NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.434


第53回 エルヴィスゆかりの地~ネバダ州/ラスヴェガス前編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

2021年10月からスタートしたエルヴィスゆかりの地を巡回する「バーチャル・ロックンロールツアー」。2年7ヶ月を経て、連載53回目にしてこの度ラスヴェガスを擁するネバダ州に入り、これで「バーチャル~」はついに全米を網羅したことになった!エルヴィスが訪れた足跡が公式に残っておるのは全米50州のうち45州(モンタナ州とニュージャージー州はライブ無し)。これにカナダを加えてカウントして、ネバダ州は47番目の突入であります。今まで訪れた州の中にはご案内していない重要なポイントがまだまだ残っており、「バーチャル~」はこれからも続きますが、まずはここまでツアーに参加して下さった方々に心よりお礼申し上げます。ネバダ州は3回に分けてご案内する予定ですので、じっくりとお楽しみ頂きたい!


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第53回 ネバダ州前編/ラスヴェガス

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.はネバダ州内での番号
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.1/Serial No.390  ニュー・フロンティア・ホテル&カジノ跡地
                 Part 1 ヴィーナス・ルーム
                 Part 2 ミッドナイト・プールサイド 
 Area No.2/Serial No.391 シルバースリッパー跡地

 Area No.3/Serial No.392  サンズ・ホテル跡地

 Area No.4/Serial No.393  リビエラ・ホテル跡地 
 Area No.5/Serial No.394 サハラ・ホテル
 Area No.6/Serial No.395 デューンズ・ホテル跡地

 【バーチャル・ロックンロールツアーバックナンバー】

 ★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。
SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト  
SRW=サンレコードのウェブサイト(※2023年から閲覧不可) 
 EDD=エルヴィス・デイリー記録集「Elvis Day By Day」
 EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)



★注意★ ↑上の地図は1950年代当時にラスヴェガスのホテル&カジノ密集地域が縮尺図案化されたガイドマップであり、実際の各ホテル&カジノの位置や建物同士の距離とはかなり異なっています。各施設の正確な位置は文中のGoogle-mapマークをクリックしてご確認下さい。
なお、ガイドマップ上の5th St.は現在のラスヴェガス・ブールバード・ストリート、Fremont St.は現在のイースト・サハラ・アベニューに該当すると思われます。


 時期尚早だった、1956年ラスヴェガス・デビュー
    Area No.1/Serial No.390 ニュー・フロンティア・ホテル&カジノ跡地
                Part-1 ヴィーナス・ルーム
 

 “エルヴィスと言えばラスヴェガス”であり、シンガーとしてのエルヴィスにとってはラスヴェガスはフランチャイズ同然の地域じゃ。しかしそのデビューは、第一期黄金時代の中では稀有なほろ苦い体験となった。

 1956年4月23日から5月6日までの二週間、ラスベガスのニュー・フロンティア・ホテル(左写真左側)のヴィーナス・ルーム(左写真右側)で、毎日昼夜2回行われたショウは、ネット資料を確認すると“ほとんど、どっちらけ”状態だったことは間違いなさそうじゃ。初日のショウはニューズウィーク紙に次のように書かれて揶揄された。
「エルヴィスは、まるでシャンパン・パーティーのコーン・リキュール容器の様に成り下がった」
 要するに、“まったくお呼びじゃない”“おととい来やがれ”といったニュアンスのアメリカン・ブラック・ジョークじゃろう。その時期はシングル「ハートブレイク・ホテル」が全米で大ヒット中であったにもかかわらず、別名シン・シティ(罪深き街)と呼ばれ、お金と時間を持て余したセレブたちが集まってくる新興のカジノ・リゾート地でエルヴィスのロックンロールはぜ~んぜん相手にされなかったのじゃ。

 ビル・ブラックやD.J.フォンタナは次のように述懐しておる。
 「観客はポカンとしているだけ。一曲演奏が終わるととりあえずは礼儀正しく拍手はしてくれるけど、静かだった。それまでは女の子たちの叫び声で、たとえプレイミスをしたって分からなかったけれど、ラスヴェガスでは久しぶりに自分たちの演奏が聞けたよ」(ビル)

「最初がブーイングなんてエルヴィスは慣れているし、エルヴィスはその内に観客を味方にしてしまうし、我々も知っている事は全て試してみた。でもまったくダメだったな。観客の方にエルヴィスを受け入れる準備が出来ていなかったんだ」(D.J.)

