアによる楽曲「ハートブレイク・ホテル」の解説には、“RCAの音響スタッフはサン・レコードのような残響を出す方法を知らなかった。サン・レコードではディレイをかけていただけだったが、RCAはエコー・チェンバーでリバーブ録音し、サン・レコード時代とは似ても似つかない音になった”との記述がある。レコーディング技術に疎い者には何だかよく分からん話じゃが、要するにサム・フィリップスがエルヴィス・サウンドにとって“良かれ”と加工処理した音が、マクガヴォック・スタジオの設備では最初は再現が困難だったらしく、チェット・アトキンスやスティーブ・ショールズ(RCAプロデューサー)は相当苦労したらしい。エルヴィスやスコッティがサン・レコードでの録音状態を気に入っておって、マクガヴォック・スタジオでも再現を望んでいたということでもある。 まあこんな説明をしてもマクガヴォック・スタジオを褒めたたえることにはならんが、スコッティは最初にスタジオ入りした時に「さあ何から始めましょうか」と言うと、「君たちは普段通りにやればいい」とリラックスさせてくれたスティーブ・ショールズをはじめ、マネージャーのチェット・アトキンス、エンジニアのボブ・ファリスら、スタジオのスタッフ全員がとても献身的に動いてくれたことを回想しておる。仕事がしやすい環境だったのじゃ。エルヴィス・プレスリーという金の卵を獲得したRCAが、収益の為に馬車馬の如くエルヴィスとバンドメンバーたちをこき使うのではなく、彼らがミュージシャンとして最高の仕事を成し遂げる為に最善を尽くして協力していた事実を証明するスタジオと言ってもいいじゃろう。
意外な事にマクガヴォック・スタジオはエルヴィスにとって上記3回のみの使用となったようじゃが、これは1956~1957年当時過密状態にあったツアースケジュールの都合上、ロスやニューヨークのRCAスタジオの方がレコーディングの際に地理的に便利だったことが大きい。それでも「ハートブレイク・ホテル」を完成させたマクガヴォック・スタジオの栄誉は永遠じゃ! スティーブ・ショールズはエルビスに「ハートブレイクホテル」のゴールドレコードをこのスタジオ内で贈り(上左端写真)、その写真は瞬く間に全米に拡散されたことでナッシュビルは突然「音楽の中心地」となり、出版社、レコード会社、ソングライター、ポップ、ロックミュージシャンが世界中から集まり始めることになった。 エルヴィスが大ヒットシングルを連発したお陰で財政が潤ったRCAは、チェット・アトキンスの強い要望により、翌1957年には最新機材を導入した通称「Bスタジオ」(下記Serial ![]() 由緒ある場所が時代の流れによって駐車場になろうがガソリンスタンドになろうが仕方ないが、音楽史、ヤングカルチャー史を一変させた楽曲の生まれた地に、せめて記念の標識ぐらい設置するべきではないのか?こうした歴史への敬意がイマイチなところが、一般的なロックファンのナッシュビルへの意識が低いことに繋がっておるんじゃないかと・・・。 ■Google-map上の位置■ 【注意】 このパート内に掲載したエルヴィスのスタジオ内の写真は、2枚目のシングル「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー」の収録時になります。 |
“ナッシュビル・サウンド”の礎を築いた名スタジオ![]()
