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【 ジョージア州 】 |
“プレスリーのステージでは白い照明は抑えること。プレスリーのライブはカラーである” Area No.9/Serial No.454 パラマウント・シアター跡地/アトランタ Area No.8フォックス・シアターでのライブの約三ヶ月後、エルヴィスは1956年6月22日から3日連続で計10回のライブをパラマウント・シアター(右写真)で行った。この会場はフォックス・シアターから南へわずか1.6キロしか離れていない場所に、フォックス・シアターより以前、1920年に建設された。当時の収容人数は2,700人であり、開場当時はニューヨークのキャピタル・シアターに次ぐ世界で二番目に大きな劇場だったそうな。 こちらは一応ライブ写真はネット上にアップされておったが(上写真3枚)、ほとんどピンぼけでまるで隠し撮りみたいな写真じゃ。ホント、当時のジョージア州って劇場内での写真撮影は禁止されておったのかと思えるほど、どこもかしこも写真資料が乏しいわい。また取材陣は何をやっておったのじゃろう?まさか報道用の写真撮影まで制限されておったのか!? 一方、ライブ・レポートの方はEDDやSMWに紹介されておる。まず、「これはオモシロイ!」って記録が、EDDに掲載されていたライブ当日に劇場側がステージ係員へ出した指示じゃ。 「プレスリーのステージでは白い照明は抑えること。プレスリーのライブはカラーである」 「プレスリーはアンコールには応えないので、ライブが終わったらソッコーでステージのカーテンを閉めること」 「プレスリーはポータブルマイクしか使用しないので、センターマイクは低くセッティングすること」 「プレスリーのライブはカラーである」という指示がとてもいい!ジャンルの違う比較じゃが、1958年に日本プロ野球に長嶋茂雄選手が現れた時の某評論家の有名な言葉を想起させるわい! 「長嶋の出現によって日本のプロ野球はセピアカラーから総天然色になった」 やはり革命児は環境の色彩イメージまで変えてしまうものなのじゃな! ライブ・レポ(新聞レビュー)は下記の通りじゃ。 「エルヴィス・プレスリーは金曜日にアトランタにやって来て、パラマウント・シアターでの3公演を揺り動かし、15ドルの白いジャージ・シャツの1枚を熱狂的な女性ファンに引き剥がされた」 「地元のメンフィスからアトランタに到着した際、彼は素晴らしいと表現した歓迎を受けた。金曜の3公演すべてで満員の観衆の前で演奏した。観客の大半は10代の少女だった」 「プレスリーは金曜日の公演のそれぞれで、“ハートブレイク・ホテル”や“ブルー・スエード・シューズ”など、最も人気のあるロックンロール曲7曲をうめき声で歌い上げた。彼は緑のジャケット、黒のズボン、白のジャージーシャツを着ていた。黒のネクタイと黒と白の靴だった」 「公演には10人の警察官が勤務していたが、シャツを引き裂くエピソードと大喜びした女性観客の悲鳴を除けば、何も異常なことは起こらなかった」 「ずっとトラック運転手になりたかったプレスリーは、ショービジネスの世界で1年を過ごしてきた。彼はドラフト1Aに分類されており、おそらく半年以内にドラフト(軍隊への入隊指示?)されるだろう」 ライブの熱狂状態からすると随分とおとなしいレビューばかりじゃが、これがアトランタという土地柄なのか!?またニューヨークでのインタビューにおいて、エルヴィスがインタビュワーに金銭を要求したという報道が一部でなされていて、それに対してエルヴィスが「自分に対する報道でもっとも嘘っぱちのものだ」と語ったこともライブ・レビューに追記されておった。 左上写真はPinterestにアップされていた、パラマウント・シアターのバックステージでの撮影とされる1枚。1987年夏に出版された「Photoplay Presents Elvis 10 Anniversary Memorial Edition」なるマガジンに掲載された写真とのこと。この撮影データが正しければ、かなり希少価値の高い写真じゃ。 フォックス・シアターとともにアトランタのエンターテイメント劇場のシンボルだったパラマウント・シアターも、1960年に取り壊されてしまった。Wikipediaによると、映画全盛時代の衰退による劇場の小規模化傾向の煽りを受けたことが閉鎖の原因とされておる。 フォックス・シアターを遥かに凌ぐ超豪華な建造物であったにもかかわらず、今でも存続しておるフォックス・シアターとは真逆の命運を辿ることになった。跡地にはホテルを含む商業ビルが建てられておる。右写真ストリートビュー2023年9月撮影。 |
