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〇 1955年8月テキサス州オースチン × 1954年7月メンフィス・ボン・エア・クラブ Area No.51/Serial No.414 スポーツセンター跡地/オースチン まず、上写真2枚を見て、「あれ?これは本当にテキサス州のライブ写真?」ってソッコーで反応された方は、相当のエルヴィス・ライブ記録マニアじゃ。 この2枚の写真は数多くの私設エルヴィス・サイトにおいて、1954年7月14、24、31日にテネシー州メンフィスのボン・エア・クラブにエルヴィス&ブルームーン・ボーイズが出演したという記載記録に添付されることが多い写真じゃ。エルヴィスがサンレーベルからレコードデビューをしてから初のステージ写真の様に使用されておる。わしも長らく正確な撮影データが分からず、「バーチャル~」の記念すべき第1回目Point-4でボン・エア・クラブをご案内する際にあくまでも参考写真としながらも掲載した。この度、ようやくこのステージ写真の正体がテキサス州オースチンのスポーツセンター(上写真下段左側写真)であったことが判明したのじゃ。 では上写真上段2枚は本当にスポーツセンターでの撮影なのか?それは上写真下段右側写真と参照して頂きたい。これはオースチン公共図書館のウェブサイトで公開されている1枚であり、エルヴィスが同会場に出演した1955年8月25日の約一ヶ月前の7月21日、ここでルイジアナ・ヘイライドが開催された時のジミー&ジョニーなるカントリー・デュオの写真。2枚の写真の背景や天井板の鉄骨がまったく同じであることから、エルヴィスの写真2枚は間違いなくスポーツセンター出演時のショットであることが分かる! また余談ながらオースチン公共図書館は、我々エルヴィス・ファンならチョイト注目しておきたいもう1枚の写真(右写真左側)も公開しておる。それは同じく7月21日のルイジアナ・ヘイライド開催時(エルヴィスの出演はなし)の観客席のショットであり、これは映画「エルヴィス」のヘイライド・シーンの客席セット(右写真右側)とほぼ一緒!映画のあのシーンはこの写真をもとに客席セットが作られたのではないか!(と思う~笑)2色のタイル張りの床がオシャレ!(The-Kingのオフィスと同じじゃあ~♪) 尚今更ジローラモではあるが、トップ写真右側のショット後方にはドラマーのDJがはっきりと写り込んでおる。1954年7月のボン・エア・クラブ出演時にはDJはブルームーンボーイズにまだ参加していなかった!やはり古い資料、写真というのは隅々までよりしっかりとチェックせんといけませんな! DJが正式にブルームーンボーイズのライブに参加した日付は未だに正確に認定されておらんが、遅くともこのオースチン・スポーツセンターのライブを含む1955年8月のテキサス州ツアーあたりからではないかとされておる。 日に日にエルビスのライブが熱狂化していくに従って、サウンドをより強力にするためにスコッティとビルは凄腕ドラマーの参加をエルヴィスに訴えており、エルヴィスは「それは充分に分かっているが、まだドラマーにギャラを払えるほどギャラが高くないんだ」と語っておったそうな。当時のブルーブーンボーイズの取り分は、エルヴィスが全ギャラの50%、スコッティとビルが25%づつであり、とりあえずDJを週給100ドルで雇い入れることになった。この100ドルはエルヴィス、スコッティ、ビルが私的に負担しておったらしい。DJの給与が正式にマネージメント側から支払われるのは1955年12月からだったとSMWに記載されておる。 オースチン・スポーツセンターは1970年にアルマジロ・ワールド・ヘッドクォーターという新しいエンターテイメント会場として生まれ変わって別の場所に移転。跡地には現在屋内駐車場とレンタル・オフィス・ビルが合体した巨大なビルが建てられておる。右写真ストリートビュー2022年7月撮影。 |
