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ビバ!ラスベガス&カムバック・トゥ・ロックンロール!? Area No. 7/Serial No.396 フラミンゴ・ホテル&カジノ エルヴィスの生涯において、ラスベガスといえばまずは映画「ビバ!ラスベガス」を連想するのは、古くからの筋金入りのエルヴィスファンじゃろうな。「ビバ!ラスベガス」はその名の通り、シーンの中に現実のラスベガスが数多く登場し、他の映画に比べて割とロケ地が探しやすかったこともあって、今回は三ヶ所のロケ地へとご案内しよう。 「ビバ!ラスベガス」は終始スクリーンいっぱいに若さ溢れるエルヴィスと女優のアン・マーグレットという2大スターが躍動するので、初期のエルヴィス映画と思いがちじゃが、公開は1964年であり、エルヴィスにとって15作目(公開順)に当たる作品じゃ。 まずもっとも有名なロケ地は「フラミンゴ・ホテル」(左写真)じゃ。上写真左側のエルヴィスがアン・マーグレットにセレナードを歌うシーン、また上写真右側のプールの飛び込み台からエルヴィスが突き落とされるシーンが殊更印象深い場所じゃ。 その他のシーンにおいても、飛び込み台のあるプールサイドでは様々なアングルからエルヴィス&アンが撮影されておる。 人気の高い映画だけに多くの英字サイトでロケ地の撮影場所が記載されており、一部のサイトではフラミンゴ・ホテルの名はなく、代わりに隣のトロピカーナー・ホテルの名前が記載されておって、少々紛らわしい!?しかしトップ写真2枚のシーンは間違いなくフラミンゴ・ホテルでの撮影じゃ。左側写真の背景に写るピンク色の建物の庇にはFlamigoの文字が見える。また1960年代の同ホテルの写真には、中庭にプールがあり、白い飛び込み台が設置されておるのが確認出来る。(上写真右側、赤丸部分)。 フラミンゴ・ホテルとエルヴィスとの関わりをもうひとつ。1968年4月6日同ホテルで開催されたトム・ジョーンズのショーにエルヴィスが現れ、最前列の座席でショーを鑑賞したエルヴィスは、その後バックステージへプリシラ同伴でトムを訪ねておる。(左写真右側) エルヴィスはこの日のトムのショーをいたく気に入り、「ハートに火を付けられた!」とトムに伝えたという。音楽シーンへのカムバック願望を駆り立てられたエルヴィスは、さらに「あの老人(パーカー大佐)に、ツアーをまた始めるべきだと伝えることにするよ!」とまで語ったという。 さらにエルヴィスはトムのバンドのギタリスト、ビル・パーキンソンのプレイにも感動したようで、ギターソロの最中は立ち上がって拍手を送り続けたそうじゃ。バックステージではエルヴィスはパーキンソンへ直に賛辞を贈り、音楽活動を再開した際にはバンドへの参加要請までしたという。パーキンソンは「その時点ではエルヴィスよりもトムとの活動が魅力的だったので、エルヴィス・バンドの件は断ってしまった。私の人生において最大のミステイクだった」と語っておる!なお上写真左側は、1年後の1969年6月10日フラミンゴ・ホテルでのトムのショウのバックステージに現れたエルヴィス。よほどトムを気に入っておったのじゃろう! フラミンゴ・ホテル&カジノは大型化を続けながら現在でも存続しており、客室数3,000を越える超巨大ホテルであるが、1946年のオープン当時の客室数は105。それでも当時はラスベガスで最大、かつ豪華なカジノ&リゾートホテルだったという。フラミンゴという名は設立当初のオーナーのガールフレンドの脚が長かったことから命名されたらしいが、これはどうやら都市伝説。真実は長庭に生息しているフラミンゴが“吉兆”のシンボルであるという謂れをホテル名に転用したらしい。写真右側は2017年4月撮影。 |
