NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.421


第41回 エルヴィスゆかりの地2023年度テキサス州後編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)


 2022年度版を含めて、「バーチャル~」6回目のテキサス州編じゃ!
 テキサス州がエルヴィスねたの宝庫であることは今さら言うに及ばず、調べていて何が楽しいかって、とにかく若きエルヴィスの人間性を垣間見れるエピソードがネット上でもザクザク状態だからじゃ。
 ライブの熱狂状態、ライブを越えてエルヴィスを追っかけまわす女の子たちの狂乱ぶりのみならず、地元の人たちとの小さな触れ合いが写真と文字情報の両方からリアルに伝わってくるのがテキサス州なのじゃ!エルヴィスが“キング・オブ・ロックンロール”と呼ばれて愛され続ける“もうひとつの理由”が多彩なテキサス州情報の中に隠されていたことが実によく分かる!

 今回はライブ情報や大都市情報こそ少ないが、キングである以前に、一人の人間としてエルヴィスがテキサス州各地で愛されていた実体を時代を越えて証明する幾つかの場所へご案内することで、2023年度版テキサス州編を〆ることに致す!2024年にも新たなるテキサス州編を企画する予定ですので、その時はまたヨロシューな!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地 
    第41回 2023年度テキサス州後編


 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は2022年度編からのテキサス州内での番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。


 Area No.38/Serial No.305  ハート・オー・テキサス・コロシアム/ウェーコ
 Area No.39/Serial No.306 
 ザ・エルヴィス・ハウス/ウェーコ
 Area No.40/Serial No.307 タム・オシャンター・ホテル・コーツ跡地/ウェーコ


 Area No.41/Serial No.308 フォートフッド陸軍駐屯基地/キリーン
 Area No.42/Serial No.309 
エルヴィス・キリーン・ハウス/キリーン
 Area No.43/Serial No.310 
 タイガー・スタジアム/コンロー
 
Area No.44/Serial No.311 ブルーバード・モーテル跡地/コンロー

 【バーチャル・ロックンロールツアーのバックナンバー】

 ★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」



 巨大竜巻去って、“悶絶王”がやって来た!
Area No.38/Serial No.305 ハート・オー・テキサス・コロシアム/ウェーコ
 
 テキサス州2023年度後編は、広いテキサス州のほぼ中央に位置する州都オースチンの北東約130キロにあるウェーコのエルヴィスゆかりの地から始めよう。
 ウェーコという街は、エルヴィスが初めてやってきた1955年4月23日の約2年前の1953年5月11日、テキサス州史上最大の竜巻に襲われ甚大な被害に見舞われた。全米史の中でも10番目に大きな災害となり、その時にウェーコの住民たちが長らく避難しておった場所が、竜巻発生の一ヶ月前にオープンしたイベント会場ハート・オー・コロシアムであった。(上写真左側)
 まるで巨大竜巻の襲来が予測されていたかのようなタイミングで落成していたコロシアムじゃが、ウェーコの街がほぼ復興された2年後、今度はエルヴィスが街全体を熱狂させる嵐を運んできたのである。(上写真、中央、右側が55年5月11日のライブ)

 エルヴィスのウェーコでのライブは、更に翌1956年4月17日、10月12日にも行われており、いずれも大盛況であったことは言うに及ばず、1956年4月の地元新聞はエルヴィスを“Swoon King”と呼んでおる。(右写真赤丸部分)他の州でこんな呼び方をしておった地域はあったかのう?“Swoon”とは俗語で“激しい快感”“気絶するほどの幸せ”とかそんな意味なので、“Swoon King”ってのは“悶絶王”とか“絶頂王”とか、そんなニュアンスじゃろうな!

