NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.424


第44回 エルヴィスゆかりの地アリゾナ州/ユタ州編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

2023年も残り一ヶ月。「バーチャル~エルヴィスゆかりの地」巡りも全米の全州網羅が近づいてきた!今回は38番目のご案内になるアリゾナ州、39番目のユタ州のダブル・ガイドじゃ。この両州は50年代のライブ軌跡は少ないものの、60年代のエルヴィス映画の撮影地が幾つかあり、ムービースターとしてのエルヴィスの側面を知る上では見逃せない地域と言えるじゃろう。また70年代初頭のツアーにおいても絶好調だったエルヴィスの記録も残っておる。エルヴィスが輝かしい足跡を数多く残したカリフォルニア州やラスベガスを擁するネバダ州へ足を踏み入れる前に、ちょいとマニアックな気分になって(?)アリゾナ州、ユタ州を楽しんでくれたまえ!



【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地 
    第44回 アリゾナ州/ユタ州編


 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はアリゾナ州内、ユタ州内での番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。


 
【アリゾナ州】
 Area No.1/Serial No.326 ステイト・フェア・グラウンド/フェニックス
 Area No.2/Serial No.327  
ピマ・カントリー・ロデオ・グラウンズ/ツーソン
 Area No.3/Serial No.328
 コットンウッド・ホテル/コットンウッド
 
 Area No.4/Serial No.329  KVIOラジオ・ステーション跡地/コットンウッド

 Area No.5/Serial No.330 アパッチランド・ムービー・ランチ跡地/アパッチランド
 Area No.6/Serial No.331  ベテランズ・メモリアル・コロシアム/フェニックス

 
 
【ユタ州】
 Area No.1/Serial No.332 ソルト・パレス・アリーナ跡地/ソルト・レイク・シティ

 Area No.2/Serial No.333
 映画「燃える平原児」ロケ地

 
【バーチャル・ロックンロールツアーのバックナンバー】

 ★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」

 EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)


【アリゾナ州】
マスコミ連中に仕事を放棄させた!?パンティ金網突き刺さりライブ!

Area No.1/Serial No.326 ステイト・フェア・グラウンド/フェニックス
 エルヴィスのアリゾナ州初登場は、1956年6月9日州都フェニックスのステイト・フェア・グラウンドでのライブじゃ。(左写真)時にシングル「ハートブレイク・ホテル」が大ヒット中であり、4日前の6月5日にテレビ出演した全国放送の「ミルトン・バレー・ショウ」も放映された直後でもあり、エルヴィス全盛時代が大爆発した直後じゃ。
 それにもかかわらず、このフェニックスと翌日のツーソンの2回のアリゾナ・ライブはあまりにもネット上の資料が少ない!このフェニックスでのライブ写真はたったの1枚じゃ。SMWも日時と会場名の記載のみ。これは一体どういうことなのじゃろうか?

 ネット上の僅かなライブ記録を追っていくと、5,000枚のチケットは発売後わずか2時間で完売!熱狂状態の女の子たちが巻き起こすであろう大騒動を予測して、会場側はステージを観客席から20メートル離した位置に設置し、しかも金網のフェンスを立ててステージと観客席を遮る手段に出たそうじゃ。それでも女の子たちは会場側が予測した以上の狂乱ぶりとなり、夥しい数の女性用のパンティーが金網のフェンスに“突き刺さる”トンデモナイ事態になったという。 
 しかしながら、翌日の地元新聞ではエルヴィスに対する詈雑言の嵐が吹き荒れていたようじゃ。 「音楽自体が低俗化している」「音楽的才能も技術もない凡庸なシンガーの悪趣味な腰振りショー」といった(恐らく)音楽の知識や理解力が微塵もない記者たちの無責任なレビューばかり。当時のアリゾナ州はよほど保守的な州だったのじゃろう。お隣のテキサス州とは正反対である。
 なお唯一冷静な記事描写は、「グリーンのキャデラックで現れたエルヴィスは、歌い始めると頭のグリースは汗で濡れてしたたり、次第に髪は乱れ、ダークブルーのジャケットと赤いニットシャツはクタクタ状態になった」というヤツ!

