NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.388


第14回 エルヴィスゆかりの地~ミズーリ州編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 エルヴィスのホームグランドであるメンフィスを擁するテネシー州をぐるりと取り囲む8つの州。そいつを片っ端から訪ねるプランで再開した「バーチャル・ロックンロール・ツアー」は、(わしにしては珍しく)プラン通りに進んで、今回はミズーリ州じゃ。前回ご案内先が少なかったケンタッキー州と併せて幾つかのポイントを取り上げたが、今回は全面的にミズーリ州じゃ。
(左地図の緑色の州はテネシー州と隣接しておる州で、赤チェックマークはご案内済みの州じゃ)

 賢い諸君のことだから既にご存知のはずじゃが、一応念のためにミズーリ州のエルヴィスゆかりの地をご案内する前にひとつ説明しておくべきことがありますぞ。今回カンザスシティを2箇所ご案内するが、この都市はお隣のカンサス州ではなくてミズーリ州に属するのじゃ。そう、リトル・リチャードの「カンザスシティ」で歌われておる都市じゃ。「カンザスシティがカンザス州ではない」って紛らわしいがどうか今後ともお間違えなく!

 ケンタッキー州にはかつてエルヴィスの祖父ジェシー・D・プレスリーさんが住んでおったことを前回ご紹介したが、ミズーリ州にもエルヴィスの親族の方々がいらっしゃった!ライブ会場とか宿泊先だけではなく、その辺の情報も加えたのでどうかお楽しみ頂きたい。

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー 
    エルヴィスゆかりの地~第14回 ミズーリ州編 

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は各州内での番号、Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 
Area No. 5/Serial No.120 ミズーリ・シアター跡地/セントルイス
 
Area No. 6Serial No.121  キール・オウディトリアム跡地/セントルイス
 Area No. 7Serial No.122 ムニシパル・オウディトリアム/カンサスシティ
 Area No. 8Serial No.123 デイモン・レコーディング・スタジオ跡地/カンザスシティ

 
Area No. 9Serial No.124  シュリン・モスク/スプリングフィールド
 Area No.10/Serial No.125  レイル・ヘブン・モーテル/スプリングフィールド
 Area No.11/Serial No.126 プレスリー・セールス・アンド・サービス/サイクストン
 Area No.12/Serial No.127  マコーミック蒸留所/ウェストン
 

 
【付 録】  Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロール・ツアー訪問地」
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順


 【バーチャル・ロックンロールツアー第1回~13回 リンクバナー】


エルヴィスが遅刻して罰金125ドルを徴収された会場!
Area No.5/Serial No.120  ミズーリ・シアター跡地/セントルイス
 ミズーリ・シアターは1921年にオープン以来、国内最大級の収容人員数(約3,500人)と超豪華な内装、さらに画期的なエアコンディションによって、セントルイスでもっとも人気の高い劇場であったという。黒人文化、黒人音楽の普及が容認されていたセントルイスには様々なタイプの音楽家たちが集まってきており、ミズーリ・シアター出演することが彼らの大きな目標でもあったそうじゃ。メンフィスで言えば、エルヴィスが床屋に行っている最中に駐禁の切符を切られた「マルコ・シアター(現オルフェウム・シアター)」の様な存在じゃ。
 左写真、中央の「MISOURRI」の前方、「ST.LOUIS」のネオンが光る建物はは姉妹劇場の「セントルイス・シアター」。

 1955年10月21日からの3日間、エルヴィスはロイ・エイカフを座長とする約20人からなるミュージック・ジャンボリーの一員としてミズーリ・シアターに出演しておる。ジャンボリーの演奏は3日で計7回も行われていて、各回ともに大盛況だった模様。エルヴィスがジャンボリーの他のメンバーと一緒にステージ上で演奏しておる珍しい写真も残されておる。(下中央写真)
 また右写真の告知広告を御覧頂きたい。大きく「Grand Ole Opry」との表記がある。これは約1年前、デビュー直後のエルヴィスがまったくウケずに大恥をかいたナッシュビル老舗のラジオ・ミュージック番組。その時の専用会場ライマン・オーディトリアムにはエルヴィスは二度と出演しておらんが、リモート出演はしていたんじゃな!


