NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.378


第7回 エルヴィスゆかりの地~フロリダ州前編


(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 2022年も「バーチャル・ロックンロールツアー」にご参加頂きまして、ありがとうございます!老骨に鞭打って、昨年に引き続き諸君をエルヴィスゆかりの地へとお連れ致します!「バーチャル・ロックンロールツアー」の本体である「The-King2022ミステリートレインの旅」の“気ままな途中下車&お散歩”の感覚で楽しんでくれたまえ。

 第7回目の今回はフロリダ州(前編)じゃ。フロリダ州には1950、1960年代のエルヴィスの活躍を象徴するような場所がたくさんある。ソイツをあらためて探し出すことは極めて簡単だったが、逆にネット上の情報量があまりにも多過ぎて、中には「どれが真実なのかワカラナ~イ」という、まったく想定外の壁にぶち当たってしもうてな。こうなったら情報の精査は「頑固七鉄の勘」に頼るのみ!勘っつっても、決してヤマカンではなくて長年にわたりキープしてきたロックンロール・スピリットと旅人根性(!?)が礎になっておるんで、どうか信じてお付き合い頂きたい!
 「おいおいジイサマよ、ソレ違うんじゃねーのか?」というご指摘も結構!そのうちに「バーチャル・ロックンロールツアー/ご意見ご感想メールBOX」でも設定しようかと思っておるんでその時はヨロシク!
 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー
           エルヴィスゆかりの地~フロリダ州前編

 ・御覧になりたいPoint番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。

 
Point- 1  フォート・ホーマー・ヘステリー・アーマリー/タンパ
 
Point- 2  オリンピア・シアター/マイアミ

 Point- 3
 ロバート・クレイ・ホテル跡地/マイアミ  
 Point- 4  エルヴィスがリンカーンを買い換えた場所/マイアミ
 

 
Point- 5 ジャクソンビル・ベースボールパーク跡地/ジャクソンビル
 
Point- 6  ハートブレイク・ホテル/ケナンズビル

 Point- 7 映画「夢の渚」ロケ地“バードネスト・ブリッジ”&“夢の渚通り”/ヤンキータウン
 
Point- 8 
コニーアイランド・ドライブイン/ブルックスビル

  【付録】  バーチャル・ロックンロール・ツアー・Googleマイマップ
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順


 歴史的名ショットが生まれた伝説のライブ会場
Point-1 フォート・ホーマー・ヘステリー・アーマリー/タンパ
ロリダのエルヴィスと言えば、まずココ!エルヴィスの50年代のコンサート告知ポスターで使用されたショット(上左写真)、ファーストアルバム「エルヴィス・プレスリー登場!」のフロントカバーに使用された写真(下中央写真)の撮影場所「フォート・フォーマー・ヘステリー・アーマリー」じゃ。
 エルヴィスのフロリダ州ツアーは1955、56年ともに2回づつ計4回組まれ、この写真の撮影日は2度目のツアー中の1955年7月31日じゃ。当時の紙面広告をチェックすると、1955年5月7~13日のフロリダツアーは、カントリー・ミュージックのスターだったハンク・スノウとその他多数のミュージシャンとのミュージック・ジャンボリーの一員としての参加。7月25~31日も単独公演ではなかったようじゃ。
 ミュージック・ジャンボリーとは、他のミュージシャンとの共同開催コンサート。エルヴィスは前回ご紹介したルイジアナ州シュリーブポートで行われるコンサートを放送する「ルイジアナ・ヘイライド」の出演の合間をぬって(1955年度は32回出演)アメリカ南部各地を回るミュージック・ジャンボリー・ツアーに参加し、7月25日からスタートした2度目のフロリダツアーからエルヴィスはメイン・アクト扱いになったようじゃ。つまりメイン・アクトに昇格直後にファーストアルバム用の撮影が行われたことになる。

 世界でもっとも有名で衝撃的なロックンロール・フォトであるファーストアルバム用の写真じゃが(下中央写真)、長らく撮影場所は不明であり、撮影者はバックカバー写真(下右写真))の撮影者であり、名前がクレジットされておる“Popsie Randolph”なる人物とされてきた。
 しかし何人かのエルヴィス専門家から疑問が呈され続けて来た。撮影場所、撮影者は意外な側面から明らかにされた。パーカー大佐のエルヴィスに関する権利詳細が丹念に調べ上げられているうちに、元々フロリダ州にコネクションが強かったパーカー大佐がフォート・フォーマー・ヘステリー・アーマリーでのライブ写真の撮影を決定し、ウイリアム・レッド・ロバートソンなる地元のベテランカメラマンを雇用していたことが判明した。(下左写真)


