NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.425


第45回 エルヴィスゆかりの地~カリフォルニア州編 Vol.1

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

長らくお付き合い頂いておる「バーチャル・ロックンロールツアー~エルヴィスゆかりの地」も、スタートから約2年を経てついにアメリカ西海岸・カリフォルニア州に到達じゃ!これまでアメリカ合衆国内の38州+カナダを可能な限りじっくりと巡回してきたので、ここまでやって来るのに時間がかかり過ぎてしまったが、エルヴィスの足跡が残る全州網羅に向かってあらためてギアを入れ直すとしよう!カリフォルニア州はテキサス州以上にエルヴィスねたの宝庫であり、何回に分けてご案内すればいいのか今のところ未定であり、とりあえず今回はVolume1とさせて頂くぞ。まずはカリフォルニア州南端の都市サンディエゴ周辺から、北へ150キロ離れたロサンゼルスに至るまでの地域におけるエルヴィスゆかりの地じゃ。以降、広大なカリフォルニア州を訪ね続けるツアーをどうぞお楽しみ頂きたい!


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地 
    第45回 カリフォルニア州編 Vo.1


 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はカリフォルニア州内での番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。


 
【サンディエゴ】
 Area No.1/Serial No.334  航空母艦USSハンコック号停泊埠頭
 Area No.2/Serial No.335  
グレイシャー・ガーデン跡地
 Area No.3/Serial No.336 エル・コルテス・ホテル
 Area No.4/Serial No.337 スポーツ・アリーナ跡地

 【ロングビーチ】
 Area No.5/Serial No.338  ミュニシパル・オーディトリアム跡地

 【パーム・スプリング】
 Area No.6/Serial No.339 エルヴィス・ハネムーン・ハイダウェイ(隠れ家)
 
Area No.7Serial No.340 エルヴィス・プレスリー・エステート

 【過去のバックナンバー】

 ★ 本文中の表記について ★


←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。

 SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
 SRW=サンレコードのウェブサイト
     (※2023年から閲覧不可) 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集
            「Elvis Day By Day」

 EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート
                 (ウェブサイト)


 ミスター・テレビジョン”は航空母艦からキングを全米に紹介した!
Area No.1/Serial No.334 航空母艦USSハンコック号停泊埠頭/サンディエゴ
 

 1956年4月3日キング・オブ・ロックンロールは、同年1月28日「ドーシー・ショウ」出演によるアメリカ東海岸初登場から遅れること約二ヶ月、西海岸のテレビショウにもその姿を現した!アメリカの1940~50年代の「テレビ黄金時代」のシンボルとまでいわれた超人気番組「ミルトン・バール・ショウ」への出演じゃ。公的にはこの日初めてエルヴィスはアメリカ西海岸の地を踏んだとされておる。

 この番組を司会者(兼俳優)でもあるミルトン・バールは当時は“ミスター・テレビジョン”と称されるほど全米で絶大な人気を誇っていた司会者であり、その温かい人柄から視聴者からは“ミルティーおじさん”の名で親しまれた存在じゃった。

 東海岸のテレビ・ショウを仕切っていたエド・サリバンやスティーブ・アレンが当初エルヴィスの存在を嫌悪しつつも、渋々視聴率稼ぎの為に利用していたことに対して、“ミルティーおじさん”はエルヴィス・プレスリーという新しいパーソナリティの登場を歓迎していたようであり、パーカー大佐とエルヴィスは出演前に感謝の意を掲載した特別プロモ・ポスターを用意した。THANKS “Mr.TELEVISON”の記載が見える!(左上写真)
   かつて海軍で軍役を就いていたスコッティ・ムーアにとっては除隊以来のサンディエゴ再訪であり、「ミルトン・バール・ショウ」の記憶を次のように話しておった。
「楽しかったよ。 ミルティーおじさんは最高だった。 エルヴィスのカツラをかぶったり、ギターを弾いたり、いろんなおふざけをやってくれた。 面白かったよ」

 

