NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.390


第16回 エルヴィスゆかりの地~アラバマ州編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 エルヴィスのホームタウンであるメンフィスを擁するテネシー州、それを取り囲む8つの州を巡るツアーもラストが近づいてきたぞ。今回はアラバマ州じゃ。(左地図参照。✔マークはご案内済みの州)
 エルヴィスのアラバマ州への進撃は他州に比べて比較的早く、最初は1955年1月19日。以降、1955年一年間で合計8会場、11回(昼夜2回は1回でカウント)のライブが行われておる。
 ところが、エルヴィス大ブームが全米で巻き起こっていた1956~1957年、つまりエルヴィスがサンレコードからRCA移籍した後はゼロ!アラバマ州は、パーカー大佐の強欲ビジネス・プランから完全に外されてしまっておった。
 また1955年のアラバマ州でのライブの写真がほとんどネット上で見つからない。ライブ写真どころか、会場写真も少なく、所在地すら明確にされておらん会場もある・・・。ネット調査の限界を痛感してしまったわい。

 「バーチャル~」をスタートさせて以来、アラバマ州ほどネット資料不足に悩まされた州はないので「いっそアラバマ州はスルーしちまおうか?」とも!?それでも、各ライブの文字記録を丹念に追っていくと興味深いエピソードが散見出来たので、視覚的魅力抜きでも何とか楽しんで頂けるようなページにしてみたので、どうかご賞味あれ!

 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー 
    エルヴィスゆかりの地~第16回 アラバマ州編 

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はアラバマ州内での番号、Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.1/Serial No.135 シェフィールド・コミュニティー・センター跡地/シェフィールド
 Area No.2Serial No.136  アムトラック・ステーション/シェフィールド
 Area No.3Serial No.137
  ヴィガー・ハイスクール・オーディトリアム
                                    /プリチャード
 Area No.4Serial No.138  グレイター・ガルフ・ステイト・フェアー跡地
                                      /モビール
 
 Area No.5Serial No.139 ブルーギル・レストラン/スパニッシュ・フォート
 
Area No.6/Serial No.140
 ステイト・コロシアム/モンゴメリー
 Area No.7/Serial No.141  ミュニシパル・オーディトリアム/モビール
 Area No.8/Serial No.142 アドミラル・サマーズ・ホテル/モビール 
 

 
【付 録】  Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロール・ツアー訪問地」
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順


 【バーチャル・ロックンロールツアー第1回~15回 リンクバナー】


 “若きエルヴィスの寄港”をささやかに謳い続けるライブ跡地
Area No.1/Serial No.135  シェフィールド・コミュニティーセンター跡地/シェフィールド

 エルヴィスがアラバマ州のステージに最初に立ったのは、1955年1月19日アラバマ州シェフィールドのこの会場じゃ。エルビス、スコッティ、ビルの3人は夜のライブの前に、シェフィールド北端を流れるテネシー川を渡ったフローレンスという地域にあったラジオ局WJOIに立ち寄って同局のスタジオにて「シェイク・ラトル&ロール」をレコーディングしたという。プロデューサーのトミー・ヴァン・サントは同ラジオ局の所有者の子息だったらしい。同年8月2日、11月25日にもエルヴィスは同会場でライブを行っておる。

 サム・フィリップスの回想によると、それまでの「シェイク・ラトル&ロール」のリハーサルは“いまひとつ”だったが、当日(1月19日)の演奏には大変に満足し、夜のライブへエルヴィスら3人を快く送り出したそうな!また正確なライブ記録は詳らかにされておらんが、翌日の地元の新聞記事によると、会場となったシェフィールド・コミュニテーセンターはライブ開始から僅か15分ほどで開場以来サイコー!の盛り上がりをみせたという。チケットは前売りが75セント、当日売りが$1.00。子供たちは前売り50セント、当日売りが75セントだったそうじゃ。

 また地元のウェブサイトによると、シェフィールドという街は「エルヴィス・ブーム」「ロカビリーブーム」が本格的に訪れる前にデビュー直後のエルヴィスのライブが行われた史実を記念して、シェフィールド・コミュニティーセンター跡地近くに、半抽象的なロカビリーミュージシャンのアルミニウム製の記念像を設置している。(上写真)
 このアルミ像はエルヴィスには似ていないものの、ジェリー・リー・ルイスやジョニー・キャッシュやロイ・オービソンらもブレイク前にライブを行った史実まで踏まえて、「ロカビリー普及に貢献した地」としての歴史をアピールしておる!
 シェフィールド・コミュニティーセンター跡地は現在Park Placeなる大型アパートになっておる。
(右写真ストリートビュー2019年6月撮影)
■Google-map上の位置■