み程度でも写真撮影に心得えがある者ならば、フロントカバーとバックカバーの撮影のセンスがまったくの別物であるのは分かるだけに、ウイリアム・レッド・ロバートソンというカメラマンの存在が浮上したことで、“喉の奥に魚の小骨が刺さった様な”気分が晴れたエルヴィス・マニアも少なくなかったはずじゃ。
 ロバートソン撮影のこの写真には同じようで異なる数種類が存在し、それらは別名「扁桃腺(tonsil)シリーズ」と呼ばれておるらしい(笑)確かにエルヴィスの扁桃腺が見えるようじゃな!それにしても衝撃的なジャケ写じゃ。当時のジャケ写と言えば、ミュージシャンの記念写真、お見合い写真みたいなかわいらしいショットばかりなので、このジャケ写に対する当時の社会の凄まじい反響が容易に想像出来る!セカンドアルバム「エルヴィス!」のジャケ写がおとなしいショットだけに尚更じゃ。
 またロバートソンが撮影者として雇われたのはこの日のみ。ギャラが安かったのでひと会場だけ撮影を請け負ったのか?単なるロバートソン側のスケジュールの都合だったのか?それともエルヴィスという存在に興味が湧かなかったのか?いずれにしても、その異様なクオリティゆえに奇跡的なショットとも言える!

【 注意 】
4回のフロリダツアーにおいて、エルヴィスはいずれも1回づつフォート・ホーマー・ヘステリー・アーマリーに出演。当ページトップのスライド上に使用した写真の1枚(右写真右側)は1956年8月5日に撮影されたもの。撮影者はロバートソンではない。


故ウイリアム・レッド・ロバートソンの名がファーストアルバムにクレジットされなかったのか?恐らくパーカー大佐は、この写真が後に世界を揺るがすことになる事を予感して、ロバートソンとの関係は幾ばくかの撮影代を支払って終わりにして、写真の所有権を独占したかったのじゃろう。音楽やアートには疎かったと言われる大佐じゃが、やはり“何が世間を驚かして話題となってお金儲けになるか”を知り抜いていた人物だったのじゃ。
 またファーストアルバムで写真の左側と下側を彩るピンク色と緑のレタリングを施したデザイナーは未だに不明。パーカー大佐の周到な利益計算の犠牲になり、エルヴィスの名をより高める仕事をしても自分の名が世に知られることがなかった者は当時のRCAビクター社の中には何人もいるらしい。


ォート・ホーマー・ヘイテリー・アーマリーに関して、数多いエルビス関連サイトは「ファーストアルバムの写真撮影となった場所」という記述に終始しており、ライブ状況に関する記述は見当たらない。エルヴィス・マニアならば、素晴らしいステージショットが撮影されたライブ状況を是非とも知りたいものじゃ。わしは引き続きソイツの情報を探すので、見つかり次第追加紹介致します!
 上左写真は1947年の建物の写真。上右写真は2021年6月ストリートビューによる撮影。“アーマリー”とは州立の軍武器倉庫、軍隊訓練所、大型娯楽施設。現在は稼働停止状態とのこと。

■Google-map上の位置■



 常夏のマイアミを狂熱化させたエルヴィス・ハリケーン!
Point-2 オリンピア・シアター/マイアミ


“ハ
ートブレイクホテル”“アイウォントユー・アイニードユー・アイラブユー”そして“ハウンドドッグ“に“冷たくしないで”と、立て続けにナンバーワンヒット曲を世に送り出し、まさにキング・オブ・ロックンロールに昇りつめて絶頂期を迎えたエルヴィスは、1956年7月4日にメンフィス「ラスウッドパーク」での凱旋ライブを終えてから一ヶ月間の休暇を取った後、自身4度目のフロリダ・ツアーを開始した。語り草になるほどの熱狂的な歓迎を受けたこのフロリダ・ツアーの様子は、豪華写真集『Elvis In Person - The Florida Tour August ’56』に収められて2016年に発売されておる。
 4度目のフロリダツアーのスタートとなったのが8月3日マイアミ・オリンピア・シアターじゃった。ここでも、ファーストアルバム用の写真と同等以上に有名なショットが撮影されておる。(上左写真)若者たちにとっては「ついに俺たちの時代が来たのだ!」と燃え上がるような気分になる“神ショット”であり、大人たちにとっては「あぁ・・・世も末じゃ」と顔をしかめてしまう“悪魔ショット”だったに違いない(笑)

