NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.432


第51回 エルヴィスゆかりの地~ハワイ州前編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

今回は「バーチャル・ロックンロールツアー」スタート以来初めて!アメリカ本土を離れてハワイに突入であります。エルヴィスは映画の撮影やバカンスで幾度もハワイを訪れていますが、前編の今回はライブが行われた1957年、1961年の軌跡を追ってみましょう!わしはハワイには行ったことはありませんが、ハワイは元々日系人が多く住んでいて、熱狂する女の子たちの中には日本人っぽいお顔の方々も数多く見られるので親近感が湧いてきます(笑)本土においては時たま起きていた“反エルヴィス騒動”もなく、極めて平和的、そして熱狂的に行われたエルヴィス・ライブ・イン・ハワイの日々をお楽しみ頂きたい。

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第51回 ハワイ州前編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はハワイ州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.1/Serial No.376 ホノルル港第10埠頭
 Area No.2/Serial No.377  ホノルル・スタジアム跡地/ホノルル
 Area No.3/Serial No.378 ハワイアン・ビレッジ・ホテル

 
 Area No.4/Serial No.379  コンロイ・ボウル
 Area No.5/Serial No.380 ホノルル・インターナショナル・エアポート
 Area No.6/Serial No.381  ブロッホ・アリーナ
 Area No.7/Serial No.382 アリゾナ記念館

 【バーチャル・ロックンロールツアーバックナンバー】

 ★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」
 EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)



キング、遠方よりお舟で来たる!
Area No.1/Serial No.376 ホノルル港第10埠頭
 

 サンレコードから1954年7月にデビュー以来3年半、全米のライブツアーサーキットに明け暮れたエルヴィス。軍役前の最後のお披露目のごとく、1957年11月9日に第43番目に訪れた州は、アメリカ本土(ロサンゼルス)から約3,800キロ離れたハワイ州じゃった!
 “絶対に必要な場合以外は飛行機に乗らない”エルヴィスは、ロサンゼルス港から取り巻き連中とSSマストニア号(上写真左側)に乗り込み、4日かけてオアフ島にあるハワイ州の州都ホノルルに到着した。エルヴィス一行を乗せたマストニア号が着港した場所は、ホノルル港の第10埠頭(上写真中央、赤丸部分)じゃった。
 4日間のクルーズでは“エルヴィスが乗船している!”と一部の乗客が大騒ぎしたものの、乗客たちの多くは退職者や中高年のセレブたちであり、若い女の子はあまりいなかったのじゃ。エルヴィスは子供たちと遊んだり、毎日船内のラウンジでピアノを弾くなど気さくに乗客サービスをしていたらしい。  

 上写真右側は、マストニア号が第10埠頭に着港後に埠頭に集まったファンたちへ手を振るエルヴィスが写っておる。着港予定時間の3時間前(午前6時半)から埠頭には女の子たちが集まり始め、その数は4,000人にもなったという。
 エルヴィスの手前には白い帽子を被ったパーカー大佐の姿も写っておる。大佐は現地での打ち合わせの為に前日に飛行機でホノルル入りしておるので、マストニア着港後に乗船してエルヴィスを出迎えたのじゃろう。なお、スコッティ、ビル、D.J.も飛行機でホノルル入りしたそうじゃ。

 

  下船前には簡単なインタビュー時間が船上でセットされており、まずフラガールたちが船上に上がってハワイ特有のウェルカム・セレモニー。(下写真中央、右側)「女の子たちに会うのは5日ぶりだよ。気を付けた方がいいよ」とエルヴィスはジョークをかましたとか(笑)
 エルヴィスのファッションは、大きなロールカラーの白いニットセーター、黒の植毛が施されたワイン色のスポーツコート、黒のスラックス、光沢のある濃い色のローファー、そして茶色のチェックの白いソックス。インタビューがファッションに及ぶとエルヴィスは「シャツも靴も気に入った物を気軽に買っています。ここにいる間にハワイの衣装を買いだめするつもりです」とリップサービス。
  報道陣からの矢継ぎ早の質問が終わって下船したエルヴィスは、“まるで銀行強盗のような”計画通りの素早い行動であっという間に車に乗り込んで埠頭から走り去ったという!