 またライブ写真が1枚しか見当たらなかったということは、会場でスタンバイしておったカメラマンたちも、記者たちと同様にまったくエルヴィスに理解を示すことなく仕事を放棄していた(立腹して撮影をしていない、唖然として撮影を忘れていた)のか!?もしくは、現像した後に、「こんなモン、何の価値もない」と保管を怠ったのか。
 取材題材を個人の一時の感情に任せて価値判断して、「記録」という基本的な業務を忘れるマスコミ屋さんって、いつの時代にもどこにでもいるもんじゃ!まあこれも、エルヴィスに対する当時の異常な異端児扱いを逆説的に物語る事実と捉えれば納得出来ないこともないな(笑)

 ステイト・フェア・グラウンドは現在でも存続しており、メインの観客席はエルヴィス出演時と変わらない様子じゃ。上写真に写っておる観客席以外は、現在では開催されるスポーツ、イベントによってグラウンド周囲(時にはグラウンド内も含む)に仮設席がセットされるようで、普段はだった広いだけの敷地の様じゃ。
 なお1964年には北側の敷地に「ベテランズ・メモリアル・コロシアム」が完成し、大規模なイベントはこちらで開催されるようになった。エルヴィスは1972年にフェニックスに戻ってきてライブを開催した時はこちらを使用しておる。(Area No.6で紹介)。右写真はストリートビュー2023年3月撮影。


 若きエルヴィスは地方保安官とも懇意だった!?
Area No.2/Serial No.327 ピマ・カントリー・ロデオ・グラウンズ/ツーソン

 上記の通りマスコミに叩かれまくったフェニックスでのライブの翌日の1956年6月10日、今度は南へ約180キロ離れたツーソンでエルヴィスはライブを開催。こちらは少し写真が見つかったわい!会場はその名の通り、ロデオ用のグラウンドであり(右写真)、会場側も1日だけのエルヴィス・ライブの為の仮設席設置作業が大変だったに違いない!

 上写真3枚のエルヴィスはいずれも余裕しゃくしゃくじゃな!新聞レビューで激しく叩かれようが、ライブの熱狂状態こそ自分への評価という自信に満ち溢れておるようじゃ。
 更にもう1枚貴重な写真を発見。(下写真)これは郡保安官局副官をはじめとした、アリゾナ州ピマ郡保安官局のお偉いさんたちと一緒に撮影された写真じゃ。郡保安官局のFacebookに掲載されていた写真であり、ライブ開始前にバックステージで撮影されたという。出演前の精神統一すべき緊張の時間帯にも関わらず、エルヴィスはポーズをとりながら実に爽やかで、しかもちょっとおどけておるようにも見える!
 保安官たちも、どう見ても「これから世の大人たちの敵、悪魔の申し子のエルヴィスの警護をせんといかん」っつった嫌悪感など微塵も感じさせないエエ表情をしておる。まるでエルヴィスと保安官たちは旧知の仲だったような写真である!この当時、エルヴィスと保安官(警察官)とのこんな和やかな写真はなかなかお目にかかれないはずだ。きっとエルヴィスは当時から保安官たちにも礼儀正しく振舞っておったのじゃろう。

 フェニックスの写真はたった1枚で、当時のレビューも悪意に満ちたものばかり。一方ツーソンでは4枚とはいえ、いずれもエルヴィスのステキなショットばかり。わずか180キロしか離れていない2つの街の同じ時期のライブに関して、こうも正反対な資料を目にするとは、これだから50年代のエルヴィスの調査はおもしろい!ちなみに、折角エエ写真が発見出来たのに、ツーソンのライブ状況に関するネット記事は一切見つからなかった(泣)

 テキサス州やアリゾナ州でロデオは伝統芸能の部類に入り、このピマ・カントリー・ロデオ・グラウンズ(ツーソン・ロデオ・グラウンズ))をはじめとして古い会場の幾つかが今でも現役として稼働しておるようじゃが、エルヴィスの登場した会場でその痕跡を見付けるのは難しいかもしれん。
 しかしながら、ロデオがグランドで巻き起こす激しい土埃や興奮する観客の声援の何倍もの熱狂がエルヴィスのライブで起こっていたことを想像しながら会場の現状を眺めてみるのも悪くない!
右写真ストリートビュー2023年6月撮影。


映画「スティ・アウェイ・ジョー」のロケ地&撮影本部になったホテル
 Area No.3/Serial No.328 コットンウッド・ホテル/コットンウッド
 

 50年代はたった2回のライブしか行われなかったアリゾナ州じゃったが、エルヴィスの映画俳優時代の1960年代はロケ地として少なくとも2回はアリゾナ州が使われておる。「ステイ・アウェイ・ジョー」(1968年公開)と「殺し屋の烙印」(1969年公開)じゃ。