【 余談
 8月3日にマイアミにやってくる前一ヶ月間の休暇の中で、エルヴィスは一度だけステージに上がっておる。7月27日、メンフィスのエリス・オーディトリウムにおいて、ゴスペル・グループであるステイツメン・カルテットとともに「Jesus Filled My Every Need」 「You'll Never Walk Alone」の2曲を歌った。(右写真)
 またスコッティとビルは、一ヶ月間仕事をしていなかった為なのか?このフロリダツアーのギャラを以前の週給200ドルから100ドルに減額されたらしい。非情なりパーカー大佐・・・。

リンピア・シアターでのライブは、8月3日と4日の2日間で7回も開催された超ハードスケジュール!当時のオリンピア・シアターの収容人数は約2.000人と中規模クラスだったので、「休憩を挟んで何度もやって客を集めてしまおう!」ってなパーカー大佐の算段も分かるが、2日で7回ってのはメッチャクチャじゃな!
 マイアミのマスコミの注目度も非常に高かっただけに、地元紙で紹介された数多くの記事が残されておってファンとしては非常に有難いのじゃが、わしのノーミソがタリナイのか、収拾がつかないほど情報が多過ぎる!しかもエルヴィスのアクションのパターン、女の子たちの狂騒ぶり、シアター内外の慌ただしい警備の様子など、その記述は細かく多岐にわたっておる。「1956年8月オリンピアシアターの真実」とかタイトルを付けて、頑固七鉄コーナーで長期連載が出来るほどのボリュームじゃ。
 そこで今回に限っては、オリンピア・シアターにおけるエルヴィスのステージ衣装に関するマスコミの記述をご紹介しよう。残されておる写真がモノクロばかりなので、コイツはわしも有難かった!その記事に従い、画像加工アプリでモノクロ写真に着色してみようと試みたが、わしのテクニック不足でうまくいかんかったので、七鉄流人着写真はいずれそのうちに(笑)。

 
ずマイアミ到着当日8月3日(金)の2回目(?)のライブの衣装から(上写真)。ジャケットはケリー・グリーンと呼ばれるグリーンの彩度が濃いぺパーミントグリーン系ジャケットに、パンツはシルバーが“霜降り”の様に散りばめられたブラック。(冒頭で紹介した超有名写真とは別衣装なのでご注意)
 このライブが終了後、エルヴィスはパンツを脱いでチップ状に切り刻み、興奮醒めやまぬ状態でオリンピア・シアターの外にたむろっておった大勢のファンに向かって、ドレッシングルームの窓からパンツのチップをばら撒いた。(上写真右)


 次に8月4日(土)のライブから(上写真)。記事によって、ジャケットはラベンダー、ピンク、“前日とは異なる薄い色”等と表現されておって長らく正確なカラーはわからずじまい。しかしスコッティ・ムーアのサイト製作プロジェクトの熱意が実って判明!この時のライブ(当日何回目かは不明)でジャケットがステージ下のファンにはぎ取られて奪い合いとなって粉々に引きちぎられ(上中央写真)、幸運にも(?)その一片をゲット出来たファンの一人がその宝物を長らく保管しておったのじゃ。(上右写真)生地色は日本語で言えば藤色であり、しかも白の格子柄だったんじゃな!パンツは同じ生地だったのか否かは、残念ながらどのサイトにも記載が無い。

 そしてもう1パターン(右写真)。わしがネット上で発見した唯一のオリンピア・シアターでのエルヴィスのカラー写真。赤系ジャケットに黒(無地?)のパンツの装いのエルヴィスじゃ。
 8月4日のラスト(4回目)ステージのようじゃ。2日で7回というハードスケジュールからくる疲労感を吹き飛ばさんばかりのちょっと悲壮感漂うエルヴィスの表情が、冒頭で紹介した超有名ショットと共通しておるようにも見える!
 エルヴィスの右側に映るスコッティも同系カラーのジャケットじゃ。個人的にはバンド全員がお揃いのファッションって好きなんじゃよな~!