“ソメイヨシノの街”で4度開催されたライブ Area No.10/Serial No.455 メイコン・コロシアム/メイコン メイコンはアトランタを136キロ南下した位置にある中規模の都市であり、有名ミュージシャンを数多く輩出した街であることから、ジョージア州の音楽の殿堂所在地でもある。また世界有数の桜花都市としても世界的に名高く、30万本ものソメイヨシノの木があるというから、日本人としては驚き! 音楽的土壌も豊潤でソメイヨシノが咲き誇る(!?)街で、エルヴィスは1972年4月15日、75年4月24日、76年8月31日、77年6月1日と、70年代に4回ライブを開催しておる。会場はいずれもメイコン・コロシアムじゃ。(左写真) 上下ともに4枚のライブ写真は、左から72年、75年、76年、77年の撮影である。右端の77年の写真は、亡くなる約二ヶ月前とは思えないほど健康的に見えるな。反対に76年の写真はいずれも疲弊しちゃってますねえ・・・。 【76年レビュー】(左写真は76年のライブ) エルヴィスは、火曜日の夜、満員の観衆を尻目に、身を震わせながら輝いた。41歳の伝説的歌手は、紛れもない力強さで、チケットを購入した1万88人のファンの前で闊歩した。 彼の回転する膝と回転する腰を中心とした種類の衝撃やグラインドがさらにいくつかあれば、ファンの叫び声は永遠に鳴り続けるだろう。約80分間のセットにはスポット的なヒステリーが散りばめられており、通常のコロシアムの死角を除いて、エルヴィスの歌詞のほとんどは聞き取ることができた。 この日のパフォーマンスとファンの偶像崇拝によって、会場に用意されたメモラビリアはたくさん売れたに違いない。 【77年レビュー】 エルヴィスは「皆さんが聞いてくることですが、健康状態は良好です」と観衆に自慢したが、錯乱した女性から杖を贈られた。「ハニー、そんなものは必要ないよ」とエルヴィスは言った。しかし、彼は冗談めかして数秒間、杖をつきながらステージ上をよろよろ歩き回った。 エルヴィスはもう42歳。太ってしまって声を失っている。かつてコンサートの最初から最後まで指揮を執ったプレスリーは、バックアップクルーのメンバーに表舞台を二度も譲った。 エルヴィスは疲れ、時には病気になりながらも、何百万もの人々の空想を生き続けなければならないスターである。顔の腫れ、体重の増加は、エルヴィスが売り出されてきた何年にもわたる代償によるものかもしれない。それでもファンは、隠遁生活に入った億万長者を崇拝し続けていた。 なお2020年に、メイコンの地元マスコミMacon Telegraphが「2020年は1975年のエルヴィスのライブから45周年」とし、同社にてアーカイブで保管されていた写真や取材記事の一部をネット上で公開することで、メイコンを何度も訪れたエルヴィスを偲んでおった。(残念ながら詳細記事は会員のみ閲覧可)。1975年のライブに関しては、当時のライブでは珍しかったダーク・ネイビーの2ピース・スーツ姿でエルヴィスが登場したことを紹介しておる。 ちなみに1977年のライブツアーにおいて、エルヴィスは通称「エジプト・サンダイアル」と呼ばれるデカイ円形模様があしらわれた同じような柄のジャンプスーツを各地で着ており、正直なところ撮影会場を厳密に判別するのは難しい。「バーチャル~」に掲載しておる77年のライブ写真は、あくまでもネット上にアップされた際の付記データに基づいておりますんで、ご了承頂きたい。 右写真はメイコン・コロシアムのストリートビュー2018年12月撮影写真。現在も稼働中のコロシアムは、本館手前、正面入口付近にメイコンMeconのMを形どった大きなアーチが増設されておる。 エルヴィスが12回連続でソールドアウトしてみせたアトランタのオムニ・コロシアムは取り壊されて久しいが(「バーチャル~第15回ジョージア州2022年編」Area No.6でご案内済)、エルヴィスの生涯ラスト3年に連続してライブが行われたメイコン・コロシアムが存続しておることは、ジョージア州のエルヴィス・ファンには有難いことに違いない! |
