NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.447


第66回 エルヴィスゆかりの地~ミシシッピー州2024年後編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

ミシシッピー州の旅2024年度後編は、お馴染み(?)同州のど田舎3ヶ所に加えて、真逆のビーチリゾート地ビロクシ5ヶ所に残るエルヴィスの痕跡を訪ねてみよう!ビロクシはこれまで何度か大型ハリケーンに見舞われ、その都度街が崩壊する悲劇に襲われた。エルヴィスゆかりの建物も吹き飛ばされてしまったりしておるが、すっかり様変わりした跡地も時には乙じゃ。それは街の南側に広がるメキシコ湾の海と空の情景がもたらす独特の風情ゆえじゃろうか。Google-mapとストリートビュー、そしてわしの紹介文を併せながら、ビロクシに残るエルヴィスの香りを感じて頂ければ幸いじゃ!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第66回 ミシシッピー州2024年後編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は2022年度編からのミシシッピー州内の番号、
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。
 
 Area No.28/Serial No.475  ハイスクール・ジムナジウム/チャールストン
 Area No.29/Serial No.476 ハイスクール・ジムナジウム/ブルース
 Area No.30/Serial No.477  ベルデン・ハイスクール・ジムナジウム跡地
                                    /ベルデン(トゥペロ)

 【ビロクシ】 
 Area No.31/Serial No.478  ビロクシ・コミュニティーセンター跡地
 Area No.32/Serial No.479 ロゼッティズ・レストラン・アンド・ラウンジ跡地
 Area No.33/Serial No.480 ガス・スティーブンス・シーフード・レストラン
                    &バッカニア・ラウンジ跡地

 Area No.34/Serial No.481 バンガロー・レストラン・アンド・ラウンジ跡地
 Area No.35/Serial No.482 ハードロック・ホテル&カジノ


 【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

★右下地図をクリックすると拡大表示されます。(クリック↓)

★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、
Google-map上の位置が表示されます。

SMW=
 スコッティ・ムーアのウェブサイト
SRW=
 サンレコードのウェブサイト
 (※2023年から閲覧不可)
EDD=「Elvis Day By Day」
 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・
 コンサート(ウェブサイト)


 保釈金を払い、出廷勧告も無視して行ったライブ!?
 Area No.28/Serial No.475 ハイスクール・ジムナジウム/チャールストン

 詳細記録が少ない1955年前半のエルヴィスのライブじゃが、1955年4月5日は逆にある程度の資料があるにもかかわらず、我々エルヴィスの“軌跡調査人”を悩ませる日、そしてライブ会場なのじゃ。

 数多くの私設エルヴィス・サイトでは、この日はミシシッピー州チャールストンのハイスクール(左写真)でライブが行われたとされておる。チャールトンはメンフィスの真南約120キロにある街じゃ。
 この時期にしては珍しく鮮明な写真がいくつかネットにアップされており、上写真3枚、更に当ページ上部のスライドで使用した女性ファン2人と写っておる1枚じゃ。いずれもナイス・ショットではある。
 しかしテキストデータのライブ情報がネット上でまったく無し。更にEDDではこの日のライブ記録の記載が無い。その為か、某英字ブログは「本当にこの日ライブが行われたのか?」という疑問で〆られたりしておる。

 興味深い関連情報としては、この日の2日前(4月3日)、ルイジアナ州シェリーブポート郊外でキャデラックを運転していたエルヴィスは20マイル(時速約32キロ)オーバーのスピード違反をしてしまい、罰金25ドルをルイジアナ警察署に支払って保釈されておる。左写真は、4月5日に同州カドー郡裁判所に出廷を勧告された宣誓供述書じゃ。この事実によって4月5日はライブが出来なかったのではないかという説もある。
 この点に関しては、ルイジアナ州警察が「エルヴィスは裁判所に出廷しなかったので罰金はそのまま徴収された」という事実をウェブサイトで公表しておる。(このサイトは現在閲覧不可)
 ということは、4月5日はエルヴィスは“自由の身”だったわけじゃが、上記の通りチャールストン・ハイスクールでのライブ情報が写真だけ?という情報公開状況としては珍しいパターンなので真相がややぼやけ気味なのじゃ。