 希少な記録?としては、10月23日の午後2時からのステージにエルヴィスは遅刻してしまったそう。理由は「財布を忘れて一度ホテルに取りに戻ったから」とのこと(笑)しかしロイ・エイカフ座長は怒り心頭。「若造のクセに緊張感が足りんぞ。けしからん!」と(言ったかどうかは定かではないが)、エルヴィスに出演を許さなかったという。結局、当時エルヴィスのマネージャー特別顧問だったパーカ大佐の承諾を得て、エルヴィスが座長に罰金125ドルを支払うことで無事に出演出来たという逸話が残っておる。

 ミズーリ・シアターは大人気スポットだったにも拘わらず、姉妹劇場のセントルイスシアターが完成した後の1957年に閉鎖になり取り壊されている。現在は別のビルが建っている。
 右写真はストリートビュー2022年3月撮影。「POWELL」の青い看板があるビルの手前の空き地にミズーリ劇場があった。
■Google-map上の位置■


 ゴールド・スーツ・ライブ第2弾劇場!
Area No.6/Serial No.121 キール・オーディトリアム/セントルイス

 「ミズーリ・シアター」同様、セントルイスの中でも格式の高いイベント会場として名高く、オペラ劇場と連結していた会場が「キール・オウディトリアム」。左写真は正面入り口。演奏会場自体は、この写真の後方に別棟として隣接していた模様。
 エルヴィスは1956年元旦にミュージック・ジャンボリーの一員として出演し、また1957年3月29日には単独公演を果たしておる。
 二度目の出演の頃は、ロックンロール・ヒット曲のみならず、映画「やさしく愛して」も大ヒット中であり、セントルイスの音楽公演史上最大の大熱狂ぶりが未だに語り草になっておる。観客数は約11,000人。

 またこの二度目のキール・オーディトリアム公演は、エルヴィスがゴールドラメのスーツを着てステージに現れた二度目の公演として記録されておる。(一度目は前日のシカゴ・インターナショナル・アンフィシアターでのステージ)
 ゴールドラメ・スーツはいわば空前のエルヴィス・フィーヴァーを象徴するファッションであり、その(2回目の)御披露目会場に該当することはキール・オーディトリアム、またセントルイスにとって名誉なことじゃろうな!セントルイスの熱狂的エルヴィス・ファンにとっても、ゴールドラメのスーツは一生瞼に焼き付いておるに違いない。
 バックステージのショットも何枚か発表されておるが、右写真はその中の代表的な1枚。エルヴィスはジャケットを着替えておる模様であり、ファンの女の子たちのエルヴィスへのむしゃぶりつき方がハンパない!まだあどけなさの残る少女たちのエルヴィスを見つめる瞳がいたいけというか、純粋というか、ヤバイというか(笑)
 特に左から二番目の、エルヴィスの喉元に滑り込んでおる女の子の瞳が印象的じゃ。これより以前に、エルヴィス、音楽関係無しに、人間のこんな表情の写真なんて見たことがない。憧れのスターを見る瞳でもない。恋人を見る瞳でもない。イエスキリスト像に祈りを捧げる瞳でもない。エルヴィスという強烈な存在によって、現実と夢の世界との境界線を突破してしまった者の瞳じゃ。
 当時、記者会見場やバックステージでエルヴィスはカメラマンの要請によって女の子たちとカメラに収まることが多く、時にはポーズやアングルを指定されることもあったらしいが、このショットがカメラマンからの意図的なポージングだったとしても、星の数ほどあるエルヴィス・ショットの中で、わしは密かに“隠れた名ショット”としておる1枚じゃ。

 また当時のエルヴィスがファンを大切しておったという評判は高く、スコッティ・ムーアのサイトでは、以下のような一文をこの写真のキャプションの様に書き添えしておる。
「エルヴィスはゴールドのスーツと同じくらい黄金の生活を彼に提供しているファンに忠実に気を配っている若い男のように見えた」

 エルヴィスは後に、1970年9月10日、1973年6月28日、1976年3月22日にキール・オーディトリアムに登場しておる。同会場は、エルヴィス以外にも、ジョニー・キャッシュ、ボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズ、ニール・ダイヤモンド、ビリー・ジョエル、ブルース・スプリングスティーンらの錚々たるビッグアーティストが出演しておる。

 1993年に正面入口を含むオペラ劇場側を残して、キール・オーディトリアム(音楽演奏会場)側は解体され、現在はセントルイス・ブルース・アイスホッケーチームのホームリンクを擁するエンタープライズ・センター・ビルディングになっている。上写真はストリートビュー2022年2月撮影。左側写真は演奏会場のあった建物側。右側写真は現在の正面入口。
■Google-map上の位置■


