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【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地 第47回 カリフォルニア州編 Vol.3 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。 ・Area No.はカリフォルニア州内での番号、 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。 |
【ハリウッド】 Area No.15/Serial No.348 ラジオ・レコーダーズ跡地 Area No.16/Serial No.349 パラマウント・ピクチャー・スタジオ Area No.17/Serial No.350 グラマンズ・デリ&マーケット跡地 Area No.18/Serial No.351 NBCスタジオ・ハリウッド跡地 Area No.19/Serial No.352 ムーランルージュ・ハリウッド跡地 Area No.20/Serial No.353 ニッカーボッカーホテル 【ウエスト・ハリウッド】 Area No.21/Serial No.354 フォルモサ・カフェ 【バックナンバー】 ★ 本文中の表記について ★ ←このマークをクリックすると、 Google-map上の位置が表示されます。 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト SRW=サンレコードのウェブサイト(※現在閲覧不可) EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」 EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト) |
カルフォルニアのレコーディング史を作ったザ・グレイテスト・スタジオ Area No.15/Serial No.348 ラジオ・レコーダーズ跡地 ラジオ・レコーダーズ はロサンゼルスで最高の録音施設、世界最大の独立系スタジオとして知られていた。ジョニー・キャッシュ、ジミ・ヘンドリックス、サム・クック、ボビー・ダーリン、ビング・クロスビー、ビリー・ホリデイ、チャーリー・パーカー、ルイ・アームストロング、チェット・ベイカーetc、アメリカのあらゆるポピュラー音楽史における偉大なアーティストたちがレコーディングしておる。またクラシック音楽からコマーシャル用の楽曲までも録音されており、RCA Victor、Columbia、Capitol、Decca は、独自の西海岸施設を建設する前にラジオ・レコーダーズを使用しておった。 1960年7月ラジオレコーダーはユニバーサル・レコーダーズと合併し、ラジオ・ユニバーサル・レコーダーズ社となった。各社の広範な施設を統合してアメリカ最大のレコーディング・スタジオを構成した。新会社は、ステレオとモノラルのテープとディスクの録音、編集とマスタリング、プレス、磁気フィルム録音、ダビング、スライド フィルム、および完全なサウンド オン フィルム サービスのための最先端技術を提供しておったのじゃ。 エルヴィスは、1956年9月1日から3日までラジオ・レコーダーズを初めて使用し、セカンド・アルバム『エルヴィス』を録音。映画「ラブ・ミー・テンダー」の撮影の合間を縫ってのレコーディングじゃった。これらは、ジェイルハウス・ロックやオール・ショック・アップ等を含むラジオ・レコーダーズでのプレスリーの多くのセッションのうちの最初のものじゃったた。 1950年にスタジオのメンテナンス業務に従事したソーン・ノガー氏は、最終的にレコーディング・ディレクターとなり、1955年から1961年までのエルヴィスの全セッションをエンジニアリングした人物であり、おもしろいエピソードを語っておる。それはエルヴィスと彼のバンド、ジョーダンネアーズがラジオ・レコーダーズでレコーディングしていた1957年の夏のことじゃ。 「当時、地域のひどい熱波に見舞われていて、エルヴィスとバンドは汗だくになりながらスタジオに入ってきたものだった。彼らは明らかにホリデー気分から抜け出すことに苦労していた。私も仕事をする気にはなれなかったものだ」 「彼らを責めないでください。そして数日何も起こらなかった後、エルヴィスは(グッドアイディアが)ひらめいた。