※ちなみにスライドに使用した女性ファンと写っておる写真はpinterstにアップされており、出元はCDセット「Elvis Presley A Boy From Tupelo」付属のブックレットとのことで、女性ファンの氏名も明らかにされているので間違いはなさそう。

 チャールストン・ハイスクールの所在地自体も少々ややこしく、ネットにアップされている住所は「郵便物受取事務所」であり、学校のキャンパスは事務所の北東、約400メートル離れた場所に広がっておる。
 歴史の長い学校であり、果たして1950年代当時から現在地に建てられていたのか否かは不明。ストリートビューでキャンパス周囲をたどったところ、上モノクロ写真に写る3階建ての校舎らしき建物は無し。
 ミシシッピー州で初めて黒人と白人の生徒を分別せずに教育を受けさせた学校らしく、関連資料はその点の記載にページがさかれており、エルヴィス云々の記載は一切なされていないのが現状じゃ。
右写真ストリートビュー2014年3月撮影。


「いつまで“学生の卒業旅行費”のためのライブなんぞにエルヴィスを出演させているんだ!
Area No.29/Serial No.476 ハイスクール・ジムナジウム/ブルース 
 こちらも上記チャールストン・ハイスクール同様にネット情報が無いにもかかわらず、エルヴィスの写真2枚がアップされておった1955年のライブ会場(左写真)じゃ。ブルースはチャールストンの真東約65キロ、トゥペロからも南西約65キロにある小さな街じゃ。
 1955年6月14日のこのブルース・ハイスクール、翌日6月15日ベルデン・ハイスクール(下記Area No.30)でのライブは、サン・レコードと契約したばかりのオニー・ウィーラー&ミラー・シスターズとの共演じゃった。エルヴィスには入場料の4分の1にあたる450ドルが支払われ、残りの売上は1956年度ハイスクール卒業生のワシントンD.C.への旅行費に充てられたという。

 上記以外の情報は一切発見出来なかったが、EDDにはこの時期頻繁に起きていたマネージャーのボブ・ニールに対するパーカー大佐の“イライラ”が記載されておる。
 大佐はトム・ディスキンに、ボブ・ニールがエルヴィスを適切に扱い、ライブ会場を適切に予約することができないことについての不満を手紙を書いて送ったという。
 手紙の中で大佐は、エルヴィスを新たなる大きなステージへ送り込む前には、どうやら忍耐とより適切な方法が必要だと強調する。 「ゆっくりやるしかなさそうだ」と大佐は結論付けたという。手紙の〆は「“ニールのエルヴィス”とやらを見てみるしかない」じゃった。

 また大佐は同日にニールにも手紙を書き、優れたセールスマンシップがあればおそらくエルヴィスはラスベガスのブッキングを獲得できるだろう。しかし彼はまだ無名のパフォーマーであるため、ラスベガスに着いてから現在の自分の価値を知る必要があるだろうと書いたそうじゃ。これはあきらかにエルヴィスのマネージャーとしては力量不足との評価を下しておったボブ・ニールに対するやんわりとした牽制、皮肉と読める!


