NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.431


第50回 エルヴィスゆかりの地~カリフォルニア州 Vol.6

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

三ヶ月にわたった「バーチャル~」カリフォルニア州編も、今回がラスト!いわゆる“ベイエリア”と呼ばれている地域の二大都市、オークランドとサンフランシスコへとご案内します。もう40年も前に七鉄青年が訪れたこともあるライブ会場もありますよ(笑)この度調査してみてあらためて分かったことですが、エルヴィスは兵役に就く前ギリギリの時期にようやく西海岸での成功を手中に収めたのです。デビューしてからわずか3年あまりの短い期間とはいえ、何故西海岸が広いアメリカ大陸の中で最後の攻略地域になったのかは、パーカー大佐のビジネス上の都合だったのでしょうが、各ライブ会場の記録は豊富に残っていたのが調査隊としてはとても有難かったです!ではでは、カリフォルニア州編のラストをお楽しみ下さい!


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第50回 カリフォルニア州 Vol.6

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はカリフォルニア州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 【オークランド】
 Area No.36/Serial No.369  オークランド・オーディトリアム
 Area No.37/Serial No.370 オークランド・コロシアム・アリーナ
 Area No.38/Serial No.371 USSポトマック号停泊港
 
【サンフランシスコ】
 Area No.39/Serial No.372  シビック・オーディトリアム跡地
 Area No.40/Serial No.373 マーク・ホプキンス・ホテル
 Area No.41/Serial No.374  カウ・パレス
 Area No.42/Serial No.375 ホテル・エンバシー・スイート

 【バーチャル・ロックンロールツアーバックナンバー】

★右写真をクリックすると拡大表示されます(→)★

 ★ 本文中の表記について ★

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Google-map上の位置が表示されます。

SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト
     (※2023年から閲覧不可) 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集
      「Elvis Day By Day」
 EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート
     (ウェブサイト)



 七鉄も観た!ベイアエリア初ライブ会場
Area No.36/Serial No.369 オークランド・オーディトリアム/オークランド
 
 エルヴィス初の西海岸のライブは、1956年4月3日、サンディエゴの太平洋岸にあるノースアイランド海軍航空基地埠頭に停泊中の航空母艦「ハンコック号」の甲板上で行われたミルトン・バール・ショーの出演から始まり(カリフォルニア州編Vol.1/Area No.1)、翌4、5日がサンディエゴのライブ会場で2ライブ(Area No.2)、約2ヶ月後の6月3日からはオークランド、再びサンディエゴ、ロングビーチ(Area No.5)、ロサンゼルス(カリフォルニア州編Vol.3/Area No.8)と続いた。
 そして1957年10月26日からサンフランシスコ、オークランド、ロサンゼルスの3回で50年代の西海岸ライブは終了。意外にもエルヴィスの第一次黄金時代の西海岸ライブはたったのこれだけじゃ。
 東海岸のニューヨーク市がTV出演だけだったことも含めて、それだけ当時のアメリカ東西の大文化圏の攻略は、さすがのエルヴィスといえども時間がかかったと判断するべきじゃろうな。何はともあれ、兵役に就く前ギリギリに、エルヴィスは西海岸での人気を手中に収めることにはなった。
 
 エルヴィスのオークランド初登場は、1956年6月3日オークランド・オーデイトリアムじゃ。(左写真)私事で恐縮じゃが、わしは1985年2月初のアメリカ放浪の際に、この会場へイギリスのロックバンドであるザ・キンクスのライブを観に行っておる。サンフランシスコからバスを乗り継ぎながら1時間以上もかかってたどり着いたオーディトリアムは、どデカクて、外装も内装も博物館みたいに荘厳な会場じゃった。
 エルヴィスがこの会場でライブを行ったことは、宿泊していたサンフランシスコのダウンタウンのチケット売場のオバサンが教えてくれたこと。また会場(左写真下側)の天井から巨大な白幕が降ろされて会場が中央から仕切られており、キンクスのライブではその半分のスペースが使用されたこと。それ以外は記憶が飛んじゃっておるのが残念!

