NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.439


第58回 エルヴィスゆかりの地~テキサス州2024年編後編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

テネシー州、カリフォルニア州と並び、エルヴィスの軌跡の宝庫テキサス州。2022年編から数えて10回目のご案内じゃ!訪ねたポイント数も既に50ヵ所を越えており、まだまだ、いやいや、まだまだまだ続きますぞ!!2024年編はネット上でアップされておるエルヴィスの写真の確証が得られなかったり、また写真自体が発見出来なかった場所が少なくなかったものの、後編の今回ご案内する場所は写真の多い割とメジャーどころの情報を集めることが出来たので、視覚的にも楽しんで頂けるはずじゃ。中にはThe-Kingとの関わりのある場所(!?)も登場するので乞うご期待!


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第58回 テキサス州2024年後編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は2022年度編からのテキサス州内の番号、
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.57/Serial No.420 オデッサ・ハイスクール・フィールドハウス/オデッサ
 Area No.58/Serial No.421  シティ・オーディトリアム跡地/ヒューストン
 Area No.59/Serial No.422 サム・ヒューストン・コロシアム/ヒューストン
 
 Area No.60/Serial No.423
  ミュニシパル・オーディトリアム/サン・アントニオ
 Area No.61/Serial No.424
  ベクサー・カウンティ・コロシアム/サン・アントニオ
 Area No.62/Serial No.425 フラミンゴ・モーター・ホテル跡地/サン・アントニオ

 
【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

★右下地図をクリックすると拡大表示されます★ (クリック↓)

★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、Google-map上の位置が表示されます。

SMW=
 スコッティ・ムーアのウェブサイト
SRW=
 サンレコードのウェブサイト
   (※2023年から閲覧不可)
EDD=「Elvis Day By Day」
 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=
 エルヴィス・プレスリー・イン・
 コンサート(ウェブサイト)



1955年に異例の4回ものライブが行われたローカル・ハイスクール
Area No.57/Serial No.420 オデッサ・ハイスクール・フィールドハウス/オデッサ

 エルヴィスは1955年度のテキサス・ツアーにおいて、1月4日、2月16日、4月1日、5月31日、10月14日と実に5回もオデッサを訪れておる。ダラスやヒューストンといった大都会ではない街で一年間で5度もライブをやるというのは異例じゃ。4月1日(エクター・カントリー・オーディトリアム)を除く4回のライブは地元のハイスクール・フィールドハウスで行われており、これはオデッサと隣り街ミッドランドでThe Record Shopを経営し、当時のエルヴィスの活動を個人的にも支援していたセシル・ホリフィールドによるお膳立てと思われる。(テキサス州2023年編中編Area No.303参照)
 またこの学校は伝統的に吹奏楽部の活躍が名高く、コンテストで長らく上位に表彰され続けていた歴史があり、音楽コンサートの開催に対して極めて寛容だった?ことも関係しておるのかもしれない。

 しかしながら、エルヴィス・サイドからオデッサ・ハイスクールのライブ詳細を調べてみてもネット上にはほぼ皆無。エルヴィスのライブ会場を訪ねまわる素晴しいサイトEPCにおいてもスルーされてしまっておる。
 一方ハイスクールサイドからの情報検索で辛うじて当時のスクールの写真(上写真)と、ライブ当日のエルヴィスと思われる写真(右写真)をそれぞれ1枚づつ発見出来た。(東海岸のデラウェイ州にも同名の学校が存在していてちょっと紛らわしかった!)

 EDDにおいては、1955年2月16日のオデッサ初ライブではオデッサのレコード会社からデビューしたてのロイ・オービソンも共演したとされており、当日の入場者数4,000人とされておる。当時のハイスクール内に4,000人も収容出来る施設があったことは少々疑問?400人の記載ミスか!?
 またロイ・オービソンが出演した地元のラジオ番組にエルヴィスも招かれた等の情報もあるが、共演の情報も含めて、これらの情報に関しては未だに真偽が不明であり、エルヴィス・サイドの情報サイトでは「?」扱いになっておる場合が多い。