 さしずめ日本で例えるならば、石原裕次郎さんや小林旭さんの「マダムのためのディナーショウ」に突然ディープ・パープルがやって来て「ハイウェイ・スター」をブチかましたようなもんだったんじゃろうな。

 この惨状は、マーケティング戦略を誤ったパーカー大佐生涯最悪の失態じゃろう。あまりの客ウケの悪さに対して、大佐は慌てて土曜日のマチネー・ショウをティーンエージャー向けに変更することを決定。通常はお食事付の座席を“コーラ付”として一人1ドルで販売し、この時だけはティーン700人が集まっていつもの熱狂状態になったという。
 会場使用料は無料だったものの、エルヴィス&ブルームーンボーイズはノーギャラ。売り上げは全て野球場建設基金に寄付されたという。会場側に少しでも心証を良くしておこうとした大佐の苦肉の策なのかもしれないが、ただでさえ普段のギャラの安さに辟易していたスコッティ、ビル、D.J.はノーギャラで働かされていい迷惑だったじゃろうな!

 

  逆立ちして読んでも「エルヴィス苦渋の二週間」といった記事しか見当たらないネット資料状況じゃが、こうなると観客の反応はさておき、ショウ1回の出演時間は約20分とされておるんで、1日2回出演でお仕事タイムは合計40分。残りの時間にエルヴィスはラスヴェガスで何をやっておったのか?っつう方に興味が湧いてくる。
 エルヴィスら4人はカジノには興味がなかったらしく、どうやら昼間はホテルのプール・サイドでリラックスしていたようじゃ。下写真右側、ブルームーン・ボーイズ全員の笑顔がいいのお。ツアー続きの4人だったので、まるでリゾート地で“有給休暇”を楽しんでおるようで微笑ましい!
 また上写真右側、The-Kingが現代版として蘇らせた、エルヴィスが着ておる赤い千鳥格子のナッソージャケットが眩しいわい!ライブでもオフタイムでも映える、ナッソー特有のエレガントな機能性を象徴するようなショットじゃな!!

 


 Area No.1/Serial No.390 ニュー・フロンティア・ホテル&カジノ跡地
                Part-2 ミッドナイト・プールサイド
 

 ナイトショー出演が終わると、エルヴィスはラスヴェガス通りのその他のホテル&カジノで催されておるショウの見学に出かけており、様々なタレントたちと出会っておる。それは“今まさにキングの座に昇りつめようとしておる”エルヴィスに多大な影響をもたらすことになった。初のラスベガス・ショウ自体は失敗に終わったものの、後ほどラスベガス体験を意地悪く突っ込んでくるマスコミに対して「ラスベガスという街はとても気に入ったよ」とエルヴィスは毅然と答えており、それは決して負け惜しみではなかったのじゃ。Area No.2以降は、エルヴィスがラスベガスで出会った超個性的なタレントたちとの出会いの場所へとご案内していくが、このニューフロンティア・ホテルでの出会いもひとつ簡単にご紹介しておこう。

 上写真左側、エルヴィスの背後から妖しく寄り添う不気味な女性、この方は当時徹底した怪奇イメージで売り出しておった女優さんのメイラ・ヌルミ。ジェームス・ディーンがこの方の大変なファンだったそうじゃ。エルヴィス初のラスベガス公演の時期に、彼女はリベラーチェと一緒に近くのリビエラ・ホテル(Area No.4でご案内)のショウに出演しており、恐らくエルヴィスがそのショウを鑑賞した際にリベラーチェから紹介を受けたようじゃ。