ラスヴェガスNo.1パワースポット! Area No. 8/Serial No.397 リトル・ウエスト・チャーチ こちらは「ビバ!ラスベガス」の中で、エルヴィス&アンの結婚式シーンで使用された、結婚式用の礼拝が行われる教会じゃ。エルヴィスのゴスペルアルバム「ゴールデン・ヒム」のアルバムカバー用に撮影されたマサチューセッツ州のファースト教会同様に、アメリカでもっとも写真撮影されておる教会じゃろう! リトル・ウェスト・チャーチはまるで映画撮影のために建てられたような小さなかわいらしい教会であり、1943年にラスト・フロンティア・ホテル(後のニュー・フロンティア・ホテル)の複合施設としてホテルの敷地内に建立されてから、現在まで3回移転しておる。移転の都度、オリジナルの建物はそっくりそのまま大型トレーラーに積まれて移動された。 最初の移転は1954年ラストフロンティア・ホテル敷地内の南側へ。「ビバ!ラスヴェガス」の撮影は、この最初の移転場所で行われた。(下写真左側) 二度目の移動は1978年、ホテル内の敷地の大改造により、ハシエンダ・リゾートへ。下写真中央は、ラストフロンティア・ホテル敷地内から建物が運び出された様子じゃ。現在ラストフロンティア・ホテルのあった場所周辺は「」ファッション・ショー・ラスベガス・モール」という巨大なショッピングモールが建てられており、リトル・ウエスト・チャーチが設置されていた場所はショッピングモール北東角とされておる。モール内のEmporio Armani Uomo Las Vegas Neiman Marcusという大型ブティックが入っておる位置辺りと思われる。 更に二度目の移転先ハシエンダ・リゾートが閉鎖になった後、1996年に現在の場所に移転してきた。(下写真右側、ストリートビュー2015年3月撮影) 修復が施されておるものの、約80年前のオリジナルの建物そのものが現存しておる。ラスベガスでもっとも古い建物というフレコミであり、アメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されておる。“エルヴィスの結婚式が行われた”ということで、今でもここで式をあげる新婚さん、また結婚記念日を祝うご夫婦は後を絶たないそうじゃ。幸せなカップルにとっての、ラスベガス一のパワースポットになっておる!
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エルヴィス&アン・マーグレット永遠の強烈コンビネーションが炸裂したロケ地 Area No.9/Serial No.398 UNLVジムナジウム アン・マーグレットが踊り出すと、共演者をスクリーンの外へはじき出してしまうほどの素晴しい存在感を放ったが、唯一彼女に対抗出来た共演者はキング・オブ・ロックンロールのエルヴィス・プレスリーだった。 エルヴィスの映画だろうが音楽だろうが、共演者の力量の方が比較対象になってエルヴィス賛辞を成立させた共演者はアン・マーグレットだけではないじゃろうか!?同じようなプロットで延々と出演を強要されていた俳優時代のエルヴィスも、「ビバ!ラスヴェガス」に対してはアン・マーグレットとの共演に心血を注ぎ、同作をエルヴィス映画の最高峰に仕立て上げたのじゃ。 エルヴィスとアンとのあまりの相性の良さに、二人の仲を取り沙汰するマスコミが後を絶たなかったほどじゃ。当時エルヴィスと婚約中だったプリシラは、マスコミの憶測による記事の数々に「当時は随分と困惑した」と自伝の中に記述されておるそうじゃ。 上写真3枚は、そんなエルヴィスとアンとの息の合ったツイン・ダンス・シーンであり、プリシラが困惑した(嫉妬した!?)のもうなずける見事なコンビネーションが伝わってくる!この撮影が行われた場所が、UNLV(ネバダ大学ラスヴェガス校)ジムナジウム(体育館)であった。(左写真) UNLVは1951年に教授1人、学生12人だけで開校された小さな分校であり、ラスヴェガス高校の校舎を間借りしていたらしい。1957年に正式に大学としての認可を受けて現在の場所に移転。ジムナジウムは当初バスケットボール・コートとして使用されておった。創立から70年を越えた現在は、3万人を超える学生が在籍するネバダ州最大の総合研究大学に発展を遂げておる。 現在ジムナジウムは「マージョリック・バリック美術博物館」に改造されて現存しており、エルヴィスとアンが躍動した寄木細工による木製の床は当時のまま現在でも使用されておる。静かに芸術品を鑑賞する空間なので、エルヴィスの真似をしてダンスしたら警備員に摘まみだされてしまうじゃろうな!(笑)右写真左側はストリートビュー2017年5月撮影の博物館入口。右側は内部写真。 |
