NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.383


第11回 エルヴィスゆかりの地~バック・イン・テネシー州①/
ナッシュビル編


(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

テネシー州へ帰れ!
 エルヴィスのホームタウン、テネシー州メンフィスからスタートして、ミシシッピー州、ルイジアナ州、フロリダ州、アーカンソー州を約半年間にわたりエルヴィスに成り切って周回してきた(笑) 「バーチャル・ロックンロールツアー」。ここで一旦「バック・イン・テネシー州」と題して一度テネシー州に戻ることに致しやす!テネシー州メンフィスは既に3回に分けて32ヶ所をご案内しておるので、今回はメンフィスからハイウェイ40を約300キロ北東にぶっ飛ばした位置にあるナッシュビルのエルヴィスゆかりの地をご案内するぞ。
 ナッシュビルは、「ナッシュビル・サウンド」と呼ばれたほどのカントリー系ミュージックのブームを作り上げたこともある街じゃが、メンフィスと同じテネシー州内ありながらエルヴィス・ファンにとってはマイナーな認識に留まっておる。しかし一昨年、昨年と立て続けにナッシュビルで録音された未発表テイク集「フロム・エルヴィス・イン・ナッシュビル」「エルヴィス・バック・イン・ナッシュビル」が発売されたので、エルヴィスとナッシュビルとの関係を掘り起こして着目してみるには今はいいタイミングだと思うぞ!

お陰様で 訪問ポイント100ヶ所到達 致しました!
 ところで、これまでご案内してきたエルヴィスゆかりの地のポイントを第1回から何気に合計してみたら95ポイント、今回の「ナッシュビル編」で100ポイント突破じゃ!それに伴い、
 各州(各回)のポイントの番号を、今後は「Area No./エリア番号(州別/地域別番号)」と、第1回目のツアーからの「Serial No./シリアル番号(通し番号)」と併記するので、どうか混乱なさらぬように!

 また毎回巻末付録として御覧頂いている「Googleマイマップ」をすべて統合してひとつの地図にまとめた
「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」を作成してみたぞ!
これまで周回してきたすべてのポイントをひとつの地図内でご覧頂けるんで、どうぞヨロシク。


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地~
       第11回 バック・トゥ・テネシー州①/ナッシュビル編 

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文 の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はナッシュビル地域内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 
Area No.1/Serial No. 96 グランド・オール・オープリー/ライマン・オーディトリウム
 
Area No.2Serial No. 97 アーネスト・タブ・レコードショップ

 
Area No.3Serial No. 98  アンドリュー・ジャクソン・ホテル跡地
 Area No.4Serial No. 99  RCAマクガヴォック・スタジオ跡地

 
Area No.5Serial No.100  RCA B-スタジオ
 
Area No.6Serial No.101  ナッシュビル・ユニオン・ステーション

 Area No.7/Serial No.102 ナッシュビル・ムニシパル・オーディトリウム
 Area No.8Serial No.103 スペンスマナー・ホテル/現スペンスマナー・コンドミニアム
 

 
【付 録】  Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロール・ツアー・トータルマップ」
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順


 【バーチャル・ロックンロールツアー第1回~10回 リンクバナー】


Elvis Presley Sh*ts The Bed During His Grand Ole Opry Debut
Area No.1/Serial No.96 グランド・オール・オープリー/ライマン・オーディトリウム
 「グランド・オール・オープリ―」とは、1950年代当時のアメリカ南部においてもっとも人気が高かったと言われるカントリー&ウェスタン・ミュージックのライブ番組。専用会場ライマン・オーディトリアムの舞台に上がったカントリー・ミュージシャンたちの生演奏がラジオで聞けたのじゃ。デビュー間もないエルヴィスは1954年10月2日「グランド・オール・オープリ―」に最初で最後の出演をしておるが、そのことに関してはThe-Kingのボスがつい先日素晴らしいコラムを書いておるので、わしの能書きよりもまずはそちらも読み返して頂きたい

 まあ早いハナシが、エルヴィスは古典的なカントリー・ミュージックの総本山ともいうべき「オープリ―」にはぜ~んぜん“お呼びじゃない”シンガーだったのじゃ。「ブルームーン・ケンタッキー」1曲の出演じゃったが、演奏後の拍手もまばら。ライマン・オーディトリアムにはシラケ鳥が飛びまくり・・・「メンフィスのトラック運転手に戻った方がいいよ」と番組のマネージャーであるジム・デニーに強烈な嫌味をかまされたのは有名じゃ。The-Kingのボス曰く「キング・エルヴィスとはいえ、決して“原点にして頂点だった”わけではなーい!」と、まさしくその通り。いつの時代も、革命児の出発とはハードなものなのじゃよ。


