NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.441 |
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数年後に「夢の渚」撮影で訪れことになる街 Area No.17/Serial No.434 サウスイースタン・パビリオン/オカラ フロリダ州オカラは、フロリダ半島のど真ん中のやや北側にある現在人口数万人の街であり、エルヴィス・ファンの中には映画「夢の渚」(1962年公開)のロケ地として割と有名かもしれんな。 左写真は1950年代当時のオカラの中心地。写真中央に写っている細長い白いビルは、「夢の渚」のロケ地として使用されたユニオン・バンク。 エルヴィスは「夢の渚」撮影の数年前、初めてのフロリダ州ツアーの最中の1955年5月10日にオカラで唯一のライブを行っておる。SMWではこの日のライブ情報はスルーされてしまっておるが、オーストラリアのファンクラブ・サイトの中に詳しい情報が掲載されておった。 当時はまだ駆け出しだったエルヴィスはミュージック・ジャンボリー一座の下っ端であり、残されておる3種類の広告(下写真)でもその名前はかなり下の方に記載されておる。 会場となったサウスイースタン・パビリオンという競馬場(?)に集まった観客は2,700人。残念ながら当日のステージや会場建物の写真は掲載されておらんかったが、まだ高くはなかった知名度の割には多くの観客がエルヴィス目当てにやってきては衝撃を受けたという証言がたくさん紹介されておった。資料が乏しい当時のライブ記録の中では、観客の生の声を知ることができた貴重な証言の数々じゃ。 「黒い襟が付いた赤いスパンコールのディナージャケット、白いシャツ、黒いパンツを着たエルヴィスは、「ザッツ・オールライト」「ブルー」などを歌いながら、ステージ(トラックの平台)を旋回し、聴衆(少なくとも十代の若者)を魅了した。ギタリストのスコッティ・ムーアとベーシストのビル・ブラックの熱狂的な伴奏に合わせて「ムーン・オブ・ケンタッキー」、「グッド・ロッキン・トゥナイト」も演奏した」 「ある曲の途中でエルヴィスは3本のギターの弦を切って、曲が終わる前にハンク・スノウの所有していたギターを弾いてしまった、この激しく旋回する新人の若い歌手に私たちは感銘を受けました」 「エルヴィスはメキシコの飛び豆のように飛び跳ねていました。両親と叔母と一緒にショーに参加した当時13歳の私には、彼はとても賑やかだった」 「エルヴィスの髪は後ろがダックテール、前がポンパドールスタイルで、ポマードでスタイリングされていたので、油っこくてつやつやに見えました」 「私は最初は彼が生意気だと思ったし、自分を誰だと思っているのかと。でも彼が歌い始めるとその考えは“彼は一体何者なんだ?!”という考えに変わりました」 またライブのスポンサーのひとつだった地元ラジオ局のDJさんの述懐もおもしろい! 「ジャンボリーのメンバーですら、この少年(エルヴィス)をどう評価したらよいのか分からなかったようだ」 「昔の田舎のスターたちの中にはエルヴィスに畏敬の念を抱いた者もいたが、多くの人々と同じように驚いてばかりの様子だった」 なお、上記オーストラリア・ファン・クラブ・サイトの記事をそっくり転用した私設エルヴィス・サイトが何件か散見出来るが、いずれも右写真が当日の撮影写真として使用されておる。これはSMWによると1955年8月5日テネシー州メンフィスのオバートン・パーク・シェルで撮影されたものなので、皆様お間違えの無い様に! オカラは元々馬の繁殖地域として全米では有数の地域であり、競馬、馬術が街のお祭りの出し物として古くから人気であるようじゃ。 フロリダ州の西隣のテキサス州の全域ではロデオが伝統芸能のようじゃが、オカラでは馬術全般が人気であり、サウスイースタン・パビリオンは馬術の総合競技場じゃ。現在でもサウスイースタン・ライブストック・パビリオンの名称で稼働中じゃ。右写真はストリートビュー2007年11月撮影。 |