【追加情報】
 1955年11月25日のシェフィールド・コミュニティーセンターでのライブ終了後、エルヴィスは地元の女子高校生キャロライン嬢とデートしたそうじゃ。半世紀以上も過ぎた2011年12月、キャロライン嬢は「How About a Date~Encounter with young Elvis」なるタイトルで、デート体験記を出版したのじゃ。「How About a Date」とは、“デートしない?”ってエルヴィスが彼女を誘った時の最初の言葉とか!
 この本はまだ入手しておらんので内容は分らんが、amazonのレビューをチェックしてみると割と評判がよろしい。それまで発表された様々なエルヴィス関連の書籍にも書かれていなかった知られざる若きエルヴィス像がたくさん描かれておるらしい。どうやら熱狂的女性ファンの単なる自慢話ではなさそうじゃ!
 本の表紙写真は若きキャロライン嬢のベストショットじゃろうが、なかなかの知的美人じゃな。他の地域のライブでも同様のエピソードが幾つか明らかにされておるが、エルヴィスが自らデート相手に選んだ女性は知的美人が多いのお。バービー人形みたいじゃったプリシラさんとは正反対じゃな(笑)



 キング、駅弁を買う!
Area No.2/Serial No.136 アムトラック・ステーション/シェフィールド
存知、アルフレッド・ウォートハイマ―によるショット。撮影日時は1956年7月3日。(サイトによっては7月4日表記もあり)撮影場所はアラバマ州シェフィールドのアムトラック・ステーション。当日はメンフィス・ラスウッドパークで「故郷凱旋ライブ」が行われた日であり、エルヴィス一行はニューヨークから27時間かけて列車でメンフィスに戻る途中であり、列車がアムトラック・ステーション停車中にランチパックを買うために一時下車したエルヴィスを収めた1枚じゃ。
 周囲のご老人たちは誰一人エルヴィスに気が付いておる者がいないように見える。それゆえなのか、エルヴィスも正装はしておるものの当たり前の日常の中に身を置いておるような平静感を醸し出しておるな。
 一方、エルヴィスの背後におるのはメンフィス・マフィアのジュニア君?いつにも増して異様な不気味っぷり!(笑)せめて飯を買ったり食ったりする時ぐらいは笑顔を見せればいいのにい~。このしかめっ面は、エルヴィスのボディーガードというよりもまるで“毒味係”みたいじゃな!

時のアラバマ州の鉄道状況を調べてみたところ、どうやら 「アムトラック」とは駅名ではなく、鉄道の路線名。当時の正式な駅名は、Sheffield Yd.のようじゃ。上右写真は当時の鉄道路線マップであり、Sheffield Yd.という表記の駅(地図上の赤丸参照)がエルヴィスがランチパックを買った駅と思われる。
 また現在も稼働中の鉄道線路は、ストリートビューで駅舎があったと思われる場所を確認してみると、現在の鉄道が客車用なのか貨物車用なのかは不明じゃ。(右写真ストリートビュー2019年5月撮影)
■Google-map上の位置■

れにして、見れば見るほど不思議な写真じゃ。時はまさにエルヴィス日の出の勢いの頃!しかも数時間後には故郷凱旋ライブが控えておるというのに、エルヴィスにはスター特有の煌めきや粋がり、大型ライブ出演前の高揚感や緊張感があまり見られない。アラバマ州シェフィールドという人口1万人にも満たない田舎町の小さな駅のランチ売場の光景に、若きキングが違和感もなくすっぽりと収まっておる。こうした本来“ありえない瞬間”を逃さないアルフレッド・ウォートハイマーというカメラマンのセンスには恐れ入りますわい!!
 スターの実像を知りたい!と願うのはファンの常。その願望に対して、こうしたスタンスで応えようとするウォートーハイマ―、わしは素晴らしいカメラマンと思うております。



