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パーカー大佐アメリカ初上陸の地へ、26年後にエルヴィスもやって来た Area No. 9/Serial No.460 ラッド・メモリアル・スタジアム/モビール フロリダ州のすぐ北側にあるアラバマ州は州全体が内陸にあるイメージじゃが、南西部の端東西約93キロの地域だけはメキシコ湾岸にある。モビールはその湾岸地域にある人口約50万の都市じゃ。実はパーカー大佐が20歳でアメリカに移住してきた1929年、最初に上陸した場所がモビールの港だったらしい。 エルヴィスは1955年にモビールの三ヶ所にてライブを行っておるが、最初のライブ会場が1955年5月4日(と5日)のラッド・メモリアル・スタジアムじゃった。(左写真) 1948年に開場したラッド・スタジアムは収容人員数約36,000人の当時アラバマ州最大のイベント会場であり、フットボールを中心としたスポーツ・ゲームのメッカとして州内でその名を馳せた大スタジアムじゃった。アラバマ州の歴史的実業家でありスポーツ愛好家じゃったアーネスト・フリートウッド・ラッドの偉業を讃えてその名が冠されたという。 ラッド・メモリアル・スタジアムの代表的な歴史としては、フロリダ州ジャクソンビルで開催された1950年のフットボール・オールスターゲームが観客動員数が伸びず、翌年から開催場所ががラッド・メモリアル・スタジアムに変わって、以降恒例になったこととされておる。 エルヴィスが出演したライブはハンクス・スノウのミュージック・ジャンボリー一座のミュージック・イベントであり、残念ながら当日の写真やライブ詳細記録はネット上では発見出来なかった。 唯一アップされていた当時の情報らしきライブの前のプロモ記事も、総勢25名の出演者の紹介のみ。(右写真右側) SMWでは、このツアーでエルヴィスと一緒だったジミー・ロジャース・スノウは、演奏したほぼどこでもエルヴィス出演時は暴動に近い状態であり、ラッド・スタジアムでは、エルヴィスは女の子の群れに追いかけられていたことを回想していたと記されておる。 25名ものミュージシャンが出演したとされるこのミュージック・フェス、巨大なスタジアムにどの程度の観客が詰めかけたのか記録を調べてみたものの、これまた不明であったので悪しからず。 1997年、スタジアムはラッド・ピーブルズ・スタジアムと改名。ピーブルズとは、シニア・ボウルの活性化に貢献したとされる市民指導者のお名前らしい。今も稼働中のスタジアムであり、アラバマ州のスポーツ会場のメッカであり続けておる。現在のスタジアムの収容人は40,000人とされており、アラバマ州で4番目のスケールとのこと。右写真ストリートビュー2023年12月撮影。 メジャーデビュー間近、最後のドサ周りライブ!? Area No.10/Serial No.461 ナショナル・ガード・アーモリー/ジャクソン 1955年10月27日のエルヴィスのライブ会場とされておるのがジャクソンという地域のナショナル・ガード・アーモリー。実はSMWでは左写真上側の通り、地域名が「?」付きでチッカソー(Chickasawa)となっておるが(左写真赤枠部分)、EDDも含めて他の情報ソースはすべてジャクソンとされておるので、これはSMWの珍しい表記ミスじゃろう。 SMWには実はもうひとつ表記ミスがある。チッカソーの上、プリチャード(Prichard)のヴィガー・ハイスクール・オーディトリアムの日付は、その上のモビール・グレイト・ガルフ・ステイト・フェアと同じく10月26日。両会場ともに「バーチャル~アラバマ州2022年編」でご案内済であります。同日は午前10:30にハイスクール、午後3:30、7:30にフェアーに出演じゃ。よって10月27日はジャクソンのみのライブとなるので、エルヴィス・ライブ記録マニアの方はご注意あれ(笑)ジャクソンでのライブの新聞広告もネット上にアップされておるので(右下写真)、1955年10月27日のライブはジャクソンで間違いないじゃろう。 