 ホノルル港の第10埠頭はその隣の第11埠頭とともに、豪華客船の離発着のための埠頭であり、エルヴィスが初めてやって来た60年以上前から現在に至るまで、その役割は変わっていない。しかし豪華客船用の広い埠頭とはいえ、4,000人もの群集が押し寄せたならば、周囲の別の埠頭まで機能不能になっていたじゃろう。1957年11月8日のホノルル港は、ひとときとはいえ大変な事態になっておったのじゃ。右写真はGoogle-mapに投稿された第10埠頭の写真。(2020年9月投稿)


 クリスマスカード21,000通に託された乙女の祈り、ついに結実!
Area No.2/Serial No.377 ホノルル・スタジアム跡地


 ホノルル港到着の翌日、1957年11月10日、エルヴィスはホノルル・スタジアム(左写真)において昼夜2回のライブを行った。翌日のライブも含めてハワイでの4ステージライブは各回2部構成であり、1部はハワイの地元のオーケストラ(&バンド)が出演。約10分間の休憩を挟み、エルヴィス&ブルームーン・ボーイズは2部に出演。
 1部の出演者たちは、ホノルルやハリウッドのセレブ専用の高級レストラン「クイーンズ・サーフ」と、レストラン内の「ベアフット・バー」にレギュラー出演しているバンドであり、バックを務めたのはノリト・タナカという日系人マエストロが指揮するレイ・ノリト・タナカ・オーケストラじゃった。いずれもハワイでは名の通った有名ミュージシャンだが、この時ばかりは彼らも“大スターの引き立て役”だったに違いない!
 
 かねてより開催の噂が高かったハワイ公演実現の最後の“ひと押し”になったのは、1956年のクリスマスにエルヴィスの元に届いたハワイからの21,000通ものクリスマス・カードじゃったという。それを目の当たりにした大佐がハワイでの大成功を確信して本格的に開催に向けて腰を上げたんだそうじゃ。(一説によると、大佐はかつて短い軍役時代の一時期をハワイで過ごしており、旧友たちに再会する目的があったとか、またその真逆で、さぼりまくっていた軍役時代の悪評をマスコミに蒸し返されるのを恐れてハワイを回避していたとか!?)

 スチール・ギターとウクレレの心地よい軽~いノリのハワイアン・ミュージックが常に漂っておる温暖で穏便なハワイの風土も、エルヴィスのライブが炸裂したホノルル・スタジアムだけは別世界になったようじゃ!2回のライブの入場者数は約15、000人とされ、スポーツイベント以外で1万人以上が会場に集結すること自体が珍しく、しかもほぼ全員がエルヴィスに向かって絶叫する女の子たち!待ちに待ったキングの登場で半狂乱になった彼女たちの凄まじい咆哮の限りは、途中の降雨や、本土に比べると貧弱な音響設備といった悪条件の全てを吹っ飛ばしてしまった!

 

「ホノルルスタジアムの魔界側に詰めかけた無数の観客に歓喜の叫びが響いた。彼が輝く金属糸のジャケットの肩をすくめると、女の子たちは文字通り座席で上下に飛び跳ねた。キングは悪いことをすることはできない。エルヴィスは、間違いなく10代の若者たち、彼のレコードを何百万枚もスナップし、彼を見るためにチケットを買うために昼食代を犠牲にする10代の若者たちのキングだ」

「聴衆の大衆の感情は、二度に渡って降り続いた雨、舞い上がる砂埃、フィールド上のステージの照明の薄さ、そして平凡な拡声設備によっても少しも弱まることはなかった。聴衆の反応を一般化するのは間違いです。キングはここにいるすべての人にとって、すべてなのである。彼のビートとゆったりとした足の回転に合わせて飛び跳ねたり、金切り声を上げたりしたのはティーンエイジャーだけではなかった。十代の若者たちの母親の多くも同様だった。そして、この筆者の近くに座っていた7、8歳の女の子も同様に反応していた」

