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(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。) |
テネシー州に隣接する8つの州の中で、エルヴィスの攻勢がもっとも遅かったのがケンタッキー州とジョージア州じゃ。どちらも最初にライブが行われたのが1955年12月。つまりエルヴィスのサンレコード在籍期間にはこの2つの州ではライブは無し。 ケンタッキー州は「バーチャル・ツアー第13回」でご紹介した通り、結局1950年代はライブは2回のみ。一方ジョージア州は1956年に入ってからは6月いっぱいまでに5会場、9回(昼夜の2回はここでは1回とカウント)行われておる。 詳細の調査において少々難儀だったのは、ジョージア州の各会場でのエルヴィスのパフォーマンス写真が未だにネット上でほとんど露出していないことじゃ。大手レーベルRCAに移籍後とはいえ、当時はミュージシャンのライブ記録を克明に残す作業はレコード会社では重要視されていなかったのか?ちなみに1956年後半になるとシングル曲が立て続けにナンバーワンヒットになっていただけに、突然当時のライブ写真が増えるが、RCAやマスコミがエルヴィスの一挙手一投足に目が離せなくなり、急に写真記録の必要性に目覚めたんじゃろうな(笑)しかしその頃はジョージア州でのライブは無しじゃ。今回ご案内するポイントは、記録写真がまだ少なかった1956年前半のジョージア州でのライブ会場を中心にお届け致しやす!
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プロモーションに手抜かり? 観客100人未満?だったRCA移籍直後のライブ Area No.1/Serial No.128 スポーツ・アリーナ跡地/アトランタ エルヴィスは12日前にサンレコードから大手レコード会社のRCAへの移籍契約を果たしており、まさに前途洋々!光り輝くキャリアがスタートしたばかりの頃じゃ。そんな矢先、この初のアトランタのライブにおいて、RCA&パーカー大佐のマネージメント側が“ヘマをやらかした!?” エルヴィス自身はRCAから事前にこの日の出演料300ドルを受け取っていたが、スポーツアリーナにはほとんど客が来なかったのじゃ。某アトランタの報道サイトでは「1,000人未満だった」とされておるが、サンレコードのサイトには入場料の総収入がたったの285ドルとされておる。当時のエルヴィスのライブ入場料の相場は3ドル前後だったのでそれを基準とした場合、1,000人どころか100人も入っていない計算になる! ※参考までにサンレコードのサイトの原文は次の通り。 「~and the gate was said to have been only $285.」 文中のthe gateとは入場料という意味であり、入場料一人285ドルのわけがないので、入場料の合計としか訳すことが出来ん。(一応知人の英語教師にも訳してもらったが、入場料もしくはその合計と判断する以外は考えられないとのこと) 2,850ドルの誤植だとしたら入場者1,000人未満という先述した報道サイトの情報通りにはなる。それにしてもサンレコードも、不入りの説明としてはおかしな方法を使うもんじゃな。(正しい訳し方が分かる方は是非教えてほしい!) この不入りの原因はひとえにプロモーション不足だったようで、当日の新聞広告(上左写真)以外は一切プロモーションの記録が残っていないそうじゃ。実は11月末から移籍契約の件で大佐もRCAも大忙しだったようで、前日の12月1日は大佐とエルヴィスはニューヨークのRCAオフィスにおり、そこでRCAの重役連中との長時間ミーティングも行われておる。 また2日はRCAから最初のエルヴィスのシングルレコード(「ミステリートレイン/忘れじの人」のリイシュー盤/右写真)の発売日でもあり、多忙ゆえの大佐とRCAの“上手の手から水が漏れる”がごときミスだったのじゃろう。 