 
 
 
 当時のオークランドのマスコミ報道をネットでチェックすると、まるで2年前の地方都市の様にエルヴィスを敵対視していたロサンゼルスとは好対照であり、エルヴィスを“新しい若者文化のアイコン”として冷静に分析しておる記事が多く、とにかく怪我人が出たり暴動が起きたりすることを未然に防ぐためにエルヴィスに対して厳重な警護体制が敷かれていたことが分かる。(右写真2枚参照)

 またオークランドでエルヴィスのファンクラブを発足させた女性にカメラが向けられ、ライブに熱狂する彼女をエルヴィス・フィーバーのシンボルのように取り扱っておるのもおもしろい!(右写真左側、髪の毛をかきむしっておる女性。右写真右側のけ反っておる女性)
 この女性、なかなかのしっかり者のようで、ライブ当日まで特製エルヴィス・スカートを作成して、ライブ前にエルヴィスに披露しておる。公認グッズとして承認をとりたかったようじゃ!
 新しいムーブメントを古い固定観念と道徳観と感情で判断するのではなく、まずその現象の正確な把握が焦点にされたオークランドのマスコミを今更ながら讃えたい!

 オークランド・オーディトリアムは現在ヘンリー・J・カイザー・コンベンション・センターと改称されて現在でも存在はしておるが、ここ数年はほとんど使用された形跡なく、Google-mapでも臨時休業中の表示になっておる。近い将来に取り壊しの可能性もあるとか。左写真ストリートビュー2019年3月撮影。
 今回「バーチャル~」の下調べで、約40年前にサンフラシスコのダウンタウンから旧オークランド・オーディトリアムまでの行程を調べてみたが、現在では公共交通機関を使えば30分くらいで到着する。何故約40年前は1時間以上もかかったのかどうしても思い出せない(笑)

 
絶好調ライブでエルヴィスに見え隠れたした危機の兆候!?
Area No.37/Serial No.370 オークランド・コロシアム・アリーナ/オークランド


 1970年11月13日、1972年11月11日にエルヴィスのライブが行われたオークランド・アリーナは、その会場名がほとんどの私設エルヴィス・サイトにおいて「オークランド・コロシアム」とされておるが、正しくは“コロシアム・アリーナ”じゃ。“アリーナ”が付くと室内会場であり、“コロシアム”のみの場合はアリーナと隣接した屋外ベースボール&フットボール・スタジアムであります。(右写真は1970年代当時のオークランド・コロシアム・アリーナ)

 上写真左から2枚は1970年11月13日、右から2枚は1972年11月11日のライブ・ショットじゃ。両日のライブはいずれもエルヴィスは好調だったようで、それは写真からも充分に伝わってくる。1970年の方のライブに関しては、少々気にかかる言い回しによるレビューがあったのでご紹介しておこう。執筆者は既にラスベガス公演など数回にわたってエルヴィスのライブを鑑賞した上での指摘じゃ。

 
「エルヴィスほどカリスマス性があるシンガーは他には存在せず、その魅力を突き詰めていくとキリがないから、このレビューではちょっとエルヴィスの事を心配してみよう」
と前置きした上で、1970年11月のライブでは次のような発見があったとしておる。

「エルヴィスは仕事に対しては真面目に取り組むが、自分自身に対しては真面目に取り組んでいないように見える」
「エルヴィスは彼のファンにとってはいつも刺激的であり、あまり関係のない者にとっても魅力的だ。今日の観客は、長髪の者を男か女か分からないといった古いジョークを飛ばすコメディアンのショーを観て喜ぶ者たちだ」

 なんだか分かるような分らんような・・・エルヴィスに対して少々意地悪に解釈するとだな、エルヴィスはライブに集まる大勢のファンの要求に応えることに没頭し過ぎて、観客が楽めるのであれば、世俗的なジョークも厭わないってことだろうか。シンガー、アーティストとしての自分自身の進化を先送りしているという風に読めないこともない。そう言えば、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでの歴史的な名ライブのレビューにも似たようなニュアンスの記述があったがな。早くもラスベガス・ロングラン・ライブの弊害がツアー・ライブに現れ始めていたのであれば、このレビューを書いた者は大した審美眼の持ち主じゃな。エルヴィスに心頭していたからこそ感じた危機感じゃろうな。
 