 この「屈辱のオープリ―事件」の真相をあらためてネットでチェックしてみると、強烈な“見出し”が見つかった。それが“Elvis *hit the bed”。*hitとはもちろんshitであり、shit the bedとはアメリカン・スラングで「場違い」「やり過ぎ」って事。ボスのコラムにもリンクが貼ってあった「Good Rockin' Tonight」での再現シーンでは、エルヴィスが懸命に歌っておる様子が描かれておるが、実際には張り切り過ぎて“まるで高速列車から転がり落ちた様に”ステージで“一曲入魂”したらしい。
 ボスは「盆踊り会場にレッド・ツェッペリンが来ちゃったみたいな」との名言を記しており、わしからは「ふるさと歌のお祭り」会場にセックス・ピストルズが乱入したみたいな」とでも言っておこう。それぐらいエルヴィスと「オープリー」とは水と油だったのじゃ。まだティーンエイジャーであり、元々ナイーブなエルヴィスが相当のショックを受けたことは想像に難くない。この日ナッシュビルは、エルヴィスにとって下積み時代の苦労を象徴する街になってしまったかもしれない。


 
「オープリ―事件」当夜の写真は1枚もないとされており、事件を紹介する各私設サイトには関係のないステージ写真がイメージとして貼り付けられておる。
 わしがチェックした限り、もっとも当夜のエルヴィスっぽい写真を掲載しておったのが、「Elvis *hit~」の記事ページの1枚。(上右写真)当日のエルヴィスの衣装は赤のスーツであり、赤をモノクロで撮影した場合の色見や、当時のエルヴィスの髪型や雰囲気から判断して、この写真がもっとも“それっぽい”。ちなみに上左写真は「Good Rockin' Tonight」でのオープリ―出演再現シーンを一時停止させてモノクロ画像変換したもの。
 「グランド・オール・オープリー」は専用劇場を別の場所に移して今でも継続されており、ライマン・オーディトリアムもまた稼働中である。(右写真ストリートビュー2021年1月撮影)

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失意のエルヴィスが一時避難したレコード店
Area No.2/Serial No.97 アーネスト・タブ・レコードショップ
 このレコードショップは、かつてカントリー界の大御所の一人だったアーネスト・タブが経営しており、また「グランド・オール・オープリ―」終了後の時間帯に「ミッドナイト・ミュージック・ジャンボリー」という番組の放送も受け持っておった。 タブ氏は一時期「オープリー」出演者の常連でもあった。

 「オープリー」で赤っ恥をかかされたエルヴィスは、ライマン・オーディトリアムからほど近いここに“すぐさま逃げ込んだ”とのことじゃ。エルヴィスが訪ねた当時は既に40歳になっていたタブ氏は、若い頃に相当苦労を重ねた方だっただけに、失意にくれる若いエルヴィスの愚痴を優しく辛抱強く聞いてあげたという。

エルヴィス:カントリー&ウエスタン・ミュージックは長い歴史があるけれど、僕は新しいスタイルで旋風を巻き起こしたいのです。
タブ:君はたくさんお金を持っているかい?
エルヴィス:いいえ。
タブ:それならば、時には他人の言う事(アドバイス?)を聞かないといけないこともあるよ。
エルヴィス:・・・。
タブ:お金さえ稼げるようになったら、好きな事が出来るようになるよ。

 エルヴィスとタブ氏の間でこんなやりとりがあったらしいが、いつの時代も、何の仕事をやろうとも、バカでなければ必ず気づかされる世の中のしきたりをタブ氏はエルヴィスに説いておるな。
 しかし若者ならばすぐさま「はい、そうですか。分かりました」とはならんもんじゃ。きっとエルヴィスは「“お金を稼げるようになること”イコール“己のロックンロール道を命がけで貫くこと”」と決心したに違いない!