一方エルヴィスは、ファンを大切にする性格ゆえに僅かなお客の為にも懸命にプレイしたことは間違いないじゃろうが、「さあ、これから俺のロックンロールを思う存分ブチかますぞ!」と勢い込んでいたはずだけにさぞかし“ずっこけ”ちゃったことじゃろう。 チケットはスポーツ・アリーナのキャパ一杯の3,000枚が用意されていたそうじゃが、その大半が紙屑と化し、会場使用料やニューヨークからアトランタまでの移動費等を含めて一体いくらの損失が出たのか、なんてセコイ事を考えてしまうが(笑)、この程度の赤なんてエルヴィスの1回のコンサートだけで充分に埋めることは出来たはずではある! 左写真はストリートビュー2022年2月撮影の跡地。古い写真には会場の前に鉄道線路が敷かれてあったが、現状写真(ストリートビュー)を最大拡大表示すると、写真上に敷いた薄いピンク色の部分に線路が塗り被せられたコンクリートの経年劣化によって少しだけ見えるので、わしなんかはじい~んとくるな(笑) 周囲はオフィスビル、倉庫、工場などが雑然と点在している地域であり、かつてここに「キング・オブ・ロックンロールの“ずっこけ”ライブが行われた会場があったなんて誰も知らないじゃろうな(笑) ■Google-map上の位置■ |
ジェームス・バートンやキース・リチャーズが惚れ込んだシンガー、 グラム・パーソンズはエルヴィスのライブによって目覚めた! Area No.2/Serial No.129 シティ・オーディトリアム/ウェイクロス ジョージア州ウェイクロスと言われても、我々日本人にはまったく馴染みのない同州南部の田舎街じゃが、スコッティムーアのサイトには次の様な説明書きがある。 ウェイクロスはアメリカ南部、もしくは東部への旅路の交差点として、1800年代の中期には鉄道が敷かれて栄えた街だったんだそうじゃ。WayCrossという名前は鉄道で旅をしておる者が命名したんだとか。旅人気質の抜けないわしには、なかなか味わい深いオハナシじゃ。日本で言えば、東海道と中山道とが交差する地方の街みたいなもんか! 後に日本にも上陸することになる海鮮レストランの大チェーン店「レッドロブスター」を立ち上げた起業家が、この街で最初のレストラン「ザ・グリーン・フロッグ」を始めたという歴史もある街じゃ。平たく言えば「大いなるビジネスチャンスのある街」ってことじゃ。 このウェイクロスでエルヴィスは1956年2月22日にライブを行っておる。この当時のライブ記録にしてはめずらしくエルヴィスの衣装記録や演奏曲目も残っておる。 “メンフィスの火の玉と呼ばれるアトミック・パワー・シンガーのエルビスは、ラインストーンのカフスボタンが付いたライムグリーンのシャツを着てステージに上がり、彼の黒い髪はダックテイルに戻った。曲には、「ベイビーレッツプレイハウス」、「ツッティフルッティ」、「ハートブレイクホテル」、カールパーキンスの「ブルースエードシューズ」など”。 更にこの日の観客の中に、1960年代末期から1970年前半にかけてのロック史を彩ることになるシンガーのグラム・パーソンズ(当時10歳)がおった。パーソンズに「エルヴィスを観たことは僕にシンガーとして生きて行くことを決意させた」と言わしめたライブだったらしい。 【グラム・パーソンズについて】 パーソンズはフォーク・ロック/カントリー・ロックと言われたジャンルの中の人気バンド、バーズやフライング・ブリトー・ブラザーズに在籍した後、2枚のソロアルバムを発表。商業的には大きな成功を収めることは出来なかったが、いわゆる“ミュージシャンズ・ミュージシャン”(ミュージシャンの間で評価が高い者)的な存在だった。 ソロ・アルバムにはTCBバンドのジェームズ・バートン、ロニー・タッド、グレン・D・ハーデンが参加しておる。特にジェームス・バートンはグラム・パーソンズの才能に惚れ込み、2枚のソロアルバムに参加しただけに留まらず、グラム・パーソンズの恋人兼音楽の相棒だったエミリュー・ハリスの傑作アルバム「エリート・ホテル」も全面的にサポートしておる。