 オークランド・コロシアム・アリーナには現在オラクル・アリーナと改称されており、また別称アラメダ・カウンティ・コロシアム・アリーナもあるので、お探しになる場合はお含みおきを。隣接する屋外スタジアムの“コロシアム”の方は、2024年までメジャーリーグのオークランド・アスレチックスの本拠地である。アスレチックスは2025年からラスヴェガスに本拠地を移すことになっておる。右写真ストリートビュー2023年6月撮影。


 “海上のホワイトハウス”もエルヴィスの元へ
Area No.38/Serial No.371 USSポトマック号停泊港/オークランド
 

 生前に数多くの慈善団体等への寄付を行っていたエルヴィス。その中でも特に有名な寄付が、1964年2月14日に発表された地元メンフィスのセント・ジュード小児病院へ贈ったUSSポトマック号という豪華ヨットじゃろう。
 このヨットは元々フランクリン・ルーズベルト元大統領がオーナーであり、一時期は海上のホワイトハウスと呼ばれた豪華ヨットじゃった。エルヴィスが、というよりもパーカー大佐が当時の金額で55,000ドル(かなり安かったらしい!)を支払ってエルヴィス名義で購入。エルヴィスがもっとも寄付を希望していたとされるセント・ジュード小児病院へ譲渡という手続きがとられたという。
 もちろんこれはパーカー大佐が仕組んだ話題作りのひとつであり、エルヴィスはハリウッドで映画撮影の休憩期間中に突然大佐から「ヨットを寄付することにしたから今から来んかい!」と呼び出されたらしい。左写真はヨット代金支払時にエルヴィスが切った署名入りの小切手。

 実はこのニュースは1964年当時にポトマック号が停泊していたカリフォルニア州ロングビーチの埠頭から報道され、上右写真は埠頭でポトマック号をバックにして写真に収められたエルヴィスじゃ。しかし、ロングビーチの何処の埠頭であるのかがどうしても判明しなかったので、ポトマック号が現在のところ停泊しているオークランドの埠頭を“エルヴィスゆかりの地”のひとつとして代わりにご案内する次第じゃ。
 
 現在停泊している埠頭に関しては、ネット情報の大半はオークランドのジャック・ロンドン・スクエア・マリーナという名の埠頭とされておるが、現在のGoogler-map/航空写真によると、その名が表記されている埠頭から約500メートル西へ移動した名も無き桟橋に停泊しておる。
 ポトマック号は幾多の補修工事を経て現役の遊覧ヨットとして稼働しておるので、そのうちに停泊する桟橋はポトマック・マリーナとか命名されるかもしれない。Wikipediaにはエルヴィスが一時的に購入した事実が明記されており、今後オークランドのちょっとしたエルヴィス・ポイントとしてアピールされる可能性もある!右写真ストリートビュー2022年5月撮影。白い船体がポトマック号じゃ。



  サンフランシスコはフォーマルドレスで
Area No.39/Serial No.372 シビック・オーディトリアム/サンフランシスコ

 エルヴィスが軍役に就く前の最後のライブツアーは、1957年10月26日サンフランシスコのシビック・オーディトリアムからスタートした。エルヴィスにとっては初のサンフランシスコにおけるライブでもあった。
 激安の給料ゆえにやむなくバンドを一時的に脱退していたスコッティ・ムーアとビル・ブラックは、多少待遇が改善されたこともあってこのラストツアー(とはいっても4ヶ所のみ)には復帰することになった。
 スコッティ、ビル、D.Jの3人はエルヴィス抜きでのテキサス・ダラスで行われたフェアパーク・イベントの長期出演を終えた後に一日半車を飛ばしてシビック・センターに到着。エルヴィスは午後3時開始のショウの数時間前に電車でサンフランシスコに到着したという。ラスヴェガスでの休暇を終えからのご出勤じゃった。エルヴィスにとっては9月2日のオレゴン州ポートランド以来の約二ヵ月ぶりのライブじゃった。
 ブルームーンボーイズの復帰はトム・ディスキンが電話で直接スコッティに要請をしていたこともあり、会場で顔を合わせたエルヴィスとブルームーンボーイズは、特に気まずい雰囲気になることもなかったとスコッティは語っておる。この電話はエルヴィスがトム・ディスキンに頼んだことらしい。手紙や電報での仕事依頼ではなく、直接話をしてほしいということじゃろうな。