 当時33歳じゃったメイラ・ヌルミはエルヴィスのショウを観て若い女の子の様な衝撃を受けたものの、観客の無反応ぶりに心を痛め、ショウの後に夜のプールサイドまでエルヴィスを呼び出して「あなたは必ずタイム誌が取り上げるような素晴しい個性の持ち主」と励ましたんだそうじゃ。
 それにしても上写真3枚のメイラ嬢は同一人物とは思えないような老若差が激しく過ぎ!?ほんと怪奇女性じゃ・・・。なお某サイトには、エルヴィスはジェームス・ディーン同様に彼女のキャラに魅了され、後に結婚相手に選ぶプリシラとメイラ・ヌルミの容姿の共通点を指摘しておった!上写真中央、右側はニュー・フロンティア・ホテルでの撮影。左側は撮影場所不明であり、可能性としてはリベラーチェ&メイラ・ヌルミのショウが行われていたリビエラ・ホテルのバックステージか?

 
ニュー・フロンティア・ホテルは1942年のオープン当初は「ラスト・フロンティア・ホテル」の名称じゃったが、1955年に完成した新館が「ニュー・フロンティア・ホテル」と名付けられ、やがて後者にホテル名を統一。その後「ラスト~」に戻ったり、「ザ・フロンティア」に改称されたり、さすがはシン・シティ老舗のホテルだけに、時々のオーナーたちの思惑が入り乱れ続ける歴史を繰り返してきた。2007年に建物自体が完全に爆破解体された。(下写真左側)周囲も含めた広大な空地には、またあらためて新規参入グループの名前が挙がり続けておるが、現在も依然として空地のままじゃ。下写真右側は、ストリートビュー2023年3月撮影。

 


“初の女性版インパーソネータや女性版エルヴィス”とのショットが残るヴェガスのテーマパーク施設
Area No.2/Serial No.391 シルバー・スリッパー跡地

 

 エルヴィスがショーを行ったニューフロンティア・ホテルの隣の敷地に、1948年完成の「ラスト・フロンティア・ビレッジ」が存在しておった。このビレッジは一種のテーマパークであり、西部の町のメインストリート、古い西部の郵便局、雑貨店、模擬刑務所を含むショップやレクリエーション、ラスベガス渓谷の成長とインディアンのルーツを記録した作品を展示する博物館があり、建物はコレクターによる本物のオールド・ウェストの資材で構築されておった。シルバー・スリッパーはビレッジの入口付近に1950年に設置されたカジノ、ゲームセンターを含む複合娯楽施設じゃ。上写真左側は1950年代の様子。上写真右側のカラー写真は、巨大な銀色のスリッパー模型が屋根上に設置された1960年代の写真じゃ。

 エルヴィスがショウの合間にここに出入りしていたという目撃証言がある。証言者は右写真左側、エルヴィスと一緒に写っておる女性であり、彼女は「ある日、エルヴィスはホテルの横のペニーアーケード(安いゲーセン?)にいて、一緒に写真を撮ったり、トーキング・レコード(?)を作ったという。ペニーアーケードとはシルバースリッパーの内部施設と思われる。その時、彼女の友人が撮影した写真が右写真右側のモノクロ写真じゃ。
 なおこの女性は、ニューメキシコ州からやって来た方であり、同州アルバカーキでのエルヴィスのライブ終了後、エルヴィスからキスを贈られたことが新聞沙汰になって学校を退学処分になった熱狂的女性ファンの一人じゃ!自称“初の女性エルヴィス・インパーソネーター”でもあ~る!