「バーチャル~」の調査上もっとも頼りにしておるSMWの表記ミスをあげつらうつもりは全然ありません!が、この原因を探れば、ヴィガー・ハイスクール・ライブの日付を1日間違えたことが遠因か?ハイスクールのあるプリチャードの北隣りがチッカソーであり、チッカソーにもナショナル・ガード・アーモリー(国家武器格納庫兼訓練所)がある。またジャクソンはプリチャードから約100キロも離れておるので、ジャクソンではなく、「?マーク」を付けながら、北隣りのチッカソー説を挙げたということか。(ジャクソンの新聞広告をSMWは調査段階で発見出来なかったのじゃろう) このジャクソンでのライブ詳細記録もまったく発見出来なかったので、情報の無さが招いたSMWの“弘法も筆の誤り的ミス”としておこう。 一方EDDでは、ライブ詳細ではないが(上写真下側、SMWのライブデイト表記写真の下)、興味深い記述がある。当時のエルヴィスのマネージャーだったボブ・ニールが、パーカー大佐がRCAとエルヴィスを高額で契約させようとしていることを初めて知り、サム・フィリップスを介してミーティングを要求したとされておる。(文面では契約ではなく“売りつける”という表現になっておる) “初めて知った”というのは時期(1955年10月末)からすると「遅すぎだろう!」とも思えるが、これが事実とすればボブ・ニールはかなり“抜けている”というか、既に大佐からは“相手にされていなかったか”ってことじゃな。 ジャクソンのナショナル・ガード・アーモリー自体に関する情報も皆無であり、当時の写真もなし。現存しておる建物の写真から判断すると、周囲はだだっぴろい草原が広がるど田舎であり、格納庫の規模も決して大きくない。非常事態用(機密的存在?)の武器格納庫のようでもある。既にメジャー契約間近であり、州によっては人気が高まっておったこの時期まで、周囲に人家が見当たらないド田舎の数百人程度しか客が集まらない会場をブッキングされておったエルヴィスは、考えようによってはちょっと不憫!?大佐がボブ・ニール抜きで大型契約の話を進めていたのも分からなくもない。右写真ストリートビュー2011年3月撮影。 |
未だ詳細不明!エルヴィスのメジャー化を後押しした幻のナイトクラブ!! Area No.11/Serial No.462 カーティス・コードン・ラジオ・ランチ跡地/モビール こちらの会場は「バーチャル~2022年アラバマ州アウトテイク集」で少々ご案内したが、情報がほとんどネットにアップされていない状況は当時と現在とほとんど変わりなし。しかし1950年代にアラバマ州で行われたエルヴィスのライブ地としてここだけが“ご案内無し”になってしまうので、関連情報をひっかき集めてご紹介しておこう。 カーティス・コードンとはエルヴィスの先輩カントリーシンガーであり、流行りの様々な音楽要素をミックスして“独特のロカビリーサウンド”を奏でていたとされるミュージシャン。アラバマ州を中心としたアメリカ南部では人気が高かったとされており、またエルヴィスよりも先にRCAレコードと契約していた実績も持っておる。 ラジオ・ランチとは、カーティス・ゴードン自らが1954年からモビールの街はずれで経営していたナイトクラブ。ゴードンが周辺地域のラジオ番組をいくつか担当していたことから“ラジオ”を含めた店名が付けられたようじゃ。当時のアラバマ州周辺のカントリー&ウェスタンの情報を探ると、カーティス・ゴードン・ラジオ・ランチは“カントリーミュージックの情報発信センター”的役割を担っていたとの記載を見付けることが出来る。 何人かのライターさんたちが、「エルヴィスはラジオ・ランチに少なくと数回は出演したはずだ」と書かれておるが、エルヴィス・サイドのサイトでは出演は1955年6月29、30日、10月28日の3回とされておる。