(ちなみにグラムのソロアルバムとエミリューの「エリートホテル」はいずれもわしの愛聴盤デス!) また1969年のローリング・ストーンズの全米ツアーの最中、キース・リチャーズはグラムと知り合って意気投合し、グラムから当時はマニアックだったナッシュビル・チューニング(ギターチューニングの一種)を伝授されたらしい。そんなグラムとキースの交流から生まれたのがストーンズの名曲「ワイルド・ホース」だったという。 グラム・パーソンズは1973年にドラッグの過剰摂取で命を落としておるが、エルヴィスに対する憧憬は生涯にわたって強かったようで、エルヴィスのゴールドラメ・スーツを作成したヌーディーズに自ら赴いて特製のホワイト・スーツをオーダー。このスーツはヌーディーズの中で有名作品のひとつであり、現在は「カントリー&ウエスタン・ミュージックの殿堂」に展示されておる。(左写真、ヌーディ・コーンとグラム・パーソンズ) また1970年2月のエルヴィス・ラスベガス・ロングラン・ライブにも、グラムは仲間たちと訪れて、ステージ前のかぶり付き席で鑑賞しておる写真も残っておる。このエルヴィス・ラスベガス・ライブの感動を元にして「ウー・ラスヴェガス」(セカンド・ソロアルバム収録)を書いたらしい! スコッティのサイトのラストに、1956年2月22日のライブ体験者の談話が2008年になって追加掲載されておるが、その中に「エルヴィスはピンクのズボンを履き、シャトルリューズのジャケットを着ていた」との述懐がある。これが記憶違いでなければ、右上に掲載したステージ写真はこの日の撮影ではないことになる!?(モノクロ写真とはいえ、どう見てもピンクのパンツには見えない) ジャケットの“シャトルリューズ”とは、恐らくイエローが少しミックスされた透明感のあるグリーンの同名リキュールの色じゃろう。シャツは上述の通りライムグリーンだから、上半身がシャトルリューズとライムグリーンで、下半身がピンクのコーディネイトだったとしたら、もうブットンダセンスじゃな。着こなしを見てみたかったもんじゃ。 ウェイクロスのシティ・オーディトリアムは街の歴史的建造物として何度かの改修がほどこされながら、現在でも稼働しておる。(右写真はストリートビュー2019年7月撮影) ■Google-map上の位置■ |
ベートーベンなんかクソ食らえ! チャイコフスキーにも知らせてやろう!! Are No.3/Serial No.130 ベル・オーデイトリアム/オーガスタ 1956年3月20日と6月27日、エルヴィスはジョージア州オーガスタという街のベル・オーディトリウムでライブを開催しておる。ライブ履歴と各ライブ詳細の記述が徹底されておるスコッティ・ムーアのサイトには何故か詳細がスルーされておるが、ジョージア州の報道サイトには“とんでもないライブだった”という記述がある! (左写真は1940年代のベル・オーディトリウム。当時の名称はムニシパル・オーディトリウム) 当時のエルヴィスのライブは何処でも女の子たちの凄まじい狂乱が起こっていたが、6月27日のライブはわしの読んだ報道サイトの記述が物凄くオモシロカッタ!ので簡潔に要約してご紹介しよう。 「エルヴィスは、燃えるような赤なジャケットを着てステージに登場した!その時の騒音は宇宙の彼方まで届いてしまうような爆音だった。この日のエルヴィスはまるで巨大な2人の聴衆に向かってパフォーマンスしているようだった。ベル・オーディトリアムと、ステージの反対側にあったミュージック・ホールである」 後半は少々説明が必要じゃな。ベル・オーディトリアムの一方の端にステージを設けると収容人員は約5,000人。更にステージの真後ろの座席は約1,000人。この日は全ての座席が使用されており、つまりエルヴィスはステージ前と後ろの座席に向かってパフォーマンスしており、その様子が「2人の聴衆」と表現されておる。