ヘッドライナーのハンク・スノウ登場も、客席は空っぽ!? Area No.18/Serial No.435 ミュニシパル・オーディトリアム/オーランド オーランドは、フロリダ州の真ん中やや南側、上記オカラから南へ約150キロ離れた州の内陸にある、古くからニューヨーク辺りの富豪たちの避寒地として栄えた街じゃ。フロリダ州といえば一般的にはビーチリゾートが有名じゃが、内陸のオーランドに観光客が押し寄せていた要因は、オーランドが柑橘系果物の広大な栽培地であり、咲き乱れる果物の花々の香りが人気の的であった。 ブルーグラスの古典的名曲であり、ジョニー・キャッシュも歌った「オレンジブロッサム・スペシャル」は、歌詞の中に“フロリダへ行こう”という一節がある。作者のアービン・T・ラウズはこの曲を書いた1938年にフロリダ州へ引っ越しており、オーランドの柑橘類の花々を見て曲のインスピレーションを得たのでは?と考えてみたくなる!なお「オレンジブロッサム・スペシャル」とは1925年よりニューヨークからマイアミまでを走行していた鉄道の愛称でもあり、その路線はオーランド地方を抜けてマイアミに到達しておった。この愛称の命名にもオーランドが関係しておるかもしれんな! エルヴィスは1955年に3回、1956年に1回オーランドでライブを開催しており、会場はいずれもミュニシパル・オーディトリアム(左写真)じゃ。最初の1955年5月11日には、エルヴィスはまたまた(?)ジャンボリー座長のハンク・スノウに恥をかかせてしまった!エルヴィスの後にハンクが登場しても会場の女の子たちはエルヴィスの名を絶叫!気を利かせたつもりの(?)の会場アナウンサーが「エルヴィスは皆さんにサインをするために楽屋裏にいますよ」と告げると、客席はあっという間に空っぽになったという!上写真中央、右側がサイン会の後もエルヴィスに付きまとっていた女の子との熱いショット! 上写真左側は、同年7月27/28日のライブの際に販売されたプログラムに挿入されたエルヴィス・ページ部分。ちなみに同プログラムには、この時に共演し、また後に「ハートブレイク・ホテル」のデモを歌ったグレン・リーヴスのページも含まれておる! 下写真3枚は1956年8月6日のライブ。エルヴィス・フィーバーが大爆発した頃であり、昼夜2回のライブともに会場のキャパ(6,500人)いっぱいに詰めかけた女の子たちの熱狂で会場は大騒ぎ!(下写真右側はカントリーシンガーのミッキー・エヴァンスとの2ショット) エルヴィスが最初のナンバー「ハートブレイク・ホテル」をうめき声で歌うと、会場は耳をつんざくような悲鳴で満たされた。 「ロング・トール・サリー」に合わせてステージを飛び回ると、ファンは写真を撮ろうと手すりに駆け寄り、彼がリズムに合わせて思わせぶりに腰をひねると、彼らは死にゆく猫のように「ああ、エルヴィス」と叫んだ。 群衆を制止するために両方のステージ入り口に4人の警官が配置されたが、それでも彼らは講堂を歩き回り、旋回するエルヴィスの写真をあらゆる角度から撮った。 エルヴィスが緑のコートを脱いで発表されたばかりの「ハウンド・ドッグ」に身を投じたとき、ヴェスヴィオ火山のてっぺんが吹き飛ばされそうなほどの歓喜の金切り声が湧き起こった。それから彼はマイクを引きずりながら、情熱的に腰をくねらせ続け、やがて彼はあっという間にステージからいなくなってしまったのである。おいおいっ! エルヴィスがいなくなってしまったぞ! 「この男のことをどう思いますか?」と尋ねられた観客の母親は、「子供たちが行きたがったので来たのですが」と。そして「興味はあったわ。今、分かった。あの子を見てごらん。見た目は発情期の猟犬のようで、鳴き声は病気の猫みたいだわ」と答えた。 またライブ中、約2分間エルヴィスがステージから消えたシーンのレポもあった! ある時、エルヴィスは疲れ果ててキーボードの上に倒れ込んだ。