 ブルース・ハイスクールの所在地もまた判明に時間がかかった。一部のサイトでは現在休校中のスクールの住所になっており、もうひとつの住所のスクールのキャンパス周囲をストリートビューでたどったところ、トップの掲載したモノクロ写真の校舎と似た建物が見られたので、現時点ではそちらをエルヴィスがやって来たスクールとして掲載しておくことにした。右写真ストリートビュー2023年6月撮影。



 “エルヴィスを初めて観た瞬間から、私は後戻りは出来なくなった”
Area No.30/Serial No.477 ベルデン・ハイスクール・ジムナジウム跡地/ベルデン(トゥペロ)
 上記ブルース・ハイスクールのライブ翌日、1955年6月15日のライブ会場じゃ。ここの所在地もまたまた少々ややこしかったわい!?
 エルヴィスのライブ履歴を掲載しておる全てのサイトは “Belden, MS High School Gymnasium”の表記で統一されており、最初は上記チャールストンやブルースと同じく、ベルデンとは広いミシシッピー州の何処かに存在する、日本人はまったく知らない小さな街と判断しがちじゃ。しかし実はベルデンはトゥペロ郡の中に位置する法人化していない地域であり、トゥペロの中心地からわずか10キロしか離れていない地域じゃ。
 またトゥペロ郡の中でベルデン地域だけが正式な住所の最後に郡名の“Tupelo”が付かずに“Belden”とされる。その為なのか、トゥペロ近郊におけるエルヴィスゆかりの地案内の類のサイトでは、ベルデン・ハイスクールはまず紹介されておらん。皆様、この点をトゥペロ調査においてはお含みおきのほどを!

 そしてこれまたライブに関する詳細情報はネットではごく僅かであり、代わりにエルヴィスの2枚の写真を発見。(下写真左側、中央)少なくともわしは初めて見た写真であり、ベルデン・ハイスクールでの撮影という裏付けは取れなかったので悪しからず。唯一の文字情報としては、地元のDJの回想じゃ。エルヴィスはファンにもみくちゃにされないために、建物の裏窓を這って会場入りしたが、その際にズボンの裾を引き裂いてしまい、ライブ中は破れた裾を安全ピンで留めておかなければならなかったという!

 そして関連情報としてご紹介しておきたいのが、下写真右側についてじゃ。2018年時点でトゥペロのエルヴィス・ファン・クラブの名誉会長である女性、バーバラ・マロリーさんがウェブサイト取材を受けた際に提供した1枚。マロリーさんはベルデン・ハイスクールでのライブを体験してからのエルヴィスの熱狂的なファン。写真内中央で座りこんでおる女性が若かりし日のご本人であり、当時の女性エルヴィス・ファンたちとの貴重な合同ショットじゃ!
 マロリーさんはトゥペロのフェアーグラウンズで行われた同年8月1日、翌年9月26日のライブにも勿論出かけ、1970年代のライブも何度か子供たちを連れて鑑賞したという。「エルヴィスを初めて観た瞬間から、もう後戻り出来なくなった」とは彼女のお言葉であります!
 ベルデン・ハイスクールでのライブの後にエルヴィスにファンレターを送った彼女は、約三ヶ月後の9月26日にエルヴィスからの返信の手紙を受けとったという。その丁度1年後に、エルヴィスはスーパースターになってトゥペロ・フェアー・グラウンズで凱旋ライブを行ったのである!

 ベルデンはトゥペロの北西端、トゥペロの中心地から約10キロ離れた地域(下地図参照)。ベルデン・ハイスクールは1976年に廃校になっており、跡地は現在ベルデン・センターなる教育機関スタジオの敷地になっておる。
 右写真はストリートビュー2019年9月撮影。トップに掲載したハイスクールの在りし日のモノクロ写真同様にスクールバスの様な乗合乗用車が停車しておるのは奇遇!?すぐ近くには、外壁にエルヴィスのイラストと「EAT LIKE A KING」と描かれた小さなチキン・レストランがあるが、エルヴィスとは関係無しの割と新しい店じゃ(笑)