またカーティス・ゴードンは皮肉なことにRCAとの契約が解除され、マーキュリー・レコードと契約した1955年からエルヴィスとの関わりが始まり、ゴードンとラジオ・ランチはエルヴィスの全米ブレイクに大いに貢献したとする資料も数多くネットにアップされておる。 上写真左は、エルヴィスとラジオ・ランチの関わりを証明できる唯一の資料である新聞広告。上写真中央は1950年代当時のカーティス・ゴードン。上写真右側はカーティス・ゴードン(中央)とバンドメンバー。撮影場所は不明じゃ、。(ラジオ・ランチかも!?) ラジオ・ランチ自体の情報、建物の写真、また所在等の情報はネット上ではまったく発見できず。現在ネット上で販売されておるゴードン関連のミュージックソフトのジャケットのクレジットまでくまなくチェックしてみたが、まったく不明。 エルヴィスの出演情報も写真も無いので、参考までに左写真(左側)をどうぞ。1955年10月28日ラジオ・ランチ出演後の10日後の11月7日/8日にミシシッピー州ビロキシのキースラー空港基地内エアメンズ・クラブ(「バーチャル~ミシシッピー州2022年編」Point-15でご案内済)に出演した時の写真じゃ。ラジオランチ出演前後でもっとも近い日のエルヴィスじゃ。 また左写真右側は、1958年当時のジェリー・リー・ルイス。ジェリー・リーは1958年にラジオ・ランチに出演した記録が残っておる。(写真の撮影場所は不明) ラジオ・ランチは大変に繁盛していたらしいが、カーティス・ゴードンは1960年に他者へ売却。その数年後には火事によって全焼したとされておる。僅か10年あまりの営業年数だったことが、資料がまったく見つからない原因なのかもしれない。 それにしても場所、住所までが明確にされていないとは驚きじゃ。エルヴィスのライブ会場で住所まで不明な会場は恐らくここだけかもしれない。SMWが僅かに「ドーフィン・アイランド・パークウェイの外れ、シダー ポイント ロードを入ったところ辺り」と記載しておる。他の関連サイトでもラジオ・ランチの所在地はまったく同様の記載しかされていない。右写真ストリートビュー2016年11月撮影。写真左側道路がドーフィン・アイランド・パークウェイ、右側道路がシダー・ポイント・ロード。ラジオ・ランチはこの周辺に建てられておったようじゃ。 |
エルヴィスお立ち寄りの証言は続々。唯一の証拠写真は“?” Area No.12/Serial No.463 パワーズ・カフェ跡地/リーズ パワーズ・カフェに関しては「バーチャル~アラバマ州2022年編アウトテイク集」にて、「エルヴィスが立ち寄ったらしいレストラン」として一度ご紹介しておる。この度あらためて調査したら、地元のベテランたちが情報を提供をし合うFacebookに新しい写真、エルヴィスに関する新しい証言も散見出来たので、この度正式に「エルヴィスゆかりの地」のひとつとしてカウントさせて頂く。上写真左側が新しくネットにアップされておったお店の写真と上写真中央が新聞に掲載されたメニューじゃ。 上写真右側は「バーチャル~2022年編」でも掲載したエルヴィスが食事をしておる写真。エルヴィスの隣りが当時のお店のオーナーのジョーアン(Jo Ann)嬢。 エルヴィスが立ち寄ったのは1956年の初めとされており、エルヴィスはリーズではライブを行っておらず、アラバマ州やジョージア州等の南部のツアーサーキットの最中にパワーズ・カフェに立ち寄ったようじゃ。 証拠資料としては、まずWikipediaに(1976年隣町のバーミンガムでのライブのページ~Area No.15にて後述)お店には長らくエルヴィスが使った食器類が飾られてあったという記述がある。またリーズの歴史的ポイントを紹介する複数のサイトや先述したFacebookにもエルヴィスが立ち寄ったという記述が見られる。 ただし困った点が2つ。まず「2022年編番外編」でご紹介した際に参考にしていた地元サイトが、この度あらためて検索したところネット上から消えておったことじゃ。