 エルヴィスが僅か3曲で強制退場させられた!
Are No.3/Serial No.137 ヴィガー・ハイスクール・オーディトリアム/プリチャード
1955年10月26日はエルヴィスの音楽歴の中でも稀有な事件が起こった日じゃった。この日午前10:30、アラバマ州プリチャードという街にあるヴィガー・ハイスクールの講堂にて演奏をスタートさせたエルヴィスは、わずか3曲を演奏をしただけで学校側から(校長先生から?)「ありがとう、ミスター・プレスリー。どうぞお引き取り下さい」とライブの中止を言い渡されたという。(上右写真、右下の建物が講堂部分)
 原因はエルヴィスのパフォーマンスがセクシー過ぎたとか、女の子たちが騒ぎ過ぎて騒動が起こったとかではなく、3曲目に「ミルクカウ・ブルース・ブギー」を歌った後に客席に向かって発したエルヴィスのジョークがOFF COLOR(不適切)と判断されての強制退場じゃった。
 ネット上で公開されておるその不適切なジョークとは、日本語に直訳すると何だかよく分からないが一応ご紹介しておこう。

“結婚なんかするなよ!ミルクってのは毎日買った方が安上がりだぜ!!”

 このジョークの前に歌った「ミルクカウ・ブルース・ブギー」は、女性を牝牛に、牝牛の乳搾りをセックスの前戯に例えたような隠語バリバリの黒人ブルースのカヴァー。この点を踏まえてエルヴィスのジョークの真意を想像すると、まあ冗談半分のこんな感じじゃろうか。

“女の子たちと自由に遊ぼうぜ!いろんな女の子と遊んだ方が楽しいぜ!”

まあこの台詞が、まだ年端も行かぬ少年少女を預かる学校側の逆鱗に触れたっちゅうことなんじゃろうな。基本的には穏やかな性格のエルヴィスだから、パンクロッカーの如く叫ぶようにこのジョークを発したとは思えんが、逆ににこやかにさりげなくかましたことが却って“イミシン”に聞こえちゃったのかもしれんな。

の事件に関する証言をネット上で閲覧出来たが、「エルヴィスは当時アラバマ州ではそれほど有名ではなかったので、ライブが突然中止になっても観客の暴動は起きなかった」とか「ライブを中止させたのは学校側ではなく、(PTAみたいな)なんとか委員会だった」とか、「エルヴィスはライブを中止させられた後に、バックステージで泣いていた」とか「中止になったライブの会場にいた観客に払い戻しはされなかった」等色々アリマシタ(笑)
 中には、ライブの翌日、学校の校舎の窓にはたくさんの女の子たちの「私たちはエルヴィスを愛している!」といったなぐり書きでいっぱいだったってのもアリマシタ!

 ヴィガー・ハイスクールは現在も存続しており、エルヴィスが登場した講堂の内部は構造的には変わっていない模様。900人以上の生徒が通学するアラバマ州で最大規模の教育施設とされておる。(右写真ストリートビュー2022年5月撮影)
■Google-map上の位置■


 “Are you ready to fly ?” “I'm ready, ready to fly”
Area No.4/Serial No.138  グレイター・ガルフ・ステイト・フェアー跡地/モビール
レーター・ガルフ・ステイト・フェアとは、アラバマ州モビールで毎年秋に開催されておった10日間のお祭り。ご当地特産の農作物や畜産物の展示会であり、移動型遊園地が運び込まれ、芸能人たちによる様々なショーも開催される大イベントじゃ。
  1955年10月26日は記念すべき第1回目のグレイター・ガルフ・ステイト・フェアーの開催日に当たり、エルヴィスは上記Area No.3でご案内したヴィガー・ハイスクール・オーディトリアムでの午前中のライブを行った後、このフェスのステージに昼夜2回出演しておる。ハイスクールのライブではたったの3曲演奏しただけでステージを降ろされてしまったエルヴィスは、その後この華やかなお祭りのショーに出演して少しは気が晴れたかもしれない!?