“誰かここにクリスマスツリーを持ってきて!”と彼は言った。そして、気づけばスタジオの真ん中にプレゼントで飾られた15フィートのツリーが置かれた。私たちはすぐにレコーディングを開始した」 (下写真左から2枚は、1956年9月1~3日の最初のレコーディング時のショットと思われる。下写真右側は1957年4月30日撮影) エルヴィスはラジオ・レコーダーズ本館内にある「A」から「F」に分けられた6つのスタジオの内、もっとも大きい「B」、また本館から徒歩数分で移動できる別館の「スタジオ・アネックス」でレコーディングを行っていた。SMWには、「さまよう青春」「キング・クレオール」「G.Iブルース」「ダブル・トラブル」のサウンドトラックがここでレコーディングされたことが記載されておる。またスタジオBはエルヴィスがよく使用することから、後にエルヴィスの「E」から「スタジオE」に改称されたそうじゃ。 ラジオ・レコーダーズは他のレコーディング・スタジオの買収(もしくは合併)を経ながら1977年まで営業。その後1986年にスタジオ56(別スタジオ)が本館を買収するかたちで移転してきて建物と設備は再使用されることになる。その時に積極的にレコーディングのブッキングをしてきたバンドが、エルヴィスを師と仰ぐシンガーのアクセル・ローズ率いるガンズン・ローゼスじゃった。スタジオ56は2008年まで営業しておった。現在ラジオ・レコーダーズ/スタジオ56はロサンゼルスの史跡に認定されてヒストリカル・マーカーが設置されておる。(左上写真) 下写真左側は、ストリートビュー2008年7月撮影。スタジオ56閉鎖直前と思われるが、ラジオ・レコーダーズ時代のロゴが消されずに建物の壁面に残っておる。下写真中央はストリートビュー2022年8月撮影。エントランスのアーチ形のゲートは残されておるようじゃ。★下写真右側はThe-Kingのボスが2018年に撮影した、建物の内部のリノベーション中の写真じゃ。(写真コラムはこちら) |
エルヴィス映画を世に送り出したハリウッド映画の聖地 Area No.16/Serial No.349 パラマウント・ピクチャー・スタジオ ハリウッドといえばココ!デズニーランド・パークとほぼ同じ東西約800メートル、南北約600メートルにわたる巨大な敷地内には映画撮影用の多彩なセット、スタジオがあり、長きにわたって栄光のハリウッド映画を支えてきたアメリカ最大、現存する最古のスタジオじゃ。「ラブ・ミー・テンダー」をはじめて、エルヴィス映画の多くもこのスタジオで撮影された。 この中で働く従業員の数は5,000人。最大で3,000人のグループ・パーティーが開催できるだけのサウンドシステムや飲食施設もある。またスタジオ内を2時間かけて歩き回るウォーキング・ツアーもあり、あまりにもスケールが大き過ぎて、スタジオ内の何処からどうご案内すればよいのか検討もつかないので、The-Kingのボスが2018年に訪れた模様を伝える写真コラムの構成に少々編集をほどこして転載させて頂くことにする。やはり実際に訪れた者のご案内の方が的を得ておるはずじゃ!左上写真を含めて、以下カラー写真はすべて2018年にボスが撮影した写真であ~る。(若干トリミングさせて頂いております。) 上写真左側は、1950年代当時のメルローズ・ゲート。右側は2018年当時の同ゲート。 下写真、左から2枚はスタジオ内で自転車“ハウンドドッグ号”と戯れるエルヴィス。 右写真はエルヴィスが座り込んでいた場所に該当する現在地の写真じゃ。この地に立った瞬間ボスはビビッとひらめいたそうじゃ。ストライプのナッソーを羽織っエルヴィスがこの場所に居たと思うだけで震えたそうじゃ!エルヴィスファンなら誰しも同じじゃろうな!! その他、映画撮影の合間に撮影された写真の場所などがスタジオ内に残っていて(下写真)、ボスはもう大コーフンだったそうな!普通の観光客や“おのぼりさん”、また彼らを案内する現地のガイドさんなら全然眼中にないこんな場所でコーフンしてしまうことこそ、熱烈なエルヴィス・ファンならではの醍醐味ですな! 「自転車“Hound Dog号”は、映画プロデューサーのハル・ウォリスさんからプレゼントされたもので、これがスタジオ内にもし残っていたなら、歴史的に大発見!っというわけでございまして、小道具室(右写真)などに入ると、やたらキョロキョロし、かなりヤバそーな訪問者となってそればっか探していたアタシャでございましたっ。」