「アーネスト・タブ・レコード・ショップ」は現在もご健在!老いも若きも、人生の進むべき道に迷ったら訪れてみたいようなお店じゃな!!(じゃあ、オマエがまず行ってこいよって言われそうじゃなあ~笑)

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 運命の贈与!「ハートブレイク・ホテル」がエルヴィスの手に渡った処
Area No.3/Serial No.97 アンドリュー・ジャクソン・ホテル跡地
1955年11月10日、エルビスは当時のマネージャーだったボブ・ニールと一緒にメンフィスを離れ、ナッシュビルのアンドリュー・ジャクソン・ホテル(左写真)で開催される毎年恒例の「カントリーアンドウエスタンミュージック・ディスクジョッキー・コンベンション」に向かった。当年のもっとも有望な若手カントリーシンガー賞の表彰を受けるためじゃ。
 一方、翌年に大ヒットすることになる「ハートブレイク・ホテル」の作者、メイ・ボーレン・アクストン女史も、同曲のデモを収録したサンプル盤レコードをエルヴィスに渡すためにアンドリュー・ジャクソン・ホテルへと向かった。コンベンションの表彰式の後にエルヴィスとメイ女史は同ホテルの一室で落ち合い、その場でメイ女史はポータブルレコードプレーヤーでデモ盤をエルヴィスに聞かせたという。
 エルヴィスは既にRCAへの移籍契約直前であり、このコンベンションはいわばエルヴィスのサンレコード時代の活躍に対する表彰(右写真)、「マイナー時代慰労会」ってトコじゃな。
 そして同日にエルヴィスに渡された「ハートブレイク・ホテル」は、マイナーからメジャーへ一気にジャンプアップするためにこれ以上ない贈り物じゃった。1955年11月10日は、エルヴィスの人生の中でもっとも重要な分岐点になった日であ~る♪

左写真は、メイ女史がエルヴィスに渡したと思われるデモ盤。レア~ですなあ~♪作曲者クレジットにまだエルヴィスの名前が無いので、彼女の地元テキサスの街中にあるレコードプレス・サービス場で製作されたデモ盤じゃろうと想像していたところ、写真をよく見るとレーベルの下に804 church street Nashuvilleという表記がある。ナッシュビルのプレス屋さんのようじゃ。
 メイ女史はデモが収録されたテープをナッシュビルまで運んで当地でレコードプレスしたのじゃろうか?住所の位置から、アンドリュー・ジャクソン・ホテルまでは徒歩数分じゃ。TREEなる表記は店名じゃろうが、今後時間をかけて実体を探ってみたいところじゃ。ラベル表記の住所の現状は右写真の通り。

 「マダム(メイ女史のこと)、もう一度聞かせて下さい」と、エルヴィスはこのデモ盤を繰り返し聞いていたという。メイ女史曰く「仕舞には、エルヴィスは曲中でグレン(デモを歌っておる歌手)が息継ぎをするタイミングまですっかり頭に叩き込んでしまったようでした」。曲の骨格を把握し、独自の編曲アレンジのイメージまでエルヴィスはその場で成し遂げてしまったようで、翌年年初のレコーディングの際はメイ女史が驚愕するほどの歌唱法でもってエルヴィスは歌い上げることになる!このデモ盤に収録されていたと思われるテイクがyou tubeにアップされておったのでご一聴を。グレン・リーブスの歌い出しの前に、メイ女史が弾くピアノのイントロも含まれておる。

 下中央写真は、当日ホテル内でのショット。エルヴィスの後ろに部屋の扉があるようで、残念ながら部屋番号が見えない。
 下右写真は「ハートブレイク・ホテル」が大ヒットした直後に再会したエルヴィスとメイ女史。

曲なるもんには、ほぼ例外なく、嘘か誠か分からないエピソードが数多くある。「ハートブレイク・ホテル」もまた然り。パーカー大佐と知り合いだったメイ女史が作曲したこの曲を、大佐は「ヒットしそうもないな」と判断して、デッカレコードと契約していたカントリー・デュオ、ウィルバーン・ブラザースに歌わせよう(売りつけよう)として断られたとか、ウィルバーン・ブラザースはアクストンからのデモ録音の依頼を断っただけとか、デモ録音をOKしたグレン・リーブスが大佐にこの曲をイチオシしたとか、憶測やデッチ上げを含めて様々ある!
 確かな事は2つ。「ハートブレイク・ホテル」はメイ女史とトミー・ダーデンがエルヴィスの為に書いたこと。そしてRCA移籍第一弾シングルとしてこの曲を選んだのは、エルヴィス自身だったことであ~る♪