1955年の開催スタート当初のグレイター・ガルフ・ステイト・フェアーは、メキシコ湾へと続くモビール湾に注がれるモビール川とスパニッシュ川によって出来上がった三角州地帯、ブレイクリー島という場所で開催されておった。(上右航空写真がブレイクリー島)
 1970年からは開催地が移動。エルヴィスが出演したブレイクリー島でのフェアー開催写真は、残念ながらネット上では発見出来なかった。現在のブレイクリー島は、90号線が走る西端に何某かの工場が点在する広大な空き地となっており、エルヴィスが出演した第1回目の開催場所を特定する資料も発見出来なかった。上左写真3枚は、1970年以降の開催時の写真。上右写真はブレイクリー島全体の航空写真じゃ。
■Googlr-map上の位置(ブレイクリー島の任意の場所)

ころで、ついに公開になった映画「エルヴィス」じゃが、その予告編の中で遊園地のメリーゴーランドの前でパーカー大佐役のトム・ハンクスがエルヴィス役のオースティン・バトラーに背後から迫ったり、観覧車の中でハンクスが「世界にはばたく時だ!」とバトラーに語りかけるシーンがあるな。映画本編の中ではあのシーンは場所が特定されていなかったと思うが、様々な事実と時代考証が幾重にも重ねられた末に本編に挿入された“充分にあり得たであろう”架空のシーンじゃ。
 わしは「グレイター・ガルフ・ステイト・フェアー」の様々な写真を発見した時、あの架空のシーンを思い出したもんじゃ。実はエルヴィスがフェアーに出演した前々日の1955年10月24日付けでパーカー大佐がサンレコードのサム・フィリップスへ宛てた「エルヴィスのマネージメント権利を獲得する了承をエルヴィスの両親から取り付けた」という手紙が残っておる。あの架空のシーン同様に、現実においてもパーカー大佐はエルヴィスへ急接近を果たしておったのじゃ!ということで、エルヴィスがフェアーに出演した写真は残っていないものの、その代わりに映画の架空のシーンをフェアー出演時のイメージ写真として掲載しておきたい!




若きエルヴィスが破格のギャラを使いまっくた!?レストラン
Area No.5/Serial No.139  ブルーギル・レストラン/スパニッシュ・フォート

 上記Area No.4でご案内したグレイター・ガルフ・ステイト・フェアーでエルヴィスは出演料400ドル(300ドル説あり)を受け取ったとされ、当時としては破格の額の出演料じゃ。(新聞記事も残っておるので、間違いない事実じゃろう-下写真)大金を持ったエルヴィスが訪れた先は、モビールの中心地から車で約10分、モビール湾を横切るバトルシップ・パークウェイの中間地点にある人気海鮮レストラン「ブルーギル・レストラン」だったという。
 まあ午前中に出演したヴィガー・ハイスクール・オーディトリアムでは僅か3曲の演奏で強制退場させられておるので(Area No.2参照)、その正反対ともういうべきご褒美となったでっかいギャラを憂さ晴らしとばかりに「ブルーギル・レストラン」でぱぁ~と使いまくったのかもしれんな!
  またフェアー出演時よりも以前に、1955年5月4日ラッド・スタジアムでモビール初のライブを行った時にエルヴィスは「ブルーギル・レストラン」を気に入り、以降モビールをツアーで訪れた際には必ず食事をするために立ち寄っていたという説もあり!

 いずれにせよ、現存している「ブルーギル・レストラン」は若きエルヴィスのご贔屓店として地元の人気レストランであり続けておる。エルヴィスが座った「ブース24」には、大型のエルヴィス・パネルが飾られておる。当店のFacebookには店内の動画もアップされており、エルヴィスの動画や写真も何度も挿入されておるので
興味のある方は御覧下され!
 (
左写真はストリートビュー2016年5月撮影)
■Googlr-map上の位置■



観客100人未満のずっこけライブの翌日は、ミュージック・コンテストのゲスト出演
Area No.5/Serial No.140  ステイト・コロシアム/モンゴメリー

 前回の「バーチャル~/ジョージア州編」のSerial No.131にてご案内したアトランタ・スポーツ・アリーナでのライブが、RCA移籍後の最初のライブであったにもかかわらず、プロモーション不足により観客100人未満というエルヴィスのライブ史上最悪のワースト事態を招いた事件をご紹介した。その翌日に当たる1955年12月3日のライブが、これからご案内するアラバマ州モンゴメリーのステイト・コロシアムで行われた。
 こちらのライブは、RCA移籍後とはいえエルヴィスのソロ・ライブではなく、アラバマ州モンゴメリーのWBAMラジオが主催する「タレント・サーチ・オブ・ザ・ディープサウス」というタレント・コンテストのステージショーの中でのゲスト出演。エルヴィスの他にもロイ・エイカフ、キティ・ウェルズ、ジョニーとジャック、フレッド・ワンブル、ジャック・ターナーらも出演。恐らくサンレコード時代に取り交わされていた残りの出演契約をこなしたのじゃろう。とはいえ、50人のアマチュア・ミュージシャンが出演したこのコンテスト・ショーは15,000人の大観衆で大いに盛り上がったという。