 「ステイ・アウェイ・ジョー」は州都フェニックスの北135キロに位置するコットンウッド、その隣町セドナで撮影された。両方とも田舎の小さな街じゃ。映画ではエルヴィスが田舎町の中をキャデラックで走り回るシーンが印象深く挿入されており、その中に登場してくる建物がコットンウッド・ホテルじゃ。左写真は撮影期間中のホテルの正面入口であり、このホテルはロケ地だけではなく、撮影現場本部としても使用されておった。
 写真内左側にステーションワゴンが写り込んでおるが、エルヴィスはこの車に乗り込んで。コットンウッド・ホテルと、セドナとを何度も往復しておった。この車での移動ならあまり目立つことなく移動がスムーズだろうと踏んだパーカー大佐が用意したらしいが、地元のファンにはしっかりとバレてしまって、エルヴィスは移動中に沿道で声援を送るファンたちに投げキスをしまくっておったらしい!
 またコットンウッド・ホテルには、「ロビンソン・クロージャー・ウエスタンウェア・ショップ」という衣料品店が入っており、エルヴィスは撮影に必要なウェスタン・ウェアをここで購入しておった。上の映画のシーン写真右下の1枚で見られるブルーのウェスタン風ジーンズ・ジャンパーもその内の1着じゃ!

 コットンウッド・ホテルは現在まで存続しており、Google-mapでは2つ星ホテルとして登録されておる。エルヴィスが宿泊したわけではないが、ホテル内には「エルヴィス・スイート」と名付けられた部屋がひとつ用意されており、「スティ・アウェイ・ジョー」のポスターが控えめにディスプレイされておるらしい。
 右写真(ストリートビュー2022年7月撮影)で見ると小さなホテルじゃが、様々な現地ツアーが用意されており、時にはエルヴィスゆかりの地巡りも企画されておるらしい!


 世界で1枚しか存在しないLPがオンエアされたラジオステーション
Area No.4/Serial No.329 KVIOラジオ・ステーション跡地/コットンウッド
 コットンウッドにはコットンウッド・ホテルの他に、もうひとつエルヴィス・ファン、特に超マニアックなレコード・コレクターには決して見逃す事の出来ない重要なポイントがある。それが元KVIOラジオの電波発信地であったKVIOラジオ・ステーションじゃ。(残念ながら稼働当時のステーションの写真は見つからず。)ここに1967年の10~11月のある日、パーカー大佐の手によって、世界でたった1枚しかないエルヴィスのLPレコードが持ち込まれたのじゃ!ラジオステーションというよりも、LPの方が重要じゃな!

 このレコードはその存在を知るほんの一部のマニアの間では「スティ・アウェイ・ジョーLP」と呼ばれておったらしいが、映画のサントラ盤でもプロモ盤でもない。詳細に関しては、間違いがないようにエルヴィス・コレクターの私設サイトから転載しておこう。
 
 1999年10月以前は、エルヴィスの専門家や膨大なコレクションで世界的に知られる人たちを含め、誰も「Stay Away, Joe」というタイトルのLPは存在しないと断言したことだろう。エルヴィス・プライス・ガイドやリファレンス・ブックでさえ、そのようなタイトルのLPは存在しなかった。現在発行されている『プレスリー・アナ』には掲載されている。
 このLPは、その存在の噂すら漏れることのないほど、秘密にされていた。さらに、60年代にオールスター・ショーで働いていた人で、このアルバムについて何か覚えている人はまだいない。残念ながら、パーカー大佐、トム・ディスキンなど知っていそうな人は亡くなっている。また、このような出来事を記録しようとする "Elvis Day By Day "的な本にも、この放送に関する記述は一切ない。

UNRM-9408(選曲番号の記載がないため、識別番号を使用)は、60年代のRCAのプロモーション盤の多くと同様、白地に黒の印刷のレーベルである。片面ディスクのみ音楽が録音され、第2面はブランクである。
ラベル表記: スペシャル・ロケ・ラジオ・プログラム。MGM's Stay Away Joe on Location Sedona, Arizona Compliments of Elvis and the Colonel.