 

「私の後ろの一人の女の子は、甲高いヒステリーの強さで叫び続けていた。悲鳴の合間に彼女は息を呑んだ。“ああ、エルヴィス、あなたは私を殺そうとしているの。我慢できない、我慢できない”」
「ステージ上では道化を披露するものの、この歌手は明らかに、10代のファンの最大級のヒステリーをからかうのが得意だ。オープニングの音から観客が総立ちになった。「You Ain't Nothin' But a Hound Dog」。プレスリーは腰を振った。膝をガクガクさせ、肩を落とし、全身を震わせ、スタンドの女の子たちが興奮して飛び跳ねた。そして、初めてステージの端に座った。10代の若者たちはよく見えるよう前に進み始め、警察(スタジアム内で30人を数えた)は緊張しながら列を締め出した。最後に、彼はステージ前の芝生の上を飛び跳ねました。群衆はほとんど狂ってしまった!


 ハワイのライブは、アメリカ本土の様なアンチ・エルヴィスの邪魔立てが目立つこともなく、43番目の機会が巡ってくるまで辛抱強く待ち続けた女の子たちは“エルヴィスに殺される”ほど思う存分熱狂したようじゃ。

 SMWによると、観光客が増え続けるハワイは1970年代に入ると各地で土地の再開発が進められるようになり、後にホノルル・スタジアムの5倍もの収容人員数を誇るアロハ・スタジアムがあらたに建設された。ホノルル・スタジアムは1976年に取り壊されて、現在はオールド・スタジアム・パークという緑地公園になっておる。(右写真)
 ちなみに、ホノルル・スタジアム解体の以前には、先述したセレブ専用のレストラン「クイーンズ・サーフ」も当時の市長の意向から取り壊されて、跡地は一般観光客用のビーチになった。ハワイが大きく変わり始める前に“エルヴィス・ハリケーン”がやって来たのである。


1957年以降エルヴィスの定宿となったリゾートホテル
Area No.3/Serial No.378 ハワイアン・ビレッジ・ホテル

 1957年以降、エルヴィスがハワイにやって来た際には必ず宿泊していたとされるワイキキビーチ沿いの豪華ホテルじゃ。
 一部の英字サイトには“ヒルトンホテルに宿泊”とされておるが、このホテルは1961年にヒルトン・グループに経営を譲渡しておるので、それからはヒルトン・ハワイアン・ビレッジと改称されておるので、ハワイアン~とヒルトンは同一ホテルであります。

 Area No.1でご案内した通り、1957年11月9日ホノルル港に到着したエルヴィスは、当ホテルにチェックイン。エルヴィスご一行は14階のフロアを借り上げ、エルヴィスのルームナンバーは「14a」じゃった。上写真中央は恐らく「14a」ルーム内での撮影じゃ。上写真右側は、ホテルに到着した際の撮影と思われる。上写真中央とともに、4日間の船旅の直後で、エルヴィスも少々お疲れ気味か!?
 また翌11月10日ホノルル・スタジアムでの昼夜2回のライブの合間に、エルヴィスは当ホテルに戻って記者会見に臨んだ。(上写真左側、下写真左側&中央)記者会見の際のエルヴィスのファッションは、グレーのスポーツジャケットとライトベージュのスラックス、黒の開襟シャツ、よく磨かれた黒のローファーと黒のソックスだったとのこと。
 下写真中央、エルヴィスにレイをかけながらキスをしておる女の子、下写真右側のエルヴィスにしがみついておる白い服の女の子(実際はライトピンク)は、いずれもハワイのファンクラブ会長、バーバラ・ウォンさん。彼女は記者会見で一番前の席を確保するために会見開始1時間前から待ち続けていたという。もっとも彼女にとって“エルヴィスを待つこと”は慣れっこであり、ハワイ・ライブを実現させるために2年間にわたって毎週ファン・レターを送り続け、1度だけエルヴィスから返事がきたという。エルヴィスの印象に関してバーバラ嬢は次のように語っております!
「夢を見ているようなルックス、彼の声、南部のアクセント・・・あぁ、彼は本当に生きている人間なんでしょうか!」