とボスは仰っております!これらの写真をもっとデカイサイズで御覧になりたい方は、ボスの写真コラムページへどうぞ! ハル・ウォリスという方をちょっとだけ調べてみたら、なんと370作もの映画でプロデューサーとしてクレジットされておる映画史上に残る巨人じゃった!エルヴィス映画は2作目の「さまよう青春」から「闇に響く声」「G.Iブルース」等多くの作品でプロデュースを担当しておる。 下写真4枚はわしがネットからピックアップしたパラマウント・スタジオ内で映画「さまよう青春」撮影中のエルヴィス。いつの日か、こうした場面がスタジオ内の何処で撮影したのかしらみつぶしに当たってみたいものじゃ!まあ、しらみつぶしどころか、途中で関係者からしらみの様につまみ出されるかもしれんがな!諸君もパラマウント・スタジオへお越しの際はほどほどに! ハリウッドのメルローズ・アベニュー沿いに東西800メートルに広がっておる敷地南側には、パラマウント・ピクチャー・スタジオの大きなゲートが2つあり、一般的には右写真(ストリートビュー2022年7月撮影)のメルローズ・ゲートがメインゲートとされておる。この東側にもブロンソン・ゲートという大きな出入口がある。また西100メートルの位置には「パラマウント・ピクチャー・スタジオ・ツアー」の名称のビルの一画があり、ここからも敷地内への出入りは可能なようじゃ。 |
エルヴィスがロケ中にスモークサーモンにハマったマーケット Area No.17/Serial No.350 グラマンズ・デリ&マーケット跡地/ハリウッド エルヴィスのハリウッド映画最後の作品となった「チェンジ・オブ・ハビット」(1969年公開)のロケ地(跡地)がこちら。主に食材と料理が中心に販売されていた地元のスーパーマーケットのグラマンズ・デリ&マーケットは、住所上はロサンゼルスじゃが、ハリウッドの中心地まではわずか1.5キロ、パラマウント・ピクチャー・スタジオまでは僅か数百メートルの場所にあった。(左写真左側) エルヴィスは映画の撮影を機に、グラマンズ・デリ内で食べたロックス(lox)と呼ばれるスモークサーモンとベーグル(ドーナツ型のパン)の大ファンとなり、以降ロスを訪れるたびにグラマンズ・デリにやって来ていたらしい!デリの長年の従業員だったジョー・ガス氏は撮影中にロックスのカットの仕方をエルヴィスに教え、自分のポラロイドでエルヴィスと一緒に写真に収まっておる!(上写真右側) 「チェンジ・オブ・ハビット」撮影中のエピソードとしては、共演女優のメアリー・タイラー・ムーア(上写真左側、修道女姿の女性)のコメントがもっとも有名かもしれない。彼女は2003年になって某メディアのインタビューでエルヴィスの思い出を語った。 「エルヴィスは、1人を除いて映画製作で主要な女性全員と寝た、と私に語っていました。その一人が私は誰であるかを知っています。隠蔽を破って申し訳ありませんが・・・」 とコメント。その一人とは彼女自身だったと言いたかったようじゃ。 まあ「私だけはエルヴィスと~」ってのは彼女の変な思い上がりに過ぎないことは数々のエルヴィス調査によって証明されておるが、これもまた彼女なりのエルヴィスを引き合いに出してのプロ意識の誇示だったのかもしれない(笑)それにしても、マダム・ムーアさん、昔話とはいえ、この類のエピソードは例え真実だとしても暴露するのはあなたのお品を疑われますよ(笑)「オホホ、それはここに掲載しているあなたの方ですわ」って返されちゃうか! グラマンズ・デリ&マーケットは1979年まで営業。現在は建物は改装されて「Catalina's Supermarket」という名称のスーパーになっておる。ここを訪ねることがあったら、ロックスとベーグルを探してみよう。右写真ストリートビュー2017年6月撮影。 |