“郷土自慢”の歌手も歌も吹っ飛ばしてしまったエルヴィス・フィーバー!
Are No.7/Serial No.122 ムニシパル・オーディトリアム/カンザスシティ

 カンザス・シティ。“シャウト・ブルース”という豪快極まりないブルース唱法で名を馳せたビッグ・ジョー・ターナー(左写真)の故郷であり、名曲「カンザスシティ」のタイトルになっておる街!ビッグ・ジョー・ターナーはエルヴィスも大好きな「シェイク・ラトル・アンド・ロール」をヒットさせとるし、楽曲「カンサスシティ」を作曲したジェリー・リーバー&マイク・ストーラーは「ハウンド・ドッグ」「監獄ロック」「ドント」も手掛けておるし、単純で自分勝手なイメージは「エルヴィスとカンザスシティは繋がりが深いはず」じゃたが、実はエルヴィスは1950年代は1回しかカンザス・シティでライブを行ってはおらんのでありました(笑)
 まあ楽曲カンザスシティの歌詞も、カンザスシティの土地柄や住人の特質特有が描かれておるわけでもないし、ビッグ・ジョー・ターナーを意識した曲調にたまたまKansas Cityという発音がフィットしただけって感じ(笑)気を取り直して1950年代唯一のエルヴィス・ライブ・イン・カンザスシティの会場へご案内しま~す(笑)

 会場はダウンタウンにあるムニシパル・オーディトリアムで、時に1956年5月24日。シングル「ハートブレイク・ホテル」がビルボードのヒットチャートでNo.1になった直後!会場に集まった約3,000人の女の子たちにとって、ビッグ・ジョー・ターナーも楽曲「カンサスシティ」も、そんなモンはドーデモイイ!って頃じゃな(笑)
 実はこの会場での最初のスーパー・アイドルの登場は1954年11月13日のエディ―・フィッシャー(50年代初期~中期のアイドル・シンガー)であり、この時にエディ―フィッシャーに群がる女の子たちの写真が残されており、元々カンサスシティの女の子たちはスーパーアイドルに熱くなりやすい質なのか(笑)
 エルヴィスのライブに関する翌日の新聞紙上の熱狂レポートも凄くて、読んでいて支離滅裂な表現が多くてヨクワカンネーゾ状態!少しだけピックアップしておこう。

 * エルビスの登場による群衆の反応は、エディ―・フィッシャーの時と同様に、エルビスの曲の1つである「TooMuch」のタイトルそのものであった!(スゴ過ぎるってコト?)
 * ライブ開始直後から若者たちがステージに押し寄せ、よじ登ろうしていた!中にはエルヴィスにキスして早くも(ライブに来た)目的を達成した女の子たちもいた。
 * エルヴィスは自分の服を引きちぎって(ばら撒いて?)ステージの奥へと逃げ込んで行った。
 * エルビスは9時30分に緋色のコートと黒いパンツを履いてステージに上がりました。明らかに12歳から17歳までの数百人の少女が席を離れ、大急ぎで突進した。群衆の中には、ほとんどエルヴィスに触れられる距離内に押し寄せた10代の少年が数人いました。エルビスがギターの最初の音をひねる前に、一人の女の子が飛びつきました。彼女は泣き叫び、警備員によってエルヴィスから引き離されてステージから連れ出され、それからエルビスはようやく演奏をスタートさせることが出来ました。
 * 観客はエルヴィスと一緒に(行くこと?)を決心した。(???)彼らはステージの正面と側面からエルヴィスを取り囲み、ボタン、シャツの一部、彼のダックテイル(髪の毛?)、またはつかむことができる物は何でも手を伸ばしました。もうエルヴィスは動けなくなってしまった。