 音楽史上歴史的な楽曲の受け渡しが行われたアンドリュー・ジャクソン・ホテルは、1929年に開業。当時は客室数400を誇るナッシュビル最大級のホテルであり、「カントリーアンドウエスタンミュージック・ディスクジョッキー・コンベンション」の他にも、ミュージック・イベント会場としても使用され続けたが、1971年に閉業、取壊しとなった。跡地には「テネシー・パフォーミング・アートセンター」という新しいコンサート会場が建っておる。(右写真はストリートビュー2019年6月撮影)
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ハートブレイク・ホテル録音スタジオ
Area No.4/Serial No.99 RCAマクガヴォック・スタジオ跡地
ックンロールの歴史を変えた、いやロックンロールの歴史そのものをスタートさせた「ハートブレイク・ホテル」は、1956年1月10日このスタジオでレコーディングされた!エルヴィスがスタジオ内でゴールドディスクを持っている有名な写真もここで撮影されておる。マクガボックとはスタジオの前を走るストリート名であり、 RCAレーベルにとっては初のナッシュビル常設スタジオである。1954年のオープンとともに、スタジオ・マネージャーとしてカントリーギターの名手チェット・アトキンスが雇用されておった。

ィキペディアによる楽曲「ハートブレイク・ホテル」の解説には、“RCAの音響スタッフはサン・レコードのような残響を出す方法を知らなかった。サン・レコードではディレイをかけていただけだったが、RCAはエコー・チェンバーでリバーブ録音し、サン・レコード時代とは似ても似つかない音になった”との記述がある。レコーディング技術に疎い者には何だかよく分からん話じゃが、要するにサム・フィリップスがエルヴィス・サウンドにとって“良かれ”と加工処理した音が、マクガヴォック・スタジオの設備では最初は再現が困難だったらしく、チェット・アトキンスやスティーブ・ショールズ(RCAプロデューサー)は相当苦労したらしい。エルヴィスやスコッティがサン・レコードでの録音状態を気に入っておって、マクガヴォック・スタジオでも再現を望んでいたということでもある。

 まあこんな説明をしてもマクガヴォック・スタジオを褒めたたえることにはならんが、スコッティは最初にスタジオ入りした時に「さあ何から始めましょうか」と言うと、「君たちは普段通りにやればいい」とリラックスさせてくれたスティーブ・ショールズをはじめ、マネージャーのチェット・アトキンス、エンジニアのボブ・ファリスら、スタジオのスタッフ全員がとても献身的に動いてくれたことを回想しておる。仕事がしやすい環境だったのじゃ。エルヴィス・プレスリーという金の卵を獲得したRCAが、収益の為に馬車馬の如くエルヴィスとバンドメンバーたちをこき使うのではなく、彼らがミュージシャンとして最高の仕事を成し遂げる為に最善を尽くして協力していた事実を証明するスタジオと言ってもいいじゃろう。

ずか1日で「ハートブレイク・ホテル」の録音を終了させたエルヴィスとバンドは、翌11日にはB面曲「アイ・ワズ・ザ・ワン」を収録。1月末から2月にかけて、ファースト・アルバム収録用の数曲を録音。それからツアーサーキットへ。約三ヶ月後の4月14日にマクガヴォック・スタジオに戻り、2枚目のシングル「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー」を録音し、翌15日にツアー続行のためにテキサスへ。ちなみにこのテキサスへの移動は飛行機が使われたが、悪天候からフライトは最悪の状況になってエルヴィスの飛行機嫌いの原因になったとも言われておる。

 意外な事にマクガヴォック・スタジオはエルヴィスにとって上記3回のみの使用となったようじゃが、これは1956~1957年当時過密状態にあったツアースケジュールの都合上、ロスやニューヨークのRCAスタジオの方がレコーディングの際に地理的に便利だったことが大きい。それでも「ハートブレイク・ホテル」を完成させたマクガヴォック・スタジオの栄誉は永遠じゃ!
 スティーブ・ショールズはエルビスに「ハートブレイクホテル」のゴールドレコードをこのスタジオ内で贈り(上左端写真)、その写真は瞬く間に全米に拡散されたことでナッシュビルは突然「音楽の中心地」となり、出版社、レコード会社、ソングライター、ポップ、ロックミュージシャンが世界中から集まり始めることになった。