【 余談:“プレスリー博士は偉大だ!”/プレスリー・アイ・ケア 】


 Google-map上で、トゥペロ(map上の表記は“トゥーペロ”)のどの辺りが住所の上でベルデンなのか調べたところ、大体上左地図左上のピンク色の部分と判明。
 上右地図はベルデン地域とその周辺の拡大地図。ベルデン地域の最南端にある視力矯正センターの名称が、奇遇にも「Presley Eye Care」じゃった!レビューを読んでみるとかなり評判が良く、「プレスリー博士は偉大だ!」「プレスリー博士を強くおススメします!」「見えない物が見えるようになった。プレスリー博士に神のご加護を」という投稿が多数寄せられておって、笑っちゃ、いやいや何だか嬉しくなってしまった!この度のベルデン・ハイスクールの調査で、ベルデンがトゥペロの近郊地域であることを知って良かったわい!わしもトゥペロに行く機会があったら必ずベルデンまで足を延ばして、眼科医プレスリー博士のご指導のもとで老眼鏡を作ろう!!(レビューが“サクラ”じゃねーことを祈る!)


 “ご当地の伝説”として跡地に奉られてたエルヴィス!
  Area No.31/Serial No.478 ビロクシ・コミュニティーセンター跡地
  ビロクシは、メキシコ湾岸に面した海洋リゾート地域。「バーチャル~ミシシッピー州2022年編」で、キースラー空軍基地内エアメンズ・クラブ(Point-15)とスロヴェニアン・ロッジ(Point-16)と2つのライブ会場をご案内した。更にもう一ヵ所、1955年11月6日にライブが行われた場所がビロクシ・コミュニティーセンターじゃ。(上左写真)
 この会場は上述したスロヴェニアン・ロッジが運営しており、この両会場を含む1955年に3会場で合計6日行われたビロクシでのエルヴィスのライブを全て取り仕切っていたプロモータは、多彩な商才を発揮していた地元の名士ヤンキー・ハルバノビッチ氏じゃ。この方はまた、前回「ミシシッピー州2024年前編」でご案内したレイ・スタジアムでのライブに駆け付けた子役女優で有名だったアン・レイ嬢のお父様でもある。
 ご参考までに上写真右側は、1956年当時に“エルヴィスの恋人”と噂された当地の女性ジューン・ジェニコ(フェニコ?)嬢。1961年にビロクシ・コミュニティーセンターのイベントに出演した時の写真じゃ。

 スロヴェニアン・ロッジご案内の際に先述したが、ヤンキー・ハルバノビッチ氏はエルヴィスに対して“特別な才能”を感じ取っていたものの将来性を測りかねていたようで、エルヴィスからのマネージャー要請を断った経緯がある。とりあえずこの日のライブの収益は「ビロクシ人形おもちゃ基金」に寄付されたという。こうした現地のプロモーターによるライブ収益金の大幅な操作もパーカー大佐の気に入らない部分だったじゃろう!現に翌1956年にあらためてハルバノビッチ氏がエルヴィス招聘を申し込んだ際にはとんでもないギャラを(大佐から)要求されて断念しておる。

 ビロクシ・コミュニティー・センターは、上写真の通りフランス・コロニアル風の瀟洒な造りであり、かつてビロクシがフランス領だったことを後世に伝えるように建っておったが、1969年8月にハリケーン・カミーユによって崩壊してしまった。
 またスロベニアン・ロッジも36年後の2005年8月にハリケーン・カトリーナによって崩壊。エルヴィスがかつて観客を熱狂させた2つの会場はいずれもハリケーンの犠牲になって姿を消したのじゃ。
 現在跡地には巨大なリゾートホテル「レジェンズ」が建てられておる。(上写真左側。ストリートビュー2022年3月撮影))ホテルのロビーには、かつてビロクシをステージやバカンスで訪れた夥しい数のスターたちの写真がディスプレイされており、ホテルというよりは“ビロクシ・スター殿堂”の様じゃ。エルヴィスの写真もあるが(上写真右側赤枠部分)、何故かフランク・シナトラとの2ショットの写真が用いられており、これはエルヴィスがビロクシ・コミュニティー・センターのステージに上がった際の優れたステージ写真が存在しないからであろうが、ホテル名の通りに“伝説”としてエルヴィスはこの地に奉られておる。