ハーフ・アンド・ハーフ(?)は首を優しくマッサージした。息を吹き返したエルヴィスは立ち上がり、近くにあったドラムの後ろに座った。 すぐにバックステージ全体にビートが響き渡りました。舞台係、警察官、係員たちは立ち止まってエルヴィスを見つめるだけ。会場の外にいるファンもそのビートを聞いていたようで、叫び声を上げたりノックしたりする声が大きくなった。 突然エルヴィスは立ち上がり、楽屋へ歩いて行った。そこは煙が充満し、天井が高く、何もない部屋で、エルヴィスの嘆きの音(疲れた溜息?)がそこから聞こえてきた。「彼は今夜は本当に疲れているんだ」とハーフ・アンド・ハーフは音に向かって意図的にうなずいている。 あらためてオープニングナンバーが流れたが、屈強な赤毛のボディーガードが楽屋から現れ、ステージ上のバンドのトリオに呼びかけた。「一つ弾いてみろ(もう少しの間演奏しておけ?)」と彼は叫んだ。エルヴィスにはまだライブ再開の準備ができていなかった。 2分後、エルヴィスは、真っ赤なスポーツコートを着て、襟を立て、白いシャツをベルトのバックルまで開けて、楽屋のドアから出て進み、歩く子供のように足を広げた。ステージ上でよろよろと闊歩し、絶叫する拍手と100万個のフラッシュ電球が爆発した! 1927年に会場したミュニシパル・オーディトリアムは老築化が進んだことで、1975年から約3年間をかけて大幅な改装工事が行われ、「ボブ・カー・パフォーミング・アート・センター」として生まれて変わった。 レンガで覆われていた以前の正面入口の構造は一部残されており、客席を2,500席に減少させた分、最新のステージシステムを大幅に導入して、アメリカ国内最大規模で最も人気のあるブロードウェイ作品や劇場ツアー作の開催が可能な超現代的アートシアターとして稼働しておる。右写真ストリートビュー2022年5月撮影。 |
メー・ボーレン・アクストンが「ハートブレイク・ホテル」を書いたおうち! Area No.19/Serial No.436 メイ・ボーレン・アクストン自宅跡地/ジャクソンビル ポップミュージックの歴史を激変させてしまい、我々の人生をも変えてしまった!世紀の名曲「ハートブレイク・ホテル」に関しては、作者メー・ボーレン・アクストンご本人をはじめとして様々な情報を集めては、「バーチャル~2022年度版」にていくつかの関連ポイントをご紹介した。しかし、そのネット調査段階で思わぬ見落としがあった! 約3年前、アメリカのエルヴィス・マニアが、アクストン女史が「ハートブレイク・ホテル」を書いた当時に住んでいた場所を突き止め、そこで同曲が書かれたと断定した動画がアップされておった!そのマニアさんが、エルヴィスの古い友人であり、ミュージシャンであり、後年「エルヴィス・ミュージアム」の館長を務めておったジミー・ベルベット氏から聞き出したコメントが証拠となった情報なので間違いはないじゃろう。 その場所はフロリダ州ジャクソンビルの中心地から約数キロ離れた閑静な住宅街の一画にあった(上写真。ストリートビュー2019年7月撮影)。「ハートブレイク・ホテル」が書かれたのは生前のアクストン女史の証言から1955年後半とされており、その当時彼女はジャクソンビルの3つの高校で英語の教師をしており、間違いなくジャクソンビル在住だったのじゃ。そしてジミー・ベルベット氏は、アクストン嬢のお宅の近くに住んでいたということじゃ。 下写真左側が、アクストン女史直筆の「ハートブレイク・ホテル」歌詞。下中央写真は1955年フロリダ州でエルヴィスと彼女が初めて逢った頃の写真。下右写真はジャクソンビル在住中のアクストン一家。旦那様はフロリダの海兵隊員であったのじゃ。 この情報に関する唯一の懸念材料は、何故こんな貴重な情報をそれまでジミー氏は発表していなかったのか?エルヴィスに関する直接的な情報ではなく、アクストン嬢のおうちにエルヴィスが行っていたわけでもないので、大して重要視しておらんかったのだろうか!? その昔The-Kingのボスが原宿ラブテンの店長だった頃にジミー氏は大量のエルヴィス・メモラビリア持参でラブテンにやって来た。