それだけ、ステージ前と後ろの観客がそれぞれに一体化していたってことじゃ。 更に6月27日のライブから2日後にメディアに掲載された、ローズマリー・ラムなる方のライブ・レポートも凄い! 「エルヴィスはまるで消防車の様な真っ赤なジャケットを着ていました!バンドメンバーも真っ赤なジャケット!!バンドメンバーのジャケットはワン・スリット、エルヴィスはツー・スリット入り!警備員に守られながらエルヴィスがステージに登場した時の女の子たちの歓声はハンパなかったです。まるでジョージア州の全て学校が燃え上がって崩れ落ちている様でした。私は2ドルを払ってチケットを買いましたが、もう床(通路)にひれ伏してしまうほどの感激でした。私の周囲の観衆は、私を“床の敷物”としか見ていなかったでしょう!まさにベートーベンなんてクソ喰らえ!チャイコフスキーにも知らせてやろう!!って気分でした」 「ベートーベンなんて~」という一節は、ご存知チャック・ベリーの「ベートーベンをぶっ飛ばせ」の歌詞からの引用じゃ! ベル・オーディトリアムはその後改装されたものの現在も稼働中。2013年に全米ツアーが開催されたエルビスのトリビュートコンサートの会場のひとつとして利用されておる。(右写真、ストリートビュー2019年3月撮影) またベル・オーディトリアムの真後ろには、エルヴィスと親交の深かったソウルの帝王ジェームス・ブラウンの功績を讃えて建立された「ジェームス・アリーナ」がある。ジェームス・ブラウンは幼少期をオーガスタで過ごしていたのじゃ。 ■Google-map上の位置■ |
新聞史上初!好意的レビューで讃えられたライブ Area No.4/Serial No.131 スポーツ・アリーナ跡地/サバンナ ライブ写真がネット上では非常に乏しいジョージア州での1956年度前半のライブの中で、写真ゼロながらも見逃せないライブ記録が6月25日サバンナという街のスポーツ・アリーナで行われたライブじゃ。(某英字サイトの掲載写真は、別会場でのショットと判明)サバンナはArea No.3でご案内したオーガスタから約200キロ南下した大西洋に面した街じゃ。 サバンナでのライブ当時は、「ハートブレイクホテル」とエルヴィスのパフォーマンスに世の中の大人たちがビックリ仰天!した直後であり、当然ながら非難轟々で新聞でもエルヴィスは叩きまくられた。そんな時、サバンナ・イブニング・プレスという現地の新聞が、全米の新聞史上初めて(?)エルヴィスに対して敬意を表した、ロバート・エップスなる記者の評論を掲載した。少々長い評論なのでここでご紹介は出来ないが、ライブでの凄まじい女の子たちの狂乱ぶりを描写しながら、エルヴィスの演奏やライブ・パフォーマンスの真剣さを讃え、ライブ終了直後のエルヴィスを「15ラウンドを戦い抜いたボクサー」のようだったと描写しておる。パフォーマンス自体には、その動きはヨーロッパヤマカガシ(へびの一種)の様であり、マイクを使って(ボクシングの)ダッキング、ボブ、ウィービング、クリンチを続けているようだったと!(笑)〆の一節は、エルヴィスのライブは会場全体を「ワールドシリーズ第7戦」の様な高揚感、盛り上がりだったとしておる。 またサバンナ・イブニング・プレスは、ロバート・エップスの記事掲載の3日後、今度はエルヴィス・ファンの女の子のコラムも掲載しておる。こちらの大意は次の通り。 「皆んな、エルヴィスの事をろくすっぽ読み書きも出来ない、きちんと挨拶も出来ない田舎の少年とバカにしているけれど、エルヴィスの魅力は10代の私たちじゃなきゃわかりっこないわ!いいえ、10代以外の人たちにも分かってほしいワ!野暮ったいDJや批評家たちはエルヴィスを非難しているけれど、彼らはエルヴィスに嫉妬しているだけでしょっ!女性たちがジェーン・マンスフィールド(マリリン・モンローと並ぶ当時のセックスシンボル的女優)に嫉妬していることと同じことよ」(パチパチ by七鉄) 素晴らしい評論コラムが残された「サバンナ・スポーツ・アリーナ」じゃが、ライブ写真はおろか、当時の建物の写真も閉鎖された経緯の記録も見当たらなかった。