「ハウンド・ドッグ」歴史的名パフォーマンスが披露されたTVスタジオ Area No.18/Serial No.351 NBCスタジオ・ハリウッド跡地 「バーチャル~カリフォルニア州編Vo.1/Arean No.1」にて、1956年4月6日にエルヴィスは「ミルトン・バール・ショウ」出演にてアメリカ西海岸デビューを飾ったことをご案内した。更に「ミルトン・バール・ショウ」2回目の出演は、同年6月5日、ハリウッドにあったNBCスタジオにて行われた。 ご案内の前に多くの私設エルヴィス・サイトの表記ミスと写真掲載ミスを正しておこう。まずNBCスタジオの場所を、ロサンゼルス郊外の「バーバンク」とした表記もあるが、こちらは「カムバック・スペシャル68」での出演スタジオであり、「ミルトン・バール・ショウ」で使用されたNBCスタジオの所在地はハリウッドじゃ。 またスタジオ建物の写真がハリウッドとバーバンクとが混同されておるようじゃが、正しくは左写真の通り、2つの大通りの交差点において角の部分が突起した造りの建物がハリウッドのスタジオじゃ。 このスタジオは、周囲1ブロック内にABCとコロンビアのスタジオがあったことから、一帯は「ハリウッド・NBC・ラジオシティ」と呼ばれることも多い。またニューヨークのラジオ・シティの本拠地にちなんで、NBCラジオシティ・ウェストとも呼ばれておった。 2回目の「ミルトン・バール・ショウ」においては、披露された「ハウンドドッグ」が歌、パフォーマンスともにエルヴィスのライブ史上サイコー!との評価がネット上で散見出来る。観る人、聴く人それぞれの評価があるじゃろうが、ミルトン・バールがエルヴィスに対して終始好意的な態度で接していたことで、エルヴィスは少なくとも非常に上機嫌で出演していたことの成果であることは間違いない。 数多く残されているパフォーマンスの写真は、その半分以上がリハーサルの時のショットじゃ。しかも本番と見紛うばかりのクールなアクションばかり。この事実は少々不可解だったんじゃが、原因が何となく判明した!? 実はミルトン・バール・ショーのリハーサルは6月1日から行われ、エルヴィスだけはライブ・スケジュールの関係で他の出演者よりも遅れて参加。よってリハーサル当初からエルヴィスはエンジン全開じゃった。映画「ラブ・ミー・テンダー」で共演することになる女優のデブラ・バシェットやTVドラマの人気女優アイリッシュ・マッカラ(下写真左側)をはじめ、その他大勢のショーダンサーたちがエルヴィスのリハーサル・ステージを見守っていたのじゃ。リハーサルからお美しいお嬢様方がたくさんいらっしゃれば、そりゃもう張り切るじゃろう!(笑)下4枚の写真はすべてリハーサルの写真じゃ。 アイリッシュ嬢の、エルヴィスのリハーサルを観た時の回想がとてもステキじゃ! 「エルヴィスを最初に見た時、故郷のネブラスカの男たちと同じだと思ったわ。でもエルヴィスが微笑んだ瞬間、ジェームス・ディーンの様なシャイな美しさを感じさせました。私は彼の髪の毛をかきあげてあげたいと思いました」 「素晴らしいビートだけど、何を歌ってるのかしら?ハウンドドッグ?でもそんなの関係ないわ!女の子たちは、例えエルヴィスが辞書の最初のページを読んだだけでも熱狂するでしょう!ショウダンサーの女の子たちはみんなエルヴィスにノックアウトされていたっけ!」 NBCスタジオは、1939年にオープンして西海岸きっての有名ラジオ/TVスタジオとして名を馳せたものの、わずか26年後の1965年には取り壊された。ハリウッド全体が映画の街になったことも撤退に関係していたのかもしれないが、メディア関係の施設はロサンゼルスへの移動を余儀なくされたようじゃ。現在跡地には銀行が建てられておる。(右写真ストリートビュー2022年5月撮影)) |
キングもフランス式紳士の遊び場がお好き! Area No.19/Serial No.352 ムーランルージュ・ハリウッド跡地 ムーランルージュとは、元々フランス・パリで1889年にオープンしたキャバレー。キャバレーっつっても、日本人の連想するホステスさんが横についてお酒を飲むって場所とは違い、歌、ダンス、コメディをはじめとする様々なショーを楽しむ高級ナイトクラブじゃ。舞台に上がる女性たちは、みんな容姿端麗であり、彼女たちの繰り広げる華やかなパフォーマンスを観ながらお酒を嗜む紳士と淑女の遊び場である。 ちなみにムーラン・ルージュとは“赤い風車”という意味であり、パリの本店ではデッカイ風車が正面玄関の外壁にディスプレイされておる。 ムーランルージュはハリウッドやラスベガスにもあり、ハリウッド店(左写真)にはエルヴィスが訪れた記録と写真が残っておる!エルヴィスは軍隊時代の休暇日にパリのムーランルージュで遊んでいた写真は見たことがあったが、ハリウッドにもやって来ていたことは、わしは恥ずかしながらThe-Kingの写真コラムを見て初めて知った次第じゃ。 下写真3枚は、1958年3月11日、映画「闇に響く声」の完成記念パーティがムーラン・ルージュで開かれた時の模様じゃ。ストライプのジャケットにタイがめっちゃクール!