3大カントリー・スターが駆け抜けて行った伝説のミュージック・クラブ Area No.52/Serial No.415 スカイライン・クラブ跡地/オースチン 1948年にオープンしたオースチンのハイウェイ沿いにあるホンキートンクバーがスカイライン・クラブ(左写真)。当時のルイジアナ・ヘイライドのレギュラー組が数多く出演したクラブとして古くからのカントリー&ウェスタンのファンには知れ渡っていたクラブだという。 またカントリー&ウェスタンとそこから派生したロカビリーが生んだ時代の異なる3人のスターが出演したことでもスカイライン・クラブは名高い存在じゃった。 まずハンク・ウイリアムス。エルヴィスがデビューする前のカントリー&ウェスタン界の若きスター。 更にジョニー・ホートン。エルヴィスの兵役時代、1950年代末期から60年代にかけてカントリーとロカビリーをミックスさせたヒット曲を何曲か飛ばした。このハンク・ウイリアムスとジョニー・ホートンの最後の公式なライブ出演とされておる場所がいずれもスカイライン・クラブなのじゃ。 そしてもう一人のスターがエルヴィス。1955年10月6日にスカイライン・クラブに出演しておる。残念ながらネット上で発見できたエルヴィスのライブ写真は左写真の1枚のみ。 スカイライン・クラブはオープン当時は収容人員250人程度の小さなクラブであり、エルヴィスが出演した当時は500人が入場可能まで拡張されたという説もある。天井やステージが低く、出演ミュージシャンと観客との間に独特の一体感が生まれたクラブだったそうで、ウイーク・デーに催される“10セント・ビール・デー”の時には周辺に交通渋滞を引き起こすほど、店の前に客の停めた自家用車がひしめき合うほど混雑しておったという。 なおエルヴィスがスカイライン・クラブに出演した1955年10月当時のライブ記録は、ライブの詳細よりも、SMWもEDDもギャラに関するボブ・ニール(&パーカー大佐)とバンドメンバーとのトラブル・エピソードが頻繁に登場する。スコッティやビルにとって深刻な問題だったのだろう。 1955年10月当時は、既にエルヴィス50%、スコッティ&ビルが25%づつという約束事は事実上無効にされており、ギャラの総額に関係なく、スコッティ&ビルは週給200ドル(ライブの無い週は100ドル)に抑え込まれてしまった。スコッティは「パーカー大佐の強引な指示だ」と異を唱えたが、ボブ・ニールは「エルヴィスが下した決定だ」と突っぱねたという。しかしスコッティは亡くなるまで「エルヴィスが我々にあんなはした金で仕事を強要するはずがない」と主張しておったらしい。 1989年まで営業を続けたスカイライン・クラブは、廃業後はしばらく空き家になっており、お店のシンボルだった巨大なネオンサインも野晒しにされたままじゃった。 近年「CVS」という大手薬局チェーン店の店舗が跡地に建てられて、ネオンサインは別の場所にある野外カフェのガーデンの中に移設された。(右写真左側)右写真右側はストリートビュー2022年3月撮影の跡地の模様。 |
オースチン・ラストライブは大盛況。“オープリーの恥”ももはや遠い過去! Area No.53/Serial No.416 シティ・コロシアム跡地/オースチン エルヴィスの下積み時代とは、イコール・テキサス巡業と言っても過言ではなく、1954年暮れから1955年いっぱいにかけての“テキサスドサ周りツアー”のスケジュールはまさに殺人的じゃった。そんな苦難の季節も1956年初頭のRCAとの大型契約によって終わりに近づいてきた。1955年は実に100回を越えたテキサス州のライブも1956年には約20回に激減。1956年1月18日はオースチンにおける最後のライブ(4回目)となった。それはまた、ハンク・スノウら先輩シンガーのサポート・アクト(実質的にはメイン・アクトじゃが)としての出演の最終スケジュールでもあった。 またこの日は、かつて初主演の際に大恥をかいてメンフィスに逃げ帰ることになった屈辱のグランド・オール・オープリーのエキストラ(リモート・ライブ)出演でもあった! 1956年1月18日といえば、丁度10日前にはナッシュビルのRCAマクガヴォック・スタジオで『ハートブレイク・ホテル』、『アイ・ガット・ア・ウーマン』、『マネー・ハニー』をレコーディングしており、DJフォンタナがはじめてエルヴィスのレコーディングに参加した時じゃ。既にブルームーン・ボーイズの正式メンバーとなったDJは、この日のライブ前にちょいとエルヴィス・ファンへサービスをしておるエピソードがSMWに掲載されておった。 