 1956年10月12日のライブでは、新聞のレビューにおもしろい描写があるので拙訳ながら転載しておこう。
 
「エルヴィスがステージに上がると、ハート・オー・テキサス・コロシアムの観客約5,000人(ほとんどが10代の女の子)の3分間にわたる悲鳴と絶叫に迎えられた。彼はしばらくの間、黙って群衆を眺めていた。
 やがてエルヴィスはひと言「ウ~(Uh~)」と言った。これによって、再び10代の少女たちがさらに3分間にわたって悲鳴を上げた。一人の少女は気を失ってしまった。

 エルヴィスを熱狂的なファンから守るため配置されていた20人のうちの1人だった警察官は、『これはウェーコを襲った最大の集団ヒステリーだ』と語った。10代の若者たちのアイドルは約38分間歌い、ぶつかり、旋回した。若い女の子たちは髪を引っ張り、頭と手を床に打ち付け、高いCの声で金切り声を上げ続けていたのである。
 エルヴィスは突然観客の方へ振り向いて「私を愛していますか?」と言った!それはステージの近くに座っていた14歳のブロンドにとっては刺激が強過ぎたようだ。彼女は飛び上がって首を掴みながら気を失ってしまった。彼女の友人は彼女を抱き起こしながら叫んだ。『もうサイコー!』」

 

 オープンと同時に巨大竜巻による住民の避難場所として稼働しておったコロシアムも、エルヴィスの三度の登場によってウェーコのエンターテイメントの殿堂としてあらたなスタートを切ることになり、その後数年の間に、ビル・ヘイリー・アンド・ザ・コメッツ、ザ・プラッターズ、フランキー・ライモン・アンド・ザ・ティーンエイジャーズ、ファッツ ドミノ、リトル リチャード、バディ ホリー、チャック ベリー、ラバーン ベイカーなどの人気アーティストたちが続々と登場することになった。

 コロシアムは現在でも音楽とスポーツのイベント会場として稼働し続け、2010年8月にはエクストラコ銀行が命名権を取得して、エクストラコ・イベント・センターと改称。SMWによると、年間42万人以上の観客が集まり、この地域に年間4,000万ドルの経済効果をもたらしておるそうじゃ。右写真はストリートビュー2019年3月撮影。


 軍隊訓練中のエルヴィスを癒したハウス
 Area No.39/Serial No.306 ・エルヴィス・ハウス/ウェーコ

 まさに馬車馬の如く、凄まじいハードスケジュールで全米各地でライブツアーを行っておった1955~56年のエルヴィス。途中からはパーカー大佐のプロモート効果もあって、ライブをやればやるほど人気が跳ね上がってはいったが、当時のエルヴィスにとっては各地で知り合い、公私ともども快く面倒を見てくれる心優しい現地のプロモーターやラジオ局のDJとのお付き合いが何よりの心の拠り所だったに違いない。ウェーコで巡り合ったエディ・ファダルもその一人じゃ。上写真左側は、ハート・オー・テキサス・コロシアムのバックステージ、上写真中央と右側の2枚はエディ・ファダルの自宅での撮影じゃ。

 エディは当時ダラスのラジオ局の有名DJであり、エルヴィスとの出会いは1955年4月のウェーコでのライブ。それから1年後のライブでエルヴィスと再会した時、「私のことを覚えているかい?」と声をかけたエディに、エルヴィスは大きく腕を広げてエディをハグ!エディとエルヴィスとの親交はここからスタートしたと言われておる。
 1956年10月12日のライブ終了後、エディはエルヴィスと側近連中を自宅に招待して夜食をご馳走したそうな。突然のエルヴィスの訪問に奥様は驚いたが、急遽手料理をこさえてエルヴィス一行をもてなしたという。

 エルヴィスは1958年3月末に軍隊に入った後、テキサス州フォートフッドの陸軍駐屯基地での基礎訓練期間中の休日には、軍事基地から車で1時間ほどのエディの家に頻繁に遊びに行っておった。(右写真もエディの家での撮影。小さなお子さんは、エディの幼い娘さんと息子さん)
 エルヴィスのスター気取りをしない控えめで礼儀正しい人柄に感銘を受けたエディは、軍隊に入って間もない意気消沈気味のエルヴィスのために、自宅にエルヴィス用の書斎を作り、エルヴィスのお気に入りのレコードや書籍を揃え、料理自慢の奥様の手料理も用意してエルヴィスの訪問を心から歓待しておったそうな。エルヴィスのファダル家の訪問は1958年4月から、エルヴィスがドイツへ向かうまでの9月まで続いた。