 

 上写真3枚と左写真は、1956年11月13日休暇でラスヴェガスにおったエルヴィスが、シルバー・スリッパーでのショウに出演中の女性ロカビリーシンガーのアリス・レスリーを訪ねた時のもの。アリス・レスリーはポマードでヘアスタイルをセットしたり、もみ上げを伸ばしておったこともあり、当時“女性エルヴィス・プレスリー”とも呼ばれておった。

 エルヴィスの表敬訪問を受けたアリスは自信が付いたのか、翌1957年からの活動はより活発になり、リトル・リチャード、エディ・コクラン、ジーン・ビンセントとともにオーストラリア・ツアーへ出発。このツアーは好評だったものの、リトル・リチャードの、かの有名な“神からのお告げ”による突然の引退の煽りを受けてスケジュールは縮小されてしまった。50年代末期にはエルヴィスが軍役に就き、ロックンロールブームが下火になったこともあり、彼女も業界から引退することになる。
 下写真3枚も同日の撮影。女性の容姿や服装から、アリスと一緒に出演していたショウ・ガールたちと思われる。なお、エルヴィスがアリスを訪問した件は、2日後のラスヴェガス地元紙で紹介されておる。エルヴィスはアリスに対して「自分以外ではもっとも自然なロックンロール・シンガー(the most natural rock´n´roll singer )」と評したと記載された。

「シルバースリッパー」はニュー・フロンティア・ホテルの“すぐ隣り”とされておるので、Google-map上の位置、現状については上記ニュー・フロンティア・ホテルと同様とさせて頂きます。
 


 エルヴィス版「ハウンドドッグ」ひらめきの地
Area No.3/Serial No.392 サンズ・ホテル跡地 
 かつてラスヴェガスに数多く存在した大型ホテル&カジノの中で7番目に完成したサンズ・ホテル。(左写真左側)高さ17メートルの超大型の看板がひときわ目立っておった。
 サンズ・ホテルの施設で特に人気を呼んだのはスチームルーム(サウナ)と隣接したマッサージルーム
であり、ショウに出演するスターたちの交流の場であったという。
 ある日マッサージルームでくつろいでいたフランク・シナトラは、備え付けのテレビが故障した際に、そのテレビをプールに投げ込んだことがあり、このエピソードはスターたちの高級ホテルでの悪ふざけの象徴となって口承され、ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンがツアー中に真似するようになったという!(笑)
 
 エルヴィスはサンズ・ホテルに何をしに行ったかというと、シナトラの真似をするためではなくて(笑)、ホテル内のクラブ「シルバー・クイーン・ラウンジ」(上写真右側)に出演中のフレディ・ベル&ベルボーイズ(下写真右側)の演奏を聞きに行ったのじゃ。そこでロック史上に残るエピソードが発生した。フレディ&ベルボーイズたちが演奏した「ハウンドドッグ」を聞いたエルヴィスは、「俺ならもっとスゴイ改編が出来る」とひらめいたのじゃ!
 「ハウンドドッグ」は1952年にビッグ・ママ・ソーントン(右写真左側)がヒットさせたブルース。元々は利己的でぐうたらな男を痛烈に非難した女性用の曲じゃ。エルヴィスがフレディ&ベルボーイズの演奏を聞いてひらめいたのは、Wikipediaによると下記の通りじゃ。
「エルヴィスはソーントンの歌ったこの曲を知ってはいたものの、カバーすることを決めたのは歌詞を変えたフレディ・ベル&ベルボーイズのバージョンだった。彼らのラスベガス公演で、歌詞がナンセンスな内容に変えられているのを聞き、そこからさらに歌詞を少し変えて録音した」
「後にエルヴィスは“もう一つ言葉を変えていたら、きっと君達は大金持ちだったのにね”とフレディたちに語ったという。ソーントンのバージョンが男性のことを比喩的に歌っているのに対し、フレディ・ベル、エルヴィスのバージョンは文字通り犬のことを歌っている」