 

 まるで“メレンゲパイのようにエルヴィスにむしゃぶりついているバーバラ嬢をエルヴィスは優しく抱え上げて、最前列の席まで運んであげたというが、このバーバラ嬢はうっとりしているだけの女性ではなく、その後報道陣を尻目に多くの質問をエルヴィスに向け続け、しびれを切らしたパーカー大佐の「質問はそれまで」という制止も振り切ったというからスゴイ!最後は自分の付けていた象牙のネックレスを「幸運のお守りだから」とエルヴィスの首にかけたのでありました。(拍手!)

 バーバラ嬢の情熱に押されっぱなし(?)の報道陣からの質問の中に、ひとつ興味深い内容があった。
Q:ロックンロールを発明したのはあなたですか?
A:私はそれを探求したのです。それは私が発見するずっと前から存在していました。それはリズム・アンド・ブルースと呼ばれていました。私はただ新しい解釈を試みただけです。

 よくある質疑応答 かもしれないが、“新しい解釈を試みた”という表現は、以降エルヴィスに限らず優秀なロックバンドには評論家連中が必ず付ける冠みたいな言い回しじゃ。第一発言者は、実はエルヴィスだったのかもしれない!

 エルヴィスがホテルに滞在中はホテル各所に厳重な警備体制が敷かれていて、熱狂的なファンとはいえエルヴィスがいる14階までたどり着ける者はいなかったという。それでも多くのファンがホテルの外に集まっていたのはいうまでもない。右写真は、エルヴィスが部屋の窓から投げ落としたレコードや切り裂いた衣装、ネクタイ、ハンカチの欠片を拾い上げて大喜びするファンたちじゃ。
 
 ヒルトンホテルに経営が変わってからは、大規模な改築、増築が続き、ヒルトン・ハワイアン・ビレッジは現在世界中にある多くのヒルトン系ホテルの中で最大であり、客室数3,386は世界第23位の規模を誇っておる。
 ホテルの基本的なコンセプトは、ホテル外に出なくても完璧なハワイ生活全般を宿泊者に提供することであり、多彩な施設が揃っており、ペンギンやアヒルなどが自由に生息しておるエリアもある。そのうち、敷地内にエルヴィスの記念碑を設置してもらいたいものじゃ!左写真はストリートビューの3D画像による近年の様子。



  エルヴィス、スコッティ、ビル&DJのラストライブ
Area No.4/Serial No.379 コンロイ・ボウル

 ホノルル・スタジアムでのライブ翌日、1957年11月11日はホノルル・スタジアムの北西約30キロの位置になるコンロイ・ボウル(左写真)でライブを行った。
 コンロイ・ボウルは「スコフィールド・バラックス」と呼ばれる、戦地へ向かう兵士たちの出征直前の最終手続きや健康診断、また出征兵が本土へ帰還する前に帰港する軍施設の中にあるイベント会場であり、ボクシング・ボールの別称もある。コンロイ・ボウル、スコフィールド・バラックス、ボクシングボールの3つの名の会場は同一なので、今後エルヴィスの足跡を調べる方がいらしたらお間違えの無いのないように。
 SMWによると、前日のホノルル・スタジアムとは好対照なまでに、コンロイ・ボウルでのライブに関する新聞の事前告知などの報道はほとんどなかったという。翌日のライブレビューも無し。しかし会場にはホノルル・スタジアムを上回る約10,000人の大観衆が集まったとされておる。 しかし当のSMWもそれ以外のライブ状況に関するレポはなく、スコフィールド・バラックスの設立の経緯や歴史の記述でページを埋めておる。本当にほとんど報道記録が残っておらんのじゃろう。