ルイジアナ・ヘイライドをはじめとして、エルヴィスのおっかけをやっておった女の子がライブ前に会場でエルヴィスを待ち伏せしておる姿を見たDJは、エルヴィスが入って来る場所を教えてあげて、更に彼女をバックステージに入れてあげたというオハナシ(笑)その時の彼女とエルヴィスのショットが左写真じゃ。 SMWのライブ情報をチェックしておると、DJのこうしたエルヴィス・ファン・サービスを時たま発見する!とてもお優しい方だったのじゃろうな~(笑) この日の他のエピソードしては、エルヴィスがホテルの部屋に行くと、“靴磨き”の少女が待っていたという!?しかも彼女はエルヴィスに決して自分の素性を明かすことなく、自らの身分を“奴隷 slave”と言ったそうな。黒人女性だったのか?まだテキサスに奴隷扱いされている少女がおったのじゃろうか?それとも彼女は“エルヴィスの奴隷(熱狂的ファン)”とでも言いたかったのか? いずれにしても何とも不思議な話であり、驚いたエルヴィスは彼女から強引にお財布を取り上げて(身分証明書を確認するため?)、彼女の生まれ故郷(テキサス州サンアントニオ)を突き止めてから、彼女を送り返してあげたんだそうじゃ。 肝心のライブに関しては、SMWは“レコーディングしたばかりの新曲を披露し、それまでのオースチン、グランド・オール・オープリーでは決して聞くことの出来ないレベルの素晴しい演奏、盛り上がりだった”とだけ記載されておる(笑) オースチン最大のイベント会場して、数多くのビッグロッカーのライブを開催し続けたシティ・オーディトリアムは2002年に閉鎖、取り壊しになっておる。その跡地は完全に整地されて、現在は広大な緑地公園になっておる。右写真ストリートビュー2022年3月撮影。 ちなみに、先述したArea No.51スポーツセンター跡地までは徒歩10分程度の距離じゃ。 |
“フレッド・アステアが踊った樫の木のステージを、 トゥペロから来た若い青年がブルースゥエードシューズで彩った” Area No.54/Serial No.417 ミュニシパル・オーディトリアム/スイートウォーター スイートウォーターという、またまた日本人にはまったく馴染みのないテキサスのマイナーな街へご案内するぞ(笑) 大都市ダラスの真西約350キロの位置にあり、地図上ではダラスからスイートウォータへ移動途中にフォートワース、ブレックンリッジ、さらにスイートウォーターの西にはビッグスプリング、ミッドランドといった既に「バーチャル~」でご案内済の街がある。(当ページ目次コーナー内の地図参照) 上記したダラスから西へ連なっているエルヴィスゆかりの地の中では、このスイートウォーターが1950年代にはもっとも人口が多く(1万人以上)、街が賑わっておったそうじゃ。19世紀の終わりから20世紀にかけて3つの大きな鉄道路線がスイートウォーターに乗り込んでおり、 鉄道の街としてスイートウォーターは繁栄しておった。常に続々と人々が乗り込んでくるために巨大な電力の供給が必要となり、発電用の大きな人造湖まで造られたそうじゃ。 エルヴィスは1955年6月9日、12月16日にスイートウォーターのミュニシパル・オーディトリアム(左上写真)でライブを行っておる。この会場は現在でも健在であり、直営のウェブサイトに次のような記述がある。 「鉄道の街らしく、古くから数多くの旅芸人一座がスイートウォーターにやって来ており、1950年代頃よりミュージシャンたちもその仲間に加わるようになった」 「数多くやってきた芸人たちの真打ちがキング・オブ・ロックンロールのエルヴィス・プレスリーである。エルヴィスの魂がミュニシパル・オーディトリアムを去ったことはない!」 旅芸人の中にはフレッド・アステアやジョン・フィリップ・スーザといった舞台芸人の巨人もおったそうで、ミュニシパル・オーディトリアムのエンターテイメント・ヒストリーの〆の表現としてウェブサイトは以下の様に記しておる。 「かつてフレッド・アステアが踊った樫の木のステージを、トゥペロからやって来た若い青年がブルースゥエードシューズで彩ってみせたのだ!」 また1955年6月9日のライブは前日の悪天候のためにキャンセルになったライブの振替ライブであり、その告知が左写真右側。 1970年代に入ると、スポーツイベント以外では稼働率が大幅に下がり、一時期は存続の危機に陥ったオーディトリアムだったが、人気を博した舞台演劇一座が登場したことにより再び活況を迎えることに。建物全体が見事にリノベーションされて現在に至っておる。右写真ストリートビュー2021年9月撮影。エルヴィスのステージ写真が発見されれば、更に評判が上がるに違いない! |