とか、何とか(笑)これだけ読むと、ほとんど演奏出来ない凄まじい状況が想像出来る。

 このカンザスシティのムニシパル・オーディトリアムじゃが、1935年開場当時は、「世界​​で最も優れた10の建物の1つ」と呼ばれておったそうな。内装、宿泊施設に費用は惜しまず、配色、照明、家具、アートワーク、そして豊富なアールデコ調のデザイン要素、そして豪華な外観デザインが選択されて完成したと建築記録に書き記されておるらしい。
 政治集会、スポーツ・イベント、オーケストラ公演、大掛かりなサーカスなど、ビッグ・イベントを開催を続ける歴史を重ねて来た会場史上、もっとも女の子たちの歓声(&悲鳴)や暴動で屋根が崩れ落ちるほどの熱狂状態になったのはこの日が最初で最後だったのじゃ。
 下左写真は、1974年6月29日に同会場に再登場した時のエルヴィス。この日は、キングに相応しい素晴らしい会場で、キングらしい“音楽ライブ”が披露されたとのことじゃ。

 ムニシパル・オーディトリアムは、その後何回かの改装と座席増設を経て現在でも稼働中。下右写真はストリートビュー2021年6月撮影)■Google-map上の位置■



エルヴィスが初めてレコ―ドにしたい!と願った曲のレコーディング・スタジオ
Area No.8/Serial No.123 デイモン・レコーディング・スタジオ跡地/カンザスシティ
 エルヴィスにとってのカンサスシティを象徴する歌は、「カンサスシティ」でもビッグ・ジョー・ターナーの曲でもなかったとするならば、それは「マイ・ハピネス」かもしれない!?
 この曲はご存知の通り、エルヴィスがアマチュア時代の1953年7月(8月という説もあり)にサンレコードで約4ドルでシングル盤を作った時に吹き込んだ曲じゃ。オリジナル・テイクを歌っておるのは、ジョン&ソンドラ・スティールという男女のデュオであり(左写真)、1948年5月にカンサスシティにあったデイモン・レコードレーベル所有のレコーディング・スタジオで録音されておる。

 エルヴィスはこの曲をグラデス・ママのプレゼントの為に録音したとか、高校時代のガールフレンドの為にとか説があるが、それはこの際どうでもええ。 実はデイモン・レコーディング・スタジオ(右写真)は、偶然ながらも上述したカンザス・シティ・ムニシパル・オーディトリアムのすぐ近くにあったのじゃ!このスタジオは一度移転しておるが(正式な移転時期は不明)、移転前と移転後の場所はいずれもムニシパル・スタジアム周囲じゃった。

 移転後のデイモン・レコード・スタジオの入ったビルは、ムニシパル・スタジアムの東側徒歩2分の位置にあり、現在は大型アパートになっておる。(右写真右側のビル。その前方に見えるビルがムニシパル・スタジアム。ストリートビュー2021年8月撮影)
 果たしてエルヴィスがムニシパル・オーディトリアムでのライブ前後の時間にデイモン・レコーディング・スタジオを訪れていたのか。そもそもエルヴィスはスタジオの場所を知っておったのかはいずれも不明。しかし「Elvis Kansas city」を検索ワードにしてネット検索すると、やたらとデイモン・レコーディング・スタジオの存在を知らせるサイトがヒットする。
 勿論「エルヴィスが訪れた」という記述はないが、好みの音楽に関してはかなりマニアックに追求する質だったエルヴィスだけに、「デイモン・レコーディング・スタジオを訪れていた可能性高し!」と思いたいものじゃ(笑) 
■Google-map上の位置■



 「大佐、エルヴィスが何処にも見当たりません」「慌てるな。万事わしに任せておけ!」
Area No.9/Serial No.124  シュライン・モスク/スプリングフィールド

 エルヴィスのミズーリ州でのライブ軌跡を追っていると、一ヶ所だけ不思議な記述がなされておる会場があった。1956年5月17日にライブが行われたスプリングヒルという街にあったシュリン・モスクじゃ。昼間に現地入りしたエルヴィス一行じゃが、エルヴィスは宿泊予定だったホテルにチェックインする前に行方不明になってちょっとした騒動になったという。
 パーカー大佐は、会場の警備員(元警察官)に「会場からもっとも近い映画館はどこだ?そこにエルヴィスがいるはずだ」と捜索を指示。案の定エルヴィスは数ブロック先の映画館でグレン・フォード主演の西部劇映画「ジュバル(邦題:去り行く男)」を鑑賞しておったらしい。
 エルヴィスの行動パターンを知り尽くしておったパーカー大佐は大したマネージャーじゃが、何故エルヴィスはライブ前にこっそり映画鑑賞なんかに出かけたのか?この小さな騒動を紹介しておったサイトには「恐らくエルヴィスは厳しいライブ・スケジュールから解放されて、少し平和で静かな場所を見つけようとしたに違いない」と記述しておる。
 