キングの定宿も今や買い手なし!? Area No.11/Serial No.456 ヒルトン・イン跡地/メイコン 上写真3枚は、1977年6月1日メイコン・コロシアムでのライブ前、宿泊先のメイコン・ヒルトン・インの地下業務用駐車場からリムジンに乗り込んでコロシアムに向かうエルヴィスじゃ。 エルヴィスはメイコンでのライブの際は必ずヒルトン・インを利用しており、この業務用駐車場はホテルの調理場とも繋がっており、エルヴィスはこの経路でホテルの出入りを繰り返しておったそうな。 どう見てもこの小汚い駐車場←→調理場の経路はホテルに殺到するファンの目を避ける手段じゃが、上写真中央を見ると、段差を昇降するための階段ぐらいはエルヴィスのために用意されておってもいいのに!なんて思ってしまうな(笑)左手を地べたに付いてそぉ~と降りようとするエルヴィスがなんだか痛々しい。当時エルヴィスに随行しておったガール・フレンドさん(ジンジャー・オールデンだったかな?)もさぞかし面倒だったじゃろうに。気が利かないセキュリティ連中じゃのお。(〇〇っぽいツラしとるわい) メイコンのヒルトン・インは一時期エルヴィスの定宿であったものの、経営状態は芳しくなかったようじゃ。後年になるとラディソン、クラウン・プラザ、メイコン・ダウンタウン・ホテル、ラマダと経営母体がコロコロ変わり、その間部分的に改装も行われておったが、現在は新しい買い手もなく巨大な空きビルになっておるらしい。 右写真はストリートビュー2023年6月撮影。正面入口前を右折後に赤丸部分の地下入口から地下へ降りて行くと業務用駐車場へ至る行路になっておる。 |
20年が経過しても変わらないエルヴィス賛辞。サバンナは“エルヴィス愛”に溢れた街 Area No.12/Serial No.457 シビック・センター/サバンナ 1977年2月17日、実に20年8カ月ぶりにエルヴィスはジョージア州アトランタのサバンナに帰ってきた!1956年6月25日サバンナ・スポーツ・アリーナ(ジョージア州2022年編Area No.4参照)以来のライブである。会場は1974年にオープンしたシビック・アリーナじゃった。(左写真) 1970年代のジョージア州のライブ開催地は、上記メイコンで4回、アトランタのオムニ・コロシアムで12回(ジョージア州2024年編Area No.6参照)、それ以外はこのサバンナのみである。 スポーツ・アリーナへのご案内の際には、当時サバンナ・イブニング・ニュースという新聞が、「ハートブレイク・ホテル」の大ヒット直後に初めてエルヴィスに対しての好意的な評論を掲載したことをお伝えした。 20年後のシビック・センターでのライブは、サバンナ・モーニング・ニュースという新聞が素晴しいライブ写真を多数ネットにアップしておる。上写真3枚、下写真2枚(カラー以外)は同社の提供写真じゃ。 「イブニング・ニュース」と「モーニング・ニュース」の2社の関係が、元“ぶんや”の端くれの勘でミョーに気になって調べてみたところ、1957年に銀行家と出版屋のお偉いさん2人が、 「イブニング・ニュース」と「モーニング・ニュース」を買収して合併させたという経緯が判明した。2社の合併によってエルヴィスを讃える社風が受け継がれることなったわけじゃ!メデタシ、メデタシ!! 生まれたばかりの赤ん坊が成人式を迎えるまでの長い歳月に等しいインターバルを経てサバンナに再登場したエルヴィスのライブ・レビューは、信じ難いほど絶賛論調じゃ! 「CCライダー」の演奏で幕を開けたエルヴィスは、最初は音響よりも前向きなアクロバットに傾倒していたようでしたが、ショーが進むにつれて彼の声は強くなり、すぐに観客との信頼関係を築きました。 エルヴィスは最終的に「テディ・ベア」と「ドント・ビー・クルーエル」のメドレーで本領を発揮しました。彼は聴衆に、頻繁に冷水を一口飲むのは声が割れないようにするためだと語りました。ある熱心なファンが「足を震わせて!」と声を張り上げて叫んだところ、エルヴィスは立ち上がって「Trying To Get To You」の勇敢なバージョンを大声で披露しました。 彼のバック・シンガーたちは、彼の演奏中に影に隠れながら、高音も低音もヘルプしていましたが、エルヴィスはほとんどの部分で自分の音楽に悠然と取り組んでおり、自分の音域に疑問の余地がなかった過ぎ去った日々を思い出しているようでした。 コンサートの最悪の瞬間の一つは、エルヴィスがバックバンドにソロ演奏を寛大に許可した時でした。音楽的には、個々の演奏は総じて良かったですが、エルヴィスが時折腰をピクピクと動かすと歓喜の叫び声が上がっていたことからも分かるように、観客全員がいつもエルヴィスに釘付けになっていたのです 1時間15分のライブのハイライトは、「私のお気に入りの一つ」とエルヴィスが紹介した「アンチェインド・メロディー」。彼はピアノの伴奏の曲に合わせて観客を指で操作し、その約4分間の曲の間、ファンは夢見心地で席から立ち上がれないほどでした。 シビック・センターの収容人員数は約8,000。21世紀になると「このキャパだと大規模なイベントは誘致出来ない」と評価が下り、一時期は取り壊しが検討された。しかしシビック・センターに他の大小のイベント会場を敷地内に新築することにより、メデタク延命が実現した。現在のところ取り壊し案再検討は行われていないという!右写真ストリートビュー2022年3月撮影。 |
【 サウスカロライナ州 】 |