 この日のライブについて、SMWに気になる記述があった。シビック・オーディトリアムの収容人数は約7,000。午後3時と8時と2回行われたライブは、いずれも客入りは半分くらいだったそうな。エルヴィス黄金時代の真っ只中であり、しかも映画「監獄ロック」の公開直後というタイミングにしてはお客さんが少ない・・・。ライブ当日の大騒動を事前に避けるために、あえて満席分のチケットが販売されなかったとは考えにくい。
 ただし集まった女の子たちの絶叫ぶりは凄まじく、また演奏された曲のすべてで大合唱が起こったとの記述もある。絶叫しながら合唱出来るって、ちょっと凄過ぎデス(笑)
 2回のショーの開始前にはいずれもバックステージでインタビューやファンとの交流が行われ、エルヴィスは2回とも正装をしており、そのままの衣装でステージに上がっておる。上写真左側、黒のジャケット(SMWにはワインレッドとの表記)を着ておるエルヴィスが午後3時スタートのライブ前、上写真中央と右側のグレーのスーツ時が午後8時の2回目のライブ前のインタビュー時の撮影じゃ。
 
 

 バックステージでの写真は近影じゃが、ステージショットのほとんどは上写真3枚のように遠目のオーディエンス・ショットばかり。これでは女の子たちの熱狂ぶりがわかりづらいが、マスコミによって撮影された女の子たちに焦点を当てたショットがしっかり撮影されておる。(下写真右側)
 彼女たちは「オフィシャル」とプリントされたグリーンのリボンを付けていたそうで(ファンクラブの会員?)、午前中から集まって「我々のすべてをエルヴィスに捧げましょう」と誓い合っていたそうな!
 

 シビック・オーディトリアムはサンフランシスコのメイン・コンサート会場として稼働し続け、1996年に改装、補修工事が完了してからは、建物内にライブ会場の他に市庁舎、アジア美術館、デイヴィス・シンフォニー ホール、サンフランシスコ公共図書館、戦争記念オペラ ハウス、退役軍人館が入った複合施設となった。
 現在は、西海岸の伝説的プロモーターの名を冠する「ビル・グレアム・シビック・オーディトリアム」と改称されておる。
右写真はストリートビュー2022年9月撮影。


 ホテル“キング・オブ・キング”
Area No.40/Serial No.373 マーク・ホプキンス・ホテル/サンフランシスコ
 

 エルヴィスがサンフランシスコで宿泊したホテルは、過去、現在においてサンフランシスコでNo.1といっても過言ではない超一流ホテルのマーク・ホプキンス・ホテルじゃった。
(上写真左側、中央の白いビル)ノブヒルと呼ばれる多数の高級ホテルや歴史的な邸宅があることで知られる地域の頂上に1926年にオープンした、19階建ての当時としては異例の高層ホテルじゃ。

 フランスの城館にスペインの装飾を組み合わせた装飾仕様は威厳に満ち、19 階のペントハウス・スイートは、1939 年にガラス張りの「トップ・オブ・ザ・マーク・レストラン&カクテルラウンジ」に改装され、当ホテル最大のセールスポイントじゃった。第二次世界大戦中、この“スカイ・ラウンジ”は、太平洋戦線に向かう軍人とその恋人たちが出征前に集まるお気に入りの場所じゃった。(上写真右側)
 