 「歌詞を少し変えていたら~」ってのはエルヴィスの謙遜じゃろうし、エルヴィスの素晴しいヴォーカルがあってこそのエルヴィス・バージョンじゃ。しかしフレディ&ベルボーイズのバージョンもあらためて聞くとゾクゾクするような高揚感がある。「ハウンドドッグ」という楽曲の本質を聞き逃さなかったエルヴィスは流石じゃ!サンズ・ホテルの歴史を紹介するサイトは数多く存在し、フランク・シナトラやディーン・マーチン、ロレッタ・リンらのスターたちが大勢出演した栄光とともに、「キングのハウンドドッグ生誕の場所」であることもアピールされておる。

 ある意味で“ハウンドドッグの発見”こそが、エルヴィスにとって1956年のラスヴェガス公演期間最大の収穫だった。そんな歴史的な場面を演出したサンズ・ホテルも、1996年に爆破解体されてしもうた。
 サンズ・ホテル跡地とその周辺は再開発が完全に終了して、往年を偲ぶ雰囲気ははほとんど残っていない。右写真はストリートビュー2023年2月撮影。写真中央に写るパラーゾ&ベネチアン・リゾート・ホテルの位置にサンズホテルが建てられておった。


  エルヴィス君、もっと華やかに!
Area No.4/Serial No.393 リビエラ・ホテル跡地

 ちょいと写真を載せ過ぎかとは思うが(笑)、エルヴィスのお隣で躍動しておる笑顔で派手なオジサン!この方はかつて“世界が恋したピアニスト”と称されたピアニスト兼エンターテイナーのリベラーチェ。その世界的な人気の高さにおいてはエルヴィスの大先輩であり、エルヴィスとの親交が深かった。
 エルヴィス初のラスベガス公演は丁度リビエラ・ホテルでのリベラーチェの公演と重なり、エルヴィスはリベラーチェのステージを観るためにリビエラ・ホテルに行っておった。この時の写真は残されておらんが、気さくな性格のリベラーチェはニュー・フロンティア・ホテルのバックステージにエルヴィスを訪ねており、その時のショットが左写真じゃ。
 その他ここに掲載した写真(上写真3枚、下写真3枚)は、半年後にエルヴィスが休暇でラスベガスを訪れた際に、同じくリビエラ・ホテルで公演中のリベラーチェのステージを観に行った時のものじゃ。パーカー大佐が事前にプロモーション用の写真撮影をリベラーチェに申し込んでおったようで、エルヴィスが着ておるジャケットはリベラーチェからのプレゼントじゃった。エルヴィスとのショットではいつもギターを抱えておるリベラーチェじゃが、実際にはギターは弾けなかったらしい(笑)

 パーカー大佐は写真撮影依頼の際に「何かエルヴィスにアドバイスはないか?」と訊いたところ、リベラーチェの返答は「もっと華やかに!」だったらしい。リベラーチェのこの進言が、後にエルヴィスが羽織ることになるゴールド・ジャケットやど派手なジャンプスーツ製作の着想になったとか!?
衣装はさておき、エルヴィスはリベラーチェのピアニストとしての才能に関しては「尊敬に値する」とコメントしておる。
 ちなみにリベラーチェのド派手な衣装とピアノと激しく戯れるライブ・パフォーマンスの影響をもっともダイレクトに受けておったのは、70年代のエルトン・ジョンというのがロック史の中では定説になっておる。

 下写真左側は1960年代のリビエラ・ホテル。以降、2つのタワービルが併設さてれラスヴェガス有数の集客数を誇るホテルになったが、他のホテル同様に資産家たちの利権争いや土地再開発のために2014年に建物は2回にわけて完全爆破解体された。跡地とその周辺は、現在ラスベガス・コンベンション・センターの広大な敷地となっておる。(下写真右側ストリートビュー2022年12月撮影)


 