僅かな時間だったがわしも面通しされたが、その当時「バーチャル~」をやっておったら、ジミー氏を質問攻めにして、こんな貴重な証言をいくつも聞き出せたと思うんじゃがな~(笑)左写真は1956年8月10日にライブが行われたジャクソンビル・フロリダシアターのバックステージでのジミー氏とエルヴィス。 なおアクストン宅の現状じゃが、上のストリートビュー写真で見ても住人がいるかどうか不明。ストリートビューの撮影履歴をチェックすると撮影時期によって外壁が変わっていたり、庭と通りを隔てる柵が作られていたり、家屋自体が建て替えられたりしておる。アクストン一家が住んでいらした頃の形跡など残っているはずもないが、やはり我々としては決してスルー出来ないエルヴィスゆかりの地である! 【追加情報】 アクストン女史のジャクソンビルの自宅では、「ハートブレイク・ホテル」のファースト・デモまで録音されておった!この情報は約3年前に新たに発表されたエルヴィスの研究書籍「Walk A Lonely Street: Elvis Presley, Country Music & The True Story of Heartbreak Hotel」(トニー・プルーズ著)にて記載されておる。(右写真) この書籍によると、トミー・ダーデンが“例の新聞記事”がインスピレーションになった曲のアイディアをアクストン女史に提案し、2人でアクストン女史の自宅にて簡単なセッショを一晩続けたとされておる。グレン・リーブスがデモを歌ったのはその後のオハナシ。 You tubeには「ハートブレイク・ホテル」のデモは2パターンがアップされており、ひとつはグレン・リーブスの歌が入る前にピアノの少々長いイントロ的パートが入っておる。このテイクは、アクストンがアセテート盤にプレスしてエルヴィス聞かせたバージョンである可能性が高いので、「バーチャル~バック・イン・テネシー州ナッシュビル編Area No.3/Serial No.97 アンドリュー・ジャクソン・ホテル跡地」にてご紹介しておる。 上述した書籍「Walk A Lonely~」の中で、“デモの曲調はあまり良くなく、ミドルエイトもブリッジ・セクションもなかった。しかしトミーは気に入り、メイはエルヴィスに歌わせたいと思った”という記述がある。ピアノのイントロ的部分はアクストン女史のご自宅で録音されたのかもしれない! |
パーカー大佐がエルヴィスを宿泊させなかった!?謎のライブ地 Area No.20/Serial No.437 シティ・オーディトリアム跡地/ペンサコーラ フロリダ州とはメキシコ湾へ突き出たフロリダ半島だけではなく、一部はメキシコ湾岸沿いに西へテキサス州方面へと広がっておる。ペンサコーラという街はその部分に位置する港湾都市じゃ。 エルヴィスは1956年最初のフロリダ・ツアーの最終地として、2月26日にメキシコ湾上に造られた埋め立て地上にあるペンサコーラ・シティオーディトリアム(上写真中央)でライブを行っておる。(上写真右は、SMWでは当日のライブ写真として、?マーク付きで掲載されておる)シティ・オーディトリアムの開場はエルヴィスがやって来る約1年前の1955年2月とされ、建築費用は当時のコンサート劇場としては破格の82万ドル。バルコニー付きの座席数は約 2,500 。エアコン完備の近代的な設備を擁し、目の前に広がる大海原にせり出す様に建てられた。 エルヴィスのライブに関する詳細記述は見つからなかったが、エルヴィスがメジャーレーベルと契約した直後のこの時期、ミュージック・ジャンボリーのメンバーとパーカー大佐との間の金銭トラブルがかなり酷い状況になっておったことがSMWに記されておる。ルーヴィン・ブラザースはエルヴィス個人ともトラブルを起こしたとされておる。要はエルヴィスだけがギャラの額が破格だったのじゃろう。 