 上記Area No.39でご紹介した通り、スコッティとビルはトム・ディスキンから電話で復帰要請を受け、その後すぐに新たな契約書が送られてきた。その契約書に同封された手紙(左写真)には、「現在の予定では、サンフランシスコでは10月26~27日マーク・ホプキンス・ホテルに宿泊」と書かれてある。
 エルヴィスは側近たちと一緒にマーク・ホプキンス・ホテルのスペシャル・スイートの5部屋を使用。この情報がどこでどう漏れたか、某マスコミのコラムニストはマーク・ホプキンス・ホテルを「プレスリー・デンシャル・スイート」と書いたんだそうじゃ!
 なお明らかにはされておらんが、スコッティ、ビル、D.Jの3人は別のホテルに泊まったに違いない。新しい契約ではギャラは上がったものの移動費や宿泊費は自己負担という条件をパーカー大佐が付けておったからじゃ。

 1973年にインターコンチネンタル・ホテルと長期契約を凍結したマーク・ホプキンス・ホテルは、現在に至るまで「インターコンチネンタル・マーク・ホプキンス・サンフランシスコ」が正式名称となっておる。「語るべき真の歴史のあるホテル」で形成されておるヒストリック・ホテル・オブ・アメリカに認定されており、エルヴィスが宿泊した無数のホテルの中でもとびっきり!のスーパー・ウルトラ・クオリティのホテルであ~る。右写真ストリートビュー2023年1月撮影。


  サンフランシスコ“EL”ブルース
Area No.41/Serial No.374 カウ・パレス/サンフランシスコ
 

 1970年11月13日、エルヴィスは13年ぶりにサンフランシスコでライブを行った。13年前は意外と観客数が少なかったとの記録もあるが(上記Area No.40参照)、この日の昼夜2回のライブはいずれもソールドアウトで、2回合計の観客数は27,500人!
 どういうわけかライブ・レビューがネット上で見当たらないが、前日のオークランドのライブ・レビューの最後に、“明日のサンフランシスコ・カウ・パレス(左写真)のチケットは2回とも完売状態である”と記されておる。
 エルヴィスの70年代のジャンプスーツのデザインを追求する某サイトによると、この日着用している“レッドラダー(赤い梯子模様)”のジャンプスーツの着用回数は少ないので、この日のライブ・ショットは貴重であるとしておる。

 次にエルヴィスが同会場に登場したのは約6年後の1976年11月28日(&29日)。28日のライブのレビューはエルヴィスの心身の復活具合が活写されておる。以前にも増してスカーフの投げ入れや女性へのキス・サービスが増えたにも関わらず、それで時間稼ぎをせずにしっかりと歌いまくっていたという。1976年夏頃のエルヴィスの体調は最悪だったとされておるので、この頃には一時的にせよかなり回復しておったのじゃろう。
 また別のレビューのライターは、ライブ前のパーカー大佐の言動について触れておる。大佐がライブの出来栄えはもとより、会場で売られているグッズに目を光らせることを依然として怠っていないと!バチモンは許さんってことじゃろうな(笑)そしてエルヴィスがオーストラリアでライブをやるという噂をきっぱりと否定し、“その地域でやるとしたら日本だろう”と語ったそうじゃ。わしはこの度初めて知った大佐のコメントなんで、今後ちょっとつっこんで調べてみようかのお!なんで大佐は「日本」と口走ったのか?

 以下、1976年のライブ・レビューを一部転載しておくぞ。

「まず観客を驚かせたのは、彼の透き通った青い瞳だった。1万7千人の観客全員が、前席であれ観客席であれ、彼が自分たちをまっすぐに見ていると感じたと確信している。人に伝わる笑顔と相まって、彼の存在感は控えめに言っても素晴らしかった」