 「ミルトン・バール・ショー」は通常はハリウッドのテレビ・スタジオから放映されるが、この日はサンディエゴから、しかもノースアイランド海軍航空基地の埠頭に停泊中の航空母艦「ハンコック号」の甲板上が舞台となった。 エスター・ウィリアムス、ミルトン・バールのコメディ・サイドキック、アーノルド・スタング、バディ・リッチをフィーチャーしたハリー・ジェームス・オーケストラを主役に、エルヴィス、スコッティ、ビル、DJをフィーチャーした複数タレントによるリモート・ショーじゃった。
 エルヴィス西海岸初ライブは、戦闘機が離着陸する空母であり、世の大人たちの凄まじい罵詈雑言と戦わねばならんキングらしい!?勇まし過ぎるライブ会場じゃ~(笑)しかしエルヴィスのライブ写真が少ないのは、僅か3曲演奏だけの出演だったからか?ちなみにミルトン・バールがエルヴィスの双子の兄弟を演じた寸劇コメディも披露されたという!(右上右側写真?)
 
 

 航空母艦ハンコック号は1944年1月24日に進水、太平洋戦争中は1944年4月15日に就役して南太平洋戦線で活躍。
戦艦USSミズーリ艦上で日本帝国政府の正式降伏が調印されたとき、ハンコック号から飛び立っていた戦闘機が艦上を飛行していたという。
 1955年8月10日、日本沿岸からフィリピン、沖縄までの第7艦隊作戦のために出港した航空母艦ハンコック号は、ミルトン・バール・ショーの約二週間前の1956年3月15日にサンディエゴのノースアイランド航空基地に帰港しており、スパニッシュ湾の埋め立てによってできた新しい桟橋に沿って停泊していたようだ。
 下左写真は、SMWによる空母船首部分と航空写真との参照。右写真は現Google-map航空写真。両写真にわしが青枠でマーキングした部分に空母ハンコック号が停泊し、その船上でエルヴィスが演奏したのじゃ。右航空写真のストリートビューは無し。なお、このハンコック号停泊地埠頭の湾内の約500メートル先の対岸に海軍航空博物館があり、お役御免となり1976年にスクラップとして売却されたハンコック号の船体一部が展示されているという説がある!?。

 


 アイスリンクの氷も溶けた!?熱狂ライブ
Area No.2/Serial No.335 グレイシャー・ガーデン跡地/サンディエゴ
 Area No.1でご紹介したミルトン・・バール・ショウ出演の翌日、エルヴィスは西海岸都市で初めてのライブ(ミルトン・バール・ショウはTV番組用ステージ)をサンディエゴのグレイシャー・ガーデン(左写真)で開催した。
 この日は後にカントリーからロカビリーに転身することになるグレン・グレンがライブを鑑賞し、バックステージでエルヴィスを訪問しておる。SMWにはグレン・グレンの回想が掲載されておるので、一部転載しておこう。(上写真左、右側、黒いジャケットの普通っぽい方がグレン・グレン)


「ルイジアナ・ヘイライドでエルヴィスと共演したマドックス・ブラザーズ&ローズ・カントリー・バンドのベーシスト、フレッド・マドックスからエルヴィスのことを初めて聞いたんだ。エルヴィスを観るためにサンディエゴまで車で向かった。彼が南部で人気があることは知っていたけど、西海岸でこれほど人気が​​あるとは思ってなかったよ。ショーには約5,000人の女の子がいて、エルヴィスは彼女たちを夢中にさせていたね」

「DJが後ろでドラムを叩いている中で、エルヴィスは登場して体が蜘蛛が這うように約5分間震えていた。彼が出て行くと人々は熱狂した。それからエルヴィスは歌を歌い始めた。とはいえ、彼の声はほとんど聞こえなかったけれど、女の子たちはとても大声で叫んでいた」

「フレッド・マドックスがショーの後にエルヴィスに会うために私を舞台裏に連れて行ってくれたんだ。エルヴィスはとても話しやすかったけれど、とても緊張していたよ。彼はこれまでこれほど大勢の観衆の前でプレーしたことがなかったと思う。彼が下唇を何度も噛み、コーラを飲みながら、緊張したエネルギーが満ちていたことを覚えているよ」

「ステージで一生懸命働いたせいで、着ていたジャケットは汗でびっしょり。外ではファンが大声で叫んでいたので建物の外に連れ出すことができなかったので、私とエルヴィスは話をしながらかなりの時間を過ごした。結局、サンディエゴ海岸パトロール隊に彼をホテルの部屋まで護送してもらうことになった」

 グレン・グレンはこの日のエルヴィスのステージに衝撃を受けて、カントリー・シンガーからロカビリー・シンガーへの転向を決意することになり、旧芸名グレン・トラウントマンからグレン・グレンに改称することになる!