フランス風サンドイッチとカフェイン入り黒ビールで若きエルヴィスがもてなされたレストラン
Area No.32/Serial No.479 ロゼッティズ・レストラン・アンド・ラウンジ跡地
 こちらのレストラン&カフェは、1955年6月26日にエルヴィスがライブを行ったスロベニアン・ロッジの北側約200メートル先にあった、ロッジの会長(創設者?)ビンセント・ロセッティ経営のフランス庶民料理店(左写真左側)。

 このお店の大人気だった名物メニューは具材にエビを使ったフランスパンのサンドイッチであるポーボーイ(上写真右側)。湾岸地域ビロクシの特産物であるエビと、ビロクシの先住民であるフランス移民の食文化を融合させたメニューじゃ。
 またビロクシはカフェイン入り黒ビール「Barq's」の生産地でもあり、ポーボーイとBarq’sの相性の良さは若者の間で人気を呼んだという。(上写真右側、ポーボーイの上に写る黒いボトルがBarq’s)ビンセント・ロゼッティは、スロヴェニアン・ロッジに出演するバンドメンバーたちを彼らの休憩時間にこのレストランへ案内してポーボーイをふるまっていたらしい。きっとエルヴィスもご馳走になったのだろう。
 なおSMWにこのレストランで接客をしていた人物の供述が記載されており、エルヴィスが来店した際にBarq'sをテーブルまで届けた記憶があるという。この時期、エルヴィスがアルコール類をオーダーしたというエピソードはほとんど聞いたこともないので珍しい供述かもしれない!?

 ロゼッティズ・レストラン・アンド・ラウンジは、正確な住所も、いつ頃まで営業されていたのかも不明。“スロベニアン・ロッジの数ブロック先”“ノース・ハワードのマートル・ストリート近く”といったアバウトな情報しかないので、跡地写真(右写真ストリートビュー2023年2月撮影)の場所やGoogle-mapの位置情報は推測に過ぎないのでご了承頂きたい。恐らく現パレスホテル前の専用駐車場周辺と思われる。
 なおビロクシの全く別の場所に「ロセッティ・オールド・カフェ」というレストランがある。ビンセント・ロゼッティの子孫のお店の可能性大だが詳細は不明。


1956年サマーバケーション中に訪れたビロクシ有数のナイトクラブ
 Area No.33/Serial No.480
  ガス・スティーブンス・シーフード・レストラン&バッカニア・ラウンジ跡地 
 1956年7月4日にメンフィスのラスウッドパークで“凱旋ライブ”を終了させたエルビスは、一ヶ月間の休暇をとり、そのほとんどの期間をビロクシで過ごした。その間ビロクシの様々なナイトクラブに顔を出したエルヴィスは、ナイトクラブ出演中のミュージシャンたちと交流を計っていたことが明らかにされておる。
 7月19日には「ガイ・ステーブンス・シーフード・レストラン・アンド・バッカニア・ラウンジ」(左写真)に現れたエルヴィスは、当夜出演中だったフォー・コインズというヴォーカルグループと写真に収まっておる。
  フォーコインズはロックサイドから見るとほとんど無名のグループではあるが、1957年のワーナー・ブラザーズのロックンロール 映画 『ジャンボリー』に出演し、「A Broken Promise」という曲を歌っておる。ちなみに『ジャンボリー』にはカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ファッツ・ドミノ、フランキー・アバロンらが本人役として出演しておる。下写真左側はエルヴィスとフォーコインズのショット。下写真中央は『ジャンボリー』公開時のポスター。下写真右側は、1963年にラウンジに出演したジェーン・マンスフィールド。

 
 ビロクシという街に関して、エルヴィスが出演した2つのライブ会場のオーナーがスロベニアからの移民であり、街自体や飲食店の営業方針に19世紀のフランス領時代の文化が色濃く残っていた等、アメリカの中の外国的特徴をご紹介してきた。このレストラン&ナイトクラブのオーナーであるガイ・スティーブンスもギリシャ系移民の子孫であり、上写真の通り、建物はモロッコ建築風の塔がシンボルであった。