そこには確か、初代オーナーの娘さんが上写真のジョー・アン嬢であることの記載、さらに左写真2枚が掲載されておったはずじゃ。それが今回再確認出来なかった。(写真はダウンロード済だったのでこの度再利用出来たが) もうひとつは少々厄介!エルヴィスとジョー・アン嬢との写真が「本当にパワーズ・カフェで撮影?」という疑問が出てきてしまったのじゃ。右下の2枚の写真を参照してみてほしい。左側は上のエルヴィスとジョー・アン嬢との2ショットと同じ写真。右側写真は、トゥペロのジョニーズ・ドライブイン・BBQでの撮影とされる写真。(バーチャル~「トゥペロ/ミシシッピー編」2022年編Point-2でご案内済) この2枚、エルヴィスの服装も髪型も同じであり、座っておるブースの造りもかなり似ておる。テーブル上の食器類に若干の違いはあるが、ティーカップやワイングラス、細長いシュガーボトル(?)、さらに左端に後頭部が写っておる人物(ジュニア君?)等は同じみたいなんで、判断に困ったわい・・・。 ジョニーズ・ドライブインの写真は、その場にたまたま居合わせた宝石商が撮影したものの、その宝石商が写真の存在を忘れてしまい、1997年になって発見してジョニーズ・ドライブインに送り付けたという1枚。今でも同店の店内にディスプレイされておる。 しかしジョニーズ・ドライブインでジョー・アン嬢が写っておるはずがない。両店はお互いに縁もゆかりもなさそう。これって、どういう事?そもそも、ジョニーズ・ドライブ・インの写真が実はパワーズ・カフェでの撮影だったということか?ならば、先述した宝石商は撮影場所の記憶違いをしておった方に(ジョニーズ・カフェの方に)写真を送ってしまったということなのか?それとも、エルヴィスとジョー・アン嬢はリーズからトゥペロまでの片道約220キロをドライブしてジョニーズ・ドライブ・インで食事したって事? 写真の撮影場所はともかくとして、エルヴィスがパワーズ・カフェを利用したことは地元では有名な事実であり(エルヴィスとウェイトレスが一緒に写った別の写真を見たことがあるというコメントも上記Facebookにあり)、だからこそオーナーのジョー・アン嬢との写真も存在するわけなので、パワーズ・カフェをエルヴィスゆかりの地にカウントすること自体は問題ないという結論に至った! パワーズ・カフェは1925年に開業になった地元では老舗のレストランであり、以降50年間営業が続けられたとされ、跡地は現在は駐車場になっておる。右写真ストリートビュー2022年4月撮影。 右写真左端のParkway Dr.(78号線)を30キロほど西へ行くと、1976年12月29日にエルヴィスがライブを行った「バーミンガム・ジェファーソン・シビック・センター」(下記Area No.15参照)へ到達する。 |
名もなき田舎街に届けられた“エルヴィス通過”というプレゼント! Area No.13/Serial No.464 ディケーター鉄道停車場所/ディケーター 「Elvis Alabama」を検索ワードにして闇雲にネットチェックしまくっていたら、ひじょ~にマニアックな痕跡を発見した!アラバマ州中央北部、テネシー州との州境まで50キロほどの位置にあるディケーターという地域の鉄道の停車場(恐らく正式な駅ではない)において、列車に乗っていたエルヴィスと駆け付けた約2,000人のファンが触れあったという情報動画じゃ。 1960年3月に軍を退役したばかりのエルヴィスは、フロリダのフォンテンブルー・ホテルで行われるフランク・シナトラのショーに招待された。ナッシュビルから列車でマイアミに移動する途中、3月21日にディケーターを通過するという情報が新聞に掲載され、ファンがエルヴィス会いたさに集まったというわけじゃ!現在の“撮り鉄”君たちよりも大騒ぎしてエルヴィス列車に群がったのじゃろうな! 列車の停止場所情報を流したのは勿論パーカー大佐。上写真右側が情報掲載の新聞記事。上写真左側は列車が停車した時に、昇降口の扉から顔を出したエルヴィスと大佐。上写真中央はその時の模様が撮影された写真を掲載した翌日の新聞記事。