 西海岸に初登場したエルヴィス評判は賛否両論であり、中には物議を醸した事件もあった。それはエルヴィスが宿泊したエル・コルテス・ホテル(Area No.3でご案内)のホールを12人の少女たちが裸で走り回ってエルヴィスを探し、この騒動に地元警察署長が激怒したという報道じゃ。
 この事件は何故か数年後に蒸し返されることになる。それは地元のDJのインタビュー記事であり、エルヴィスは女の子たちもやって来たライブ終了後のバックステージで裸になり、“ゴールドラメのスーツ”で身体の一部を隠していたとか、こういう状況が次回のライブ(同年6月6日)も起こるようなら、警察署長は「エルヴィスを逮捕する」といった報道があったという内容じゃ。
 写真でお分かりに頂けるように、この日エルヴィスはゴールド・ラメ・スーツは着ておらず、単なる話題作り、自己顕示のためのデタラメな内容のインタビューだったようじゃ。
 それにしても、エルヴィスのバックステージ写真はホワイト系、ブラック系2種類のナッソーを羽織っており、いずれもネップが舞うタイプで超クール!上記の悪意ある記事を書いたライターはネップという生地を知らずに「ゴールドラメとでもしておこう」ってテキトーに書いたってのが真相じゃろうな(笑)

 1936年に開場したグレイシャー・ガーデンは収容人員数約4,000の西海岸随一のアイス・スポーツ競技場であり、アイス・ダンス・ショー、アイス・ホッケー、アイススケートのメッカとして稼働しておったらしい。その当時西海岸でアイス・スポーツが人気だったとは少々驚きじゃが、「“悪名高い水と霧”でも有名な会場だった」らしい。水質の悪い水からの氷だったのか?会場には氷から発生した霧が立ち込めていたのか?ならばエルヴィスのライブは、女の子たちの狂騒ぶりで氷が溶けてしまって激しく霧がたちこめていたかもしれない!?
 多目的イベントスペースとして使用されるようになってからシンプルに「アリーナ」と呼ばれるようになり、1960年代末期に閉鎖、取り壊しになったようじゃ。現在跡地にはヒルトン・サンディエゴ・ベイフロント・ホテルの屋内駐車場が
建てられておる。(左上写真2022年3月ストリートビュー撮影)
 ※2009年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝戦が行われ、イチローが決勝打を放って侍ジャパンが優勝したベースボール・スタジアム「ぺトコ・パーク」はストリートを隔てた対面にあるぞ!


12人の女の子たちが裸でエルヴィスを探し回った(?)ホテル
 Area No.3/Serial No.336 エル・コルテス・ホテル/サンディエゴ
 Area No.2で先述した、サンディエゴで起こった「12人の女の子が裸で走り回った」という騒動の現場とされるホテルが、当時サンディエゴでもっとも高層で豪華なエル・コルテス・ホテルじゃ。
 実際にこの騒動を事実と証明する新聞記事のアーカイブの類はネットでは発見出来ず、エルヴィスを陥れるための捏造騒動であった可能性も高い。Wikipediaをはじめとするエル・コルテス・ホテルの歴史を真摯に紹介するいくつかのウェブサイトでは、もっとも有名な利用客のトップにはエルヴィスの名前があり、騒動に関しては触れていない。