 この日のライブ自体にも、某サイトは「エルヴィスのライブにしては珍しく観客が少なかった」と記述しておるが、果たして?既に「ハートブレイクホテル」が全米のヒットチャートで暴れまくっておる頃であり、事前の新聞広告もバッチリ。地元のデパートからは「エルヴィスのレコードはまだ在庫があります!お早めにどうぞ!」なんつう告知まで出ておった。実際に「熱狂的な女性客たちで大盛況だった」と記しておるサイトもあり、真相は不明じゃ。

 またライブ音源が無いので原因は分からないが、ライブ終了後にエルヴィスとコーラスのジョーダネアーズを含むバックバンドとの間でちょっとした論争が起こったらしい。ライブ前にエルヴィスが行方不明になったことが問題視されたのか?エルヴィスのヴォーカルが本調子ではなかったのか?バンドメンバーたちからギャラの安さに不平不満が噴出したのか?これまた真相は不明じゃ。故意か偶然か、スコッティ・ムーアのサイトにもこの日のライブについては詳細は何も記されておらん。論争があったことだけはどうやら間違いが無く、その後エルヴィスは再び単独行動を起こすことになる。(下Area No.11 レイル・ヘブン・モーテル参照)

 なお後年TCBバンドのリズム・ギタリストとしてエルヴィスを支えることになるジョン・ウィルキンソン(当時10歳)が、ライブのスタート前に楽屋に忍び込むことに成功して憧れのエルヴィスに会えたという。
 上写真は、現シュライン・モスク。「Abou Ben Adhem Shrine Mosque」と改名された後に現役のライブ会場として稼働中。(ストリートビュー2019年8月撮影)
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 1956年5月17日(火)、この夜キングは孤独を求めた
Area No.10/Serial No.125  レイル・ヘブン・モーテル/スプリングフィールド
 シュライン・モスクでのライブ終了後の論争が終わると、エルヴィスは一人でシュライン・モスクを出て深夜のスプリングフィールドの街へ。宿泊が予定されていた最高級ホテル「ケントウッドアームズ」ではなく、モスクから徒歩30分ほどの位置にある「レイル・ヘブン・モーテル」にチェックインしたんだそうじゃ。きっと昼間の映画鑑賞同様に、独りになりたかったのじゃろうなあ~。

 ストリートビューによってシュライン・モスクからレイル・ヘブン・モーテルまでの道程を辿ってみたが、繁華街どころか飲食店もほとんど見当たらないありふれた住宅街が続いており、この区間を約65年前にエルヴィスは歩いて移動したとされておる。精神的にだいぶお疲れだったのじゃろう・・・。頭ン中を巡っていたのはどんな思いだったのか。

「くそっ大佐の野郎、メチャクチャなスケジュールを押し付けやがって!明日は何処に行きゃいいんだよ」
「ったく一人で映画も観られやしねえ。少しはほっといてくれよ」
「大歓声は嬉しいけど、演奏がよく聞こえなくて歌いづらいな」
「ホテル暮らしももううんざりだ。あ~家にけえりてーなあ~」とかなんとか。ミズーリ州スプリングフィールドに行くことがあったら、必ずこの徒歩30分の道程を夜に歩いてみたいもんじゃ。


 レイル・ヘブン・モーテルは現在でも稼働中であり、正式名称は「ベストウエスタン・ルート66・レイル・ヘブン」。エルヴィスが泊まった409号室は「エルヴィス・スイート」と名付けられ、キャデラックの型で装飾された特製キングサイズのベッドが目玉!(上左写真、上右写真は現在の入口付近)
 その他モーテル内は程よいロックンロール&カントリー・テイストによってコーディネイトされておる。エルヴィスが宿泊したという事実、エルヴィススイート以外にはこれといった特徴がなさそうなモーテルじゃが、ウェブサイトにアップされた約40枚の写真のうち数枚が1950年代当時の美しくノスタルジックな写真であり、これがなかなか味わい深い。歴史を大切しておることが伺い知れる誠実なモーテルのようじゃ。2010年には国家歴史登録財に追加されておる。
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エルヴィスの一族が経営する業務店は、ただ今一生懸命営業中!
Area No.11/Serial No.126 プレスリー・セールス&サービス/サイクストン