 かつてはビロクシに数多くあったナイトクラブの中では一、二を争うほど繁盛したこのナイトクラブは、女優兼歌手のジェーン・マンスフィールドが1967年6月28日に交通事故で亡くなる前夜にミーティングをしていたことでも有名。(一部のサイトでは、マンスフィールド生涯最後のショーが開催されたと記述されておるが、実際にはミーティングをしただけという説が強い。)

 ガイ・スティーブンス
シーフード・レストラン&バッカニア・ラウンジは1975年に閉店。1977年にメキシコに料理店に改造されたが1985年に閉店。以降2000年まで跡地に残された建物は空き家状態が続いていたが、現在はサーフ・スタイルというビーチ用品を扱う大型店舗が建てられておる。右写真ストリートビュー2022年4月撮影。


若きエルヴィス・レディたちの執念のコレクション!
Area No.34/Serial No.481 バンガロー・レストラン・アンド・ラウンジ跡地

 こちらはエルヴィスがビロクシでライブを行った1955年、またバカンスでビロクシに滞在していた1956年7月に頻繁に訪れたいたという24時間営業のレストラン。上写真左側はレストランの建物であり、この真後ろはビーチへ向かって広がるモーテルが隣接していた。
 エルヴィスがレストランを利用したり、モーテルに宿泊したという正式な記録は残っていないものの、地元の者やエルヴィスのおっかけの女の子たちの証言から、ライブ会場からも行きやすく、24時間営業だったレストランの方にはエルヴィスはやって来ていたらしい。
 SMWにはレストランのドリンクメニューに書かれたエルヴィスのサインの写真(上写真中央、右側)が「Three Amigas(3人の仲間)」というコラムとともに投稿されておる。このコラムが非常に楽しい内容であり、以下大意をご紹介しておこう。
 まず上写真左側の少女2人、左側がマーティさん。右側は知人のゲイルさん。マーティさんは、レストランに書かれたサインの宛名のご本人。写真撮影当時はお二人ともテキサス州ヒューストン在住。
 上写真中央はシェリーブポートのルイジアナ・ヘイライド出演中のエルヴィスをおっかけてきた女の子3人が、エルヴィスのリムジンのフロント部分に座っておるショット。右端の女の子はマーティさんのいとこのキャロルさん。
 上写真右側は、キャロルさんとエルヴィス!1956年3月10日ルイジアナ・ヘイライドのバックステージでの撮影。キャロルさんは1955~6年のエルヴィスのライブは数回、それも最前列で鑑賞しながら写真を撮りまくったそうじゃ。マーティさん、ゲイルさん、キャロルさんは全員がエルヴィスの熱狂的なファンだったのじゃ。
 1956年にビロクシに滞在中のエルヴィスを追っかけに行ったのはゲイルさんとキャロルさんであり、ゲイルさんが執念でエルヴィスを見付け出して、ビロクシに来ていなかったマーティーさんの分までサインをもらったというわけ!サインをもらった場所がバンガロー・レストラン・アンド・ラウンジ内だったのか、エルヴィスを見付け出した時にゲイルさんがたまたまレストランのメニューを持っていてサイン用にエルヴィスに差し出したのか、その辺の記憶は曖昧らしい(笑)なお、ご紹介したお嬢さん方3人は、当時はまだ16~17歳だったという。