博物館行きネオンサイン“ELVIS SLEPT HERE” Area No.10/Serial No.399 ノルマンディ・モーテル跡地 全米各地で「ELVIS SLEPT HERE」(エルヴィスはここに泊まった)、「ELVIS ATE HERE」(エルヴィスはここで食事をした)と看板に表記された小さなモーテルやレストランをネット上で見付けてきたが、その信憑性は低い場合が多い。まあ「エルヴィスが~」という文句がいかに宣伝効果絶大であるかを物語っておるんで、諸君へのご紹介には至らずも、チェックしているだけで楽しいことには変わりはない! ラスベガスにもそうしたモーテルやレストランが幾つかあるようじゃが、その中でもっとも有名なモーテルが「ノルマンディ・モーテル」じゃ。 「エルヴィス云々」は別として、このノルマンディ・モーテルが名高い理由は、モーテルが営業されていた期間に掲げられていたネオンサインが、夜のラスヴェガスを彩るサインボード・プロジェクトのシンボル的な作品のひとつとされておるからじゃ。 このネオンサインは1950年代に活躍した著名なネオン・アーティストのベティ・ウィリスによってデザインされ、ノルマンディー・モーテルが営業していた2000年まで設置されておった。モーテルが取り壊された後、ネオンサインはラスヴェガス中心地の北端にあるネオン博物館に寄贈されたという。 下写真左側は、夜のラスベガス通りに浮かび上がった、モーテル存在時のネオンサイン。下写真中央は、2000年のモーテル取り壊し直後の写真。ネオンサインはまだ残っておるのが分かる。 ノルマンディー・モーテルがまだ存在していた頃のネオンサインのビンテージ写真をチェックし続けてみると、少なくとも1970年代初頭からのほぼすべての写真に「ELVIS SLEPT HERE」という文字が表示されておる。エルヴィス宿泊が事実だったとすれば、それは1969年ラスベガス公演をスタートさせた頃じゃったのか?ちなみにインターナショナル・ホテルまでは僅か3キロ弱にあったノルマンディ・ホテル。深夜公演が終了してから、エルヴィスがふらりと一人で出かけた際に・・・?こうした都市伝説的なエピソードは、遅くとも建物が存在しておる間に真相を解明しておくべきじゃなかろうか?何やっとんたんじゃ、ヴェガスのマスコミは!喝じゃ!! 下写真右側はストリートビュー2023年2月撮影の跡地。何も建てられておらずに駐車場になっておる。某サイトには「ここにエルヴィスが泊まったモーテルがあった」ことを伝える記念碑が2012年に建てられたと記載されておったが、ストリートビュー上では記念碑的な物は確認出来なかった。 【注意!】 さて、「ELVIS SLEPT HERE」の表記を含むノルマンディー・モーテルの看板じゃが、今でもネオン博物館に展示されておると決めつけておったところ、私設ラスベガス情報サイトのひとつに、この看板がラスべガス通りの一画にある「ザッポス」という名の企業ビルの近くに設置されておると掲載されておった。試しにストリートビューで探してみたところ事実であった。 「ザッポス」ビルの前を走るラスベガス大通りをビルの入口付近から北約80メートルの位置の中央分離帯にこの看板がたてられておるのじゃ。近くにモーテルもなく、何の目的でこの位置にあるのかはまったく不明ではあるが、現物は今も確かに存在しておる!(右写真ストリートビュー2023年5月撮影) |
エルヴィスの結婚披露宴を、当日急遽セッティングしてみせたホテル Area No.11/Serial No.400 アラジン・ホテル跡地 アラジン・ホテル(左写真)は、“映画の中”ではなくて、エルヴィスの実生活における本当の結婚式が行われたホテルじゃ。 1967年5月1日午前9時40分、32歳のエルビスは、アラジン・ホテルの2階のスイートルームで21歳のプリシラ・アン・ボリューと結婚披露宴を行った。当初、カリフォルニア州パームスプリングスにあるエルヴィスの別荘で披露宴を挙げる予定だった。しかし、手に負えない記者たちがそこに集まり始めたので、披露宴スタート開始11時間前に急遽予定変更となったのじゃ。 