エルヴィスがゴスペルのみ歌った唯一の50sライブ Area No.55/Serial No.418 ホッジス・パーク/デ・レオン 当地のホッジス・パークという公園の中にステージがセットされたと思われるライブは、エルヴィス単独ライブでもなく、それまでのミュージック・ジャンボリーの一員としての出演でもなく、「バトル・オブ・ソングス」というゴスペル・グループが集ったミュージック・イベントじゃった。これは当地の市長であり、ゴスペル・ミュージックのプロモーターの第一人者だったNBナウリンが企画したイベント。エルヴィスは4曲のゴスペルを歌っただけで、ロックンロール・パフォーマンスはまったく披露しなかった50年代の唯一のステージとされておる。(Wikipediaのデ・レオンの案内ページにも記述あり!)歌われた曲は、「The Old Wooden Church」 「Precious Memories」「Known Only To Him」 「Just A Closer Walk With Thee」。 ネット上で拾えたこの日のエルヴィス情報は上記の内容のみ。その他はホッジス・パークの当時の写真すら見付けることが出来なかった。「バドル・オブ・ソングス」の広告は下左写真。 “ゴスペルのみ”“のトリプルヘッダーというエルヴィス史上実に希少な話題があるにもかかわらずこの情報量の少なさにガッカリしてしまったので、エルヴィスとゴスペルの関係をちょいと調べてみたら興味深いな周辺情報が! この日エルヴィスと共演したゴスペル・グループの中にブラックウッド・ブラザース(上写真中央、右側)の名があり、元々エルヴィスはこのグループが大のお気に入り。サンレーベルからのデビュー前からブラックウッド・ブラザースのコンサートに出かけてメンバーとも個人的に親しかったという。(EDDより) やがてブラックウッド・ブラザースから派生したソングフェローズというグループのオーディションにエルヴィスは参加しておる。これは「That's All Right」レコーディング前のオハナシ。このオーディションはエルヴィスはコーラスにうまく馴染めず(幸運にも?)合格しなかったものの、エルヴィスのソロシンガーとしての歌唱力の素晴らしさはソングフェローズからブラックウッド・ブラザースに伝えられることに。 1954年4月ブラックウッド・ブラザースのメンバー2人が飛行機事故で亡くなった後、エルヴィスの元にブラックウッド・ブラザースから参加要請が舞い込んだが、エルヴィスは既にサンレコードからレコードデビューをしており、ゴスペルではなくロックンロールの道に進むことを決意した後だったので、結局ブラックウッド・ブラザース参加は幻になったという経緯があったのじゃ。 ホッジス・パークでの「ソング・オブ・バトル」は前年に亡くなったブラックウッド・ブラザースのメンバーへの追悼公演の意味合いもあり、エルヴィスは敬愛する亡き旧友たちのために友情出演したようじゃ。ちなみに某サイトには、NBナウリンや観客はゴスペルしか歌わなかったエルヴィスにガッカリしたという記述もあった(笑) デ・レオンのホッジス・パークでのライブの周辺情報はある程度つかめたが、トリプルヘッダーの残り二ヵ所、スティーブンヒルとブラウンウッドのライブ情報はほぼ皆無。ここでは通常のロックンロール・ライブだったのか?それともホッジス・パーク同様にゴスペルのみだったのか? ちなみにSMWの「Tour Dates - The Elvis years」においては、この三ヶ所とも出演記録があり(左上写真)、少なくともエルヴィス単独出演ではなかったようじゃ。しかしながら、発見された新聞広告にはエルヴィスの名前のみ記載されて、スコッティとビルの名は無し??? ホッジス・パークは現在でも存在しており、デ・レオンの街の中心地から10キロほど離れた平原地帯の中にある。ストリートビューは入り込んでおらんので空撮写真を代わりに掲載しておこう。(右写真)一応Google-mapでは「公園」とされておるが、空撮写真を見る限りでは周囲の道路は舗装もされておらず、公園というよりも家畜を放牧しておるような一画であり、レクリエーションとして利用されておる様には見えない。 |