 “キングのお宿”ラスベガス編その1!
Area No.5/Serial No.394 サハラ・ホテル
 

 こちらサハラ・ホテルは、1957年10月12日から10日間、エルヴィスが休暇でラスベガスを訪れた際に宿泊したホテルであり、以降、1960年代までエルヴィスのラスベガスでの定宿にもなっておった。上写真中央と右側が1957年滞在時、左側(下)は1960年7月24日の撮影とされておる。また1963年映画「ビバ!ラスヴェガス」の撮影中にもエルヴィスと取り巻き連中が宿泊しており、映画のロケ地としても利用されておる。下写真右から2枚が「ビバ!ラスヴェガス」撮影期間中のショット。

 下写真左から2枚は、1957年11月に同ホテルで撮影されたエルヴィスとミス・オーストリアのハンナール・メルヒャー嬢とのショット。EDDによると、エルヴィスはハワイでのライブを終えて本土に戻り、ロサンゼルスからメンフィスへ帰る途中、11月18日から23日までラスヴェガスに宿泊したとされておるので、その期間中の撮影と思われる。(EDDには宿泊ホテル名の記載は無し)
 この撮影をセッティングしたのはパーカー大佐らしいが、何故メルヒャー嬢だったのか?彼女はロサンゼルスのロングビーチで開催されるミス・ユニバース大会に出場するために訪米しており、「ヨーロッパから来たとびきりの美女との写真撮影はエルヴィスにとって俄然泊が付く!」と踏んだんじゃろうが、大佐ってのは本当にプロモーションにおいて目配せが効き、素早い実行力もまた見事じゃな。なおメルヒャー嬢と、彼女の友人キャシー・ガブリエル(ミス・オハイオ)の2人は、同年クリスマスにグレースランドに招待されておる。またこの時の撮影がご縁となって、ハンナール嬢は映画「GIブルース」に歌手として端役出演をしておる。

 
【追加情報】
 
ここで少々ややこしいお話をひとつ。上記したミス・オーストリアのハンナール・メルヒャー嬢と一緒にグレースランドに招待されたミス・オハイオのキャシー・ガブリエル嬢、この方は1956年にニューフロンティア・ホテルで撮影された左写真の右側の女性らしい。
 また左側の女性はキティ・ドーランという映画「キングクレオール」でエルヴィスと共演することになる女優さんとのこと。
(Area No.1で同様の写真掲載)上述の通り1957年11月18日から23日までエルヴィスはラスヴェガスに滞在したが、その一番の目的はキティ・ドーラン嬢に会うことだったらしい。左写真は一部のサイトでは“ファンと一緒に撮影”とされておるが、撮影ポーズやスタイルがお二人ともクロウトさんじゃよな!

 これまでご案内してきたエルヴィスゆかりのラスベガス・ホテルは今では跡形も無く消えてしまったが、サハラ・ホテルだけは現在も営業中じゃ。もちろんオーナーが変わったり、破産宣告を受けたり等の波乱の歴史を繰り返し、2011年一旦閉鎖された後に2014年に「SLSラスベガス」の名で営業が再開されたりしておる。サハラの名は2020年に復活しておる。独特のフォントによるSAHARAのロゴは改定され、50年代当時の建物もほとんど改築されたが、それでもエルヴィスの定宿が残っておることはファンには嬉しい限り。記念碑的な物の設置もあるかもしれない!?右写真ストリートビュー2022年12月撮影。



キングとバーレスク・クイーン!
Area No.6/Serial No.395 デューンズ・ホテル跡地
 退廃と享楽のシンシティ、ラスヴェガスの案内らしく!?今回は随分とエルヴィスと関わることになった女性の写真が多くなったが、ラスベガス前編の最後に、キョーレツ!な女性をご紹介することにしよう。
 
