NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.428


第48回 エルヴィスゆかりの地~カリフォルニア州 Vol.4

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

カリフォルニア州第4弾は、「カムバック・スペシャル68」が収録されたスタジオをはじめとして、ハリウッドとその周辺のポイントへご案内します。ハリウッドといえば映画の街であり、俳優時代のエルヴィスとの関りが深い地域ですが、実はシンガーとしてのエルヴィスを支えたスタジオもあります。また今や伝説と化したテーラー“ヌーディーズ”が起業され、運営されたショップもありました。カリフォルニア州へのご案内はまだまだ続く予定ですが、今回はエルヴィスとカリフォルニア州のちょいと深い関わりを知るポイントをお楽しみください!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第48回 カリフォルニア州 Vol.4

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はカリフォルニア州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 【バーバンク】
 Area No.22/Serial No.355  NBCスタジオ
 【ハリウッド】
 Area No.23/Serial No.356  ユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズ
 【バーバンク】
 Area No.24/Serial No.357 マグノリア・パーク
 【ノースハリウッド】
 Area No.25/Serial No.358 ヌーディーズ・ロデオ・テーラー1号店跡地
 Area No.26/Sreial No.359 ヌーディーズ・ロデオ・テーラー2号店跡地 
 【イングルウッド】 
 Area No.27/Serial No.360  ザ・フォーラム
 【ロサンゼルス】 
 Area No.28/Serial No.361 デ・ネーベ・スクェア・パーク/ロサンゼルス

 【バーチャル・ロックンロールツアーバックナンバー】

 ★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」
 EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)



 キング凱旋! カムバックスペシャル68
Area No.22/Serial No.355 NBCスタジオ/バーバンク

 エルヴィスのミュージックシーンへの劇的な復帰となったTV番組「カムバック・スペシャル68」は、ハリウッドの中心地から北に約7キロ離れたバーバンクという地域にあるNBCスタジオで1968年6月27~30日に録画/録音された。(放送は12月3日)
 NBCスタジオといえば、1956年6月5日にミルトン・バール・ショウに2回目の出演をした場所じゃが、その時はハリウッド地域にあった旧スタジオであり(カリフォルニア州第3回、Area No.18でご案内済)、カムバック・スペシャル68はバーバンクに新たに完成していた“ニューNBCスタジオ”ともいうべき場所で行われた。
 
 カムバック・スペシャル68に関しては、プロジェクトの発足は1968年3~4月頃とされ、映画「エルヴィス」で丁寧に描かれておった通り、番組の主旨に関して、一般家庭用のクリスマス・プレゼント的な内容に拘るパーカー大佐と、「エルヴィスのロックンローラーとしての回帰」のアピールを主張するエルヴィスとプロデューサーのスティーブ・ビンダーとが真正面から対立した。結局エルヴィス側が主張を強引に押し通すエルヴィス史の中では珍しい一件となった。プロジェクトの音楽的創造は、6月20日からハリウッドのユニバーサル・スタジオでのセッションがスタートとなった。(下記Area No.23でご案内)

 新しいNBCスタジオは、“テレビのカラー化、録画スケールの大型化に合わせて設立されたスタジオ”と言われており、ラジオ局スタジオの一部をいわば間借りする形でテレビ用スタジオが併設されておった旧NBCスタジオに代わる、テレビの新しい時代をリードするためのスタジオであり、またエルヴィスの新しい黄金時代の幕開けのためのスタジオにもなった!
 なお1952年から段階を踏んで新しいスタジオが増設され続けて、旧スタジオが閉鎖した1964年にはカムバックスペシャル68が録画されたビッグサイズのスタジオ4も完成しておった。旧スタジオが“ラジオシティー”と呼ばれていたことに対して、新スタジオは“カラーシティ”と呼ばれることになった。