無地のインナー・スリーブにはトラック・タイトルがタイプされており、次のような記述がある。「KVIO放送用、1967年11月5日日曜日。All Star Showsの所有物。放送後パーカー大佐のオフィスに返却。」

興味深いことに、LPには9曲収録されているが、インナー・スリーブには8曲しか記載されていない!2曲目に収録された「In My Father's House」の記載がない。トラック2(I Believe in the Man in the Sky)とタイプされているのは実際には3曲目である。

パーカー大佐は番組放映後、このLPを取り戻そうとしていたようだが、結局それは大佐の遺産として後日発見された。

信じられないことだが、この12インチ・アルバムは、アリゾナ州セドナの南西にある小さなコミュニティー、コットンウッドのKVIOというラジオ局で一度だけ放送されるために作られたのだ。

このLPをアセテート盤、工場実験盤、トランスクリプション盤、テスト・プレス盤と混同しないように。これは通常の市販盤やプロモーション盤とまったく同じように製造された標準的なプロダクション盤である。
 
 自己完結したこの30分のプログラムには、エルヴィスのゴスペルが9曲収録されており、アナウンサーのジョー・アダムス(フェニックスのKOYから借用)は、映画『Stay Away, Joe』の制作中にキャストやスタッフがセドナやコットンウッドでもてなしを受けたことへの(エルヴィスからの)感謝を述べている。 また、エルヴィスの2枚のゴスペル・アルバム「His Hand in Mine」と「How Great Thou Art」と、1967年12月3日に予定されているクリスマス・スペシャル・ラジオ・プログラムの宣伝も含まれている。

 上記の記載から判断すると、1999年10月頃にパーカー大佐の遺産の中から「スティ・アウェイ・ジョーLP」が発見されたようじゃ。発見当初は「世界で1枚」とされておったが、実は後日RCAでもう1枚コピー盤が発見された事が別の私設サイトで紹介されておった。
 KVIOラジオでこのLPをオンエアした(上記した)DJジョー・アダムス氏は当時18歳。一切アドリブを挟むことなく、LPとともに用意されたナレーション原稿を淡々と読み上げたそうじゃ。

 現在このLPを何処の何方が所有しておるのかは不明じゃが、Area No.3でご案内したコットンウッド・ホテルのウェブサイト(最終更新日2012年3月1日)には、LPの簡単な紹介の最後に「Minimum value: $25,000」とされておる。
 
このLPがオンエアされた放送の最初と最後の部分が1分52秒に編集されてYOU TUBEにアップされておる!

 なお、上写真は地元のファンが映画撮影中のエルヴィスをポラロイド撮影したもの。これもまた超貴重!

 KVIORラジオはその後別のラジオ局と合併を繰り返し、オーナーも何度か変わったものの、ステーションの建物は変わらずに存在し続けておった様じゃ。
先述したコットンウッド・ホテルのウェブサイトにも、このステーションを訪ねる観光客向けのツアーの様子がアップされておる。
 どうやら2005年頃まではステーションは稼働しておったが、現在は約1キロほど離れた場所に移転して、名称は「Yavapaiラジオ」になっておる。旧ステーションの建物は、ストリートビュー2023年7月撮影時点では取り壊されることなく残されておる。(右写真)


“ここではエルヴィスは神です”
Area No.5/Serial No.330 アパッチランド・ムービー・ランチ跡地/アパッチランド
 1960年代に年間3本のペースで粗製乱造されていったエルヴィス映画の中で、「殺し屋の烙印/Charro !」はラストから3本目にあたる西部劇であり、主にアリゾナ州アパッチランド・ムービー・ランチ(西部劇専門の撮影グラウンド)が使用された。
 数多くの西部劇が撮影された場所であり、敷地内には映画の舞台となった様々な建物やセットがあったものの、「殺し屋の烙印」の撮影が終了した後に二度の火災に見舞われ、ほとんどのオリジナル・セットは焼失してしまったが、教会のセットは奇跡的に火災の難を逃れて、今ではエルヴィス・プレスリー・チャペルの名を冠して存在しておる。

 この映画はエルヴィス映画のプロットの中で唯一エルヴィスが歌うシーンがない作品だったために、プロットを読んだ段階ではエルヴィスはかなり張り切って撮影に臨んだそうじゃ。興行的には芳しくなかったものの、エルヴィスの演技においてはベストと評価されておる作品じゃ。またエルヴィスが終始無精ひげのまま演技した“唯一”の作品である。
 その為か、エルヴィス映画のファンでもかなりマニアックな方々!?がかつてはアパッチランド・ムービー・ランチを訪れ、映画の中でエルヴィスが血を流して倒れた場所の土を持って帰る方も多かったらしい!
  エルヴィス・プレスリー・チャペルの中には、イエスキリスト像も十字架もなく、等身大のエルヴィス像が祀られておる。地元観光サイトには、「ここではエルヴィスは神です」と記載されておる!う~ん、ならば、もっと精巧なエルヴィス像を奉るべきでは?