 上記サハラ・ホテルでご紹介した通り、エルヴィスは1957年10月12日から10日間の休暇のためにラスベガスを訪れており、ラスヴェガス到着当夜にデューンズ・ホテルで開催されていた豪華バーレスク・ショウの鑑賞に出かけた。その時に出会った女性が、アメリカでのバーレスクショウ人気を決定的にしてみせたトップ・スターのテンペスト・ストーム(左写真)じゃった。
 テンペスト・ストーム(狂乱の嵐)って、ヘヴィメタル・バンドの名前みたいじゃが、これは彼女の芸名であり、マリリン・モンローもぶっ飛んでしまいそうな超強烈セクシー・ストリッパーじゃ。

 エルヴィスはショウの後に他のショウガールたちに囲まれて身動きがとれなかったそうじゃが(右写真)、その場に居合わせた新聞記者が機転を利かせてエルヴィスとテンペスト・ストーム(以下愛称のストーミー表記)を引き合わせて写真撮影に成功した!
 
ストーミーの回想によると、エルヴィスは最初は顔を赤らめて、胸元が大胆に開いたセクシードレスを着ていた彼女を正視出来なかったという(笑)ということは、上の写真はストーミーが着替えた後の撮影じゃろうな。

 撮影の後、ストーミーは別のストーミーファンの男性と食事する予定だったので、エルヴィスとは後日あらためて会うことになった!エルヴィスは約束通りストーミーのホテルの部屋に電話をしてから彼女の部屋までやって来たんだそうじゃ。その晩二人は“男と女の関係”になったという。エルヴィスは「私はトウガラシ畑の雄ヤギと同じくらい興奮しています。ベッドまで急いでお連れします」と言ったんだとか!?まあもう少し詳しく知りたい方はこのサイトを読むように!ちなみに、エルヴィスのラスヴェガス滞在期間中(数日間)2人は逢瀬を重ねていたそうじゃが、その後二人の仲が発展することはなかった。

 さて、エルヴィスとストーミーの2ショットは新聞に掲載され、「離れられない関係になった」とまで報じられた。それを見て怒ったのがパーカー大佐じゃ。「たわけ者が!わしが必死になって愛国心の強い善良なアメリカ青年のイメージを作ろうとしておるのに、ストリッパーと関係を持つなんて何を考えておるんじゃ!」ってトコじゃな。
 エルヴィスは大佐を怒らせることになることは分かり切っていたようでストーミーに愚痴っておったらしい(笑)一方ストーミーは“そりゃあ相手がストリッパーじゃ無理もないわよね”と案外ケロっとしておったらしい。
 え~これはわしの想像じゃが、“好ましからぬ相手”とエルヴィスがアバンチュールを楽しむことを制御するために、大佐は約一ヶ月後にまたまたラスヴェガスへ行ったエルヴィスの元に、上記サハラホテルでご紹介したミス・オーストリアのハンナール・メルヒャー嬢を寄こしたんじゃないかと(笑)

 上写真左側はデューンズ・ホテル前に掲げられたストーミー・ショウの特大プロモパネル。エルヴィスもコレを見たに違いない。上写真右側は当時のストーミーのブロマイド。もう溜息が出るほど超絶セクシーですなあ~。you tubeでストーミーのショウ映像を観てみたが、スケベ心なんて吹っ飛んでしまい、まるで竜宮城にでもいるような夢見心地になるショウじゃった。

 ラスヴェガスで10番目に完成したデューンズ・ホテル(下写真左側)は、一般的な知名度は高くはなかったものの、テンペスト・ストームを出演させるような多彩なショウ・プログラムや中東をモチーフにした外観や内装、腕ききのシェフを集めた各国料理のレストラン等、幅広いエンターテイメント性で人気を博したホテル&カジノじゃった。
 閉業は1993年。他の大型ホテル&カジノ同様に最後は爆破解体によってその姿は跡形もなく消失した。跡地はしばらくの間、バザー会場兼公園になっておったが、近年の様子をストリートビューでチェックすると(下写真右側2023年1月撮影)、建築資材が運び込まれておるようでもあり、新しい大型ビルが建設させるのかもしれない。



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