 エルヴィスが大ヒットシングルを連発したお陰で財政が潤ったRCAは、チェット・アトキンスの強い要望により、翌1957年には最新機材を導入した通称「Bスタジオ」(下記Serial No.100参照)を近くに完成させたことで、マクガヴォック・スタジオは事実上レコーディング・スタジオとしての役目を終えた。しばらくはTVやラジオ番組製作スタジオとして稼働した後、2006年その歴史に静かに幕が閉じられた。跡地は現在駐車場になっておる。(右写真、ストリートビュー2019年5月撮影)
 由緒ある場所が時代の流れによって駐車場になろうがガソリンスタンドになろうが仕方ないが、音楽史、ヤングカルチャー史を一変させた楽曲の生まれた地に、せめて記念の標識ぐらい設置するべきではないのか?こうした歴史への敬意がイマイチなところが、一般的なロックファンのナッシュビルへの意識が低いことに繋がっておるんじゃないかと・・・。
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【注意】
このパート内に掲載したエルヴィスのスタジオ内の写真は、2枚目のシングル「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー」の収録時になります。


“ナッシュビル・サウンド”の礎を築いた名スタジオ
Area No.5/Serial No.100 RCA-Bスタジオ
クガヴォック・スタジオの後を受けて1957年10月に完成したRCA-Bスタジオにおいて、エルヴィスは200曲以上を録音したと言われておる。主に軍隊除隊後のエルヴィスのレコーディングを支えたスタジオじゃ。特に1970年、1971年にそれぞれ約1週間集中して行われたセッションは、2020年に「フロム・エルヴィス・イン・ナッシュビル」、2021年に「エルヴィス・バック・イン・ナッシュビル」のタイトルで、それぞれCD4枚組&デジパック仕様の豪華ジャケットにて発表されておる。(右写真)

※注意~ファースト・アルバム「エルヴィス・プレスリー登場」収録のナッシュビル・セッション曲をRCA-Bスタジオでのレコーディングと表記しているサイトもあるが、これは表記ミスじゃろう。アルバムの発表は1956年3月、スタジオの開場は1957年10月なので、上記のマクガヴォック・スタジオでのレコーディングじゃ。)
ルヴィスが初めてRCA-Bスタジオに現れたのは、軍役中の休暇期間内に当たる1958年6月10日。翌11日と併せた2日間で軍役中に発表するべき曲を10曲あまり録音。辛い軍隊訓練の休憩期間中であれ、エルヴィス不在中も“がっつり”稼ごうとするパーカー大佐の指示じゃろう。左写真は、「ええか、万事わしに任せておけ。オマエがおらん間もわしがゼニ作っといてやるわい。なあ~んも心配せんでええから、しっかり歌っときい!」って感じじゃな(笑)なおこのレコーディングには、スコッティもビルも参加しておらん。(J.D.だけは参加))ギターの一部はチェット・アトキンスが担当しておる。
 次の機会は、除隊後の1960年3月21日からの2日間。新曲Stuck On Youを含む6曲をレコーディング。このセッションから、スコッティは復帰。ビルは自身のバンド(コンボ)が発動中だったので参加せず。22日夕刻には、エルヴィスご一行はマイアミで開催される「フランク・シナトラ・ショー」へ出演するためにナッシュビル・ユニオン・ステーションから列車でマイアミに向かうことになる。

RCA-Bスタジオの功績とは、エルヴィス・サウンドを次々と世に送り出したことだけではない。上述した通りエルヴィスの大活躍によって音楽関係者たちの目が一斉にナッシュビルに向いた中、チェット・アトキンスが中心となって優れたスタジオ・ミュージシャンたちを集めたナッシュビルAチームを作ったことじゃ。中には「フロム・エルヴィス・イン・ナッシュビル」や「エルヴィスバック・イン・ナッシュビル」の録音に参加した者もおった。彼らの確かなテクニックと多彩な表現力は、ナッシュビルにやって来た様々なシンガーたちのバックを務め上げ、「ナッシュビル・サウンド」というブームを作り出す礎になったのじゃ。
 以降1970年代に入っても隆盛にあったこのスタジオも、ナッシュビルAチームを始めとするミュージシャン所属の組合とスタジオBの従業員との間の権力闘争が拡大したことが原因で1977年に閉鎖となった。スタジオのビルは長らく空き家になっていたが、1993年にカントリーミュージックの殿堂組織に寄贈された。
 現在スタジオはカントリーミュージックの殿堂とベルモント大学による共同運営になっており、学生たちはアナログ録音の基本的なテクニックを学んでおるそうじゃ。一般観光客のためにエルヴィス・プレスリー・レコーディング・スタジオ見学コースも用意されておる。