装の解説をしとるだけでも、オリンピア・シアターでの女の子たちの熱狂ぶりをお伝え出来たかもしれんな(笑)オリンピア・シアターはその後オーナーが何人か変わり、劇場名も変わったりしたものの、現在でも稼働中じゃ。

【 注意 】
 Google-mapの位置表示が少しズレテいるので、わしから訂正しておこう。Google-mapにおいて日本語で「オリンピアシアター」と表示されているポイントをストリートビューで確認すると、出口側(ビルの裏側)が表示され、「OLYMPIA」の看板も見えない。正面玄関をご覧になる場合は、イーストフラッグ・ストリートとノースイースト・セカンド・アベニューの交差点から、イーストフラッグ・ストリートを西へ少しだけ移動した地点がベスト。(下右写真)
■Google-map上の位置■


オリンピア・シアター出演中に宿泊したホテル
Point-3 ロバート・クレイ・ホテル跡地/マイアミ



 上記Point-2でご案内したオリンピア・シアターに出演中にエルヴィスご一行が宿泊したホテルが、ロバート・クレイ・ホテル。既にキング・オブ・ロックンロールに昇りつめていたエルヴィスの宿泊先としては、正直なところ「そぐわない」と思われる“普通のグレード”のリゾートホテルじゃ。
 当時の状況を少々調べたところ、エルヴィスは1956年のオリンピア・シアター公演に際し、マイアミの超一流ホテルである「フォンテインブルー・ホテル」から招待を受けておった。このホテルこそ、キングが宿泊するに相応しいホテルじゃった。しかし、既に何処へ行ってもファンの凄まじい歓迎を受けていたために、パーカー大佐がフォンテインブルー・ホテルからの招待を直前に断ったらしい。エルヴィスの宿泊先が事前に漏れてしまい、宿泊先に起こりかねない器物破損の危険を懸念したからという。
 招待を受けたという事は恐らく「宿泊代無料」だったはずじゃが、それでも利益追求の鬼であるパーカー大佐が断ったということは、器物破損に対する弁償金を恐れるほどフォンテインブルー・ホテルが高級ホテルであり、また当時のエルヴィス・フィーバーが如何に凄かったかを物語っておるな。


 何故代わりの宿泊先がロバート・クレイ・ホテルだったのか。推定出来る理由はオリンピア・シアターまで徒歩数分以内という立地であろう。Point-2で先述の通り、8月3,4日の2日間で7回ものコンサートをオリンピア・シアターで開催する過密スケジュールだったため、エルヴィスやバンドメンバーの休憩時間を確保する為には好都合のホテルだったのじゃ。
 またホテル内でのエルヴィスの写真が数枚公表されておるだけに、ロバート・クレイ・ホテルはエルヴィス・ファンにとっては見逃せないホテルでもある。写真の撮影者はエルヴィスがチェックインした後に取材を申し込んでいた「マイアミ・デイリー・ニュース」のカメラマンであろうか。エルヴィスに寛いでおる雰囲気はなく、いかにも取材中の撮影の様な緊張感が漂っておるな。(上写真は、8月3日付マイアミ・デイリー・ニュースに掲載されたライブ広告。)

【 注意 】
 当ポイント・パートのトップに掲載したホテル内でのエルヴィスの写真4枚じゃが、これは約2週間後の8月18日ハリウッドのニッカボッカホテルでの撮影と紹介しているサイトも数多くある。ニッカボッカ・ホテルでの写真は他にも多数発表されており、撮影者もエド・ブラスラフと特定されているので信憑性が高い。
 一方ロバート・クレイ・ホテルでの撮影としているサイトは、主にインタビューをおこなった「マイアミ・デイリー・ニュース」サイドの提供情報から判断しておるようじゃ。確かに「マイアミ・デイリー・ニュース」の記事には、「エルヴィスは黒い服を着て、新聞を手にもちながら~」と記述されておる。(トップの写真、左端とその横の写真参照)いずれのホテルにせよ、1956年8月中の、希少なホテル内でのエルヴィスの写真じゃ。

 下右写真は、マイアミ川河口付近からの河畔のホテル群。ロバートクレイ・ホテル、タートル・ホテル、ダラスパーク・ホテル等の同グレードのリゾートホテルの在りし日の風景じゃ。このホテル群は全て取り壊され、ストリートビューで確認すると現在では別個の商業ビルがひしめき合う地域に様変わりしており、昔日の雰囲気はまったくない。
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 スーパースターゆえの代償。大佐も付き添ったキングの豪勢なお買い物現場
Point-4 エルヴィスがリンカーンを買い換えた場所/マイアミ



 オリンピア・シアターに出演し、ロバートクレイ・ホテルに滞在中、エルヴィスはスーパースターゆえの被害を被った。約3週間前に購入した車リンカーンが、熱狂的な女性ファンたちの口紅によって落書きだらけにされたのじゃ。(上左写真)落書きだけではなく、多くの女性ファンが身体を激しくこすり付けた様な擦り傷も車体のあちこちに目立っていたという。