 エディ・ファダルは1994年に逝去されたが、エルヴィスが通っていた家は現存しており、現在の所有者は娘のジャニスさん。(上写真の女の子)ジャニスさんは、この家を「エルヴィス・ハウス」として、ダイニングやリビングにエルヴィスゆかりの品や写真をディスプレイして、時たま訪れるエルヴィス・ファンのためのレンタル・ハウスにしておる!(左写真)
 ただし宣伝等はほとんど行っていないようじゃ。ウェブサイトはアップされておるので、詳細はそちらでご確認頂きたい。

 住所を頼りにGoogle-mapで検索すると、特別な表記はされていない。ストリートビューで確認してみると、周囲は典型的な閑静な住宅街であり、“Elvis House”といった表札も看板もなく、その他の住宅と同じ佇まいじゃ。
 しかしよお~くチェックしてみたら、玄関横の窓には“エルヴィス型のプレート”がディスプレイされておった!(右写真ストリートビュー2022年5月撮影)



1956年10月、キングはまだモーテルに泊まっていた
Area No.40/Serial No.307 タム・オシャンター・ホテル・コーツ跡地/ウェーコ
 上記Area No.39でご案内、ご紹介した、1956年10月12日にハート・オー・テキサス・コロシアムでのライブ後にエディ・ファダルの家に招待されたエルヴィス一行は、夜食をご馳走になった後に約4キロ離れたタム・オーシャンター・ホテル・コーツというモーテルに宿泊した。エルヴィスは既に大スター、キングであり、モーテル暮らしはとっくに終わっていたと予想していただけに、ちょっと意外じゃな。左写真はモーテル営業時のポストカードであり、実際はもっと豪華なモーテルだったのかもしれない。

 ポストカードからはこのモーテルにプールが付いておるのが分かるな。若きエルヴィスの過酷なライブ・サーキット時代、エルヴィスが泊まったモーテルって、ほとんどプールが付いておったのは単なる偶然じゃろうか?
 そう言えば、1954年の夏にデビューした頃のエルヴィスがもっとも出演回数が多かったクラブが地元メンフィスの「イーグルス・ネスト」であり、SMWにはこのクラブはプールが設置されており、1940年代前後はアメリカ南部ではプールが庶民のレジャーとして人気だったという記述があった。エルヴィスはメンフィスのオーディボンの家を購入した際、わざわざプールを作ったくらいじゃったから、エルヴィスもプール好きであり、プール付きのモーテルをマネージャーや現地のプロモーターに要請しておったのかもしれない!

 タム・オーシャンター・ホテル・コーツは、当時ウェーコで唯一のラウンドアバウトだったウェーコ・トラフィック・サークルへは1.2キロの場所にあった。車移動続きのエルヴィス一行にとっては、この立地も好都合でもあったのかもしれない。現在モーテルの跡地はアメリカン・フード・レストランが建っておる。(下写真左側ストリートビュー2022年4月撮影)
 なお、ウェーコ・トラフィック・サークルは現在(恐らく当時から)6つの方角へ道路が伸びており、1956年10月12日の翌13日にライブが予定されていたヒューストンへはこのサークルから南へ220キロじゃ。 もしエルヴィス一行がモーテルからサークルを経由してヒューストンへ向かったならば、右写真右側ストリートビュー2022年4月撮影)のサークルから南へ伸びる77号線を使ったと思われ
る。


エルヴィス軍曹が基礎軍事訓練を受けた軍事基地
Area No.41/Serial No.308 フォートフッド陸軍駐屯基地/キリーン
 

 エルヴィスの軍歴は1958年3月から約2年間であり、そのうち3月末から9月末まで軍事基礎訓練を受けた場所がテキサス州キリーンのフォートフッド陸軍駐屯基地じゃ。
 基地全体の広さは64,000ヘクタールって、あまりにもデカ過ぎてイメージがわかないが、これはアメリカの軍事施設の中でも当時最大規模だったという。(左写真は1958年撮影の航空写真)
 エルヴィスが訓練を受けていた時期は7,000~8,000人の訓練生がいたとされており、彼らの宿泊施設だけでも相当の敷地を要するわけであり、この基地の巨大さが分かるな!