エルヴィスとプリシラは当日午前2時半にフランク・シナトラのリア・ジェットに乗り込み、その1時間後にクラーク郡事務局で結婚許可証を取得。パーカー大佐は、懇意にしておったパームスプリングスの隣人であり、アラジン・ホテルのオーナーだったミルトン・プレルにアラジンホテルでの結婚式開催を依頼した。大スターの結婚式直前に豪華な式場をさらりとブッキング出来てしまう大佐って、やっぱりスゴイマネージャーじゃのお~。 午前10時前、ネバダ州最高裁判所のデビッド・ゼノフ判事により、アラジンホテルでエルヴィスの側近約14人の見守る中、まずは夫妻のプライベート的な正式な結婚式が取り仕切られた。その後、パーカー大佐はレセプションパーティー兼記者会見(披露宴)を行うよう手配。アラジン・ホテル2階スイートでビュッフェ形式で提供されるシャンパン・ブレックファストのために10の円卓を用意。100人のスペシャルゲストを招き入れた。 ウエディングケーキはケーキは黄色いスポンジで作られ、アプリコットマーマレードとキルシュ風味のババロアクリームが詰められ、キルシュ風味のフォンダンアイシングで冷やされた高さ5フィートの6段の特製ケーキ。周囲には1600本もの薔薇がセットされていたという説もある。エルヴィスの友人の多くがこの披露宴には招かれなかったために、エルヴィス夫妻はすぐにグレースランドに戻って2回目の披露宴を開いた。 アラジン・ホテルは1998年に閉業、解体された。2000年、その跡地にさらに大きなニュー・アラジンがオープン。そのリゾートは2007年から「プラネット・ハリウッド・カジノ&リゾート」と改称されておる。右写真ストリートビュー2023年2月撮影。 |
天国か地獄か。エルヴィスにとって功罪相半ばした世界最大級のホテル Area No.12/Serial No.401 インターナショナル・ホテル エルヴィスが約7年間にわたって636回連続ソールド・アウトという空前絶後のロングラン記録を達成した、ラスベガス史上最大かつ1990年代までは世界最大の規模を誇ったホテル&カジノ・リゾート、それがインターナショナル・ホテルじゃ。(左写真) インターナショナル・ホテルにおけるエルヴィスのエピソードは枚挙にいとまがなく、情報量自体が膨大なので、ここはwikipediaの要約を編集、転載しておくので、筋金入りのエルヴィス・ファンの諸君もかる~く復習しておいてくれ。(上写真3枚は、1969年7月31日インターナショナル・ホテル初主演時の撮影) 【以下wikipedia原文の抄訳編集による転載】 「インターナショナル・ホテルは1969年7月2日にオープン。当時、ネバダ州で最も高く、最も大きなホテルだった。ホテルの名前にふさわしく、客室は国際色豊かな内装で、各フロアはスペイン、イタリア、フランスをテーマにしていた。また、バイエルン料理、イタリア料理、日本料理、メキシコ料理などの国際色豊かなレストランもあった。従業員は、スコットランドのキルト、スラブのシャツ、フランスの憲兵の制服など、さまざまな文化の衣装を身にまとっていた。」 「1969年7月31日、エルビス・プレスリーは、このホテルで7年間続いた最初のショーを行った。プレスリーの前にインターナショナル・ホテルに出演していたパフォーマーの多くは、自分たちの見通しが狂ったことに憤慨。コメディアンのチャック・ラフィルは、この計画に激怒し、建設中のプレスリーの楽屋を破壊し、ホテル幹部に暴力をふるうと脅したと伝えられている。」 (左写真は、完成間近のホテルの建築現場を訪れ、その場で出演契約書に署名したエルヴィス) 「エルヴィスは最初は4週間の出演契約を結んだ。それは彼にとって8年ぶりの公のステージ出演となった。プレスリーのショーは人気を博し、ホテルはすぐに彼と5年契約を結び、1年に2回、1ヶ月の公演を行った。彼はその後、1969年から1976年まで、このホテルで合計636回の公演を行い、すべての公演が完売した。プレスリーのヒルトンでの公演は、1977年8月の死によって打ち切られた」 「1970年と1971年には、ホテルはインターナショナル・レジャー株をヒルトン ホテルに売却。