 SMWの興味深い付記(2012年11月)としては、「コンロイ・ボウル未発表写真」として、オークションによって入手されたという10枚のライブ写真が掲載されておったことじゃ。内4枚が下写真と右写真じゃ。
 これらの写真は、オークションの出品者によると、ノース・ジョージア(ジョージア州北部?)の骨董品店で購入した聖書の中に挟まっていたという。ステージ左下から撮影されたオーディエンス・ショットであり、中には大きくブレている写真もあったが、プロショットにはない素人なりの迫力あるアングルが却って新鮮じゃ。
 

 スルドイ諸君のこと、既にお気づきの事であろうが、この日のライブはエルヴィス、スコッティ、ビル、DJの4人によるラスト・ライブじゃ。4人はその後映画「キング・クレオール」の撮影とサントラのレコーディングで顔を合わせておるが、ロックンロール黎明期の歴史を作った偉大なるバンドのラスト・ライブだっただけに、写真やライブレビューが少ないことは非常に残念じゃ。上述した未発表写真が偶然発見されたことがささやかな救いじゃな。


 コンロイ・ボウル及びスコフィールド・バラックスは現在でも稼働中であり、SMWには2008年に17,000人の兵士たちが出入りしていた記録が残っておるとの記述がある。
下写真左側はGoogle-mapに投稿された写真。(2023年4月撮影)ストリートビューの撮影はされていないが、航空写真を見ると、現在ではステージ上だけではなく、観客席まで全て屋根が付いておるようじゃ。
 なおエルヴィスは翌12日はハワイでの休暇にあて、13日の午後にホノルル港からマストニア号に乗り込んでアメリカ本土へと帰って行った。下写真右側、中央で手すりに足をかけている者がエルヴィス。

 


 エルヴィス・アゲイン!で空港は大混雑!!
Area No.5/Serial No.380 ホノルル・インターナショナル・エアポート
 

 エルヴィスが再び公式にハワイを訪れたのは、1961年3月25日、この日開催される「USSアリゾナ記念碑設立チャリティー・コンサート」のためじゃった。(チャリティー・コンサートに関しては下記Area No.6にてご案内)」
 この時は海路ではなく、空路にてオアフ島のホノルル・インターナショナル・エアポートに到着。空港には約3,000人のファンが押し寄せて下写真の通り、大変な騒ぎになった。

 当時エルヴィスは映画「ブルーハワイ」の撮影準備に入っており、3月20日から撮影に先駆けてロサンゼルスのラジオ・シティ・スタジオでサウンドトラックのレコーディングをしておった。3月27日からオアフ島で映画撮影が始まることになるが、全てチャリティー・コンサートの日付を念頭に置いたパーカー大佐のスケジューリングじゃった。
 
 
 
 

 ホノルル・インターナショナル・エアポートは上写真で見ると、地方都市の小規模でのどかな空港のようじゃが、当時既に全米でも有数の規模と機能を兼ね備えていた空港だったと知って少々驚いてしまった。真珠湾攻撃の教訓から、この空港は軍民共用の施設として第二次世界大戦後は強化が続けられておったのじゃ。3,000人のエルヴィス・ファンが押し寄せてきたとはいえ、決して敵軍が攻め込んできたわけではないので(笑)、空港側も落ち着いた対応をしたに違いない!とはいえ軍用機も発着する同空港においては、エルヴィスの到着は第二次世界大戦終了から16年間でもっとも“平和な騒動”に満ちたひとときだった。

 上記「Area No.1/ホノルル港第10埠頭」でご紹介済じゃが、ホノルル港では着港後に船内で記者会見が行われたため、下船した後は“まるで銀行強盗のように”すばやく埠頭から車に乗り込んで走り去ったエルヴィスじゃったが、この日は滑走路着陸後にタラップを降りる時点でレイをかけられ、その後空港を出るまでに顔が埋もれるほどのレイをかけられ続け、ファンにもみくちゃにされながら待機していた車に乗り込んだようじゃ。行き先は前回同様にハワイアン・ビレッジ・ホテルであり、ホテル内のカルーセール・ルームと呼ばれる一室で共同記者会見を受けることになっておった。