僅かな軌跡から窺い知れる(?)、サウスカロライナ州へのエルヴィスの心情 Area No. 4/Serial No.458 タウンシップ・オーディトリアム/コロンビア サウスカロライナ州における1950年代のエルヴィスのライブは計4ヶ所で行われており、内3ヶ所は「バーチャル~2022年編」でご案内済みじゃ。残り一ヵ所についてこの度ライブ会場に関する資料が少々揃ったのでご紹介致そう。 1956年3月19日、サウスカロライナ州のほぼど真ん中に位置する、同州で2番目に人口の多いコロンビアという街にあるタウンシップ・オーディトリアム(上写真)でエルヴィスはライブを行った。ニューヨークで5度目の「ドーシー・ショー」に出演した2日後のことじゃった。 上写真左側は、絵葉書に描かれた当時のオーディトリアムの全貌。上右写真は、エルヴィスのライブの約二ヶ月前の1956年1月26日に同会場で開催された市民評議会の様子。当時の建物の写真がネット上で見つからないので、構内写真とはいえ貴重な1枚じゃ。 サウスカロライナ州は人種差別の習慣が強く残っていた地域であり、1929年に開場したタウンシップ・オーディトリアムでは以降40年にわたり、出演者が白人の場合は白人客は正面入口からメインフロアへ、黒人客は裏の通用口からバルコニー席へと区別されておったらしい。(出演者が黒人の場合はその逆)また上右写真の市民評議会は人種差別主義者の上院議員の講演会であり、会場のキャパを越える3,500人が集まったとされておる。エルヴィスの同州内でのライブが少なったのは、同州のこの悪しき習慣が原因だったのではないかと推察される向きもある。 しかしながらwikipediaによると、この会場は早い時期から黒人ミュージシャンの出演に積極的であり、1940年のデューク・エリントン、 ルイ・アームストロング、1944、1947年にカウント・ベイシー (アンド・ヒズ・オーケストラ)、 1956年にボ・ディドリー、1960年にレイ・チャールズ、アイズレー・ブラザーズが登場しておる。 タウンシップ・オーディトリアムは何度も改装、改築が行われながら現在も稼働中。建物は2005年に国家歴史登録財に認定されておる。収容人員は開場以来ほとんど変わらずの約3,000人。決して大箱ではないが、大物ミュージシャンの出演が長きに渡って続いておる会場じゃ。エルヴィスをはじめとする歴代出演者リストを閲覧すると、ポピュラー音楽全般からジャンルを問わず多種多様なタイプのミュージシャンの名がある。右写真ストリートビュー2023年10月撮影。 |
「エルヴィスなら、”ショーは観衆の中にある”と言うでしょう」 Area No. 5/Serial No.459 カロリーナ・コロシアム/コロンビア この日のライブ詳細(テキストデータ)は残念ながらネット上では発見出来なかったが、you tubeに1時間13分にわたるオーディエンス録音がアップされており、亡くなる半年前とは思えないほどエルヴィスの調子は良く、オーディエンス(観客)も大喝采のご様子であることがよく分かる! わしはライブのオーディエンス録音(いわゆるブートレッグ)にどうしても耐えられない質なんじゃけど、そのわしが録音状態云々を越えてエルヴィスの艶のある歌声や愉快なジョークを楽しむことが出来た!1977年のライブとしては希少な好調記録じゃろうな。 この音源に対しては視聴者からのコメントもたくさん寄せられておった。中には当日のライブ体験者からの投稿もあり、間違いなく観客たちの思い出に残る素晴しいライブだったようじゃ。中には「なんでこの日の(最高のライブの)映像をまだ誰もアップしていないんだ」というコメントまであった!さらに観客の反応も素晴しかったという投稿もあった。ただ単にエルヴィスを崇拝して神格化するのではなく、エルヴィスの音楽を心から楽しんでいたということじゃろうな。 「 エルヴィスは“ショーは観衆の中にある”と言うでしょう。 この日の観衆の喜びの声を聞けば、エルヴィスの言いたかったことが理解できます」 割と画質の良い画像も数多くネットにアップされており、当日のエルヴィスのご機嫌な様子が伝わってくるな! カロリーナ・コロシアムは1968年にサウスカロライナ大学が建設した多目的スタジアムであり、主に地元のバスケットボールやアイスホッケーのチームのフランチャイズとして使用され続けており、現在でも稼働中。wikipediaには音楽コンサート開催の記述が一切無いが、「エルヴィス出演」の記述も無いので、単に投稿者がコンサート記録を端折ったと思われる。右写真ストリートビュー2023年12月撮影。 |
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