 オデッサ・ハイスクールは現在でも存続しており、ネット上に1958/1959年卒業生の同窓会サイトがある。この時期の卒業生ならばエルヴィスのライブを体験しているはずなので、同窓会ページに何某かのエルヴィス思い出話がある!と踏んで勇んでチェックしたところ、その期待はあっさり空振りに終わってしまった(笑)左写真ストリートビュー2017年8月撮影。


 ブルームーンボーイズとヒューストンの友好関係を証明するショットが残された会場
Area No.58/Serial No.421 シティ・オーディトリアム跡地/ヒューストン

 下積み時代のエルヴィスはテキサス州ヒューストンと関わりが深く、デビュー直後の1954年11月~1955年年初にかけて頻繁に訪れては小さなクラブでライブを行っておる。(テキサス州2022年編前編参照)1955年にはマグノリア・ガーデンで5回、すぐ近くのクックズ・ホウダウン・クラブで6回ものライブをこなしておる。

 ヒューストンにおいて最初に大きな会場で行われたエルヴィスのライブは、1955年4月2日シティ・コロシアム。(左写真)翌1956年4月21日にも同会場に登場しておる。この会場は1912年のオープン時から既に7,000人を収容出来る近代的設備を擁した当時ヒューストン最大の会場じゃった。
 エルヴィスは1955年はサポートアクト(ルイジアナ・ヘイライドのリモート出演)、56年はヘッドライナーとして登場して、いずれも“会場の破壊者”と評されるほど大観衆を熱狂させた。1955年は会場に入りきれないファンが2,000人以上もおったそうな!1956年は昼夜2回のライブはともに超満員。マスコミは「エルヴィスのライブは1回に4,000人もの女性を“殺した”」とまで報道した!

 ここで下写真左、中央の2枚にご注目頂きたい。スコッティがエルヴィスの前まで歩み出てギターを弾いておる珍しい(?)ショットじゃ。スコッティの記憶によると、1956年4月21日のライブでは某マスコミ記者からスコッティのギタープレイに焦点を当てた記事を書きたいという要望があり、この写真は記事用に撮影されたような1枚じゃ。この当時にスコッティのギターに注目するとは、何という先見の明!エルヴィスのブロマイドを持った女性ファンがエルヴィスに群がる有名な美しい写真(下写真右側)も残されており、ヒューストンとエルヴィス、、ヒューストンとブルームーンボーイズはよほど相性が良かったのじゃろうな!

 
 1956年4月21日のライブが終了すると、エルヴィスは興奮状態の冷めやまぬ会場の観客に向かって、次のようなお別れの言葉を投げかけた。

 "Just remember this. Don't go milkin' the cow on a rainy day. If there's lightning, you may be left holding the bag."
直訳すると下記の通りとなる。
 “これだけは覚えておいてね。雨の日は牛の乳搾りに行かないように。雷が落ちたら、袋を持ったまま取り残されるかもしれないよ”

 日本人には「なんのこっちゃ?」ですな。かつてエルヴィスが歌ったミルクカウ・ブルース・ブギーの歌詞のような黒人ブルースの隠語バリバリの少々性的なジョークと思われる。1950年代には同様のジョークを口にしたことでステージを中止させられたこともあったエルヴィスじゃが、ヒューストンではお咎めなしと踏んだんじゃろう!!

 開場から半世紀を過ぎた1963年にヒューストン・シティ・コロシアムは解体され、跡地にはあたらに
ジョーンズ・ホールが建設されて現在に至っておる。20世紀初頭の建築技術にしてはとてつもなく頑丈に造られていたシティ・オーディトリアムは解体作業が非常に困難だったと伝えられておる。右写真ストリートビュー2023年1月撮影。
 


カメラマンがエルヴィスより女の子たちを追っかけた!?ヒューストンの熱過ぎた一夜!
 Area No.59/Serial No.422 サム・ヒューストン・コロシアム/ヒューストン

 上記ヒューストン・シティ・オーディトリアムへのご案内において、エルヴィスはデビュー直後からヒューストンという街と相性が良かった事実をご紹介したが、エルヴィス・フィーバーの真っ只中の1956年10月13日同地のサム・ヒューストン・コロシアム(左写真)でのライブでは、シティ・オーディトリアムとはまた違ったかたちでヒューストンのオーディエンスの“熱いエルヴィス愛”の記録が残っておる。