 この空港は2017年より、ハワイ初の日系アメリカ人の連邦上院議員となったダニエル・K・イノウエ氏の名前が空港名として付けられた。(ダニエル・K・イノウエ・インターナショナル・エアポート)2019年の統計では年間2,178万人もの利用客があった大型国際空港に拡張されており、メインエントランス前もエルヴィスが到着した当時とは比較できないほど大規模な施設に変貌しておる。
 また隣接地にアメリカ空軍のヒッカム空軍基地があり、滑走路をホノルル国際空港と共有しておる。今もなお、太平洋の中心に位置するアメリカ軍の世界戦略と本土防衛における重要拠点の一つであり続けておる。(右写真は、空港のウェブサイトより転載))


  戦艦アリゾナ犠牲者追悼碑設立慈善ライブ
Area No.6/Serial No.381 ブロッホ・アリーナ

 1960年代のエルヴィスはハリウッドでの俳優業に専念することになり、1969年までに31本のエルヴィス映画が製作された。その間シンガーとしてのお仕事はサントラのレコーディングのみとされておるが、厳密には2回の慈善ライブを行っておる。
 1回目は1961年2月25日、メンフィスのエリス・オーディトリアムで行われた26のメンフィス慈善団体への寄付のためのライブ。2回目がその一ヶ月後3月25日にハワイで開催された戦艦アリゾナ犠牲者追悼碑設立のための慈善ライブである。

 戦艦アリゾナ(USSアリゾナ)はパール・ハーバーに停泊中、1941年12月7日早朝に日本空軍の攻撃を受けて沈没。数多くの犠牲者が出る米軍史上最大の被害を受けた。最終的に戦艦アリゾナの引き揚げ作業は断念されることとなり、多くの遺体がパールハーバーの海底に遺棄されたままになった。第二次世界大戦で勝利したアメリカは、パールハーバー事件を重大な惨事と受け止め、戦艦アリゾナが沈没したままになっている海上に犠牲者追悼碑(追悼記念碑)の建立を決定。全米から広く寄付を募ることになった。しかし集まってくる募金は一向に目標額の50万ドルにはほど遠い状況が続き、米海軍はマスコミを使って更に寄付を募ることになった。
 この事態に目を付けたのがパーカー大佐じゃ。寄付募集の広告を出したロサンゼルスの新聞社に電話をして、「私はこの事態に大きな助けとなる若者を知っている」とエルヴィスの慈善ライブの計画をブチ上げたというわけじゃ。

 会場となったブロック・アリーナの収容人数は約4,000。エルヴィスのライブ会場としては中規模じゃが、大佐はステージ近くにVIP席を特設して100ドルで売り出すなどのアイディアを出し、また関係者であろうともチケットを所持していない者はアリ一匹会場に入れない徹底した警備体制を敷いた。エルヴィスや大佐自身も、個人的な招待客用に身銭を切って多くのチケットを購入していたといわれておる。

 

 エルヴィス・ミュージックのファンにとって気になるのは、久しぶりのライブ演奏の状態じゃ。ブルームーン・ボーイズは既に解散しておったが、スコッティ、D.J.、ジョーダネアーズは参加。ビルは自分のバンドをメンフィスで始動させていたのでハワイにはやってこなかったので、ナッシュビルRCAスタジオのスタジオミュージシャンであるボブ・ムーア(上写真左側、左から2人目)がビルの代わりを務めた。恐らくじゃが、ハワイ上陸前にエルヴィスはロサンゼルスで映画「ブルーハワイ」のサントラのレコーディング・セッションを行っておるので、ライブ用のリハーサルも同時に行われていた可能性は高い。