なおライブ終了後、エルヴィスはペンサコーラではなく、東へ約45キロも離れたミルトンという小さな街に宿泊しておる。港湾都市として栄えていたペンサコーラにはホテルは幾らでもあったはずだが、何故ミルトンまで移動したのか?何気に解せないこの事実に関しては下記Area No.21(ペンサコーラこぼれ話)を続けて御覧頂きたい。 シティ・オーディトリアムはその後ビッグミュージシャンのコンサート会場としての歴史を重ね、定期的に改装工事も行われてその存在が維持されてきたものの、2004年にハリケーン・アイワンの暴風雨に襲われて崩壊。既に周囲に最新設備が導入された新しいコンサート会場が幾つか完成していたこともあって完全に取り壊されることに。その跡地には2007年にプラザ・デ・ルナという公園が出来上がって現在に至る。右写真はストリートビュー2019年4月撮影。 【ペンサコーラこぼれ話】 大佐は何故エルヴィスを宿泊させなかったのか? Area No.21/Serial No.438 フォート・バランカス跡地/ペンサコーラ ライブ終了後にエルヴィスが宿泊したホテルはペンサコーラではなく、車で約30分、距離にして約45キロ東側へ離れたミルトンという街にあるエクスチェンジ・ホテルじゃった。(ホテルの詳細は下記Area No.22参照)幾つかの資料を読むと、エルヴィスはライブ終了後のファンの殺到を避けるためにあえてミルトンに宿泊したとされておるが、その真相は意外なところにあった!(かもしれない) アランナ・ナッシュという女性作家の著書に「The COLONEL/The Extraordinary Story of Colonel Tom Parker and Elvis Presley 」という作品がある。(左上写真)アランナ女史はエルヴィスと関わり合いをもった数多くの女性を描いた名著「Baby, Let's Play House: Elvis Presley and the Women Who Loved Him」も発表しており、その凄まじい取材力と見事な作品の構成力が賞賛の的になっており、「The COLONEL」はパーカー大佐の知られざる過去を白日の下に晒してみせた作品じゃ。 その中に、大佐がアメリカに不法入国した場所がペンサコーラから僅か55マイルしか離れていないアラバマ州モビールであること。また大佐があらゆる人種の入隊が可能な兵舎に赴いて陸軍に入隊した後、精神病を患って(フリをして?)除隊した時の所属が、ペンサコーラの「フォート・バランカス」という軍事要塞場だったことが記されている。アランナ女史は、大佐が軍医から取り付けた偽の?診断書のコピーまで著書に掲載しておる! また除隊が許可される数ヶ月前は、大佐はフォート・バランカスから脱走してペンサコーラ周辺を逃げ回っていたことも記されておる。この時は軍関係者に発見されてしまい、大佐はフォート・バランカスに連れ戻されたらしい。 左下写真は、ネット上にアップされておる、大佐のもっと古い撮影と思われる写真。1929年陸軍に入隊した直後、大佐が20歳の頃じゃ。 エルヴィスの知名度が上がるにつれて大佐の経歴も意地悪なマスコミから少しづつ“ツッコマレテ”いただけに、大佐は自らの不法行為や不祥事(ペテン師ぶり)の痕跡が色濃く残っておるペンサコーラにたとえ一泊でもエルヴィスをとどまらせたくはなかったのかもしれない。 フォートバランカスは1947年に閉鎖されていたとはいえ、自分の過去を突かれることを異常に警戒していた大佐ならば、エルヴィスから信用を損われないためにはそれぐらいの用心と手配はするじゃろうな。 フォートバランカス跡地は、シティ・オーディトリアムから西へ僅か10キロほどの地点にあった。それだけに大佐は、「俺はオマエの過去を知ってるぜ。マスコミにばらすぞ」って“ゆすってくる”輩の出現を警戒していたのかも!?だとしたら、大佐は意外と小心者だったんじゃな~(笑)いやいや、そんなことを警戒するぐらいなら、そもそもペンサコーラをブッキングなどせんか!? 