 現在この日の記録に関してもっとも詳細が記載されておるサイトはSMWであり、驚くなかれ、紹介ページにはエルヴィスのライブ写真よりも熱狂する女性ファンの写真の数の方が圧倒的に多い!(下写真7枚)熱狂しておるのはティーン・エイジャーばかりではなく、あきらかに“エルヴィス・マダム”的な方々も写っておるな。マダムたちは実娘の保護者には到底見えない!
 また下写真下段左側、エルヴィスからおめめにチューをされてうっとりしておるお嬢さんは、バックステージに入り込んだエルヴィス・ファン・クラブの会員ちゃんだそう!エルヴィスはチューした後に、「お願いだから、僕を訴えたりしないでね」と言ったとか(笑)

 
 

 当日のライブの様子は次のように新聞レビューで残されておる。一部引用しておこう。

 サム・ヒューストン・コロシアムに集まった8,000人以上の女の子の叫び声が、テネシー州の有名なプレイボーイ、エルヴィス・プレスリーのショーの波乱の幕開けを飾った。遠吠えする「ハウンドドッグ」アーティストとリズミカルな共犯者(バンド?)は、群衆のヒステリーに遭遇した。

 エルヴィスの登場に先立って、6組のバラエティ・アクトが披露されたが、油っぽいもみあげが燃えるヒルビリーロッカーは1時間後にステージに上がった。途端に爆発した聴衆の悲鳴は4分50秒間も収まらず続いた。

 エルヴィスは野生の子牛のようにアリーナに入り、ミリオンセラーとなった「ハートブレイク・ホテル」の曲に合わせて大声で叫び始めた。このナンバーで聞こえたのはタイトルだけだった。群衆の叫び声がエルヴィスが発する他の音をかき消してしまった。彼は演奏を3回一時停止させ、聴衆に自分の話を聞いてほしいと懇願した。しかしそのたびに、耳をつんざくような女の子たちの雄叫びが会場内に響き渡った。

 「ブルー・スエード・シューズ」で転がったりくねくねしたり、「ラヴ・ミー」では切ない演奏にヒッピーの「活力」を加え、「のっぽのサリー」ではうめき声を激しく脈打たせたエルヴィス。自分の声が聞こえるように手を耳に当て、また首から下げたギターでコードを鳴らすことは滅多になかった。彼はつま先で体を揺らし、観客の子供たちを指さして歌い、「ハウンド・ドッグ」で締めくくって素早く会場をあとにした。
 この夜、エルヴィスの2回目のショーの終わる頃、流れるようなポニーテールをしたヒステリックな10代の若者がステージを囲む警察の列を突破し、彼女たちのアイドルに殺到したのだった。


 サム・ヒューストン・コロシアムは隣接するヒューストン・ミュージック・ホールと併せて合計16,000人を収容出来る1950年代まではヒューストン最大のイベント会場であり、数多くのビッグミュージシャンのコンサート会場として使用された。一方では1966年にアストロ・ドームという収容人数40,000人を誇る世界初の屋根付ベースボール・スタジアムが完成したこともあり、以降はエルヴィス・クラスのアーティストのライブはアストロ・ドームの方が選ばれておった。(エルヴィスの1970年のライブもアストロドームが使用された)
 1999年にコロシアム、隣接するミュージックホールともに解体され、ウィリアム P. ホビー・ジュニア・パフォーミングアーツ・センターが新たにオープンして現在に至っておる。Google-map上の表記はホビーセンター・フォー・パフォーミング・センター。右写真はストリートビュー2023年1月撮影。


 “最初で最大”のファン・クラブ会長とエルヴィスがご対面!
Area No.60/Serial No.423 ミュニシパル・オーディトリアム/サン・アントニオ

 上写真3枚は、エルヴィスとテキサスのファンクラブ会長さんのケイ・ウェーラー嬢との有名なショット。この撮影が行われた場所が、1956年4月15日ライブが行われたサンアントニオのミュニシパル・オーディトリアム(左写真)であ~る。この日2人は初めて会ったとされておる。ちなみに同年1月15日にも同会場でライブが行われておるが、こちらの記録はまったくといっていいほど詳細記録がネット上でアップされていない!