![]() (※注意~ファースト・アルバム「エルヴィス・プレスリー登場」収録のナッシュビル・セッション曲をRCA-Bスタジオでのレコーディングと表記しているサイトもあるが、これは表記ミスじゃろう。アルバムの発表は1956年3月、スタジオの開場は1957年10月なので、上記のマクガヴォック・スタジオでのレコーディングじゃ。) エルヴィスが初めてRCA-Bスタジオに現れたのは、軍役中の休暇期間内に当たる1958年6月10日。翌11日と併せた2日間で軍役中に発表するべき曲を10曲あまり録音。辛い軍隊訓練の休憩期間中であれ、エルヴィス不在中も“が ![]() 次の機会は、除隊後の1960年3月21日からの2日間。新曲Stuck On Youを含む6曲をレコーディング。このセッションから、スコッティは復帰。ビルは自身のバンド(コンボ)が発動中だったので参加せず。22日夕刻には、エルヴィスご一行はマイアミで開催される「フランク・シナトラ・ショー」へ出演するためにナッシュビル・ユニオン・ステーションから列車でマイアミに向かうことになる。 ![]() 以降1970年代に入っても隆盛にあったこのスタジオも、ナッシュビルAチームを始めとするミュージシャン所属の組合とスタジオBの従業員との間の権力闘争が拡大したことが原因で1977年に閉鎖となった。スタジオのビルは長らく空き家になっていたが、1993年にカントリーミュージックの殿堂組織に寄贈された。 現在スタジオはカントリーミュージックの殿堂とベルモント大学による共同運営になっており、学生たちはアナログ録音の基本的なテクニックを学んでおるそうじゃ。一般観光客のためにエルヴィス・プレスリー・レコーディング・スタジオ見学コースも用意されておる。 ■Google-map上の位置■
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軍役期間中の確かな事といえば、入隊前にしっかりとヒット・シングルのストックをこさえていたので、エルヴィス本人が心配していたほど人気の低下現象は起こらなかったこと。そして除隊直後からの活動再開スケジュールが、パーカー大佐の緻密な利益計算によってしっかりと組まれておったことじゃ。 ![]() さしずめ、その一発目が除隊した西ドイツから帰国し、更に故郷メンフィスへ戻る途中に経由したナッシュビル・ユニオン・ステーションでの歓迎セレモニーじゃろう。ナッシュビルはメンフィスと同じテネシー州であり、ユニオン・ステーションでの列車の乗り換え時間が利用されたのじゃ。大々的にお帰りなさい!をしてもらえば、辛かった軍役体験も吹っ飛んで気持ち良くメンフィスへ帰郷出来るだろうという大佐の算段じゃろう。 左写真は、1960年3月7日ナッシュビルのファンクラブ会長ゲイリー・ペッパーに出迎えられるエルヴィス。駅にはファンクラブの会員200人が集まったとされておる。エルヴィスがナッシュビル・ユニオン・ステーションに到着したのは早朝7時頃であり、セレモニーの後に7時45分発の列車でエルヴィスはメンフィスへ。 なおエルヴィスが着ておるドイツ製の陸軍の軍服じゃが、ズボンに太いストライプが入っておる。これはエルヴィスが昇進した軍曹よりももっと上官の仕様らしいが、現地の仕立屋さんが間違ってエルヴィス用として作ってしまったという。仕立屋さんが「もし私が間違っていたとしたら、それは元帥(大将)用の軍服にしなかったことだ。だってエルヴィスはキングじゃないか!」と言ったのであればアッパレ!(笑) 更に、メンフィスに帰郷後に再びナッシュビルに ![]() ~なお「いってらっしゃい」セレモニーでは、大佐は身障者の女の子たちをエルヴィスの使う寝台車の個室へ招待して、エルヴィスとお話出来たり、特別プレゼントを貰えるドリーム・タイムをセッティング。(下左、中央写真)大佐の仕事は抜かりありませんなあ!その他マスコミからのインタビュー等をこなした後、エルヴィスは午後6時32分にユニオン・ステーションを出発した。 下右写真でエルヴィスに同行しておるバディー・ホリーのお兄さんみたいな男性は、ナッシュビルの新聞記者のデイヴィッド・ハルバースタム氏。当時から辣腕記者だったようで大佐は特別に取材許可を出した模様。ハルバースタム氏は、後にピューリッツァー賞を受賞するほどのジャーナリスト、作家、歴史作家になる!まあ大佐がそこまで見抜いていて取材許可を出したとまでは思えんがな!(大佐は優秀なジャーナリストに対しては、変に逆恨みされて素性を暴かれる事を恐れていたので特別扱いする場合があったという説も存在する)