 エルヴィスがステージに立った「スタジオ4」の構造をはじめ、スティーブ・ビンダーが大佐の指示を“うまくかわしながら”撮影現場への指示を送ったコントロール・ルーム、また「いつになったらクリスマスソングを歌うんじゃ」って大佐がイラつきながら行き来した、ステージとコントロールルームを結ぶ階段なども紹介したかったんじゃが、そこまでのスタジオ内の資料は今のところネット上からは入手出来なかったので誠に残念!いつの日からあらためて。
 なおカムバックスペシャル68に関する虚実ないまぜの裏話はキリがなく、まためっちゃオモシロイ!主張が通らないことに気分を害した大佐は、プロデューサーとの約束を無視して録画当日用の入場者チケットを配布していなかったとか、エグゼクティブ・プロデューサーのボブ・ファンケルこそ、大佐や大佐が集めてきたスポンサーたちを説き伏せて、単純な“クリスマス・スペシャル”から“カムバックスペシャル”への移行を完了させた凄腕の人物だったとか。まあこの辺も掘り下げられれば、またあらためて。


 カムバックスペシャル・プロジェクト始動中にエルヴィスはスコッティ・ムーアとD.J.フォンタナを呼び戻し、2人は久しぶりにエルヴィスとの演奏を楽しんだ。またエルヴィスから「ヨーロッパのツアーに興味はあるか?」との打診を受け、2人は「実現すれば参加したい」とエルヴィスの申し出を快諾したという。
 しかしその後エルヴィスのヨーロッパ・ツアーは実現することはなく、スコッティもD.J.も(恐らく公式には)NBCスタジオがエルヴィスと会った最後の場所となったのじゃ。

 キング・オブ・ロックンロールの復活劇の舞台となったNBCスタジオは、その後大掛かりなテレビドラマ、ショーの舞台として稼働し続け、21世紀になるとユニバーサル、GE、コムキャスト、カタリナ/ワース・リアルとオーナーが変わり続け、2019年には2023年までにワーナー・ブラザースが買収すると報道され、スタジオの名称は(一時的に?)バーバンク・スタジオとされておる。


 
 カムバックスペシャル本番直前のリハ&録音スタジオ
Area No.23/Serial No.356 ユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズ/ハリウッド


 ここで一旦ハリウッド地域に戻ってのご案内になります。カムバック・スペシャル本番前、エルヴィスにはバンドとともにリハーサルが必要となり、その際に選ばれたスタジオがユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズじゃ。それは1968年6月20日から23日(ないし24日)までの期間に当たる。

 この時のセッションは単なるリハーサルでは終わらず、カムバックスペシャルのレコード・アルバムにも収録されることになる!レコードに収録されたテイクについて細かい詳細はここでは避けるが、分かりやすい例を挙げると、2008年に発表された「カムバック・スペシャル40周年スペシャル・エディション」から更に選りすぐられたテイクで編集された「ベストオブ・カムバックスペシャル」の1~15曲目はすべてユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズでレコーディングされたテイクじゃ。スタジオ入り当初からアルバム収録の予定があったのかどうかは不明じゃが、この時のセッションがリハーサルとは思えないほど白熱した演奏だったということじゃ!しかし残念ながらスタジオ内での写真もセッション中の写真も少ない。やはり当初はリハだけの予定じゃったのか?

  エルヴィスとユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズとの関わりをもう少し調べてみると、レコード・マニア注目のデータをひとつ発見!エルヴィスの未発表音源の発見と発表に携わるFollow That Dreamレーベルが2015年10月にリリースしたシングル「おしゃべりは止めて/A Little Less Coversation」は(右写真左側)、1968年3月にユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズにて映画「バギー万歳」のサントラ用セッションの際に録音されおった、まったくの未発表バージョンなんだそうじゃ。
 また同時に、1998年に発表された2枚組CD「Memories: The '68 Comeback Special」収録の同曲も、それまで1968年6月のセッション・テイクのひとつとされておったが、こちらも1968年3月でのセッションであることが判明したんだとか!(2015年発表テイクとはまた別)これ以上説明していくとアタマがこんがらがってくるので、レコーディング・データに関してはこれぐらいでご勘弁!(苦笑)