 1955年12月2日、3日と、RCA移籍直後はエルヴィスの本領を発揮したとはいえないライブ状況が続いたものの、翌4日から4日連続で行われたインディアナポリス州でのライブが実質的なメジャー・エルヴィスのスタートライブになったといえよう。(偶然ながらエルヴィス最後のライブもインディアナポリス州であった)
 一方当時アメリカ最大のミュージック情報紙ビルボードは、12月3日発行号の表紙1面を使って、エルヴィスがRCAと大型契約を交わしたニュースを報じておる。いよいよ、ローカルのロックンロール・スターからキング・オブ・ロックンロールへ大変身するエルヴィス第一期全盛時代到来の号砲が放たれたのである!(右写真)

 ステイト・コロシアムは現在は「ガレット・コロシアム」と名称を変えて稼働中。外観はエルヴィスが出演した当時とほとんど変わっていない。エルヴィスの他、プリンスやケニー・ロジャース等のビッグ・アーティストがステージに立っており、コンサート、スポーツ、サーカス、演劇等の多目的イベントスペースとしてアラバマ州最大規模を誇っておる会場じゃ。(左写真ストリートビュー2019年6月撮影)
 エルヴィス関連のウェブサイトではかつての名称は「モンゴメリー・ステイト・コロシアム」と表記されておるが、一般サイトでは「アラバマ・ステイト・コロシアム」の表記が多い。
■Google-Mapの位置■


 15年ぶりのキング・オブ・ロックンロール!
Area No.6/Serial No.141  ミュ二シパル・オーディトリアム/モビール

 1968年「カムバック・スペシャル」にてロックンローラー/ミュージシャンとして劇的な復活を遂げたエルヴィスは、ライブ活動再開の皮切りとして、1970年2月からラスベガス・インターナショナル・ホテルでのロングラン・ライブを実施。そして同年9月9日のアリゾナ州フェニックス・ベテランズ・メモリアル・コロシアムから1957年以来のツアーをスタートさせた。
 
9月14日には、アラバマ州にエルヴィスはやって来た。エルヴィス・ファンにとって長らく待ち焦がれた日じゃった!アラバマ州では1955年12月3日以来(Area No.5でご案内済)、14年9ヶ月ぶりにエルビスのライブがモビールのミュニシパル・オーディトリアム(左写真)で行われたのである。モビールにおいては1955年10月28日「カーティス・ゴードン・ラジオ・ランチ・クラブ」以来14年11ヶ月ぶりのライブじゃ!また収容人員数約11,000人の会場にとっても初の全席ソールドアウトの歴史的な日になったのである!
 ライブのスタートは午後9時42分とされておるが、当日の正午過ぎから会場の外に観客が集まり始め、周囲は「エルヴィス・ウェルカムバック・モビール!」の熱気に自然と包まれていったという。

 当日のセットリスト(演奏曲目記録)によると、「ザッツ・オールライト」でスタートし、「ラブ・ミー・テンダー」、「ユー・ロスト・ザット・ラヴィン・フィーリング」、「ワンダー・オブ・ユー」、「アイ・ラブ・ユー・トゥー・マック、ベイビー」等のフィフティーズ(オールディーズ)ナンバーが多く、その選曲が1956~57年のエルヴィス第一期黄金時代のライブを体験していない大観衆には却って大歓迎!もちろん、「ハートブレイクホテル」「冷たくしないで」「ハウンドドッグ」「ブルースエードシューズ」のかつての大ヒット曲も、今現在大ヒットしているかのような盛り上がりをみせたとのこと!!それでも当日の記録によると、常に大観衆の熱狂という危険と背中合わせのエルヴィスのライブにおいて、この日集まったモビールの大観衆はとても“マナーが良かった”と記されておる。

「エルヴィス・プレスリーは、大観衆にとって自分自身がいかなる存在価値があり、何に対してお金が払われているかを分かり切っているプロフェッショナルである。エルヴィスは終始余裕たっぷりに大観衆を彼の手の平に乗せるように楽しませ、幸せへと導いていた。女性客にとってこの日のエルヴィスは白い鎧を着た騎士であり、男性客にとっては最近のどんなスターよりもエネルギッシュで超男性的だった!」(某メディア記事より)