 この会場は当時テキサス州で“もっとも美しいミュージックホール”と呼ばれたヨーロッパのビザンチン建築様式による左右のドームが象徴的であり、開場から3年後の1929年には設計者2人はアメリカ建築家協会から金メダルを授与されておる。時のキング・オブ・ロックンロールと、アメリカで“最初にして最大”と言われたエルヴィスのファンクラブのお美しい会長さんの初対面の会場としては申し分なしと言えるじゃろうな。

 この時の模様を会長さんは下記の通り述懐しておる。

 サンアントニオでエルヴィスの楽屋に入った時に見たエルヴィスはロカビリーの反逆者そのものだったわ!青いサテンのシャツを着て、派手なEPダイヤの指輪をはめ、髪はクールなダックテールでもみあげをつけていた。彼はとても危険な香りがしたわ!
 エルヴィスは私に向かって、強い官能的な声で、まぶたの腫れたような笑みを浮かべて言った。「ハニー、どうしてほしい?」彼は私に近づき、両手を私の脇腹に滑り込ませた。同時に彼は私にキスをし始めたから、私はのけ仰け反ったわ!
 エルヴィスのショーの間中、私はステージの袖で踊っていた。終わった後、エルヴィスは私に、彼のショーの間に私がやっていた特別な "ロック&バップ "のバップステップを真似して見せてくれたわ。
 当時のエルヴィスは、報道陣を驚かせるためなら何でも言う、反抗的な人だった。その後2年間、私はテキサス・ツアーの残りやら何やらで何度もエルヴィスと一緒だった。エルヴィスは最初の頃はワイルドで自由奔放だったし、私はそんな彼が大好きでした。

 

 SMWには会長さんがエルヴィスのファンクラブを立ち上げた経緯について以下のように記述されておる。

 ケイによると、彼女が初めてエルヴィスの歌を聴いたのは、ダラスで開催された "ビッグDジャンボリー "のラジオ生放送だったという。
 ダラスのラジオ局KLIFに勤める叔母を訪ねた彼女は、エルヴィスを知らないディスクジョッキーに「女の子たちはみんな彼に夢中よ」と伝えた。後日、そのディスクジョッキーは冗談で、ケイの名前と住所をエルヴィス・プレスリー・ファンクラブの会長として発表した。するとほとんどすぐに、彼女は「ファンクラブに入りたい」という女の子たちから大量の手紙を受け取り始めた。

 やがて彼女はボブ・ニールに手紙を書き、その手紙はパーカー大佐に転送され、パーカー大佐のアシスタント、キャロリン・アスマスから彼女宛てに返事が来た。エルヴィスのファンクラブに関しては何も(公式には)設立されていなかったので、パーカー大佐からの「先に進んであなたがやりたいことは何でもやってください」との伝言が書かれてあった。また、エルヴィスがサンアントニオでライブを行う時、彼女が希望するならばそこでエルヴィスに会えるとも書かれてあった。


 なお、会長さんがエルヴィスとの思い出を語った彼女のインタビュー記事がネットにアップされておるので興味のある方はそちらを御覧頂きたい。

 およそファンクラブの会長さんには見えない
(?)インテリジェンス溢れるお姿のケイ・ウェーラー嬢。彼女は“普通のファンクラブ会長”ではぜ~んぜんない!まず1957年に公開されたカルト映画「Rock Baby, Rock It」で豪快なRock & Bap Danceを披露してみせた女優さん。1956年にジョニー・キャロルのライブでダンスしていた彼女はその場で映画プロデューサーにスカウトされたという。
 その一方では音楽や映画雑誌の記者であり編集者。さらにキリスト教の熱心な布教者でもあり、関連書籍を何冊も執筆されておる驚くべき才媛じゃ。エルヴィスの母グラディスは、「ケイは若い頃の私を思い出させる」とコメントしており、エルヴィスの“候補者”(お嫁さん?)として会長さんを大変に好んでいたという。