某エルヴィス・マニアが跡地を見つけてお手製の「記念プレート」(左上写真)を跡地に捧げたという本人のブログは発見したが、肝心の跡地の写真が掲載されておらず。 このエルヴィス・マニアをスポーツ・アリーナへと導いた人物は当地で美術館を経営する大のエルヴィス・ファン。1956年6月25日のライブの体験者でもあり、またアルフレッド・ウォートハイマーが写真集「エルヴィス21歳の肖像」を出版した際、アルフレッド氏から直筆サインを書き添えてプレゼントされたそうじゃ、(右写真) またスポーツ・アリーナ跡地に捧げられた記念プレートには住所が記されてあったが、その住所の番地(2519 E. Gwinnett Street)は現在Google-mapでは消滅しておるようじゃ。E. Gwinnett Streetは現在2417番地で行き止まり。その先にスポーツ・アリーナがあったのじゃろうが、ストリートビューも2417番地まで。(下左写真2022年2月撮影)。また航空写真もあわせて、かつて存在した2519番地とおぼしき場所を掲載しておくぞ。 ■Google-map上の位置((E. Gwinnett Street2417番地))■ |
後の大統領から名誉の訪問を受けたホテル Area No.5/Serial No.132 オムニ・ホテル跡地/アトランタ オムニ・ホテルは、エルヴィスが1970年度のアトランタ公演の際に何度か利用したホテル。コンサート会場となったオムニ・コロシアムと同じ敷地内に建てられておった 左写真は1973年6月30日にオムニ・ホテル滞在中のエルヴィスを訪問した、当時のジョージア州知事であり、後の第39代アメリカ大統領ジミー・カーター氏と奥様のロザリンさん。この写真をオムニ・コロシアムのバックステージとしておるサイトもあるが、当時のエルヴィスはライブ前のバックステージではあまり時間を割かなかったという記録もあり、エルヴィスの穏やかな表情からもバックステージではなく、ホテル内である可能性が高い。 エルヴィスはカーター氏が大統領に就任した1977年1月に、ホワイトハウスへ祝福の電話をかけていたことがカーター氏自身の供述から明らかになっておる。 しかしその時のエルヴィスはほとんど“ストーンした”状態で途中からろれつが回っていなかったとカーター氏は語ったとされるサイトもある。その後、エルヴィスは何度もホワイトハウスに電話してきたが、カーター大統領が電話に出ることは二度となかったという・・・嘘か誠かわからんが、このエピソードに興味のある方は、一応こちらのサイトでご確認を。 またオムニ・ホテル内のエルヴィスの写真は、当時のガールフレンドのリンダ・トンプソンやリサ・マリーとのショットがネット上にアップされておる。(左、下写真)この写真は撮影日以外は記録が明らかではなかったが、他の写真との日付を照合した結果、恐らく上述したカーター州知事の訪問を受けた日と同日、同じ場所であることが判明。エルヴィスは上下空手着を着ており、部屋のインテリアから、バックステージやリサ・マリー号の中ではなく間違いなくホテルである。 なお、リンダ・トンプソンは当時数多く存在したエルヴィスのガールフレンドの中でも、まだ幼なかったリサ・マリーをもっとも可愛がっていたそうじゃ。リンダさん本人の談によるとエルヴィスが亡くなった時、リサ・マリーはすぐにリンダさんへ電話で知らせたという。 またリンダさんは、エルヴィスのインパーソネーター(なりすまし、モノマネ)に対しても常に寛大な態度をとっていて、エルヴィスの死後も彼らとカメラに収まったりしておる。それはエルヴィス自身がそうだったからと話しておる。性格のよろしい方のようで! 当パートのトップ、右写真の手前の白いビルがオムニ・ホテル。左後方の茶色のビルがオムニ・コロシアム。スマートでシンプルなホテルと、正反対に造形美術的なコロシアムが隣接している状態がおもしろい!オムニホテルの記録はネット上では乏しく、いつ閉館、取壊されたのかは不明。