 この事態に対してエルヴィスが喜んだのか怒ったのかは定かではないが(笑)、リンカーンの買い替えを即座に決意。地元のカー・ディーラーに新車を用意させた。キングの要請だけにディーラーもまた即座にホワイトボディのリンカーンを用意。その御披露目の場所が、宿泊先ロバートクレイ・ホテル近くのダラスパーク・ホテル前方の駐車場じゃった。(上中央写真)

 エルヴィスはボディやエンジンを入念にチェックした後、落書きされた旧リンカーンを下取りに出すという条件の元に、約10,000ドルで新車の購入を決定してその場で購入契約書にサインした。下取り金額、支払い方法などの商談と各種手続きのためにパーカー大佐が同行しておるが(上右写真)、しっかり写真撮影されていることは「ジャーマネ同行でキングが新車をゲットした!」というエルヴィス大成功ストーリーをより大袈裟にアピールするための大佐のお芝居とも言えるな!

 新車のリンカーンが運び込まれたダラスパーク・ホテル前の駐車場じゃが、ホテルの東西南北のどの位置なのかは、現存する写真からは特定はできんが、下左写真で提示した場所である可能性が高い。Point-3で既述したように、この周囲は現在では別個のビルの密集地帯であり、ストリートビューの撮影による現状から当時の状況を予想することは不可能なので航空写真のみ(下右写真)掲載させて頂くので悪しからず。なお落書きだらけになった旧リンカーンは、一時期オリンピア・シアター劇場内に展示されておったそうじゃ。
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メイ・ボーレン・アクストンが、エルヴィスのリップサービスによる暴動を予言した日
Point-5 ジャクソンビル・ベースボール・パーク跡地/ジャクソンビル


 メイ・ボーレン・アクストンという女性(上左写真、右端)、諸君なら当然ご存知のはずじゃ。そう、「ハートブレイク・ホテル」の作曲者の一人じゃ。彼女はテキサス出身者であり、海軍勤務の夫の駐在地フロリダ州ジャクソンビルで地元高校の英語教師の職に就いておった。なかなか多彩な才能の持ち主じゃったようで、教職の傍ら作詞作曲や地元のカントリーミュージックコンサートの広報や取材記者のお仕事もされており、やがてフロリダ州に強いコネクションを持っていたパーカー大佐と繋がったと言われておる。
 アクストンがエルヴィスと初めて会ったのは、エルヴィスが初めてフロリダ州でライブを行った1955年5月7日のデートナビーチ・ピーボディ・オーディトリアムであり、その後も広報担当、取材記者としてフロリダ州、ミシシッピー州のツアーに同行しておる。

 5月12日、アクストンの地元ジャクソンビル・ボールパークでのライブの前には、アクストンは仕事仲間とともにエルヴィスを夕食に誘っておる。 その際、エルヴィスが着ていたピンクのレースシャツを同席していた女性が欲しがったところ、「そのシャツが今夜ボロボロにされる前にあげた方がいいわ」とライブ終了後の女の子たちの暴走を予告しておったらしい。
 この日のエルヴィスのライブは1955年度のライブでも有名なファンの暴走が起きたライブである。事の発端はエルヴィスがライブ終了間際に、熱狂する女の子たちに向かって「それでは皆さん、バックステージで待ってます!」と過激なリップサービスをしたために、本当にファンがバックステージに押し寄せてエルヴィスの衣装類が滅茶苦茶に引き裂かれる騒ぎが起こったのじゃ。

 ジャクソンビル・ボールパークはエルヴィスが初登場する約2ヶ月前にオープンしたばかりの、マイナーリーグ専用の野球場。公式発表の収容人員は約8,000人であり、エルヴィスのライブの際はグラウンド上に特設座席を作って10,000人を越えるファンを迎えたとされておる。
 上右写真の通り、屋根付きの内野席と外野席との間に広いスペースがあり、ライブ終了後に大勢の女の子たちがこのスペースを通って内野席棟の裏側に回り込み、スコッティ―ムーアのサイトによると、少なくとも300~400人の女の子たちが壁面にある窓までよじ登ってエルヴィスの居るバックステージを探しまくったそうな!
 この野球場は2004年に一度取り壊され、新しい野球場がすぐ近くに建てられた。またその南隣りには新しいフットボールスタジアムも建てられており、フットボール・スタジアム寄りの位置にジャクソンビル・ボールパークがあったと思われる。
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 ロックンロールの歴史を変えた名曲の謎めいた真実に迫る!?
Point-6 ハートブレイク・ホテル/ケナンズビル