 ハリウッドには「カリフォルニア州編Vol.3/Area No.15」でご案内した当地老舗の名高いラジオ・レコーダーズがあるが、こちらユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズは、設立が新しく(1964年)、スタジオ機材が当時の最新型だったことから録音状態がアーティスト側から聴いてもピカピカの最新鋭のサウンドであり、特に新進のアーティストたちの多くが好んで使用しておった。実際にこちらでレコーディングされたアルバムの多くがグラミー賞のベスト・エンジニア賞を獲得しておる。

 一説によると、ユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズは、大手レコード・レーベルが経費削減から“ステレオ録音”に消極的だった1960年代の早くから将来的なステレオ時代の到来を予見し、モノラル録音の際にもステレオ録音も完了させて保管し、それが後ほどアーティストたちからの絶大な支持に繋がったとされておる。

 サンセット・ブールバードのウェスタン・ユニバーサル・レコーダーズに、サンタモニカ・ブールバードのラジオ・レコーダーズ。この2つの有名スタジオはハリウッドを東西に貫く2つの大通りのそれぞれに面して建っており、両スタジオは車で約5分、距離にしてわずか3キロほどしか離れておらんかった。最新鋭&未来型サウンドを追求した前者、古色蒼然とした温かみのあるおおらかなサウンドが保証された後者、エルヴィスのレコーディング・テイクを聞き比べながらあらためて両スタジオの魅力を感じ取ってみたいものじゃ!

 ユナイテッド・ウェスタン・レコーダーズは、何度かオーナーが変わり、現在は周囲の別スタジオと経営をまとめておこなうイースタン・ウェスト・レコーダーズとして稼働中である。右写真ストリートビュー2022年6月撮影。


 映画「チェンジ・オブ・ハビット」のフットボール・シーンの撮影現場
Area No.24/Serial No.357 マグノリア・パーク/バーバンク
 再びバーバンクへ戻り、エルヴィス映画のラスト「チェンジ・オブ・ハビット」の撮影場所のひとつにご案内しよう。 カムバック・スペシャル68が繰り広げられたNBCスタジオ(Area No.22)から北へ僅か800メートルほど離れた位置にあるマグノリア・パークという地域じゃ。
 「チェンジ・オブ・ハビット」の大半のシーンは、巨大なユニバーサル・スタジオ内で撮影されておるので、本来であれば、ユニバーサル・スタジオの方へご案内したいところじゃが、今では数多くのテーマパークや遊園地のアトラクションが点在するその敷地の大きさはパラマウント・ピクチャーズ・スタジオ(「カリフォルニア州編Vol.3/Area No.16」)の約8倍のスケールじゃ。そのあまりのデカさゆえに、ネット上では「ユニバーサル・スタジオ攻略法」なるガイドが幾つもアップされておるが、残念ながら遊園地のアトラクションをメインとしたガイドばかりであり、室内撮影スタジオや屋外ロケ地等の詳しい案内は殆どない。よって「チェンジ・オブ・ハビット」がユニバーサル・スタジオ敷地内のどの場所で撮影されたかはまったくワカリマセン! 

 

 上、左写真の5枚は、エルヴィスがフットボールに興じるシーンのロケの休憩時間にとられたショットであり、左写真の女優さんは共演のメアリー・タイラー・ムーア。
 ユニバーサル・スタジオの敷地内にはフットボールができる程度の広さの芝生地ならいくらでもあるじゃろうが、あえてマグノリア・パークがロケ地に選ばれたのは、恐らくファンとの交流を考慮したパーカー大佐のアイディアだったに違いない。エルヴィス映画の終盤は興行成績が芳しくなかったために、事前にファンへ少しでもアピールしておきたかったのじゃろう。

 マグノリア・パークとは、公園の名称ではなく、東西南北1キロにわたって広がる敷地内に、公園、各種レストラン、図書館、レクリエーションセンター、教会、そして住宅街もある地域全体の総称じゃ。エルヴィスが何処でフットボールの撮影をしたかは不明じゃが、バーゴダ・パークなる公園周辺が緑地帯なので可能性は高い。真相は近隣の高齢の住民や図書館員に伺えば、案外すぐに分るかもしれない!(右写真は、バーゴダパーク周辺。ストリートビュー2016年5月撮影)