そう言えば、1985年の暮れにわしはパリのムーランルージュに行ったが、確か男性はジャケット&タイ着用が義務付けられていた記憶がある。このドレスコードはムーランルージュの伝統なんじゃろうな。 エルヴィスがムーラン・ルージュを訪れた記録はもうひとつある。それは仲の良かったサミー・デイヴィス・ジュニアがムーラン・ルージュのショウに出演して「ハウンドドッグ」をキメタ時じゃ。(左写真左側) これはいつ頃のオハナシと写真なのかが不明じゃったが、どうやらエルヴィスがロサンゼルスで2度目のライブを行った1957年10月28日(パン・パシフィック・オーディトリアム/「バーチャル~」前回Area No.10でご案内済)の数日後であることが分かった。 エルヴィスは宿泊先だったウィルシャー・ホテル(Area No.13でご案内済)に訪ねて来た、旧知の仲でパーティ友達でもあったサミーと再会した勢いのままムーラン・ルージュのサミーのステージを鑑賞したんだそうじゃ! ちなみにこの期間について、サミーは自伝の中で、映画プロデューサーのスタンリー・クレイマーの新作『ザ・ディファイアント・ワンズ』の主役に自分とエルヴィスが検討されていたことをエルヴィスに伝えて俄然2人は意気投合したという。脚本は、鎖でつながれたまま逃亡する2人のチェーンギャング囚人(1人は白人、1人は黒人)だった。このハナシは最終的にパーカー大佐の反対で幻に終わったが、是非実現してほしかった企画じゃなあ~。 ムーラン・ルージュ・ハリウッドは、本家のパリの様な安定経営が難しかったのか、建物や経営方針は変えられることなく歴史を重ねたてきたが、1960年代前半は「ハラバール」、60年代後半は「アクエリアス劇場」また近年では「アール・キャロル・シアター」等と、オーナーが変わるたびに名称も変わった。 つい最近までは「ムーラン・ルージュ」の名が復活して営業中という情報もあったが、最新のストリートビューで現状を確認すると(右写真2022年6月撮影)、建物はあらためて全面改装中の様子であり、果たして「ムーラン・ルージュ」の名が残されておるのかは不明。 |
1956年8月は光り輝いていたハリウッドの老舗ホテル Area No.20/Serial No.353 ニッカーボッカーホテル. エルヴィスの1950年代のハリウッド界隈での写真でもとりわけ知名度の高い、上半身裸のショットがとられた場所がニッカーボッカーホテルじゃ。 このホテル1923年に建築家 E.M. フレイジャーによって当初はアパートメント形式で設計されたものの、建物完成後もしばらくはオープンされることはなかったという。1929年7月になって正式に「ハリウッド ニッカーボッカー ホテル」としてオープンした後、さらに高層階が建て増しされた。豪華なスパニッシュ コロニアル様式の建物とナイトクラブ、リドルームはすぐに人気のスポットになり、貴族、旅行者、そして成長を続ける映画関係者たちで大いに賑わった。 ジョー・ディマジオ&マリリン・モンロー夫妻をはじめ、当時のセレブたちがごぞって宿泊していたニッカーボッカーに、エルヴィスは1956年8月映画「ラブ・ミー・テンダー」の撮影期間に初めて宿泊した。お部屋は1006号室じゃった!8月18日には写真家エド・ブラスラフがやって来て、屋上や部屋の中でフォトセッションが行われ、後世に残る数々の伝説的ショットが生まれた。 更に1957年1月から2月にかけて、2作目の出演映画「さまよう青春/Loving You」の撮影及びサウンドトラックのレコーディングのためにハリウッドを訪れた際にもエルヴィスはニッカーボッカーホテルに宿泊しておる。 その最中の2月7日、ロカビリーシンガーへ転身を決意したばかりのグレン・グレンがホテルにエルヴィスを訪ねたという記録も残っておる。(右下写真)この時は端役で映画に出演していたスコッティ、ビル、D.Jも同ホテルに宿泊中じゃった。以下、グレン・グレンの回想じゃ。 「スコッティからニッカボッカに来いよって誘われたんだ。ビルの部屋に入ってから“エルヴィスは今部屋にいるのかい?”って聞いたら、“電話してみたら”ってすすめられた。幸運にもエルヴィスは部屋にいたのでエルヴィスの部屋を訪ねることにした。 僕らは床に座って話をしたり、エルヴィスは出来たばかりのLoving Youのアセテート盤を聞かせてくれたり、僕の好きな“Baby Let's Play House”を少し歌ってくれたりした。