 ストリートビューで現状を確認してみると、2022年3月現在、Superstition Mountain Historical Societyなる組織が西部劇の新しいテーマパークとしてこの地を再興しておるようで、エルヴィス・チャペルの他にも敷地内に博物館や撮影セットの復元も試みられておる。チャペルや博物館の中にはアパッチ・ムービーランチで撮影された映画のポスター、ロビーカード等の記念品が所せましとディスプレイされておる。

 


 1970年9月9日、キング13年ぶりのライブツアー再開の地
Area No.6/Serial No.331 ベテランズ・メモリアル・コロシアム/フェニックス

 約2年間の兵役と約10年間の映画俳優期間等を経て、エルヴィスは1970年9月9日に1957年以来のライブツアーを再開することになった。そのスタート地がアリゾナ州フェニックスのベテランズ・メモリアル・コロシアムであった。(左写真)アリゾナ州でのライブは、Arean No.2でご案内した1956年6月10日のピマ・カントリー・ロデオグラウンズ以来であり、ベテランズ・メモリアル・コロシアムは1964年にArea No.1のステイト・フェア・グラウンドのすぐ隣りに建てられた大型イベント会場じゃ。

 EPCによると、ツアー再開においてもっとも懸念された案件は、エルヴィスのミュージシャンとしてブランク期間が長過ぎたためにエルヴィス及びパーカー大佐の周囲には最新のライブシステム(主に音響)に関する識者がいないことだった。そこでパーカー大佐はクリーム、レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスといったビッグネームのツアーを成功させ、名を馳せていたプロモーターのジェリー・ワイントローブとトム・ヒューレットにまず連絡を取ったという。大佐とこの両者が力を合わせることでエルヴィスのライブツアーを再開させた。
 このツアーは、8月10日から9月7日までラスベガスのインターナショナル・ホテルで行われたライブが終了してからわずか2日後にスタート。フェニックスの後は、セントルイス 、デトロイト 、フロリダ州のマイアミ 、タンパ 、モービル と続く全部で8回のライブ・スケジュールであり、大佐の判断により、右腕のトム・ディスキンがフェニックスでのサウンドシステムとステージをラスベガスのようにセットアップしたそうな!「音楽のことはよく分からない」と公言しておった大佐じゃが、しっかりと専門の大物とタッグを組むあたりは、さすがは名マネージャーだけのことはある!

 ジェリー・ワイントローブとトム・ヒューレット、そして大佐の3人はフェニックスからスタートしたツアーをあくまでも「テストラン」とみなしていたらしいが、実際にはライブ・ドキュメント映画「エルビス・オン・ステージ/ Elvis: That's the Way It Is」の撮影はスタートしており、このフェニックスでのライブ映像は何ヵ所が挿入されておる。音声、音楽に関しては様々な説が存在しておるのでここでの特定は避けておくので悪しからず。

 「ここに戻って来られて本当にうれしいです。こうして出演するのは約9年ぶり(12年ぶりが正解)ですので、前回1957年(1956年が正解)は私がまだ赤ちゃんだった頃でした!」
 エルヴィスはこう言ってフェニックスのオーディエンスに再会のご挨拶をした。コロシアムを埋め尽くした13,000人の大観衆に対して、エルヴィスは終始ジョークを絶やさず、リクエストも受取り、バックメンバーのソロもフューチャー。若くて生意気盛りの当時のトップ・ロッカーの“俺様のライブを聞け”といった一方通行演奏とはかけ離れたキングとしての風格に溢れたライブスタイルで大観衆を魅了した・

 
上写真で御覧の通り、ベテランズ・メモリアル・コロシアムは緩やかに湾曲した鞍型の屋根が特徴であり、1,000 枚を超える特殊コンクリートパネルとそれを支える独特の鞍型の張力ケーブルが使用された、完成当時は革新的な建築物として賞賛され、1967年に出演したモンキーズもドキュメンタリー映画用にこの会場での映像が使用。ローリング・ストーンズが1969年ツアーで使用した際も、映画「ギミーシェルター」用のストック映像として撮影が行われていたという説が存在する。コロシアムは現在でも稼働中である。(左写真はストリートビュー2020年3月撮影)


【ユタ州】 
ユタ州唯一のライブ会場は、札幌市のかつてのライバル都市にあった!