 ケイ・ウェーラー嬢が現在もご健勝であるかどうかはネット上では不明。2010年頃まではエルヴィスや50年代のヤングカルチャーに関して受けたインタビューの様子がyou tubeにいくつかアップされてはおる。
 また右写真!これは10年ほど前だったか、The-King宛てに送られてきたケイさんの直筆サイン入り写真。グリーンの文字の先頭にボスの名前MASAKIが書かれておる。その下はForever Elvisのメッセージが。スゴ過ぎですね~The-Kingは!このサイン入り写真を拝むだけでもThe-Kingのオフィスを訪ねる価値がありますな。

 

 ミュニシパル・オーディトリアムは、1969年にジミ・ヘンドリックスのライブにおいて、後にテキサス史上最高の人気バンドとなるZZトップのギタリスト、ビリー・ギボンズがジミに初めて出会い、ギボンズがジミからピンクのストラトキャスターを譲り受けた会場としても有名じゃ。
 1979年には壊滅的な火事が発生して存続が危ぶまれたオーディトリアムじゃが、長年の丁寧な修復工事によって復旧して現在でも稼働中。(左写真ストリートビュー2022年3月撮影)現在は「トビン・センター・パフォーミング・アーツ」と改称されておる。
 


 大歓迎、大熱狂に包まれた、50sエルヴィス・イン・テキサス終焉の地
 Area No.61/Serial No.424 ベクサー・カウンティ・コロシアム/サン・アントニオ

 上記ミュニシパル・オーディトリアムでの2度のライブの他、エルヴィスは1956年にもう1回サン・アントニオを訪れておる。10月14日、ミュニシパル・オーディトリアムの真東約数キロに位置するベクサー・カウンティ・コロシアム(下写真)でのライブじゃ。時は既にエルヴィス・フィーバーの真っ只中であり、会場は約半年前のミュニシパル・オーディトリアムとはまた別の大歓迎ムードに包まれておった。
 会場に到着したエルヴィスはさっそくラジオ局からのインタビューを受け(上写真左)、地元の2つのファン・クラブの会長さん(上記ケイ・ウェーラーさんとは別)から美しい盾を贈呈され、また「Meet Elvis Presley」というラジオ局主催のコンテストの優勝者マリー・メンドーサ嬢と記念撮影も行っておる。
 このマリー嬢は写真の通り(上写真中央、上写真右側)お美しい方だっただけに何枚も写真が撮られており、わしゃ~地元の大富豪のお嬢様かと思ったわい!エルヴィスはマリー嬢がエルヴィスのために書いた(?)詩にサインをしておる。「Meet Elvis Presley」コンテストとは、ファンに公募した“エルヴィスに会いたい気持ち”を表現した自作詩歌のコンテストだったのかもしれんな。

 

 当日のライブの模様はSMWに地元の記事が掲載されてるので一部転載しよう。

「エルヴィスを求めて何千人もが叫ぶ」

 日曜日の午後、エルヴィス・プレスリーがベクサー・カウンティ・コロシアムの一段高くなったステージで飛び跳ねる中、何千人ものファンが叫び、すすり泣き、あるいは石のようなトランス状態で見つめた。日曜日のサンアントニオでの彼の2つのショーのうち最初のショーでは、有料入場者数は合計6619人に達した。彼の聴衆の90パーセントは10代の女性でしたが、最前列にいた中年女性の一人が星空のような目で彼を見つめていました。

 黒いスーツに白いTシャツ、バックパックを着たエルヴィスは足をまたいで腰を振り、ファンが彼の前にひざまずいて手のひらと頭を床に打ちつけた。「ああ、エルヴィスが欲しい。エルヴィスが欲しい」とピンクのドレスを着たファンの一人が叫んだ(エルヴィスのトレードマークはピンクと黒だ)。涙が彼女の頬をつたいました。「私はただ彼に触れたいのです」と彼女は泣き続けていました。
 別の女の子が床に倒れてしまいました。警察が彼女を担ぎ上げようとしたとき、彼女はもがき、逃げ、再び捕らえられ、アイドルの目の届かないところで叫びながら運ばれました。


 また別のファンはショーの間、ずっと床に座って泣き続けていた。「私は彼のことがとても好きです」と彼女はすすり泣いた。しかしエルヴィスはこの日コロシアムで最も穏やかな人だった。ある時、エルヴィスはマイクの上に力なく寄りかかり、腕をだらりと振り、髪の毛が顔にかかっているとき、ヒステリックなファンたちを眺めて笑った。悲鳴はさらに大きくなった。「歌を歌いたいんですが」と彼は言った。聴衆の叫び声に紛れて音楽のビートだけが聞こえてきた。そしてエルヴィスがより速く旋回するほど、彼のファンはさらに熱狂するのである。