エルヴィスはいい人だったよ、まだロカビリーシンガーとして取るに足らない存在だった僕にとても親切にしてくれた」 エルヴィス・サイドからのみ調べてみれば、ニッカーボッカー・ホテルは古き良き高級ホテルのイメージで彩られているが、実際このホテルは宿泊した著名人たちが様々なトラブルを引き起こす“呪われた”ホテルとしても有名じゃった。このホテルで命を落とした者たちの幽霊が出ることでも話題になっておったらしい。 更に1960年代からは近隣の環境悪化に伴い、麻薬中毒者、アーティストくずれ、売春婦たちの溜まり場と化してしまった。ニューヨークの梁山泊だったチェルシー・ホテルと同じような運命を辿ってしまったわけじゃ。1970年代になると大掛かりな改修プロジェクトが発足し、高齢者アパートとして経営がシフトチェンジされることになった。 悪しき伝説、伝統が染みついているとはいえ、エルヴィスの素晴らしいフォトセッションが行われた事実だけはホテルの歴史の中では光り輝いておるはずじゃ!館内にエルヴィスの記念碑の類でも祀れば厄払いになって、新しき良き命運が巡って来るに違いない!現在の様子は左写真の通り。(ストリートビュー2022年8月撮影)殿堂入りスターの名前が記された星が歩道に埋め込まれたスターウォークのすぐ近くであり、Area No.19のムーラン・ルージュの真裏じゃ。 The-Kingのボスが何度かこのホテルを訪ねて、どうしても屋上まで登ることを許可してもらえなかった!という写真コラムがあるので、そちらも併せて御覧頂きたい。 |
創業100年も間近。キングやハリウッドスターたちを魅了し続けるチャイニーズ・レトロ・レストラン Area No.21/Serial No.354 フォルモサ・カフェ カリフォルニア州編Vol.3のラストは、ハリウッド界隈で歴代のスターたちが集った伝説的なレストラン「フォルモサ・カフェ」へとご案内しよう。 ここはパラマウント・ピクチャー・スタジオ(Area No16)から至近距離(車で数分)であり、またArea No.15のラジオ・レコーダーズからはわずか3ブロック先、400メートルじゃ。 1940年代風の黒と赤をモチーフにした独特のチャイニーズ・レトロ風の内装がハリウッドスターたちの人気を呼びんだという。またWikipediaには当時の人気メニューが掲載されておったが、アメリカ料理にはない手の込んだ調理の中華風料理もまたハリウッドスターたちに好評だったという。 西部劇のヒーロー、ジョン・ウェインが夜毎飲んだくれていたり、フランク・シナトラがエヴァ・ガードナー(50年代に活躍した知的美人女優)に見惚れていたといった類のエピソードは枚挙にいとまがない。勿論エルヴィスも映画俳優時代には足繁く通っていたそうじゃ。後にパーカー大佐はエルヴィスの陶器製フィギアをいくつもフォルモサ・カフェに贈呈したというエピソードも有名である。このフィギアは今でも店内にディスプレイされておる。(右写真) 昨年2023年の1月8日、つまりエルヴィスの誕生日にフォルモサ・カフェではビッグ・サプライズがあった。エルヴィスの娘さんリサ・マリーが映画エルヴィスの監督バズ・ラーマンと主演のオースティン・バトラーらとともに現れて、エルヴィスの誕生日を祝ったのじゃ。(下写真) 長らく体調不良を噂されていたリサ・マリーはこの4日後に亡くなったので、まるで父エルヴィスのお祝いまで何とか生き延びようとしていたのではないかといった憶測まで飛び交った。 リサ・マリーは映画エルヴィスに対して「心から感動した」と語っており、バズ・ラーマンやオースティンとこうしたかたちで親交を温めていたことはエルヴィス・ファンにとっては嬉しいことではあるが、まさかその4日後に・・・。あらためてリサ・マリーのご冥福をお祈りいたしましょう。(こちらも2018年にThe-Kingのボスが訪れており、その時は休業中だったようで。写真コラムはこちらから) 1925年創業のフォルモサ・カフェは、永遠に順調な経営を続けていくように思われたが、1990年代からは“場所が場所だけに”土地買収問題や賃貸契約問題に巻き込まれて雲行きが怪しくなり、以降一部解体、一部リノベーション、一時的に閉店等、一般的には何とも不可解な状況が続いていたが、2017年からは正式に営業再開になった模様。右写真2022年5月撮影。 |
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