 ミズーリ州サイクストンには、エルヴィスにとって大叔父に当たるフロイド・プレスリー(エルヴィスの祖父の兄弟)一家が住んでおった。エルヴィスは午後8時からのナショナル・ガード・アーモリーのライブ前に大叔父の家に立ち寄って夕食をご馳走になったんだそうじゃ。
 また同年9月7日にも再びサイクストンの同会場でエルヴィスはライブを行っており、その時はライブ終了後に地元のクラブへ行って2~3曲ブチかました後に、大叔父の家に宿泊したという。
 スコッティとビルはその晩メンフィスへ帰り、エルヴィスは翌朝早く彼らを追ってメンフィスまで車で戻り、さらにその日のミシシッピー州クラークスデールでのライブの為に3人一緒に車を飛ばして向かったそうじゃ。サイクストンからメンフィス中心地まで約240キロで車で2時間半ほど。メンフィスからクラークスデールまで約120キロで車で1時間半ほど。まあ若者なら移動出来ない距離ではないな!

 エルヴィスの大叔父フロイドさんじゃが、先述した祖父のジェシーおじいさんよりは仕事熱心で生真面目な方だったようで(笑)、実はその後家族3代にわたってサイクストンに住んで「Presley Sales &Service」という業務店を経営されておることもスコッティのサイトに掲載されとる。冷暖房管理をはじめとした家屋の内装工事を幅広く請け負う業務のようじゃ。
 現在はフロイドさんのお孫さんがオーナーらしいが、エルヴィスと同世代だからかなりのご高齢であるだけに、子供さん(フロイドさんのひ孫さん)が現在の実質オーナーさんになっておるのじゃろう。ストリートビューで確認すると(下写真、2019年7月撮影)現役の業務店として稼働しておる。

 ホームページには業務店の略歴も明記されておるが、“エルヴィス・プレスリー云々”は一切書かれていない。立派なもんじゃ!祖父のジェシーおじいさんと同様に、エルヴィス・ファミリーともグレースランドとも関わりのない家族の歴史を重ねておるんじゃろう。
 ストリートビューで確認出来る建物が一家のご自宅も兼ねておるのか、またそこにエルヴィスが宿泊したかは定かではないが、実際に訪ねてうかがったら簡単に解明するじゃろう。ミズーリ州の“隠れた”エルヴィスゆかりの地とも言えるかもしれんな!もしサイクストン移住予定のある方は「プレスリー・サービス・アンド・セールス」に何卒ご贔屓の程を(笑)
■Google-map上の位置


 キングがバーボン・ウイスキーのディキャンタにあしらわれていた!
Area No.12/Serial No.127  マコーミック蒸留所/ウェストン
 マコーミック蒸留所McCormick Distilling Companyとは、カンサス州との州境に近いミズーリ州ウェストンにある蒸留所じゃ。1856年設立されたこの蒸留所は、今では国家歴史登録財に登録されており、ミシシッピ川の西側で最も古い蒸留所であり、現在も元々の場所で操業しておる。バーボン、スコッチ、ウォッカ、ジン等蒸留しておるお酒の種類はとても多い。醸造所ではなくて蒸留所なので、アルコール飲料の原液を作るのではなく、お水より沸点の低い穀物類を発酵させた液体を一度気化させた後に温度を下げて液体に戻し、水を加える等してアルコール飲料として製品化する場所じゃ。わしの様な酒好きにはタマラン場所じゃな!

 ここでエルヴィスが飲んだくれていたというハナシがあるってのは冗談でありまして、実はマコーミック蒸留所で作られるお酒の中で1960年代後半からもっとも売上に貢献したのが、エルヴィスを模ったセラミック製のディキャンタ入りバーボン・ウィスキーだったのじゃ!試しに「Elvis Missouri McCormick」でネット写真検索をしてみてほしい。結構な種類のエルヴィス・ディキャンタがずら~りと登場するぞ!マコーミック蒸留所のディキャンタシリーズは歴史上の人物からマリリン・モンローらの大衆のヒーロー/ヒロインなど様々な種類があるが、ダントツ人気だったのがエルヴィス・シリーズであり、合計40種類のディキャンタが作られたんだそうじゃ。中にはオルゴール付のディキャンタもあった。お酒の種類はストレート・バーボン・ウイスキー(4 years old / 80 proof)。


 エルヴィス・ディキャンタの製造は1983年までとされており、現在ではe-Bay等の海外オークションにも登場しており、最低落札金額が10,000ドルもする種類もある。中でもちょいと驚いたのは、2016年7月にグレースランドが主催するオークションに、空手着を羽織ったエルヴィスがディキャンタに模られた物が約3万ドルで登場しておったことじゃ。一番人気のディキャンタってことなんじゃろうか!?