Area No.1/Serial No.332 ソルト・パレス・アリーナ跡地/ソルト・レイク・シティ

 ここからの二ヵ所は、ユタ州のエルヴィスゆかりの地になります。まず1971年7月2日、1974年11月16日の2回ライブが開催された州都ソルトレイクシティーにあったソルト・パレス・アリーナじゃ。(右写真)
 
 ソルトレイクシティーは日本に馴染みのない都市じゃが、ここは1972年札幌冬季五輪が開催される前、札幌市と五輪開催地招致合戦を繰り広げた都市じゃ。
 またソルト・パレス・アリーナは五輪招致活動のために冬季室内競技開催のメイン会場とするために、リトル・ジャパン(在住日本人コミュニティー地域)があった場所に1969年に建てられた。日本とは浅からぬ縁のある(?)都市、そして会場じゃ。

 1971年のエルヴィスは11月までライブツアーを行っておらず、11月5日から16日までが同年唯一のツアーであり、ソルトレイクシティはラストにブッキングされておった。ツアー開始に際し、ツアースケジュールの他にパーカー大佐からファンに向けたメッセージが刷り込まれたポスターが用意された。(左写真)
 ツアーを待ち侘びている多くのファンに向けて気が効いたメッセージでも含まれているのかと文面を確認したが、1971年度ラスベガスやレイク・タホでのショーが世界中で大好評であり、「当年度のクリスマス・アルバムやベストアルバムも素晴らしいですよ!だから皆さん、ライブのチケットやレコードを買いましょうね!」的な大佐の自画自賛&プロモ・メッセージのみ(笑)
 

 また数多ある私設エルヴィス・サイトのほとんどが、この日のライブの詳細には触れることなく、その代わりに「ライブ終了後に、この会場の使用料や経費を差し引いた804,000ドルがエルヴィスと大佐に支払われることになった」と記述しておる。EDDはさらに「当時はそのうち3分の2がエルヴィス、3分の1が大佐の取り分」と付記しておる。まだ折半ではなかったことを記述しておきたかったのじゃろうか?

 ソルト・パレス・アリーナは1994年に取り壊されており、その跡地には新しいイベント会場ソルト・パレス・コンベンションセンターが建てられておる。一部の私設エルヴィスサイトでは、上記2回のライブ会場名が現在跡地に建っているソルト・パレス・コンベンションセンターの名前になっておるんで、ツアースケジュール・マニアの方は一応要注意。(右写真ストリートビュー2022年3月撮影)


邦題“燃える平原児”命名の意図が分かる超広大なロケ地
 Area No.2/Serial No.333 映画「燃える平原児」ロケ地
 

 エルヴィスのユタ州との関わりは、Area No.1ソルト・パレス・アリーナのライブ以外では、1960年「GI.ブルース」の次に公開された映画「燃える平原児/Flaming Star」の撮影のみのようじゃ。この映画のロケ地としてユタ州の三ヶ所が使用された記録が残っておる。撮影地はユタ州スカルバレー、ローンロック、デルという地点であり、Googler-map上でも確認できるのだが、何処も大草原と山脈が物凄いスケールで広がっておる地域であり、映画の数多くの写真や動画の静止画を確認すると確かにそのような場所が背景になっておるが、両方を参照してみてもピンポイントで場所が特定出来ない!
 「燃える平原児」は家屋の中での撮影シーンもあるが、ロケ地は他にもロサンジェルスの牧場が使用されており、それ以外の大自然の中でのシーンはすべてユタ州のこの三ヶ所周辺と推定するしかない。以下3枚の写真は、ストリートビューでのスカルバレー、ローンロック、デルじゃ。(ストリートビュー2022年3~6月撮影)

 
 
 映画の原題“Flaming Star”は直訳すると“燃える星”じゃが、真意は“輝く星”。「インディアンは死を迎える時に輝く星を見る」という言い伝えから生まれた特殊な表現じゃ。邦題の“燃える平原児”は、恐らく原題の誤訳と、広大な撮影地のイメージが重ねられて付けられたのではないかと思われるわい。
 しっかしこのただっぴろいロケ地へは、ピンクのキャデラックというよりも、モーターバイクをぶっ飛ばしてのツーリングの方が気持ちいエエかもしれんな!キャンプ道具でも持参して、一晩ぐらいは“輝く星を見ながら”エルヴィスに思いを巡らせて飲んでみたいものじゃ!
   ←スカルバレーの位置    ←ローンロックの位置    ←デルの位置


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