 現在の名称はフォート・キャバゾス(フォート・カバゾス表記もあり)。エルヴィスが入隊直後にGIカットした時の場所は、アーカンソー州の軍事基地フォート・チャフィ。(「バーチャル~第10回アーカンソー州後編」でご案内済)フォートとは“砦(とりで)”を意味し、全米各地にある軍事基地名は原則的にフォートと、その土地にゆかりのある著名な軍人の名を連らねて命名されておる。
 
 米軍施設であるだけにフォートフッド敷地内の写真の公開数は限られておるようで、インターネット上で画僧検索をしても敷地内よりもエルヴィスの写真の方が圧倒的に多い(笑) 敷地内の何処でエルヴィスが撮影されていたのかを突き止めるには、現地に行って関係者に直接うかがうしかなさそうじゃ。
 Wikipediaではフォートフッドについて、
「最も有名な訓練生は、1958年3月28日に到着したエルビス・プレスリーであろう。記録的な量の郵便物 (1日あたり3~4 袋) を受け取った以外は、彼は他の訓練生と同じように扱われた」と記述されておる。

 右写真は、Google-map上で公開されておる航空写真。赤白枠は現フォート・キャバゾス名で検索すると括られる敷地範囲。
 写真上側に白い建物が並んでおり、ここは主に訓練生たちの宿泊施設と思われる。エルヴィスが実際に軍事訓練を受けていたのはその上に写っておる丘陵地帯(赤白枠より上部)だったと思われる。



ドイツ行き前の半年間にエルヴィスが両親とともに住んでいたハウス
Area No.42/Serial No.309 エルヴィス・キリーン・ハウス/キリーン

 ここは上記Area No.41でご案内したフォートフッドでの軍事訓練中にエルヴィスがレンタルしていた家屋じゃ。エルヴィスはメンフィスから両親と祖母、さらに当時のガールフレンドだったアニタ・ウッドを呼び寄せ、彼らは約半年間住んでおった。フォートフッドからは車で10分、距離にしてわずか8キロしか離れていなかった。レンガ造りの平屋で、3ベッドルームという構造じゃった。
 当時の軍律では、ある段階までの基礎訓練が終了した兵士は扶養家族がある場合は基地の外に住むことが許可されていたようで、エルヴィスも何ヶ月かは家族と一緒に住んでおったらしい。この家は地元の弁護士が所有者であり、エルヴィス一家はひと月700ドルでレンタルしておった(1,500ドルという説もあり)。
 上写真左側は、Area No.39でご紹介したエルヴィスのフォートフッド時代の世話役ともいうべきエディ・ファダル夫妻を招いた時のショット。左端はアニタ・ウッド。上写真中央と右側は、ネット上では地元の子供と一緒に家の近所で撮影されたショットとされておる。エルヴィスが住んでいた当時の家屋自体の写真は発見出来なかったので悪しからず。

 エルヴィスが住んでいることが知れると、エルヴィスを一目見ようと家屋の周囲に群衆が集まり始めた。エルヴィスが外に立って何時間もファンと話すのは日常的だったという。時折、エルヴィスは人混みを避けるために近所の家の裏庭を迂回して家に入ったりしていた。また近所の人の回想では、迂回している途中、エルヴィスは他人の家の庭の物干しロープに引っかかったり番犬に噛まれたこともあったという。
 もちろん近所の誰もがエルヴィスが住んでいることに興奮したわけではなかった。住民の中には、車によって巻き上げられる砂ぼこりやファンが集まってカーニバルのような雰囲気になってしまうことを嫌って警察に通報した人もいた。
 エルヴィスは1958年9月18日までこの家に住んでいたとされておる。ドイツ行きの決定が下され、9月18日夜に車で一旦フォートフッド基地へ戻ることになった。上左写真は家を出る前に地元のファンに囲まれるエルヴィス。上右写真はフォートフッドに向けて走らせる車にアニタ・ウッドと一緒に乗り込んだ際のエルヴィス。