右上写真は、閉鎖後4年が経過した1951年12月に撮影されたフォート・バランカス。1839年に丘の上に開発された広大な軍事要塞であるだけに、敷地内に建てられた頑強な建造物は現存しており、現在国定歴史建造物に指定されておる。 左写真はGoogle-mapに投稿された2022年4月撮影のフォート・バランカス。(ストリートビューは未踏)建物や敷地内設備の一部は修復がほどこされ、現在一般公開されておる模様。ペンサコーラに行く機会があれば、「悪徳マネージャーだった大佐が、アメリカ人に成りすまして軍事訓練を受けたり、逃げ出したりした場所」を観に行ってもいいかもしれない! |
“移民の魂”がエルヴィスを隣町に泊まらせた!? Area No.22/Serial No.439 エクスチェンジ・ホテル/ミルトン 上記したペンサコーラのライブ後にエルヴィスが宿泊したホテルが、隣町ミルトンのエクスチェンジ・ホテル。上写真左側がオープンした1914年当時、上写真右側が1950年当時の写真じゃ。 このホテルに関しては、上左写真が掲載されたネット上の小さな記事に、「1914年にチャールズ・サドスモール(Charles Sudsmall)によって建てられた」とされておる。「Elvis Milton Exchange Hotel」でネット検索しても、“エルヴィスが泊まった”という事実以上の情報は何も出てこない・・・。 そこで、チャールズ・サドスモールなる人物(左写真)を調べたところ、パーカー大佐との意外な共通点が発見出来た。2人は世代は違うものの、ともにヨーロッパからの移民であった。ご存知の通り大佐はオランダ人、チャールズ氏はラトビア人じゃった。 次に両者ともミルトン、ペンサコーラの軍事施設関係者でもあった。大佐は軍人として、チャールズ氏は職業柄(後述)軍事施設への出入りが許可されていた人物だった。 ではチャールズ氏の略歴を簡単に。19世紀末期にラトビア(当時はソ連領)からアメリカに渡ってきた後、ペンサコーラの港湾労働者として働き、やがて電気技師として地元の電話交換局に勤務。この時期から軍事施設から重宝される存在になった。 ビジネスマンとしての優れた才覚があったようで、1910年代にはメキシコ湾岸沿いのフロリダ州の電話交換局のマネージャーにまで出世を果たし、周囲一帯に電話網を拡大させる事業に大いに貢献。また私財を投じていくかのホテルも建築し、そのひとつがエクスチェンジ・ホテルじゃった。 カーニバルの客引きから天下のエルヴィスのマネージャーとして巨額の富をつかんだ大佐と同じようなアメリカン・ドリームの体現者じゃ。 チャールズ氏は1920年代初頭に財産横領を目論むビジネスパートナーに射殺されてしまったが、その名声が長らく伝承されていた“地元の伝説的な名士”であった。パーカー大佐はチャールズ伝説を上記フォート・バランカス所属当時に耳にし、同じヨーロッパ移民として目標にするべき先輩、同胞者として感じていたのかもしれない。「なんで隣町のホテルに泊まるんだよ」というエルヴィスの疑問に対して、「わしの尊敬する人物が建てたホテルだからじゃ!」って指示したと考えられなくもない! エクスチェンジ・ホテルの建物は、チャールズ氏は元々は新しい電話交換局として使用する予定だったらしいが、ホテル業に新しいビジネス・チャンスを見出したために、別の人物に建物をリースして一流ホテルとして経営させていたらしい。 現在は、最新のオーナーがオフィスビルとして、また一部B&B(ベッド&ブレックファスト)ホテルとして稼働させておる。右写真はストリートビュー2019年7月撮影。 左側写真の右下に「定礎板」らしきプレートが見えるので拡大表示してみたところ、確かにCONSTRUCTED BY CHARLES SUDSMALLの名前が刻されておる! |
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