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 エルヴィスの名誉の帰還と新たなる門出を祝福した鉄道駅
Area No.6/Serial No.101 ナッシュビル・ユニオン・ステーション

2年間に及ぶ軍役期間中のエルヴィスの心境や実態に関しては、未だに様々な憶測が飛び交っておる。訓練の厳しさに耐えかねて度々両親や知人に電話を入れては泣いていたとか、軍隊仲間に虐められないように新しい軍服を気前よくプレゼントしていたとか、開き直って訓練に励んで射撃の名手になったとか。
 軍役期間中の確かな事といえば、入隊前にしっかりとヒット・シングルのストックをこさえていたので、エルヴィス本人が心配していたほど人気の低下現象は起こらなかったこと。そして除隊直後からの活動再開スケジュールが、パーカー大佐の緻密な利益計算によってしっかりと組まれておったことじゃ。

佐の手腕が優れていた点は、利益計算だけではなくて、エルヴィスが気分よくカムバック活動に邁進出来るような舞台装置も整えておったことじゃろう。除隊後のエルヴィスが何処で何をしようが大勢のファンに囲まれて、キングとしてのプライドを満足させられる仕掛けじゃ。
 さしずめ、その一発目が除隊した西ドイツから帰国し、更に故郷メンフィスへ戻る途中に経由したナッシュビル・ユニオン・ステーションでの歓迎セレモニーじゃろう。ナッシュビルはメンフィスと同じテネシー州であり、ユニオン・ステーションでの列車の乗り換え時間が利用されたのじゃ。大々的にお帰りなさい!をしてもらえば、辛かった軍役体験も吹っ飛んで気持ち良くメンフィスへ帰郷出来るだろうという大佐の算段じゃろう。
 左写真は、1960年3月7日ナッシュビルのファンクラブ会長ゲイリー・ペッパーに出迎えられるエルヴィス。駅にはファンクラブの会員200人が集まったとされておる。エルヴィスがナッシュビル・ユニオン・ステーションに到着したのは早朝7時頃であり、セレモニーの後に7時45分発の列車でエルヴィスはメンフィスへ。
 なおエルヴィスが着ておるドイツ製の陸軍の軍服じゃが、ズボンに太いストライプが入っておる。これはエルヴィスが昇進した軍曹よりももっと上官の仕様らしいが、現地の仕立屋さんが間違ってエルヴィス用として作ってしまったという。仕立屋さんが「もし私が間違っていたとしたら、それは元帥(大将)用の軍服にしなかったことだ。だってエルヴィスはキングじゃないか!」と言ったのであればアッパレ!(笑)

に、メンフィスに帰郷後に再びナッシュビルに戻ってレコーディングをこなし、フランク・シナトラ・ショー出演の為にフロリダへ発つ3月20日も、大佐はユニオン・ステーションに再び大勢のファンを集めて、今度は「いってらっしゃい!」セレモニーを企画。(当パート、トップ写真3枚)マスコミへの「キング・カムバック」のアピールもあるじゃろうが、何よりもエルヴィスのキングとしてのプライドを満足させて仕事へ積極的に向かわせるための仕掛けじゃ!帰郷先メンフィスではなくナッシュビル。また仕事先フロリダではなくナッシュビル。安心して目的地へ着けるような、大佐のエルヴィスへの細やかな気配りでもあったんじゃないかとわしは思う。

 ~なお「いってらっしゃい」セレモニーでは、大佐は身障者の女の子たちをエルヴィスの使う寝台車の個室へ招待して、エルヴィスとお話出来たり、特別プレゼントを貰えるドリーム・タイムをセッティング。(下左、中央写真)大佐の仕事は抜かりありませんなあ!その他マスコミからのインタビュー等をこなした後、エルヴィスは午後6時32分にユニオン・ステーションを出発した。
 下右写真でエルヴィスに同行しておるバディー・ホリーのお兄さんみたいな男性は、ナッシュビルの新聞記者のデイヴィッド・ハルバースタム氏。当時から辣腕記者だったようで大佐は特別に取材許可を出した模様。ハルバースタム氏は、後にピューリッツァー賞を受賞するほどのジャーナリスト、作家、歴史作家になる!まあ大佐がそこまで見抜いていて取材許可を出したとまでは思えんがな!(大佐は優秀なジャーナリストに対しては、変に逆恨みされて素性を暴かれる事を恐れていたので特別扱いする場合があったという説も存在する)