 1926~27年頃にオープンしたエル・コルテス・ホテルは、数々のエキゾチックでユニークな内装や調度品から、「太平洋側で世界最高のホテル」とまで評された時代もあったほどの存在じゃ。正面の壁面に設置されたガラス張りの屋外エレベータがシンボルでもあり(上写真左側)、サンディエゴの街なみを眼下に臨みながらのエレベータの昇降はアトラクション的人気にも湧いたそうな。また館内には動く歩道もあり、定期的に新しいエンターテイメント設備が追加されていくことでも人気のホテルじゃった。

 エルヴィスは1956年にもう1回(6月)、さらに1970年、1973年、1976年にサンディエゴでライブを行っておるが、先述の騒動(の噂)のためか、その後エル・コルテス・ホテルに宿泊することはなかったという。

サンディエゴで一世を風靡したエル・コルテス・ホテルは改修や増築の歴史を繰り返した後、1978年にホテルとしての経営を終了。建物の一部は取り壊されたが、2000年に改築されて現在はホテル業を再開させ、また一部は高級コンドミニアムとして稼働しておる。かつての呼び物だった屋外のガラス張りエレベータは取り外されたが、往年のホテル名を示す赤い文字看板は復活しておる。右写真ストリートビュー2022年12月撮影。


“エルヴィスは自分のそれまでの栄誉を更に高めることしか出来なかった!”
Area No.4/Serial No.337 スポーツ・アリーナ/サンディエゴ

 1957年以来のエルヴィス13年ぶりのライブ・ツアーとなった1970年度ツアー、その2回目は11月10日からスタートし、15日に14年ぶりにサンディエゴにやって来た。
 場所は1966年にオープンしたスポーツ・アリーナ。エルヴィス以前にもレッド・ツェッペリン、ジェスロ・タル、ジミ・ヘンドリックスらビッグロッカーたちがライブを行っておったが、エルヴィスはこの日約15,000人の大観衆を集めて、スポーツ・アリーナ会場以来の超満員状態となった!1976年4月24日の同会場での再ライブには約17,000人が詰めかけたという記録も残っておる。

 このツアーでは新しいジャンプスーツが用意されたが、エルヴィスの激しいステージアクションゆえに、フリンジがマイクコードに何度も絡まってしまったために、ツアー途中でフリンジを切り落とすことになったという。上写真はフリンジが切り落とされた後なのか?エルヴィスは気持ち良くアクションをキメテおるように見える!(フリンジのカットは、チャーリー・ホッジ君のお仕事だったそうな!)

 御多分に漏れず1970年度のライブツアーはどこも大好評!サンディエゴでのライブも以下の様なレビューをネット上でも読むことが出来る!
 
 昨夜、サテンのモアレのイブニングドレスを着た老婦人たちが彼を観にに来たほか、元ボビーボクサーや、1954年に彼がキャリアを始めたときに生まれたばかりの若者たちもいた。
 なぜ彼らは来たのか?なぜエルヴィスがそこにいたのか?おそらく単純に、ロックンロールが、おかしなこととは関係なく、現在に至るまで、すべてが存在する場所、つまり自由と喜びが支配するロックアウトスポーツであるからだ。

 エルヴィスは、単純にステージ上で楽しい時間を過ごし、それを観衆の中に伝染させるという驚くべき能力を持っている。彼は自分自身が楽しんでいる。 バックアクトで冗談を言ったり、肩に水の入ったグラスを振りかざしたり、気が向いたら座ったり、歌の気分が来るのを待ったていたり。そして聴衆も楽しい時間を過ごしている。
 女の子たちは今でも彼がステージから弾き飛ばしたタッセルを追いかけ、彼が動物的になると叫び声を上げ、誘導員の群れをステージの下に送り込みます。エルヴィスに会いに行ってみてはいかがでしょうか?彼は楽しくてセクシーで、歌も十分に上手です。それに、彼はロックンロールの王様だ。

 エルヴィス・プレスリー。彼は昨晩、それまでの自分の栄誉を更に高めることしか出来なかったのである!