 エルヴィスのゴールド・スーツが生まれたテーラー
Area No.25/Serial No.358 ヌーディーズ・ロデオ・テーラー1号店跡地

 ヌーディーズ・ロディオ・テーラーは、エルヴィスのゴールドスーツをはじめとして数多くのロッカーたちのユニークな衣装を作り続けていた、メンフィスのランスキー・ブラザースと並ぶ今や伝説的なテーラーじゃ。
 上写真左側は、Area No.3パン・パシフィック・オーディトリアムでゴールドスーツのジャケットを羽織ったエルヴィス。上写真中央は、ゴールドスーツを着たエルヴィスとテーラーのオーナーであるヌーディー・コーン氏。上写真右側がノース・ハリウッド地域にあったテーラー1号店の希少な写真じゃ。1号店の写真はネット上ではこの1枚しか発見できず、よく見ると2号店への移転告知状が貼り出されておる。告知を指さしておるカウボーイハットをかぶった方はコーン氏じゃ。左写真はゴールドスーツのサイズ一覧であ~る!

 コーン氏の略歴を調べてみて驚いたことがあった。この方は20世紀初頭、帝政ロシアの圧制から逃れてアメリカにやって来たウクライナ難民だったからじゃ。11歳の時に弟と二人でアメリカ大陸に流れ着き、その後靴磨きやストリートファイター(意外!)で食いつなぎながらのし上がっていった正真正銘の叩き上げ職人なのじゃ。
 もう一人、ハリウッド地域をホームとする同じような経歴の者がロック界の偉大なる裏方におる。ライブ会場のフィルモア・ウェスト、ウインターランドのオーナーであり、後にウェスト・コースト系のビッグ・ロッカーのプロモートを一手に引き受けていたビル・グレアム氏。彼はドイツ・ナチスのユダヤ人大量虐殺から逃れ、10歳の時に命からがらアメリカに渡ったユダヤ系ドイツ人じゃ。彼もまた皿洗い、劇場の捥ぎり、鉱山労働者をやりながら艱難辛苦の頃を耐え忍び、ついに業界のトップまで昇りつめた男じゃ。まあ風貌はコーン氏とは真逆なオッカネーお顔じゃった(笑)ジミヘンだろうが、ジャニス・ジョプリンだろうが、手抜きパフォーマンスをしたロッカーを楽屋でぶん殴っていたというから、グレアム氏もコーン氏同様に腕っぷしの強い男じゃった。

 ヌーディー・コーン氏は1940年代初頭にニューヨークからカリフォルニア州にやって来て、ノース ハリウッドに当時流行していたスタイルであるウエスタンウェアのみを扱う「ヌーディーズ・オブ・ハリウッド」をオープン。この店名は後に「ヌーディーズ・ロディオ・テーラー」に改称。2号店移転直前の1956年にエルヴィス専用のゴールド・スーツを製作しておる。
 ゴールドスーツのお値段は当時10,000ドルと言われておったが、恐らくは宣伝効果を期待して無料進呈だったに違いない。現に「エルヴィスご用達テーラー」としての名が拡散されてオーダーが殺到したことが、2号店への移転に直結したのじゃ。1号店の跡地は現在セブンイレブンになっておった。(右写真ストリートビュー2022年8月撮影)


 ヌーディーズは更に「さまよう青春」「ブルーマイアミ」の衣装も製作
Area No.26/Sreial No.359 ヌーディーズ・ロデオ・テーラー2号店跡地 
 ヌーディーズ・ロデオ・テイラーズの2号店は、1号店から南に約1キロの場所に建てられた。上写真の通り、現在ネット上で2種類の2号店の写真が閲覧出来る。(左写真)恐らく左写真が移転直後、右写真が店構えを改装した後の写真と思われる。2枚の写真ともに左側に電柱、中央に消火栓らしき物が写っておるので同じ場所の写真じゃ。
 エルヴィスとヌーディーズとの付き合いはゴールド・スーツ以降も続き、2号店に移転してからのエルヴィス側からの最初の依頼は映画「さまよう青春/Loving You」の撮影で着用するウェスタン・ファッションじゃった。(下写真左側)撮影元のパラマウントへ納品されたのは1957年3月頃。下写真左から2つ目はヌーディーズからパーカー大佐へ送られた、エルヴィスの採寸を依頼する手紙じゃ。コーン氏はパーカー大佐へ“Snow”付きで、エルヴィスを“Sky Rocketier”(スカイロケット)と呼んでおる!日付は1956年12月4日、つまりエルヴィスがミリオンダラー・カルテットがメンフィスのサン・スタジオで実現した日じゃ!
 また下写真右側の白いスーツは、「ブルーマイアミ/Clamebake」(1967年公開)で、億万長者役のエルヴィスが着ており、これもヌーディーズで製作されておる。