「エルヴィスは約23曲を演奏し、聴衆を熱狂させる魔法のレシピをまだ持っていることを証明した。ここはラスベガスの会場ではない」
「少なくとも6回、主に若い女性たちから成る集団がステージに向かって押し寄せた。Teddy BearとLove Lettersはそのような反応を集めた2曲だったが、彼らをより熱狂させたのはFeverだった。ゆっくりとした骨盤の動き、邪悪な笑み、そしてスタンドアップマイクの愛撫は、50年代のエルヴィスを彷彿とさせ、彼の手から観客へ食べ物が与えられたようだった。群衆が押し寄せるフィーバー、フィーバー! 気の毒な警備員たちには、この一曲のための労働に10倍の給料が支払われるべきだったのだ!」


 1941年にオープンしたカウ・パレスは、長らく各種スポーツイベントとコンサートホールとして稼働し続けておるが、様々なバンドにとって印象深い会場になっておるようなので、少しだけ紹介しておこう。

1964年 8月19日 ビートルズ初のアメリカでのライブ開催。
1973年11月10日 ザ・フーのドラマー、キース・ムーンが演奏中に意識を失って演奏不可能に。(薬物の過剰摂取)
1976年6月14~15日 ポール・マッカートニー&ウイングスが、ライブアルバム用に演奏をレコーディング。
1977年 8月16日 この日亡くなったエルヴィスに、出演中のキッスが「ロックンロール・オールナイト」を捧げる。
1978年10月22日 ニールヤング&クレイジーホースのライブ映画を撮影。
1978年12月31日 女性ロックバンドのラナウェイズのラストコンサート開催。
1979年 3月 1日 ニール・ダイヤモンドがステージから転落してそのまま病院へ。悪性腫瘍も発見されて大手術に。etc

良きにつけ悪しきにつけ、色々な歴史を重ねてきた会場のようで、現在でも「カウ・パレス・アリーナ&イベント・センター」の名称で稼働中。右写真ストリートビュー2022年5月撮影。


 朝焼けの光の中に立つキング!
Area No.42/Serial No.375 ホテル・エンバシー・スイート/サンフランシス
 

 Area No.39でご案内した1970年11月13日カウ・パレスでのライブの翌日、ホテルから空港へ向かうエルヴィスをとらえたショットが上3枚の写真じゃ。複数の掲載サイトには、撮影場所はバーリンゲーム・ヒルトン、もしくはホテル・エンバシー・スイートと記載されておる。
 バーリンゲームとは太平洋と内陸に入り込んだサンフラシスコ湾とを隔てる半島の一画の地域名であり、北へ数キロほど離れた位置にはサンフラシスコ国際空港もある。現在バーリンゲーム地域にはヒルトン系ホテルが3つあり、そのうちのひとつはエンバシー・スイート・バイ・ヒルトンが正式名称なので、ストリートビューによる現状写真と上写真エルヴィスの背景に映るホテルの外装を参照したところ、エルヴィスが後にしようとしておるホテルはエンバシー・スイート・バイ・ヒルトンであると確信した。

 キメテとなったのは、上写真中央の女性のバックに写る海?の景色と、上写真右側のエルヴィスの背景に写る半円形のバルコニーと柵じゃ。
 右写真2枚はいずれもストリートビュー2019年5月撮影のエンバシー・スイートの西側出入口。右写真左側の左上に海が写り込んでおる。(上写真中央と参照) 
 また右写真右側の客室にはバルコニーが付いておる。バーリンゲーム地域の3つのヒルトンでバルコニー付きはエンバシーのみ。上写真右側のバルコニーは一部の客室に付いておるようじゃが、後年全ての客室に付けられたのであろう。出入口からせり出したアーチ形のエントランスもまた近年設置されたのじゃろう。以上のような写真参照作業の上、「最終的な現場確認に参りましたので、ご協力お願い致します」なんてエンバシー・スイートのフロントに直訴したらさぞかし気持ち悪がられるじゃろうなあ~(笑)

★「番外編」を挟んで、6回にわたってご案内してきた「エルヴィスゆかりの地~カリフォルニア州編」は、これにて終了致します。
「バーチャル・ロックンロールツアー」の次回は、アメリカ本土を離れてハワイへ上陸する予定であります。
皆様、引き続きご参加のほどをお願い申し上げます!



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