 このツアーからはゴスペル曲「How Great Thou Art」はこのツアーで初披露され、この日は更に「Blue Christmas」も歌われ、この素晴らしいクオリティがまた上記のような熱烈な賛辞に繋がったのじゃろう。

 スポーツ・アリーナは現在でもスポーツと音楽の大型イベント会場として稼働し続けており、ネーミングライツ(命名権)が定期的に変わっており、現在の名称は「ペッカンガ(ペッチャンガ表記あり)・アリーナじゃ。音響効果の素晴らしさは有名であり、アリス・クーパーの映画の中で演奏シーンが挿入されたり、幾つかのバンドのライブ・レコーディングが行われておるサンディエゴ一のミュージック・ホールでもある。右写真ストリートビュー2022年3月撮影。



 ジュディ・ガーランドの復帰とエルヴィスのキングへの船出を彩った会場
Area No.5/Serial No.338 ミュニシパル・オーディトリアム跡地/ロングビーチ
 サンディエゴから太平洋岸を北へ約100キロ、ロサンゼルスからは南へ約30キロの海岸沿いの街、そこがロングビーチじゃ。
 数々の航空写真を見ると街全体が整然としており、太平洋を臨む景色はまさに爽やかで風光明媚!ここにかつて大海原へ向かって船出しておるような埋立地に美しいイベント会場ミュニシパル・オーディトリアムがあった。
 エルヴィスのミュニシパル・オーディトリアムの出演は1956年6月7日じゃったが、その約11ヶ月前にオーディトリアムを観客が埋め尽くしたイベントがあったので、それを先にご紹介しておこう。

 当時のトップ女優だったジュディ・ガーランドのカムバック作「スター誕生」の上映を記念したミュージカル・ショーが行われ、会場のキャパいっぱいの約4,500人が熱狂した記録が残されておる。会場には当時のトップスターたち約100人が駆け付け、ジュディ・ガーランドのカムバックを祝ったという。右下写真は、ショウ終了後の大歓声の中で行われた舞台挨拶の場面・左からジュディ・ガーランド、ハンフリー・ボガード、フランク・シナトラ、ローレン・バコール!

 「スター誕生」のオリジナル版は1934年であり、ジュディ・ガーランドが主演となった1954年版はリメイク版じゃ。また諸君もご存知じゃろうが、1976年版は当初主演男優としてエルヴィスがキャスティングされ、エルヴィスは共演予定のバーバラ・ストライザンドと意気投合し、おおいに乗る気だったことは有名じゃな。このオファーはライブ・ツアーでがっぽり儲けることしか頭になかったパーカー大佐が強引に握りつぶしてしまい実現しなかったが、エルヴィスと「スター誕生」はほんの少しの縁で繋がってはおるようじゃ。

 
 さて、肝心のエルヴィス・ライブ・イン・ロングビーチは、SMWに素晴らしいライブ・レビューが掲載されておったので、それを転載しよう。長い間ロサンジェルス・タイムスで社会記者として活躍し、数千人にも及ぶ著名人インタビューを行ったアン・コンウェイなる女性記者の手記じゃ。当時彼女はまだ16歳の少女だったが、わしは彼女のレビューを自分自身の拙訳ながらも読み進めていきながら、彼女の表現力の奥深さに唸る思いがした。男性では決して感じることのできない種類の激しい情熱、その情熱と表裏一体である悲哀や不安までが活写されておる。
は常にこの世の代償、つまり避けられない欠陥が伴うのだ。
 1956年にオーディトリアムでエルヴィス・プレスリーの歌声を聞いたのは、私がまだ純真な16歳だったときであり、これが後にロックンロールとそのパワーに対する生涯にわたる恋の始まりとなりました。私を突き動かすために。肉体的に、感情的に、精神的に!
 親友から突然電話がかかってきました。彼女が知っている車を持っている男の一人は、オーディトリアムで行われたエルヴィスのコンサートのチケットを3枚持っていたのです。「アルヴィス」・プレスリーという名前が印刷されていました。当時、魅力と謎の宝庫、魅力のアイコンだったエルヴィス。優雅で巨大な、手招きするようなホールの匂いが今でも残っています。海に近く、塩味が漂っていました。その広さ、高さ、そしてクッション性は、当時私たちが楽しんでいた映画館よりもはるかに優れていました。


 