![]() 大戦後は南部経済状況の大きな変動により鉄道網が大幅に変革されたことで1971年にステーションは閉鎖。現在は大型ブティック・ホテル兼鉄道博物館として稼働しておる。 ステーションのホームページによると、大戦中に恋人の出征を見送り、恋人が戦死したことで生涯独身であり続けた女性が、晩年になってこのホテルに長逗留していたというコラムが掲載されておった。その女性は、最愛の恋人を見送ったステーションを終の棲家としておったのじゃ。そんな純愛実話の舞台にもなったステーションでもある。右写真はストリートビュー2021年1月撮影。 ■Google-map上の位置■ |
ナッシュビル唯一のライブ会場で、キングは19年越しのリベンジを果たせたのか?![]()
エルヴィスのライブ履歴を追っていて初めて気が付いたが、ナッシュビル公演は1973年7月1日(昼夜2回)のみ。決して大都市ではないが、ナッシュビルは音楽的に名の通った都市だけに意外な事実じゃった。「グランド・オール・オープリ―」開催の街ナッシュビルの音楽的土壌はカントリー&ウェスタン。50年代のキング・オブ・ロックンロールとしてのエルヴィスのウケが悪かったとしても、70年代のゴッド・オブ・アメリカンミュージックとしてのエルヴィスなら大歓迎されたはずじゃが、これには何かワケがありそうなので今後探ってみますわい。 唯一のナッシュビル公演は、エルヴィスにとってはいわば19年前の「グランド・オール・オープリー事件」のリベンジだったのだろうか?また1973年当時のエルヴィスにとって、「オープリ―」でのつまづきなど遠い昔のかすり傷みたいなものに過ぎず、特別に意識もしなかったのじゃろうか?当日のコンサート評をネットで探ってみたが、特別な寄稿は無し。 ![]() 【 参考 】 ナッシュビル近郊地域としては、ナッシュビル中心地から約60キロ南下したマーフリーズボロという街にあるミドル・テネシー州立大学アスレチックセンターにおいて、1974年3月14日、19日にエルヴィスはライブをおこなっておる。 一応念の為というか、大きなお世話というか、1973年7月1日前後のエルヴィスの写真をネット検索してみたところ、前日のアトランタ公演終了後に、ホテルで娘のリサ・マリーと当時のガールフレンドだったリンダ・トンプソンとともに撮影された写真がヒットした。(左写真)アトランタ・オムニ・コロシアムでの写真では父親ヴァーノンまで写っておるので、ファミリーツアーでもあったようじゃ。しかしなんでホテルの部屋で空手着を着ておるんじゃろう。トレーニングしてたのかなってやっぱり大きなお世話じゃな! ちなみにナッシュビル公演の前後3日はいずれもアトランタ公演 ![]() ナッシュビル・ムニシパル・コロシアムは現在でも「Musicians hall of fame and museum」の名で、“ナッシュビル・サウンド”関連の博物館兼ライブ開場として稼働中。右写真はストリートビュー2021年1月撮影。 ■Google-map上の位置■ |
キング宿泊!の噂で繁盛していた知られざる人気ホテル![]() ![]() その一方で、エルヴィスの宿泊情報から新たなナッシュビル情報が発覚した。1974年にオープンしたスペンスマナー・ホテルをエルヴィスが利用していたというのじゃ。(左写真)エルヴィスが利用したことは音楽業界の中で知れ渡り、以降ジョニー・キャッシュ、ウイリー・ネルソン、フランク・シナトラ、エルトン・ジョン、、元ビートルズのメンバーたち、ケニー・ロジャースらがナッシュビルを訪れる度にこのホテルを利用するようになって大変に繁盛したらしい。エルヴィスが宿泊したという最上階604号室の扉にはエルヴィスの写真がディスプレイされておる。(下左写真) 2019年に大幅にリニューアルされ、現在は長期宿泊者用のコンドミニアムとして再スタートを切った模様。