(いずれも動画の静止画から) さて上写真左側と右写真左側は同一写真であり、写真左下にDecatur Daily photographerとの撮影者のクレジットがあるので間違いなくディケーターでの撮影じゃが、ナッシュビルの駅でファンと交流した時の似たような写真もある。(右写真右側)しかし大佐の服装が全然違う。エルヴィスは同じ服装なので、既存のサイトによっては記載された撮影場所が曖昧じゃ。 この情報動画をアップした方(アメリカ人)は、エルヴィス・マニアではなく、幅広いジャンルにおいてマニアをニヤリとさせる情報動画を製作されとるようであり、それだけに思い入れや先入観に走ることなく、事実関係を明らかにする証拠資料の収集や撮影は実に抜かりない!エルヴィス・マニアだけではなく、こういう方とも一緒にアメリカ各地で「バーチャル~」の調査をやってみたい! ちなみにこの動画はyou tube表記ではアップは「約2年前」、再生回数はまだ「409回」じゃ(2024年10月時点)。ということは、動画アップ前にこの列車から顔を出したエルヴィスの写真の正確な情報を知っていた方はいなかった(当時のディケーター住民以外)と仮定すれば、今回の「バーチャル~」を御覧になった方は、世界中で星の数ほどおるエルヴィス・ファンの中で遅くともこの事実を約400番目以内に知ったことになる!チョットだけ優越感に浸れますので是非ともチェックのほどを(笑) 右写真左側は、動画内で「このあたりで列車が停車してファンが集まった~」とのナレーションが入る場面の静止画。この写真の左側には橋が架かっており、その橋の下から写真右端に写るもうひとつの橋までの間の線路上で列車が停止した。右写真右側が、静止画に該当する場所のストリートビュー(2022年11月撮影)。 なお動画のサムネイル写真に使われておる綺麗で可愛い駅舎は、エルヴィス列車の停車位置から西へ250メートルほど離れた位置に建てられておるディケーターの鉄道博物館(Historic Decatur Union Depot)。博物館内の展示物の詳細は分からないが、ひょっとしてエルヴィスとファンが触れ合った別の写真等が展示されておるかもしれない!(右写真左下部分が鉄道博物館の写真) |
キングの心意気!3日連続5ライブで会場の初興行を祝福!! Area No.14/Serial No.465 フォン・ブラウン・シビック・センター/ハンツビル 74年頃よりライブでの好不調の波が激しかったエルヴィスじゃが、ハンツビルでの4回のライブではネット上で見つかったレビューはほぼ好評ばかり。ハンツビルの会場までやって来たエルヴィス・ファンはかなりラッキーだったのじゃ。 ネット上でアップされたエルヴィスの写真はいずれも健康的であり、後年放送されたTVニュース「エルヴィス・ハンツビル1975」で見る事の出来るライブ以外のエルヴィスの姿も溌剌としておる。エルヴィスの思い出を語る会場関係者(?)も、つい先日エルヴィスがやって来た!ように興奮気味にインタビューに応対しており、エルヴィスはハンツビルの観衆に素晴しい思い出を残したことが伝わって来る。 エルヴィスがこの会場で当時稀に見る連日連夜の好調ぶりを発揮出来た要因は、1975年5月30日から3日連続で5ステージが行われたライブが、同年3月に開場したばかりのフォン・ブラウン・シビックセンターの実質的なオープニング・イベント、いわゆるこけら落としだったことと関係しておるじゃろう。当時のエルヴィスの体調の仔細等は到底分からんけれど、公私問わずにこうした一種の記念碑的ライブにおいては、集まった観衆の爆発寸前なヴォルテージを受けながらエルヴィスはそのプレッシャーを跳ねのけるようなパワーを発揮してきた。 当時のロック・ライブのドル箱といえば、他にはレッド・ツェッペリンとローリング・ストーンズ。彼らはサウンドスケールとR&Bのアドリブで毎回お馴染みの喝采を受けることは出来たものの、ライブ開催地や会場の事情に合わせた高次元なパフォーマンスが出来たという記録はない。