 ♪~抱きしめて、抱きしめて、喜びでときめかせて、ダーリン、あなただけが私の生きがいです~あなたが欲しい、あなたが必要、もっともっと愛している!あなたが近くにいるたびに、すべての心配事は消えてしまう~あなたが欲しい、あなたが必要~♪
 エルヴィスがこれらの言葉を歌ったとき、私は突然、スリルと痛みを伴う、まったく新しい憧れの成層圏に飛び込みました。ああ、映画雑誌で俳優のことをあれこれ考えたことはあったが、こんなことを感じたのは初めてだった。ほとんど動くことができませんでした。
 その日から、私は決して以前と同じではなくなった。なぜなら、私はこの秘密を自分の中に埋め込んでいたからです。愛は心だけのものではありません。それは体の奥深くに宿る可能性があります。正直に言うと、エルヴィスと彼のキャラメルの声とうねる腰は私たち全員を興奮させました 。 そして私にとって、それはまさに初めてでした。

 

 休憩時間に私はエルヴィスと一緒に写真を撮るためにバックステージに呼ばれました。彼らは聴衆を捜索するために偵察兵を派遣した。それぞれが何人かの女の子を選び、私たちは舞台裏に連れいてかれました。
 エルヴィスは私の腕に腕を回し、私の手を掴んでキスをしました。膝がもう折れそうになった。何日も手を洗わなかった!官能的な口元と脂っこい髪をしたこのほっそりした歌手をよく観察してみると、どうしてこんなことになるだろうと・・・クリーム色の顔にはニキビ跡が点在していたのです。突然、彼が歌いながら私が彼について思い描いていた完璧さが、落胆する現実に切り替わりました。それは私の人生のテーマになるだろう。男性についての空想には常にこの世の代償、つまり避けられない欠陥が伴うのです!


 周囲の熱狂が及ぼす連鎖反応も当然あったじゃろうが、一種の錯乱状態だった自分をよくここまで冷静に分析出来たもんじゃ。アッパレですわい!
 
 1962年までにオーディトリアムの周辺も埋め立てが進められ、新しい円形の「ロングビーチ・アリーナ」が建設されたことで、以降オーディトリアムは徐々にその歴史がクローズされていくことになった。
 オーディトリアムを最初にソールドアウトにしたジュディ・ガーランドは1969年、エルヴィスがライブ活動に復帰した同じ年に47歳で亡くなった。エルヴィスはその後、1972年11月14日と15日にTCBバンドとともにロングビーチ・アリーナの方に出演し、1976年4月25日には2回のショーを行っておる。その途中、1975年にオーディトリアムは取り壊されておる。現在跡地にはロングビーチ コンベンション&エンターテイメント センターが建てられておる。(右写真ストリートビュー2018年12月撮影)写真右側がオーディトリアム跡地。左側が新設のロングビーチ・アリーナ。

 上右写真で御覧の通り、ミュニシパル・オーディトリアムの跡地には往年を偲ぶ事の出来る面影はまったく残されていないが、エルヴィスが1956年に出演した痕跡のほんのわずかでも味わいたい方は、オーディトリアム跡地から真北へ500メートル移動した場所にあるハーベイ・ミルク・プロムナード・パークという小さな公園までどうぞ。
 オーディトリアムの北側壁面にディスプレイされておった大型のモザイク壁画(右写真左側)が、1980年代にここに移動、設置されて現在でも拝むことができますぞ!(右写真右側ストリートビュー2022年11月撮影)


エルヴィス&プリシラのハネムーン隠れ家
Area No.6/Serial No.339 エルヴィス・ハネムーンハイダウェイ(隠れ家)/パームスプリング

 サンディエゴから西海岸最大都市のロサンゼルスのすぐ近くまでやって来たが、ここで一気にロサンゼルスの懐に飛び込むのではなく、ちょっとだけ寄り道をしていこう!ロサンジェルスは次回のご案内にするぞ。

 ロサンゼルスの東約150キロの位置にパームスプリングという地域がある。ここはトレッキングコースのある山岳、渓谷地帯であり、ここにエルヴィスがレンタルしたヴィラが一軒、さらに購入した不動産物件が一軒あり、両方ともエルヴィスが使用していた当時の家屋が現在でも使用されておるので行ってみよう!