 エルヴィスに関する肖像権などの権利関係に殊更厳しい規制を敷いていたパーカー大佐とマコーミック社との間にどのような条件の契約が交わされていたのかが大変興味があり、マコーミック社に関してネットで調べまくってみたが契約の詳細は残念ながら現時点で掴めずであります。
 ストリートビューでマコーミック蒸留所を訪ねてみると、山間の風光明媚な場所にあり、建物の中に入るとエルヴィスやモンローのディキャンタが綺麗にディスプレイされていたりして、如何にも美味しいお酒が造られていそうじゃ。ディキャンタ自体は別の場所で製造されていたと思われるが、納品されたディキャンタにバーボンが入れられて製品化されたのはこの場所じゃ。
 恐らくエルヴィスが足を運んだことはないと思われるが、ミズーリ州でエルヴィスゆかりの地巡りをするならば是非とも訪問しておきたい場所じゃ。(右写真は、ストリートビュー2020年1月撮影)
■Google-mapの位置■


ルヴィスの親族の業務店やエルヴィスのディキャンタまで紹介してみた「ミズーリ州」は、わしの方が楽しんでしまったみたいじゃが、いかがでしたかのう?
「あのなあ~七鉄のジイサマよ。そんな事より、もっとエルヴィスの音楽に関するゆかりの地を優先しろ!」っつうご意見も聞こえてきそうじゃが、まあ本当のエルヴィス観光ツアーをするのであれば、こうした本筋からちょっと外れた周辺情報をつまみ食いしていくのも楽しいはずじゃ!と決め込んでこの度ご案内した次第じゃ!

 では調子こいて(笑)、エルヴィス周辺情報を最後にもうひとつ。世界中にぎょうさんおるエルヴィスのターミネーター、じゃなくて、えーと、インパーソネーター(なりすまし、ものまねをする人)の中でももっとも有名な方の一人、エルヴィスのいとこのジェリー・プレスリーさんの活動の場もミズーリ州なのじゃ。ブランソンという街に自前の会場「ゴッド・アンド・カントリーシアター」を所有しており、現在でも精力的にライブショーを開催しておる。(■Google-map上の位置■)インパーソネーターとはいっても、ジェリーさんは1970年からエルヴィスのトリビュートコンサートを続けており、モノマネの域を越えたモノホンのシンガー!
 そのライブのセットリストは、例えば2022年5月は毎週土曜日が「エルヴィス・ラストコンサート」、木曜日が「エルヴィス・アロハ・フロム・ハワイ」、火曜日が「マディソン・スクエアガーデン」のそれぞれ完全再現ライブ。この週3回のライブ・スケジュールを継続してこなしており、年末には「クリスマス・ウィズ・エルヴィス」という企画もある。詳しくは
「ゴッド・アンド・カントリーシアター」のウェブサイトをチェック願おう!
 何故上記3パターンの再現ライブなのかと思ったが、一般的に需要が高いプログラムってことなんじゃろうな。50年代のロックンロール・セットやカムバックスペシャルの再現だと、年齢的にキツイのかな!(笑)ジェリーさんの今後も変わらぬご活躍を願うばかりじゃ。“あとがき”まで騒がしい内容で失礼をしたがではまた次回のツアーのご参加をお待ちしております!


【付録】 Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」

下地図の内容をここでは気にされる事なく、

まずは地図右上の[ ]マークをクリックし
"拡大地図を表示"させて下さい。

★当ページでご案内してきた全場所が再度、エリア番号(赤丸内番号、メンフィス内の番号)と第1回からのシリアル番号(通し番号)で表示されます。メンフィス全域内における各場所の位置を俯瞰確認出来ます。
★地図の初期画面では、メンフィス全域が表示され、更に地図を縮小していくと、第1回目からご案内してきた場所が全て表示されていきます。
★地図上の番号入り赤丸をクリックすると、その場所の名前、写真、簡易紹介文が御覧になれます。

      ※更に詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 

                                 
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