跡地の現状に関しては、オムニ・コロシアムのパートを参照。 なお前日の6月29日にもオムニ・コロシアムでコンサートを開催したエルヴィスは、同日付のRCAレコードからのリクエスト・レターを受け取っておる。恐らくオムニ・ホテルのエルヴィスの部屋に届けられたに違いない。 レターには、ニューアルバム2枚とニューシングルの製作依頼が記されておる。ニューアルバムのうち1枚は、“宗教音楽(Relegious Music)”と指定されておる。 この手のやりとりはRCAとパーカー大佐との間で行われるはずなので、エルヴィスの元へRCA側から直接リクエストが来ていたことは意外ではある。音楽、レコーディングに関しては、エルヴィスは大佐抜きで仕事を進めたかったのか!?一応レターの最終行には、大佐へもレターのカーボンコピー(cc)が送られておることが明記されてはおる。 エルヴィスの生きた42年間の毎日の記録をほぼもらさず調べ上げた驚くべき記録集「Elvis Day By Day」には、1973年6月29日の行動記録とともに、この日エルヴィスが受け取ったリクエストレターの写真が掲載されておる!(左写真) |
12回連続ソールドアウト!の会場は、実は欠陥建築物だった!? Area No.6/Serial No.133 オムニ・コロシアム(ザ・オムニ)跡地/アトランタ 1972年に開場し、プロ・バスケットボールチームとアイスホッケー・チームの本拠地でもあったこの会場は、収容人員約16,000人のキャパを活かしてビッグアーティストのアトランタでの音楽ライブもほぼ独占して開催してきた会場じゃ。もちろんエルヴィスの12回チケット・ソールドアウトは同会場のトップ記録! 1973年7月3日にエルヴィスの父ヴァ―ノン、娘リサ・マリー、当時の恋人リンダ・トンプソンが仲良く3人で会場入りする様子が撮影されておる。(左写真)当然ながらライブにおけるエルヴィスは家族の見守る中で絶好調であった、という数多くの証言が残されておる。 エルヴィスの栄光の70年代の軌跡の代表的な舞台になったオムニ・コロシアムは、1996年にはアトランタ五輪のバスケットボール競技会場にも使用されるなど、栄えある歴史を重ねていたにもかかわらず、五輪の翌年には取り壊されることになり、わずか24年で歴史に幕を下ろしておる。 オムニ周辺の土地再開発の為とされておる一方で、実は建物の構造に大きな欠陥があったらしい。アトランタ地方の高温多湿に充分に耐えられる建築がなされておらず、1980年代からたびたび構造欠陥が指摘されて密かに問題視されていたのだという。エルヴィスのコンサートによる大音量、大喝采も建物の劣化に影響があったのか!? オムニ・コロシアムの敷地内には上述したオムニ・ホテル(Area No.6)も隣接しており、先に閉館、取壊しとなったオムニホテルも含めた跡地は、現在新しいコンサート会場「ステイト・ファーム・アリーナ」とCNNの本社ビルCNNセンターとなっておる。右写真はストリートビュー2021年7月撮影。 ■Google-map上の位置■ |
エルヴィス宿泊時の外観を留めるアトランタ有数の大型ホテル Area No.7/Serial No.134 ストーファー・イン・ホテル/アトランタ 1976年12月30日、エルヴィスは上述したオムニ・コロシアムで17,000人の観衆を集めたライブを開催しており、その前日29日にチェックインしたホテルがストーファー・イン・アトランタであった。オムニ・コロシアムまでは車で10分程度の距離に位置していた。 このホテルは1972年にオープンした客室数約500を誇る大型ホテルであり、エルヴィスは“やはり”最上階のスペシャル・スイートに宿泊したようじゃ。 上左写真は、1976年頃に撮影されたという上階レストランからの風景ショット。エルヴィスもきっとこの風景を眺めながら食事をしたのであろう。上右写真は、オープン当初に特集記事を報道した新聞紙上の写真。 