 まず一軒目。エルヴィスとプリシラが1966年の新婚旅行の際に一ヶ月間レンタルしたヴィラじゃ。地元ではこのヴィラを1時間ほどかけてガイドしてもらえるツアーがあり、そのツアーの参加者のブログからガイド内容を転載しておくぞ。(〇内の番号は下写真の番号と一致します。)

 袋小路に駐車し、水の上を渡る見事な石の階段を登りながら正面玄関に向かいます。玄関に近づくとまるで宇宙船のように見えるこの家は、一度見たら忘れられない家の一つです。

① 高さ64フィートのソファと部屋の中央に暖炉を備えたこのリビングルームは、家の中で私のお気に入りの部屋でした。彼ら(ツアー企画元)は、エルヴィスがさまざまな部屋と交流している様子を示すために、家のあちこちに写真を貼り付けるという素晴らしい仕事をしています。
 キッチンは比較的小さいですが、大きな冷蔵庫とビルトインキッチン、BBQが備わっています。
②ここにあった古いジュークボックスは素晴らしく、うまく機能し、エルビスの曲をいくつか選んで再生することもできました。
③裏庭は素晴らしく、たくさんの部屋と大きなプールがあります。昔はここがパーティーの楽しい場所だったのではないかと思います。
④敷地の裏手には個人所有のマリリン・モンローの家とプールも見えます。

⑤2階に上がるとメインベッドルームとバスルームがあります。
⑥2階のバスルームには、真ん中に大きな沈んだ浴槽があり、楽しい白と黒のタイルが施されています。
⑦マスターベッドルームからは宇宙船のような窓から下の通りが見えます。このベッドルームはオープンで魅力的です。


 このツアー内容は2015年時点。当時のガイド料金は30ドルとされておる。


 

 エルヴィスはこの家を1966年9月からから1年間レンタルしており、1967年5月の仲間内を集めた結婚披露宴も当初このヴィラで行われる予定だったらしい。現在でも高級ヴィラとして稼働しておる。右写真左側はストリートビュー2018年4月撮影。右写真右側は航空写真。


1970年4月に正式に購入されていた、エルヴィスのカリフォルニア邸宅
Area No.7/Serial No.340 エルヴィス・プレスリー・エステイト/パームスプリング

 上記ハネムーン・ハイダウェイから500メートルほど離れた位置にあるこちらの家は、一時的にレンタルした家ではなくて、エルヴィスが1970年4月に正式に購入した不動産&家屋。そのお値段は105,000ドル(当時の換算レート約3,700万円)。エルヴィスの前のオーナーは、マクドナルドの創業者の一人レイ・クロックだったという!

 購入当初は 3500 平方フィートの広さであり、エルヴィスは1974年に1500 平方フィートを追加。その前年、リビングルームに音響タイルを導入して仮のスタジオを作り、そこで3曲をレコーディングしたという記録が残っておるそうじゃ。(わしはまだ未確認)
エルヴィスは年に約三ヶ月をこの家で過ごしていたという。1977年にエルヴィスが亡くなった後、ポップス歌手のフランキー・ヴァリがこの家を購入した。

 一時期はハネムーン隠れ家同様にこの家の中を案内するツアーもあったようじゃが、現在のところ行われていない。また断続的に入居者がいたこともあってか、内部の様子が撮影された写真がなかなか見つからなかった。辛抱強く探した結果、1964年からエルヴィスのヘアスタイリストとなったラリー・ゲラーが、21世紀になってこの家を訪問したというブログが見つかり、その中に写真が掲載されておったので転載しておこう。(下写真3枚)

 

 トップの画像では、横長の家屋中央からせり出している白い壁にエルヴィスの肖像画が描かれておるが、右写真左側のストリートビュー2019年3月撮影の写真では肖像画は白く塗りつぶされておる。右写真右側は航空写真。
 2020年時点での情報では、この家が最後に売却されたのは2014年であり、その時のお値段が1億5千万ドルってちょっと信じがたい金額じゃな!


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