ッシュビル・ユニオン・ステーションは、かつてはたくさんの鉄道路線が乗り入れる南部最大級の鉄道駅であり、第二次世界大戦時には出征、また帰還する多くの兵士たちに利用されておった。幾多の悲しい別れと感動の再会の場だったのじゃ。
 大戦後は南部経済状況の大きな変動により鉄道網が大幅に変革されたことで1971年にステーションは閉鎖。現在は大型ブティック・ホテル兼鉄道博物館として稼働しておる。
 ステーションのホームページによると、大戦中に恋人の出征を見送り、恋人が戦死したことで生涯独身であり続けた女性が、晩年になってこのホテルに長逗留していたというコラムが掲載されておった。その女性は、最愛の恋人を見送ったステーションを終の棲家としておったのじゃ。そんな純愛実話の舞台にもなったステーションでもある。
右写真はストリートビュー2021年1月撮影。
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ナッシュビル唯一のライブ会場で、キングは19年越しのリベンジを果たせたのか?
Area No.7/Serial No.102 ナッシュビル・ムニシパル・オーディトリウム

 エルヴィスのライブ履歴を追っていて初めて気が付いたが、ナッシュビル公演は1973年7月1日(昼夜2回)のみ。決して大都市ではないが、ナッシュビルは音楽的に名の通った都市だけに意外な事実じゃった。「グランド・オール・オープリ―」開催の街ナッシュビルの音楽的土壌はカントリー&ウェスタン。50年代のキング・オブ・ロックンロールとしてのエルヴィスのウケが悪かったとしても、70年代のゴッド・オブ・アメリカンミュージックとしてのエルヴィスなら大歓迎されたはずじゃが、これには何かワケがありそうなので今後探ってみますわい。
 唯一のナッシュビル公演は、エルヴィスにとってはいわば19年前の「グランド・オール・オープリー事件」のリベンジだったのだろうか?また1973年当時のエルヴィスにとって、「オープリ―」でのつまづきなど遠い昔のかすり傷みたいなものに過ぎず、特別に意識もしなかったのじゃろうか?当日のコンサート評をネットで探ってみたが、特別な寄稿は無し。
 19年前に「メンフィスのトラック運転手に戻った方がいいよ」と嫌味を言い放ったオープリ―のマネージャーだったジム・デニーがお詫びに訪れた、なんてこともなかったようじゃ(笑)同じく19年前にエルヴィスを慰めたアーネスト・タブに向かって「お金は稼げるようになりましたが、なかなか好きな事を自由に出来ませんね」とエルヴィスは愚痴をこぼした、なんてこともなかったようじゃし。どうやら通常通り、1万人前後の大入り満員の中でライブは滞りなく行われた模様じゃ。

【 参考 】
ナッシュビル近郊地域としては、ナッシュビル中心地から約60キロ南下したマーフリーズボロという街にあるミドル・テネシー州立大学アスレチックセンターにおいて、1974年3月14日、19日にエルヴィスはライブをおこなっておる。

 一応念の為というか、大きなお世話というか、1973年7月1日前後のエルヴィスの写真をネット検索してみたところ、前日のアトランタ公演終了後に、ホテルで娘のリサ・マリーと当時のガールフレンドだったリンダ・トンプソンとともに撮影された写真がヒットした。(左写真)アトランタ・オムニ・コロシアムでの写真では父親ヴァーノンまで写っておるので、ファミリーツアーでもあったようじゃ。しかしなんでホテルの部屋で空手着を着ておるんじゃろう。トレーニングしてたのかなってやっぱり大きなお世話じゃな!
 ちなみにナッシュビル公演の前後3日はいずれもアトランタ公演であり、4日連続でアトランタ・オムニ・コロシアムがブッキング出来なかったので代わりにナッシュビル公演をねじ込んだようでもあるって、これ以上の詮索はやめておこう!
 ナッシュビル・ムニシパル・コロシアムは現在でも「Musicians hall of fame and museum」の名で、“ナッシュビル・サウンド”関連の博物館兼ライブ開場として稼働中。右写真はストリートビュー2021年1月撮影。
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キング宿泊!の噂で繁盛していた知られざる人気ホテル
Area No.8/Serial No.103 スペンスマナー・ホテル(現スペンスマナー・コンドミニアム)
 エルヴィスのナッシュビルでの音楽活動情報は、上述した1973年7月1日の公演を最後に何も無いに等しい。生前最後に発表されたアルバム「ムーディー・ブルー」のスタジオ録音曲に関しても、「1977年1月にナッシュビルのスタジオが予約されていたが、結局何も録音されなかった」「そもそも、エルヴィスはナッシュビルに行っていなかった」「プロデューサーのフェルトン・ジャーヴィスはエルヴィス抜きでリズムトラックだけを録音した」等とあやふやな情報のみ。
 その一方で、エルヴィスの宿泊情報から新たなナッシュビル情報が発覚した。1974年にオープンしたスペンスマナー・ホテルをエルヴィスが利用していたというのじゃ。(左写真)エルヴィスが利用したことは音楽業界の中で知れ渡り、以降ジョニー・キャッシュ、ウイリー・ネルソン、フランク・シナトラ、エルトン・ジョン、、元ビートルズのメンバーたち、ケニー・ロジャースらがナッシュビルを訪れる度にこのホテルを利用するようになって大変に繁盛したらしい。エルヴィスが宿泊したという最上階604号室の扉にはエルヴィスの写真がディスプレイされておる。(下左写真)