 エルヴィスは午後のパフォーマンスの終わりを聴衆を気づかせなかった。最後のナンバーの最後の言葉を歌いながら、彼はステージから飛び降り、ロデオ中に馬が疾走するゲートを駆け抜けたのだ。最後の曲だとは思っていない聴衆は一瞬静まり返った。それから、新たな金切り声と叫び声を上げて、ボビーソックスの女の子たちが椅子から飛び上がってエルヴィスを追いかけました。
 しかし、エルヴィスは猛スピードで走ってキャデラックに飛び込み、車のタイヤが自分のファンのようにきしむ音を立ててエルヴィスは去りました。彼はおそらくコロシアム史上最速の逃走を達成!エルヴィスは推定8秒以内に会場から消えた!

 テキサス州を数限りなく周回し続けた1950年代のエルヴィスのライブ・サーキットも、実はこの日をもって終了じゃった。「50sのエルヴィス・イン・テキサス」の終焉に相応しい熱狂のライブとなったのである!


 開場当時は約6,000人収容可能だったこの会場は定期的に観客席が増設されており、1970年代になると11,000人を収容出来る規模に拡大されておった。
 エルヴィスは1972年4月18日、1974年10月8日、1976年8月27日にTCBバンドとともにサン・アントニオでライブを行っておるが、いずれのライブも別の会場(Hemis Fair Arena)が使用された。ベクサー・カウンティ・コロシアムはフリーマン・コロシアムと改称されて現在も稼働中。右写真ストリートビュー2017年3月撮影。


ファンの殺到を避けて、密かにブッキングされた?モーテル
Area No.62/Serial No.425 フラミンゴ・モーター・ホテル跡地/サン・アントニオ

 上記ベクサー・カウンティ・コロシアムでのライブ当夜エルヴィス一行が宿泊したモーターホテル。(SMWより)
 1956年10月14日に「エルヴィスが泊まった」という輝かしい事実があるにもかかわらず、このホテルに関するその他の情報は一切ネット上では見付けることが出来なかったので悪しからず。発見出来た当時の写真は、いずれも後にオークションに出された当時の絵葉書に使用されたものじゃ。
 名前は「Flamingo」ではあるが、ラス・ヴェガスにあった映画「ラスヴァガス万歳」のロケ地のひとつとなった有名なフラミンゴ・ホテルとは何ら関係はなく、当時のホテルチェーンだったラマダイン系列のモーテルだったようじゃ。

 ベクサー・カウンティ・コロシアムでのライブ記録をネットでチェックすると、とにかく地元のファンクラブや会場に「エルヴィスの宿泊先を教えて!」という問い合わせが殺到したことが記されておる。ということは、ファンはサン・アントニオの街中のホテルをしらみつぶしに当たっていたことも想像出来る!このフラミンゴ・イン・ホテルはサン・アントニオの中心地から10キロほど離れた郊外の幹線道路沿いにあったことから、ファンの殺到を避けるために密かに選ばれたモーテルであった可能性は高いな!

 このモーテルがいつまで営業していたのかはまったく不明であり、現在はリージェント・インというGoogle-mapでは1つ星扱いのモーテルが建てられておる。これがほとんどゲストハウス然とした低級モーテルであり、利用者がGoogle-mapに投稿した室内写真を見ると、「エルヴィスがかつて(この地に)宿泊した」とは思いたくないほど故障、劣化した設備写真ばかりで空しくなってくる。
 右写真はストリートビュー2023年8月撮影。左側に写るStay Embasy Innなる別のモーテルと併せた敷地全体がかつてはFlamingo motor hotelだったと思われる。上写真に写っておる大きなプールは、現在の2つのモーテルの間にある駐車場スペースにあったのだろう。


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テキサス州編)
 
   
   
         
     
         
     
         
     
         
       
         
   
         
     
         
   
         
   
         
     
         
     
         
     
         
   
     
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   
         
   

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