1956年1月27日、ロックンロールの歴史を大きく動かす大事件が起こった。エルヴィスのRCAビクター移籍後最初のシングル「ハートブレイク・ホテル」がリリースされたのじゃ。世界中の何百万、何千万の人の運命を変えてしまった歴史的名曲であるだけに、虚実綯い交ぜになった幾多のエピソードが未だに乱舞しておる。
 また「ハートブレイク・ホテル」という、たまたま曲名と同名のホテルがフロリダ州ケナンズビルに存在していたことがエピソードの真偽を余計にウヤムヤにしてきたとも言える。

 では一応念のために、楽曲「ハートブレイク・ホテル」に関する“3つの常識の大ウソ”を記しておこう。

①エルヴィスが作曲者の一人としてクレジットされてはおるが、実質の作曲者はPoint-5でご紹介したメイ・ボーレン・アクストンと、彼女の作曲パートナーだったトミー・ダーデン。エルヴィスの名がクレジットされた理由は、エルヴィスがレコーディングの際にブチかました素晴らしいアレンジ唱法に驚愕したアクストンからの厚意、またエルヴィスの印税収入まで計算したパーカー大佐のビジネスアドバイスによるものだった。
②エルヴィスは「ハートブレイク・ホテル」に宿泊したことはなく、このホテル内で曲のインスピレーションを得たという情報は全くのデタラメ。エルヴィスはホテルの所在地であるフロリダ州ケナンズビルでさえ訪れた形跡はまったくない。
③歌詞のモデルとなったフロリダ州のホテルで自殺した若者は、「ハートブレイク・ホテル」で自殺したのではない。

クストンは1997年に83歳で亡くなっており、終生にわたり楽曲「ハートブレイク・ホテル」誕生の経緯について詳しく語ることはなかった。頭脳明晰で芸術家肌だった彼女は、事実を詳らかにすることは永遠の名曲に対するファンそれぞれの信仰心やイマジネーションを損ないかねないと判断しておったのかもしれない。なんと言う崇高な精神の女性なのか!それだけに世界中のエルヴィス研究家が「ハートブレイク・ホテル」誕生の裏事情の追求を続けておった。そしてついに2016年、真打ちといえる新説が登場した。

 楽曲「ハートブレイク・ホテル」の歌詞は、アクストンが「マイアミ・ヘラルド」という新聞に掲載されていた「若者の自殺記事」の中に記載されていた遺書の一節「私は孤独の道を行く」をヒントに書き上げたとされておったが、その新聞記事を探し当てたアメリカのカールトン大学ランディ・ボズウェルという教授によると「孤独の道云々」という報道は記事内に見当たらなかったそうじゃ。教授は更に当時のアメリカ南部で発行された新聞をしらみ潰しに当たった結果、1955年にテキサスで起きたまったく別事件の報道の中で「私は孤独の道を行く」の記述を発見した。(見習うべきすげえ~執念じゃ!)
 その事件自体の記述はここでは避けるが、事件は自殺ではなく他殺じゃった。殺された若者が少々“いわくつき”であり、殺される以前に引き起こしていたまた別の事件でしょっぴかれた後に「私は孤独の道を行く」という一節を書いたメモを書きしたためていたという。

て、ここからは更に別の情報とわしの想像のミックスになるが、どうか読んでみてほしい。上述したテキサスの別事件の新聞記事を読んで最初に作曲のイメージを掴んだのはアクストンではなく、トミー・ダーデンだったらしい。トミーは「孤独の道を行く」という一節をアクストンに紹介。やがてアクストンは、同時期にフロリダ州のホテルで起こった若者の失恋による自殺の記事内容と重ね合わせて曲の骨格を作り上げていったに違いない。これが現時点での「楽曲ハートブレイクホテル誕生」に関するわしの解釈じゃ。

 アクストンは原曲が出来上がった後、まずグレン・リーブスというロカビリー・シンガー(左写真)に試験的に歌わせたデモテープを製作しておる。アクストンによると「エルヴィスは何度も何度もグレンの歌ったデモを聴きながら、自分のフィーリングを練り上げていました」とのこと。
 グレンはエルヴィスの為に書かれた楽曲であることを承知でデモ製作に協力したわけじゃが、アクストンから「あなたの名前も作曲者としてクレジットしましょうか」という申し入れを何故か断ったという。
 一方、「ハートブレイク・ホテル」をRCAからデビューシングルとしてリリースすることを選択したのはエルヴィス自身であり、グレンとエルヴィスとの先見の明の有る無しが出たようなエピソードじゃ。でも
グレンの歌いっぷりも、垢ぬけてはいないが悪くはない!聴き方によっては、「エルヴィスの参考になるように」とエルヴィス唱法を意識したような歌い方でもある。