 
エルヴィス・キリーン・ハウスは、多少老築化しているとはいえ、現在でもエルヴィスが住んでいた時期とほとんど変わらぬ姿で住居として使用されておるという。熱心なファンからこの家をテキサスのランドマーク標識や、歴史的価値があることを示すその他の標識を設置してほしいとの要望が何度も出されておるらしいが、近隣住民が難色を示しておるという。結局この家はエルヴィスが所有していたわけではなく、あくまでもレンタルしていただけなので、エルヴィスにとってはホテルと同じような存在だったことが表向きの理由らしい。
 実際には現入居者は見も知らぬエルヴィス・ファンから突然の来訪を受けたりして迷惑しており、周囲に古くからの住人たちも含めて「静かに暮らしたい」という要望が強いことが標識が何も設置されない最たる理由のようじゃ。上写真はストリートビュー2019年3月撮影。


 額に“ガチョウの卵”を付けながらエルヴィスは熱演!
Area No.43/Serial No.310 タイガー・スタジアム/コンロー
 1955年のエルヴィスのテキサス州ツアー・ライブ・スケジュールは凄まじい!ルイジアナ・ヘイライドへの定期的な出演を挟みながら毎月テキサス州へ乗り込んで行って各地でライブをブチかまし続けておった。テキサス州はロックンローラーのエルヴィスにとっては第二の故郷のようなものじゃろう。このコンローという街はテキサス州第二の都市ヒューストンの真北約60キロの位置にあり、1955年8月24日にエルヴィスはやって来た。
 エルヴィスの1955年8月のテキサスツアーは中旬の15日前後に一旦中断されており、8月20日からツアーは再開。コンローは再開後3回目のライブ地となった。実はツアー中断期間にエルヴィスにとって重要な契約が交わされておる。それはパーカー大佐がエルヴィスのマネージメント特別顧問役に昇格したことじゃ。エルヴィスのプロモートをほぼ一手に引き受ける権利を握ったのじゃ。正式マネージャーは未だボブ・ニールのままだったが、この昇格によって大佐は、実質的にエルヴィス専属マネージャーとして悪魔的な辣腕を振るうことが出来るようになったのじゃ。(左上写真は、大佐の特別顧問契約書コピー) 

 大佐の昇格によって1955年8月後半のツアーはエルヴィスにとってもライブ活動の仕切り直しとなったわけじゃが、テキサス州でのエルヴィス・フィーバーは依然としてとどまることなく加熱し続け、このコンローでのライブでも色々なエピソードが残されておる。
 会場はデイビー・クロケット・ハイスクール敷地内にあるフットボール・グラウンドだった通称タイガースタジアムが使用された。(右写真)グラウンドの中央に2台の平台トレーラーを並べて駐車させて即席ステージがセットされた。
 右写真のグランドは数百人の観客で超満員。エルヴィスはピンクのキャデラックに乗ってグランドを一周してからステージに昇ったという!キャデラックで登場してトレーラーの荷台ステージとは、このギャップがいい!(笑)
 エルヴィスも戸惑ってしまったのか(?)、ステージに昇ろうとする瞬間に足を滑らせて床に額を打ちつけてしまい、たんこぶを作りながらのプレイになった!目撃者の証言がSMWで紹介されており、エルヴィスは額に大きな“ガチョウの卵”を付けながらパフォーマンスしたと(笑)ガチョウの卵(goose egg)とは、アメリカのスラングで「たんこぶ」、または「ゼロ」という意味じゃ。しかし下写真中央のエルヴィスは遠目にみてもクールじゃな!!