 「ミュニシパル・オーディトリアム」は、後に「モビール・シビック・センター」と名称を変え、何度かの補修工事を経ながら現在でも稼働中である。(右写真ストリートビュー2018年5月撮影)
■Google-map上の位置■


1955年からモビール公演時の常宿になっていたホテル
Area No.7/Serial No.142  アドミラル・セムズ・ホテル/モビール


 上記Area No.7ミュニシパル・オーディトリアム公演日(1970年9月14日)にエルヴィスが宿泊したホテルがアドミラル・セムズ・ホテル。(右写真)エルヴィスは1955年に計6回モビールでライブを行っていたが、その内の何日かもこのホテルに泊まった可能性が高いとする英字サイトもある
 1970年9月14日の宿泊時にはたくさんのファンがホテルを訪れた写真がネット上にいくつかアップされておる。(上写真)それにしてもどの写真もエルヴィスの顔色が非常に悪く、もう52年も前の写真なのに何だか気になって仕方がない(笑)

 このホテルは1980年以降は客入りが悪くなったのか、一部のサイトでは「エルヴィスが現状を見たら怒り出すに違いない」と書かれていたほど荒れ果てたらしい。しかし某サイトによる2014年のレポートでは、徹底的にリノベーションされて新しい4ツ星ホテルとして復活を遂げたとされておる。外観はエルヴィスが宿泊した当時のオリジナルスタイルがキープされておるようじゃ。
(右写真ストリートビュー2022年5月撮影)
■Google-map上の位置■


ルヴィスのステージ写真がほとんどご紹介出来なかった1955年のアラバマ州ライブ記録等、今回のツアーは楽しむことが出来ましたかいのう?ご紹介した会場の他にも記録はしっかり発見出来たんじゃけど、なんせ写真がない。またコンサート後のハプニングなども幾つか発見出来たが、申し訳が無いが調査に時間がかかってしまって今回はあえなくタイムアウト。引き続き調査を続けて、次回「アラバマ州アウトテイク集」としてご案内するかもしれんので、どうかご了承頂きたい。

 アラバマ州の調査においては、常に2つの「?」がつきまとっておった。何故10回以上もライブが行われているのに写真が少ないのか?何故1956~1957年にライブが行われなかったのか?アラバマ州の歴史に関してWikipediaには次の様な短い解説文がある。

「南北戦争から第二次世界大戦まで、他の南部州と同様に農業への依存が続いていたこともあって、アラバマ州は経済的に困難な時代を味わった。工業や都市部が成長したにも拘わらず、1960年代までは田園部の白人の利権が州議会を支配しており、都市部とアフリカ系アメリカ人の権利は優先されなかった」

 アラバマ州は白人至上主義が根強く、黒人は迫害され続けた歴史が長かったということじゃろう。エルヴィスはデビュー直後に、メンフィスの某ラジオ局から出演依頼がきた際、局側が黒人女性のバックボーカル隊の出演を拒否したことに立腹し、二度とその局からの依頼を受けなかったという経緯もある。アラバマ州でのライブ写真の少なさ、1956,7年にライブが行われなかったことは、アラバマ州の土地柄に対するエルヴィスのスタンスが微妙に関係していたのかしれない。
 冒頭で述べた通り、ネット調査の限界を著しく感じながらご案内してきたアラバマ州編、諸君にとってひとつでも心に残るポイントがあったことを願いながら、これにて終了致しやす。ではまた次回のツアーのご参加をお待ちしております!
(右写真は、1950年代のアラバマ州モビールのモビール湾側の大通り)



【付録】 Googleマイマップ「一覧!バーチャル・ロックンロールツアー・トータルマップ」

下地図の内容をここでは気にされる事なく、

まずは地図右上の[ ]マークをクリックし
"拡大地図を表示"させて下さい。

★当ページでご案内してきた全場所が再度、エリア番号(赤丸内番号、メンフィス内の番号)と第1回からのシリアル番号(通し番号)で表示されます。
★地図の初期画面では、アラバマ州全域が表示され、更に地図を縮小していくと、第1回目からご案内してきた場所が全て表示されていきます。
★地図上の番号入り色付き丸印をクリックすると、その場所の名前、写真、簡易紹介文が御覧になれます。

      ※更に詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 

                                 
まずはコチラの[ ]をクリック ↓


GO TO TOP