 2019年に大幅にリニューアルされ、現在は長期宿泊者用のコンドミニアムとして再スタートを切った模様。各部屋には、数多くのカントリーシンガーたちの写真等が一般の宿泊客にも目ざわりにならない程度にセンスよくディスプレイされておる。オープン当時は正面外壁に見られたホテルの大きなロゴは現在外されておる。(下右写真、ストリートビュー2021年12月撮影)下中央写真は、宿泊者の一人だったカントリー界のスター、ウェップ・ピアスが寄贈したというギター型のプール。
 ホテル・サイトの一部には、「エルヴィスはRCA-Bスタジオを利用する度にスペンス・マナー・ホテルに宿泊していた」と紹介されておるが、もしこの記述全てが事実であるとすれば、エルヴィスが1974年以降にRCA-Bスタジオでレコーディングした未発表曲/未発表テイクがあるということじゃ!

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ッシュビルへご案内した時点で、これまでの訪問地の累計が100箇所を越えたバーチャル・ロックンロールツアー。何事も継続する根気やパワーが薄れて来たジジイのわしが、もう一度ロックンロールという果てしない魅力にあふれた荒野へと連れ戻してもらえたようで、The-Kingならびにビュワー諸君に心から感謝する次第じゃ。

 ところでだな、ナッシュビルをエルヴィスという基軸でもって調査を進めている最中ずぅ~と、他の地域の調査とは違った感覚に包まれておった。それは得体の知れない違和感というか、調査自体にはのめり込んでおるのにどこか肩透かしを食らっておる感じというか。実際にナッシュビルに居るわけでもないのにオカシナ感覚じゃ。
 例えばだ。メンフィスのエルヴィスゆかりの地を調べている時ならば、「ひょっとしてココで〇〇な事が起こっていたんじゃないか?」って閃き、実際に閃きが当たっていたり、閃きとは正反対の事実を突きつけられたりといったスリルを体験出来たりする。自分の予測がまったく的外れであっても、それもまた調査というアクションの快感なんじゃ。しかし、ナッシュビルの調査ではそうした体験があんまり無かったんじゃ。閃きも勘違いも起こることが少なかったと思う。

 その原因は未だに正確にはワカランのだけれど、多分それはナッシュビルという街が伝統的にカントリー&ウエスタン・ミュージックの聖地であるということじゃろう。恥ずかしながら、わしはカントリー&ウエスタン・ミュージックには造詣が浅いんじゃ。そのウィークポイントを、ナッシュビル調査の最中に再認識させられていたってことかもしれんな。
 もし諸君の中でカントリー&ウェスタン・ミュージックにのめり込んでおる方がいらしたら、その辺がしっかりバレてしまうはずじゃ。でも、エルヴィスゆかりの地を片っ端から訪れるスケジュールからナッシュビルを外すことは出来ないので、この度のナッシュビル編においてわしのツッコミの甘さを感じたらどうかご容赦頂きたい。“知ったか”だけはかましておりませんから(苦笑)

 って正直に恥をさらせば、あとは怖いもんなしじゃ!(笑)次回もかますぞバーチャル・ロックンロール・ツアー!引き続きご参加のほどをヨロシューな。
(右写真は1973年7月1日、ナッシュビル・ムニシパル・オーディトリアム公演でのエルヴィス)


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