こまで読んで頂いたならば、名曲誕生にフロリダ州ケナンズビルに実在していた「ハートブレイク・ホテル」自体は関わっていないことがもうお分かりじゃろう。このホテルについても少々調べてみたが、創業は1915年。その後しばらくホテル名は「パイニーウッズ・イン」だったのじゃ。
 1956年当時のオーナーじゃったジェームズ・ウォレス・ウェッブ氏は、エルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」の爆発的なヒットにあやかってホテル名を「パイニーウッズ・イン」から「ハートブレイク・ホテル」にチェンジしたのじゃ。このPoint-6パートのトップに、1950年代のモノクロ写真を掲載してあるが、外壁は現在とはまったく別色のレッド一色じゃった。また写真をよく見ると“Heartbreak HOTEL”の表示の左側に“Webb's”という文字が見える。Webbとは、ホテル名を改名したオーナーであるウェッブ氏のことじゃ。
 
 このホテルは元々客入りが悪くてホテル全体が荒涼とした雰囲気だったらしく、改名する以前から地元民に「失恋ホテル Heartbreak Hotel」と呼ばれていたという説もあり!いずれにせよ、楽曲の誕生とホテルの存在とは何の関係もないのであった。
 ちなみに当時の宿泊料は2日で3ドル、1日延泊する毎に2ドルという記録が残っておる。

 現在も建物は健在である「ハートブレイク・ホテル」じゃが(右写真)、ホテル業は行われてはおらずに個人所有建造物になっておるようじゃ。外壁はモスグリーンに塗装し直され、“Heartbreak HOTEL”の表示の左右両端に三つ葉のクローバーがあしらわれておる。三つ葉のクローバーやグリーン系カラーは、この建物の所有者(居住者)がアイルランド系移民の血を引いておるということじゃろう。
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「エルヴィスは神々しいまでに輝きを放っていた」byトム・ペティー
Point-7 映画「夢の渚」ロケ地“バードネスト・ブリッジ”&“夢の渚通り”/ヤンキータウン


 1961年7月、エルヴィスは軍隊除隊後3作目にあたる映画「夢の渚/Follow That Dream」の撮影のために、フロリダ州のヤンキータウンというメキシコ湾側の小さな街に入っておる。「夢の渚」は青い海と大空の下で繰り広げられるラブコメディ(と多少のドタバタ劇)。“平均的なエルヴィス映画”との評価が一般的じゃが、ファンの中には「エルヴィスが撮影中もっともリラックスしていた様に観える映画」「自然の形状が一般的な海洋リゾート地域とは違って楽しめる」といったご意見もネット上で散見できる作品じゃ。

 西端がメキシコ湾に面したヤンキータウンは、東西約15キロ、南北2~6キロの小さな地域であり、北側にはヤンキータウンよりも遥かに広大なガルフ・ハンモック野生動物保護区があり、まさに森と海に囲まれた大自然の中にある。
 地域の東西を貫く国道40号線周辺各地が主なロケ地であり、映画のポスター等で幅広く使用されておるエルヴィスが共演女優とともに写り込んでおる「バードクリーク・ブリッジ」と呼ばれる橋の袂でのショット(上左写真)が映画のシンボル写真になっておる。「バードクリーク・ブリッジ」は映画撮影時と形状もほぼ同じなままで現存しておるぞ。(上右写真)
 またエルビス演じる主役トビーのお屋敷は、バードクリーク・ブリッジのすぐ西側の川岸辺りにあったらしい。ブリッジ周辺をストリートビューで確認するとお屋敷のあった位置周辺に現在は道が見当たらないので航空写真を代わりに掲載しておこう。(右写真)
 「バードクリーク・ブリッジ」が国道40号線上にあることで、国道40号線の西端(メキシコ湾側、下右写真)から98号線に到る約10キロ間は1996年に「Follow That Dream Park Avenue.」(夢の渚通り!)と命名された。(下左写真)

 1970年後半からロックスターになったトム・ペティは少年時代に「夢の渚」の撮影を見学しており、「エルヴィスは神々しいまでに輝きを放っていた」とコメントしておる。一方のエルヴィスじゃが、映画全編において“太っている”様に撮影されていると愚痴をこぼしておったそうな(笑)