ヌーディー・コーン氏は1984年にお亡くなりになり、テーラーはその後10年間親族によって経営されておったが、1984年に閉鎖。現在その跡地は銀行が建てられておる。(下写真ストリートビュー2022年8月撮影)
 なお21世紀になるとウェストコーストのセレブたちの間でヌーディーズ・ファッションのリバイバル・ブームが徐々に起こりはじめ、多くの若手ロッカーたちもそのブームに乗った!コーン氏のお孫さんがヌーディーズ・ブランドを再び立ち上げ、コーン氏の作品をビンテージとして売るだけではなく、新作も次々と発表するようになっておる。現在公式ウェブサイトも閲覧出来るが、店舗住所が記載されていないので、現在はオンライン販売のみかもしれない。


 “13年前エルヴィスを追放しようとした者はまだL.A.にいるのだろうか?
今宵エルヴィスは、トム・ジョーンズよりもストーンズよりも先を走っていることを証明した”

Area No.27/Serial No.360 ザ・フォーラム/イングルウッド
 

 1970年11月16日、エルヴィスは約13年ぶりにロスアンゼルスに戻ってきた。「カリフォルニア州編 Vol.2/Area No.10」でご案内した通り、1957年10月28日のライブでは、時計の針を1955年まで戻した地方都市の様な、異常なまでのエルヴィス非難が爆発したロサンゼルスも、さすがに懐の深い街に成長していた(笑)まあビートルズ、ストーンズ、ドアーズ、ロックに方向転換したボブ・ディランなどの1960年代の活躍に、ロスもさすがに免疫が出来たのじゃろう!

 この日ザ・フォーラム(左写真)での昼夜2回のライブには約37,000人の大観衆が押し寄せ、マスコミは「マネージメントIIIがコンサート・アソシエイツおよびコンサート・ウェストと提携して後援したコンサートの興収31万3,000ドルは、ローリング・ストーンズの2回のコンサートで前年樹立された1日当たりの記録23万8,000ドルを軽々と破った」と大々的に報道。
 また幅広い年齢層から観客が集まり、それに対応するようにロックンロールナンバーの中にバラードをちりばめたセットリスト、全てを完璧に歌い切るエルヴィスの驚くべき歌唱力も絶賛。
「13年前にエルビスを“都市の多感な若い女の子たちの道徳心へのダメージ”とまで言って彼を追放しようとした新聞記者たちは、まだロサンゼルスにいるのだろうか?」「新進のローリング・ストーンズや中米を中心に大人たちのファンに熱狂されているトム・ジョーンズよりも、エルヴィスは先を走っている」とまで評価したマスコミもあった。
 更に中には、「『ハートブレイク・ホテル』は素晴らしい嘆きのブルースであり、『ブルー・スエード・シューズ』は今でも素晴らしいロックであり、どちらも今日紹介されていても、おそらくチャートに登場するだろう」と13年前の悪評など「僕知らないも~ん」のあっけらかんとしたスタンスで過去の名曲をほめたたえたメディアもあった。

 当のエルヴィスは開口一番、「こんばんは。ジョニー・キャッシュです」とおどけてみせ、「ジョニー・B・グッド」演奏後にギタリストのジェームス・バートンをチャック・ベリー、ピアニストのグレン・D・ハーディンをジェリー・リー・ルイスとして紹介したりするなど終始上機嫌であったという。