 

 上写真右側は、オープニングアクトとして出演した地元の16歳のシンガー、メアリー・マッコイとエルヴィス。メアリーはルイジアナ・ヘイライドにも出演していたシンガーであり、ブルームーンボーイズとは旧知の仲。彼女のステージではスコッティとビルがバックを務めた。彼女の記憶によると、この日のエルヴィスのセットリストはヘイライド出演時とほぼ同じであり、観客を熱狂させるに充分な選曲とプレイだったという。
 エルヴィスはライブが終わってステージを降りる際にまたもや滑って転びそうになったらしいが、女の子たちが集まってきたので写真撮影やサインのサービスを続けたという。

 デイビー・クロケット・ハイスクールは、現在はトラビス・インターメディエイト・スクール(中学校)になっており、エルヴィスのライブ会場になったフットボール・グラウンドは残されておるものの、南側半分は駐車場になっておる。左に表記したGoogle-mapマークにリンクさせた位置は、学校のメイン建物の位置であり、右写真は建物の真東に広がるフットボール・グランド。(ストリートビュー2022年4月撮影)


街の小さなランドマークだった美風情漂うモーテル
Area No.44/Serial No.311 ブルーバード・コーツ跡地/コンロー
 上記のタイガースタジアムでのライブの際、エルヴィス一行がチェックインしたモーテルがブルーバード・コーツ(左写真)じゃ。
 SMWによると、1955年当時コンローの街で一番の高級モーテルだったそうじゃ。エルヴィス一行は1955年8月24日早朝にキャデラックでコンローに到着し、エルヴィスはまずキャデラックをガススタで洗車してからブルーバード・コーツにチェックインしたという。タイガースタジアムご案内の際にもご紹介したが、エルヴィスはキャデラックを運転しながらタイガースタジアムのグラウンドに現れ、そのままグラウンドを一周してからキャデラックを降りてステージに上がった。このシナリオを想定した上でまずキャデラックを洗車したのであれば、エルヴィスは若いのに用意周到じゃ!ってハナシはそこじゃないな(笑)
 
 ブルーバード・コーツにチェックインしてからひと休みしたエルヴィスは、夜のライブ前に地元のラジオ局に出演するためにブルーバード・コーツでメアリー・マッコイ(タイガースタジアムご案内の際に紹介済)の到着を待っておった。メアリーはラジオ局のDJもやっており、この日はエルヴィスをラジオ局へ案内するお仕事も仰せつかっていたのじゃ。

 上写真のブルーバード・コーツは、SMWによる“街一番の高級ホテル”というよりも、現代で言えばハイセンスなブティック・ホテル風じゃな。スケールは違うが、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のモデルにもなったビバリーヒルズ・ホテルの様な、いかにも前時代的な美風情が漂う実にエエ~感じじゃ。オンライン上でブルーバード・コーツ関連のコラムを検索してみると、古くからの住人の投稿では「昔はコンロー住民たちの憩いの場所だった」的記述があり、分かる様な気がするな!当時発行されていたポストカードには、部屋数28、各部屋クールエア(エアコン?)、シャワー付きと記載されておる。エルヴィスが地方サーキット中の宿泊先で要望していた(?)プールは無かったようじゃ。

ブルーバード・コーツは1970年代後半まで営業しておったようじゃが、跡地の特定にちと迷った。複数のサイトでは現在ノース・フレイザー・ストリートにあるサンドイッチのチェーン店サブウェイの隣の敷地に建てられていたとされておるが、ノース・フレイザー・ストリートのサブウェイは2つあるのじゃ。
 当時のポストカードには、ノース・フレイザー・ストリートの北端とだけ記載されておる。また某サイトにはサブウェイの隣にあるファミリーダラー(格安スーパー)の敷地の北の角にあったと特定されておるが、こちらのサブウェイは、ノース・フレイザー・ストリートの北端ではない方じゃ(苦笑)
 よって現地に行って確認していないわしには場所を特定出来ないので、単なるわしの勘により、ファミリーダラーの敷地の北の角の方であると推定しておこう。タイガー・スタジアムまで徒歩数分、わずか600メートルの場所じゃ。右写真ストリートビュー2019年3月撮影。



 バックナンバーを
御覧になる場合は
各バナーをクリック!
   
       
     
     
       
       
     
       
   
   
   
   
   
   
   
   
   

GO TO TOP