ライブ映画用の撮影時も「普段通りに」が信条じゃったし。他者の特別な事情に合わせて特殊なエネルギーを発揮出来るエルヴィスは、やはりキング・オブ・ロックンロールなのじゃ!(ってわしもアメリカのエルヴィス・ライターみたいな論調になってきたな~失礼致しました~笑) 2015年、地元のニュース・サイトに1975年のライブを体験した新聞記者の思い出が綴られておった。ハンツビルを熱狂させたキングの功績を次のように讃えた。 振り返ってみると、1975年のエルヴィス・プレスリーの5回のハンツビル・コンサートは本当に素晴らしかったです。私も若い記者としてそこにいました。それはラスベガス時代のエルヴィス、全盛期を過ぎたずんぐりとしたエルヴィスでした。そして、その時代の決まり文句のいくつかが掲示されました。 「2001年宇宙の旅」のテーマによる入場。スカーフ。女性たちの叫び声。バラの花。きらびやかなジャンプスーツ。そして最後に「エルヴィスは建物を去りました」というアナウンス。 しかし、もう少し詳しく見てみると、エルヴィスがやって来た週が、街と真新しいフォン・ブラウン・シビック センターに与えた力がわかります。 チケットは 4万4,000枚売れました。地元のティーンエイジャー5人がステージに着地しようとして高さ6メートルのバルコニーから身を投げて負傷しました。ヒルトン・ホテルの60室がエルヴィスとその側近たちによって占領されました。ステージ警備員が、ステージに急行しようとした8人の女性のうちの1人に指を噛まれて骨が折れました。300体のテディベアが投げ込まれ、回収されました。今日のコンサートでそのようなことが起こっていることを想像するのは困難です! エルヴィスはハンツビル公演の2年3か月後に亡くなりました。ハンツビルに来た時は40歳、1977年8月16日に亡くなった時は42歳でした。本当に空しくて哀しい。 ハンツビルでエルヴィスを観た44,000人は、エルヴィスが亡くなったニュースを聞き、自分たちがかつてどこにいたかを正確に知らされました。そして生き残った44,000人の人々は皆、ロックンロールのキングがステージで歌った「ラヴ・ミー・テンダー」「オール・シュック・アップ」「ドント・ビー・クルー」を生で聞いたことをいつまでも忘れないでしょう。 なお、1976年のライブ評では、“エルヴィスの腰回りは昔より太くなったが、昔と同じ魔法を使って男性客の3倍は集まった女性客を最後まで叫び続けさせた”と記されておる。(下写真上段3枚は1976年のライブ)前年のライブが好評だっただけに、会場には早くから大勢の観客が集まっておった!(下写真下段3枚) フォン・ブラウン・シビック・センターはエルヴィスのライブ後にハンツビル最大のイベント会場として数多くのコンサートが開催され続けており、同時に屋内スポーツ会場としても稼働。1998年にはフォン・ブラウン・センターと改称。 21世紀に入ると増築、また敷地内に別の大型ホールが建築され、現在は大型複合イベント会場の一部になっておる。一部のサイトでは、複合会場化に多額の寄付をした人物の名が会場名に冠されているという情報もあるが、Google-map上の表記は「フォン・ブラウン・センター」のままになっておる。右写真ストリートビュー2023年10月撮影。 |
「ポジティブな才能、カリスマ性、情熱的パフォーマンス、そして観客とのコミュニケーションの経験」 Area No.15/Serial No.466 バーミンガム・シビック・センター/バーミンガム この日のライブは晩年のエルヴィスのライブの中でも特に評判が高く、Wikipediaにおいて単独ライブ情報としては、短い文面ながらも異例の投稿がなされておる。以下抜粋しておこう。 エルヴィス・プレスリーは、1976年12月29日にバーミンガムでBJCC コロシアム(バーミンガム・ジェファーソン・コロシアム・センター)で 18,400 人ものファンの前でコンサートを行った。