 バンガロー・レストラン・アンド・ラウンジがいつ頃まで営業されていたかは不明。営業当時の絵葉書の裏面に表示されていた住所は613 Beach Road。現在この住所の場所は空き地(空きビーチ)で何も建てられておらん。(下写真中央ストリートビュー2022年5月撮影)しかしこの場所のビーチは海までの幅が狭く建物が建てられていた形跡が無い。下写真左側は海から撮影された営業当時の写真であり、同一の場所には見えない。
 一方、先述したSMW掲載のコラム「3人の仲間」内では、現在ボー・リヴァージュという高級ホテルが建っている場所がバンガロー・レストラン・アンド・ラウンジの跡地と記載されておる。住所は875 Beach Blvd.。(下写真右側ストリートビュー2015年4月撮影)ストリートビュー上に限ればこちらの方が跡地に見える。1950~60年代と現在とでは、海岸線周辺の番地が変わっておるのかもしれないが、事実は現地で確認するしかなさそうじゃ。左上Google-mapマークには暫定的にボー・リヴァージュの位置情報のリンクを貼っておきます。

 


嵐を越えて帰還した「G.I.ブルース」コスチューム
Area No.35/Serial No.482 ハードロック・ホテル&カジノ
 ビロクシのメキシコ湾岸地にハードロック・ホテル・アンド・カジノがオープンしたのは2009年であり、“エルヴィスゆかりの地”としては時期的にそぐわいないが、SMWになかなか感動的なコラムが付記されていたので、特別にカウントすることにした!

 ハードロック・ホテル・アンド・カジノは当初の予定では2005年夏にオープンする予定だったが、ビロクシ全体に甚大な被害をもたらすことになった同年8月に起こったハリケーン・カトリーナの激風によって、ハードロック・ホテル&カジノもまた多大な損害を被った。(左写真はハリケーンが去った直後の建物周辺の様子)
 ハリケーンがハードロック・ホテルの建物を直撃した当時は、建物内に数多くのロックメモラビリアの搬入中じゃった。メモラビリアは主に船によって輸送されてきたようで、港と建物を繋ぐはしけに置かれてあったメモラビリアの多くはハリケーンによって海側へと吹き飛ばされたという。
 
 しかしハリケーンが去った数日後に信じられないことが起こった。エルヴィスが映画「G.I.ブルース」で着用したアーミー服が軍帽をかぶった状態で海岸に打ち上げられたのじゃ。(マネキンにセットされた状態で漂着したということ?)衣服の状態は勿論めちゃくちゃであり、あちこちが破れ、油で汚れ、錆び、カビが生え、塩分が付着し、悪臭が匂っていた。しかし、それでも認識可能だったのじゃ。


 ハードロック社は、この衣装が嵐を越えて“帰還してきた”事実に驚き、そして感動し、さっそく修復することを決意。修復作業の依頼先は、歴史的衣料品の修復を専門とするスミソニアン博物館お抱えの業者、バージニア州フェアファックスのインペリアル・ガウン・レストレーション社(IGP社)。上写真は、「G.I.ブルース」出演のエルヴィスと、衣装を特殊洗浄、修復する担当者たちの奮闘ぶりじゃ!修復依頼を受けた際、ハードロック社からの重要な指示は、“破れた部分もこの衣装の歴史であり、(必要以上な)修繕をしないように”とのことじゃった。

 衣装全体を洗浄する洗浄液はIGP社の“企業秘密”である特殊洗剤が使用され、真鍮のボタンを磨き直す為にも新しい洗浄液が開発されたという。IGP社の社長は退役軍人であり、この類の修復作業に関する専門的知識が豊富だったことがとてもラッキーだったのじゃ。
 約3,000ドルの費用と2か月にわたる60時間の作業を経て、修復は完了。このコスチュームはビロクシのハードロック・ホテルに戻り、2009年夏のオープンにおける最大の目玉展示品となったのじゃ。


 ハードロック・ホテル、ハードロック・カフェの展示品は定期的に入れ替えられ、全ての展示品は世界中のホテル、カフェを巡回することになっておるが、この
「G.I.ブルース」のコスチュームは、Google-mapの投稿写真によると、2019年時点ではビロクシのハードロック・ホテルに展示され続けておるようじゃ。(左上写真)
 ハードロック・ホテルの位置は上記ボー・リバージュの真東300メートルのメキシコ湾岸地に建っておる。右写真ストリートビュー2022年5月撮影)


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