 エルヴィスは以降、1972年、1973年、1974年、1976年と毎年の様にこの会場でライブを行い、全てチケットをソールドアウトにしてみせた!
 なお1974年5月11日のライブにはレッド・ツェッペリンのロバート・プラントとジミー・ペイジ、ジョン・ボーナムが鑑賞。事前にツェッペリンが会場にやってくることを知らされていたエルヴィスは、ライブ中に曲のスタートがつまづいたい時、「ちょっと待って。ツェッペリンも来ているんだから、ちゃんとやり直そうよ」というジョークのMCをかましておる!ライブ終了後、ロバート・プラントとジミー・ペイジがエルヴィスの元を訪れたというエピソードは有名じゃ。

一般的にはロサンゼルス・フォーラムの名で親しまれておるザ・フォーラムは現在でも稼働中。下写真左側はストリートビュー2022年4月撮影。ネーミングライツ(建物の命名権)により、現在は「起亜フォーラム」と改称されておるが(起亜は韓国系の大手自動車会社)、Google mapではザ・フォーラムとされておる。
 定期的に補修、改築工事が行われており、ロサンゼルスでもっとも有名なイベントホールとしてまだまだ歴史は続きそうじゃ。周囲は広大な駐車場であり、建物が何もない建築環境なので夜景の美しさは絶品!(左写真右側)


 映画撮影の合間を縫って密かにフットボールに興じていた公園
Area No.28/Serial No.361 デ・ネーベ・スクェア・パーク/ロサンゼルス
 エルヴィスゆかりの地としては聞いたこともないような名称の公園、デ・ネーべ・スクエア・パーク。地図で見ると高級住宅街を含むビバリーヒルズの北西角辺り。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の北側に広がるホルムビー・ヒルズという丘陵地帯の中にあり、住所はビバリーヒルズではなくロサンゼルスじゃ。

 延々と続く映画出演のスケジュールをこなすために1960年代のエルヴィスはロサンゼルス、ハリウッド、ビバリーヒルズで過ごす時間が大幅に増えた。休暇の為にいちいち遠路メンフィスへ戻るわけにもいかず近場での気分転換、リラクゼーションが必要となった。そこで選ばれたのがこの公園じゃ。

 現在でも利用されておる公園だけに、Googleレビューで評判を確認してみると、高級住宅街が近くにある(富裕層が多く住んでおる) だけに、公園内の緑は常に綺麗に管理されており、上品で静かな方々が多くて落ち着けるという。
 エルヴィスはこの公園の中でちょくちょくフットボールを楽しんでおった。Wikipediaにも最重要事項のように記載されておる!広大な公園内のどの敷地でエルヴィスがフットボールに興じておったのかは不明じゃが、現在の航空写真で確認すると周囲にはアスレチック・フィールドやテニスコート等が点在しており、公園本体は小さいだけに、周囲のフィールドが使用さていたのかもしれない。(下写真参照)
 映画「ガールズ!ガールズ!ガールズ!」情報関連サイトに、ハワイでのロケが終了し、ハリウッドでのパラマウントスタジオ内にロケ地を移した1962年2月末からの撮影期間、週末になるとエルヴィスは共演俳優や地元の仲間たちとデ・ネーべ・スクエア・パークでフットボールを楽しんでいたという記載がある!

 上写真2枚は、「Elvis Los Angeles Football」のキーワードで写真検察するとヒットする写真。2枚とも但し書きは「LA.61」(ロサンゼルス61年)のみで正確な場所名は記載されていないので保証の限りではないことを予めご了承頂こう。しかしロサンゼルスの他の場所でエルヴィスがフットボールに興じていたという記録は、Area No.24でご案内したマグノリア・パーク以外は見当たらず、マグノリア・パークではエルヴィスはヘルメットを被っていないので、この写真がデ・ネーべ・スクエア・パークでの写真である信憑性は高い。(が、合成写真の様に見えなくもない!?)
 ちなみに公園名の「デ・ネーべ」は、ロサンゼルスの創設者であるスペイン人のフェリペ・デ・ネーブの名前から命名されておるそうじゃ。




バックナンバーを御覧になる場合は各バナーをクリックして下さい。 
       
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   

GO TO TOP