それはカンザス州ウィチタに立ち寄る大晦日時期5日間のツアーの一部でした。テキサス州ダラス、バーミンガム、そしてジョージア州アトランタ、そしてペンシルベニア州ピッツバーグでの有名な大晦日ショーで最高潮に達します。 このツアーは、最高の状態への凱旋として広く称賛されました。彼が「インカ・ゴールド・リーフ」のジャンプスーツを着て披露したこのショーは、全体的なクオリティで大晦日のイベントに次いで2番目に高く評価され、「アンチェインド・メロディー」などのバラードではボーカルのクオリティでそれを上回ったほどです。プレスリーはその年のこれまでのツアーよりも活き活きとして陽気だった。彼は2曲目の後に「グレン・キャンベル」と自己紹介し、コロシアムの大きな洞窟のような造りについて「なんて大きな場所なんだだ!」と言いました。 このコンサートにはプレスリーがダラスで演奏したよりも5曲多くの曲が含まれており、いくつかの曲は追加のヴァースやコーラスの再演で延長されました。当時のガールフレンド、ジンジャー・オールデンに歌った「ザ・ファースト・タイム・アイ・エバー・ソー・ユア・フェイス」と「フォー・ザ・グッド・タイムズ」は、彼のライブでの最後の演奏となりました。 他のライブレビューも同じく好評じゃ。 ステージにエルヴィスが登場したとき、熱狂的かつ敬意をもって迎えられたことは予想できました。彼はパフォーマンス中ずっと、叫び声をあげながら突進する観客の勢いをなんとか維持し続けることが出来ました。 エルヴィスは声も、体型も、健康状態も、そして元気も良かった。彼は体重が減り、自信がついたようです。彼の行為はユーモア、熱意、そして時折美しさにも満ちていました 選曲は古いヒット曲と最近の曲の新しい解釈を加えた基本的なものでした。彼を一躍有名にするきっかけとなった生々しく下品なロックではなく、バラードをはじめとした無難な選曲にますます傾いています。 そして、新進のロックアーティストたちとエルヴィスの違いを見事に指摘したレビューもあり、お見事!じゃ。 エルヴィスは、実験や革新的な試みがロック コンサートの文脈において本質的なものではないという生きた証拠です。必要なのは、ポジティブな才能、カリスマ性のある性格、パフォーマンスへの情熱、そしていつでもどこでも聴衆を扱う事の出来る経験を持っていることだけです。 エルヴィスは今でも素晴らしい声を持っており、その声を題材に熱意を持って使っており、彼が伝統主義者、ロマンチスト、そして皮肉を込めてこの現象を観察していることは明らかです。 “皮肉を込めてこの現象を観察している”という表現は、極めて冷静に自分のパフォーマンスを対象化しているということじゃろうな。 かつてのロックンロールの革命児としての名声に背を向け、シンガーとしての新境地をエルヴィスが求めていたのであれば、この日のライブはエルヴィス自身をも満足させたのではないか。そしてその類のハイクオリティ・ライブが晩年に実現されていたことにファンとして安堵感を抱くってものじゃ。上記フォン・ブラウン・シビック・センターとともに、晩年のエルヴィスとアラバマ州との相性の良さが後世まで語り継がれるであろうバーミンガム・シビック・センターでのライブじゃ。 バーミンガム・シビック・センターは、地域名ジェファーソンを入れて「バーミンガム・ジェファーソン~」(略称 BJCC)と呼ばれることもあった(一部ではバーミンガム・コロシアムとも)。 この会場も上記フォン・ブラウン・シビック・センターと同様に現在周囲には別のコンサート会場やイベントスペースが建てられた複合イベントエリアの中に位置し、エルヴィスが演奏した会場は、現在「バーミンガム・ジェファーソン・コンベンション・コンプレックス」と改称された場所にある。右写真ストリートビュー2022年11月撮影。 |
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