また1976年12月30日は、エルヴィスの最後の恋人でありフィアンセだったジンジャー・オールデンとの写真(下中央写真)がもっとも多いと思われる日でもある。エルヴィスのソロショットを含めて、ホテルから会場に向かう場面、車の中での場面、またライブ終了後に空港へ移動して「リサ・マリー号」に搭乗する場面などの様々なショットがネット上でアップされておる。 ストーファー・イン・アトランタは、その後経営母体がシェラトン・ホテルやメリア・ホテルと変わり、現在ではクラウン・プラザ・ホテルになっておる。右写真は、ストリートビュー2017年3月撮影のクラウン・プラザ・ホテル。ビル自体は建て替えられることなく、エルヴィスが宿泊した当時と同じ模様。 なおエルヴィスはストーファー・インを気に入っていたのか、それとも単なる偶然だったのか、エルヴィス最後のライブである1977年6月26日インディアナポリス公演の際に宿泊したホテルは系列ホテル「ストーファー・イン・インディアナポリス」であった。 ■Google-map上の位置■ |
観客数100人未満だった(かもしれない)アトランタ・スポーツ・アリーナ跡地やら、12回連続16,000枚のチケットがソールドアウトだったアトランタ・オムニ・コロシアム跡地やらご紹介したジョージア州編はこれにて完了。他にも、どうしても裏付けがとれなかったエルヴィスが宿泊したとされるホテルや食事をしたらしいレストラン等もあるので、これらはいつの日か「エルヴィスゆかりの地~やっと裏付けがとれました編」とやらでまとめて紹介しよう! 1968年の「カムバック・スペシャル」でロッカー/シンガーとして復活した以降のエルヴィスの軌跡を追うと、ライブツアー中はほとんどライブ会場とホテルもしくは空港との往復ばかりだったようで、1950年代の様なファンとの交流や様々なハプニングの記録が少ない。これは恐らくどの地域の記録を調べてみても同じなのじゃろう。こんな事からも活動後期のエルヴィスのストレスが溜まり続けていき、エルヴィスが緩やかに死に向かっておることを知らされるってもんじゃ。 しかし1970年代のエルヴィスゆかりの地に関して、ライブ会場や宿泊ホテル跡地ばかりのご案内では、調査の段階からオモシロない。やってる本人がオモロなかったら、ツアーに参加された方がオモロイはずもない。この難点をクリアするには、ネット情報だけではなく、エルヴィスに関する書籍を片っ端から読破し続けて知識を増やすしかない!あらためて「バーチャル・ロックンロール・ツアー」を続けること、楽しんで頂き続けることの大変さを実感しておりますわい。正直なところ、ジョージア州編ではさっそく“話題不足”に陥っておることもまた承知しておりますが、今回はどうかこれでご勘弁頂きたい。ボリュームたっぷりのステーキには及ばんので、サイドメニュー、箸休め的に楽しんで頂けたら幸いじゃ。ではまた次回のツアーで! (右写真~1973年6月30日アトランタ・オムニ・コロシアムでのステージショット) |
【付録】 Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」 下地図の内容をここでは気にされる事なく、 まずは地図右上の[ ]マークをクリックし"拡大地図を表示"させて下さい。 ★当ページでご案内してきた全場所が再度、エリア番号(赤丸内番号、メンフィス内の番号)と第1回からのシリアル番号(通し番号)で表示されます。 ★地図の初期画面では、メンフィス全域が表示され、更に地図を縮小していくと、第1回目からご案内してきた場所が全て表示されていきます。 ★地図上の番号入り赤丸をクリックすると、その場所の名前、写真、簡易紹介文が御覧になれます。 ※更に詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 まずはコチラの[ ]をクリック ↓ |
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