 エルヴィスは約二ヶ月間ヤンキータウンでの撮影に参加し、宿泊先はヤンキータウンの南側約17キロにあるクリスタル・リバーという地域じゃった。このクリスタル・リバーにはザ・ポート・ホテル・アンド・マリーナというホテルがあり、エルヴィスが宿泊していたかのような記述がネット上で見られるが、ホテルのサイトでは「エルヴィスがこの地域に滞在とした」といった曖昧な記述のみなので、今回ご案内を控えさせて頂く。
 なおエルヴィスは撮影期間中にクリスタル・リバーで約2時間に渡るサイン会を開催したが、その際パーカー大佐は「村興し協力金」とばかりに、クリスタル・リバー管理局側へ10,000ドルを請求したらしい!さすがは大佐、がっちりしてまんな~。

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エルヴィスが食べた処で食べよう!
Point-8 コ二ーアイランド・ドライブイン/ブルックスビル


 上記Point-8でご案内したヤンキータウンから南へ約65キロ、クリスタルリバーから約50キロの位置にブルックスビルという街に、62年前から現在に至るまで店を構え続けているコニーアイランド・ドライブインなるホットドッグ店がある。エルヴィスが「夢の渚」撮影期間中に何度かランチの為に立ち寄ったとされる地元の人気店じゃ。お店の宣伝コピーは一貫して、
“Eat Where Elvis Ate!”(エルヴィスが食べた処で食べよう!)である。

 このお店は「夢の渚」が撮影された1961年の前年にオープンしたばかりであり(上左写真)、エルヴィスが立ち寄った噂が広まることで経営が軌道に乗ったに違ない。エルヴィスが座ったとされるテーブルは、エルヴィス・コーナーと名付けられて店内の人気ポイントであり続けていることは言うまでもない!(上中央写真)
 名物メニューは超ロングサイズのホットドッグであり、エルヴィスは更にチーズフライとコーラをオーダーしていたとのことじゃ。(上右写真)お店のオーナーは、このロングサイズのホットドッグよりも長いドッグは、1970年代半ばにウォルトディズニーワールドでお目にかかっただけと豪語しておる!

しかしながら忙しい撮影の合間に、エルヴィスが片道数10キロ離れた場所までわざわざ食事に行くこと自体がちょっと不思議!?周囲が緑に囲まれている林道のような道路で車をぶっ飛ばして気晴らしでもしておったのじゃろうなあ。

 現在コニーアイランド・ドライブ・インはブルックスビルから約50キロ南下したザファーヒルという街にも店舗があり、この両店は定期的に無料のエルヴィス・プレスリー・ショウを店舗敷地内で開催しておる。遠い昔に訪れた偉大なる顧客を讃える行事を怠っていないとのことじゃ。
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春ということもあって、明るく元気が出そうな場所、常夏の地フロリダ州へご案内したがいかがでしたかのお。
 エルヴィスと言えばメンフィス!ラスヴェガス!!というイメージが圧倒的に強いが、フロリダ州も調べるほどにエルヴィスの1950年代の栄光の痕跡がザクザクと出て来たわい!ということは大金にまつわるエピソードも自動的に多くなるってことで、パーカー大佐の登場回数も増えたわい(笑)前編の今回は1950年代のエルヴィスゆかりの地をメインにしたので、次回後編は1960年以降のゆかりの地をより多くご案内する予定であります。

 実はPoint-3でご案内した、オリンピア・シアターでのライブ期間中にエルヴィスが宿泊したロバートクレイ・ホテルで行われたマイアミ・デイリー・ニュース紙のインタビューの一部が締切日直前に見つかった為に、今回はご紹介出来なかったのが非常に残念!
 また「ハートブレイク・ホテル」の作者メイ・ボーレン・アクストンのエルヴィスのインタビュー内容も、一部状況確認が未了ゆえに今回は割愛せざるをえずこれも残念!! この2つのインタビューは、若きエルヴィスが非常に真摯に受け答えをしており、その真意はまるで「Elvis the pelvis」(pelvisとは骨盤のこと)と大人たちから非難、揶揄されている事に対して静かに反抗しているようでもあるのじゃ。こうしたアウトテイクの原稿が他にもいっぱい溜まっちまったんで、「先乗りレポ」じゃなくて「後乗りレポ」としていつか披露させて頂きたい!
 それでは次回、「フロリダ州後編」のツアーでお会いしよう!

(右写真は、1956年8月5日、Point-1でご案内したフォート・ホーマー・ヘステリ―・アーマリーのステージ裏でのエルヴィス。同じ会場でファースト・アルバムのジャケ写が撮られてから約1年後のエルヴィスである!)

 

【付録】 バーチャル・ロックンロール・ツアー(エルヴィスゆかりの地)Googleマイマップ

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