50sライブ最南端の地で起こった反エルヴィス騒動 Area No.56/Serial No.419 メモリアル・オーディトリアム/コーパス・クリスティー 再三ご紹介してきた通り、エルヴィスが1955年に100回以上もライブを行ってきたテキサス州はエルヴィスにとっては一種の第二の故郷。特筆されるような暴動も排斥運動もテキサス州内では起こらなかった。 しかしエルヴィスがビッグスターになった後、1956年4月16日にメキシコ湾岸の街コーパス・クリスティーで行われたライブ前後にはいわばお約束の反エルヴィス騒動が勃発した記録が残っておる。 ライブの5日前、4月11日にチケット発売の報が現地で発表され、約6,000枚のチケットはあっという間に完売!否が応でもエルヴィス熱が高まる中、コーパス・クリスティーの公共建築管理者の一人が“お決まりの”「若者を暴徒化させるロックンロールへの懸念」をマスコミに報道させた。 しかし他のマスコミは概ねエルヴィスには好意的であり、「近年稀に見る才能のあるエルヴィスの音楽は、様々な音楽ジャンルのDJたちにも指示されている」とまで報道されることもあった。ライブの熱狂は言うに及ばずであり、ライブ後も好意的なレビューばかり。しかも心配された警備側の混乱もなかったことまで報道された。 ここで“おさまりが付かなくなった”のが先述した公共建築管理者。ライブ2日後に「会場に集まった女の子たちの付き添いの保護者たちから“下品なコンサート”という非難が会場に殺到した」「下品な言動を行ったエルヴィスを告発するべし」「今後、オーディトリアムにロックンロール・バンドを出演させるべきではない」と反撃を開始! その後マスコミによって“下品な言動”に関して事実確認調査が行われ、“下品な言動”の張本人はエルヴィスではなく、サポート・アクトの一人であったことが判明し、エルヴィスは晴れてシロであることが証明された。その後この騒動は時のエルヴィス・フィーバーの熱い波に飲み込まれるかたちで終結したそうな(笑)それでも同年10月のテキサス・ツアーの際にコーパス・クリスティーがブッキングされなかった原因のひとつに、コヤツが再びしゃしゃり出てきて妨害したという説もある!? ちなみにコーパス・クリスティーでは、前年の1955年7月3日、先述したArea No.55のトリプルヘッダーにエルヴィスが奔走した前日に「ホーダウン・クラブ」でエルヴィスはライブを行っておる。メモリアル・オーディトリアム(左写真)の僅か8ヶ月前のライブだが、この時は特に何の騒動もなし。1955年と1956年とは、エルヴィスを取り巻く環境が激変しておったということじゃろう! 1954年に開場となったメモリアル・オーディトリアムは、開場当時は建築工学的に非常に優れた建物であったらしく、Wikipediaによると、1955 年にブリタニカ百科事典のブック オブ ザ イヤーの「建築と建設」セクションに掲載された。また1958年、カーネギー米国芸術研究のために写真家のジョン ・ガマンによって建物が撮影されるという栄誉を受けておる。この建物が選ばれた理由は、「アメリカ建築史における重要性」と「美しさと機能性の融合に成功している」とのことじゃった。ほんの一部の保守派の大人たちから「エルヴィスやロックンローラーなんぞに使用させるな!」との声が上がったのも分からなくもない当地ご自慢の建物であったようじゃ。 なおメモリアル・オーディトリアムはネット資料によってはメモリアル・コロシアムの名称であり、長らく大規模なイベント会場として稼働した後、2010年に解体されておる。跡地は整地されて、現在はメキシコ湾を臨む海岸線沿いの公園、ザ・グレート・ローン・アット・ザ・ウォーターズ・エッジになっておる。右写真ストリートビュー2015年9月撮影。 またコーパス・クリスティーは1950年代にエルヴィスがライブを行った場所としては、アメリカ合衆国内最南端、メキシコとの国境まで直線で約240キロの地であった。 |
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