各部屋には、数多くのカントリーシンガーたちの写真等が一般の宿泊客にも目ざわりにならない程度にセンスよくディスプレイされておる。オープン当時は正面外壁に見られたホテルの大きなロゴは現在外されておる。(下右写真、ストリートビュー2021年12月撮影)下中央写真は、宿泊者の一人だったカントリー界のスター、ウェップ・ピアスが寄贈したというギター型のプール。 ホテル・サイトの一部には、「エルヴィスはRCA-Bスタジオを利用する度にスペンス・マナー・ホテルに宿泊していた」と紹介されておるが、もしこの記述全てが事実であるとすれば、エルヴィスが1974年以降にRCA-Bスタジオでレコーディングした未発表曲/未発表テイクがあるということじゃ! ■Google-map上の位置■
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ナッシュビルへご案内した時点で、これまでの訪問地の累計が100箇所を越えたバーチャル・ロックンロールツアー。何事も継続する根気やパワーが薄れて来たジジイのわしが、もう一度ロックンロールという果てしない魅力にあふれた荒野へと連れ戻してもらえたようで、The-Kingならびにビュワー諸君に心から感謝する次第じゃ。 ところでだな、ナッシュビルをエルヴィスという基軸でもって調査を進めている最中ずぅ~と、他の地域の調査とは違った感覚に包まれておった。それは得体の知れない違和感というか、調査自体にはのめり込んでおるのにどこか肩透かしを食らっておる感じというか。実際にナッシュビルに居るわけでもないのにオカシナ感覚じゃ。 例えばだ。メンフィスのエルヴィスゆかりの地を調べている時ならば、「ひょっとしてココで〇〇な事が起こっていたんじゃないか?」って閃き、実際に閃きが当たっていたり、閃きとは正反対の事実を突きつけられたりといったスリルを体験出来た ![]() その原因は未だに正確にはワカランのだけれど、多分それはナッシュビルという街が伝統的にカントリー&ウエスタン・ミュージックの聖地であるということじゃろう。恥ずかしながら、わしはカントリー&ウエスタン・ミュージックには造詣が浅いんじゃ。そのウィークポイントを、ナッシュビル調査の最中に再認識させられていたってことかもしれんな。 もし諸君の中でカントリー&ウェスタン・ミュージックにのめり込んでおる方がいらしたら、その辺がしっかりバレてしまうはずじゃ。でも、エルヴィスゆかりの地を片っ端から訪れるスケジュールからナッシュビルを外すことは出来ないので、この度のナッシュビル編においてわしのツッコミの甘さを感じたらどうかご容赦頂きたい。“知ったか”だけはかましておりませんから(苦笑) って正直に恥をさらせば、あとは怖いもんなしじゃ!(笑)次回もかますぞバーチャル・ロックンロール・ツアー!引き続きご参加のほどをヨロシューな。 (右写真は1973年7月1日、ナッシュビル・ムニシパル・オーディトリアム公演でのエルヴィス) |
【付録】 Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」 まずは地図右上の[ ]マークをクリックし"拡大地図を表示"させて下さい。 ★初期画面にて当ページでご案内してきたナッシュビルのすべての場所が表示されます。 ★初期画面を縮小していくと、これまで「バーチャル・ロックンロールツアー」でご案内してきた全ての場所が表示されていきます。 ★各ポイントは、エリア番号(州別、地域別番号=丸印内番号)と、第1回からのシリアル番号(通し番号)が付けられています。 ★地図上の番号入り丸印をクリックすると、その場所の名前、写真、簡易紹介文が御覧になれます。 ※更に詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 まずはコチラの[ ]をクリック ↓ |
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