インターナショナルは、1971年7月に「ラスベガス ヒルトン」に改名された。ヒルトンは 1972 年に完全所有権を取得し、インターナショナル・レジャーのすべての発行済み株式を取得するに至る。 このホテルはインターナショナルとしての初期の業績にはばらつきがあったが、ヒルトンに譲渡されてからはすぐにラスベガスで最も成功したホテルとみなされるようになった。620 室を備えたイーストタワーの増築工事は 2,000 万ドルをかけて1975 年に完成。1977 年には、750万ドルをかけて最大 5,000 人収容可能なスポーツやエンターテイメント イベント用の「ヒルトン・パビリオン」をオープン。更に2,300 万ドルをかけて北タワーに644 室が追加された」 (以上wikipediaの要約による抄訳) ホテルとの長期出演契約中、エルヴィスは30 階の460平方メートルのインペリアル・スイートに滞在しておった。映画「エルヴィス」で重厚に描写されていたように、同じようなショウの繰り返しと海外ツアーを巡っての大佐との激しい対立。更に“おくすり”の過剰な服用がもたらす健康状態の悪化など、このスイートでの生活はエルヴィスの心身を静かに蝕んでいった。またエルヴィスは、テレビ、シャンデリア、照明のスイッチなど、無防備な物体を銃で撃ち壊すという危険な習慣に耽っていたのもこのスイートじゃ。それでもエルヴィスの死から数年後、このスイートは「エルヴィス・プレスリー・スイート」と改名され、観光客向けのラスヴェガス・ツアーの人気コースにもなった。やがてスカイ・ヴィラとしてをあらたに改築されることになり、 1994 年に取り壊しになっておる。 ちなみにパーカー大佐は、エルヴィスの死後数年間ヒルトンに滞在し、残りの人生のほとんどをエンターテイメント・コンサルタントとしてホテルに欠かせない存在になっておった。もっともホテルでのギャンブルによる巨額の借金の返済に追われていたのかもしれない!? インターナショナル・ホテルでの初演の翌日(1969年8月1日)、ホテル内で記者会見が行われておる。(左写真)その際、エルヴィスは「ライブを行うことが待ち遠しかった」「三週間のリハーサルを終えて、選曲を含めて準備万端である」と述べ、また出演してきた映画の脚本やサウンドトラック用のレコーディングにうんざりしていることも素直に吐露しておる。ようやく自分自身が納得出来る場所(ライブ会場)に回帰出来たことの喜びがダイレクトに伝わってくるインタビューじゃ。しかしミュージシャンとしての回帰地点が、後々身動きの出来なくなる場所、ロングラン契約による激しいストレスに苛まれる場所になってしまうとは、何とも皮肉なオハナシじゃ。 エルヴィスに更なる巨額の富をもたらし、同時に“緩慢な死”の遠因にもなってしまったインターナショナル・ホテルは、真摯にエルヴィスの音楽を愛するファンにとっては極めて複雑な存在じゃ。しかしヤンキー・スタジアムが「ベーブ・ルースが建てた家」と呼ばれ続けておるのと同様に、この世界最大級のホテル&カジノは「エルヴィス・プレスリーが巨大化させたホテル」であることは疑いようのない事実じゃ。 インターナショナル・ホテルは上述の通り1972年にヒルトン・インターナショナルに改称。以降2012年にラスヴェガス・ホテル・アンド・カジノ(LVH)、2014年から現在に至るまでウエスト・ゲート・ラスヴェガスに改称されておる。2016年、ウエストゲート・ラスベガスは、ホテルからラスベガス大通りに向かう通りの名前をエルビス・プレスリー・ストリートに変更するよう請願した結果、正式に認可されることになった。 ウェストゲート内には、エルヴィスの偉大な功績を讃えるモニュメントやエルヴィス・プレスリー・ミュージアムが常設されており、ファンとしてはエルヴィスを無邪気に回顧するだけではなく、哀悼と鎮魂の意を持って訪れるべきじゃろうな。下左写真は、“エルヴィス・ステージ”だったインターナショナル・シアターの現在。下右写真はストリートビュー2022年12月撮影の現ウェスト・ゲート・ラスヴェガスの全貌。 |
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