 エルヴィスはこの日が最後の着用となったゴールドのジャケット、ダークブルーのパンツと白いシャツ、ブルーのタイという装いでステージに上がった。女の子たちはエルヴィスが登場するや否や、約1分半にわたって休むことなく叫び続けた。するとエルヴィスは真似して楽しそうに叫び返した。このライブはエルヴィスが演奏した中で最も長いセットの一つとなり(45分)、合計15曲を演奏。「ハートブレイク・ホテル」で始まり「ハウンド ドッグ」で終わった。

 結局この慈善ライブによって約65,000ドルが寄付されることに!重要なことは寄付の金額以上に、「エルヴィスが慈善ライブを開催した」という話題じゃった。これによって「戦艦アリゾナ犠牲者追悼」の意識が全米で高まることとなり、約一年後に「追悼記念館」がパールハーバー海上に完成した。(下記Area No.7参照)
 
ブロッホ・アリーナは、ホノルル中心地から北西約10キロの位置にある軍のトレーニング・センターやレクリエーション施設が集まった一画にあり、当時の外壁の写真では2階建ての小さな市民ホールのような建物じゃ。下右写真右側は航空写真によるブロッホ・アリーナの全貌。(周囲は塀で囲まれておるので、ストリートビュー写真は役立たず)右写真左側は隣接するレクリエーションホールに飾られている「エルヴィス慈善ライブ記念写真」じゃ。


エルヴィスの魂も追悼されている、海上の記念館
Area No.7/Serial No.382 アリゾナ記念館

 こちらが、エルヴィスの慈善ライブのサポートもあって完成が実現したアリゾナ記念館。(戦艦アリゾナ犠牲者追悼記念館)パールハーバー内に浮かぶフォード島東沿岸沖約100メートル、戦艦アリゾナの沈没した海底の真上の水面上に建てられておる。完成はエルヴィスの慈善ライブから約1年後の1962年5月30日。エルヴィスとともに、日系アメリカ人で初の上院議員となったダニエル・イノウエ(Area No.6参照)も多額の寄付を行ったと言われておる。
 全長56メートルの建物は中央周辺が潰れたような独特の建築デザインであり、これは「(太平洋戦争の最初は負けたが、最後は勝利した」ことをシンボライズしておるそうじゃが、口の悪いメディアからは“潰れた牛乳パック”と揶揄されておるらしい!?建物の中には、パールハーバー攻撃の犠牲者たちの氏名が刻まれた巨大な大理石が奉納されておる。

 エルヴィスは落成式には出席出来なかったが、1965年8月15日映画「パラダイス・ハワイアン・スタイル」のためにハワイでのロケ中に、父バーノン、パーカー大佐とともに訪れておる。(上写真中央、右側)エルヴィスとバーノンの後に写っておる物体は、パーカー大佐が贈ったベル型にデコレイトされた11,177本のバラによるモニュメント。またエルヴィスは1968年にはプリシラを伴って再度アリゾナ記念館を訪れておる。(下写真)

 

 オープン当初はエルヴィスの寛大な寄付を記念して、エルビスの名前が表示された小さな銘板も設置されたが、残念なことに後に管理者が交代したために撤去されたという。しかし米海軍はエルヴィスへの感謝を忘れることはなく、エルヴィスが亡くなった時には記念館の中に特製の花輪を飾ってエルヴィスへの哀悼の意を表したという。

 右航空写真、赤枠の部分がアリゾナ記念館。よく見ると、記念館と交差する位置の水面下に、沈没したままの戦艦アリゾナの船体がうっすらと見える。 アリゾナ記念館は真珠湾攻撃の犠牲者の遺族たちにとっての慰霊地であり、開場以来来訪者が絶えることはない。たくさんの花輪が記念館から海上に投げられて鎮魂の儀式が繰り返されてきた。
 近年ではアリゾナの船体から流れ出した古いオイルや、腐敗した船体の欠片によるパール・ハーバーの環境汚染が危惧されており、花輪の投げ入れも禁止されるようになったらしい。
 ルーズベルト大統領以降の全アメリカ大統領が慰霊に訪れており、日本の安倍元首相も訪れておる。グレースランドには遊びに行っていた小泉元首相はこちらへは?


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